旅は、思っていたより静かに始まった。
ノアはもっと何かが変わると思っていた。
フリーレンとフェルンの旅に加わる。
それは、自分にとって大きな決断だった。
ヒンメルの家を離れた。
彼が座っていた椅子を置いてきた。
夕方になるたびに耳を澄ませていた扉の音からも離れた。
なのに、世界は拍子抜けするほど淡々としていた。
朝になればフリーレンが寝癖をつけたまま起きてくる。
フェルンがそれを無言で見て、身支度を急かす。
ノアは焚き火の前で湯を沸かし、保存食を少し柔らかくして、味を整える。
道を歩く。
村に寄る。
依頼を受ける。
フリーレンは魔法が報酬なら、明らかに割に合わない仕事でも受けようとする。
フェルンはそれを止める。
ノアは止めるべきか迷っているうちに、たいてい話が決まっている。
そんな日々だった。
「ノア」
「はい」
「その鞄、本当に便利だね」
フリーレンがノアの持つ小さな鞄を見た。
見た目は革製の普通の鞄だ。けれど中は、内側だけを広げる魔法《インネンラウム》で、見た目よりずっと多くの荷物が入る。
「旅には便利です。調理道具も薬も入りますし」
「魔導書も入る?」
「入りますけど、フリーレンさんの魔導書は入れません」
「どうして」
「入れたら際限なく増えるからです」
「便利なのに」
「便利だから危険なんです」
フェルンが少しだけ頷いた。
「ノアさんの判断が正しいと思います」
「フェルンまで」
「フリーレン様は、魔導書が絡むと自制が効きません」
「そんなことないよ」
「昨日も、銅像の鼻を少し高く見せる魔法を報酬に、丸一日草むしりをしようとしていました」
「珍しい魔法だった」
「不要です」
「ヒンメルなら喜んだかも」
フリーレンが何気なく言った。
ノアの手が止まった。
フェルンも、それに気づいた。
フリーレンは少し遅れて、ノアを見る。
「ノア」
「……大丈夫です」
ノアは笑おうとした。
うまくいかなかった。
「ヒンメルさんなら、たしかにちょっと喜びそうだなって思っただけです」
「うん」
「鼻が高く見える魔法、たぶん本人なら自分の銅像に使いました」
「やりそう」
フリーレンは淡々と言った。
けれど、その声は少しだけ柔らかかった。
フェルンは二人を見ていた。
まだ、フェルンはヒンメルを知らない。
もちろん名前は知っている。
勇者ヒンメル。
魔王を倒した勇者。
多くの銅像を残した英雄。
だが、それは歴史の中の人だ。
ノアにとってのヒンメルは、毎日「ただいま」と言って帰ってきた人だった。
フリーレンにとってのヒンメルは、何十年も経ってからようやく大きさに気づいた人だった。
フェルンは、その間にいる。
知らないけれど、聞いている。
遠いけれど、旅の理由になっている。
その距離が、時々ノアには不思議だった。
数日後、三人はターク地方の村に着いた。
村の入口近くに、勇者ヒンメルの銅像があった。
草に囲まれ、少し汚れている。
それでも、ヒンメルだった。
剣を掲げ、穏やかに笑っている。
ノアは足を止めた。
胸の奥がぎゅっと縮む。
銅像のヒンメルは若い。
旅の頃の姿だ。
ノアの記憶の中にいる、白髪が増え、椅子から立ち上がるときに少し時間のかかったヒンメルではない。
けれど、確かに同じ人だった。
「また銅像ですね」
フェルンが言った。
「ヒンメルさんは、たくさん人助けをしてたから」
ノアは小さく答えた。
「たくさん?」
「はい。魔王討伐と関係ないことも、よくしていました。荷物を運んだり、橋を直したり、迷子を探したり。本人はたぶん、全部覚えていないくらい」
「勇者なのに、ですか」
「勇者だから、だと思います」
言ってから、ノアは少しだけ笑った。
「ヒンメルさんは、そういう人でした」
その村で、フリーレンは薬草家の老婆から依頼を受けた。
銅像を綺麗にする仕事だった。
報酬は、温かいお茶が出てくる魔法。
フェルンは明らかに納得していなかった。
「フリーレン様」
「なに」
「それは必要ですか」
「旅先で温かいお茶が飲める」
「ノアさんが毎朝淹れています」
「魔法で出るのがいい」
「労力に見合っていません」
「魔法は労力じゃ測れないよ」
フェルンはノアを見た。
「ノアさんからも何か言ってください」
「えっ」
ノアは困った。
言うべきことはわかっている。
フェルンが正しい。
だが、フリーレンが魔法を欲しがる気持ちも、もう長く見てきた。
それに、ヒンメルの銅像だった。
綺麗にしたいと思ってしまった。
「……銅像を綺麗にするのは、いいことだと思います」
「ノアさん」
「すみません。でも、ヒンメルさんの像なので……」
フェルンは少しだけ目を伏せた。
責める言葉は来なかった。
「では、仕事としては引き受けましょう」
「いいの?」
フリーレンが聞く。
「ただし、報酬目当てではなく、銅像を綺麗にするためです」
「同じことじゃない?」
「違います」
「そう」
フリーレンはあまりわかっていなさそうだった。
ノアは銅像の前に立った。
無生物の汚れなら、自分の魔法で一瞬で落とせる。
石の表面の性質を書き換えれば、泥も苔も浮かせられる。
けれど、ノアはすぐには魔法を使わなかった。
ヒンメルの銅像に触れるのが、少し怖かった。
若いヒンメル。
旅の途中で何度も見た横顔。
自分を「ノア」と呼んでくれた人。
その形をした石に、自分の魔法をかける。
ただの掃除だとわかっていても、少しだけ息が詰まった。
「ノア」
フリーレンが呼んだ。
「無理なら、普通に洗えばいいよ」
「……いえ、大丈夫です」
ノアは指先を銅像の足元へ向けた。
石そのものには手を入れない。
表面についた泥と苔だけを、柔らかく剥がれやすいものへ変える。
水はフェルンが用意した。
フリーレンは銅像の周りの草を刈った。
フェルンは黙々と磨いた。
ノアも布を持ち、少しずつ汚れを落とした。
不思議な時間だった。
勇者ヒンメルの銅像を、フリーレンとフェルンと一緒に掃除している。
昔の自分なら、遠くから見ることしかできなかった。
魔族の自分が、英雄の像に触れるなど許されないと思っていた。
でも今は、布を持っていた。
ただの石像なのに。
ただの掃除なのに。
ノアは、何度も泣きそうになった。
銅像が綺麗になると、老婆は嬉しそうに目を細めた。
「昔は、この辺りに蒼月草が咲いていたんだよ」
その名を聞いて、フリーレンが顔を上げた。
「蒼月草?」
「ヒンメル様の故郷の花だよ。今ではもう、この辺りでは見なくなったけれどね」
ヒンメルの故郷の花。
ノアはその言葉を胸の中で繰り返した。
フリーレンはしばらく黙っていた。
それから、いつもの調子で言った。
「探そうか」
フェルンがすぐに反応する。
「今からですか?」
「うん」
「どれくらいかかるかわかりません」
「探せば見つかるかもしれない」
「見つからないかもしれません」
「そうだね」
「……それでも探すのですか」
「うん」
フェルンは少し困った顔をした。
ノアには、その気持ちがわかった。
フェルンは人間だ。
時間は有限だ。
見つかるかわからない花のために、何ヶ月も使うことに納得できないのは当然だった。
だが、フリーレンは違う。
五十年を一瞬のように扱うことがある。
その差を、ノアは何度も見てきた。
そして、自分もまた、フェルン側ではない。
三千年生きた魔族で、二十年を短いと思ってしまう存在だ。
だからこそ、ノアは簡単にフリーレンへ賛成できなかった。
「フリーレンさん」
「なに」
「探すのは、いいと思います。でも、フェルンさんには長い時間になるかもしれません」
「うん」
「だから、ちゃんと説明したほうがいいです」
フリーレンは少し考えた。
フェルンは静かにフリーレンを見ている。
「ヒンメルが、昔、私に蒼月草の花冠をくれた」
フリーレンは言った。
それだけだった。
けれど、ノアには十分だった。
フェルンには、まだ少し足りなかったようだった。
「それだけですか?」
「うん」
「それだけのために探すのですか」
「それだけじゃないよ」
フリーレンは銅像を見上げた。
「たぶん、私は忘れていた。ヒンメルの故郷の花のことも、花冠のことも。ここで聞かなければ、思い出さなかったかもしれない」
ノアは息を詰めた。
フリーレンは、思い出すために探すのだ。
ヒンメルを知るために。
あの時、受け取ったものの意味を、今になって確かめるために。
フェルンは少しだけ視線を落とした。
「……わかりました」
「いいの?」
「納得したわけではありません。ただ、フリーレン様にとって必要なことなのだと思いました」
ノアは、ほっと息を吐いた。
「フェルンさん、ありがとうございます」
「ノアさんが礼を言うことですか?」
「たぶん、言うことです」
「そうですか」
それから半年、三人は蒼月草を探した。
フェルンは途中で何度も不満そうにした。
当然だった。
見つかるかわからない花を探して、野山を歩き、古い記録を調べ、薬草家や猟師に話を聞く。
フリーレンは淡々としていた。
ノアは、地形や土の状態を調べた。
生き物には作用しない。
だから、蒼月草そのものを作ることはできない。
だが、土の水はけを整えることはできる。
古い石垣に残った花粉や根の痕跡を、周囲の土から見つけやすくすることはできる。
人間の魔法とは違う方法で、探す手伝いはできた。
「ノアさんの魔法は、本当に変ですね」
ある日、フェルンが言った。
「はい。よく言われます」
「便利です」
「ありがとうございます」
「でも、蒼月草は作れないのですね」
「はい。生きているものは作れません。似た造花なら作れますけど、それは違うと思います」
フェルンは少しだけ頷いた。
「違いますね」
「はい」
ノアは土を指先で崩しながら言った。
「フリーレンさんが探しているのは、花そのものというより、思い出の形だと思うので」
「思い出の形」
「はい。だから、偽物ではだめなんだと思います」
フェルンは遠くで古い文献を読んでいるフリーレンを見た。
「魔法を集めることも、そうなのでしょうか」
「え?」
「フリーレン様は、くだらない魔法も集めます。私はまだ、よくわかりません。でも、それも何かの形なのでしょうか」
ノアは少し考えた。
「たぶん、そうです」
「ノアさんは、魔法が好きですか」
「好きです。怖くもありますけど」
「私は……」
フェルンは言葉を切った。
ノアは待った。
「私は、一人で生きていけるようになるために魔法を覚えました」
「はい」
「別に魔法でなくてもよかったのかもしれません」
その声は、少しだけ揺れていた。
ノアはハイターを思い出した。
ハイターがフェルンを見ていた目。
この子に生きてほしい、と言った声。
「でも、フェルンさんは魔法を選びました」
ノアは静かに言った。
フェルンがノアを見る。
「フリーレンさんも、きっとそう言います」
「そうでしょうか」
「はい。フェルンさんが初めて魔法を使ったとき、ハイターさんは嬉しそうでしたか?」
フェルンは黙った。
その沈黙で、答えはわかった。
ノアは微笑む。
「なら、それも思い出の形だと思います」
フェルンは少しだけ目を伏せた。
「……そうかもしれません」
蒼月草は、半年後に見つかった。
青白い花だった。
月明かりを含んだような、静かな色。
ノアはその花を見た瞬間、言葉を失った。
綺麗だった。
ただ綺麗というだけではない。
ヒンメルが故郷で見た花。
フリーレンに渡した花冠の花。
それが今、目の前に咲いている。
フリーレンは、しばらく花を見ていた。
感動しているようには見えない。
けれど、ノアにはわかった。
フリーレンは今、遠い昔を見ている。
ヒンメルがまだ若く、旅が続いていて、魔王もまだ倒されていなかった頃。
その時に受け取ったものを、今になって見つめ直している。
フリーレンは、花畑を出す魔法を使った。
ヒンメルの銅像の周囲に、蒼月草が咲いた。
村の老婆は泣きそうな顔で礼を言った。
フェルンは静かにそれを見ていた。
ノアは、少し離れた場所に立っていた。
魔族の自分が、勇者の像と故郷の花に近づいていいのか。
いまだにそう思ってしまう。
けれど、フリーレンが振り返った。
「ノア」
「はい」
「来なよ」
ノアは息を呑んだ。
フェルンもこちらを見ている。
逃げる理由は、もうなかった。
ノアはゆっくり近づいた。
フリーレンは蒼月草で小さな花冠を作っていた。
不器用ではなかった。
ただ、少し時間をかけていた。
最後に、それをヒンメルの銅像へかける。
若いヒンメルの石の顔に、青い花が添えられた。
ノアは涙をこらえきれなかった。
「ヒンメルさん、喜ぶと思います」
「そう」
「はい。絶対、すごく格好つけて喜びます」
「それは想像できるね」
フリーレンは少しだけ笑った。
フェルンはその横で、静かに銅像を見上げていた。
その夜、ノアは日記を書いた。
『蒼月草を見つけた。
ヒンメルさんの故郷の花。
フリーレンさんは花冠を作って、ヒンメルさんの銅像にかけた。
フェルンさんは、魔法を選んだ理由を少し考えていた。
造花ではだめだと、私はもう言葉ではわかっていた。
でも、本物の蒼月草がヒンメルさんの銅像の周りに咲いたとき、その理由が胸に落ちた。
思い出は、都合よく作り直すものではなく、時間をかけて見つけ直すものなのだと思う。』
ターク地方を離れた後、三人は交易都市ヴァルムに立ち寄った。
街は賑やかだった。
商人の声。
馬車の車輪。
焼き菓子の匂い。
人の流れ。
ノアはいつもより帽子を深くかぶった。
人が多い場所は苦手だった。
誰かに角を見られるかもしれない。
幻影が揺らぐかもしれない。
魔力に敏い者に気づかれるかもしれない。
フェルンはそれに気づいて、少しだけ歩く位置を変えた。
ノアの横ではなく、斜め前。
人波が直接ノアへぶつからないようにする位置。
ノアは目を瞬かせた。
「フェルンさん」
「何ですか」
「ありがとうございます」
「まだ何も言っていません」
「でも、助かりました」
「……人が多い場所では、ノアさんは挙動が怪しくなります」
「すみません……」
「怪しいと、余計に目立ちます」
「はい……」
厳しい。
けれど、気遣いだった。
ノアは少しだけ笑った。
その日がフェルンの誕生日だと知ったのは、宿に着いてからだった。
フリーレンは忘れていた。
ノアも知らなかった。
フェルンは、別に大したことではありません、という顔をしていた。
だが、あまり大したことではない顔をしすぎていた。
ノアはわかった。
これは、気にしている。
ハイターが生きていた頃は、きっと祝ってもらっていたのだろう。
何気ない食事。
小さな贈り物。
おめでとう、の一言。
そういうものは、失って初めて形がはっきりする。
フリーレンはしばらく考えた後、街へ出た。
ノアもついていった。
「フリーレンさん、何を買うんですか?」
「誕生日の贈り物」
「はい」
「何がいいと思う?」
「私に聞きますか?」
「ノアは人間の生活に詳しいでしょ」
「詳しくなっただけで、得意ではないです……」
二人は店を回った。
杖の飾り。
魔導書。
菓子。
髪紐。
小さな宝石。
フリーレンはどれを見ても、いまいち決めきれない顔をしていた。
「魔導書は?」
「フェルンさんへの贈り物ですよね?」
「うん」
「フリーレンさんが欲しいものではなく?」
「……そうか」
「今、少し迷いましたね」
「迷ってない」
ノアは苦笑した。
やがて、フリーレンは蝶の意匠の髪飾りを手に取った。
派手すぎず、けれど丁寧に作られている。
フェルンに似合いそうだった。
「これ、いいと思います」
「そう?」
「はい」
「じゃあ、これにする」
「ちゃんと選びましたね」
「ノア、私を何だと思ってるの」
「魔法以外に少し不器用な人です」
「ひどい」
「すみません。でも、本当です」
その夜、フェルンは髪飾りを受け取った。
表情は大きく変わらなかった。
けれど、指先が少しだけ止まった。
「ありがとうございます、フリーレン様」
「うん」
「ノアさんも、選ぶのを手伝いましたか」
「少しだけです」
「そうですか」
フェルンはノアを見る。
「ありがとうございます、ノアさん」
「私はほとんど何も」
「それでもです」
ノアは胸が温かくなった。
人に礼を言われることには、まだ慣れない。
けれど、逃げ出したくなるほどではなくなっていた。
少しずつ。
本当に少しずつだ。
その後、三人はグレーセ森林へ向かった。
そこには、かつて勇者一行が封印した魔族がいた。
腐敗の賢老クヴァール。
ノアはその名を聞いただけで、胃の奥が冷たくなった。
フリーレンは平然としている。
フェルンは静かに杖を握る。
ノアだけが、昔の記憶に足を取られていた。
人を殺す魔法。
当時、それは恐怖だった。
防御も困難で、人間の兵士も魔法使いも、あの魔法の前に倒れていった。
ノアは前線には立てなかった。
ただ、ヒンメルたちの背後で震えながら、地面を固め、障害物を作り、負傷者を運ぶ道を整えた。
それだけだった。
それでも覚えている。
クヴァールの魔法の軌跡。
魔力の圧。
消えていく人の命。
そして、それを見ても感情を揺らさない魔族の目。
封印の前で、ノアは深く息を吸った。
「ノア」
フリーレンが呼んだ。
「無理なら後ろにいて」
「はい。後ろにいます。でも、見ます」
「そう」
フリーレンはそれ以上言わなかった。
フェルンがちらりとノアを見る。
「怖いのですか、ノアさん」
「はい」
「それでも見るのですか」
「はい」
「なぜですか」
ノアは少し考えた。
「昔の恐怖が、今どうなったのかを知りたいんです」
フェルンはその答えを、静かに受け止めた。
封印が解かれた。
クヴァールが現れる。
長い眠りから目覚めたはずなのに、その声は落ち着いていた。
まずフリーレンを見る。
次にフェルンを見る。
最後に、ノアを見る。
「魔族がいるな」
ノアの肩が震えた。
「なぜ人間の側に立っている」
その問いは、昔と変わらなかった。
魔族はいつもそう聞く。
同じ言葉を話しているのに、そこには理解しようとする温度がない。
ただ、矛盾を見つけたから確かめるような声。
ノアは拳を握った。
「私は、あなたたちとは違います」
「意味がわからない」
「私も、あなたたちがわかりません」
クヴァールはそれ以上、ノアに興味を示さなかった。
そのことに、少しだけ傷ついた。
同時に、ほっとした。
自分は、魔族から見ても理解不能なのだ。
それなら、まだ人間側に立っていると言えるのかもしれない。
戦闘が始まった。
クヴァールが魔法を放つ。
かつて人類を脅かした、人を殺す魔法。
だが、フェルンはそれを防いだ。
防御魔法が展開され、攻撃を受け止める。
クヴァールの反応がわずかに変わった。
驚きというより、情報の修正。
人類は、もうこの魔法を防げる。
それどころか、使いこなしている。
フェルンが撃つ。
フリーレンが続く。
人を殺す魔法は、一般攻撃魔法になっていた。
ノアは息を呑んだ。
時間は、ヒンメルを老いさせた。
ハイターを死なせた。
フリーレンに涙を覚えさせた。
そして、人類に魔族の魔法を越えさせた。
それは残酷で、強い。
クヴァールは討たれた。
体は残らない。
魔力の粒子となって、空へほどけていく。
ノアは目を逸らさなかった。
吐き気はあった。
怖さもあった。
けれど、昔のように膝から崩れることはなかった。
フェルンは静かに杖を下ろした。
「終わりました」
「うん」
フリーレンは頷いた。
ノアはフェルンに向かって頭を下げた。
「すごかったです」
フェルンは少し意外そうにした。
「ありがとうございます」
「ハイターさんが見たら、きっと喜びます」
フェルンの表情がわずかに揺れた。
「……そうでしょうか」
「はい。絶対に」
ノアは笑った。
「たぶん、徳の高い僧侶らしく、少し台無しなことを言いながら」
「それは、ありそうです」
フェルンはほんの少しだけ笑った。
その笑みは短かった。
けれど、確かにそこにあった。
クヴァール討伐の後、三人はアイゼンを訪ねた。
山奥にある家で、アイゼンは変わらず静かに暮らしていた。
いや、変わらず、ではない。
彼も老いていた。
それでも背筋は伸び、目は鋭く、言葉は少なかった。
「来たか」
「来たよ」
フリーレンはいつも通り答えた。
ノアは頭を下げる。
「お久しぶりです、アイゼンさん」
「変わらんな」
「アイゼンさんは、少し変わりました」
「老いた」
「……はい」
「事実だ」
ノアは苦笑した。
アイゼンは昔からそうだ。
言葉を飾らない。
けれど、その短さの中に妙な安心感がある。
フェルンは礼儀正しく挨拶した。
アイゼンはフェルンを見て、短く言った。
「ハイターの弟子か」
「はい」
「いい魔法使いだ」
フェルンは驚いたように目を瞬かせた。
「ありがとうございます」
その一言だけで、フェルンの背筋が少し伸びた気がした。
ノアはそれを見て、胸が温かくなった。
ハイターはいない。
けれど、ハイターを知る人がフェルンを見ている。
それは、フェルンにとって小さくない意味を持つのだろう。
アイゼンはフランメの手記について話した。
魂の眠る地、オレオール。
死者と対話できるとされる場所。
魔王城のあったエンデ、そのさらに先。
その名を聞いた瞬間、ノアの呼吸が止まりそうになった。
ヒンメルに会えるかもしれない。
そう思った。
同時に、怖くなった。
会って、何を言うのか。
まだ自分は泣いてばかりではないか。
ヒンメルがいない世界を、少しは歩けるようになった。
けれど、胸を張れるほどではない。
まだ、帽子を深くかぶっている。
まだ、人の視線に怯える。
まだ、自分が魔族であることに慣れていない。
そんな自分が、ヒンメルに会っていいのか。
アイゼンはノアを見た。
「行け」
「……私も、ですか」
「ヒンメルに会いたいのだろう」
ノアは何も言えなかった。
「なら行け」
「でも、私は」
「言い訳はいい」
昔と同じ言葉だった。
戦場で震えていたノアに、アイゼンは何度もそう言った。
怖いなら怖いまま動け。
前に出るな。
下がりすぎるな。
役割を果たせ。
その言葉は厳しかった。
でも、ノアを外へ追い出す言葉ではなかった。
そこにいろ、と言われているようだった。
「覚えているだけでは、届かん場所もある」
アイゼンは言った。
「歩け」
ノアは、鞄の中の古いカップに触れた。
ヒンメルが使っていたカップ。
旅に出るとき、どうしても置いていけなかったもの。
「……はい」
ノアは答えた。
フリーレンが言った。
「ノア、行くよ」
その呼び方に、少しだけ胸が温かくなる。
フリーレンはもう、ノアを「魔族」とは呼ばない。
警戒が消えたわけではない。
事実が変わったわけでもない。
それでも、名前を呼ぶ。
それがどれほど自分を支えているか、ノアはたぶんうまく説明できない。
「はい」
ノアは頷いた。
だが、北へ向かう前に、アイゼンはもう一つ話をした。
「俺の弟子を連れていけ」
フリーレンは少し嫌そうな顔をした。
「弟子?」
「戦士だ」
「私たちだけじゃだめ?」
「前衛がいない」
「ノアがいるよ」
「ノアは前衛ではない」
「ですよね」
ノアはすぐに頷いた。
自分が前に出ると、たいてい怖くて固まる。
魔法で壁を作ることはできるが、剣や斧を持って敵の前に立つこととは違う。
アイゼンは続けた。
「リーゲル峡谷近くの村にいる。名はシュタルク」
「強いの?」
「素質はある」
「その言い方、少し不安だね」
「臆病者だ」
アイゼンは淡々と言った。
ノアは少しだけ目を瞬かせた。
臆病者。
その言葉が、自分の胸にも刺さった。
「でも、強い」
アイゼンは付け加えた。
「臆病なのにですか」
フェルンが尋ねる。
「臆病だから、生きている」
アイゼンは短く答えた。
ノアは、その言葉をしばらく忘れられなかった。
リーゲル峡谷へ向かう道中、フリーレンは寄り道をした。
竜の巣を見つけたのだ。
紅鏡竜。
赤い鱗を持つ、巨大な竜。
巣の奥には魔導書があるらしい。
フェルンは冷静に言った。
「フリーレン様」
「なに」
「危険です」
「うん」
「なぜ近づくのですか」
「魔導書があるから」
「予想通りの答えで困ります」
ノアは岩陰から紅鏡竜を見た。
体が大きい。
鱗は硬そうで、ただの魔法では通りにくいだろう。
生き物には、ノアの魔法は直接作用しない。
鱗の性質を書き換えることもできない。
せいぜい地面や空気を変え、動きを鈍らせる程度だ。
「私の魔法とは相性が悪いです」
「ノアでも?」
フリーレンが聞く。
「はい。生き物そのものには作用しません。足場を変えることはできますけど、この大きさだと止めきれるかどうか」
「じゃあ、やめようか」
「今、やめる選択肢ありました?」
「魔導書は惜しいけど、前衛なしで竜は面倒」
フェルンがじっとフリーレンを見た。
「面倒で済む話でしょうか」
「命に関わる面倒」
「それは危険と言います」
紅鏡竜が動いた。
地面が揺れる。
ノアは反射的に空気の壁を作った。
しかし、竜の一歩だけで周囲の風圧が変わる。
見つかる前に退くべきだ。
フリーレンも同じ判断だった。
「逃げよう」
「はい」
「はい!」
三人は全力で逃げた。
フェルンは珍しく息を切らしていた。
ノアも膝に手をつく。
フリーレンだけが平然としているように見えて、少しだけ髪が乱れていた。
「竜、怖いですね……」
ノアが呟く。
「ノアさんでも怖いのですか」
フェルンが聞いた。
「怖いです。私はだいたい何でも怖いです」
「そうでしたね」
「納得が早い……」
フリーレンは遠くの村を見る。
「あの村に、アイゼンの弟子がいるんだよね」
その村では、シュタルクという青年が英雄のように扱われていた。
村人たちは、彼が紅鏡竜から村を守っているのだと言った。
広場には、彼の噂話が溢れていた。
強い戦士。
村の守り手。
竜を前にしても逃げない男。
ノアは感心した。
「すごい人なんですね」
フリーレンは首を傾げる。
「アイゼンの弟子だからね」
フェルンは村人の話を聞きながら、少し疑うような目をしていた。
「実際に会ってみないとわかりません」
「フェルンさんは冷静ですね」
「噂は大きくなるものです」
「私は噂になる前に隠れるので、よくわかりません……」
シュタルクは、村の外れにいた。
赤い髪の青年。
大きな斧。
鍛えられた体。
しかし、表情はどこか頼りなかった。
フリーレンを見るなり、彼は明らかに動揺した。
アイゼンの弟子。
強い戦士。
村の英雄。
その印象とは違っていた。
フェルンは無言で見ている。
ノアは、少しだけ親近感を覚えてしまった。
この人、たぶん怖がりだ。
シュタルクは強がっていた。
しかし、紅鏡竜の話になると視線が泳いだ。
村人たちの期待が重くのしかかっているのが、ノアにもわかった。
彼は逃げていない。
けれど、戦えてもいない。
その中間で、ずっと立ち尽くしている。
それは、とても苦しい状態だ。
夜、ノアは村の外れでシュタルクが一人、斧を振っているのを見た。
岩壁に向かって、何度も。
一振りごとに空気が震える。
地面がわずかに揺れる。
恐ろしく強い。
それなのに、彼の背中は怯えていた。
「見てたのかよ」
シュタルクが振り返る。
ノアはびくりとした。
「す、すみません。覗くつもりは」
「いや、別にいいけど」
シュタルクは気まずそうに斧を下ろした。
「あんた、フリーレン様たちの連れだよな」
「はい。ノアです」
「魔法使い?」
「一応、そうです」
「一応って何だよ」
「自分でも分類に困っていて……」
シュタルクは少しだけ笑った。
その笑い方に、無理がある。
ノアはしばらく迷ってから言った。
「怖いんですか」
シュタルクの顔が強張った。
言ってから、ノアは慌てた。
「すみません! 責めているわけではなくて、私も怖がりなので、何となく」
「……あんたも?」
「はい。私はだいたい怖いです。人間も怖いです。魔族も怖いです。竜も怖いです。フリーレンさんもちょっと怖いです」
「最後は言っていいのか?」
「本人にも言ってます」
シュタルクは少しだけ肩の力を抜いた。
「俺はさ、逃げたんだよ」
その声は小さかった。
「師匠からも。兄貴からも。村からも。ずっと逃げてきた。なのに、この村の人たちは俺を英雄みたいに扱う」
「はい」
「俺、まだ竜と戦ってないんだぜ」
「はい」
「本当は、明日にも逃げたい」
ノアは黙って聞いた。
彼は今、たぶん答えが欲しいわけではない。
自分の弱さを、誰かに言いたかったのだ。
ノアにも覚えがあった。
森の谷で、誰にも言えずにいた三千年。
ヒンメルの前で初めて泣きながら自分を信じるなと言った日。
弱さは、隠し続けると腐っていく。
言葉にすると、少しだけ形が変わる。
「逃げたいと思っていても、ここにいるんですね」
ノアは言った。
「逃げてないから偉い、みたいな話か?」
「いえ。私には、偉いかどうかはわかりません。でも、ここにいるのは事実です」
シュタルクは黙った。
「私も、逃げたいと思いながら、旅をしています」
「何から?」
「自分が魔族だということから」
シュタルクが目を見開いた。
ノアは帽子のつばを少しだけ押さえた。
「怖いなら、怖いまま動け、とアイゼンさんに言われました」
「師匠が?」
「はい。私が戦場で震えていた頃に」
「……あの人、誰にでも同じこと言うんだな」
「たぶん、大事なことだからだと思います」
シュタルクは遠くの紅鏡竜の方角を見た。
「怖いまま、か」
「はい。怖くなくなるのを待っていたら、私はたぶん一生動けません」
「それ、わかる気がする」
ノアは少しだけ笑った。
「それに、シュタルクさんは強いと思います」
「俺が?」
「はい。斧を振る音が怖いくらいでした」
「褒め方下手だな」
「すみません……」
シュタルクは小さく笑った。
今度は少しだけ自然だった。
翌日、シュタルクは紅鏡竜と向き合った。
ノアは後方にいた。
フリーレンとフェルンも見ている。
村人たちは遠くから祈るようにしていた。
紅鏡竜が咆哮する。
空気が震える。
ノアの足がすくむ。
逃げたい。
あんなものに向き合いたくない。
だが、前にいるシュタルクはもっと怖いはずだった。
それでも、逃げなかった。
シュタルクの体は震えていた。
でも、斧を握っていた。
紅鏡竜が動く。
その瞬間、シュタルクも動いた。
速い。
重い。
臆病者だと自分で言った青年の一撃が、竜の鱗を砕いた。
戦いは激しかった。
ノアは余計な手出しをしなかった。
ただ、シュタルクの足場が崩れそうになった瞬間だけ、岩盤の性質をわずかに変えて支えた。
竜そのものには触れない。
これはシュタルクの戦いだ。
奪ってはいけない。
フェルンも魔法を構えたまま、撃たなかった。
フリーレンも見ていた。
シュタルクは紅鏡竜を討った。
巨体が崩れる。
地面が揺れる。
村から歓声が上がった。
シュタルクはしばらく動かなかった。
それから、ようやく息を吐いた。
「……勝った」
ノアは小さく呟いた。
フリーレンが言った。
「うん。強いね」
フェルンも静かに頷いた。
「はい」
ノアは胸の奥が熱くなるのを感じた。
怖くても、戦える。
震えていても、前に出られる。
それを、シュタルクは見せた。
それはノアにとっても、他人事ではなかった。
紅鏡竜の巣から魔導書を回収したフリーレンは満足そうだった。
フェルンは竜の死体よりも、フリーレンが魔導書を気にしていることに呆れていた。
シュタルクは村人たちに囲まれて困っていた。
ノアは少し離れた場所で見ていた。
すると、シュタルクがこちらへ来た。
「昨日の話」
「はい」
「少し、助かった」
ノアは目を瞬かせた。
「私が、ですか」
「ああ。怖いままでもいいって思えた」
「それは、アイゼンさんの言葉です」
「でも、あんたが言った」
ノアは返事に困った。
シュタルクは少し照れくさそうに頭をかいた。
「俺、行くよ。フリーレン様たちと」
「はい」
「師匠に言われたんだろ。前衛が必要だって」
「はい。私も前衛ではないので……」
「見ればわかる」
「そんなにですか」
「そんなに」
ノアは少し落ち込んだ。
シュタルクは笑った。
「でも、後ろにいてくれるなら助かる。足場、支えてくれただろ」
「気づいていたんですか」
「そりゃな。踏ん張れた」
「邪魔じゃありませんでしたか」
「助かった」
ノアは、また泣きそうになった。
「泣くほどか?」
「すみません。礼を言われるのに慣れていなくて」
「変な人だな」
「よく言われます」
シュタルクは少し考え、それから照れくさそうに視線を逸らした。
「……ノア」
「はい」
「次も、怖くなったら言えよ。俺もたぶん怖いから」
ノアは一瞬、返事を忘れた。
初めて、名前で呼ばれた。
ヒンメルがそうしたように。
フリーレンが今そうするように。
シュタルクが、少しだけ仲間として距離を詰めるみたいに。
「……はい」
ノアは小さく笑った。
「そのときは、一緒に怖がりましょう」
「それでいいのかよ」
「たぶん、私たちはそのほうが動けます」
「変な理屈だな」
「よく言われます」
夕方、村を出ることになった。
シュタルクは村人たちに見送られていた。
フェルンは少し距離を置いてそれを見ている。
フリーレンは魔導書を鞄に入れている。
ノアは、道の先を見た。
フリーレン。
フェルン。
シュタルク。
そして自分。
旅の形が少し変わった。
前衛が加わった。
臆病で、でも強い戦士。
ハイターの弟子であるフェルン。
ヒンメルを知ろうとしているフリーレン。
魔族である自分を抱えたまま、ヒンメルが守った世界を歩こうとしているノア。
北へ向かう道は長い。
魔王城のあった地、エンデ。
そのさらに先、魂の眠る地オレオール。
そこに何があるのかは、まだ誰にもわからない。
けれど、歩く理由は増えていく。
ノアは鞄の中の古いカップに触れた。
ヒンメルさん。
仲間が増えました。
少し怖がりだけど、とても強い人です。
たぶん、あなたなら笑って手を差し出したと思います。
「ノア」
フリーレンが呼んだ。
「行くよ」
「はい」
フェルンが歩き出す。
シュタルクがその後ろを、少し緊張した顔でついていく。
ノアは帽子を押さえ、空を見上げた。
春の谷に閉じこもっていた頃には、想像もできなかった道。
怖くないわけではない。
むしろ、怖いものばかりだ。
人間も。
魔族も。
竜も。
別れも。
それでも、歩く。
怖いまま。
名前を呼ばれながら。
ノアは、北へ続く道を歩き出した。