十二月某日――深夜。
瀟洒な館の一室に、ひょう……という風音が響く。
壊れた笛のような音は、デルフィーニから漏れ出たもの。途切れ途切れの、掠れた呼吸を繰り返し、玩具のように打ち捨てられている。
いいや、叩きつけられたのだ。竜の舘が、上等な分厚い敷物を使っていて助かった……とぼうやり思う。
深い緑の、見事な敷物に飛び散るのは赤い色。
――クリスマスの色だわ
緑と赤と。くだらない思いつきに、わけもなく笑みがこぼれる。恐怖と緊迫感からの逃避。デルフィーニの感情は、どこか壊れてしまっているのだろう。
く、く……という幽かなそれは、闇の帝王たる父に届いていない。闇色のローブを纏ったその人は、鏡の前を行ったり来たりするのに忙しい。そうして、時折デルフィーニを踏みつける。乾いた不吉な感触とともに、肋が折れた。
実の娘に折檻を加え、けれどなんら良心の呵責もなく、父は呟くように言う。
「お前がこれほど手間取るとは」
我が娘とは思えない、と吐き捨てる。とんだ不良品を掴まされたとばかりに。
「ナギニを貸した。だというのに失敗した? ウィーズリーに牙を突き立てるのを――」
青白い手が、深い緑の鱗を撫でる。デルフィーニはただただ、その様を見つめていた。実の娘より大蛇のほうを可愛がっているように見える――己が蛇以下の存在だと突きつけられる現実を。
「――止められなかったと」
なあ、デルフィーニ。
闇の香が、間近にやってくる。膝を突いた父が、デルフィーニの右手を取る。大きな手がそうっとデルフィーニの細い指を掴み。
「無能が」
小枝が折れるような音。呻きを漏らすデルフィーニに笑いかけながら、一本、また一本と折っていく……。
「自ら乗り込んで失敗、神秘部の男を操って失敗……此度もしくじった、と」
今度は左手。ぽきん……と楽が奏でられる。
ぽきん、ぽきん。
――だって
唇を動かそうとする。だって。計算外だったんですもの。ナギニが衝動に負けるだなんて。無視するのよ、おやめと言っても聞かなかった……。
私のせいじゃ、
「申し訳……お父様……」
喘ぎ喘ぎ言う。面いっぱいに笑みを浮かべ、父はデルフィーニの指を折る。生々しい感触。磔刑の呪文は飽いたのだろう。
「俺様の娘。我が後継」
どこまでも柔らかな音色。蛇のように密やかに、忍び寄る……魔法の気配。
じわり、と甘いなにかが染みていく。蕩けそうなぬるま湯に浸りそうになる。だが、断続的な痛みが、デルフィーニを引き戻す。唯一絶対の父親によって注入される支配から、現実へと。痛みを孕む世界へと。
瞬く。するすると絡みつく繰り糸の存在を、ぼうやりと感知した。
――今
なにをされそうになった?
そうっと、背骨を直に氷の指で撫でられたかのよう。ああ、お父様は私を服従させようとしていたのだ……。
「――他の者なら、とっくに始末しているのだ。わかるだろう、デルフィーニ」
節をつけて、歌うように闇の帝王――名前を呼ぶことすら忌まれ、恐れられる大悪は言う。暗にデルフィーニに強要する。その面は秀麗。が、滲むものは支配欲だ。
彼にとって、娘は駒なのだ。駒が口答えしてはならず、素直に非を認めろと仰せだ……。
「わたしは、お父様の娘。にもかかわらず、無能で、無知で、どうしようもなく」
「そうだ、デルフィーニ。仕方がない。いままで、まともに育てられてこなかった……孤児のようなものだ」
躾が必要だ、と闇の帝王は嗤い。
杖を振り上げた。
慣れたはずの磔刑の呪文。だが、慣れたと思いこんでいただけだった。衣擦れと、靴音とともに去った父を、デルフィーニは見送った。
両手の指を折られ、肋を折られ、銀色の髪はくしゃくしゃで、頬は腫れ、あたりには血が飛び散っている……惨めさの中で、床に転がって、見ていることしかできなかった。
ひく、と喉が――胃が痙攣する。耐えきれずに吐き出したもの、その悪臭に包まれてデルフィーニは呻いた。
「生き……延びた」
震える手を、宙に伸ばす。掴んでくれるひとなどいないのに。
ちろり、と湿った感触が、デルフィーニの手を――好き勝手に折られた指が醜悪に垂れている――舐めた。
ナギニ、と呟いた。父の愛する蛇が、つい先刻その真珠の牙を紅に染めた彼女が、デルフィーニを慰めるように。
「お前が折檻されなくて、よかった」
唇から落ちたのは、蛇の囁き。父から継いだ血に潜む、古い力。
――誇らしいと
思っていた。大陸のレストレンジで邪魔者扱いされても、白銀の髪と紅の眼を疎まれ、隠せと言われた日々を耐えられたのは、この血のお陰だった。妖精が教えてくれたから……お嬢様は高貴なお方なのだと。『例のあの人』はスリザリンの末裔という噂があると。
そのうちに、老夫婦が死んだ。デルフィーニをただ生かしただけのくせに、ちっとも愛情をくれなかったくせに、寝台の中で寄り添うようにして息を引き取っていた。
ああ、随分と弱っていたからついに寿命か、と思うと同時に、この世の不公平というものを実感した。散々デルフィーニを虐げておいて、当人たちは死んで逃げた、と。
鼻を鳴らし、まだ温かい身体、その頭から残滓を読みとった。
マルフォイ……託された……邪魔……もしかして、不吉……白銀と紅はスリザリン……では『例のあの人』の……なんという……忌まわしい……。
押しつけられた。血筋が露見すれば身の……破滅……。
厄介で、呪わしい……。
最期の最期まで、老夫婦はデルフィーニを疎み、呪い、憎んでいた。憎んで、畏れていた。押しつけられた厄介者の出自を、彼らは察していたゆえに。
『例のあの人』の娘であろう、と。
そうして、口を噤んだ。
――なぜなら
闇の帝王に子はいないとされているから。闇の時代が続いていれば、名を馳せることもできたろう。だが、父はいない。デルフィーニは存在してはいけない、呪われた子だった。
妖精の慰めは本当だった。デルフィーニはスリザリンの末裔。高貴な血筋。しかし『例のあの人』の血縁、傍系ではなく――直系の娘。
きっとそうだと確信し、老夫婦亡きあとの邸で、静かに時を待った。力を付けた。勉学に励んだ。
そうして、会いに行った。
やはり『例のあの人』、闇の帝王はデルフィーニの父であった……。
――求めた父は
現実とは違った。一年数ヶ月前の己に言ったところで信じないだろうが。
「お父様が好きなのは、お前くらい」
強く強く縛って、言うことを聞かせることができて。美しいから。人間じゃないから……。
嫉妬する必要もないから。父は、デルフィーニの持つ色彩を羨んでいる……白銀と紅、スリザリンの血筋の証を。
だからこそ、デルフィーニを我が娘と言いながら折檻する。デルフィーニを畏れながらも蔑んでいた老夫婦を彷彿とさせた。
蛇はただ愛でればよい。嫉妬することはなく、父にとってさぞ都合のよい供であろう。
「……お前は、人間だったらしいのに」
大蛇はひたすらに、デルフィーニの手のひらを舐めている。ひやりと湿った感触が心地よく、わずかな慰めになった。
ナギニ。お父様が愛玩するもの。姿は蛇。中身もほとんど蛇。だが、わずかな、人間らしい感情の欠片が見え隠れする。
大蛇はデルフィーニを哀れんでいる……。
なにをする気力もなく、ただ床に転がる。死にはしない。ナギニがいるから、独りぼっちよりマシだ。
――やがて
遠慮がちな叩音とともに、衣擦れが近づいてきた。
ふわりと香る優しい匂い。柔らかな手がデルフィーニの頬を撫でる。
「――お帰りになったわ。湯と食事を用意しています」
叔母――ナルシッサだ。彼女は流れるように吐瀉物を消失させ、デルフィーニの傷を癒し、着替えさせ、長椅子に横たえる。
「……ありがとう、ございます」
ぽつんと言えば、灰色の眼がきつく瞑られた。
「宴に出よと仰せよ」
かすかな憂いと哀れみの響きに、デルフィーニは命令の意図するところを察した。宴。社交。年頃の娘を送り出す意味を。
「――純血と結びつき、子を産めと?」
ナルシッサの沈黙がなによりも雄弁な肯定であった。
デルフィーニのひび割れた唇から、軋み、甲高い音の残骸が零れ落ちる。
素敵。なんて素敵なクリスマスプレゼントだろう?
神秘部からちっぽけな硝子玉ひとつ奪えないのだから、子でもつくれということだ。デルフィーニの意志もなにもかも踏みにじり、それをよしとしているのだ。
けらけらと笑うデルフィーニから、ナルシッサが遠ざかる。扉が開いて閉じて、白いるかはひとりぼっち。
いいや、一匹のともだちがいる。それだけしかいない。
「去年は楽しいクリスマスだったのに」
ひく、と喉が鳴る。
三校対抗試合。冬の舞踏会。彼と踊った。
足を踏んだらごめんねと笑っていた。慣れていないと言いつつ、上手だった。
君の眼に合わせたんだ、と衣装に青玉の
厄介者の孤児の「デルフィーニ・レストレンジ」ではなく、偽りの「ステラ・ブランシュ」だった日々。
ままごとのような戯れ。
――このまま
否応なく、番わされることになるのだろうか。顔のない、ぼうやりした姿の誰かと……。
「私のことなんて、二の次だもの」
そうよねナギニ? 宴とやらには出るけれど、誰も選べないのだわとかわせばいい……。
囁いて、デルフィーニが大蛇の頭を撫でている裏側で。
血塗れのアーサー・ウィーズリーが聖マンゴに搬送された。
そうして、冬の社交に着ていく衣装を合わせているデルフィーニに、新たな指令が下された。
無言者ブロデリック・ボードを暗殺せよと。
そうして、魔法省の役人、非業の死を遂げる――そんな記事が発表されるのは後のこと。
確かに無言者は弔われた。ただし、その柩が空であるなんて、デルフィーニは知る由もない。