空白の観測者と、真紅の共犯者   作:りー037

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【第三十三章】歪な帰還、あるいは奪われる宝物と、観測者の影

[Time: 2004年 2月5日 午前10:15]

 

[Location: 冬木市郊外 ── アインツベルンの森・氷の城前広場]

 

 

すべてを融解させる極大の魔力爆発が去り、アインツベルンの森に、信じられないほどの静寂が降りていた。

 

クレーターのように抉り取られた広場の中心から遠く離れた木陰で、生き残った四人のマスターと二騎のサーヴァントたちは、荒い呼吸を繰り返しながらも、それぞれに確かな生を噛み締めていた。

 

「……茜。よく頑張ったわね。もう、ゆっくり休んでいいわよ」

 

 

遠坂凛は、冷たい冬の地面に座り込み、自らの太腿の上に竜胆茜の頭を優しく乗せていた。

 

血と泥に塗れ、意識を完全に手放している少年の顔は、戦場での無機質で冷酷な「観測者」の面影はなく、ただ静かに眠る年相応の少年のそれだった。

 

 

凛は、彼にこびりついた汚れを自身の袖でそっと拭いながら、傍らに控える神代の魔女へと視線を向けた。

 

「キャスター、こっちへ来て。茜が言った通り、私が彼に代わって貴女へ魔力パスを繋ぐわ」

 

「……よろしいのですか、凛様。貴女も先ほどの防衛で、令呪による強制ブーストを行い、魔術回路に相当な負荷がかかっているはず。これ以上の負担は……」

 

 

メディア・リリィが、凛を思いやるように控えめな声で問う。

 

「舐めないで。私はこれでも遠坂の当主よ。この程度の負荷で潰れたりしないわ」

 

 

凛は気丈に微笑み、キャスターへと手を差し出した。

 

メディアがその手を取ると、凛は自身の回路の構造を素早く調整し、気絶している茜の魔術式(パス)を迂回させる形で、自身の魔力をキャスターへと直接流し込み始めた。

 

ドクン、と。異なる魔力波形が馴染むまでに僅かな軋みが生じたが、凛の卓越した魔術回路の変換効率がそれを即座に中和し、安定した供給ルートを確立する。

 

「……繋がったわ。これで、貴女が消滅することはない」

 

「ありがとうございます、凛様。……マスターの命を、そして私を救っていただき、本当に……」

 

「お礼なんていいわ。茜のサーヴァントなんだから、私のサーヴァントも同然でしょ」

 

 

凛が小さく笑った、その時。

 

「──そういうことなら、私への魔力供給効率が少しばかり落ちるが仕方ない。」

 

 

周囲の警戒に当たっていた赤い外套の英霊、アーチャーが、干将・莫耶を消滅させながら近づいてきた。

 

彼は、自身とパスを繋いでいる凛の魔力が、キャスターという大食漢のサーヴァントに割かれたことを正確に感知していた。

 

「あ、ごめんアーチャー。大丈夫? もし戦闘に支障が出るなら……」

 

「問題ない」

 

 

アーチャーは即答した。その鋼色の瞳が、凛の膝で眠る茜の寝顔を静かに見下ろす。

 

「あの規格外の化け物(セイバー)や、間桐臓硯を相手にする以上、キャスターの神代の魔術を失う方が遥かに致命的な痛手だ。……それに」

 

 

腕を組み、ふと、口元に僅かな笑みを浮かべた。

 

それは、彼が普段見せる皮肉や冷笑ではない。純粋な「賞賛」と「好感」の混じった、珍しい表情だった。

 

 

「……彼の判断と在り方は、決して嫌いではないのでね」

 

「アーチャー……」

 

「おそらくだが、彼は誰彼構わず、自分の命を軽く投げ捨てるような真似はしないのだろう。……彼の中には明確な『優先順位』がある。遠坂凛と、それ以外の命の価値に、圧倒的なまでの差をつけている」

 

 

アーチャーの言葉は、かつての自身──そして今も隣でイリヤを庇っている衛宮士郎の「無作為な自己犠牲」に対する痛烈な皮肉でもあり、同時に、竜胆茜という存在への最大の評価でもあった。

 

「誰かを救うために自分を捨てるのではない。……最も大切なものを守り抜くという目的のために、極限まで盤面を計算し尽くし、その上で必要な代償(自分の命)を、涼しい顔で支払いに行く。そして、それを成し遂げるだけの実力すらも伴っている。……まったく、一級品の魔術師(イカレヤロウ)だ。彼と行動を共にできたことは、私にとっても幸運だったと言える」

 

 

アーチャーからの、これ以上ないほどの賛辞。

 

凛は、少しだけ誇らしそうに目を細め、再び茜の髪を撫でた。

 

「ええ。最高の共犯者(パートナー)よ。」

 

 

少し離れた場所では、士郎がイリヤスフィールを支えながら、荒い息を吐いていた。

 

治癒の綻びと回路の暴走で、士郎の肉体も限界に近い。イリヤもまた、バーサーカーを失った精神的ショックと魔力枯渇で、顔面を蒼白にしてへたり込んでいる。

 

「……助かった。遠坂、竜胆。……本当に」

 

 

士郎が、掠れた声で礼を言う。

 

「アンタもね、衛宮くん。相変わらず無茶ばっかりして……」

 

 

凛が呆れたようにため息をつく。

 

極限の死闘を乗り越えた森に、一段落ついた安堵感と、穏やかな空気が流れ始めていた。

 

全員がボロボロだったが、生き残ったという事実が、彼らの心を不思議と落ち着かせていた。

 

「ところで、衛宮くん」

 

 

凛が、鋭い視線を士郎に向ける。

 

「どうしてアナタがここにいるのよ。桜はどうしたの? 私の言いつけを守って、大人しく寝ていなさいって言ったはずだけど」

 

 

士郎は気まずそうに目を伏せたが、すぐに真っ直ぐに凛を見返した。

 

「……俺は、桜の味方になるって決めたんだ。だから、桜を救うために、間桐臓硯を倒すために、イリヤのバーサーカー陣営と同盟を組みに来た。桜は……安全のために、藤ねえの家に預けてきた」

 

「……そう。衛宮くんも、こっちと同じ結論に辿り着いたってわけね」

 

 

凛は小さく息を吐いた。

 

正義の味方であることをやめ、一人の少女を選ぶ決断を下した士郎。その顔には、昨日までの危うさはなく、確かな覚悟が宿っていた。

 

「同盟を組むにしても、バーサーカーはあの黒いセイバーにやられちまったがな……」

 

 

士郎が悔しそうに唇を噛む。

 

「……ううん、シロウ。私、シロウと同盟を組むわ」

 

 

うつむいていたイリヤが、顔を上げて言った。

 

その瞳には、涙の跡がありながらも、アインツベルンのマスターとしての強い光が宿っていた。

 

「バーサーカーを、あんな風にした奴らを……絶対に許さない。私にできることなら、なんでも手伝う」

 

「イリヤ……ありがとう」

 

「さて、情報交換と意志確認が終わったところで、だ」

 

 

アーチャーが、森の周囲を警戒するように見回しながら口を開いた。

 

「ここに長居するのは危険すぎる。あの影の本体がいつ戻ってくるかも分からん。……一旦、ここから離れて休息を取るべきだ。今後の作戦を立てるにしても、全員の回復が最優先だろう」

 

「そうね。……衛宮くん、衛宮邸を使わせてもらっていいかしら。あそこなら、結界も生きてるし」

 

「ああ、もちろん構わない」

 

 

方針が決まり、一行はアインツベルンの森を後にすることになった。

 

「道中、人目につくといけないわ。アーチャー、キャスター、貴方たちは霊体化してついてきて」

 

 

凛の指示に、二騎の英霊が静かに姿を消す。キャスターが霊体化することで、凛の魔力パスへの負担もいくらか軽減された。

 

「イリヤ、歩けるか? 俺が背負うぞ」

 

士郎がイリヤに背中を向ける。

 

「……うん。お願い、シロウ」

 

 

 

そして、凛は。

 

彼女は、気絶している竜胆茜の右腕を自分の首に回し、その重い身体を自身の細い肩に担ぎ上げた。

 

 

ズシリと来る17歳の少年の体重に、凛の顔が微かに歪む。

 

「……遠坂、大丈夫か? 俺が竜胆を運ぼうか?」

 

 

イリヤを背負いながら、士郎が心配そうに声をかける。

 

「いいえ。問題ないわ」

 

 

凛は、一切の迷いなく士郎の申し出を断った。

 

彼女は、自分の肩に寄りかかる茜の冷たい頬を横目で見つめ、その瞳に、並々ならぬ熱く重い感情を宿した。

 

「……こいつの面倒は、私が視る。こいつが背負った泥も、傷も、全部私が一緒に背負うって決めたんだから」

 

 

一方的に助けられ、守られるだけの安全な場所(ヒロイン)になど、絶対に収まらない。

 

彼が自分のために命を削り、理不尽な英霊たちに狂気的な盤面操作で立ち向かったのなら。

 

遠坂凛もまた、彼と同じ地獄を歩き、彼を支え、共に勝利を掴み取る。

 

それが、気高き遠坂の当主としての、そして一人の少女としての、絶対に譲れない決意だった。

 

「……そうか。分かった」

 

 

士郎は、凛の言葉に込められた圧倒的な熱量を感じ取り、それ以上踏み込むことはなかった。

 

ボロボロになった四人は、冬の冷たい風が吹く中、冬木の街へと向かって歩き出した。

 

 

 

 

 

 

 

[Time: 2004年 2月5日 午後1:30]

 

[Location: 冬木市 ── 藤村邸・玄関前]

 

衛宮邸へ向かう前に、士郎たちは藤村大河の実家へと立ち寄っていた。

 

そこに預けてある、間桐桜を迎えに行くためだ。

 

「……先輩!!」

 

 

士郎が帰ってきた気配を察知したのか、藤村家の立派な玄関の扉が勢いよく開かれ、中から間桐桜が飛び出してきた。

 

彼女の顔には、愛しい人が無事に帰還したことへの心からの喜びと安堵が弾けていた。

 

「よかった、無事に帰ってきて……っ!」

 

 

桜が士郎へと駆け寄ろうとした、その足が。

 

玄関の扉の向こうに広がる光景を視認した瞬間、ピタリと、凍りついたように止まった。

 

そこには、ボロボロになった士郎だけではなかった。

 

士郎の背中におぶさっている、見知らぬ銀髪の美しい少女。

 

そして何より──士郎の隣に立つ、完璧で、自分とは何もかもが違う実の姉、遠坂凛。

 

さらに、その凛が、自分以外の誰にも触れさせないかのように、大切に肩に抱えている、顔面蒼白の黒髪の少年の姿。

 

 

「……え?」

 

 

桜の瞳孔が、微かに収縮した。

 

どうして、姉さんがここにいるの?

 

先輩は、私のためだけに戦ってくれるんじゃなかったの?

 

それに、姉さんが抱えているその人は、誰?

 

 

 

(……『遠坂の幼なじみだよ』)

 

 

 

今朝、士郎が食卓で口にした言葉が、桜の脳内にフラッシュバックする。

 

あの人が。姉さんをずっと、ずっと傍で守ってくれていたという、竜胆茜。

 

「桜、待たせたな。迎えに来たよ」

 

 

士郎が、桜の凍りついた様子には気づかず、安堵の笑みを浮かべて声をかける。

 

「あ……はい、先輩。……あの、皆さんは……?」

 

「色々とあってな。とりあえず、説明は後だ。一旦、俺の家(うち)に行こう」

 

「……はい」

 

 

桜は、努めていつものように控えめな笑顔を作りながら頷いた。

 

だが、彼女の視線は、士郎の後ろを歩く遠坂凛と、彼女が肩に担ぐ「見知らぬ少年」に釘付けになっていた。

 

自分は、間桐の泥の中で独りぼっちで、誰にも助けてもらえなかったのに。

 

姉さんは、先輩と一緒にいて、しかもあんなに大切そうに、自分の『幼なじみ』を抱え込んでいる。

 

桜の胸の奥底で、黒くドロドロとした感情が、再びグツグツと音を立てて煮詰まり始めていた。

 

 

 

 

 

 

 

[Time: 2004年 2月5日 午後2:30]

 

[Location: 冬木市 ── 衛宮邸・居間]

 

衛宮邸に到着した一行は、それぞれに簡単な傷の手当てを済ませ、居間の卓袱台を囲むようにして座っていた。

 

気絶している竜胆茜は、空いている客間の布団に寝かされている。

 

ストーブの暖かな空気が満ちる居間で、士郎は桜に、アインツベルンの森で起きた出来事を、可能な限り誤魔化しつつ、しかし要点を絞って説明した。

 

 

襲撃があったこと。

 

イリヤと同盟を結んだこと。

 

そして、その場に居合わせた遠坂凛と竜胆茜と共闘し、辛くも窮地を脱したこと。

 

「……そういうわけなんだ。だから、臓硯を倒すまで、遠坂たちとも一時的に協力することになった」

 

 

士郎の説明を聞きながら、桜は卓袱台の下で、自分のスカートをギュッと握りしめていた。

 

「……そう、なんですね。先輩が無事で、本当によかったです」

 

 

桜は、対面に座る遠坂凛をチラリと見た。

 

凛は、腕を組み、相変わらず桜に対して他人行儀な、一歩引いたような冷たい態度を崩していなかった。

 

それは、魔術師としてのスタンスなのか、あるいは実の妹に対する不器用な愛情の裏返しなのか。桜には到底理解できなかった。

 

「……その、遠坂先輩。お怪我は……」

 

「問題ないわ。それより、アンタこそ体調はどうなのよ」

 

 

凛が、鋭い視線で桜を射抜く。

 

「間桐の家から出たんでしょ? 慎二とか、あいつ(臓硯)からの干渉とか、どうなってるわけ?」

 

「……大丈夫、です。先輩が、助けてくれているので……」

 

 

桜は、士郎の顔をチラリと見て、少しだけ頬を染めた。

 

昨夜の、血を通じた魔力供給の記憶。それだけが、今の桜にとって唯一の優越感であり、精神の安定剤だった。

 

「ふぅん。……まあ、いいわ」

 

 

凛はそれ以上追求することなく、立ち上がった。

 

「もう夕方になるわね。疲労がピークよ。一旦、全員休むことにしましょう。今後の具体的な作戦は、夜にでも話し合うわ」

 

「ああ、そうだな。……遠坂、竜胆の様子はどうだ?」

 

 

士郎の問いに、凛の表情が少しだけ和らいだ。

 

「さっきキャスターに診てもらったけど、命に別状はないわ。ただ、魔力回路を無茶な使い方したせいで、全身の筋肉と骨がボロボロよ。……しばらくは絶対安静ね。今から、また様子を見てくるわ」

 

 

凛はそう言って、居間を出て行った。

 

イリヤもまた、「疲れたから寝る」と言って士郎に案内され、別の部屋へと向かった。

 

 

 

 

居間に、士郎と桜の二人だけが残される。

 

「……先輩」

 

「ん、どうした桜?」

 

「……ううん。ちゃんと帰ってきてくれて、嬉しいです」

 

「約束したろ。絶対帰ってくるって」

 

 

士郎が優しく微笑むと、桜の心の中の靄が、少しだけ晴れたような気がした。

 

だが、この穏やかな時間が、長くは続かないことを、桜の無意識下に潜む「影」はすでに理解していた。

 

遠坂凛という絶対的な存在が、同じ屋根の下にいる。

 

そして、彼女が連れてきた「観測者」が、静かにこの家の盤面を支配し始めている。

 

歪な帰還を果たした衛宮邸は、嵐の前の静けさに包まれていた。

 

 

 

 

 

 

[Time: 2004年 2月5日 午後4:00]

 

[Location: 冬木市 ── 衛宮邸・客間]

 

静寂に包まれた客間に、微かな衣擦れの音と、規則正しい呼吸音だけが響いていた。

 

遠坂凛は、そっと襖を開けて部屋の中へと足を踏み入れた。

 

部屋の中央に敷かれた布団には、竜胆茜が静かに横たわっている。その枕元には、白色のローブを纏ったメディア・リリィが正座し、茜の額に冷やした手拭いを乗せながら、神代の治癒魔術の残滓を絶え間なく流し込み続けていた。

 

「……キャスター。茜の具合はどう?」

 

 

凛が声をかけると、メディアは静かに振り返り、小さく息を吐いた。

 

「凛様。……命に別状はありません。ですが、ご自身の肉体を限界以上に酷使された代償は大きく、全身の筋繊維と毛細血管が深刻なダメージを受けています。私の魔術で外傷と細胞の修復は終えましたが……消耗しきった魔力と精神力が回復するまで、しばらくは目を覚まさないかと」

 

「そう……分かったわ。ありがとう、キャスター」

 

 

凛は茜の枕元に膝をつき、彼の血の気が失せた白い頬に、そっと自らの手のひらを添えた。

 

ひんやりとした肌の感触。

 

つい数時間前、アインツベルンの森で、自分たち全員を守るためにあの巨大な絶望の真正面に立ち塞がった少年の顔。

 

(……本当に、無茶ばっかりするんだから)

 

 

凛は、茜の黒い前髪を優しく撫でた。

 

ただの「背景」であろうとした彼が、あんなにも堂々と、自分の命を盤面に投げ出した。

 

その狂気的なまでの自己犠牲の精神に、凛は胸が締め付けられるような恐怖と、それ以上の深くて重い「愛おしさ」を感じていた。

 

だが、ここで彼にすがりついて泣き崩れるような真似は、遠坂凛の矜持が許さなかった。

 

「キャスター。このまま、茜の看病をお願い。私は……少し、やることがあるから」

 

 

凛はスッと立ち上がる。

 

その瞳には、すでに涙はなく、魔術師としての鋭い理性の光が宿っていた。

 

茜が命を懸けて繋いだこの盤面を、彼が目覚めるまでに少しでも有利に整えておく。それが、彼から「共犯者」として選ばれた自分の果たすべき義務だ。

 

「衛宮くんの回路のメンテナンスをしてくるわ。あいつも、昨夜から無茶のし通しでボロボロだからね。……何かあったら、すぐにパスで呼んで」

 

「はい。お任せください、凛様」

 

 

メディアの返事を聞き届け、凛は客間を後にした。

 

気高く、強い足取りで。

 

 

 

 

 

 

 

[Time: 2004年 2月5日 午後4:05]

 

[Location: 衛宮邸 ── 居間]

 

 

「……それでね、藤村先生ったら、朝から大慌てで……」

 

 

居間では、間桐桜が士郎のためにお茶を淹れ、少し照れくさそうに藤村家での出来事を話していた。

 

士郎は湯呑みを両手で包み込みながら、その言葉に優しく相槌を打っている。

 

「ははっ、藤ねえらしいな。急に預けたから、迷惑かけちゃったかもな」

 

「いえ、そんなことないと思います。先生、すごく優しくしてくれました。……でも、やっぱり、この家が一番落ち着きます。先輩が、ちゃんと帰ってきてくれたから」

 

 

桜の瞳が、嬉しそうに細められる。

 

士郎が隣にいてくれる。自分を見捨てず、約束通りに帰ってきてくれた。その事実だけで、桜の心に巣食っていた暗い靄が、一時的とはいえ綺麗に晴れ渡っていくのを感じていた。

 

「……なぁ、桜。少し、痛むか?」

 

 

士郎が、心配そうに桜の顔を覗き込む。

 

「もし魔力が足りなくて苦しいなら、遠慮せずに言えよ。俺の血でよければ、いつでも……」

 

「っ、いえ! 大丈夫です、今は……」

 

 

桜は顔を真っ赤にして俯いた。昨夜の、士郎の指を舐めた生々しい感触が蘇り、下腹部が甘く疼く。

 

だが、その恥じらいの裏で、彼女はずっと気になっていた「棘」について、ついに口を開く決心をした。

 

「……あの、先輩」

 

「ん?」

 

「……どうして、遠坂先輩は……」

 

 

桜の声は、ひどく控えめで、怯えるようだった。

 

なぜ、私が待っていた時間に、先輩は姉さんと一緒にいるのか。なぜ、私の知らない少年を連れて、姉さんがこの家に上がり込んでいるのか。

 

 

 

桜が言葉を紡ごうとしたまさにその時。

 

 

 

 

ピシャッ!!

 

 

 

 

勢いよく、居間の襖が開け放たれた。

 

そこに立っていたのは、腕を組み、仁王立ちになった遠坂凛だった。

 

 

「ちょっと衛宮くん、いつまで寛いでるつもり?」

 

「と、遠坂……?」

 

 

突然の乱入に、士郎が目を丸くする。

 

桜の言葉は、完璧なタイミングで遮られてしまった。

 

「アンタ、昨日の夜の戦闘で魔術回路がボロボロになってるでしょ? なのに安静にもせずに、今日もアインツベルンの森で無茶し続けて……。自分の身体が今どういう状態か、分かってるの?」

 

 

凛の呆れたような、しかし有無を言わさぬ叱咤に、士郎は気まずそうに頭を掻いた。

 

「いや……まあ、多少は痛むけど、動けないわけじゃ……」

 

「そういう鈍感なところが致命的なのよ。放置してたら、回路が完全に焼き切れて魔術が使えなくなるわよ」

 

 

凛はズカズカと居間に上がり込み、士郎の腕を掴んだ。

 

「私がメンテナンスしてあげるから、来なさい」

 

「え、あ、ちょっと待て遠坂!」

 

「普段、魔術の訓練はどこでやってるの? 部屋? それとも別の場所?」

 

「……裏の、土蔵だけど……」

 

「じゃあ行くわよ。ほら、立って」

 

 

凛の強引なペースに乗せられ、士郎は立ち上がらざるを得なかった。

 

 

 

彼は申し訳なさそうに、座ったままの桜を振り返る。

 

「ごめん桜。少し、待っててくれ。遠坂の言う通り、体の調子を整えておきたいんだ」

 

「……はい。いってらっしゃい、先輩」

 

 

桜は、完璧に作られた笑顔で頷いた。

 

士郎と凛が連れ立って居間を出て行く。縁側を歩く二人の足音が、次第に遠ざかっていく。

 

 

一人、居間に残された桜。

 

彼女は、卓袱台の上に置かれた二つの湯呑みを、ただじっと見つめていた。

 

 

(……どうして)

 

 

胸の奥で、ポタッ、ポタッと、黒いインクが垂れるような音がした。

 

せっかく先輩と二人きりになれたのに。

 

せっかく、私のことだけを見てくれていたのに。

 

なぜ、姉さんはいつも、私の欲しいものを、一番大切な時間を、いとも簡単に奪っていくの?

 

 

(……ダメですよ。先輩)

 

 

桜はゆっくりと立ち上がった。

 

彼女の足は、無意識のうちに、二人が向かった裏の土蔵の方角へと動き出していた。

 

 

 

 

 

 

 

 

[Time: 2004年 2月5日 午後4:15]

 

[Location: 衛宮邸 ── 裏の土蔵]

 

冷え切った土蔵の中は、埃の匂いと、長年染み付いた魔力の残滓で満ちていた。

 

夕刻の斜陽が天窓から細く差し込み、宙に舞う塵を白く照らしている。

 

士郎は上着を脱ぎ、土間の中央であぐらをかいて座っていた。

 

その背後に、凛が膝立ちになり、士郎の背中の魔術回路──背骨に沿ったラインに、両手をピタリと当てている。

 

 

「……っ、ぐ……、あ……」

 

 

士郎の喉から、押し殺した呻きが漏れる。

 

「我慢しなさい。暴走して絡まってる神経(パス)を、一本ずつ解いて繋ぎ直してるんだから。アンタ、昨夜から無茶のし通しで回路が熱を持ちすぎてんのよ」

 

凛の手のひらから、冷徹でいて精緻な魔力が士郎の体内へと流れ込む。

 

氷の楔を打ち込まれるような鋭い痛みと共に、体内で燻っていた不快な熱が、少しずつ形を整えられていくのが分かった。

 

 

「……悪いな、遠坂。何から何まで」

 

士郎は背中を向けたまま、ポツリとこぼした。

 

「今回のこともそうだし……聖杯戦争に巻き込まれた時から、お前にはずっと世話になりっぱなしだ。学校じゃ雲の上の存在だったのに、まさかこんな風に……」

 

「別に。間桐臓硯を倒すまでは協力するって決めたんだから。味方の戦力が落ちるのは困るだけよ」

 

凛は少しだけツンとした声で返したが、その指先は驚くほど優しく士郎の背をなぞっていた。

 

 

土蔵の重い木扉の外。

 

隙間風が吹き込むその場所に、音もなく近づいた間桐桜は、扉に背中を預けるようにして、中の二人の会話に聞き耳を立てていた。

 

 

(……姉さんが、先輩の体に触れてる)

 

 

桜の呼吸が、浅く、速くなる。

 

土蔵の中から漏れ聞こえる、士郎のくぐもった声と、凛の澄んだ声。

 

二人だけの、魔術師としての秘密の共有。桜がどれだけ望んでも、決して踏み入ることのできない「裏の世界」の絆が、そこにはあった。

 

「……アナタがどうだか知らないけど。私は、アナタのこと、随分前から知ってたんだから」

 

凛のその言葉に、士郎が驚いたように振り返ろうとしたが、凛に「動くな」と肩を強く押さえられた。

 

 

 

扉の外で。

 

その言葉を聞いた桜は、ビクッと肩を跳ねさせ、目を見開いた。

 

 

随分前から、知っていた?

 

姉さんが? 先輩のことを?

 

嫌な予感が、黒い毒のように桜の胸に広がっていく。

 

 

「あの頃の私、少し……自分の在り方に迷ってた時期だったのよ。魔術師として、遠坂の跡継ぎとして、効率の悪いことは切り捨てる。そんな冷めた生き方で本当にいいのかなって」

 

 

凛の声は、どこか遠くを見るような響きを帯びていた。

 

「……もちろん、隣には茜がいてくれたわ。あいつは私の孤独を埋めてくれたし、私が何をしても、どんな道を選んでも、全部『それでいい』って肯定してくれた。……でもね、あいつってば大抵のことはそつなくこなしちゃうし、機械みたいに、失敗なんて概念すら持ってないように見えるでしょ? 私の悩みなんて、あいつに言わせれば『非効率なノイズ』でしかないのよね。相談しても全然参考にならないし、むしろ完璧すぎて腹が立つくらいだったわ」

 

 

凛はくすりと、茜の在り方を楽しそうに、どこか呆れたように愚痴ってみせる。

 

土蔵の外で聞き耳を立てる桜の心臓が、嫌な音を立てて波打った。

 

(……姉さんには、孤独を埋めてくれる人が。全部、肯定してくれる人が……)

 

 

自分は、間桐の地下で、肯定されることなんて一度もなかったのに。

 

自分は、誰からも愛されず、蟲に犯される日々をただ耐えるしかなかったのに。

 

姉さんは、あんなに強い、完璧な幼馴染に守られながら、それでも満たされずに、さらに「光」を求めたのか。

 

 

「あいつを見てると、努力とか足掻くこと自体が無意味に思えてきちゃって……。そんな時に、放課後のグラウンドでアンタを見たのよ」

 

 

凛の声が、熱を帯びていく。

 

「誰もいないグラウンドで、出来るわけないのに……永遠と走り高跳びを飛んでた、馬鹿な男子を眺めてた」

 

 

 

 

 

ドクンッ!!

 

 

 

 

桜の心臓が、破裂しそうなほど大きく跳ねた。

 

瞳孔が開き、ガクガクと膝が震え始める。

 

「……あれ、見てたのか、お前」

 

 

士郎が、恥ずかしそうに苦笑する。

 

「ええ、見てたわよ。……私ね、自分には出来ないって判断したら、すっぱり手を引く質なの。効率が悪いことなんて、絶対にしない。茜だってそう。不可能なことは、きっと『成功確率はゼロだ』って切り捨ててたはずよ」

 

 

凛の手が、慈しむように過去の思い出を引っ張り出す。

 

「でも、あの時のアンタは違った。あんなに不器用で、でも絶対に諦めない。……茜みたいな正解じゃない、泥臭い答えを見せられちゃったら。……なんか、不思議と力が湧いてきたのよ」

 

「……遠坂」

 

「だから、感謝してるのよ、衛宮くん。……アンタのあの姿があったから、私は自分を肯定できた。迷わずに戦えてるのかもしれない」

 

 

 

会話が、続く。

 

 

桜だけの記憶だったはずのたった一つの「光」。

 

泥の中を這いずっていた桜にとって、唯一の救いだったあの夕焼けの光景が、いま、完璧な姉と士郎の間の「美しい絆」として上書きされていく。

 

 

 

(とらないで……)

 

 

桜は、土蔵の壁にズルズルと背中を滑らせ、冷たい地面にうずくまった。

 

両手で自身の耳を強く塞ぎ、首を何度も横に振る。

 

(私だけの、光だったのに……。姉さんには、あんなに凄い人がいたのに。孤独なんて、なかったはずなのに。どうして、私のたった一つの宝物まで……奪っていくの……っ!!)

 

 

「……ぁ、あ……、ぁあ……っ」

 

 

桜の口から、掠れた怨嗟が漏れる。

 

その瞬間、彼女の足元からどろりとした「影」が染み出し、意思を持った生き物のように蠢き始めた。

 

 

嫉妬、憎悪、劣等感。

 

桜の負の感情に呼応して、彼女の体内に潜む「化け物」が、その産声を上げようとしていた。

 

 

 

 

■してやる。■■■を。

 

 

 

 

私の宝物を、土足で汚して奪っていく、あの人を──。

 

桜の心が完全に闇に染まりかけ、漆黒の泥が彼女を飲み込もうとした、まさにその時だった。

 

 

 

 

 

『……何をしている?』

 

 

 

「──っ!?」

 

 

 

虚空から。何の気配もなく。

 

極めて平坦で、一切の感情を排した無機質な声が、うずくまる桜の頭上から降ってきた。

 

驚愕に息を呑み、桜は弾かれたように顔を上げた。

 

涙に濡れた瞳で振り返ったその先に、彼はいた。

 

 

 

遠坂凛が連れてきた少年。

 

全身に包帯を巻き、ボロボロの肉体のはずの竜胆茜が、いつの間にか、桜のすぐ背後に立っていたのだ。

 

音もなく、気配もなく、まるで最初からその場所に「配置」されていたかのような唐突な存在感。

 

彼はポケットに両手を突っ込んだまま、幽鬼のような冷徹な眼差しで、うずくまる桜を見下ろしていた。

 

 

「……あ、なた……は……」

 

 

 

桜の声が震える。

 

茜は答えない。ただ、その半眼の漆黒の瞳は、桜の足元で蠢いていた「影」を、そして彼女の壊れかけた精神構造を、冷酷なまでに「観測」していた。

 

土蔵の中から漏れ聞こえる士郎と凛の温かな語らいとは対照的な、凍てつくような沈黙。

 

すべてを暴き立てるような茜の視線に晒され、桜は自らの醜い内側を抉り取られるような戦慄を覚えた。

 

 

「……何でも、ない……です。ただ、少し、目眩が……」

 

 

桜は必死に取り繕い、影を抑え込もうとする。

 

だが、茜は一歩も引かず、その無機質な瞳を桜から逸らさない。

 

 

「……そうか。ならばいいが」

 

茜の言葉は、まるで桜の嘘をすべて見抜いた上で、あえてそれを見逃すような、残酷なまでの無関心を含んでいた。

 

 

土蔵の扉一枚を隔てて。

 

光の中にいる士郎と凛。

 

そして、その外側の闇の中で、初めて交差した二つの「異質」。

 

竜胆茜の存在が、間桐桜の歪み始めた運命に、新たな「決定的なノイズ」を刻み込んだ瞬間だった。

 

 

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