四國志   作:丸亀導師

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日本 3

 

要塞島・済州島を出立した漢の使節団は、日本国の関船を先頭に戴き、ひたすらに東の海——玄界灘を突き進んでいた。

 

巨体を誇る漢の楼船の周囲には、逃亡も勝手な進路変更も許さぬとばかりに、数隻の関船が音もなく随伴している。彼らの進む海路は、風と潮流を完全に知り尽くした日本の星読みたちが弾き出した、最も安全にして最短の「見えない道」であった。

だが、その見えない道の上を歩かされている漢の正使や水夫たちにとって、それは囚人が枷を嵌められて刑場へと引かれていくような、重苦しい息苦しさを伴う航海であった。

 

「……見えよ。北と南の波間に、島影がある」

 

船底から甲板の隙間越しに外を監視していた曹操の間者が、低い声で仲間に囁いた。

海原の彼方、北には対馬、南には壱岐と呼ばれる二つの大きな島が、まるで海に浮かぶ巨大な獣のように薄ぼんやりと横たわっているのが見えた。

 

漢の使節団の多くは、それを単なる無人の島か、漁師の寄り合い所程度にしか見ていなかった。しかし、間者の鋭い眼光は、その島々の高い峰に、微かな、しかし明確な「人工の痕跡」を捉えていた。

 

狼煙(のろし)だ」

 

間者の頭目が目を細めた。

対馬と壱岐の山頂から、細く真っ直ぐな一条の煙が天に向かって立ち昇り、風に流される前に次々と別の峰へと連鎖していくのが見えた。夜であれば火柱となり、晴天であれば青銅鏡の反射となるであろうその合図は、恐るべき速さで東へ、東へと伝達されていく。

 

「我ら使節団の船がここを通過したという事実が、我らが到着するよりも遥かに早く、彼らの都へと伝えられているのだ。……なんという恐るべき伝令の仕組みか」

 

漢の地において、国境の変事を都に伝えるには早馬を乗り継ぐしかない。だが、この大和国は「光」と「煙」という、馬よりも遥かに速い手段を用いて、海という広大な空間を完全に掌握している。

 

間者たちは背筋が粟立つ思いであった。この海には、目に見えぬ巨大な蜘蛛の巣が張り巡らされており、自分たちはすでにその網の中央で身動きが取れなくなっている獲物なのだと痛感させられたのである。

 

玄界灘を越え、さらに東へと進むにつれ、海の色が深い群青から、やや緑がかった豊かな色へと変化し始めた。

 

「船だ。小舟がいくつも見える」

 

沿岸沿いに、チラホラと船の姿が散見されるようになった。それは武装した関船ではなく、漁をする小舟や、物資を運ぶ丸木舟に舷側板を継ぎ足した商い用の船であった。

海鳥の群れが空を舞い、海面には魚の跳ねる波紋が広がる。漢の近海が海賊の恐怖によってすっかり寂れ果てているのに対し、大和の海は活気に満ち溢れ、豊穣の息吹が満ちていた。

そして、水平線の彼方に横たわっていた陸の輪郭が、次第にその圧倒的な全貌を現し始めた。

 

「あれが……東夷の島、だと?」

 

正使の文官は、楼船の甲板から前方を望み、絶望的な溜息を漏らした。

彼らが「島」と呼んで見下していた陸塊は、近づくにつれて視野のすべてを覆い尽くし、左右の果てが見えないほどの巨大な壁となって迫ってきたのだ。南には九州、北には本州と呼ばれる二つの巨大な陸地。それはもはや島ではなく、中原の大地に匹敵する未知の「大陸」が、そこに鎮座しているかのような錯覚すら抱かせた。

 

中華の常識であった「東の果てに浮かぶ小さな未開の島」という認識が、音を立てて崩れ去っていく。

日本国は、決してちっぽけな島国ではない。独自の生態系と広大な領土を持ち、何百万という民を抱える、一個の完成された世界であった。

 

巨大な二つの陸塊は、互いに歩み寄るようにしてその距離を縮め、やがて海を極限まで細く絞り込むような、非常に難解で険しい地形を形成していた。

 

後世において「関門海峡」と呼ばれる、日本国の絶対的な防衛の要衝である。

その時、案内役として漢の楼船に乗り込んでいた日本の水先案内人が、甲板の先頭に立ち、張り裂けるような波音に負けぬ澄んだ声で告げた。

 

「これより関門へと入る。潮のうねりが牙を剥く、極めて狭き道ゆえ、我らの手旗の通りに一分の狂いもなく舵を切れ」

 

大和の船員は、感情を一切交えずに淡々と警告を発した。

 

「この海峡は、一日の内に幾度も潮の流れが逆転し、海底には無数の岩が槍のように突き出ている。少しでも船の腹を晒せば、渦に巻き込まれて竜骨ごと砕け散るであろう。漢の船乗りよ、己の腕を過信せず、ただ我らが示す『理』の通りに進め」

 

その言葉通り、前方の海面はまるで大蛇がのたうつように白波を立て、至る所に大小の渦潮が巻いていた。外洋の荒波とは全く異なる、川の急流のような恐るべき海の姿であった。

漢の水夫たちは青ざめ、必死に帆を畳み、必死の形相で舵輪にしがみついた。先導する関船は、まるで生き物のように渦と渦の隙間を縫って進んでいく。楼船はその背中を、悲鳴を上げる船体の軋み音とともに、冷や汗を流しながら追従するしかなかった。

 

死の恐怖と隣り合わせの海峡を突き進む中、漢の使節団や間者たちの目をさらに釘付けにしたのは、両岸に迫る陸地の「異様な光景」であった。

普通、海峡の沿岸といえば、波に洗われる砂浜や、松林が広がるのどかな風景があるはずだ。

だが、この関門の沿岸に、自然のままの柔らかな浜辺など一つとして存在しなかった。

 

「……なんだ、あれは。陸の境目が、すべて石で埋め尽くされている……!」

 

間者の一人が、慄然(りつぜん)として呻いた。

視界に映る本州と九州の両岸には、波打ち際から陸地に向かって、ところ狭しと「石の防塁(ぼうるい)」が延々と築かれていたのである。それは、隙間なく切り出された巨石を幾重にも積み上げた、高さ数丈にも及ぶ巨大な城壁であった。

さらにその後方、少し内陸に入った場所には、水路と土塁を組み合わせた「水城(みずき)」と呼ばれる要塞群が、一定の間隔で睨みを効かせている。

 

矢倉の狭間からは、済州島で見たのと同じ青銅石弓の砲列が、海峡を通る船を正確に射程に収めていた。

 

「……上陸を、完全に拒絶しているのだ」

 

間者の頭目は、その圧倒的な防衛思想の前に、絶望的なまでの徒労感を感じていた。

もし漢の大軍が数千隻の船を連れてこの海峡に攻め入ったと仮定する。

 

急流と渦潮によって船団の陣形は完全に崩され、身動きが取れなくなる。そこへ、両岸の防塁と水城から雨あられと石弾や矢が降り注ぐ。たまらず兵を陸へ揚げようにも、浜辺は切り立った石の防塁で完全に塞がれており、よじ登る間にすべての兵が串刺しにされるだろう。

 

大和国は、自国の喉元にあたるこの海峡を、自然の地形を利用した上で、途方もない労働力と算術を投じて「絶対に上陸不可能な死地」へと改造し尽くしていたのである。

 

(これほどの長城を、波打ち際に築き上げるとは……。一体どれほどの石を切り出し、どれほどの民を動員すれば、このような狂気の防壁が完成するというのだ。大和の『雑徭』とやらが持つ力は、中原の皇帝の権力すら凌駕している)

 

曹操の間者たちは、竹簡に筆を走らせる手すら止まってしまった。

彼らが書き残すべきは、もはや「敵国の情報」などではない。中華という概念そのものを無に帰す、全く異なる「巨大な絶望の姿」そのものであった。

 

「……抜けました! 潮の流れが、穏やかになります!」

 

漢の水夫の安堵の叫びが響いた。

轟音を立てていた関門海峡の急流が、嘘のように静まった。

漢の楼船は、両岸の鉄壁の防塁と渦潮の脅威をすり抜け、ついに二つの陸塊に抱き抱えられた巨大な内海——「瀬戸内海」へと足を踏み入れたのである。

そこは、外洋の荒波も、刺すような潮風も届かない、鏡のように穏やかな静寂の海であった。

 

しかし、漢の使節団の誰一人として、安堵の息をつく者はいない。なぜなら彼らは、この穏やかな内海こそが、あの圧倒的な防壁に守られた大和国の「柔らかい腹の中」であり、最も逃げ場の無い檻の中であることを、痛いほどに理解してしまったからである。

 

先導する関船の帆が、静かな風を受けて緩やかに膨らむ。

大内裏のある長岡京まで、残す海路はあと半分。海神の理に支配された「完全なる異世界」の奥深くへと、中華の虚栄を乗せた楼船は、音もなく滑るように引きずり込まれていった。

 

 

轟音と死の危険に満ちた関門海峡を抜け、大漢帝国の楼船が滑り込んだ瀬戸内海は、まるで巨大な神の器に満たされた水のごとく、底知れぬ静寂と穏やかさに包まれていた。

波は鏡のように平らであり、荒れ狂う外洋のうねりは完全に遮断されている。

 

しかし、その海は決して「無人の静寂」ではなかった。むしろ、楼船の甲板から周囲を見渡した漢の船員たちは、あまりの光景に絶句し、誰一人として言葉を発することができなかった。

 

見渡す限りの広大な水鏡の上を、大小様々な無数の船が、まるで蟻の行列のように整然と行き交っていたのである。

 

巨大な帆を張り、任那から運ばれた鉄や物資を満載して東へと向かう大型の輸送船。

 

島々の間を縫うように走り、鮮魚や近隣の産物を運ぶ小回りの利く平底の商い船。

 

そして、それらの航路の安全を睨む、鋭い白と黒の意匠を持った関船の群れ。

 

「……信じられん。なんだ、この船の数は」

 

甲板の縁にしがみついていた漢の水夫が、呻くように言った。

漢の都・洛陽を流れる黄河や、南方の長江においても、これほど密集し、かつ秩序立って行き交う船団を見ることは稀である。

 

漢の船員たちは、海の民としての本能的な直感で理解した。

 

大和の船は、自分たち後漢の楼船のような、朱塗りの楼閣や竜の彫刻といった威圧的な装飾を一切持っていない。徹底して無駄を削ぎ落とした白木と黒瓦、そして風の理を計算し尽くした帆の形状。

 

形は違えど、その船の数と規模、そして海流を完全に支配する操船技術は、自分たちの水軍と遜色ない……いや、実用性と航行の洗練度においては、遥かに凌駕している。

 

「東夷の島国などではない……」

 

正使の文官は、力なく首を振った。

 

「ここは、独自の理で完成された、我らと対等以上の『高度な文明』の海なのだ」

 

何百年もの間、中華の歴代王朝は、東の海に住む者たちを「丸木舟で魚を捕るだけの未開の蛮族」と見下してきた。しかし現実は違った。彼らはこの巨大な内海という「絶対的な安全圏」の中で、大陸の干渉を一切受けることなく、静かに、しかし爆発的にその文明と技術を育て上げていたのである。

 

漢の使節団をさらに驚愕させたのは、海の上だけではなかった。

静かな波間を滑る楼船から、わずかに霞む本州や四国の沿岸へ目を凝らすと、そこには大和国の「内臓」とも呼べる、豊かな陸の営みが手に取るように見えた。

緑豊かな山裾を縫うように、海岸線に沿って真っ直ぐな白茶色の線が引かれている。

それは、徹底的に踏み固められ、整備された「街道」であった。

 

「人が……あんなにも歩いている」

 

街道には、豆粒のような人々の姿が途切れることなく続いていた。

大和の民たちは、行商の荷を背負う者、笠を被り足早に旅をする者など様々であったが、誰もが力強く、活気に満ちた足取りで歩を進めている。中原の戦乱から逃げ惑う流民の、あの足を引きずるような絶望の歩みとは全く違う。彼らの歩みには、安全な道と、その先にある確かな生活への信頼が満ちていた。

そして、その街道の豊かさを最も強烈に象徴するものが、使節団の目に飛び込んできた。

 

「おい、見ろ……牛だ。牛が車を引いているぞ!」

 

水夫の一人が指差した先、整備された広い街道を、重厚な木輪を軋ませながら進む「牛車(ぎっしゃ)」の車列が見えた。

中原において、(馬車や牛車)は平原を移動するための重要な手段である。しかし、それはあくまで「車が通れる平坦な道」があることが前提だ。地形が険しい辺境の島国において、車輪を持つ乗り物が実用化されているなど、漢の人間は誰も想像していなかった。

 

車輪を回すためには、広くて平らな、そして雨が降っても泥濘にならない硬い道が必要不可欠である。

牛車が沿岸の街道を隊列を組んで進んでいるという事実は、大和国がこの広大な列島の隅々にまで、膨大な労働力を注ぎ込んで「舗装された巨大な物流網」を完成させているという、何よりの証拠であった。

 

「……恐ろしい国だ」

 

船底の暗がりから沿岸を監視していた曹操の間者(かんじゃ)の頭目は、冷や汗を拭うことすら忘れてその光景を凝視していた。

 

「牛車で大量の物資を陸路で運び、この無数の船で海路を繋ぐ。この国は、海と陸のすべてを使って、一つの巨大な『算盤』を弾き続けているのだ」

 

漢が黄巾の乱で畑を焼き、民を殺し、自らの国の血管を寸断している間に。

大和国は、何百万という民を食わせ、鉄を運び、国力を極限まで高めるための「巨大な血管」を、この瀬戸内海を中心に創り上げていた。

 

空には海鳥が舞い、穏やかな陽の光が瀬戸内海の水面をキラキラと照らしている。

遠くの沿岸からは、(いち)の喧騒や、村々の祭を思わせる微かな太鼓の音が、海風に乗って届いてくることすらあった。

それは、絵画のように美しく、平和で、そして圧倒的に豊かな世界であった。

 

楼船の甲板に立つ漢の正使は、もはや自分が何のためにこの国へ来たのか、その意義を見失いかけていた。

 

船倉に積まれた皇帝の下賜品(かしひん)——絹や金銀細工、経典。

 

それらは、中華の「圧倒的な富と文化」を見せつけるためのものであったはずだ。

だが、この脈打つ街道と、海を埋め尽くす船団を前にして、己の積荷がどれほどちっぽけで虚しいものに思えたことか。

 

「我らは……皇帝陛下は、とんでもない過ちを犯したのかもしれん……」

 

正使は、誰に聞かせるでもなく独りごちた。

 

「あの洛陽の朝廷で、この国の使者が金印を拒絶した理由が、今ならわかる。彼らにとって、我ら大漢帝国の権威など、この巨大な富と理の前には、道端の石ころほどの価値もなかったのだ……」

 

先導する大和の関船は、漢の使節団の驚愕や絶望など一切気にする素振りも見せず、ただ機械のように正確な櫓(ろ)の運びで、東へ、東へと進んでいく。

穏やかな波音と、遠くに見える豊かな人々の営み。

その平和な光景こそが、漢の使節たちにとって、いかなる軍隊の威圧よりも恐ろしい「絶対的な敗北の証明」として、彼らの心を完全に打ち砕いていったのである。

 

瀬戸内海という名の、巨大な箱庭のごとき内海。

その穏やかな水面を滑るように進む漢の楼船の船室で、正使たる文官は、もはや洛陽を出立した時の傲慢な顔を完全に失っていた。

 

彼は、決して愚か者ではなかった。

腐敗した朝廷で阿諛追従(あゆついしょう)を繰り返し、袖の下を使って今の地位を手に入れた俗物ではあったが、それでも大漢帝国の官僚機構を生き抜いてきただけの「知能」と「観察眼」は持ち合わせている。

多島海での圧倒的な操船技術、済州島(さいしゅうとう)の要塞と巨大貿易船、関門海峡の鉄壁の防塁、そしてこの内海を行き交う無数の船と、陸を走る牛車の列。

これらを連続して見せつけられ、「東夷は蛮族である」という中華の常識を未だに信じ続けることができるのは、真性の狂人か白痴だけであった。

 

「……筆を持て。すべてを書き留めるのだ」

 

正使は、震える手で幾人かの書記官を自らの船室に呼び寄せ、厳命を下した。

 

「あの沿岸に見える街道の太さ、行き交う船の数、島々に築かれた狼煙台の配置。そして、港で我々を包囲した兵たちの軍律。一つ残らず、詳細に竹簡に刻み込め」

 

書記官たちは顔を見合わせた。

 

「正使様。そのようなことを報告書に記せば、洛陽の朝廷が何と仰られるか……」

 

書記官の懸念は、正使自身が最も恐れていることであった。

現在の洛陽を牛耳っているのは、宦官たちや、己の権力闘争にしか興味のない廷臣たちである。彼らが信じているのは「世界で最も偉大にして豊かなのは大漢帝国である」という強烈な自己肯定(中華思想)のみ。

 

そこへ、「東の海に、我々を遥かに凌駕する法と兵站を持った恐るべき超大国が存在する」などという報告を持ち帰ればどうなるか。

『狂ったか!』

 

『蛮族の虚仮威(こけおど)しに恐れをなし、漢の威信を汚した腰抜けめ!』

 

そう罵られ、最悪の場合は敵に内通したとして投獄され、一族もろとも処刑されるかもしれない。良くても、辺境の泥地に左遷されて一生を終えることになるだろう。

正使は、ギリッと奥歯を噛み締めた。

 

「……分かっている。十中八九、私は気が触れたと(そし)られるだろう。だがな」

 

彼は、船窓から見える大和の美しい街道を見つめたまま、血を吐くような声で言った。

 

「ここで私が保身に走り、『東夷はただの未開の島国でした』などと嘘の報告をすれば、我が漢王朝は遠からず、必ずこの化け物たちに喰い殺される。……私は俗物だが、中華の歴史に『国を売り渡した大罪人』として名を残すことだけは、御免だ」

 

正使の目に、初めて漢の官僚としての「悲壮な覚悟」が宿った。

彼は自らの破滅を予感しながらも、漢の未来のために、目の前の絶望的な現実を詳細に記録し始めたのである。

奇しくもその頃、船底の暗がりでは、曹操孟徳が放った間者たちもまた、正使と全く同じ情報を竹簡に刻み込んでいた。

皇帝に仕える正使と、次代の覇者に仕える間者。立場の違う両者が、大和国という圧倒的な脅威を前にして、初めて同じ「恐怖と危機感」を共有した瞬間であった。

 

ゆっくりと、しかし確実に東へと進み続けた船団は、やがて瀬戸内海の最奥部へと辿り着いた。

そこは、のちに「大坂(難波)」と呼ばれることになる、広大な湾と陸地が交わる場所であった。

 

「船の歩みを止めよ。これより先、海は終わりである」

 

先導していた日本の関船から、冷徹な声が響き渡った。

漢の楼船が錨を下ろすと、日本の案内役が甲板へと乗り移ってきた。

 

「よくぞここまで波を乗り越えた。だが、そなたらの深く重い船が進めるのはここまでだ。これより先は、我らが用意した川舟に乗り換えてもらう」

 

案内役の言葉に、正使は湾の奥に広がる景色に目を凝らした。

そこには、中原を流れる黄河ほどではないにせよ、途方もなく豊富な水量を湛えた巨大な河口(淀川の河口)が、大地の奥深くから静かに水を吐き出していた。

 

黄河は「暴れ龍」と称されるように、常に濁流が渦巻き、氾濫を繰り返す荒々しい川である。しかし、目の前にあるこの大和の川は違った。豊かな水量を持ちながらも、その流れは恐ろしいほどに穏やかで、澄み切っていた。

水防のための土手が見事に築き上げられ、川という自然すらも、日本の「理」によって完全に制御されていることが見て取れた。

 

「……荷を移せ。下賜品を水に濡らすなよ」

 

正使は、大人しく日本の案内に従った。

巨大な楼船から、喫水の浅い平底の川舟への乗り換え作業が始まる。船に積み込まれていた洛陽の財宝や書物が、次々と日本の川舟へと移し替えられていく。

 

日本の水夫たちが操る川舟は、漢の使節団を乗せ、緩やかな流れを遡上し始めた。

河口を抜け、内陸へと入っていくにつれ、川の両岸には使節団の想像を絶する光景が次々と広がっていった。

 

「見ろ……あんな巨大な車輪が、水で回っているぞ」

 

「川の水を、勝手に高い土手の上へ汲み上げている……!」

 

両岸には、水流の力を利用して自動で水を汲み上げる「巨大な水車」が幾つも設置されていた。

そこから引かれた水は、網の目のように張り巡らされた水路を通って、見渡す限りの広大な水田へと行き渡っている。青々とした稲が風に揺れ、農民たちが泥に塗れながらも笑顔で作業をしている姿が見えた。

中原の農業が天候に左右され、雨が降らなければ直ちに数万人が餓死する脆いものであるのに対し、この国は「水」という自然の恵みを、水車と水路という機械的な機構によって完全に支配し、計画的に富を生産していた。

 

「街道だけではない。川そのものが、この国の血管なのだ」

 

正使は、竹簡を握る手を震わせた。

黄河を遡る旅は、常に盗賊の影に怯え、川面に浮かぶ餓死者の死体を避けて進む地獄の道行きであった。しかし、この大和の川には、餓死者はおろか、乞食の姿すら一人も見当たらない。

行き交う川舟はどれも米や魚を山のように積み、沿岸の村々からは、子供たちの笑い声や、(はた)を織る小気味良い音が絶え間なく聞こえてくる。

 

それは、為政者がどれほど理想を語ろうとも、中原の地では決して実現できなかった「完全なる豊穣と太平」の具現化であった。

 

(この国には、我らのような『特権階級』と『奴隷のような民』という隔たりがない。天皇という神の下に、皆が等しく理(ことわり)の歯車となり、そして皆が等しく豊かに生きている。……勝てるわけがない。こんな国に、今の腐り果てた漢が勝てるわけがないのだ!)

 

川を遡ること数日。

やがて前方の視界が大きく開け、三方を緑豊かな山々に囲まれた広大な盆地が姿を現した。

 

「……着いたぞ」

 

大和の案内役が、舳先に立って前方を指差した。

 

「あれが、我らが日本国の心臓。日出処の天皇(すめらぎ)が座す都……長岡京である」

 

漢の使節たちは、川舟の甲板に立ち上がり、そしてその場に縫い付けられたように動けなくなった。

彼らの眼前に広がっていたのは、中華の都が持つ、城壁で囲まれた土と埃の都とは根本的に異なる、恐るべき「幾何学の結晶」であった。

 

巨大な盆地の平野部を、定規で引いたように真っ直ぐな大路と水路が「碁盤の目」のように完全に分割している。

すべての道幅は統一され、すべての水路は計算された角度で交差している。そこに立ち並ぶ無数の建物は、洛陽のような朱塗りや極彩色の装飾を一切拒絶し、冷徹なまでの「白漆喰の壁」と「黒い瓦屋根」のみで統一されていた。

緑の山々を背景に、白と黒の直線だけで構成された巨大な水都。

それは、人間の感情や歴史の積み重ねによって自然発生的にできた街ではない。ある一つの巨大な「意志」が、大地という一枚の紙の上に、算木と定規を使って強制的に描き出した『究極の人工都市』であった。

 

都の中央、最も高い場所には、他の建物を圧してそびえ立つ巨大な宮城が見える。

その威容は、洛陽の宮殿のような横への広がりではなく、天に向かって鋭く突き刺さるような、白と黒の刃のような美しさを放っていた。

 

「……これが、蛮族の都だと?」

 

正使は、己の足から力が抜け、甲板に膝をつくのを止められなかった。

彼が持ち込んだ「大漢帝国の皇帝からの詔」が、今やただの紙切れよりも軽く感じられた。

中原の英傑たちが血で血を洗い、偽りの権威にすがって殺し合っている間に、東の海の果てでは、理(ことわり)と算術を極めた「絶対的な神の国」が、ついにその完成された姿を大陸からの使者の前に現したのである。

 

漢の使節団を乗せた小舟が大坂の川を遡り、長岡京の中枢たる大内裏へと足を踏み入れた時、彼らを包み込んだのは、物理的な防壁以上の重圧を放つ「静寂」であった。

正使の文官は、大極殿の奥に設けられた接見用の大広間へと通された。

 

その広間は、漢の宮廷のように金箔や瑠璃の瓦で飾られているわけではない。白漆喰の壁と黒く太い柱のみで構成された、極限まで無駄を削ぎ落とした空間である。

 

しかし、その床の全面には、済州島の接見室で見たのと同じ、青々とした藺草(いぐさ)が香る分厚い「畳」が、寸分の隙間もなく敷き詰められていた。

広間の左右には、大和国の政を司る太政官や神祇官の各大臣たちが、黒と白の装束を纏い、等間隔で座している。彼らは皆、背筋を真っ直ぐに伸ばし、自らの膝の上に手を置くという、大和独自の端座の姿勢を崩さない。瞬き一つ、衣の衣擦れの音一つ立てぬその姿は、まるでこの空間を構成する柱や壁の一部であるかのようであった。

 

その静謐な臣下たちの最奥、一段高くなった玉座には、床まで垂れ下がる分厚い御簾(みす)が引かれており、その奥に座す君主の姿を完全に覆い隠していた。御簾のすぐ傍らには、大和の政治の実権を握る右大臣・広庭皇子が、氷のような無表情で控えている。

 

正使は、広間の中央へとゆっくりと進み出た。

かつて洛陽を出立した時に持っていた「中華の使者としての慢心」は、とうの昔に消え失せていた。済州島で見た絶望的な軍事力、関門海峡の防塁、そして瀬戸内海から長岡京に至るまでの、完璧に統制された豊穣なる形。

 

(私は、ただの蛮族に皇帝の威光を見せつけに来たのではない。……中華の歴史上、いまだかつて現れたことのない『対等以上の化け物』の(あぎと)の中に立っているのだ)

 

正使の双肩には、見えない巨大な重圧がのしかかっていた。

ここで自分が一つでも言葉を間違えれば、あるいは彼らの不興を買えば、漢王朝はこの未知なる超大国との間に致命的な亀裂を生むことになる。己の振る舞い一つに、数千万の漢の民の命と、帝国の存亡がかかっている。

 

その凄まじい重圧が、皮肉にも彼の中から俗物的な保身を消し去り、一人の「外交官」としての極限の集中力を引き出していた。

 

正使は、周囲の大臣たちがとっている大和の作法(端座と平伏)を瞬時に観察し、それがこの国の絶対的な礼法であることを理解した。

 

もし彼が己の命と保身だけを考えるならば、直ちにその作法に倣い、畳に額を擦り付けて命乞いにも似た平伏をしたであろう。

だが、彼は大漢帝国の使者である。

ここで大和の作法に屈するということは、漢の皇帝が大和の君主の「臣下」に下るということを意味する。それだけは、中華の官僚としての最後の矜持にかけて、断じて行うわけにはいかなかった。

正使は深く息を吸い込むと、敢えて大和の作法を無視し、漢王朝における最上級の臣従の礼——両手を胸の前で大きく組み、ゆっくりと腰を折って深く頭を下げる「揖譲(ゆうじょう)」の姿勢をとった。

 

「大漢帝国、皇帝陛下の御名代として罷り越しました。東の海の果て、大和の君主におかれましては、我が天子の広大無辺なる御心と、数多の宝物をお受け取りいただきたく存じます」

 

静寂の広間に、正使のよく通る声が響いた。

それは、震えを必死に抑え込み、漢の威厳をギリギリのところで保とうとする、血を吐くような外交の駆け引きであった。

周囲の大臣たちは、作法を違えた正使に対して咎めるような声を上げることはなかった。ただ、感情の読めない冷ややかな視線を、一斉に正使の背中に突き刺すのみである。

 

沈黙が、重く広間にのしかかった。

やがて、分厚い御簾の奥で、衣が微かに擦れる音がした。

 

『——大儀である』

 

御簾の奥から、くぐもった、しかし広間の隅々にまで透き通るように響き渡る声が発せられた。

その声を聞いた瞬間、正使の全身に雷に打たれたような衝撃が走った。

床を見つめていた彼の両目が、限界まで大きく見開かれる。

 

(……なっ……!?)

 

その声は、決して威圧的な野太い声でも、老練な王の嗄(しゃが)れ声でもなかった。

妙に高く、澄み切っており、一切の濁りを持たない声。

 

——それは間違いなく、「若い女」の声であった。

 

正使の脳内で、中原の常識が激しい音を立てて崩壊していく。

これほどまでに冷徹な兵站と軍律を敷き、あの巨大な安宅船の船団を操り、関門海峡に途方もない防壁を築き上げた国の絶対君主。数百万の民を飢えから救い、システムという名の鋼の檻で国を統治している神のごとき存在。

それが、御簾の奥に座す「女」だというのか。

 

(中華において、女が政に口を出せば国が乱れるとされてきた。だが、この国は……この国は、女を頂点に戴きながら、これほどまでの理で動いているというのか……!)

 

喉の奥から悲鳴のような驚愕が漏れ出そうになるのを、正使は奥歯を噛み砕くほどの力でグッと堪えた。ここで動揺を顔に出せば、相手の掌の上で完全に弄ばれることになる。彼は必死に己の表情の筋肉を固め、声なき驚きを腹の底へと呑み込んだ。

 

 

正使が必死に動揺を抑え込んでいると、御簾の奥の女帝——和那比売(わなのひめ)は、感情の起伏を一切感じさせない、冷たい玉を転がすような声で言葉を続けた。 

 

『遠き海を越え、よくぞ参った。——東漢(とうかん)の使者よ』

 

「……ッ!!」

 

その一言は、女帝の声の正体を知った時以上の、鋭く致命的な刃となって正使の精神をえぐり裂いた。

正使は思わず顔を上げそうになり、首の筋肉を硬直させた。

 

東漢(とうかん)

 

現在、中原を支配している彼ら自身は、自らの国を「大漢帝国」と呼び、世界の中心にして永遠不滅の王朝であると自負している。

しかし、大和の女帝は彼らを「東漢(とうかん)」と呼んだ。

それは、かつて長安を都としていた前漢が王莽(おうもう)に乗っ取られて滅び、光武帝が洛陽(東方)に都を移して再興したという「歴史の事実」に基づく、極めて客観的で冷酷な呼称であった。

 

つまり大和国は、漢を「世界の中心」などとは微塵も認めていないのだ。彼らは海を隔てた安全圏から、漢という王朝の興亡、内乱、そして都の移動という歴史を、まるで盤上の駒の動きでも記録するかのように冷徹に観察し、分析し尽くしているのである。

 

(我らは……完全に底を見透かされている。彼らにとって漢とは、絶対的な天の国などではなく、いずれ滅びゆく一つの地方政権に過ぎないのだ……!)

 

正使は、己の国が丸裸にされ、冷たい実験台の上に置かれているようなすさまじい恐怖を覚えた。彼らが持ち込んだ絹も金も、この国にとっては単なる「東漢(とうかん)という衰退国家からの貢ぎ物」という記録の一つに過ぎないのだ。

 

 

戦慄に震える正使を見下ろしながら、御簾の傍らに控えていた右大臣・広庭皇子が、冷たく響く声で女帝の言葉を引き継いだ。

 

「東漢の使者よ。そなたらが持ち越した品々、大王(おおきみ)への貢物として確かに受領いたす。なれど、そなたらの皇帝に、一つ誤りを正していただかねばならぬ儀がある」

 

広庭皇子は、一切の感情を交えぬ目で正使を真っ直ぐに見据えた。

 

「そなたら中原の者は、長きにわたり我らが国を『倭』と呼び、『東夷(とうい)』と蔑んできた。しかし、それはそなたらの狭き中華の理が勝手に定めた幻に過ぎぬ」

 

広庭皇子の声が、広間の空気をさらに一段階、冷たく張り詰めさせた。

 

「大王の御前において、しかと聞き届け、そなたらの皇帝に伝えるがよい。

我らが国は、太陽神・天照大御神の血を引く現人神が統べる国。数と理をもって海を支配し、永遠の豊穣を約束された神の国である。

これより、我らが国号を『日本(にほん)』と称す。日出処(ひいづるところ)の根本にして、あらゆる理の頂きに立つ国である」

 

『日本』

 

その二文字が、長岡京の大広間に静かに、しかし絶対的な重さを持って響き渡った。

それは、かつて中華の皇帝から金印を賜り、その権威の傘下に入ろうとしていた小国が、完全に独立した「別の宇宙」であることを宣言した瞬間であった。

 

「日本の天皇(てんのう))より、東漢(とうかん)の皇帝へ告ぐ」

 

御簾の奥から、再び女帝の澄み切った声が降ってきた。

 

「そなたらの国は今、内なる病によって深く傷つき、血を流している。我ら日本は、海を越えてそなたらの争いに介入するような愚は犯さぬ。なれど、もしその血の穢れを我らが海へ持ち込もうとするならば——」

 

女帝の言葉の裏に、済州島の無数の砲列、関門海峡の要塞、そして千の槍衾の記憶が、正使の脳裏にフラッシュバックした。

 

『——その時は、理のすべてをもって、大陸の土ごと海へ沈めるであろう』

 

正使は、もはや立っていることすらできず、ついにその膝を藺草の畳の上へと崩し落とした。

漢の外交作法など、とうの昔に消し飛んでいた。彼は無意識のうちに、最も深い平伏の姿勢をとり、ガタガタと震える体を抑えつけることしかできなかった。

 

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