Black Heart Vulpecula   作:扇架

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四十五話

 

 十二月某日――深夜。

 瀟洒な館の一室に、ひょう……という風音が響く。

 壊れた笛のような音は、デルフィーニから漏れ出たもの。途切れ途切れの、掠れた呼吸を繰り返し、玩具のように打ち捨てられている。

 いいや、叩きつけられたのだ。竜の舘が、上等な分厚い敷物を使っていて助かった……とぼうやり思う。

 深い緑の、見事な敷物に飛び散るのは赤い色。

――クリスマスの色だわ

 緑と赤と。くだらない思いつきに、わけもなく笑みがこぼれる。恐怖と緊迫感からの逃避。デルフィーニの感情は、どこか壊れてしまっているのだろう。

 く、く……という幽かなそれは、闇の帝王たる父に届いていない。闇色のローブを纏ったその人は、鏡の前を行ったり来たりするのに忙しい。そうして、時折デルフィーニを踏みつける。乾いた不吉な感触とともに、肋が折れた。

 実の娘に折檻を加え、けれどなんら良心の呵責もなく、父は呟くように言う。

「お前がこれほど手間取るとは」

 我が娘とは思えない、と吐き捨てる。とんだ不良品を掴まされたとばかりに。

「ナギニを貸した。だというのに失敗した? ウィーズリーに牙を突き立てるのを――」

 青白い手が、深い緑の鱗を撫でる。デルフィーニはただただ、その様を見つめていた。実の娘より大蛇のほうを可愛がっているように見える――己が蛇以下の存在だと突きつけられる現実を。

「――止められなかったと」

 なあ、デルフィーニ。

 闇の香が、間近にやってくる。膝を突いた父が、デルフィーニの右手を取る。大きな手がそうっとデルフィーニの細い指を掴み。

「無能が」

 小枝が折れるような音。呻きを漏らすデルフィーニに笑いかけながら、一本、また一本と折っていく……。

「自ら乗り込んで失敗、神秘部の男を操って失敗……此度もしくじった、と」

 今度は左手。ぽきん……と楽が奏でられる。

 ぽきん、ぽきん。

――だって

 唇を動かそうとする。だって。計算外だったんですもの。ナギニが衝動に負けるだなんて。無視するのよ、おやめと言っても聞かなかった……。

 私のせいじゃ、

「申し訳……お父様……」

 喘ぎ喘ぎ言う。面いっぱいに笑みを浮かべ、父はデルフィーニの指を折る。生々しい感触。磔刑の呪文は飽いたのだろう。

「俺様の娘。我が後継」

 どこまでも柔らかな音色。蛇のように密やかに、忍び寄る……魔法の気配。

 じわり、と甘いなにかが染みていく。蕩けそうなぬるま湯に浸りそうになる。だが、断続的な痛みが、デルフィーニを引き戻す。唯一絶対の父親によって注入される支配から、現実へと。痛みを孕む世界へと。

 瞬く。するすると絡みつく繰り糸の存在を、ぼうやりと感知した。

――今

 なにをされそうになった?

 そうっと、背骨を直に氷の指で撫でられたかのよう。ああ、お父様は私を服従させようとしていたのだ……。

「――他の者なら、とっくに始末しているのだ。わかるだろう、デルフィーニ」

 節をつけて、歌うように闇の帝王――名前を呼ぶことすら忌まれ、恐れられる大悪は言う。暗にデルフィーニに強要する。その面は秀麗。が、滲むものは支配欲だ。

 彼にとって、娘は駒なのだ。駒が口答えしてはならず、素直に非を認めろと仰せだ……。

「わたしは、お父様の娘。にもかかわらず、無能で、無知で、どうしようもなく」

「そうだ、デルフィーニ。仕方がない。いままで、まともに育てられてこなかった……孤児のようなものだ」

 躾が必要だ、と闇の帝王は嗤い。

 杖を振り上げた。

 

 慣れたはずの磔刑の呪文。だが、慣れたと思いこんでいただけだった。衣擦れと、靴音とともに去った父を、デルフィーニは見送った。

 両手の指を折られ、肋を折られ、銀色の髪はくしゃくしゃで、頬は腫れ、あたりには血が飛び散っている……惨めさの中で、床に転がって、見ていることしかできなかった。

 ひく、と喉が――胃が痙攣する。耐えきれずに吐き出したもの、その悪臭に包まれてデルフィーニは呻いた。

「生き……延びた」

 震える手を、宙に伸ばす。掴んでくれるひとなどいないのに。

 ちろり、と湿った感触が、デルフィーニの手を――好き勝手に折られた指が醜悪に垂れている――舐めた。

 ナギニ、と呟いた。父の愛する蛇が、つい先刻その真珠の牙を紅に染めた彼女が、デルフィーニを慰めるように。

「お前が折檻されなくて、よかった」

 唇から落ちたのは、蛇の囁き。父から継いだ血に潜む、古い力。

――誇らしいと

 思っていた。大陸のレストレンジで邪魔者扱いされても、白銀の髪と紅の眼を疎まれ、隠せと言われた日々を耐えられたのは、この血のお陰だった。妖精が教えてくれたから……お嬢様は高貴なお方なのだと。『例のあの人』はスリザリンの末裔という噂があると。

 そのうちに、老夫婦が死んだ。デルフィーニをただ生かしただけのくせに、ちっとも愛情をくれなかったくせに、寝台の中で寄り添うようにして息を引き取っていた。

 ああ、随分と弱っていたからついに寿命か、と思うと同時に、この世の不公平というものを実感した。散々デルフィーニを虐げておいて、当人たちは死んで逃げた、と。

 鼻を鳴らし、まだ温かい身体、その頭から残滓を読みとった。

 

 マルフォイ……託された……邪魔……もしかして、不吉……白銀と紅はスリザリン……では『例のあの人』の……なんという……忌まわしい……。

 押しつけられた。血筋が露見すれば身の……破滅……。

 厄介で、呪わしい……。

 

 最期の最期まで、老夫婦はデルフィーニを疎み、呪い、憎んでいた。憎んで、畏れていた。押しつけられた厄介者の出自を、彼らは察していたゆえに。

 『例のあの人』の娘であろう、と。

 そうして、口を噤んだ。

――なぜなら

 闇の帝王に子はいないとされているから。闇の時代が続いていれば、名を馳せることもできたろう。だが、父はいない。デルフィーニは存在してはいけない、呪われた子だった。

 妖精の慰めは本当だった。デルフィーニはスリザリンの末裔。高貴な血筋。しかし『例のあの人』の血縁、傍系ではなく――直系の娘。

 きっとそうだと確信し、老夫婦亡きあとの邸で、静かに時を待った。力を付けた。勉学に励んだ。

 そうして、会いに行った。

 やはり『例のあの人』、闇の帝王はデルフィーニの父であった……。

――求めた父は

 現実とは違った。一年数ヶ月前の己に言ったところで信じないだろうが。

「お父様が好きなのは、お前くらい」

 強く強く縛って、言うことを聞かせることができて。美しいから。人間じゃないから……。

 嫉妬する必要もないから。父は、デルフィーニの持つ色彩を羨んでいる……白銀と紅、スリザリンの血筋の証を。

 だからこそ、デルフィーニを我が娘と言いながら折檻する。デルフィーニを畏れながらも蔑んでいた老夫婦を彷彿とさせた。

 蛇はただ愛でればよい。嫉妬することはなく、父にとってさぞ都合のよい供であろう。

「……お前は、人間だったらしいのに」

 大蛇はひたすらに、デルフィーニの手のひらを舐めている。ひやりと湿った感触が心地よく、わずかな慰めになった。

 ナギニ。お父様が愛玩するもの。姿は蛇。中身もほとんど蛇。だが、わずかな、人間らしい感情の欠片が見え隠れする。

 大蛇はデルフィーニを哀れんでいる……。

 なにをする気力もなく、ただ床に転がる。死にはしない。ナギニがいるから、独りぼっちよりマシだ。

――やがて

 遠慮がちな叩音とともに、衣擦れが近づいてきた。

 ふわりと香る優しい匂い。柔らかな手がデルフィーニの頬を撫でる。

「――お帰りになったわ。湯と食事を用意しています」

 叔母――ナルシッサだ。彼女は流れるように吐瀉物を消失させ、デルフィーニの傷を癒し、着替えさせ、長椅子に横たえる。

「……ありがとう、ございます」

 ぽつんと言えば、灰色の眼がきつく瞑られた。

「宴に出よと仰せよ」

 かすかな憂いと哀れみの響きに、デルフィーニは命令の意図するところを察した。宴。社交。年頃の娘を送り出す意味を。

「――純血と結びつき、子を産めと?」

 ナルシッサの沈黙がなによりも雄弁な肯定であった。

 デルフィーニのひび割れた唇から、軋み、甲高い音の残骸が零れ落ちる。

 素敵。なんて素敵なクリスマスプレゼントだろう?

 神秘部からちっぽけな硝子玉ひとつ奪えないのだから、子でもつくれということだ。デルフィーニの意志もなにもかも踏みにじり、それをよしとしているのだ。

 けらけらと笑うデルフィーニから、ナルシッサが遠ざかる。扉が開いて閉じて、白いるかはひとりぼっち。

 いいや、一匹のともだちがいる。それだけしかいない。

「去年は楽しいクリスマスだったのに」

 ひく、と喉が鳴る。

 三校対抗試合。冬の舞踏会。彼と踊った。

 足を踏んだらごめんねと笑っていた。慣れていないと言いつつ、上手だった。

 君の眼に合わせたんだ、と衣装に青玉の留め飾り(ブローチ)を付けて。少し顔を赤くして。見ているこっちが面映ゆい気持ちになった。

 厄介者の孤児の「デルフィーニ・レストレンジ」ではなく、偽りの「ステラ・ブランシュ」だった日々。

 ままごとのような戯れ。

――このまま

 否応なく、番わされることになるのだろうか。顔のない、ぼうやりした姿の誰かと……。

「私のことなんて、二の次だもの」

 そうよねナギニ? 宴とやらには出るけれど、誰も選べないのだわとかわせばいい……。

 

 囁いて、デルフィーニが大蛇の頭を撫でている裏側で。

 

 血塗れのアーサー・ウィーズリーが聖マンゴに搬送された。

 そうして、冬の社交に着ていく衣装を合わせているデルフィーニに、新たな指令が下された。

 無言者ブロデリック・ボードを暗殺せよと。

 そうして、魔法省の役人、非業の死を遂げる――そんな記事が発表されるのは後のこと。

 確かに無言者は弔われた。ただし、その柩が空であるなんて、デルフィーニは知る由もない。

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