交渉は、まさに地獄のような泥沼の様相を呈していた。
一日、二日、三日……。陽が沈み、再び昇っても、成都の玉の間に設けられた交渉の席は終わる気配を見せなかった。
七日七晩である。
荊州側の諸葛亮と龐統ら天才学士たちは、その圧倒的な知力と語彙を駆使し、猛烈な攻勢で益州側へと牙を剥いた。武力を背景にした恫喝、大義名分による理詰め、恩情をちらつかせた懐柔。あらゆる手札を乱れ打ち、益州を「劉備軍の傘下」へと引きずり込もうとした。
対する益州側。大鴻臚・班竣が率いる実務官僚の集団は、諸葛亮の放つ変幻自在の論理に対し、大漢帝国四百年の歴史で積み上げられた『漢の法と過去の判例』という分厚い盾を構え、のらりくらりとその猛攻を逸らし続けた。
諸葛亮が論理の隙を突こうとすれば、班竣の背後に立つ文官たちが即座に過去の詔を引っ張り出して反撃する。
「その条件は、建武十年の光武帝の詔に反する故、益州としてはお受けできかねる!」
「ならば特例措置として……」
一歩も引かない両陣営。
だが、彼らは神ではない。どれほどの天才であろうと、どれだけ膨大な知識と算段を脳に詰め込んでいようと、『肉体の疲労』には絶対に勝てないのが人間である。
七日が経過した頃には、涼やかな諸葛亮の顔にも濃い疲労の色が滲み、龐統は苛立ちから扇を荒々しく叩きつけるようになっていた。班竣や益州の文官たちもまた、目の下に深い隈を作り、声は掠れ、今にも倒れそうな極限状態にあった。
その死闘が繰り広げられる交渉の席において。
ただ一人、比企景明だけは、全く異質な空気を纏っていた。
彼は、この七日間、まるで「腰が据わっていない」というか、交渉に対して完全に無関心であるかのような怠惰な態度を貫いていた。
目を半開きにし、椅子に深く寄りかかり、ほとんど口を開かない。劉備や諸葛亮から「兵站の観点からはどうか」と意見を求められた時にだけ、「可能です」「不可能です」と、最低限の単語だけで答えるのみ。
自ら論戦を仕掛けることもなく、相手の言葉に反発することもない。
それは、彼が盤上遊戯において最も得意とする『極限の受け』の姿勢であった。
(……喋るな。頭を使うな。カロリーを消費するな)
景明は、己の脳を半ば休眠状態に置き、ただひたすらに『疲労を最小限に抑えること』に徹していた。
天才同士が激突すれば、必ず長引く。長引けば、思考は鈍り、論理に『矛盾』が生じる。その隙が生まれる瞬間まで、景明は呼吸すらも浅くして、自身の精神力と体力を温存し続けていたのである。
そして、ついに八日目の朝が訪れた。
「……故に、益州は我が軍の庇護下に入り、軍の指揮権を統合すべきだ。これ以上、無意味な抵抗を続けるなら……」
諸葛亮の言葉に、かつての鋭さはなく、強引な焦りが混じり始めていた。
「庇護など不要。指揮権の譲渡は、劉璋様を裏切るに等しい暴挙……我らは法に従い……」
班竣の反論もまた、防戦一方となり、言葉の端々から論理性が失われかけていた。
どちらも疲労の限界。
論理と論理が衝突し、身動きが取れず、あとはどちらかが感情的に激昂して席を蹴るしかないという、最悪の『デッドロック』に陥ったその瞬間。
「…………」
七日七晩、ただの置物のように沈黙していた比企景明が、ゆっくりと目を開いた。
彼の瞳には、疲労の色など微塵もない。研ぎ澄まされた氷のような理性が、ギラリと冷たい光を放っていた。
「――無駄な堂々巡りだな、両者とも」
静寂に包まれた玉の間に、景明の低く、よく通る声が響き渡った。
突然口を開いた景明に、諸葛亮と龐統が驚いて振り返る。
景明はゆっくりと立ち上がると、懐から『数枚の真新しい木簡』を取り出し、円卓の中央へと放り投げた。
それは、この一年間、彼が班竣と裏で密かに作り上げてきた『律令の最終法案』であった。
「孔明、龐統。お前たちは劉琦様を上にしたい。大鴻臚殿は、劉璋様を上にしたい。……どちらかが下にならねばならないという『儒教の呪縛』に囚われているから、話が泥沼になるのだ」
景明は、疲労困憊(ひろうこんぱい)の天才たちを冷たく見下ろし、大気を震わせるような声で、一つの『言葉』を両陣営の顔面に叩きつけた。
「ならば、こうすればいい。――『
その言葉に、玉の間の空気が凍りついた。
「一日一月……だと?」
諸葛亮が、掠れた声で呟く。
「そうだ。天に輝く太陽は一つではない。太陽と月、二つの光が天に並び立つことを法によって認めよ」
景明は、卓上の木簡を指差した。
「左の権威として劉琦様を、右の権威として劉璋様を、完全なる対等の『二頭君主』として並立させる。そして、その二つの光の承認のもと……中央で決して動かず、天体のすべてを動かす『
権威と権力の完全なる分離。
それは、中原の常識を根底から覆す、極東の大和国が誇る『律令制』の核であった。
「……この法案ならば、益州は荊州の傘下に入る必要はなく、劉璋様の権威も守られる。同時に、劉備様が全軍の指揮権を握ることで、曹操の脅威に対する強固な防衛陣が完成する。……互いの要求を完全に満たす、唯一の算段だ」
その景明の提案を聞いた瞬間。
「……な、に……?」
上座で様子を見守っていた劉備は、雷に打たれたように目を見開いた。
御簾の奥にいた劉璋も、そしてその傍らに控えていた長男・
益州の首脳陣が驚愕したのも無理はない。
益州を力で飲み込もうとしていた『劉備陣営』の一角から。それも、兵站を司る一介の算段官の口から、益州の尊厳と権威を完全に守り抜き、かつ平和的な統合を実現する『奇跡のような折衷案』が飛び出してきたのだから。
「……比企景明殿。貴殿は、自分が何を言っているのか分かっているのか……ッ!」
龐統が、血走った目で立ち上がり、景明を怒鳴りつけようとした。
しかし、疲労の極致にある彼の頭脳では、景明が提示した完璧な法制の矛盾を瞬時に突き、論破することができなかった。
「大鴻臚殿」
景明は、狼狽する味方の天才たちを完全に無視し、真っ直ぐに班竣の目を見た。
「この法案。益州として、呑むか、呑まないか」
「…………」
班竣は、七日間の疲労で震える手でその木簡を手に取ると。
初めて、その細い目に深々と『してやったり』という歓喜の光を宿し、深く、深く頭を下げた。
「……見事な法案にございます。我が益州、この『一日一月、北辰動天』の理……喜んで、お受けいたしましょう」
八日目の暁。
諸葛亮と龐統が武力と論理で築き上げようとした簒奪の絵図面は。
体力を温存しきった極東の怪物と、西蜀の宰相が裏で結んでいた強固な『法の網』によって、誰一人血を流すことなく、完全に、そして鮮やかにひっくり返されたのである。
極東の算段官が放った『一日一月、北辰動天』という劇薬。
それは、七日七晩にわたる舌戦で膠着していた盤面を、全く想定外の方向へと叩き割るものであった。
「……景明。貴様、我らを差し置いて何という勝手な真似を……ッ!」
我に返った龐統が、目を血走らせて景明を睨みつけた。諸葛亮もまた、羽扇を握る手を白くなるほど震わせ、明確な『殺意』を景明へと向けていた。
彼ら中原の天才学士たちにとって、景明のこの独断専行は明確な「叛逆」である。本来であれば、軍律に照らし合わせて即座にその首を刎ね飛ばしてもおかしくない状況であった。
だが、彼らは景明に指一本触れることができなかった。
「……待て、士元、孔明。景明の申す法案、私は素晴らしいと思う」
他でもない、主君である劉備が、その提案に強く心を打たれ、明確な賛意を示してしまったからである。
血を流して益州を奪うことに内心で強い抵抗を抱いていた劉備にとって、劉璋の権威を傷つけず、かつ曹操に対抗する強固な軍事統合を果たせるこの法案は、まさに『天の配剤』に等しいものだった。
そして、対する益州牧・劉璋もまた。
「我が権威を護りつつ、劉備殿に軍を委ねる……。これならば、益州の民を戦火に巻き込まずに済む。私は、この提案を支持する」
戦を嫌う仁君が、即座にこれを受け入れたのである。
互いの君主が「これでいこう」と頷き合ってしまった以上、配下の軍師たちがどれほど不満を抱えていようと、もはや手出しはできない。
景明の生は、劉備と劉璋という二人の君主の命によって辛うじて保たれていると言っても良かった。
いや、正確には違う。
景明は、『血を流さずに丸く収まるという、両君主が最も望んでいた理想の状況そのもの』を人質に取ったのである。
彼を殺せば、この完璧な法案は破綻し、再び血みどろの簒奪戦へと逆戻りする。天才たちは、完全に手足を縛り上げられ、己の計算外の結末に顔を歪めるしかなかった。
―――
会談は一時休会となり、両陣営は泥のような疲労を癒やすため、一日一夜の深い眠りについた。
翌朝。
丸一日をかけて疲労という名の睡魔を完全に払拭した面々は、再び成都の玉の間に集結していた。
しかし、その場の空気は、七日間のあの殺気立った舌戦の時とは完全に異なっていた。
頭脳がクリアになった諸葛亮と龐統は、この一日一夜の間に、景明が提示した『律令の法案』を隅々まで読み込み、そして絶望的な事実を悟っていたのである。
(……完璧だ。矛盾が一つもない。過去の詔から税の徴収率、人事権の配分に至るまで、すべてが『対等の二頭君主』を前提とした巨大な法として、緻密に計算され尽くしている)
天才たちには分かった。
この法案は、景明が昨日今日で思いついたようなものではない。おそらく数ヶ月、いや一年近くの歳月をかけ、益州の大鴻臚・班竣と裏で結託して組み上げた『国家の設計図』だということに。
自分たちが武力で益州を脅し、恫喝の絵図面を描いている裏で。極東の怪物と西蜀の秀才は、着々とこの『平和的な拘束具』を造り上げていたのだ。
彼らは自らの慢心を恥じると同時に、景明という一人の人間に、底知れぬ恐怖と畏敬の念を抱かざるを得なかった。
「……皆様、よくお休みになられたご様子」
静寂の中、大鴻臚である班竣が進み出た。その手には、両者の合意によって正式に清書された、真新しい木簡の束が握られている。
「これより、荊州・益州両陣営における新たな盟約。すなわち『
班竣の澄んだ声が、玉の間に響き渡る。
そこに並べられた文言は、大漢帝国の歴史に類を見ない、極めて斬新にして強固な条文であった。
―――
一、劉琦様と劉璋様を、共に『対等の権威』として頂点に置く。(一日一月)
一、両君主は直接実務を行わず、軍事および行政の全権を『大都督』へと法的に委任する。
一、初代大都督には、劉備様が就任し、両州の兵站、軍略、人事の最高責任を負う。(北辰動天)
一、両州の関税は撤廃し、物資の流通を一本化する。
一、大都督は、両君主の合議による承認がなければ、新たな法を発布することはできない。
―――
権威と権力を明確に切り離す。
劉備は「益州を奪った逆賊」になることなく、合法的に益州の豊かさと兵力を手に入れることができる。劉璋は「国を奪われた暗君」になることなく、君主としての尊厳と民の平和を守ることができる。
「……文句のつけようがない。我々が喉から手が出るほど欲しかった『益州の全軍指揮権と兵站』が、一滴の血も流さずに手に入ったのだからな」
諸葛亮は、羽扇で顔を隠しながら、もはや降参したとばかりに小さく息を吐いた。
過程こそ完全に自分たちを出し抜くものであったが、結果だけを見れば、荊州陣営にとってこれ以上ないほどの大勝利であった。
「劉璋殿。この法案、確かに承った」
劉備は、立ち上がると、劉璋に向かって深く拝礼した。
「うむ。劉備殿……いや、大都督。西蜀の民の命運と大漢の未来、貴殿のその双肩にお預けする。どうか、頼んだぞ」
劉璋もまた、晴れやかな顔で玉座から立ち上がり、劉備の手を固く握りしめた。
その両君主の固い握手を、玉の間に並ぶすべての者たちが万感の思いで見つめていた。
次男の劉闡は、父の決断と戦を回避できた安堵に目を潤ませている。
班竣は、己の『無血の算段』が完璧に結実したことに、静かに細目を閉じた。
そして、末席に立つ比企景明。
彼は、己の命と全知全能を懸けて組み上げた『律令の檻』が、ついに中原の歴史という巨大な歯車を捻じ曲げ、全く新しい国家システムを誕生させたその瞬間を、感情のない冷徹な瞳でただじっと見届けていた。
かくして。
武力による簒奪でも、卑劣な謀略でもなく。
ただ圧倒的な『法と論理の暴力』によって、荊州と益州は完全に一つの強固な共同体として結びついたのである。
北に覇王・曹操。東に江東の虎・孫権。
彼らを迎え撃つための、中華史上最も堅牢で、最も巨大な『法治国家』が、今ここにその力強い産声を上げたのであった。
―――
あの七日七晩にわたる極限の舌戦と、血を吐くような緊迫感が嘘であったかのように。
成都の宮廷には、和やかで華やかな祝宴の席が設けられていた。
「ささ、大都督。我ら益州が誇る『蜀錦』の数々、そしてこの豊かな山海の珍味、存分に味わってくだされ!」
「おお、これは見事な織物だ。劉璋殿、手厚い歓迎に心より感謝する」
上座では、新たに『二頭の君主』として並び立った劉備と劉璋が、まるで長年の知己のように酒杯を交わし、笑い合っている。荊州の武将たちと益州の文官たちも、長江の魚と蜀の美酒を酌み交わし、戦火を回避できた安堵から、底抜けの笑顔を見せていた。
だが。
その華やかな喧騒の片隅で、ただ一人。比企景明だけは、目の前の豪華な料理に箸をつけることもなく、微かに苦味のある酒を無表情に煽り続けていた。
(……ようやく、終わったか)
極度の緊張感と、己の命と国運をチップにした巨大な博打。
その反動からか、どれほど強い酒を流し込んでも、一向に酔いが回ってこない。ただ、全身の筋肉が泥のように重く、脳の芯が痺れるような疲労感だけが居座っていた。
そんな景明の姿を、卓を挟んだ向かいの席から、鋭く冷ややかな視線で睨み据えている者たちがいた。
諸葛亮と、龐統である。
景明は、その居心地の悪い視線に気づき、小さく息を吐いて目を逸らした。
だが、彼が視線を落としたその瞬間。眼前の光を遮るように、長身の影が二つ、景明の卓の前に音もなく立ちはだかった。
他でもない、諸葛亮と龐統の二人であった。
「……ご
諸葛亮は、羽扇を閉じ、景明の向かいの席へと静かに腰を下ろした。龐統もまた、不機嫌そうな顔のまま、その隣に座る。
「……何か用か。俺は疲れているんだが」
景明は、杯を持ったまま気怠げに答えた。
「『百戦百勝は善の善なる者に非ず。戦わずして人の兵を屈するは善の善なる者なり』。……孫武が遺した『孫子』の兵法において、貴殿の打った算段は、まさに至高の極みと言えましょう」
諸葛亮は、卓の上の酒器を手に取りながら、極めて冷静な声で告げた。
敵を欺くならば、まずは味方から。諸葛亮たちすらも完全に蚊帳の外に置き、裏で法案を練り上げ、結果として一滴の血も流さずに益州の全軍事力と兵站を劉備の手に収めさせた。
兵法という実利の観点から見れば、景明のやり方は完璧であり、二人の天才もそれを「最善」であると論理的には理解し、認めていた。
「だがな、景明」
龐統が、酒杯をドンッと卓に置き、低く唸るような声で睨みつけた。
「兵法としては最上でも、『
……『天に二日なく、民に二王なし』。これは
劉琦様と劉璋殿という『二つの太陽』を天に並立させるなど、大漢帝国四百年の歴史と、儒教の根本を足蹴にする冒涜に他ならん!」
孔明と龐統。彼らは、漢の正統を重んじる
名分を曖昧にし、君主という神聖な存在を「法」という檻で物理的に縛り付けた景明の『律令』は、彼らの思想の根底を揺るがす、極めて悍ましい異端のシステムに映っていたのだ。
「……天に二日なし、か」
景明は、残っていた酒を一息に飲み干すと、空になった杯を卓に置き、真っ直ぐに二人の天才を見据え返した。
その瞳には、彼らの冷気にも劣らない、極めて理知的で冷酷な光が宿っていた。
「ならば、俺は『
景明の口から飛び出したその言葉に、二人の学士の眉がピクリと動いた。
「儒教の言う『仁義』や『君臣の礼』。それは確かに美しい理想だ。だがな、お前たち中原の歴史を見ろ。君主の個人的な『徳』や『感情』という曖昧なものに国のすべてを委ねた結果、君主が少しでも暗愚になれば、必ず外戚や宦官が権力を握り、民が数百万の血を流すことになったではないか」
景明は、卓をコンコンと指先で叩いた。
「だからこそ、俺は『法』で権威と実務を切り離した。法は身分が高い者にも容赦せず、個人的な感情で曲がることもない。……儒教の理想だけで腹は膨れない。
民の腹を満たす堅牢な算段があってこそ、初めてお前たちの言う『礼節』が成り立つのではないか?」
景明の反論は、儒教の空理空論を排し、冷徹な現実主義と経済主義を突きつけるものであった。
「……詭弁ですね。法で君主を縛れば、いずれその法を操る者が国を簒奪する。かつての王莽のように」
諸葛亮が、反論の牙を剥く。
「そうさせないために、法を司る権威を『二つ』に分けたのだ」
景明は、涼しい顔でそれを弾き返した。
「
……お前たちの言う儒の礼節など、乱世という泥沼の中で生まれた後付けの道徳に過ぎん。俺が創り上げたのは、道徳などに頼らなくても、自動的に民の生活が保証され、国が回る『完全なる機関』だ」
静寂が、三人の間の卓に落ちた。
周囲の喧騒とは完全に切り離された、氷点下の思想の激突。
「……なるほど。貴殿のその極東の理屈は、我々中原の学士とは、
諸葛亮は、小さく息を吐き、再び白羽の扇を揺らした。
「全くだ。貴様のその冷たすぎる法治の算段は、いずれ必ずこの国に歪みを生むぞ、景明」
龐統もまた、不快感を隠すことなく言い捨てた。
彼らは、景明の能力と結果は認めたが、その思想的根幹を決して受け入れることはなかった。
中原の「徳と名分」を重んじる儒教の天才たちと、極東の「法とシステム」を重んじる冷徹な実務官僚。
彼らは、互いの有用性を理解しながらも、決して交わることのない水と油であった。
「……歪むなら、歪んだ時にまた帳尻を合わせればいい。それが俺たち事務官の仕事だからな」
景明は、手元の銚子から、新たな酒を己の杯に注いだ。
そして、諸葛亮と龐統に向かって、ほんのわずかに杯を掲げてみせた。
「思想は違えど、曹操という化物を討ち果たすという『大目標』は同じはずだ。……今はただ、この一滴の血も流さずに手に入れた、新たなる時代の幕開けに祝杯を挙げようではないか」
「……ええ。曹操を討つという一点においては、我々は最強の矛と盾でしょう」
諸葛亮もまた、冷ややかな笑みを浮かべて杯を手にした。
儒教の呪縛と、諸子百家の理。
決して分かり合えぬ異質な知性たちが、互いに強烈な警戒と牽制の視線を交わしながら。
西蜀の宮廷の夜は、煌びやかな祝宴の喧騒と共に、深く、静かに更けていくのであった。
―――
表の宮廷で、天才たちが法と儒教の思想をぶつけ合い、天下の行く末を左右する火花を散らしていたその頃。
ドロドロとした権謀術数の渦巻く政治劇のすぐ裏側で、静かに、そしてひっそりと『一つの夫婦』が誕生の時を迎えていた。
劉備の次女・劉靖。
そして、益州牧・劉璋の次男・劉闡
両州を固く結びつけるための同盟の契りと共に、二人の婚姻は目出度く成立した。
どれほど法制が完璧であろうと、互いの裏切りを防ぐための『血の担保』は不可欠である。この政略結婚は、新しい国家システムを機能させるための、最も生々しい楔であった。
新郎新婦のために用意された、豪奢な装飾の施された私室。
部屋の中央に置かれた卓には、祝いの膳が並べられているが、その空間を支配しているのは、極めて重く、ギクシャクとした沈黙であった。
「…………」
「…………」
無理もない。
数日前に「お前はこの者と結婚するのだ」と親から通達され、今日初めて顔を合わせ、そして今日初めて同じ卓で飯を共にしているのだ。
おまけに、劉闡は二十歳の立派な青年であるのに対し、劉靖はまだ十三、四歳という年齢であった。現代の基準はおろか、当時の基準に照らし合わせても、まだ元服すら迎えていない、あどけなさの残る少女である。
六つ以上離れた歳の差は、初対面の二人にとって、どう距離を縮めればよいのか分からない、分厚い壁となっていた。
(……これが、私の夫となる方)
劉靖は、卓の上の料理に視線を落としたまま、静かに己の運命を噛み締めていた。
彼女は聡明な娘である。自分が父・劉備の役に立つための「輿」としてこの西蜀の地へ送られてきたこと、そして、二度と故郷の荊州へは帰れないであろうことを、完全に理解し、受け入れていた。
だが、頭で理解していることと、心が平穏であることは別である。
まだ十代前半の少女が、親兄弟と遠く引き離され、見知らぬ山奥の宮廷で、一度も言葉を交わしたことのない男の妻となる。
(劉琦様の、お傍にいたかった……)
初恋の人の面影と、故郷の長江の風が胸をよぎる。些かどころではない、身を切られるような寂しさと心細さが、彼女の小さな胸を押し潰しそうになっていた。
それでも劉靖は、決して泣き顔を見せまいと気丈に振る舞った。
ここで自分が取り乱せば、父の顔に泥を塗ることになる。彼女は、袖口をギュッと握りしめながら、背筋を伸ばし、大人の女性として振る舞おうと必死に己を律していた。
一方で。
劉闡は、目の前で俯いたまま、箸をつけようとしない若き妻の顔を、しきりにチラチラと盗み見ていた。
(……なんと、可憐で、そして痛々しいお姿か)
劉闡の胸に去来していたのは、政略の道具として彼女を押し付けられたという不満ではなく、純粋な『不憫さ』と『申し訳なさ』であった。
まだ子供と言ってもいい年齢の少女が、無理に大人ぶって、悲しみを必死に堪えているのが痛いほどに伝わってくる。
劉闡は元来、欲がなく、極めて誠実で正義感の強い男である。彼はこの政略結婚を受け入れた時、「決して彼女を政治の道具として扱わず、大切に護り抜く」と固く誓っていた。
しかし。
(どうやって、安心させてあげればよいのだ……?)
生真面目な彼は、女性の扱いに慣れていない。気の利いた言葉一つ掛けられず、ただオロオロと視線を彷徨わせることしかできなかった。いきなり「愛している」などと言えば軽薄に聞こえるだろうし、「同情している」と言えば彼女の気高きプライドを傷つけてしまうかもしれない。
やがて。
部屋の蝋燭が短くなり始めた頃。
劉闡は、意を決したように、一つ小さな咳払いをしてから、ゆっくりと口を開いた。
「……阿珠殿、と。そうお呼びしても、よろしいでしょうか」
「! ……はい、劉闡様」
不意に呼ばれ、劉靖がビクッと肩を震わせて顔を上げる。
「その……。無理に、お召し上がりにならなくとも大丈夫です。長旅の疲れもございましょうし、何より、見知らぬ土地の料理は口に合わないでしょう」
劉闡は、極めて不器用な、しかしひどく優しい声で語りかけた。
「あ、いえ! そのようなことは……妻として、出されたものを残すなど……」
劉靖が慌てて箸を手に取ろうとするのを、劉闡は優しく手を掲げて制止した。
「阿珠殿。私は、貴女がどれほどの覚悟を背負って、この益州まで来てくださったのか……すべて理解しているつもりです」
劉闡は、真っ直ぐに劉靖の瞳を見つめた。
そこに同情や哀れみはなく、ただ一人の人間に対する深い敬意と誠実さだけがあった。
「ここは荊州から遠く離れた山奥の国。言葉も、気候も違い、さぞやご不安でしょう。……どうか、私の前でだけは、無理に『立派な大人の妻』として振る舞おうとなさらないでください」
「劉闡、様……?」
「貴女はまだ、泣きたい時に泣いてよいお歳です。故郷が恋しい時は、恋しいと仰ってください。……私は、気の利いたことは言えませんが、貴女のその寂しさを、隣で共に背負うことだけは誓います。……時間をかけて、少しずつ、夫婦になっていければと、そう思っております」
その、飾り気のない、しかし嘘偽りのない誠実な言葉に。
劉靖の大きく見開かれた瞳から、堪えきれずに一粒の涙がポロリと零れ落ちた。
「あ、申し訳……ございません。私、父上のためにも、立派な妻にならねばと、思って……っ」
慌てて涙を拭おうとする劉靖。
「立派になど、ならなくていいのです。ただ、貴女が心穏やかに笑って過ごせるようになること。それが、私の願いですから」
劉闡は、己の袖から清潔な布を取り出すと、そっと彼女へと差し出した。
「……ありがとうございます」
劉靖は、その布を受け取り、小さくしゃくり上げながら、これまでの緊張の糸が解けていくのを感じていた。
初恋の人とは結ばれなかった。故郷へ帰ることもないだろう。
しかし、自らに与えられた運命の相手が、これほどまでに心優しく、真っ直ぐな青年であったことは、絶望の淵にいた少女にとって、何よりも確かな『救い』であった。
「……あの。劉闡様」
しばらくして、少し落ち着きを取り戻した劉靖が、恥ずかしそうに小さな声で紡ぐ。
「荊州は、大きな川が流れる、とても美しい場所なのです。……いつか、私の故郷のお話を、聞いてくださいますか?」
「ええ、喜んで。……夜はまだ長いですから、ゆっくりと聞かせてください」
劉闡は、今日初めて、少しだけ安心したような温かい微笑みを浮かべた。
外の世界では、権力と法を巡る冷酷な算段が、明日も明後日も休むことなく回り続けるだろう。
だが、この小さな部屋の、歳の差の夫婦の間にだけは。互いの寂しさと不器用さを労り合う、確かな温もりが灯っていた。
政略という鎖で繋がれた二人は、少しずつ、本当に少しずつ互いの心に歩み寄りながら、西蜀の静かな夜更けを共に過ごしていくのであった。