空白の観測者と、真紅の共犯者   作:りー037

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【第三十一章】観測者の泥、あるいは狂気的なる神業

[Time: 2004年 2月5日 午前10:05]

 

[Location: 冬木市郊外 ── アインツベルンの森・氷の城前広場]

 

 

(……ストック、残り一機)

 

 

竜胆茜の脳内に展開されている《演算機構》が、冷酷な事実を告げていた。

 

広場の中央。無慈悲な黒き極光の連撃を浴び続けたギリシャの大英雄(ヘラクレス)は、ついにその命を最後の一つまで削り取られ、膝をついている。

 

メディア・リリィの神代の治癒をもってしても、聖杯の泥による呪いの侵食と、エクスカリバー・モルガンの圧倒的な破壊力には追いつかない。

 

対するセイバーオルタは、再び漆黒の聖剣を天へと掲げ、完全にトドメとなる宝具の魔力充填(チャージ)を開始していた。

 

膨大な魔力が渦を巻き、空間が悲鳴を上げる。

 

あの光が放たれれば、バーサーカーは間違いなく完全に消滅する。

 

 

『マスター。私の宝具を──』

 

 

背後に控えるメディアから、焦燥に駆られた念話が飛ぶ。

 

 

(却下だ。無駄な魔力は使えない)

 

 

茜は即座に切り捨てた。

 

(この先の盤面で、君の宝具は複数回必要になる。……ここでバーサーカーを完全に救うことは、もう不可能だ)

 

 

観測者としての、氷のように冷徹な判断。

 

だが、茜は同時に、口に咥えていた棒をペッと吐き捨て、自身の黒い瞳に微かな熱を宿した。

 

(──だからせめて。ギリシャ最強の大英雄の命、最高に美味しく使わせてもらう)

 

 

茜は、前衛で影を凌いでいる遠坂凛とアーチャーへと短く声を飛ばした。

 

 

「遠坂。影を退けつつ、撤退の準備をしろ」

 

「え……撤退って、バーサーカーを見捨てる気!?」

 

「彼の命を無駄にしないための撤退だ。アーチャー、遠坂と士郎たちを守れ」

 

 

アーチャーが、影を斬り伏せながら鋭い視線を茜に向けた。

 

「……貴様、何をする気だ?」

 

「少し、無茶をする」

 

 

茜は、自身のコートのボタンを外し、極めて平坦な声で答えた。

 

 

「そうしないと、ここにいる全員が生き残れない。……話している暇はない。動け」

 

 

有無を言わさぬ指揮官の圧力に、アーチャーが舌打ちをして凛たちの護衛へと回る。

 

茜は次に、メディアへ向き直る。

 

「キャスター。君も少し下がれ。次のセイバーの一撃は、君の神代の盾でも防ぎきれない」

 

「マ、マスター……貴方は……」

 

「それと」

 

 

茜は、自身のサーヴァントの不安げな瞳を真っ直ぐに見つめ、薄く笑った。

 

「局所的でいい。超短距離の簡易転移術式を編んで、いつでも発動できるように待機しておいてくれ。……君のタイミングで、僕を転移させるんだ」

 

「私の、タイミング……? それは、一体……」

 

「頼んだよ、メディア」

 

 

具体的な条件は言わない。

 

それは、裏切りの魔女と呼ばれる彼女の「観察眼」と「判断力」に、自身の命のすべてを丸投げする行為だった。

 

メディアは一瞬息を呑み、そして、マスターの狂気的なまでの信頼に応えるべく、深く頷いた。

 

「……はい。我が命に代えても」

 

 

必要な手配はすべて終わった。

 

ここから先は、ただ一つでもミスをすれば、確実に自分が一瞬で蒸発する綱渡り(デスゲーム)。

 

キャスターへパスを通して魔力を供給し続けている今、茜の魔力残量も決して余裕があるわけではない。

 

 

 

だが、やるしかない。

 

「──《身体最適化(オプティマイズ・ボディ)》、極限圧縮にて起動」

 

 

茜は、自身の体内にある最高級の魔術回路を、本来の「術式構築」と同時に、「肉体の強制駆動」という極めて野蛮な用途へと全開で回した。

 

 

 

 

ドクンッ!!

 

 

 

 

心臓が、破裂するかのような異音を立てる。

 

 

「ガ、アァァァッ……!!」

 

 

人間が本来出してはいけないリミッターを、魔力による補強で強制的に突破する。

 

全身の筋繊維がブチブチと音を立てて断裂し、血管がはち切れ、骨が軋む。

 

 

視界が血の涙で赤く染まる。

 

激痛に脳が焼き切れそうになるが、L1《自動修復機構》が痛覚と因果をショートさせ、強制的に意識を維持し続ける。

 

この瞬間、竜胆茜というただの魔術師の肉体は、短期間だけ「平均的な英霊と肩を並べる」というデタラメな身体能力を獲得した。

 

 

 

バンッ!!

 

 

 

茜が大地を蹴った。

 

その足元の石畳がクレーターのように陥没し、凄まじい衝撃波が周囲に土煙を巻き起こす。

 

 

 

距離、約380メートル。

 

狙うは、黒い極光の充填を終えようとしているセイバーオルタと、膝をつくバーサーカーの「間」。

 

 

砲弾のような速度で宙を舞いながら、茜は次の術式(ハッキング)を開始する。

 

 

「──対象、イリヤスフィール・フォン・アインツベルン。強制割り込み」

 

 

士郎の背後に庇われている銀髪の少女の精神へ、魔力のパスを強引に接続する。

 

そして、自身の加速する思考を、イリヤの思考へ接続(リンク)させ、適応させた。

 

 

 

 

カチリ、と。

 

 

 

 

 

世界から、あらゆる音が消え去った。

 

舞い散る瓦礫も、セイバーの放つ魔力の渦も、士郎たちの叫び声も。

 

すべてが完全に静止した、灰色の「時間停止空間・思考加速の果て」。

 

 

『……な、に……!? これは……』

 

 

精神世界の中で、イリヤスフィールが混乱の声を上げる。

 

 

『時間はない。単刀直入に言う』

 

 

 

茜の冷徹な思念が、イリヤの脳内に直接響いた。

 

『バーサーカーへの絶対命令権である「令呪」の所有権を、僕に譲渡しろ』

 

『……は!? 頭おかしいんじゃないの!? 誰がそんなこと──』

 

『このままではすべてが終わる』

 

 

茜は、感情的に反発する少女の言葉を冷酷に遮った。

 

『あと数秒で、セイバーの宝具が放たれる。君のバーサーカーは確実に消滅し、次に士郎たちが死ぬ。……君の魔術回路をハッキングして、強制的に令呪を使う。その「許可」をくれ』

 

 

他者への干渉術式は、対象の抵抗があるのとないのとで、術式の『掛かり』が決定的に変わる。

 

ましてや、小聖杯としての機能を持つイリヤスフィールの魔術回路を、抵抗状態のまま完全ハッキングすることなど、いかなる天才であっても不可能。念話のパスを繋ぐのがせいぜいだった。

 

 

 

だからこそ、これは「交渉」だ。

 

『……ふざけないで。私が令呪を渡したところで、あのセイバーを倒せるっていうの!? バーサーカーの命を、あんたの身勝手な策のために……っ』

 

『倒せるかは分からない。だが、状況を引っ繰り返すことはできる』

 

 

時間停止に等しい思考の加速状態の中。

 

イリヤは、パスを通じて流れ込んでくる竜胆茜の「現状」を視た。

 

 

全身の筋肉と血管をズタズタに引き裂きながら、空中を弾丸のように飛んでいる少年の姿を。

 

他人のために、自分の命を平然とチップとしてベットしている、狂気的なまでの覚悟を。

 

『バーサーカーは無意味に死ぬ。それを覆すために、力を貸せ。イリヤスフィール』

 

『…………っ』

 

 

イリヤは、唇から血が出るほど強く噛み締めた。

 

この魔術師は、士郎と同じだ。自分の命の価値が、致命的に欠落している。

 

 

だが、その狂気だけが、今この絶望を打ち破る唯一の希望。

 

『……バーサーカーを、絶対に無駄にしないって、誓えるのね』

 

『ああ。約束しよう』

 

『……分かったわ。私の回路へのアクセスを、許可する!』

 

 

イリヤが心の防壁を下ろした瞬間。

 

茜の脳内で、L4《環境並列演算網》が爆発的な速度でイリヤの魔術回路を駆け巡り、令呪の術式を解析、掌握した。

 

 

 

【令呪の所有権、一時的な奪取に成功】

 

 

 

現実の体感時間が戻り始める。

 

茜は精神の《半覚醒(ゾーン)》の深度をさらに深め、現実の物理座標へと意識を向けた。

 

 

距離、残り270メートル。

 

最適化して英霊並みの速度を得たとはいえ、セイバーの宝具解放のタイミングには、コンマ数秒、どうしても間に合わない。

 

(……届かないなら、結果を先取りするだけだ)

 

 

茜の瞳に、人間性を完全に捨て去った演算の光が宿る。

 

 

「──L2《物理条件の先行成立(エディット・フィジクス)》、起動」

 

 

本来、物質の燃焼や崩壊などの化学変化を前倒しにするための術式。

 

それを、茜は「自身の肉体と空間座標」という物理法則のすべてに適応させた。

 

移動というプロセスを中抜きし、「すでにバーサーカーとセイバーの間に存在している」という『結果』だけを空間に書き込む。

 

 

 

 

ズンッ!!

 

 

何の前触れもなく。

 

竜胆茜の身体は、270メートルの空間をスキップし、突如として広場の中央──セイバーオルタの真正面へと「出現」した。

 

 

 

「……!?」

 

 

 

感情を感じさせないセイバーオルタの瞳が、突如として眼前に現れた魔術師の存在に、微かに見開かれる。

 

 

 

間に合った。

 

だが、状況は最悪のままだ。目の前には、チャージを終え、今まさに振り下ろされんとしている黒い極光の聖剣。

 

ただ正面に立っただけでは、蒸発して終わる。

 

 

「──L3《確定未来の選別(ルート・セレクション)》!!」

 

 

茜は、脳の限界を突破して未来演算を開始した。

 

コンマ1秒ごとに分岐する無数の未来。その中から、自身が生還し、この策が成功するルートだけを抽出し続ける。

 

だが、極光を前にした死亡率は、どう足掻いても99%を超えている。

 

「──《確率分布の整形(ルート・ウェイト・エディット)》!!」

 

 

さらに重ね掛けする術式。

 

未来分岐の情報エントロピーを局所的に再配分し、「自身が死ぬ確率のウェイト」を強引に削り落とし、「有利な未来の確率」を不自然にならない形で引き上げる。

 

 

盤面そのものへの、観測者による強制的な確率改竄。

 

チリチリと、茜の脳のシナプスが焼き切れる音がする。

 

鼻血が吹き出し、眼球の毛細血管が破裂する。

 

そこまでやって、複数の代償を支払い、自らの命を限界まで削り落として、L3が導き出した「成功確率」は──。

 

 

 

【成功確率:50%】

 

 

 

「…………ハッ」

 

茜の血に染まった口元から、自然と自嘲的な笑みが漏れた。

 

(ここまで全力を尽くして、まだ五分五分か。……まったく、英霊というバグは理不尽すぎる)

 

 

だが、それで十分だ。

 

茜は、背後に控えるバーサーカーに向け、振り返ることなく術式を放った。

 

 

 

──《情報遮断結界(ブラックボックス)》

 

 

 

真っ黒な立方体の結界が、バーサーカーの巨体を完全に包み込む。

 

外界からの視覚、魔力感知、未来視。そのすべてを完全にシャットアウトする「観測の拒絶」。

 

 

そして。

 

 

『──約束された勝利の剣(エクスカリバー)……!!』

 

 

 

セイバーオルタの手から、すべてを両断する黒い極光が、目の前の魔術師ごと薙ぎ払うべく振り下ろされた。

 

竜胆茜が大地を蹴ってから、わずか数秒の出来事。

 

 

士郎、凛、アーチャー、イリヤ。

 

 

周囲の誰もが、唖然として声すら出せずにいた。

 

竜胆茜という人間が、自ら進んで、回避不能の宝具の真正面に立ち塞がった。

 

その、あまりにも美しく、狂気的なまでの自己犠牲の光景を前にして。

 

 

「……茜ぇぇぇッ!!」

 

 

凛の、血を吐くような絶叫が森に響き渡った。

 

 

 

 

 

 

 

 

[Time: 2004年 2月5日 午前10:06]

 

[Location: 冬木市郊外 ── アインツベルンの森・氷の城前広場]

 

 

遠坂凛の、血を吐くような絶叫が冬木の空気を切り裂いた。

 

 

視界の先、広場の中央。

 

自らの命の価値を極端に低く見積もり、遠坂凛のために泥を被る。そんな絶対の行動指針を持つ竜胆茜は、逃げることなど一切考えていないかのように、ただ真っ直ぐに立っていた。

 

 

黒き極光の奔流が、彼を両断すべく振り下ろされた。

 

すべてが光に呑み込まれ、消滅する。誰もがそう確信した、その刹那。

 

 

 

「──《局所確率遅延(ローカル・プロバビリティ)》」

 

 

 

茜の血に塗れた唇から、極めて平坦で、しかし世界そのもののルールを書き換える神業の呪文が紡がれた。

 

 

発動したのは、展開不要・即応発動を可能とする簡易展開型の術式。

 

自身の奥義である《確率地平》を展開するのではなく、半径数メートルの局所空間だけを強引に「確定前段階」へと引きずり込む、異端の因果干渉術式である。

 

 

 

 

ピシリ、と。

 

 

 

空間そのものに亀裂が入ったかのような錯覚。

 

セイバーオルタの振り下ろした黒き聖剣の発動前段階で、「発動したか未確定」の状態で宙吊りにされた。

 

極光の圧倒的な破壊力も、剣の質量も、すべてが「まだ結果が出ていない」という確率の狭間に閉じ込められ、完全に静止する。

 

 

 

だが、それはあくまで「遅延」であって「停止」ではない。

 

茜の脳内で稼働する《環境並列演算網》が、冷酷な残り時間(リソース)を弾き出す。

 

(……影との連戦、メディアへの魔力供給、そして『身体最適化』とL3の多重展開。……僕の魔力残量から計算して、この遅延を維持できる限界時間は、1.5秒)

 

 

 

たったの、1.5秒。

 

それが過ぎれば確率の宙吊りは崩壊し、確定した死が茜の肉体を一瞬で蒸発させる。

 

さらに、この術式が解除された瞬間、茜の魔力は完全に底を突き、指一本動かせない完全な機能停止状態に陥るだろう。

 

1.5秒だけ、自らの死を先送りにしたに過ぎない。

 

 

 

だが。

 

「最善の結果だけを現実に残す」ことを至上命題とする観測者にとって、その時間はあまりにも十分すぎた。

 

 

 

 

 

 

 

同じ頃。

 

後方上空へと退避していたメディア・リリィは、杖を握る手を白くなるほど強く握りしめ、極限の逡巡の中にいた。

 

彼女の脳裏には、事前に茜から命じられたアバウトな指示が響いている。

 

 

『局所的でいい。超短距離の簡易転移術式を編んで、いつでも発動できるように待機しておいてくれ。……君のタイミングで、僕を転移させるんだ』

 

 

 

 

今だ。

 

あのままではマスターが死ぬ。黒き極光に呑み込まれて、跡形もなく消滅してしまう。

 

マスターの命を救うためには、今すぐ彼を自分の手元へと強制転移させるべきだ。

 

しかし、メディアは発動の引き金(トリガー)を引く直前で、ピタリと動きを止めた。

 

彼女の優れた神代の魔女としての観察眼が、あの絶望的な状況下にあってもなお、茜の目に「諦め」の色が一切ないことを見抜いていたのだ。

 

 

彼はまだ、何かを待っている。

 

(……違う。今、マスターを引き戻せば、マスターの命は助かるかもしれない。でも……それでは、あの黒い剣士は倒せない。ヘラクレスも助からない)

 

 

竜胆茜という魔術師は、無意味な死を選ぶような人間ではない。

 

彼は常に「盤面の最適解」を導き出し、そのために必要な代償を冷徹に支払っているだけだ。

 

自分がここで転移を使ってしまえば、彼が命を削って構築した「次の一手」を、サーヴァントである自分自身が台無しにしてしまう。

 

 

(……信じます。私の全てを懸けて、貴方の『次』を)

 

 

メディアは、己の身を焼かれるような焦燥を必死に抑え込み、転移の術式を「寸止め」の状態で維持し続けた。

 

マスターの一手が完了する、その文字通り「最後の0.1秒」まで、彼女は待つ覚悟を決めた。

 

 

 

 

 

遅延空間の中。

 

時間が凍りついたような1.5秒という永遠の中で、茜は己の思考を現実の盤面へと叩きつけた。

 

 

(……チェックメイトだ、暴君)

 

茜は、すでに所有権を奪取していたイリヤスフィールの魔術回路を通し、バーサーカーへの絶対命令権である「令呪」のパスを強制的に起動した。

 

本来のマスターではない彼が、他者のサーヴァントに対して遠隔で令呪を行使するなど、常識ではあり得ない暴挙。

 

 

 

だが、彼は成し遂げた。

 

 

 

「──令呪をもって命ずる。バーサーカー、転移しろ」

 

 

 

令呪の絶対的な魔力リソースが空間を歪める。

 

同時に、茜がバーサーカーの巨体を包み込んでいた、外界からの観測を完全に遮断する《情報遮断結界(ブラックボックス)》が解かれた。

 

 

 

しかし、結界が晴れたそこには、すでに狂戦士の姿はどこにもなかった。

 

彼は、令呪の強制転移によって、完全に気配を消失させていたのだ。

 

 

 

そして、運命の1.5秒が経過する。

 

 

 

 

パリンッ!!

 

 

 

 

ガラスが砕け散るような音と共に、《局所確率遅延》の術式が限界を迎え、崩壊した。

 

宙吊りにされていた「聖剣が振り下ろされる」という結果が、堰を切ったように現実の時間を動き始める。

 

 

「……!?」

 

 

 

その瞬間。

 

感情を失い、機械のように冷酷に剣を振るっていたセイバーオルタの思考が、致命的な「フリーズ」を起こした。

 

 

無理もない。彼女の戦闘論理(ロジック)からすれば、目の前で起こっている事象は完全に支離滅裂であった。

 

自身がトドメの宝具を放とうとした瞬間、突然目の前に魔術師がワープしてきた。

 

聖剣を振り下ろそうとしたら、自身の動きと時間が不可解な術式によって強制停止させられた。

 

 

 

そして、今まさに剣を振り下ろす段階に入ったというのに、目の前にいるはずの巨大な標的(バーサーカー)の気配が消失し

 

 

──次の瞬間、自らの「背後」から、神話級の殺意が膨れ上がったのだから。

 

 

 

 

 

 

『──■■■■■■■■■■■■■■ッッ!!!』

 

 

 

 

 

セイバーオルタの背後。

 

令呪の魔力によって空間を跳躍し、無防備な黒き騎士王の背中を完全に捉えたヘラクレスが、残された最後の命の炎をすべて燃やし尽くすような、渾身の咆哮を上げた。

 

振り上げられた無骨な斧剣が、大気を圧殺するほどの質量を伴って迫る。

 

セイバーオルタは咄嗟に身体を捻り、振り下ろしかけていたエクスカリバー・モルガンの刀身を背後へと向けようとした。

 

 

 

だが、遅い。

 

《局所確率遅延》によって生じたコンマ数秒のズレ。そして、令呪という理不尽な加速。

 

そのすべてを計算し尽くした観測者の盤面操作が、無敵を誇る黒き暴君の防御を完全に上回った。

 

 

 

 

 

ドゴォォォォォォォォォンッ!!!

 

 

 

 

 

バーサーカーの渾身の一撃が、セイバーオルタの背中──漆黒の甲冑を粉砕し、その奥にあるサーヴァントの急所である「霊核」へと直撃した。

 

 

「ガ、アァァァッ……!!」

 

 

感情を排したセイバーオルタの口から、明確な苦痛の絶叫が漏れた。

 

圧倒的な膂力によって霊核に深いヒビが入り、彼女の小柄な身体がくの字に折れ曲がる。

 

 

 

通常であれば、これで即死、あるいは消滅に至る致命の一撃。

 

 

しかし、事態はさらに最悪の連鎖を引き起こした。

 

バーサーカーの攻撃を受ける直前、セイバーオルタはすでに宝具『約束された勝利の剣』を解放状態(アクティブ)にしてしまっていたのだ。

 

背後からの致命的な衝撃によって、聖剣を制御する彼女の意識が一瞬だけ飛ぶ。

 

結果として、行き場を失った漆黒の魔力の奔流は、指向性を持った斬撃ではなく、制御不能の「大爆発」となって、彼女自身を中心に全方位へと暴発した。

 

 

 

 

 

カァァァァァァァァッ!!!!!

 

 

 

 

 

視界を完全に奪う、極大の黒い閃光。

 

太陽が地上で爆発したかのような破壊の渦が、霊核にキズが付いたセイバーオルタ自身を呑み込み、背後にいたヘラクレスの巨体を消し飛ばし──そして、魔力が完全に枯渇し、一歩も動けなくなっていた竜胆茜の身体をも、容赦なく呑み込もうとしていた。

 

 

(……ここまで、か。だが、仕事は果たした)

 

 

極光に灼かれようとする視界の中で、茜は静かに目を閉じようとした。

 

 

 

だが。

 

茜に死が迫ろうと、彼を「マスター」と呼ぶ神代の魔女は、絶対にそれを許さなかった。

 

 

 

「──今ですッ!!」

 

 

 

爆風が茜の身体を塵に帰す、そのコンマ0.1秒前。

 

上空で待機していたメディア・リリィが、限界まで圧縮していた短距離簡易転移術式を解放した。

 

 

 

シュンッ!!

 

 

 

空間が歪み、茜の身体が広場の中央から消失する。

 

次の瞬間、黒い極光の爆発圏外である遥か上空に、血まみれでボロ布のようになった茜の身体が出現した。

 

 

「マスター……!!」

 

 

メディアは空を飛びながら、落下してくる茜の身体をその細い両腕でしっかりと抱き留めた。

 

凄まじい衝撃にメディア自身も姿勢を崩しかけるが、彼女は歯を食いしばり、そのまま安全圏である木陰──遠坂凛たちの元へと滑り込むように着地した。

 

 

「茜……ッ! 茜、嘘でしょ、ちょっと、目を開けなさいよ!!」

 

 

着地するなり、凛が半狂乱になって茜の身体にすがりついた。

 

茜の肉体は、《身体最適化》の無茶な運用と極限の魔力枯渇により、完全に破壊され尽くしていた。

 

全身から絶え間なく血が流れ出し、呼吸は微弱。生命活動そのものが今にも停止しそうなほどの重傷だった。

 

 

「……凛、か」

 

 

茜は、血で霞む視界の中で、涙が浮かぶ瞳の少女を見つめ、微かに口角を上げた。

 

「……泣くな。……盤面は、最善に……整え、た……」

 

 

その弱々しい言葉を最後に、竜胆茜の意識は完全に深い泥の底へと沈み、途絶えた。

 

「 キャスター、早く治癒を! 早く!!」

 

 

メディアもまた蒼白な顔で頷き、残された僅かな魔力を振り絞って、茜の命を繋ぎ止めるための救命魔術を展開し始めた。

 

「……信じられん男だ。本当に、あの化け物に一矢報いて生還するとはな」

 

 

アーチャーが、茜の惨状に息を呑みながらも、その手から双剣を消すことなく、広場の中央へと鋭い警戒の視線を向けた。

 

爆発の土煙が、冬の冷たい風に流されていく。

 

そこに残されていたのは、凄惨な地獄の光景だった。

 

 

 

 

『■■……■■■……』

 

 

 

 

ヘラクレスの巨体が、黒い炎を上げながら、ゆっくりと大地に崩れ落ちていく。

 

最後に残された命を燃やし尽くした大英雄は、もはや立ち上がる力を持っていなかった。

 

倒れ伏した彼の肉体の下から、意志を持った「黒い影の泥」が大量に湧き出し、彼の霊基を完全に呑み込み、聖杯の奥底へと吸収していく。

 

「バーサーカー……」

 

 

士郎に庇われていたイリヤが、その光景を虚ろな瞳で見つめ、力なく呟いた。

 

 

そして、その泥の海の中心で。

 

セイバーオルタが、自身の聖剣を杖のようにして、辛うじて片膝をついていた。

 

バーサーカーの最後の一撃によって霊核に致命的なヒビを入れられ、自身の宝具の暴発をも食らった彼女の漆黒の甲冑は、半分以上が砕け散り、元の白銀の素肌が痛々しく露出している。

 

 

だが、彼女の足元から這い上がってきた泥が、傷口に強引にへばりつき、霊核のヒビを接着剤のように無理やり塞いでいた。

 

「……」

 

 

セイバーオルタは、砕けたバイザーの奥から、無機質で冷酷な視線を凛やアーチャーたちへと向けた。

 

その瞳には、先ほどまでの圧倒的な強者の余裕はなく、明らかな「手負いの獣」としての警戒の色が宿っていた。

 

 

(……来るか)

 

 

アーチャーが重心を沈め、士郎もまた、痛む身体に鞭打って立ち上がろうとする。

 

 

 

だが、セイバーオルタは動かなかった。

 

彼女は、地面の泥に完全に呑み込まれたバーサーカーの痕跡を一瞥すると、それ以上追撃することなく、自らの身体を足元の影の中へと沈め始めた。

 

予想外のダメージを受けたことで、これ以上の戦闘はリスクが高いと判断したのだ。

 

 

『最強の英霊(バーサーカー)を取り込み、戦力を削ぐ』という彼女の本来の役目は、すでに果たされていた。 

 

 

ズブズブと、黒き騎士王の姿が泥の中へと消え、完全に気配が消失した。

 

「……退いた、のか」

 

 

士郎が、信じられないというように呟く。

 

 

だが、彼らが安堵の息を吐く暇は、一秒たりとも与えられなかった。

 

セイバーオルタが撤退したというのに、周囲の森を覆い尽くしていた「帯状の影」は、消えるどころか、さらにその数を増し、蠢きを激しくしていたのだ。

 

 

「どうなってるのよ……!」

 

 

凛が、血の気を引いた顔で叫んだ。

 

「セイバーが退いて、大元の臓硯もいないのに、なんで影の攻撃が止まらないの!?」

 

 

まるで、主を失ったことでタガが外れ──あるいは、最初から主(臓硯)の命令など受けておらず、ただ純粋な飢餓感のままに、自律的に士郎たちを喰らい尽くそうとしているかのように。

 

「チッ……! 一難去ってまた一難か! マスター、ここは退くぞ!」

 

 

アーチャーが双剣を振るい、迫り来る影の群れを切り裂きながら叫ぶ。

 

「わ、分かってるわよ! でも、茜がこの状態じゃ……!」

 

凛が、メディアの治癒を受けながらもピクリとも動かない茜の身体を抱きしめ、焦燥に顔を歪める。

 

 

 

その時だった。

 

「……逃げ、ろ」

 

 

腕の中で、気絶していたはずの茜が、突如として目を見開いた。

 

彼の瞳は焦点が定まっておらず、口からは血の泡を吹きながらも、その言葉には、理性を超越した「観測者としての強烈な警告」が込められていた。

 

「このままでは……マズい。……遠くから……あり得ないほどの……『質量』が……来る」

 

「茜……? 何を言ってるの……?」

 

 

凛が問い返した、次の瞬間。

 

冬の冷たい空気が、文字通り「凍りついた」。

 

 

 

 

ドクンッ。

 

 

 

 

アインツベルンの森全体が、まるで一つの巨大な心臓のように脈打った。

 

空を覆う灰色の雲が渦を巻き、周囲の木々が一瞬にして腐り落ちる。

 

遠く離れた森の奥深くから、セイバーオルタの魔力すらも凌駕するような、底なしの悪意と、途方もないスケールの「魔力の波」が、津波のように押し寄せてくるのを、その場にいた全員の肌が感じ取った。

 

「な、なんだ、この魔力は……!?」

 

 

アーチャーが戦慄し、士郎はあまりの魔力圧に息ができずに膝をついた。

 

 

それは、特定の英霊や魔術師のものではない。

 

冬木という土地そのものが、あるいは世界そのものが嘔吐しているかのような、絶対的な絶望の気配。

 

「影」の本体が、ついに本格的な捕食を開始しようとしていた。

 

 

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