目の前に広がる海は、冬の灰色。ちかり、ちかりと銀の鱗を思わせる輝きが閃く様を、ウルペクラはただ眺めやる。笑いさざめく声や衣擦れ、奏でられる楽、歩を踏む音を聞くともなしに聞きながら、物思いにふけっていた。
どうせウルペクラは主役級の人物ではない。端――船縁周辺がお似合いだ。パートナーのダフネのことは、セドリックに任せているから問題ない。宴も踊りも強いて好きとは言い難く、今日は特に思索にふけりたい気分であった。ただただ、潮騒を聞きたいときはあるのだ。
波に誘われるように、ウルペクラの胸中に諸々の出来事が去来する。他愛もないものから、洒落にならないものまであれこれあった。
前者はドラコのやらかし。正確にはドラコが主導したやらかし。やんちゃで考えなしの従弟殿は、クィディッチ開幕戦、グリフィンドール対スリザリンにおいて華やかな応援団を結成。グリフィンドールを貶める、品のない歌を合唱させた。試合に負けてポッターを侮辱したものだから、大乱闘勃発寸前となった。
結果だけ言うと、乱闘は未遂で終わった。ドラコの言動、行動。なにやらこそこそしているな……と不安に思ったウルペクラは、珍しくクィディッチを観戦していた。聖マンゴの患者を侮辱した件について叱っても「ウルには関係ないだろう!」と生意気を言うものだから、注意を払っていたのだ。「ロングボトム夫妻襲撃事件」の資料を叩きつけたい衝動をこらえ、丁寧に諭したというのに。
ドラコ、反抗期に突入――馬鹿をやらかして波及されたら困る――と観戦したら事件勃発。ウルペクラは観客席から競技場に向けて失神呪文を発射。高所から飛び降り、浮遊呪文を駆使して着地。暴言製造機ことドラコを回収。スリザリンから減点して事をおさめた。あと五秒遅ければどうなっていたことか。グリフィンドールチームによる暴行――双子とポッター……これを利用して、アンブリッジがしゃりしゃり出てきた可能性が高い。実際、競技場にはけばけばしい色の物体がいたのである。観客席から降臨なすって、裁きを下そうとしたに違いない。些細でくだらなくて、品のない騒動はどうにか丸く収まったからよいのだ。
後者は、とウルペクラは思い浮かべ、その途端に頭が痛くなってきた。クィディッチ開幕戦後――冬期休暇直前、夜中に闇の印が痛み、しばらくして報せがやってきた。アーサー・ウィーズリーが襲われた、と。白銀の不死鳥から伝達され、ウルペクラは翌朝、素知らぬ顔で朝食を口にし、素知らぬ顔でグレンジャーを回収し、セドリックと合流――中略――不死鳥の騎士団本部、ブラック別邸に向かったのだ。ポッターと「血を裏切る者」のウィーズリーを逃してしまったアンブリッジが、ポッターの親友であるグレンジャーに目を付けていないとも限らなかった。偽グレンジャーに扮して、ウルペクラが見張りを攪乱している間に、セドリックが付き添い姿くらましでブラック別邸に移動という策をとった。尾行が下手すぎる魔法省職員――アンブリッジの部下であろう――を伸して、ウルペクラは悠々とその場を去った。部下どもの記憶をいじくって「グレンジャーは両親と旅行へ行った」と刷り込んでおいた。クリスマスプレゼントである。
未成年の者たちを取りこぼさず移動完了。ウィーズリー家の家長も無事……で、めでたしめでたし。あとは楽しいクリスマスであればよかったのだ。
「――雑で助かったが」
問題は気づかなければないのと一緒。だが、グレンジャーは気づいたわけだ。
引きずるように連れて行かれた聖マンゴで、アーサーを少し見舞って、ウルペクラは逃げるようにして喫茶室へ駆け込んだ。
当のアーサーは忘れているようだが、ウルペクラにとって彼は恩人である。恩人相手になにを話せばいいのか、未だにわからないでいた。
気を落ち着かせるために珈琲を飲んでいると、グレンジャーとお供二人が問題を抱えて走ってきたのだ。五階の特別病棟で云々――で、ウルペクラは意識を飛ばしかけ――これって悪魔の罠でしょうで唸り――ボードってひとのお見舞いの品らしい――で彼方を見やった。
特別病棟。ロングボトム夫妻が入院中。ウルペクラにとって鬼門。絶対に近づきたくない場所。ボードとはブロデリック・ボードか? 神秘部所属のはずだ……等々を飲み込み、ウルペクラは淡々と対処した。さっさと伝言メモを作成。トンクスを呼び出したのだ。彼女はポッターの護衛隊の一人だった。
ポッター一味とウルペクラはトンクスを迎え入れ、喫茶室の隅で鉢植えを囲んだ。「あちゃー悪魔の罠だわ」とトンクスはあっさり言い「ボードには消えてもらいましょ」と天気の話でもするように続けた。「そうだな」とウルペクラは同意し「仮死毒はあったかな……」とポケットをごそごそした。ポッター一味は震え上がっていた。なにを怯えることがある。建設的かつ庶民を一人救う、崇高な行いについての話し合いだというのに。
かくして、神秘部のボードは死亡した。ウルペクラから小瓶を渡されたトンクスが、迅速に動いたのだ。
癒者に化け、病室に侵入。心拍を極限まで落とし、身体も冷たくする、仮死状態をもたらす毒を投与。元々致命的な損傷を受けた際の時間稼ぎに使われる毒は、ボードを遺体もどきに変えた。
これみよがしに悪魔の罠の鉢植えを置き、冷たくなったボードの顔をゆがませ、首に痕もつけた。
その他諸々、細かい処理はシャックルボルトにお任せである。鉢植えを受け取った癒者と聖マンゴの院長に口止めをするとか、葬儀の手配とか、記事を書かせるとか。シャックルボルト家は名家であり、しかも闇祓い。物腰柔らかで信用を得やすい。人を抱き込むにはうってつけの人材である。闇祓いの仕事も騎士団の仕事――神秘部の見張り――も非番だったらしいのに、悪いことをした。
ウルペクラが動いたのは、仮死状態のボードを移送し、匿うことくらいだ。「誘拐犯と思われるのは癪なので、スクリムジョールにそれとなく一報を入れておいてくださいよ」と言い、引き受けた。闇祓い局長は本業に差し支えなければ騎士団ごっこでもなんでもやっていろという姿勢のようだ。ゆえにトンクスやシャックルボルトがあれこれ動いていようが黙認している。
――本当に
よく働いたと思う。実際に動いたのは懇意の商人だが。レストレンジの領地、いくつかある別邸、あるいは本邸に匿うのはあからさまだった。そこで商人に連絡し――霊安室でウルペクラは告げた。この柩をどこかに隠せ、と。
はいはい若様、と商人は軽く請け合い、こう宣った。姫君のために一式誂えるおつもりですよね? と。商人の懐をあたためろという要求にウルペクラは頷き、冬の社交に向けて駆け回るはめになった……。
――喜んでくれたからいいが
グリーングラス本家に赴き、女傑の許可をとったうえでダフネを誘った。船上の宴に招待されているから、パートナーとして出てほしいと。急な話なので一式はこちらで用意する、嫌ならもちろん断ってくれ等々……。元からダフネを同伴するつもりで、誘おうと思っていたことなどおくびに出さずに、さらりと告げた。仰々しいことになったのは商人のせいである。
ダフネは家を出て、夏の社交に姿を現していなかった。冬の社交も見合わせるつもりのようだった。両親と鉢合わせしたくなかったのだ。躊躇いつつも「喜んで」とウルペクラの手をとってくれた。色とりどりの生地や、煌めく装飾品に顔をしかめられなくてよかった。もはやウルペクラの振る舞いは婚約者に対するものだと言われても仕方がなかったのに。
「ひとまず、恙なく終わりそうだ」
怒濤の数日であった。あまりにたくさん生地を見たせいか、極彩色の悪夢にうなされた。が、船上の宴もどうにか乗り切れば一区切りだ。幸い、ダフネの両親――グリーングラス分家は招待されていない。ウルペクラとダフネはひそひそと噂されながら踊り、観衆の眼にその姿を焼き付けた。呪われし貴公子と姫君、と揶揄するような囁きは次第に止んだ……。
「――レギュラスめ」
己が纏う衣を見やる。闇色に星々をあしらったそれは、レギュラスからのクリスマスプレゼントである。贈り物という名の楯であり、杖。それか枷。
夜闇のブラック家は、星の一族である。ただの黒衣――単に父方の『蠍』と母方の『双狼』を挿しただけならば、注目されない。双系の紋を挿すことはままあるし、黒の衣を纏う者は多い。ましてやウルペクラは母方からブラック家の血を継いでいる。
問題はその黒が、深い深い夜の色をしていること。独特の光沢を帯びたブラック家の秘色――お抱えの職人一族が管理する、ブラック家の高貴なる黒であろうと推察されること――とどめに星がちりばめられた衣の意味を、察しない愚か者は宴に招待されていない。
シリウス・ブラックがウルペクラ・レストレンジを星の王冠の後継者に指名した、と雀どもは囁いていることだろう。
実際はレギュラスの意向なのだが、とウルペクラは眼を細める。本家の兄弟双方に子がいない。このままではお家断絶。現在の当主はシリウスだけれども、落ち着いたらレギュラスに座が譲られる。レギュラスは子をつくるつもりがないようで、傍系のウルペクラを後継としたいそうだ。後継の座が空席なのはよろしくない。とりあえず埋めておきたいらしい。
レギュラスにあなた、肉体年齢は二十代なんですから、婚姻も子づくりもどうにかなるでしょうと言っても無駄。僕の身の上をわかってます? 後継と言っても……先が……と言ったら弾指された。
死に急ぐことはないし、厚意は素直に受け取ることだ、と。
『ブラック家の後継の同伴者になにやら言う者はいないだろう。君のためではなく、グリーングラスの令嬢、呪われし姫君のためだよ。ついでに言えば姫君のご両親が口を出してきても鼻で笑えるだろうよ』
ブラック家の威光は健在だ。有効活用したまえ、と述べられれば、ウルペクラは引き下がるしかなかった。
夜闇の衣はレギュラスの詫びの気持ちなのだと理解していた。どうも、ウルペクラの片腕喪失の一件にレギュラスは思うところがあるらしい。ブラック本家の妖精、レギュラスの「ともだち」がみすみす盗人を邸に入れてしまったせいで『星屑の剣』を持って行かせたせいで、とお考えのようだ。
現にレギュラスは湖底から生還した後、本家に足を踏み入れていないようだ。邸もともだちも打ち捨てている。よほど、かなりご立腹のようであった。シリウスから当主の座を譲られれば、本家に帰還するであろうが――まだ先のことだ。
レギュラスが気にすることではないのに、と吐息をつきかけて、こらえる。彼の掌の上で転がされているような気がする。ダフネを引き合いに出されれば頷くしかないではないか。
純血にとってブラック家の名は重いものだ。王族を自称できるだけの、純血の中の純血。ダフネが無理矢理連れ戻される、レストレンジなんかを選んだなどと陰口を叩かれる、侮辱されるなどの懸念がなくなるのならば、夜闇の黒、星の一族の衣くらい、喜んで身に纏う。仮にウルペクラとダフネが別れたとしても、妙な憶測や品のない噂が「聞こえるように」流される懸念も少なくなるだろう。
ブラック家の血筋はか細くなっており、仮に本家の兄弟が死亡すれば、星の王冠は分家長子ベラトリックスに渡る可能性が高い。万が一のために手を打っておきたいという意図はわかるし、ウルペクラにとって益がある。しかし、ウルペクラは『分霊箱』だ。死ぬべき存在だというのに……いったいどういうつもりなのかレギュラスは。都合よく死なずに済むとでも? おとぎ話じゃあるまいし。ウルペクラが死ねばやはり、星の王冠はベラトリックスが……とまで考えて、歩を踏んだ。こつ、こつ、と硬い音。
ブラック分家長子ベラトリックスの子は一人とされているが、もう一人いるのだと思い出し、眉間に皺を立てた。星の名を冠する子――。
その名を思い浮かべた時、楽の音が息をひそめ、囁きが満ちた。ウルペクラは振り向き――眉間の皺をますます深くした。
「遅れてしまったようだ」
甲板――舞踏場にやってきたのはルシウス――マルフォイ一家。当主たる彼が恭しく先導しているのは黒髪に青い眼の娘。眸に合わせたような青を纏い、その娘は軽く膝を折る。マルフォイ家のご息女、いえご親戚かしら、と誰かが言うのを待っていたかのように、ルシウスはさらりと告げた。
「我が姪――デルフィーニ・レストレンジだ。大陸育ちゆえ不慣れなこともあるだろうが、あたたかく迎え入れていただくことを願っている」
――やられた
ウルペクラは海に飛び込みたくなった。まさか、表舞台に出てくるとは思わないではないか。
堂々と「レストレンジ」を名乗って。