フリーレンと行く魔法のない世界で魔法を探す旅。   作:ぼたにかる

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8話『続きのない旅。終わりのない夜』

 

 

「新」

 

名を呼びかけられつつ身体を揺すられ、新は重い瞼を開く。

そこは自室で、そこには新の妻がいて、今は朝と呼ぶには陽が昇り過ぎている頃で、妻の傍らには少女が一人、佇んでいる。

 

「パパ」

 

とその少女は新に呼びかける。誰かと問いたくなる気持ちを寸前のところで押し留める。その小動物っぽい少女の容貌はなるほど、新と新の妻の中間辺り特徴を兼ね備えていた。年齢はおそらく10歳を届かぬ辺りだろうかと見当をつけてみる。

 

妻は死んでおり、自分には子供がいないから、これは夢なのだと新は思う。

 

存在しない娘の名は渚だろう。

 

これは妻と生前交わした取り決めだった。

 

男性でも女性でも違和感のない名であり、もし子供が生まれたのなら、そう名付けようと話していた。

 

無論、新の妻は、新が生殖のための器官を持っていないことを知っていた。

渚は、両親が平泉へ旅行する計画を練っていることを知っており、まだそれは一か月先のことであるにも関わらず旅の支度を始めている。

 

持っていきたい洋服と玩具を、よく観賞しているアニメのキャラクターの顔が描かれた自身の鞄の中に詰め込んで、自分が一人で持ち運ぶことが可能であるとアピールするために、家中、しきりにそれをひきずり回している。

 

「パパ、魔法のバッグはないの? なんでも入れられる異次元のポケットは? フリーレンのお姉さんに頼むという手があるわ」

 

「フリーレンをあまり困らせちゃ駄目だよ」

 

新は首を横に振る。

 

「彼女は旅人なんだから」

 

しかし渚にとって、連れていきたい旅行のお供は増すばかりなのであって、彼女の鞄の中にはもう何かを入れる余地などほとんど残っていないのだった。

 

渚はやがて両親に、鞄のスペースの一部を貸してくれないかとお願いすることになる。

 

「そんなに何もかも持っていく必要はないよ」

 

と新は言い、

 

「どうせ一泊二日の旅なんだから」

 

と新の妻は言う。

そうしていつかはきっと、渚は持ち物を減らすことに渋々ながら同意するだろう。でも旅行への期待はむしろ膨らんでいく。とうとうぐずり出してしまって、

 

「早く旅行にいきたいよ」

 

と言うだろう。

そうした渚は、かつて一度もこの世界に存在した試しはない。

 

存在していない以上、一人娘は一人息子である可能性もあり、兄弟や姉妹がいることだって当然あり得た。

 

そこには任意の道筋が成立し、機会無制限の選択肢が与えられている。

 

そのくせ、現在から地続きの未来は一本であるとどこかで決まっていて、新の子供なる実存は、この新の未来に連続していない。

 

「それなら、旅行の日にやりたいことを、パパと一緒に書き出してみようか」

 

新はそう言って渚の手を握り、ベッドから立ち上がる。

リビングには密教展で買った曼荼羅のポスターが飾られていて、ちょっと怪しげな宗教法人じみていて嫌だと言ったのは新の妻の方だったが、新としては存外、気に入っている。

 

このポスターは言うなれば宇宙の――いや、思想の、救済の多様性を示唆している。もしこの夢が現実だったなら――救われているのは自分ではなくて、むしろ渚の方ではないかと、新は考える。

 

 

 

 

 

 

◆ ◆ ◆

 

 

 

 

 

 

魔族アガットとの不幸な遭遇戦から一夜が明けて、新とフリーレンは本格的に『図書館』へと足を踏み入れた。

 

新たに召喚された魔族や魔物との連戦というシチュエーションも想定していたが、今のところ魔力探知にその種の反応は感ぜられないというのがフリーレンの謂いである。

 

太ももの内側を擦り合わせつつ、ぎこちなく歩くフリーレンに新は手を差し伸べる。

 

「まだ中に入っている感じがする」

 

フリーレンのほぼ直球の表現に、新は昨夜の情事を思い出して顔を歪める。

 

状況的に迫ったのはフリーレン側だとしても、否応のない罪悪感は着々と胸の奥を締め付ける。

 

「ちゃんとエスコートして」

 

「分かったよ、分かったから」

 

『図書館』の様相に変化はなかったが、アガットの攻撃で着弾したはずの棚と書物は何事もなかったかのように修復されていた。

 

魔導書の魔力による、魔導書自体の自己保全。フリーレンは感心したようにそう呟く。

 

木製の長椅子を見つけ、二人はそこに座る。バンから持ってきたステンレス製の断熱ボトルから、熱い珈琲をカップに注ぐ。外は真夏だが、『図書館』内部は満ちる魔力のせいか肌寒い。

 

カップを受け取ったフリーレンが有難うと言う。

息を潜め、耳を澄ますと、この『図書館』はどこか海の満ち引きのような、あるいは脈を打つような生命的な動性を感じさせた。

 

革製の書物群が棚に整然と並んでいるのも昨日のとおりだったが、他にも天球儀や顕微鏡といった器具が書物同士の隙間を埋めるように納められている。東洋趣味風のカーペットの上には階差機関に似た機械が鎮座されていた。

 

稼働はしておらず、ただ博覧用に置いてあるだけのようにも見える。

 

「話を整理するね」

 

珈琲を一口つけたフリーレンは、こめかみを指で押さえるような仕草をし、今朝から新に聞いていた事柄を順序立てようとする。

 

「この世界には、魔法使いが存在し始める以前から、魔導書だけが存在していた」

 

その通り、と新は頷く。

 

フリーレンの世界にはない、この世界の魔導書の特性のひとつ。

 

オーパーツ。オーバーテクノロジー。

 

これは卵が先が鶏が先かという古典的な問いを形成しない。

 

書き手がいないのに、勝手に文字が記される道理はないのだから。

 

それでも手記が先に存在しているのなら、書き手が存在する必要はないだろうと、フリーレンはひとまず見切ってみる。

 

「それらの魔導書は古エルフ語のように、人間には到底理解することの叶わない神性文字によって記されている。更には魔導書自体が意思を持ち、思考することができる。新はその内の一冊を核として製造された、自由意志を有し、伝達不能な魔導書の内容を、人間に伝える手段を模索するためのゴーレム」

 

ラビの研究者は驚愕すべきことに、神そのものであるはずの神性文字をほんの一部であれ理解し、技術として利用したということになる。更にはそれを錬金術に落とし込み、科学と魔法の奇跡的な融和の果て、生命の製造まで成し遂げた。

それが、今や新と呼ばれる青年の出自だ。

 

「魔導書である自分がどこから生じ、どうしてこの世界に存在しているのかは、俺自身も知らない。俺は、自分がどのような魔導書であるのかを当然知っている。ただそれは、この世界の言葉で理解しているわけではなかった。神性文字で記された自分自身を他者へ伝達するために、まずこの世界の言葉の始祖――統一言語に辿り着くことが、人間たちによって課せられた俺の『旅』だった」

 

ラビの研究者たちは、この世界に書物としてではなく人形として生まれ落ちた新に、概ね友好的に接したという。実験体であり忠実なる従者(サーヴァント)である事実は変わらなかったが、いくつかの命令(オーダー)を除けばそれ以上の束縛は行わなかった。むしろ積極的に、研究者たちは新を外界に導いた。当時はまだ新鋭だったガレー船への乗船を許可され、イベリア半島、オスマン帝国、インド、明、イタリアまで。地球を何周もまわり、旅の仕方を研究者たちから教わった。本来は魔導書として自己完結していたはずの新は、この世界のことを急速に学んでいった。

 

「あの頃が一番楽しかった。俺にはフリーレンのような、真の意味での仲間はいなかったけど、あの知への探求と旅路はまさしくファンタジーだった。自分が何者であるかは依然不明だったが、自分と他者が――認識と世界がどのように対比され、接続され得るのかを、俺は初めて実感したんだ」

 

新の目が淡く輝きを放つが、それはほんの一瞬のことだった。

 

カップに張られた漆黒の水面に、新は視線を落とす。

 

「でもラビが解体され、別の組織に引き取られた俺は、やがて魔力を無効化する錬金の肉体に目をつけられて政治的な利用がなされるようになった。俺は確かに自由意思を持つアンドロイドだったけど、ゴーレムとして稼働する上で、人間からの命令は絶対だった。当時は科学と魔法、どちらが世界を統括するに相応しいかを画定しようとするゆるやかで静かな戦争が行われていたんだ。科学と魔法の交雑種である俺は、相反するふたつの意思に長らく宙づりにされていたけど、結局は科学派である『統括組織』に属することになった。魔法使いと魔法技術を葬り続け、今後新しい魔法使いが容易に生まれないようにする様々な謀略を仕掛けた。反魔導(アンチ・マジック)の肉体に、魔法使い勢力は為す術がなかっただろう。俺は魔導書でありながら、魔法の失伝に力を貸したということになる」

 

新は瞼を瞑る。

自分に向けられた死者の声と眼差しに、感覚を研ぎ澄ませる。

 

「この世界で最後の魔法使い、『紫髪の魔法使い』との戦いは相打ちだった。彼女の師である『白髪の魔法使い』は、俺のエンジニアでもあったんだ。『統括組織』が勝利した暁に実現するだろうゴーレムの量産を『紫髪の魔法使い』は危惧していた。ゴーレムがゴーレムを製造できる力を得た時点で、その種のシンギュラリティは起こる。熾烈な戦いの果て、『星落とし』と呼ばれる魔法によって、俺は存在ごと焼き尽くされた。でも俺は死んでおらず、こうして生きている。何かの事故だったのか、彼女の情けだったのか――もしくは俺の自己保全能力が彼女の術式を卓越していたのかは最早考えてみても分からないことだ。しかし幸いなことに、俺は死を偽装して『統括組織』から離れることはできた。ラビの初期命令は生きていたけど、俺は再び制限付きの自由を得た。魔法使いを滅ぼした償いももちろんだったが、伴侶を持ち、普通の人間として生きる第二の人生を俺は望んだ」

 

新はそれ以上、言葉を続けない。新が語る過去が――物語が現在に繋がったからだとフリーレンは思う。

 

「ここにある他の魔導書も、新のように意思を持ち、適切な移植が行われればゴーレムとして活動できるの?」

 

フリーレンは問う。

 

「それは正しいけど、誤ってもいるかな」

 

新は『図書館』全体を見渡すように首を回しつつ応える。

 

「これらの魔導書も、俺であり、『私たち』であるといえる。ここに所蔵された魔導書群は、集合意識――つまり全体で一個の脳なんだ。『新』という人格は、いわば『図書館』のひとつの要素に過ぎない。俺という魔導書は誤訳するならば『真理』を司っている。だから『図書館』が『真理』について考え耽るとき、俺という人格が参照されるんだ」

 

思考だけを共有し、肉体的には個々の書物として分断された、図書館型の生命。それが、この世界における魔導書(グリモワール)の様式なのだと新は説明する。

 

フリーレンは焦らずひとつひとつを飲み込むように解釈していく。

 

「『図書館』の姿を採ったあまりに巨大な意思の中で、新だけが人間に近い肉体を研究者たちによって授かり、結果として自由に活動できるようになったのはどうして?」

 

「それは単純に、ゴーレムに移植するにあたって最も拒絶反応が薄かったのが俺だったからということになる。錬金術師もまた、禁忌の裡に閉ざされた真理を希求する。禁忌とは生命の創出だ。俺という魔導書の内容は、ラビの開発思想とそもそも似通っていたんだろうね。そして、『図書館』もまた、人間のような手足を得て自在に移動できる手段を模索していたのは事実だった。この世界にいくつか離散したきりの『私たち』を結集するために。ラビと『図書館』の利害が一致し、俺は製造された。この『図書館』に所蔵されている魔導書の半分は俺が旅の中で集めたものだよ」

 

新によって集約された魔導書は第二次世界大戦直後、佐多岬観測所というペーパーカンパニーに移送された。

 

放棄というのがきっと近いだろう。魔法使いが絶えた今、魔導書は言うなれば実現不可な大量殺人兵器の設計図のようなもので、手元に保存する意味はないが、処分することも憚られる、つまりは厄介な代物だった。

 

新は再び『統括組織』のような団体に利用されるのを避けるため、顔を変えてこの島国に馴染むような容貌へつくり直し、しばらく佐多岬観測所へは戻らなかった。

魔法使いがいなくなり、魔法を知る者さえいなくなったこの世界では、観測所の管理はやがてただの形式的なものに成り下がった。

重要施設として国の予算も自動的に下りるし、適切な警備も行われるが、警備する側も自分が何を守っているのかは分からない。

 

そして新が再びフリーレンを伴って訪れる頃には、もはや忘却と風化だけが『図書館』を包括していた。

 

「誰も俺を覚えている者はいない」

 

新は『図書館』の天蓋を仰ぎつつ、苦笑する。

 

「歴史に残るかも知れなかった足跡と道標は、自らが消し去ってしまったのだから」

 

◆ ◆ ◆

 

花柄の浴衣を着たフリーレンが、将棋盤の前に座る。

 

駒のいくつかを掌に乗せて、関心深そうに顔を近づける。

 

「なんとなく、やりたいことは分かったよ」

 

同数、同種の駒を、目が格子状に引かれた盤面の上で並べ合い、規定の移動方法に基づいて交互に駒を進めるゲーム。そうした遊戯は、自分の世界にもあったとフリーレンは言う。

二人は初めて出逢った夜に宿泊した、平泉の古民家にいた。

 

また平泉に戻る理由はなかったのだが、行ってみたいと提案したのはフリーレンの方である。

 

あまりに早い再訪に宿の主人は少し驚いた様子だったが、喜んで受け入れてくれた。将棋は主人が客向けに貸し出しているボードゲームの内のひとつである。

 

「駒の動かし方さえ教えてもらえれば良いよ。正直、こういうゲームは得意だ。師匠以外には負けたことがない。ヒンメルもハイターも張り合いがなくてね。アイゼンはまだマシだったけど、ライバルとは成り得なかった」

 

フリーレンは言葉のとおり、自信ありげな表情で言う。

 

「長命種はこういうゲーム、強そうだよね」

 

とフリーレン側の駒も並べつつ新。

 

「今、私のことを暗に老いぼれと表現したな。長命というなら新もでしょ。負けた方がチョコレートを驕るということで」

 

どうも地雷を踏み抜いてしまったらしい新は大人しく従う振りをするが、すぐに驕る心配はなさそうだと分かった。

新の三戦三勝。途中から新は自軍の飛車角落ちを提案したが、フリーレンは頑なにハンデを受けることを拒否した。

 

四戦目の敗北が濃厚になってきたあたりでフリーレンは盤上の駒たちをめちゃくちゃにして、

 

「ずる」

 

「ずるしてないよ」

 

「私は似たようなゲームを千年やってきたエルフだ。フェルンやシュタルクだってぽこぼこにしたのに」

 

「大丈夫なのか、それ」

 

フリーレンがきちんとフェルンやシュタルクと友好的な関係を築けているのか、新は不安になる。

 

「いくら似ているとはいえ、将棋自体は初めてなんだから仕方がないさ」

 

「だいたい、倒した駒を再利用できるというのが気に入らないんだよね。屍霊術師(ネクロマンサー)みたいでさ」

 

七崩賢の一人『断頭台のアウラ』は、魂を操作する力を持ち、それによって人類側の兵士たちに自身の首を切り落とすよう命令、更にはその死体を用いた「不死の軍勢」を率いたのだという。

 

「不死」とされるのは「死人は二度死なないから」という理由に他ならず、フリーレンもまた断頭の憂き目に遭ったようである。

 

結果的にはアウラ側が断頭する羽目になったらしいが、いきなり話し始めたフリーレンの生々しすぎる経験談に新は吐き気を抑えるのに必死で、その経緯をしっかり聞くことができなかった。

 

「新も自害する?」

 

「ちょっと待って。どういう話だっけ?」

 

「もういいや。こっちに来て」

 

フリーレンは浴衣の帯を解いて、襟を開く。他には何も覆われていない剥き出しの白い肌が覗く。新は慌てて目を瞑るが、刹那の内にしっかり網膜に焼き付いたその裸体は、ぞっとするほどに美しく、蠱惑的だった。そのまま敷かれた布団に横たわる音が聞こえる。

新は少し迷ったが、電気を暗くした。帯に手をかけるが解くのはやめて、浴衣姿のまま同じ布団に倒れ込む。

 

「乗り気じゃなかった?」

 

とフリーレン。

 

「そういうのじゃないけど」

 

と新は咳払いし、

 

「本当に良いのかなって思って」

 

「私は単純に、ゴーレムの身体に興味があるだけだよ」

 

とフリーレンは言う。彼女の魔法に対する知的好奇心を鑑みるに、本当にそうなのかも知れないと新の方では思う。

フリーレンのなだらかな身体の曲線に触れようと新は手を伸ばすが、その意図を勘違いしたフリーレンが新の手を握って、指を絡ませる。

 

「『私たち』の解析は順調?」

 

新は訊ねる。

 

「順調だよ。『図書館』は新が言っていたとおり、ウイチグス呪法典の解析に関する有益な情報を提供してくれた。向こう五年くらいには、新を殺せる魔法が使えるようになると思う」

 

「それは良かった」

 

何かの合図を送信するように、フリーレンは新の手を何度か揉む。

 

「ねえ――もし解析が終わったら、新は死を望む?」

 

フリーレンは訊ねる。

 

「どうだろうね。『図書館』は『死の手段』を引き換えに、君を元の世界に帰還させる『門』を開通するようだから、そうするしかないとは思う。もちろん、君をわざわざこちらの世界に招いたわけだから、利用するだけして帰すつもりもないだろう。『図書館』内部にあった魔道具はいくらでも持って帰って良いそうだよ。きっと君にとっては価値のある代物だ。そして『門』は、フリーレンがこの世界に呼び出された時間に向かって開通するよう計らう。だからフェルンやシュタルクの視点からすれば、君は一瞬消えた後、すぐに同じ場所に出現したように見えるはずだ」

 

「そんなご都合主義的な魔法、本当にできるのかな」

 

フリーレンは訝しげな顔で言う。

 

「『図書館』は事実上どんな魔法も網羅している。ただ、それを発動する魔法使いが不足しているだけでね。今、フリーレンの解析用に『図書館』が魔導書内の当該記述を抽出しているところだ。これもやっぱり数年は要すると思われる」

 

「私が『ゴーレムを殺す魔法』と『元の世界に帰還する魔法』を同時に発動できるようになるとき、契約は完了する、ね」

 

フリーレンの翡翠の目に憂いの影が差す。

 

「でも私に新は、殺せないよ。道標になるって決めたから」

 

「元の世界に帰れないとしても?」

 

「私たちには時間があるよ、新。元の世界における時間経過の問題が解決するのなら、ここに百年いることになろうとも私は大丈夫。その間、新しい魔法使いが生まれる可能性だってある。『図書館』がその存在を世界に向けて開示しさえすれば、解読できる才覚を持った魔法使いは近いうち、必ず現れるよ」

 

「その間、『図書館』の思考がどう変ずるかは何も保障がない。俺ではない『私たち』が死への探求を諦め、生存への道を再検討するかも知れない。そのための新たな意思決定の策定に、君を再び巻き込んでくるかも。『図書館』がアガットを召喚し、俺たちを試したようにね」

 

「あとふたつ、質問が」

 

観測所での会話の中で、フリーレンは訊ねた。

 

「うん。どうぞ」

 

「ひとつめは、ウイチグス呪法典と私の召喚の関わりについて。ふたつめは、アガットを召喚したのがこの『図書館』というのなら、魔族を私たちに仕向けたのは新自身ということにならないか、ということについて」

 

「まずひとつめから答えよう」

 

と新は残りの珈琲を飲み干して言う。

 

「日本で隠遁生活を送っていた俺は、一人の女性と結婚した。俺がただの人間でないことを知りながら、彼女は俺を愛し、俺もそれに応えた」

 

新は左手の薬指にはめられた指輪に視線を落とす。そこに刻まれた年月日を、右手の指先で触れる。

 

「彼女が死に、俺は生まれて初めて、自己の生存に深く疑念を抱いた。ゴーレムは永久に生きるよう設計されている。俺は極めて人間に近い存在だが、この『不死』が彼女と俺の大きな違いだった。俺は観測所へ戻らなくなって以来希薄だった『図書館』との思考共有を行い、ひとつの疑問を『図書館』に提出した。“私たちは死ぬことができるのだろうか”と」

 

平泉を歩いていた新の姿をフリーレンは思い浮かべる。平泉はかつて死後の世界を模した黄金の都市であり、人々はそこに救済を見出したのだという。

仏教では、善人も悪人も線引きしない救済を説いている。では、ゴーレムは? 死ぬことができない土人形が救済を求めるとき、それを想ってくれる存在はちゃんと用意されているのか。

『図書館』はそれが気になった。個の疑問は全体に伝播して、死への探求に『図書館』は思考の舵を切り始める。

 

「人間の言葉で置き換えようとするなら、希死念慮とでもなるだろうね。俺は端的に言えば死を望んだんだ。だから『図書館』は、自殺を検討し始めた」

 

「『図書館』の自殺――」

 

フリーレンは息を呑む。新は頷いて、続ける。

 

「ウイチグス呪法典はかつて『図書館』の中の一冊だったが、俺の製造とほぼ同時期くらいに消失し、『図書館』との思考も切断状態になっていた。今では何となくその理由が分かるよ。ウイチグス呪法典を隠したのは、ラビの研究者たちだろう。ゴーレムの『不死』を実現するために、『図書館』から『図書館』自体の死に関する書物をオフラインにする必要があった」

 

「じゃあ、ウイチグス呪法典ってもしかして――――」

 

フリーレンは新を見上げる。

 

「うん」

 

と、新はそこから続ける言葉の内容に反し、穏やかな表情で応える。

 

「そこには『ゴーレムの殺す魔法』が記されている」

 

『図書館』は長らくウイチグス呪法典の回収に消極的だった。一冊くらいなかったところで、『図書館』の思考にはほとんど影響がない。しかし新の妻が死に、新が自己の存在意義に疑問を抱き自殺を『図書館』に持ちかけた日から、『図書館』はまずウイチグス呪法典の探索に注力した。ラビの封印を掻い潜りウイチグス呪法典は見つかるが、それ以上に肝心なのはそこに記された魔法と、それを発動できる魔法使いである。

この世界に魔法使いは既に存在しない。『図書館』は仕方なく、別の世界から魔法使いを招待することにする。ただの魔法使いではなく、神性文字を理解していなくても魔導書の内容が分かる『解析魔法』の使い手を。

それがフリーレンだった。

 

フリーレンとウイチグス呪法典をセットで新の目前に召喚した『図書館』は、二人が佐多岬観測所へ来ることを期待した。いや、予言した。

 

その予言は実現し、今はウイチグス呪法典に綴られた死の魔法をフリーレンが解析して発動してくれることを望んでいる。

 

それが、今回の旅の――物語の真実。

 

「私が、新を殺す……」

 

「君を自殺のための道具として『図書館』が呼び寄せた事実について、『図書館』を代表して、謝罪するよ。俺もそんな形の『死』は望んでいなかった。

――――ふたつ目の質問に答えようか。アガットを召喚したのは、俺の知らない、“私たち”の意思ということになる。“私たち”は統一的な思考を持っているわけではないんだ。同じ脳の内側で、矛盾した思索を平気で行っている――人間が少なからずそうした思考を保持しているように。魔導書同士は相互に情報提供をすることもあるけど、これらのやり取りは必ずしも平和的なものとは限らない。俺は“私たち”との生存競争に絶えず晒されている。常に互いの思考を把握しようと探り合いを続け、自らの思考には欺瞞工作を仕込んでいる。知っているものを知らないと伝え、知らないものを知っていると伝えるように。魔導書間の力関係は随時変動しており、派閥すらも生み出している」

 

「つまり」

 

フリーレンが後を引き取る。

 

「アガットを召喚したのは、『図書館』に生まれた希死念慮を否定しようとする『図書館』自身の意思、ということなの?」

 

新は頷く。

 

「何かを思考するとき、その思考を棄却しようとする思考が生まれる。有用な思案とはせめぎ合いの中で生じるものだから。死にたいと願う俺が一時的に『図書館』の思考の大半を支配し、ウイチグス呪法典とフリーレンをこの世界に呼び寄せた。だが対抗派閥がその意見に反旗を翻し、フリーレンを殺すために、アガットを呼び寄せた。錬金製の俺を倒せなくても、対抗派閥にとってはフリーレンさえ討ち取れれば良い。戦いに勝ったものが『図書館』の中でより多くのリソースと意思決定権を獲得する。まあ、不意打ちもいいところだったけど、幸い、俺たちは勝つことができた」

 

「死を望んだ新が勝利したこの『図書館』の自殺は決定したということ?」

 

フリーレンの声には困惑の調子が色濃く混ざる。

 

「フリーレンがウイチグス呪法典を解析し、『ゴーレムを殺す魔法』を発動することで、『図書館』は死を迎えることができる――それが『図書館』の期待する未来だ。もちろん、これは取引だ。フリーレンが元の世界に戻れるよう、『図書館』は全力で取り計らってくれる。ウイチグス呪法典の解析に必要な情報だって提供してくれるはずだ」

 

「また別の意思とやらが、アガットのような魔族を私たちに派遣してくるということはないの?」

 

新は首を横に振り、

 

「可能性はあるけれど、そもそも『決闘』は意思決定の中でもかなり乱暴な方だ。それに勝利した俺たちの発言権は『図書館』とて認めざるを得ないだろう」

 

「私が――新を殺す」

 

そう呟くフリーレンの声音は、微かに震えているようにも聞こえる。

 

「君に罪を着せるつもりはないよ」

 

と新はきっぱりと言う。

 

「ラビからの初期命令も強固だ。アガットを召喚した生存派も黙って自死を許すことはないだろう。『図書館』内部の議論は活発化するはずだ。俺もそろそろ、ちゃんと向き合わないとね。でもフリーレンが元の世界に帰れることが、俺にとっての最優先事項だから安心してほしい」

 

「そういうことじゃないよ」

 

フリーレンは感情を抑え込むように、自分の足元に視線を落として呟く。そういうことじゃないと、どこか諦めるように目を閉じて言う。

古民家の部屋の中で、新は強くフリーレンを抱きしめる。

 

「繰り返すようだけど、アガットに勝利した特権がどれくらい有効かは、俺にも分からない。『図書館』の希死念慮が段々と薄れ、現在有力である俺を引きずり降ろそうとする過激な派閥が、『図書館』の思考の中に生じるかも知れない。『決闘』があった以上しばらくは大丈夫だろうけど、百年単位であればそういった問題が起こり得る。だから、フリーレンには可能な限り早めに、元の世界に戻ってほしい」

 

俺の願いだ、と続けようとした新に、フリーレンは強引に唇を重ねた。フリーレンの手が新の首筋に触れる。そのまま顎と頬を経由して、耳に指を滑らせる。新は力を抜いて、フリーレンに身体を委ねる。

 

「じゃあ、一緒に私の世界に来ることはできないの? フェルンやシュタルクもいる。きっと四人で旅ができる」

 

「嬉しいけど、『図書館』を元の世界に残していくわけにもいかない。仮に死を棄却するとしても、この『図書館』の守護と保全が、俺に課せられた責務だから」

 

「その責務を課した者たちはもう生きていない。命令は無効化されて然るべき。それに人間に仕えることがゴーレムの機能ならば、私が新に命令することだって可能なはず。あなたは長い間『図書館』との接続を切っていた。私と一緒にこの世界を出よう。私が新にそれを命ずる」

 

「駄目だよ」

 

新は微笑む。

 

「それは自然の在りようではない」

 

「一緒にいられない理由ではなくて」

 

フリーレンは強く新の胸を叩く。少女の声はかつて聞いたことがないほどに震えており、瞼は痙攣して、翡翠の瞳が湖に映った月のように揺れていた。涙と感情を抑えきれずにいるフリーレンの姿を、呆然と新は見つめる。

 

「一緒にいられる方法を、探さないと」

 

ごめん、と新は呟く。

 

そのまま嗚咽し始めるフリーレンの乱れた髪を、新は何度もなでる。

 

ヒンメルはフリーレンが泣く姿を見たことがあるだろうか。

 

新はそう考え、このような表情をさせてしまったことに酷い罪深さを感じた。

きっと、見たことはなかっただろう。

 

でもヒンメルが去ってしまった日にはフリーレンも涙を流したはずだ。

 

彼女の永劫とも思える人生の中で、ヒンメルたちを差し置いて自分が特別な位置に占められるという気概は微塵もなかったが、せめて、伝えられるべきことは伝えておいた方が良いだろう。

 

世界が終わってしまう前に。

 

「仮に――俺の旅が続かなかったとしても」

 

新は虚空に向けて諳んじるように、想いを伝えた。

 

 

「この夜が終わらないことを願うよ」

 

 

 

 

 

◆ ◆ ◆

 

 

 

 

 

 

早朝の気仙沼から見える海は、昼間に見たときの光景と比べても、空との境界線がより一層希薄だった。

 

星と月、そして闇が光に溶けていく様は、どこか世界の終わりを彷彿とさせる。

フリーレンは港の岸壁の縁に佇み、ぼんやりと日の出を待っているようだった。

 

潮の香りがする東からの風が、門出を惜しむように結わえられていない白銀の髪を後方へと引っ張っていく。

 

フリーレンを探していた新がその背に追いつき、口に咥えているものを見て咎める。

 

「煙草は健康に悪いのに」

 

「ただの煙草じゃないよ」

 

とフリーレンは煙を吹きつつ応える。

 

「『図書館』にあった魔導書の紙片を混ぜた、魔法の煙草。アガットの攻撃を受けても書物が修復されているのを見て、どうにか利用できないかなって思ったんだ」

 

新は溜息をつく。

 

昨夜「魔力の安定供給ができる方法を見つけた」とフリーレンが言っていたが、どうもこれが答えのようだった。

 

喫煙に慣れていないフリーレンは小さくむせつつ続ける。

 

「魔力の補給手段としてはかなり有用なんだよ。飛行魔法程度なら一本で二時間はもつはず」

 

「途中で海に落ちたりしないよね」

 

「もし落ちたら、新が泳いでくれるよね」

 

私はその背中に乗るからさ、とフリーレンは微笑む。

 

いつの間にやら調達した携帯灰皿に吸い殻を捨て、コートのポケットに仕舞うと、

 

「じゃあ、行こうか」

 

「世界中にいくつか離散したままの魔導書の収集ね――その一冊が北欧にあるというのは本当なのか?」

 

新は問う。

 

「『図書館』の見立てによれば、そうなる。新が信じていなくてどうするのさ。ウイチグス呪法典のようにわざわざ座標を特定して召喚するよりも、私たちが直接取りに行った方が早いと思う。その間、『図書館』には私が元の世界に戻るための経路の構築に専念してもらう。おつかいは、私たちの役目だよ」

 

「……フリーレン」

 

またこの世界に長居させてしまうことを思い、新は顔を俯けた。フリーレンはひとつ欠伸をすると、腕を伸ばしつつ、

 

「気にしないで。私たちパーティーが魔王討伐に至るまで、どれだけの寄り道をしてきたか、知ってる?」

 

「知ってるけど、全部は聞いていないと思う。聞かせてほしい。旅の話を」

 

「しょうがないね」

 

とフリーレンは言って、少し笑う。

 

「準備はいい?」

 

新は頷いて、フリーレンの肩に掴まる。体勢が安定するまでは、背負うような形で浮遊することになる。

 

神性文字によって綴られた魔法陣が拓かれる。

 

煙草の煙とともに纏わりついていた魔力が、それに呼応するように淡く輝き始める。杖の先が点灯したのを合図として、地が両足から離れる。

 

周囲はさざ波の規則的な音だけで、平穏だった。

 

――誰一人、二人の旅を見送る者はいない。

 

本当は、嵐が来てほしかった。

 

新はそう思う。

 

土砂降りの方がきっと良かったと。

 

稲妻と虹が、同時に架かってほしかった。

 

一度きりの俺たちの門出を、どうか盛大に祝ってほしかった。

 

「渚というんだ」

 

新は言った。

 

「なぎさ?」

 

「うん。思い出したんだ。夢の中だけど、会うこともできたよ」

 

渚が誰なのか、フリーレンは問わなかった。

 

ただ「そっか」と頷いた。

 

「それならもう、きっと大丈夫」

 

陽が水平線を越え、まばゆい光が二人に差し込む。

 

新は飛行に備え、強くフリーレンの背中を抱きしめた。

 

 

 

 




おしまい。ここまで読んでくださりありがとうございました。

アポクラのほうも更新していくのでよろしくお願い致します。

リメイク前のものもあとでひっそりと載せておきます。
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