ハイスクール・フリート Cross World War 作:冬吉
第94話 再び海の守りとして
**2026年5月5日午前9時**
**海上自衛隊 横須賀教育隊 および 戦術訓練シミュレーター施設**
五月の強い日差しが照りつける、アスファルトの練兵場。
そこには、かつてブルーマーメイドの艦を指揮し、純白と漆黒のスマートな制服を着こなしていた「海を護る”青い人魚”」たちの面影は、微塵もなかった。
「遅いッ! 貴様ら、散歩に来ているのか!! 腕を振れ、膝を上げろ!!」
「は、はいッ……!!」
泥と汗にまみれた迷彩服(デジタル)姿の80名の成人女性たちが、教官の容赦ない怒号を浴びながら、重いダミーライフルを抱えて泥濘(ぬかるみ)の中を這いつくばり、走り込みを続けていた。
『みくら』および『べんてん』の全乗員。
彼女たちは今、階級や過去のプライドを全て剥奪され、海上自衛隊の最も過酷な基礎訓練から叩き直されていた。
平和な海で「警察行動」を行っていた彼女たちの肉体と精神は、決して弱くはない。しかし、自衛隊が要求する「本物の軍人としての基礎体力」と「極限状態での絶対的な規律」は、彼女たちの想像を絶するレベルだった。
「……ハァッ……ハァッ……!」
情報調査隊の**平賀倫子**が、重装備の負荷に耐えきれず、膝をつきそうになる。
しかし、その腕を力強く引っ張り上げた者がいた。
「立て、平賀! 歯を食いしばれ!! ここで折れたら、あの灰色の艦隊(自衛隊)の人たちに顔向けできないぞ!!」
泥だらけになりながらも、先頭を切って走り続ける『べんてん』艦長の**宗谷真冬**だ。
その後ろには、『みくら』の**福内典子**も、**寒川高乃**や**志度琴海**も、血を吐くような思いで必死に食らいついている。
肉体を限界まで追い込み、一切の「甘え」と「驕り」を粉々に打ち砕く。
それが、恐怖でパニックを起こした彼女たちに対する、自衛隊流の「洗礼」だった。
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しかし、彼女たちの精神(メンタル)を本当に抉り抜き、そして鍛え上げようとしていたのは、肉体的な訓練ではなかった。
**午後1時・戦術訓練施設(CICシミュレーター)**
薄暗い模擬戦闘指揮所(CIC)に、ブルーマーメイドの幹部やレーダー要員たちが座らされていた。
彼女たちの顔は、肉体的な疲労以上に、極度の緊張と恐怖で蒼白になっていた。
『目標、高度30メートル! 速度マッハ3.5! 距離40海里(約74キロ)! 本艦に向かって一直線に飛来中!!』
スピーカーから、無機質な警告音声が絶叫するように響き渡る。
メインモニターのレーダー画面には、真っ赤な『敵対飛翔体(ミサイル)』のアイコンが、見たこともない異常なスピードで彼女たちの艦(シミュレーター)へと迫ってきていた。
「マ、マッハ3.5……!? 距離40海里から、あと何秒で到達するの!?」
志度が、震える指でコンソールを叩きながら悲鳴を上げた。
「計算上、約30秒後です……!! は、早すぎます! レーダーの更新が追いつかない!」
平賀の目から、涙が滲む。
彼女たちの世界では、どんなに速い脅威でも時速数十キロの暴走船だ。しかし今、画面の向こうから迫り来るのは、航空自衛隊が誇る超音速空対艦ミサイル『ASM-3』の模擬データ。
目視はおろか、レーダーで捉えた数秒後には自分たちの命が消し飛ぶ「音速の死神」である。
「迎撃ッ! 迎撃システム、起動して!!」
福内が悲痛な声で叫ぶ。
「だ、ダメです! 相手の強烈な電子妨害(ジャミング)で、こちらのFCS(火器管制レーダー)がロックオンできません!!」
寒川がコンソールに突っ伏した。
ピーーーーーーッ!!
無情にも、シミュレーターの画面が真っ赤に染まり、『被弾・轟沈』の文字が冷酷に点滅した。
「……そこまで。シミュレーション終了」
背後に立っていた、海上自衛隊のベテラン砲雷長(教官)が、冷たく言い放った。
80名の隊員たちは、肩で息をし、全身を冷や汗でぐっしょりと濡らしていた。
たった30秒。その30秒の間に、彼女たちは「現代戦の圧倒的な暴力」の前に何もできず、ただ殺されるだけの恐怖を味わったのだ。
「……どうだ。これが、我々の世界(2026年)の空を飛んでいる『常識』だ」
教官が、凍りつくような声で告げる。
「貴官らは先日、我々の艦隊が距離を詰めてきただけで恐怖に駆られ、引き金を引いた。……だが、本当の戦争とは、こんなスピードで、見えない場所から、一切の慈悲もなくやってくる。……その時、貴官らはどうする? 恐怖で泣き叫び、闇雲に機銃を撃ち鳴らすか?」
誰も、答えることができなかった。
真冬でさえ、ギリッと唇を噛み締め、手元のコンソールを強く握りしめることしかできない。
「我々自衛官は、この見えない死神がいつ飛んでくるか分からない恐怖の中で、24時間、365日、レーダーを見つめ続けている。……そして、もしこれが飛んできたとしても、決してパニックにはならない。それが本当に『敵のミサイル』なのか、『システムの誤作動』なのか、あるいは『ただの民間機』なのかを、最後のコンマ1秒まで冷静に見極め、仲間とシステムを信じ抜くからだ」
教官は、隊員たちの間をゆっくりと歩きながら、その「防人の責任」を叩き込んでいく。
「恐怖に負けて先に撃てば、そこから『本物の戦争』が始まり、国民が死ぬ。……だからこそ、我々は『撃たれるギリギリまで撃たない』。……その鋼の理性を維持するための訓練が、このAAW(対空戦闘)だ」
教官は、真冬の椅子の後ろで立ち止まった。
「宗谷真冬艦長。貴官らの敵は、向こうの世界からやってくる『汚染(RATt)艦』だけではない。最も恐ろしい敵は、自らの内にある『見えないものへの恐怖』だ。……それに打ち勝ち、絶対に引き金を引かない理性と、いざという時に正確に迎撃する技術を身につけるまで、このシミュレーターで何度も『死』を経験してもらう」
「……ッ、はい!!」
真冬は、弾かれたように立ち上がり、涙で濡れた顔を拭いもせずに、力強く敬礼した。
「私たちブルーマーメイドは……もう二度と、見えない恐怖に背中は向けません! 私たちが、あの時自衛隊の皆様に助けていただいたように……今度は私たちが、恐怖をねじ伏せ、この世界の人たちを護る『本物の盾』になってみせます!!」
「その意気だ。……よし、シミュレーション・リセット! レベルを『飽和攻撃』に上げる。貴官らの艦に、四方から同時に20発の対艦ミサイルが飛来する設定だ!」
「「「了解!!」」」
福内も、平賀も、寒川も、全員が紅潮した顔でモニターに向かい直った。
絶望的なスピードと暴力。その極限の恐怖の只中に身を置きながら、彼女たちは悲鳴を上げるのをやめ、必死にシステムと向き合い始めた。
海賊の対処しか知らない治安維持部隊(ブルーマーメイド)の防人たちは、泥と汗とシミュレーターの死を通じて、2026年の過酷な海を生き抜くための「鋼鉄の防人」へと、その精神の根底から恐るべきスピードで生まれ変わりつつあった。