最強から置いていかれた呪術師を救ったのは、非術師のヒーローだった。

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英雄(ヒーロー)の中の人

 

呪術高専二年、夏油傑。

彼はひやりとしたリノリウムの床を蹴り、無機質な病院の廊下を走っていた。

 

普段の彼であれば、いくら急を要する事態であっても周囲の目を気にして冷静に歩を進めていただろう。

非術師の暮らす世界に波風を立てることは呪術師の振る舞いとして正しくない。

しかし、今の彼にそんな建前を気にする余裕はなかった。

 

焦燥が心臓を早鐘のように打たせ、息が上がる。

 

 

すべては、あの夏の日から狂い始めていた。

 

 

天元との同化を控えた少女、天内理子。

彼女の護衛任務。

 

「もっとみんなと一緒にいたい」と、同化を拒み、涙ながらに生きたいと願った彼女の意思を、夏油と五条悟は尊重した。

しかし、その希望は賞金稼ぎ・伏黒甚爾の放った凶弾によって無残にも打ち砕かれた。

 

夏油の目の前で、理子は物言わぬ骸となった。

 

盤星教の施設。

理子の冷たくなった体を抱きかかえる五条。

 

 

そして、その周囲を埋め尽くす一般教徒たち。

少女の死を心から喜び、満面の笑みで拍手喝采を送る非術師たちの姿だった。

 

 

パン、パン、パン。

無数の手のひらが打ち鳴らされる音が、夏油の鼓膜にこびりついて離れない。

 

あの時。

夏油の心に初めて、非術師という存在に対する強烈で、ひどく泥臭い嫌悪感が産声を上げた。

 

 

 

伏黒甚爾との死闘を経て、親友である五条悟は呪力の核心を掴み、文字通りの最強として覚醒した。

かつて「俺たち最強」と笑い合っていた関係は、音を立てて崩れ去った。

 

 

五条は一人で任務をこなすことが増え、夏油は一人取り残された。

 

 

単独で、終わりのない祓呪と呪霊の取り込みを繰り返す日々。

呪霊を取り込むたびに口いっぱいに広がる、吐瀉物を処理した雑巾を丸飲みしているようなあの味。

 

 

背中を這い上がるような絶対的な孤独感が夏油の精神を徐々に、しかし確実に削り取っていった。

 

 

『非術師を皆殺しにすれば、呪霊は生まれないのではないか』

 

 

恐ろしい考えが脳裏にこびりついていた。

呪術師としての生き方に迷いが生じる。

自分たちは一体何のために、あの愚かで醜い非術師()たちを助け、自らの身を削っているのか。

自問自答という名の呪いに囚われ、苦悩する最中だった。

 

そこへ、後輩の七海建人から連絡が届いたのだ。

 

二級呪霊の討伐任務に向かっていた七海と灰原雄。

事前の窓の調査では彼らでも対処可能な案件だったはずだ。

しかし、電話口の七海の声はひどく緊迫しており、ただごとではない事態が起きたことだけは理解できた。

 

最悪の想像が頭を支配する。

 

理子の死顔と灰原の屈託のない笑顔が重なり、夏油は弾かれたように病院へと走ったのだった。

 

 

「──っ!」

 

 

目的の病室にたどり着いた夏油は呼吸を整える間もなく、扉を勢いよく開け放った。

 

 

「あ、夏油さん!お疲れ様です!」

 

 

飛び込んできたのは、ベッドの上で身を起こし、包帯まみれになりながらもいつもと変わらぬ人懐っこい笑顔を浮かべる灰原の姿だった。

その横には、腕を三角巾で吊るした七海が静かに立ち尽くしている。

 

張り詰めていた糸が切れ、夏油は深く息を吐き出した。

 

生きている。

二人とも、生きている。

 

 

「……何があったのか、聞かせてくれるか」

 

 

夏油が問うと、七海は小さく息をつき、冷静な口調で報告を始めた。

 

事前の調査では二級相当。

しかしいざ現地に赴いてみれば、その呪霊は単なる自然発生的なものではなかった。

 

それは、その土地を守護するはずの産土神(うぶすながみ)だったのだ。

 

本来であれば人々に恩恵をもたらすはずの土地神が、地域の住民たちの強すぎる念──欲望や執着、あるいは排他性といった澱んだ感情を吸い上げ続けた結果、一級案件に相当するほど凶悪な呪霊へと変貌を遂げていたのだという。

 

一年生である彼ら二人では到底太刀打ちできる相手ではない。

死を覚悟した瞬間があったはずだ。

 

それでも彼らがこうして生き残っていることに、夏油は心底安堵した。

 

 

「だが……連絡を受けた時に聞いた件だが」

 

 

夏油は表情を引き締め、七海に向き直る。

 

一級相当の呪霊を相手に任務に失敗したとなれば、高専は即座に五条を派遣したはずだ。

しかし、彼らは五条の到着を待たずに救われたという。

 

 

「どう考えても高専関係者ではない、野良の呪術師……だったな?」

 

 

七海は頷いた。

その謎の呪術師によって土地神は単独で祓われ、重傷を負っていた灰原と七海は彼の手によって病院へと運ばれたのだという。

 

一級呪霊を単独で祓うほどの力を持った野良。

 

それは呪術界にとって無視できない大きなイレギュラーだ。

味方であれば心強いが、もし呪詛師に与するようなことがあれば脅威となる。

調査せざるを得ない新たな案件だった。

 

 

「お前たちを救った呪術師の特徴を教えてくれ。私が接触して確かめてみる」

 

 

夏油の問いかけに、灰原と七海は顔を見合わせた。

そして一瞬の無言の後、二人はなんとも言えない、ひどく微妙な表情を浮かべた。

命の恩人を語るにしてはあまりにも歯切れが悪い。

 

 

「……それが、その」

 

 

灰原が珍しく言葉を濁す。

 

 

「特徴、と言いますか……見れば、すぐに分かるかと」

 

 

七海がメガネの位置を直しつつ、疲れたように付け加えた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「ハッーハッハッハ!海を穢すもの共を、まとめて蹴散らしてくれようぞ!」

 

 

 

 

 

 

 

「……あれが?」

 

 

 

灰原たちが戦ったという呪霊がいた街。

その近くにある海岸に、夏油は足を運んでいた。

潮風が吹き抜ける砂浜では、地元のボランティアらしき人々がゴミ拾いを行っている。

 

しかし、夏油の視線はその集団の中に混じる凄まじい異物に釘付けになっていた。

 

全体的にビビッドなピンクをベースにした、武者鎧をモチーフにしたような装甲。

明らかに特撮番組から抜け出してきたかのようなチープで派手なヒーロースーツだ。

 

顔を覆うマスクの目元は黒いバイザーになっており、頭頂部からは二本の角が生えている。

さらに、桃太郎の若衆髷を連想させる巨大なヘッドパーツが取り付けられており、その髪に当たる部分までが鮮やかなピンク色で彩られていた。

 

腰には白い鞘に収まった奇怪な日本刀が帯刀されている。

柄の部分に銃の機構が組み込まれた、試作型銃付軍刀のような派手で奇怪なデザインだ。

 

そして波音をかき消すほどの響き渡る大声。

 

どう見ても、どこかの遊園地から逃げ出してきたご当地ヒーローの姿だった。

 

 

 

「……あれが?」

 

 

 

夏油は思わず二回言ってしまった。

確かに、病室で灰原と七海が必死に説明してくれた見た目と完全に一致している。

 

ピンクの鎧で、角が生えていて、銃みたいな刀を持ったヒーロー。

 

彼らは狂っていなかった。

しかし、あまりにもあんまりな姿である。

隠生を前提とする呪術界の常識からすれば、存在自体がギャグだ。

 

だが、夏油の目は誤魔化されなかった。

 

 

(呪力を……宿している)

 

 

あのふざけたスーツから呪力の残滓を感じるのだ。

非術師のものではない、実戦を潜り抜けてきた者の放つ力。

 

 

灰原たちを救い、一級呪霊を屠ったのは間違いなくあのピンクの鎧だ。

 

 

夏油は油断なく呪力を練りながら、砂浜のゴミを拾い集めているヒーローの背後へと静かに近づいた。

 

目的は不明だ。

呪詛師の可能性もある。

周囲には一般のボランティアがいるため、何かあれば即座に制圧しなければならない。

 

 

「ム……?」

 

 

あと数歩というところで、ヒーローがピタリと動きを止めた。

 

 

「どうやら、貴様も穢れを祓う者のようだな」

 

(!?)

 

 

先に気付かれた。

夏油の背筋に冷たい汗が伝う。

相手が振り返るよりも早く、夏油は自らの影から低級呪霊を喚び出そうと構えた。

 

一般人がいる状況下での戦闘は避けたいが、相手が仕掛けてくるなら先手必勝だ。

彼の優先順位は無意識のうちに切り替わっていた。

 

ヒーローがゆっくりと振り返り、その手で何かをこちらに突き出した。

斬撃か、呪力放出か──夏油が身構えた瞬間。

 

 

 

 

「さあ!貴様もこの武器を手に、我と共に穢れと戦うのだ!」

 

 

 

「……は?」

 

 

 

 

夏油の目の前に突き出されたもの。

それは百円均一で売っていそうな銀色のトングと、市指定のゴミ袋だった。

 

唖然とする夏油の手の中に、ヒーローは半ば強引にトングとゴミ袋を押し付けた。

そして、夏油の肩をガシガシと叩くと親指を立ててみせる。

サムズアップだ。

 

顔の表情はマスクに覆われていて全く見えない。

しかし不思議なことに、歯をキラリと光らせて爽やかに笑っているのが伝わってくるような気がした。

 

 

「さあ行くぞ!海岸の平和は我らが守る!」

 

「あ、いや、私は別に……」

 

 

反論する隙も与えられず、ヒーローは意気揚々と空き缶を拾いに出発してしまった。

 

残された夏油は手元にあるトングとゴミ袋、そして遠ざかるピンクの背中を交互に見比べる。

戦闘態勢に入っていた自分の呪力が、行き場を失って霧散していくのを感じた。

 

 

結局夏油は呆然としたまま、そこから約一時間ほど、真面目に海岸のボランティア清掃活動に勤しむこととなったのだった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

ボランティア活動が終わり、海岸には集められたゴミ袋の山が築かれていた。

 

 

「うむ、今日も海は平和であった!ではな、若き同志よ!」

 

 

満足げに頷いたヒーローはガチャガチャと鎧の音を鳴らしながら、足早にその場を立ち去ろうとする。

手にしたゴミ袋を所定の場所に置いた夏油は、その背中を逃さじと慌てて後を追った。

 

 

 

 

海岸から少し離れた、公園に隣接する住宅街。

平日の昼下がりということもあり、周囲に人影はない。

絶好の場所だった。

 

 

「待て。お前は……何者だ」

 

 

背後からの夏油の低く鋭い問いかけに、ピンクのヒーローはピタリと足を止めた。

 

ゆっくりと振り返る。

 

 

そして、腰に帯びた白い鞘から刀を抜き放つのではなく、どこから取り出したのか、派手な装飾の施された扇子をバサァッと広げた。

日本一と書かれている。

 

 

 

 

「誰が呼んだか、悪の敵!悪鬼を討つため鬼となる!」

 

 

 

 

突如として始まった口上。

咄嗟に呪力を練り上げ戦闘態勢に入っていた夏油は、棒立ちになってしまった。

 

 

 

 

「友の明日を守るため!お供はおらぬがいざ参らん、ヤオ・GUY(ガイ)!」

 

 

 

 

最後に歌舞伎の見得を切るような、大仰でやたらとキレのあるポーズを決めるヒーロー・ヤオガイ。

 

 

沈黙。

 

 

風が吹き抜け、公園の木々がサワサワと揺れる音だけが響く。

十秒ほどその姿勢でビシッと止まった彼と呆気に取られたままの夏油の間に、なんとも言えない気まずい空気が流れた。

 

 

(……このままでは話が進まない)

 

 

夏油はこめかみを押さえ、気を取り直して問いかける。

 

 

「……ヤオガイ。お前は先日、一級呪霊を祓い、二人の呪術師を助けたな。一体、何が目的だ」

 

「…………? 貴様、遅れてきた思春の呪いにかかったか?」

 

「は?」

 

 

再び沈黙が訪れる。

ヤオガイは扇子を閉じ、バイザーの奥で本気で心配しているような仕草を見せた。

 

話が噛み合わない。

夏油は苛立ちを隠しきれず、彼の腰にある武器を指差した。

 

 

「……その呪具はなんだ。高専の管理下にあるものか?」

 

「ジュグ…………?」

 

 

ヤオガイは首を傾げた。

その動作には一切の演技や誤魔化しが含まれていない。

 

夏油は困惑した。

 

野良の呪術師というのは確かに存在する。

だが、その多くは己の力の正体を知らぬまま呪霊に殺されるか、あるいは呪術界のルールを知った上で裏稼業に手を染める呪詛師となるかのどちらかだ。

 

しかし、目の前にいるこの男は一級呪霊を単独で祓うほどの絶大な力を持ちながら。

 

 

あろうことか呪力や呪具といった、呪術界における最も基礎的な概念すら一切理解していないようなのだ。

 

 

「ムーン。我もなんだか疲れたぞ。そこの公園で話そうではないか」

 

 

緊張感の欠片もないヤオガイの提案。

毒気を抜かれた夏油は無言で頷くしかなかった。

 

 

 

 

 

 

 

 

公園の古びたベンチに夏油が腰を下ろす。

 

 

「ほい、お疲れ」

 

 

自販機から戻ってきたヤオガイが、冷えたお茶のペットボトルを夏油に一本放り投げた。

受け取った夏油が見ると、ヤオガイの手元には二本のお茶がある。

どうやら自分の分として二本買ってきたようだ。

 

彼はそのお茶をベンチの横に置くと、首元の接合部らしき場所に手をかけ、カチャリと音を立てて仰々しいマスクを取り外した。

 

 

「あっつ……」

 

 

むわっとした汗の匂いと熱気が辺りに立ち込める。

 

マスクの下から現れたのはひどく平凡で、素朴な顔立ちをした黒髪短髪の青年だった。

年齢は夏油より少し上、大学生といったところだろうか。

 

彼は首に巻いていたタオルで滝のような汗を拭うと、一本目のペットボトルのキャップを開け、喉仏を鳴らして美味そうに一気に飲み干した。

 

 

「ぷはーっ!生き返る!」

 

 

そして体を拭きながら、スーツのパーツを器用に外していく。

ぴっちりとした黒いアンダースーツ姿になった彼は、首元の裾を引っ張ってパタパタと空気を送り込んでいる。

 

どこからどう見ても、近所に住んでいる普通の気のいい青年だ。

 

 

「すんません。俺、玉木太郎(たまき たろう)っス。よろしく」

 

 

青年──玉木はヒーローの時の芝居がかった態度とは打って変わり、人懐っこい爽やかな笑顔を向けた。

その屈託のない表情はどこか後輩の灰原雄を思わせるものがあった。

 

夏油は核心に迫るべく、呪力という概念について説明を試みた。

しかし、玉木は「握力みたいなものっスか?」と的外れな質問を返してくる始末だ。

 

だが、灰原と七海が一級呪霊と戦った日の出来事を聞くと、彼は合点がいったようにポンと手を打った。

 

 

「ああ、あの怪我してた二人組!あれは危なかったッスよ。あそこまでヤバいバケモノは、ここ最近見なかったんだけどなぁ」

 

 

呪力という言葉すら知らない青年だが、彼が助けたのは事実らしい。

 

夏油は玉木を注意深く観察する。

そして、決定的な違和感に気がついた。

 

彼からは、一切の呪力を感じないのだ。

 

いや、正確には一般人レベルの微弱な呪力は流れている。

しかし、呪術師として呪霊を祓うような力は微塵もない。

 

 

(天与呪縛……フィジカルギフテッドの類か?)

 

 

禪院家の伏黒甚爾のように、呪力を持たない代わりに超人的な身体能力を与えられた存在。

それならば説明がつく。

 

夏油がその可能性を口にすると、玉木は腕を組んでうーんと悩み、そしてあっさりと首を振った。

 

 

「いや、俺自身はただのパンピーっスよ。俺が戦えるのは全部あのスーツのおかげっスね」

 

 

玉木はベンチの横に置かれた、ピンク色の装甲を横目で見ながら語り始めた。

 

 

「……第二次世界大戦中まで遡るんスけどね」

 

 

 

彼が語ったのはあまりにも凄惨で、呪われた歴史だった。

 

 

 

多くの国民の命が空襲などで失われていた時代。

 

日本軍が外敵と戦っている最中。

銃後であるはずの国内で、原因不明の猟奇的な殺害事件が多発していた。

犯人の姿はなく、まるで見えない巨大な熊に引き裂かれたかのようなバラバラの死体だけが残される。

 

それは間違いなく、戦時下の負の感情が極限まで高まって生まれた呪霊の仕業だったのだろう。

日本軍上層部はこの不可視の脅威に対処するため、ある組織から流れ着いた呪物を手に入れた。

 

それが、一つの古びた武者鎧だった。

 

呪術の才がなければ、怪物は見ることも触れることもできない。

しかしこの怪物の力を宿した鎧を着れば、一般の兵士であっても怪物を視認し、殺すことができるのではないか。

 

現代の呪術師からすれば、素人が呪物に手を出せばどうなるかなど火を見るより明らかだ。

しかし狂気に満ちた戦時下において、軍は見えない怪物を倒す力を求め、その鎧を使った人体実験を開始した。

 

 

結果は地獄だった。

 

 

それはまさに特級に等しい呪物。

 

着た瞬間に呪力に当てられて死ぬ者。

 

着ることに成功しても、見えてしまった異形の姿に発狂する者。

 

そして辛うじて適合し、怪死事件の現場へと送られた者たちも翌朝には無惨な肉片となり、血まみれの鎧だけがそこに残されていた。

 

 

軍は実験を止めなかった。

捕虜はおろか、自国の一般市民すらも実験台として消費し続けた。

 

無数の怨嗟と死を吸い込んだ鎧はいつしか人の形に近い、意志を持つ何かへと変貌しつつあった。

 

 

そして、原爆の投下。

 

 

未曾有の死と絶望のエネルギーを吸い上げ、ついにその鎧は完成した。

 

民には見えぬ悪鬼を斬る、呪われた現人神。

 

 

 

いつしか人は、それを八百万(やおよろず)の神になぞらえ、八百鎧(やおがい)と呼んだ。

 

 

 

「……鎧を着る条件は、二つあるんス」

 

 

 

玉木の眼差しが真剣なものに変わった。

 

 

「一つは、力なき一般の人間であり、それでも戦い続ける覚悟があること」

 

「もう一つは……死後もこの鎧に魂を縛られ、永遠に戦い続けること」

 

 

玉木太郎は、その呪われた鎧の現在の継承者。

彼はこの装甲に身を包み、人知れず、悪しきものたちからこの町の人間を守り続けているのだという。

 

色が派手なのは彼の趣味だが、それは鎧の傷を隠すためのコーティングであった。

 

 

「…………」

 

 

その話を聞き終えた夏油は絶句していた。

 

息が詰まるような衝撃。

それが彼の内側を激しく揺さぶっていた。

 

 

その話が真実であるならば。

目の前でお茶を飲んでいるこの青年、玉木太郎は。

 

 

夏油が忌み嫌い、見下し始めていた「非術師」だ。

 

 

天与呪縛のような特別な存在でもなんでもない。

ただの、弱い人間。

スーツを着ている間だけ力を得て、中身はただの脆弱な人間。

 

そして死した後にすら安寧を許されず、魂をすり減らして戦い続けるという狂気じみた命がけの縛り。

 

その途方もない自己犠牲が、彼に一級呪霊すら単独で狩るほどの絶大な力を与えているのだ。

 

 

「しっかし、呪術師ねぇ……大変な仕事ッスね。日本中のバケモノから人を守るってコトでしょ? 夏油君、大丈夫なんスか?」

 

 

玉木は二本目のお茶を開けながら、気遣うように夏油に問うた。

夏油はハッとして、慌てて取り繕う。

 

 

「……守らなくてはならない非術師(人間)は多いが、高専には最強の呪術師がいるから大丈夫だ」

 

「へえ、最強!どんな人なんスか?」

 

「……たった一人の、私の親友だ」

 

 

声が、ひどく暗く沈んだ。

無意識のうちに本音が口を突いて出ていた。

 

 

昔は、私も彼と同じように最強だった。

 

肩を並べて歩き、共に笑い合えた。

 

でも、今は彼だけが遥か高みへと登ってしまい、私は一人、置いていかれてしまった。

 

 

そう自嘲気味に語る夏油の横顔を、玉木は静かに見つめていた。

 

 

「夏油君は、寂しいんスね」

 

「……少し、な」

 

 

強がる余裕すらなかった。

孤独感に苛まれていた心を、見ず知らずの青年に見透かされてしまった。

 

玉木は「ふーん」と気の抜けた相槌を打ちながら、お茶を一口飲んだ。

 

 

「でもさ」

 

 

玉木は青い空を見上げながら、ぽつりと言った。

 

 

「その五条っていう親友さんも、たぶん、すごく寂しいと思いますけどね」

 

「……え?」

 

「最強になっちゃって、周りに誰も並べる奴がいなくなっちゃったんでしょ? それって、一人で重い荷物背負ってるってことじゃないスか。夏油君が追いついて、一緒にパーッと遊びに行ってやるのが一番いいッスよ」

 

 

玉木のその何気ない言葉に、夏油はハッとなった。

 

 

 

(悟が、寂しい……?)

 

 

 

自分だけが置いていかれたという孤独と、非術師に対する疎外感でいっぱいになっていた。

自分の苦しみばかりに目がいっていた。

 

しかし、五条はどうだ。

 

 

最強となり、誰にも理解されない領域で、より凶悪な呪霊とたった一人で戦い続ける彼。

 

その六眼で世界のどこまでを見通しているのか。

その過酷な景色を隣で分かち合える人間は、もう誰もいないのだ。

 

 

彼の瞳はどこまでも見通すが、その瞳に隣人は映らない。

 

 

親友のはずだった。

あいつは一人でも大丈夫だと勝手に見切りをつけ、目を背けていたのは自分の方ではないか。

 

夏油の心にどす黒い自己嫌悪と、親友に対する強烈な罪悪感が渦巻いた。

 

同時に、目の前で笑うこの青年の在り方が、眩しすぎて直視できなかった。

 

 

「なんで……」

 

 

夏油の口から、抑えきれない本音が漏れ出た。

 

 

「なんで玉木さんは、弱い人間を守るんですか。あなたが戦っていることなど、誰も知らない。誰にも感謝されない。報われることなんてないのに、一人で地獄のような戦いを続けなきゃいけないんですか」

 

 

俯き、震える声で問う夏油。

非術師のために、なぜそこまでできるのか。

 

玉木は口をすぼめて、うーんと少し悩む素振りを見せた。

そして、屈託なく笑って口を開いた。

 

 

「……守りたい、から? 究極的に言えば、ただのボランティアだからッスね」

 

「ボランティア……?」

 

 

間抜けな声が夏油の口から洩れた。

 

 

「俺はこの町が好きだから守ってる。夏油君たちみたいに、仕事とか使命でやってるわけじゃないんスよ」

 

 

玉木は傍らに置いたヤオガイのマスクを優しく撫でながら、夏油を見つめて言った。

 

 

「俺、このスーツには歴代の戦った人たちの優しい想いが、たくさん込められてると思ってたんです。でも、呪力ってやつは負の感情の集まりなんでしょ? さっき夏油君の話を聞いた時は、俺の勘違いだったのかなってちょっとショックだったんスけど」

 

 

彼はマスクの黒いバイザーを見つめながら、言葉を紡ぐ。

 

 

「でも、やっぱり合ってるんスよ」

 

「……どういうことだ?」

 

「家族が逃げ延びるまで、絶対に死ねない。友を殺した怪物を、絶対に許せない……そういう強烈な感情が生まれるのって、根底に守りたい人がいたからじゃないッスか」

 

 

玉木は空を見上げ、目を細めた。

爽やかな初夏の風が吹き抜け、木漏れ日が二人の頬を優しく撫でる。

 

 

「このスーツを着た人たちは皆、崇高な理念とか、世界平和のために戦ったわけじゃない。ただ、自分の守りたいものを守るために、自分のために戦ったんスよ。自分が知ってる周りの人間を守る。自分が手の届く範囲の、自分の知ってる世界を守ろうとした」

 

 

だから、彼は死んでも戦いを終わらせない。

 

次の継承者と共に、人々を守り続ける。

 

それでいいのだ。

 

次の継承者が守りたいと願う人々が、また彼らの知る世界に入ってくるのだから。

 

 

玉木は立ち上がると、ポケットからシワシワのメモ用紙を取り出し、ペンで何かを走り書きして夏油に差し出した。

電話番号だ。

 

 

「俺の番号ッス。普段は撮影所でバイトしてるんで、すぐには出られないかもしれないけど」

 

 

玉木はニカッと笑った。

 

 

「……親友と仲直りしたら連絡ください。美味い飯屋、案内するッスよ」

 

 

そう言うと、玉木は再びゴツゴツとしたヤオガイのスーツを手際よく着込み始めた。

 

 

「我は悪の臭いをたどる(パトロールに行く)ぞ!さらば、若き呪術師よ!」

 

 

カチャリとマスクを被ると、彼は再び大仰な身振り手振りで去っていった。

 

 

 

 

ベンチに残された夏油は、手渡されたメモ用紙を強く握りしめた。

 

夏油が見た、ピンク色のふざけたヒーロー。

 

彼は呪力を持たない、ただの非術師だった。

弱くて、不器用で、どうしようもなく人間だった。

 

だが、その魂は。

誰よりも気高く、強靭で、夏の太陽のように眩しい輝きを放っていた。

 

 

夏油の胸の奥底で、ドロドロに固まっていた黒い感情が静かに溶けていくのを感じた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

2008年。

季節は巡り、夏が過ぎ。

肌寒い秋の風が吹き始めていた。

 

あの日訪れた街の商店街。

 

 

 

夏油は瓦礫の散乱するアスファルトの上に膝をつき、静かに両手を合わせていた。

 

 

 

彼の目の前にあるのは、ボロボロにひび割れ、一部が欠損したピンク色の装甲──ヤオガイのスーツだった。

 

中身はない。

血痕すら残さず、商店街のシャッターに背を預けて倒れ込んだ姿勢のまま、空の鎧だけが発見された。

 

世間では局地的な未曽有の大地震として報道されている。

だが、真実は違う。

 

この町を襲ったのは、特級に届きうるほどに成長した凶悪な一級呪霊の群れだった。

 

 

そして、その呪霊たちの巨大な亡骸の山と共に、この空っぽのヤオガイは在ったのだ。

 

 

死者は十数名。

悲劇的な数字だが、あの規模の呪霊の襲撃であれば、町一つが地図から消えていてもおかしくはなかった。

この少ない犠牲は間違いなく彼がその命を、魂を燃やし尽くして戦い、守り抜いた証拠だ。

 

 

死者に祈りを捧げるのならば、天を仰ぐべきか、それとも見えぬあの世へ向けるべきか。

だが、彼の場合、その魂は今もこのボロボロの鎧に宿り続けているはずだ。

だったら、祈りを捧げる先はここで合っている。

 

 

「……傑。何やってんの?」

 

 

背後から、長身の影が落ちた。

黒いサングラスをかけた五条が、ポケットに手を突っ込みながら首を傾げて立っていた。

 

 

あの日、玉木太郎という男と別れた直後。

夏油は公園の公衆電話から、震える指で五条に電話を掛けた。

 

 

黒い気持ちと呪霊の味。

五条は知った。

 

最強と最低な孤独。

夏油は知った。

 

 

呪いのような想いを知って、呪いのような言葉をぶつけ合って。

彼らはついに道を踏み外すことなく、正しい方向へと足並みを揃え直したのだ。

 

 

夏油はゆっくりと立ち上がり、服の汚れを払うと、五条に向き直った。

 

 

「悟。私は強くなるよ。お前と同じ、最強に」

 

「はぁ? 急に何言ってんだ、お前」

 

 

五条が呆れたように笑う。

 

夏油はヤオガイというヒーローについて密かに調査を続けていた。

 

昔から都市伝説のように日本各地を転々として現れていたようだ。

実際には中の人間が死ぬたびに次の適合者へと受け継がれ、場所を変えていたのだろう。

 

 

しかし、その中の人間が誰であったのか、名前や素性に関する記録は一切見つからなかった。

 

 

ヒーローの中の人。

この町を地獄から救った英雄の素顔を、彼が何を想い、誰のために戦ったのかを、おそらくこの世界で夏油傑だけが知っている。

彼の存在が、彼の何気ない言葉が、夏油の魂の崩壊を防ぎ、引き止めてくれたのだ。

 

この世界に生きるすべての人間を守り切れるかなど、わからない。

非術師の愚かさや醜さが、完全に気にならなくなったわけでもない。

 

それでも。

 

 

「私は、私の手の届く世界を守る。私の知る世界を、そして……」

 

 

夏油は五条の肩をバンッと叩き、不敵に笑った。

 

 

「たった一人の親友(さいきょう)の隣を、誰にも譲るつもりはないからな。少しだけ、待っていろ」

 

「……へえ。言うじゃん」

 

 

五条はサングラス越しに嬉しそうに目を細めて笑い返した。

 

 

「じゃあ置いてかれないように、必死こいてついてこいよ」

 

 

夏油はもう一度だけ、背後の空っぽの鎧を振り返った。

 

 

(ああ。私は、私の小さな世界を愛し、守り抜こう)

 

 

そして夏油は前を向き、親友と肩を並べて歩き出した。

その足取りはいつかの夏の日よりも、ずっと確かに大地を踏みしめていた。

 

 





人体実験の辺りは強化外骨格まんまです。

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