大臣の狗ことアンブリッジの存在はホグワーツに影を落としていたが、顕著な影響はみられなかった。ドラコ曰く「クソみたいな」授業をし、そんな授業をするくせに査察なんぞで忙しくしているようだ。
お忙しいのは闇の帝王も同じなようで、ウルペクラが賜った、ありがたくもない印は、じりじりと疼き、時折刺すように痛んだ。印が沈静化するはずもないと予想していたウルペクラは、慌てず騒がず鎮痛剤を服用した。
ああ、レギュラスのように灼き潰すことができれば楽になるのに……と思うことしばしば。考えるだけ仕方がないのだ。印を刻まれた挙げ句に『分霊箱』になっているのはウルペクラだけ。他の死喰い人の例はあてはまらない。
そもそも、印を灼き潰す、肉を抉る、皮を剥ぐなどの強硬手段がとれない身の上である。闇の帝王の器たるウルペクラは、強力な魔法や武器でないと傷つかないのだ。
――うんざりだな
鬱陶しい闇の印。いらないことをした肉の父母……とため息を吐きたくなる。
「ウル、聞いてるのか?」
ここにも鬱陶しいのがいた、とウルペクラは顔をゆがめた。きりっと歯を食いしばり、頑なに天井へ向けていた視線を、嫌々戻す。
「……健全な勉強会開催だろ。よかったな」
囁き声なのは、ここが図書館だからだ。司書は純血だろうと混血だろうとマグル生まれだろうと、己が領域の静寂を乱す者には容赦しない。たとえ盗聴防止をかけていようが、司書の注意を引くような真似はしたくない。
お堅い司書にも良いところはあるが。アンブリッジが図書館に踏み込んできゃんきゃん鳴こうとしたところで、司書によって叩き出されるであろう。現在のホグワーツで安全な場所のひとつなのだ、図書館は。
図書館はあらゆる資料を収集し、提供する。秘密を守り、検閲に否を唱える。
だからこそ、闇の魔術に関する資料が禁書の棚に納められている。扱っているものがものゆえに、禁書の棚に踏み入るのには許可が必要だが。
魔法省の狗が土足で踏み入って、生徒たちの貸し出し記録を要求したところで、司書は鼻で笑うだろう。磨かれた黄金の金属板に刻まれた文言を羽根ペンで示すに違いあるまい。
『我々はあらゆる資料を収集し、提供する。秘密を守り、検閲に否を唱える。この自由が侵害された時、断固として抗う』
末尾に印された名は、ロウェナ・レイブンクロー。図書館の設計やあらゆる仕掛けを考えたのは彼女と言われている。ここは――ホグワーツの図書館は、彼女がつくった叡智の森なのである。
アンブリッジが喚こうがどうにもなるまい。癇癪を起こして本を焼きでもしたら、魔法省の粗暴さが浮き彫りになるだけ。いかにもマグルらしい野蛮さだ、と嘲笑の的であろう。加えて、図書館――司書は高等尋問官の査察の対象ではない。司書にアンブリッジを恐れる理由などないのだ。
「――君にも噛んで……」
「嫌だ」
十回はいかないが、五回目くらいになる「嫌だ」であった。ウルペクラは図書館のあちこちに掲げられている金属板に視線をやった。叡智のレイブンクローよ。どうかこのよく言えば忍耐強く、悪く言えばしつこい阿呆をどうにかしてください。
「学年次席のくせに」
ちっと言わんばかりのセドリック。仕方なしにウルペクラは話を聞いてやった。少々耳を傾けるだけで機嫌をとれるなら安いものだ。
「お前一人で切り回せないとなれば、かなりの人数が?」
「びっくりするくらい来たね。七年生は僕ひとりというわけじゃないし、勉強会の発案はハーマイオニーだ。たまたま、似たようなことを考えていたらしい」
「さすが優等生同士」
十月末のホグズミード行きの日に話し合ってね云々、勉強会をやることになったよ、とぼかした言い方をされていたが、そういった経緯があったとは。
「で、ハーマイオニーはハリーを先生役にしようと」
「……ポッターは嫌がるだろう」
「君、意外と……なんというか、ハリーのことをよくわかってる?」
「見ていたらわかるだろうよ」
「口説き文句みたいだ」
「黙れ」
ウルペクラが優しく接するとしたらダフネとその妹――アストリアに対してくらいだし、口説くとしたらダフネくらいである。いや、何人も口説いてたまるか。ウルペクラは肉の母のような軽い真似などしない。
そんなに「我が君」がお好きなら、さっさと結婚でもなんでもすればよかったのだ。もしかして肉の父――ロドルファスと結婚したのは「我が君」の差し金か? ありえる……とまで想像し、ウルペクラはアルマジロの胆汁を飲んだような気分になった。最高だ。
「で、ポッターが教師……お前も教師だな? 発起人はグレンジャー。いいじゃないか。勝手にやれよ。誰が参加してるのかは漏らすなよ」
「ウルも教師に……ならないなら、これはどうだ?」
セドリックは卓の上に羊皮紙を広げる。まっさらで何の変哲もないように見える。軽く触れ、ウルペクラはくつりと笑った。
「性質の悪い返しだな」
死ぬほどではないが、ある意味死ぬより嫌な呪いである。情報を漏らした瞬間、裏切り者という文言が漏洩者の面に刻まれることになる。
一応、細やかな気遣いをしているようで、積極的に自ら秘密を明かさない限り、呪いは発動しない。良心的な呪いであろう。これを仕掛けた者は、忠誠の術から着想を得たのであろう。
「ここにもう一段仕掛けたいんだ」
「返しで死ぬとか?」
「さらっと言うのやめて」
セドリックが「これだからスリザリンは……」と嘆いた。
怪物の娘、スリザリンの末裔、これだからスリザリンの胤違いの妹を諦めきれないお前が言うか? と切り返したかったが、ウルペクラは堪えた。
「呪いはハーマイオニーが仕掛けた。ただ、最善なのは漏れた瞬間に羊皮紙を消すことだ」
部外者に見えないようにして、呪いも仕掛けているけれど、それでも用心するべきだ、とセドリックは言う。そうして、ウルペクラと羊皮紙を見比べた。
「安心しろ。見えていない」
隠蔽はセドリックか。本当に、ウルペクラには名が見えないのだ。あれとこれとそれを組めばできるかな……と、羽根ペンを手に取る。「勉強会」の誓約書兼名簿を脇に除け、手持ちの羊皮紙を少し切った。さらさらと式を書き付けて、セドリックのほうへ滑らせる。
「ああ……きついな」
「組めるだろう? 少々面倒だが」
「頑張ってみる。君ひょっとして、忠誠の術も組めたりする?」
問いに、ウルペクラは肩をすくめた。できますともとは言わないし、既に組んだこともあるとも言わない。
ウルペクラはレストレンジ本邸の秘密の守り人なのである。間違っても闇の帝王の訪問を受けたくなかったので、夏の間に手を打った。もっとも、闇の帝王はウルペクラが生きてさえいればよし、と放置なのだが。
「あとは場所なんだよなあ……」
セドリックがぼやくように言う。ウルペクラは無視を決め込もうとしたが、沈黙に――期待に満ちたそれに――屈した。
「八階の廊下を往復してみろ」
まさかトム・マールヴォロ・リドルに操られた経験がこのように活かされるとは。現れるのはごちゃごちゃとした、迷宮のような空間。しかし、物を除けて場所をあければ使えるだろうと踏んで、心当たりを告げてやれば、セドリックはにやりとした。
「君に相談してよかった」
「そうかよ」
これ以上厄介事を押しつけられてはたまらない、と席を立つ。何が楽しくてよその勉強会に協力せねばならないのか。十月のホグズミードで集まって楽しくお話し合いをしていた連中など知るものか。
ウルペクラなんてホグズミード行きの日は、印がひっきりなしに痛むせいで寝込んでいたのに。ダフネとの乗馬の約束を反故にしてしまった。今年も必要だろう、と邸から白馬を呼び寄せておいたのだ。
――なにか埋め合わせがいるな
体調が悪いともなんとも言わず「今日はだめになった」と告げたにもかかわらず、ダフネは不満ひとつ漏らさなかった。恐ろしく勘がよいのか、ウルペクラの不調を「印が痛むんでしょう」と見抜いてみせた。『分霊箱』のことは伏せているが――家令夫妻にすら明かしていない――闇の印のことは、ダフネに開示しているのだ。
冬の社交に出ることになるだろうから、そのときになにか贈るか、と結論づける。
ダフネをパートナーにするしかないだろう。社交界に噂が広がっていて、もはやウルペクラ・レストレンジとダフネ・グリーングラスの交際は既成事実となっている。呪われし貴公子と姫君の噂を流したのは誰なのか。
ロクサーヌが送りつけてくる報告によると、呪われしレストレンジの、片腕を喪った薄幸の貴公子――ウルペクラのことだ――を好いて、呪われた血のグリーングラスの姫君が矢も楯もたまらず飛び出した……等々、詳細な物語が構築されている。ほぼ事実なのが最悪だった。
「……外堀が埋められている気がする」
長い長い廊下を行きながら、ウルペクラは顔を覆いたくなった。ダフネに不利益になっているのでは? 彼女の名誉に疵をつけるわけにはいかない。いざとなれば、ウルペクラの「不名誉な」噂を流して身を引くしかあるまい。
胸中複雑なウルペクラは知る由もなかった。
呪われし貴公子と姫君の噂を流したのが、肉の母の従弟、レギュラスだということを。
ウルペクラが一人悩んでいるまさにそのとき、不死鳥の騎士団本部――ブラック別邸にて、ほくそ笑んでいることも、もちろん知らなかった。
「愛しの姫君のためなら、生きてみようかと思うはず……」
絶望は、時に本能を凌駕する。レギュラスとて無謀な行動に出たのは、怒りと絶望ゆえである。今思えば、信じたものが理想の姿をしていなかったからといって、それがどうしたという話なのだが。
ウルペクラは当時のレギュラスに比べれば成熟している。が、実の両親によって捧げられ『分霊箱』に成り果てた事実、その絶望ははかりしれない。
こちらがヴォルデモートの秘密に勘づいていることを、『分霊箱』について知っているということを気取られてはならない。死ぬのならばヴォルデモートを討つ直前が望ましい。わかっていても、ウルペクラが死を選ぶ可能性は十二分にあった。やってできないことはない。悪霊の火が『分霊箱』の破壊手段であることは証明されている……。
ダフネ・グリーングラスの存在は、ウルペクラをつなぎ止める楔だ。けして逃してはならないし、そのためならレギュラスは噂だって流す。
「ろくでなしのせいで、ろくでもない人生を送る必要はないのさ、ウルペクラ」
シリウスだって、レギュラスだって、闇の鎖を引きちぎった。ウルペクラとで、できないはずがなく、その権利がある。
闇の家系に生まれたからといって、不幸を選ぶことはないのだ。
「そう思うだろう?」
室に、レギュラスの囁きが落ちる。が、余人はいない。
夜闇の血筋、獅子座を冠する男の呟きを聞くのは、白くすんなりとした手の中に転がる石。
一点の曇りもない、夜色。
死の秘宝のひとつ――蘇りの石であった。
図書館の云々は、図書館の自由に関する宣言(または憲章)から。