春の谷にいた魔族   作:MトK

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第二話 蒼月草と紅鏡竜

 旅は、思っていたより静かに始まった。

 

 ノアはもっと何かが変わると思っていた。

 

 フリーレンとフェルンの旅に加わる。

 

 それは、自分にとって大きな決断だった。

 

 ヒンメルの家を離れた。

 

 彼が座っていた椅子を置いてきた。

 

 夕方になるたびに耳を澄ませていた扉の音からも離れた。

 

 なのに、世界は拍子抜けするほど淡々としていた。

 

 朝になればフリーレンが寝癖をつけたまま起きてくる。

 

 フェルンがそれを無言で見て、身支度を急かす。

 

 ノアは焚き火の前で湯を沸かし、保存食を少し柔らかくして、味を整える。

 

 道を歩く。

 

 村に寄る。

 

 依頼を受ける。

 

 フリーレンは魔法が報酬なら、明らかに割に合わない仕事でも受けようとする。

 

 フェルンはそれを止める。

 

 ノアは止めるべきか迷っているうちに、たいてい話が決まっている。

 

 そんな日々だった。

 

「ノア」

 

「はい」

 

「その鞄、本当に便利だね」

 

 フリーレンがノアの持つ小さな鞄を見た。

 

 見た目は革製の普通の鞄だ。けれど中は、内側だけを広げる魔法《インネンラウム》で、見た目よりずっと多くの荷物が入る。

 

「旅には便利です。調理道具も薬も入りますし」

 

「魔導書も入る?」

 

「入りますけど、フリーレンさんの魔導書は入れません」

 

「どうして」

 

「入れたら際限なく増えるからです」

 

「便利なのに」

 

「便利だから危険なんです」

 

 フェルンが少しだけ頷いた。

 

「ノアさんの判断が正しいと思います」

 

「フェルンまで」

 

「フリーレン様は、魔導書が絡むと自制が効きません」

 

「そんなことないよ」

 

「昨日も、銅像の鼻を少し高く見せる魔法を報酬に、丸一日草むしりをしようとしていました」

 

「珍しい魔法だった」

 

「不要です」

 

「ヒンメルなら喜んだかも」

 

 フリーレンが何気なく言った。

 

 ノアの手が止まった。

 

 フェルンも、それに気づいた。

 

 フリーレンは少し遅れて、ノアを見る。

 

「ノア」

 

「……大丈夫です」

 

 ノアは笑おうとした。

 

 うまくいかなかった。

 

「ヒンメルさんなら、たしかにちょっと喜びそうだなって思っただけです」

 

「うん」

 

「鼻が高く見える魔法、たぶん本人なら自分の銅像に使いました」

 

「やりそう」

 

 フリーレンは淡々と言った。

 

 けれど、その声は少しだけ柔らかかった。

 

 フェルンは二人を見ていた。

 

 まだ、フェルンはヒンメルを知らない。

 

 もちろん名前は知っている。

 

 勇者ヒンメル。

 

 魔王を倒した勇者。

 

 多くの銅像を残した英雄。

 

 だが、それは歴史の中の人だ。

 

 ノアにとってのヒンメルは、毎日「ただいま」と言って帰ってきた人だった。

 

 フリーレンにとってのヒンメルは、何十年も経ってからようやく大きさに気づいた人だった。

 

 フェルンは、その間にいる。

 

 知らないけれど、聞いている。

 

 遠いけれど、旅の理由になっている。

 

 その距離が、時々ノアには不思議だった。

 

 数日後、三人はターク地方の村に着いた。

 

 村の入口近くに、勇者ヒンメルの銅像があった。

 

 草に囲まれ、少し汚れている。

 

 それでも、ヒンメルだった。

 

 剣を掲げ、穏やかに笑っている。

 

 ノアは足を止めた。

 

 胸の奥がぎゅっと縮む。

 

 銅像のヒンメルは若い。

 

 旅の頃の姿だ。

 

 ノアの記憶の中にいる、白髪が増え、椅子から立ち上がるときに少し時間のかかったヒンメルではない。

 

 けれど、確かに同じ人だった。

 

「また銅像ですね」

 

 フェルンが言った。

 

「ヒンメルさんは、たくさん人助けをしてたから」

 

 ノアは小さく答えた。

 

「たくさん?」

 

「はい。魔王討伐と関係ないことも、よくしていました。荷物を運んだり、橋を直したり、迷子を探したり。本人はたぶん、全部覚えていないくらい」

 

「勇者なのに、ですか」

 

「勇者だから、だと思います」

 

 言ってから、ノアは少しだけ笑った。

 

「ヒンメルさんは、そういう人でした」

 

 その村で、フリーレンは薬草家の老婆から依頼を受けた。

 

 銅像を綺麗にする仕事だった。

 

 報酬は、温かいお茶が出てくる魔法。

 

 フェルンは明らかに納得していなかった。

 

「フリーレン様」

 

「なに」

 

「それは必要ですか」

 

「旅先で温かいお茶が飲める」

 

「ノアさんが毎朝淹れています」

 

「魔法で出るのがいい」

 

「労力に見合っていません」

 

「魔法は労力じゃ測れないよ」

 

 フェルンはノアを見た。

 

「ノアさんからも何か言ってください」

 

「えっ」

 

 ノアは困った。

 

 言うべきことはわかっている。

 

 フェルンが正しい。

 

 だが、フリーレンが魔法を欲しがる気持ちも、もう長く見てきた。

 

 それに、ヒンメルの銅像だった。

 

 綺麗にしたいと思ってしまった。

 

「……銅像を綺麗にするのは、いいことだと思います」

 

「ノアさん」

 

「すみません。でも、ヒンメルさんの像なので……」

 

 フェルンは少しだけ目を伏せた。

 

 責める言葉は来なかった。

 

「では、仕事としては引き受けましょう」

 

「いいの?」

 

 フリーレンが聞く。

 

「ただし、報酬目当てではなく、銅像を綺麗にするためです」

 

「同じことじゃない?」

 

「違います」

 

「そう」

 

 フリーレンはあまりわかっていなさそうだった。

 

 ノアは銅像の前に立った。

 

 無生物の汚れなら、自分の魔法で一瞬で落とせる。

 

 石の表面の性質を書き換えれば、泥も苔も浮かせられる。

 

 けれど、ノアはすぐには魔法を使わなかった。

 

 ヒンメルの銅像に触れるのが、少し怖かった。

 

 若いヒンメル。

 

 旅の途中で何度も見た横顔。

 

 自分を「ノア」と呼んでくれた人。

 

 その形をした石に、自分の魔法をかける。

 

 ただの掃除だとわかっていても、少しだけ息が詰まった。

 

「ノア」

 

 フリーレンが呼んだ。

 

「無理なら、普通に洗えばいいよ」

 

「……いえ、大丈夫です」

 

 ノアは指先を銅像の足元へ向けた。

 

 石そのものには手を入れない。

 

 表面についた泥と苔だけを、柔らかく剥がれやすいものへ変える。

 

 水はフェルンが用意した。

 

 フリーレンは銅像の周りの草を刈った。

 

 フェルンは黙々と磨いた。

 

 ノアも布を持ち、少しずつ汚れを落とした。

 

 不思議な時間だった。

 

 勇者ヒンメルの銅像を、フリーレンとフェルンと一緒に掃除している。

 

 昔の自分なら、遠くから見ることしかできなかった。

 

 魔族の自分が、英雄の像に触れるなど許されないと思っていた。

 

 でも今は、布を持っていた。

 

 ただの石像なのに。

 

 ただの掃除なのに。

 

 ノアは、何度も泣きそうになった。

 

 銅像が綺麗になると、老婆は嬉しそうに目を細めた。

 

「昔は、この辺りに蒼月草が咲いていたんだよ」

 

 その名を聞いて、フリーレンが顔を上げた。

 

「蒼月草?」

 

「ヒンメル様の故郷の花だよ。今ではもう、この辺りでは見なくなったけれどね」

 

 ヒンメルの故郷の花。

 

 ノアはその言葉を胸の中で繰り返した。

 

 フリーレンはしばらく黙っていた。

 

 それから、いつもの調子で言った。

 

「探そうか」

 

 フェルンがすぐに反応する。

 

「今からですか?」

 

「うん」

 

「どれくらいかかるかわかりません」

 

「探せば見つかるかもしれない」

 

「見つからないかもしれません」

 

「そうだね」

 

「……それでも探すのですか」

 

「うん」

 

 フェルンは少し困った顔をした。

 

 ノアには、その気持ちがわかった。

 

 フェルンは人間だ。

 

 時間は有限だ。

 

 見つかるかわからない花のために、何ヶ月も使うことに納得できないのは当然だった。

 

 だが、フリーレンは違う。

 

 五十年を一瞬のように扱うことがある。

 

 その差を、ノアは何度も見てきた。

 

 そして、自分もまた、フェルン側ではない。

 

 三千年生きた魔族で、二十年を短いと思ってしまう存在だ。

 

 だからこそ、ノアは簡単にフリーレンへ賛成できなかった。

 

「フリーレンさん」

 

「なに」

 

「探すのは、いいと思います。でも、フェルンさんには長い時間になるかもしれません」

 

「うん」

 

「だから、ちゃんと説明したほうがいいです」

 

 フリーレンは少し考えた。

 

 フェルンは静かにフリーレンを見ている。

 

「ヒンメルが、昔、私に蒼月草の花冠をくれた」

 

 フリーレンは言った。

 

 それだけだった。

 

 けれど、ノアには十分だった。

 

 フェルンには、まだ少し足りなかったようだった。

 

「それだけですか?」

 

「うん」

 

「それだけのために探すのですか」

 

「それだけじゃないよ」

 

 フリーレンは銅像を見上げた。

 

「たぶん、私は忘れていた。ヒンメルの故郷の花のことも、花冠のことも。ここで聞かなければ、思い出さなかったかもしれない」

 

 ノアは息を詰めた。

 

 フリーレンは、思い出すために探すのだ。

 

 ヒンメルを知るために。

 

 あの時、受け取ったものの意味を、今になって確かめるために。

 

 フェルンは少しだけ視線を落とした。

 

「……わかりました」

 

「いいの?」

 

「納得したわけではありません。ただ、フリーレン様にとって必要なことなのだと思いました」

 

 ノアは、ほっと息を吐いた。

 

「フェルンさん、ありがとうございます」

 

「ノアさんが礼を言うことですか?」

 

「たぶん、言うことです」

 

「そうですか」

 

 それから半年、三人は蒼月草を探した。

 

 フェルンは途中で何度も不満そうにした。

 

 当然だった。

 

 見つかるかわからない花を探して、野山を歩き、古い記録を調べ、薬草家や猟師に話を聞く。

 

 フリーレンは淡々としていた。

 

 ノアは、地形や土の状態を調べた。

 

 生き物には作用しない。

 

 だから、蒼月草そのものを作ることはできない。

 

 だが、土の水はけを整えることはできる。

 

 古い石垣に残った花粉や根の痕跡を、周囲の土から見つけやすくすることはできる。

 

 人間の魔法とは違う方法で、探す手伝いはできた。

 

「ノアさんの魔法は、本当に変ですね」

 

 ある日、フェルンが言った。

 

「はい。よく言われます」

 

「便利です」

 

「ありがとうございます」

 

「でも、蒼月草は作れないのですね」

 

「はい。生きているものは作れません。似た造花なら作れますけど、それは違うと思います」

 

 フェルンは少しだけ頷いた。

 

「違いますね」

 

「はい」

 

 ノアは土を指先で崩しながら言った。

 

「フリーレンさんが探しているのは、花そのものというより、思い出の形だと思うので」

 

「思い出の形」

 

「はい。だから、偽物ではだめなんだと思います」

 

 フェルンは遠くで古い文献を読んでいるフリーレンを見た。

 

「魔法を集めることも、そうなのでしょうか」

 

「え?」

 

「フリーレン様は、くだらない魔法も集めます。私はまだ、よくわかりません。でも、それも何かの形なのでしょうか」

 

 ノアは少し考えた。

 

「たぶん、そうです」

 

「ノアさんは、魔法が好きですか」

 

「好きです。怖くもありますけど」

 

「私は……」

 

 フェルンは言葉を切った。

 

 ノアは待った。

 

「私は、一人で生きていけるようになるために魔法を覚えました」

 

「はい」

 

「別に魔法でなくてもよかったのかもしれません」

 

 その声は、少しだけ揺れていた。

 

 ノアはハイターを思い出した。

 

 ハイターがフェルンを見ていた目。

 

 この子に生きてほしい、と言った声。

 

「でも、フェルンさんは魔法を選びました」

 

 ノアは静かに言った。

 

 フェルンがノアを見る。

 

「フリーレンさんも、きっとそう言います」

 

「そうでしょうか」

 

「はい。フェルンさんが初めて魔法を使ったとき、ハイターさんは嬉しそうでしたか?」

 

 フェルンは黙った。

 

 その沈黙で、答えはわかった。

 

 ノアは微笑む。

 

「なら、それも思い出の形だと思います」

 

 フェルンは少しだけ目を伏せた。

 

「……そうかもしれません」

 

 蒼月草は、半年後に見つかった。

 

 青白い花だった。

 

 月明かりを含んだような、静かな色。

 

 ノアはその花を見た瞬間、言葉を失った。

 

 綺麗だった。

 

 ただ綺麗というだけではない。

 

 ヒンメルが故郷で見た花。

 

 フリーレンに渡した花冠の花。

 

 それが今、目の前に咲いている。

 

 フリーレンは、しばらく花を見ていた。

 

 感動しているようには見えない。

 

 けれど、ノアにはわかった。

 

 フリーレンは今、遠い昔を見ている。

 

 ヒンメルがまだ若く、旅が続いていて、魔王もまだ倒されていなかった頃。

 

 その時に受け取ったものを、今になって見つめ直している。

 

 フリーレンは、花畑を出す魔法を使った。

 

 ヒンメルの銅像の周囲に、蒼月草が咲いた。

 

 村の老婆は泣きそうな顔で礼を言った。

 

 フェルンは静かにそれを見ていた。

 

 ノアは、少し離れた場所に立っていた。

 

 魔族の自分が、勇者の像と故郷の花に近づいていいのか。

 

 いまだにそう思ってしまう。

 

 けれど、フリーレンが振り返った。

 

「ノア」

 

「はい」

 

「来なよ」

 

 ノアは息を呑んだ。

 

 フェルンもこちらを見ている。

 

 逃げる理由は、もうなかった。

 

 ノアはゆっくり近づいた。

 

 フリーレンは蒼月草で小さな花冠を作っていた。

 

 不器用ではなかった。

 

 ただ、少し時間をかけていた。

 

 最後に、それをヒンメルの銅像へかける。

 

 若いヒンメルの石の顔に、青い花が添えられた。

 

 ノアは涙をこらえきれなかった。

 

「ヒンメルさん、喜ぶと思います」

 

「そう」

 

「はい。絶対、すごく格好つけて喜びます」

 

「それは想像できるね」

 

 フリーレンは少しだけ笑った。

 

 フェルンはその横で、静かに銅像を見上げていた。

 

 その夜、ノアは日記を書いた。

 

『蒼月草を見つけた。

ヒンメルさんの故郷の花。

フリーレンさんは花冠を作って、ヒンメルさんの銅像にかけた。

フェルンさんは、魔法を選んだ理由を少し考えていた。

造花ではだめだと、私はもう言葉ではわかっていた。

でも、本物の蒼月草がヒンメルさんの銅像の周りに咲いたとき、その理由が胸に落ちた。

思い出は、都合よく作り直すものではなく、時間をかけて見つけ直すものなのだと思う。』

 

 ターク地方を離れた後、三人は交易都市ヴァルムに立ち寄った。

 

 街は賑やかだった。

 

 商人の声。

 

 馬車の車輪。

 

 焼き菓子の匂い。

 

 人の流れ。

 

 ノアはいつもより帽子を深くかぶった。

 

 人が多い場所は苦手だった。

 

 誰かに角を見られるかもしれない。

 

 幻影が揺らぐかもしれない。

 

 魔力に敏い者に気づかれるかもしれない。

 

 フェルンはそれに気づいて、少しだけ歩く位置を変えた。

 

 ノアの横ではなく、斜め前。

 

 人波が直接ノアへぶつからないようにする位置。

 

 ノアは目を瞬かせた。

 

「フェルンさん」

 

「何ですか」

 

「ありがとうございます」

 

「まだ何も言っていません」

 

「でも、助かりました」

 

「……人が多い場所では、ノアさんは挙動が怪しくなります」

 

「すみません……」

 

「怪しいと、余計に目立ちます」

 

「はい……」

 

 厳しい。

 

 けれど、気遣いだった。

 

 ノアは少しだけ笑った。

 

 その日がフェルンの誕生日だと知ったのは、宿に着いてからだった。

 

 フリーレンは忘れていた。

 

 ノアも知らなかった。

 

 フェルンは、別に大したことではありません、という顔をしていた。

 

 だが、あまり大したことではない顔をしすぎていた。

 

 ノアはわかった。

 

 これは、気にしている。

 

 ハイターが生きていた頃は、きっと祝ってもらっていたのだろう。

 

 何気ない食事。

 

 小さな贈り物。

 

 おめでとう、の一言。

 

 そういうものは、失って初めて形がはっきりする。

 

 フリーレンはしばらく考えた後、街へ出た。

 

 ノアもついていった。

 

「フリーレンさん、何を買うんですか?」

 

「誕生日の贈り物」

 

「はい」

 

「何がいいと思う?」

 

「私に聞きますか?」

 

「ノアは人間の生活に詳しいでしょ」

 

「詳しくなっただけで、得意ではないです……」

 

 二人は店を回った。

 

 杖の飾り。

 

 魔導書。

 

 菓子。

 

 髪紐。

 

 小さな宝石。

 

 フリーレンはどれを見ても、いまいち決めきれない顔をしていた。

 

「魔導書は?」

 

「フェルンさんへの贈り物ですよね?」

 

「うん」

 

「フリーレンさんが欲しいものではなく?」

 

「……そうか」

 

「今、少し迷いましたね」

 

「迷ってない」

 

 ノアは苦笑した。

 

 やがて、フリーレンは蝶の意匠の髪飾りを手に取った。

 

 派手すぎず、けれど丁寧に作られている。

 

 フェルンに似合いそうだった。

 

「これ、いいと思います」

 

「そう?」

 

「はい」

 

「じゃあ、これにする」

 

「ちゃんと選びましたね」

 

「ノア、私を何だと思ってるの」

 

「魔法以外に少し不器用な人です」

 

「ひどい」

 

「すみません。でも、本当です」

 

 その夜、フェルンは髪飾りを受け取った。

 

 表情は大きく変わらなかった。

 

 けれど、指先が少しだけ止まった。

 

「ありがとうございます、フリーレン様」

 

「うん」

 

「ノアさんも、選ぶのを手伝いましたか」

 

「少しだけです」

 

「そうですか」

 

 フェルンはノアを見る。

 

「ありがとうございます、ノアさん」

 

「私はほとんど何も」

 

「それでもです」

 

 ノアは胸が温かくなった。

 

 人に礼を言われることには、まだ慣れない。

 

 けれど、逃げ出したくなるほどではなくなっていた。

 

 少しずつ。

 

 本当に少しずつだ。

 

 その後、三人はグレーセ森林へ向かった。

 

 そこには、かつて勇者一行が封印した魔族がいた。

 

 腐敗の賢老クヴァール。

 

 ノアはその名を聞いただけで、胃の奥が冷たくなった。

 

 フリーレンは平然としている。

 

 フェルンは静かに杖を握る。

 

 ノアだけが、昔の記憶に足を取られていた。

 

 人を殺す魔法。

 

 当時、それは恐怖だった。

 

 防御も困難で、人間の兵士も魔法使いも、あの魔法の前に倒れていった。

 

 ノアは前線には立てなかった。

 

 ただ、ヒンメルたちの背後で震えながら、地面を固め、障害物を作り、負傷者を運ぶ道を整えた。

 

 それだけだった。

 

 それでも覚えている。

 

 クヴァールの魔法の軌跡。

 

 魔力の圧。

 

 消えていく人の命。

 

 そして、それを見ても感情を揺らさない魔族の目。

 

 封印の前で、ノアは深く息を吸った。

 

「ノア」

 

 フリーレンが呼んだ。

 

「無理なら後ろにいて」

 

「はい。後ろにいます。でも、見ます」

 

「そう」

 

 フリーレンはそれ以上言わなかった。

 

 フェルンがちらりとノアを見る。

 

「怖いのですか、ノアさん」

 

「はい」

 

「それでも見るのですか」

 

「はい」

 

「なぜですか」

 

 ノアは少し考えた。

 

「昔の恐怖が、今どうなったのかを知りたいんです」

 

 フェルンはその答えを、静かに受け止めた。

 

 封印が解かれた。

 

 クヴァールが現れる。

 

 長い眠りから目覚めたはずなのに、その声は落ち着いていた。

 

 まずフリーレンを見る。

 

 次にフェルンを見る。

 

 最後に、ノアを見る。

 

「魔族がいるな」

 

 ノアの肩が震えた。

 

「なぜ人間の側に立っている」

 

 その問いは、昔と変わらなかった。

 

 魔族はいつもそう聞く。

 

 同じ言葉を話しているのに、そこには理解しようとする温度がない。

 

 ただ、矛盾を見つけたから確かめるような声。

 

 ノアは拳を握った。

 

「私は、あなたたちとは違います」

 

「意味がわからない」

 

「私も、あなたたちがわかりません」

 

 クヴァールはそれ以上、ノアに興味を示さなかった。

 

 そのことに、少しだけ傷ついた。

 

 同時に、ほっとした。

 

 自分は、魔族から見ても理解不能なのだ。

 

 それなら、まだ人間側に立っていると言えるのかもしれない。

 

 戦闘が始まった。

 

 クヴァールが魔法を放つ。

 

 かつて人類を脅かした、人を殺す魔法。

 

 だが、フェルンはそれを防いだ。

 

 防御魔法が展開され、攻撃を受け止める。

 

 クヴァールの反応がわずかに変わった。

 

 驚きというより、情報の修正。

 

 人類は、もうこの魔法を防げる。

 

 それどころか、使いこなしている。

 

 フェルンが撃つ。

 

 フリーレンが続く。

 

 人を殺す魔法は、一般攻撃魔法になっていた。

 

 ノアは息を呑んだ。

 

 時間は、ヒンメルを老いさせた。

 

 ハイターを死なせた。

 

 フリーレンに涙を覚えさせた。

 

 そして、人類に魔族の魔法を越えさせた。

 

 それは残酷で、強い。

 

 クヴァールは討たれた。

 

 体は残らない。

 

 魔力の粒子となって、空へほどけていく。

 

 ノアは目を逸らさなかった。

 

 吐き気はあった。

 

 怖さもあった。

 

 けれど、昔のように膝から崩れることはなかった。

 

 フェルンは静かに杖を下ろした。

 

「終わりました」

 

「うん」

 

 フリーレンは頷いた。

 

 ノアはフェルンに向かって頭を下げた。

 

「すごかったです」

 

 フェルンは少し意外そうにした。

 

「ありがとうございます」

 

「ハイターさんが見たら、きっと喜びます」

 

 フェルンの表情がわずかに揺れた。

 

「……そうでしょうか」

 

「はい。絶対に」

 

 ノアは笑った。

 

「たぶん、徳の高い僧侶らしく、少し台無しなことを言いながら」

 

「それは、ありそうです」

 

 フェルンはほんの少しだけ笑った。

 

 その笑みは短かった。

 

 けれど、確かにそこにあった。

 

 クヴァール討伐の後、三人はアイゼンを訪ねた。

 

 山奥にある家で、アイゼンは変わらず静かに暮らしていた。

 

 いや、変わらず、ではない。

 

 彼も老いていた。

 

 それでも背筋は伸び、目は鋭く、言葉は少なかった。

 

「来たか」

 

「来たよ」

 

 フリーレンはいつも通り答えた。

 

 ノアは頭を下げる。

 

「お久しぶりです、アイゼンさん」

 

「変わらんな」

 

「アイゼンさんは、少し変わりました」

 

「老いた」

 

「……はい」

 

「事実だ」

 

 ノアは苦笑した。

 

 アイゼンは昔からそうだ。

 

 言葉を飾らない。

 

 けれど、その短さの中に妙な安心感がある。

 

 フェルンは礼儀正しく挨拶した。

 

 アイゼンはフェルンを見て、短く言った。

 

「ハイターの弟子か」

 

「はい」

 

「いい魔法使いだ」

 

 フェルンは驚いたように目を瞬かせた。

 

「ありがとうございます」

 

 その一言だけで、フェルンの背筋が少し伸びた気がした。

 

 ノアはそれを見て、胸が温かくなった。

 

 ハイターはいない。

 

 けれど、ハイターを知る人がフェルンを見ている。

 

 それは、フェルンにとって小さくない意味を持つのだろう。

 

 アイゼンはフランメの手記について話した。

 

 魂の眠る地、オレオール。

 

 死者と対話できるとされる場所。

 

 魔王城のあったエンデ、そのさらに先。

 

 その名を聞いた瞬間、ノアの呼吸が止まりそうになった。

 

 ヒンメルに会えるかもしれない。

 

 そう思った。

 

 同時に、怖くなった。

 

 会って、何を言うのか。

 

 まだ自分は泣いてばかりではないか。

 

 ヒンメルがいない世界を、少しは歩けるようになった。

 

 けれど、胸を張れるほどではない。

 

 まだ、帽子を深くかぶっている。

 

 まだ、人の視線に怯える。

 

 まだ、自分が魔族であることに慣れていない。

 

 そんな自分が、ヒンメルに会っていいのか。

 

 アイゼンはノアを見た。

 

「行け」

 

「……私も、ですか」

 

「ヒンメルに会いたいのだろう」

 

 ノアは何も言えなかった。

 

「なら行け」

 

「でも、私は」

 

「言い訳はいい」

 

 昔と同じ言葉だった。

 

 戦場で震えていたノアに、アイゼンは何度もそう言った。

 

 怖いなら怖いまま動け。

 

 前に出るな。

 

 下がりすぎるな。

 

 役割を果たせ。

 

 その言葉は厳しかった。

 

 でも、ノアを外へ追い出す言葉ではなかった。

 

 そこにいろ、と言われているようだった。

 

「覚えているだけでは、届かん場所もある」

 

 アイゼンは言った。

 

「歩け」

 

 ノアは、鞄の中の古いカップに触れた。

 

 ヒンメルが使っていたカップ。

 

 旅に出るとき、どうしても置いていけなかったもの。

 

「……はい」

 

 ノアは答えた。

 

 フリーレンが言った。

 

「ノア、行くよ」

 

 その呼び方に、少しだけ胸が温かくなる。

 

 フリーレンはもう、ノアを「魔族」とは呼ばない。

 

 警戒が消えたわけではない。

 

 事実が変わったわけでもない。

 

 それでも、名前を呼ぶ。

 

 それがどれほど自分を支えているか、ノアはたぶんうまく説明できない。

 

「はい」

 

 ノアは頷いた。

 

 だが、北へ向かう前に、アイゼンはもう一つ話をした。

 

「俺の弟子を連れていけ」

 

 フリーレンは少し嫌そうな顔をした。

 

「弟子?」

 

「戦士だ」

 

「私たちだけじゃだめ?」

 

「前衛がいない」

 

「ノアがいるよ」

 

「ノアは前衛ではない」

 

「ですよね」

 

 ノアはすぐに頷いた。

 

 自分が前に出ると、たいてい怖くて固まる。

 

 魔法で壁を作ることはできるが、剣や斧を持って敵の前に立つこととは違う。

 

 アイゼンは続けた。

 

「リーゲル峡谷近くの村にいる。名はシュタルク」

 

「強いの?」

 

「素質はある」

 

「その言い方、少し不安だね」

 

「臆病者だ」

 

 アイゼンは淡々と言った。

 

 ノアは少しだけ目を瞬かせた。

 

 臆病者。

 

 その言葉が、自分の胸にも刺さった。

 

「でも、強い」

 

 アイゼンは付け加えた。

 

「臆病なのにですか」

 

 フェルンが尋ねる。

 

「臆病だから、生きている」

 

 アイゼンは短く答えた。

 

 ノアは、その言葉をしばらく忘れられなかった。

 

 リーゲル峡谷へ向かう道中、フリーレンは寄り道をした。

 

 竜の巣を見つけたのだ。

 

 紅鏡竜。

 

 赤い鱗を持つ、巨大な竜。

 

 巣の奥には魔導書があるらしい。

 

 フェルンは冷静に言った。

 

「フリーレン様」

 

「なに」

 

「危険です」

 

「うん」

 

「なぜ近づくのですか」

 

「魔導書があるから」

 

「予想通りの答えで困ります」

 

 ノアは岩陰から紅鏡竜を見た。

 

 体が大きい。

 

 鱗は硬そうで、ただの魔法では通りにくいだろう。

 

 生き物には、ノアの魔法は直接作用しない。

 

 鱗の性質を書き換えることもできない。

 

 せいぜい地面や空気を変え、動きを鈍らせる程度だ。

 

「私の魔法とは相性が悪いです」

 

「ノアでも?」

 

 フリーレンが聞く。

 

「はい。生き物そのものには作用しません。足場を変えることはできますけど、この大きさだと止めきれるかどうか」

 

「じゃあ、やめようか」

 

「今、やめる選択肢ありました?」

 

「魔導書は惜しいけど、前衛なしで竜は面倒」

 

 フェルンがじっとフリーレンを見た。

 

「面倒で済む話でしょうか」

 

「命に関わる面倒」

 

「それは危険と言います」

 

 紅鏡竜が動いた。

 

 地面が揺れる。

 

 ノアは反射的に空気の壁を作った。

 

 しかし、竜の一歩だけで周囲の風圧が変わる。

 

 見つかる前に退くべきだ。

 

 フリーレンも同じ判断だった。

 

「逃げよう」

 

「はい」

 

「はい!」

 

 三人は全力で逃げた。

 

 フェルンは珍しく息を切らしていた。

 

 ノアも膝に手をつく。

 

 フリーレンだけが平然としているように見えて、少しだけ髪が乱れていた。

 

「竜、怖いですね……」

 

 ノアが呟く。

 

「ノアさんでも怖いのですか」

 

 フェルンが聞いた。

 

「怖いです。私はだいたい何でも怖いです」

 

「そうでしたね」

 

「納得が早い……」

 

 フリーレンは遠くの村を見る。

 

「あの村に、アイゼンの弟子がいるんだよね」

 

 その村では、シュタルクという青年が英雄のように扱われていた。

 

 村人たちは、彼が紅鏡竜から村を守っているのだと言った。

 

 広場には、彼の噂話が溢れていた。

 

 強い戦士。

 

 村の守り手。

 

 竜を前にしても逃げない男。

 

 ノアは感心した。

 

「すごい人なんですね」

 

 フリーレンは首を傾げる。

 

「アイゼンの弟子だからね」

 

 フェルンは村人の話を聞きながら、少し疑うような目をしていた。

 

「実際に会ってみないとわかりません」

 

「フェルンさんは冷静ですね」

 

「噂は大きくなるものです」

 

「私は噂になる前に隠れるので、よくわかりません……」

 

 シュタルクは、村の外れにいた。

 

 赤い髪の青年。

 

 大きな斧。

 

 鍛えられた体。

 

 しかし、表情はどこか頼りなかった。

 

 フリーレンを見るなり、彼は明らかに動揺した。

 

 アイゼンの弟子。

 

 強い戦士。

 

 村の英雄。

 

 その印象とは違っていた。

 

 フェルンは無言で見ている。

 

 ノアは、少しだけ親近感を覚えてしまった。

 

 この人、たぶん怖がりだ。

 

 シュタルクは強がっていた。

 

 しかし、紅鏡竜の話になると視線が泳いだ。

 

 村人たちの期待が重くのしかかっているのが、ノアにもわかった。

 

 彼は逃げていない。

 

 けれど、戦えてもいない。

 

 その中間で、ずっと立ち尽くしている。

 

 それは、とても苦しい状態だ。

 

 夜、ノアは村の外れでシュタルクが一人、斧を振っているのを見た。

 

 岩壁に向かって、何度も。

 

 一振りごとに空気が震える。

 

 地面がわずかに揺れる。

 

 恐ろしく強い。

 

 それなのに、彼の背中は怯えていた。

 

「見てたのかよ」

 

 シュタルクが振り返る。

 

 ノアはびくりとした。

 

「す、すみません。覗くつもりは」

 

「いや、別にいいけど」

 

 シュタルクは気まずそうに斧を下ろした。

 

「あんた、フリーレン様たちの連れだよな」

 

「はい。ノアです」

 

「魔法使い?」

 

「一応、そうです」

 

「一応って何だよ」

 

「自分でも分類に困っていて……」

 

 シュタルクは少しだけ笑った。

 

 その笑い方に、無理がある。

 

 ノアはしばらく迷ってから言った。

 

「怖いんですか」

 

 シュタルクの顔が強張った。

 

 言ってから、ノアは慌てた。

 

「すみません! 責めているわけではなくて、私も怖がりなので、何となく」

 

「……あんたも?」

 

「はい。私はだいたい怖いです。人間も怖いです。魔族も怖いです。竜も怖いです。フリーレンさんもちょっと怖いです」

 

「最後は言っていいのか?」

 

「本人にも言ってます」

 

 シュタルクは少しだけ肩の力を抜いた。

 

「俺はさ、逃げたんだよ」

 

 その声は小さかった。

 

「師匠からも。兄貴からも。村からも。ずっと逃げてきた。なのに、この村の人たちは俺を英雄みたいに扱う」

 

「はい」

 

「俺、まだ竜と戦ってないんだぜ」

 

「はい」

 

「本当は、明日にも逃げたい」

 

 ノアは黙って聞いた。

 

 彼は今、たぶん答えが欲しいわけではない。

 

 自分の弱さを、誰かに言いたかったのだ。

 

 ノアにも覚えがあった。

 

 森の谷で、誰にも言えずにいた三千年。

 

 ヒンメルの前で初めて泣きながら自分を信じるなと言った日。

 

 弱さは、隠し続けると腐っていく。

 

 言葉にすると、少しだけ形が変わる。

 

「逃げたいと思っていても、ここにいるんですね」

 

 ノアは言った。

 

「逃げてないから偉い、みたいな話か?」

 

「いえ。私には、偉いかどうかはわかりません。でも、ここにいるのは事実です」

 

 シュタルクは黙った。

 

「私も、逃げたいと思いながら、旅をしています」

 

「何から?」

 

「自分が魔族だということから」

 

 シュタルクが目を見開いた。

 

 ノアは帽子のつばを少しだけ押さえた。

 

「怖いなら、怖いまま動け、とアイゼンさんに言われました」

 

「師匠が?」

 

「はい。私が戦場で震えていた頃に」

 

「……あの人、誰にでも同じこと言うんだな」

 

「たぶん、大事なことだからだと思います」

 

 シュタルクは遠くの紅鏡竜の方角を見た。

 

「怖いまま、か」

 

「はい。怖くなくなるのを待っていたら、私はたぶん一生動けません」

 

「それ、わかる気がする」

 

 ノアは少しだけ笑った。

 

「それに、シュタルクさんは強いと思います」

 

「俺が?」

 

「はい。斧を振る音が怖いくらいでした」

 

「褒め方下手だな」

 

「すみません……」

 

 シュタルクは小さく笑った。

 

 今度は少しだけ自然だった。

 

 翌日、シュタルクは紅鏡竜と向き合った。

 

 ノアは後方にいた。

 

 フリーレンとフェルンも見ている。

 

 村人たちは遠くから祈るようにしていた。

 

 紅鏡竜が咆哮する。

 

 空気が震える。

 

 ノアの足がすくむ。

 

 逃げたい。

 

 あんなものに向き合いたくない。

 

 だが、前にいるシュタルクはもっと怖いはずだった。

 

 それでも、逃げなかった。

 

 シュタルクの体は震えていた。

 

 でも、斧を握っていた。

 

 紅鏡竜が動く。

 

 その瞬間、シュタルクも動いた。

 

 速い。

 

 重い。

 

 臆病者だと自分で言った青年の一撃が、竜の鱗を砕いた。

 

 戦いは激しかった。

 

 ノアは余計な手出しをしなかった。

 

 ただ、シュタルクの足場が崩れそうになった瞬間だけ、岩盤の性質をわずかに変えて支えた。

 

 竜そのものには触れない。

 

 これはシュタルクの戦いだ。

 

 奪ってはいけない。

 

 フェルンも魔法を構えたまま、撃たなかった。

 

 フリーレンも見ていた。

 

 シュタルクは紅鏡竜を討った。

 

 巨体が崩れる。

 

 地面が揺れる。

 

 村から歓声が上がった。

 

 シュタルクはしばらく動かなかった。

 

 それから、ようやく息を吐いた。

 

「……勝った」

 

 ノアは小さく呟いた。

 

 フリーレンが言った。

 

「うん。強いね」

 

 フェルンも静かに頷いた。

 

「はい」

 

 ノアは胸の奥が熱くなるのを感じた。

 

 怖くても、戦える。

 

 震えていても、前に出られる。

 

 それを、シュタルクは見せた。

 

 それはノアにとっても、他人事ではなかった。

 

 紅鏡竜の巣から魔導書を回収したフリーレンは満足そうだった。

 

 フェルンは竜の死体よりも、フリーレンが魔導書を気にしていることに呆れていた。

 

 シュタルクは村人たちに囲まれて困っていた。

 

 ノアは少し離れた場所で見ていた。

 

 すると、シュタルクがこちらへ来た。

 

「昨日の話」

 

「はい」

 

「少し、助かった」

 

 ノアは目を瞬かせた。

 

「私が、ですか」

 

「ああ。怖いままでもいいって思えた」

 

「それは、アイゼンさんの言葉です」

 

「でも、あんたが言った」

 

 ノアは返事に困った。

 

 シュタルクは少し照れくさそうに頭をかいた。

 

「俺、行くよ。フリーレン様たちと」

 

「はい」

 

「師匠に言われたんだろ。前衛が必要だって」

 

「はい。私も前衛ではないので……」

 

「見ればわかる」

 

「そんなにですか」

 

「そんなに」

 

 ノアは少し落ち込んだ。

 

 シュタルクは笑った。

 

「でも、後ろにいてくれるなら助かる。足場、支えてくれただろ」

 

「気づいていたんですか」

 

「そりゃな。踏ん張れた」

 

「邪魔じゃありませんでしたか」

 

「助かった」

 

 ノアは、また泣きそうになった。

 

「泣くほどか?」

 

「すみません。礼を言われるのに慣れていなくて」

 

「変な人だな」

 

「よく言われます」

 

 シュタルクは少し考え、それから照れくさそうに視線を逸らした。

 

「……ノア」

 

「はい」

 

「次も、怖くなったら言えよ。俺もたぶん怖いから」

 

 ノアは一瞬、返事を忘れた。

 

 初めて、名前で呼ばれた。

 

 ヒンメルがそうしたように。

 

 フリーレンが今そうするように。

 

 シュタルクが、少しだけ仲間として距離を詰めるみたいに。

 

「……はい」

 

 ノアは小さく笑った。

 

「そのときは、一緒に怖がりましょう」

 

「それでいいのかよ」

 

「たぶん、私たちはそのほうが動けます」

 

「変な理屈だな」

 

「よく言われます」

 

 夕方、村を出ることになった。

 

 シュタルクは村人たちに見送られていた。

 

 フェルンは少し距離を置いてそれを見ている。

 

 フリーレンは魔導書を鞄に入れている。

 

 ノアは、道の先を見た。

 

 フリーレン。

 

 フェルン。

 

 シュタルク。

 

 そして自分。

 

 旅の形が少し変わった。

 

 前衛が加わった。

 

 臆病で、でも強い戦士。

 

 ハイターの弟子であるフェルン。

 

 ヒンメルを知ろうとしているフリーレン。

 

 魔族である自分を抱えたまま、ヒンメルが守った世界を歩こうとしているノア。

 

 北へ向かう道は長い。

 

 魔王城のあった地、エンデ。

 

 そのさらに先、魂の眠る地オレオール。

 

 そこに何があるのかは、まだ誰にもわからない。

 

 けれど、歩く理由は増えていく。

 

 ノアは鞄の中の古いカップに触れた。

 

 ヒンメルさん。

 

 仲間が増えました。

 

 少し怖がりだけど、とても強い人です。

 

 たぶん、あなたなら笑って手を差し出したと思います。

 

「ノア」

 

 フリーレンが呼んだ。

 

「行くよ」

 

「はい」

 

 フェルンが歩き出す。

 

 シュタルクがその後ろを、少し緊張した顔でついていく。

 

 ノアは帽子を押さえ、空を見上げた。

 

 春の谷に閉じこもっていた頃には、想像もできなかった道。

 

 怖くないわけではない。

 

 むしろ、怖いものばかりだ。

 

 人間も。

 

 魔族も。

 

 竜も。

 

 別れも。

 

 それでも、歩く。

 

 怖いまま。

 

 名前を呼ばれながら。

 

 ノアは、北へ続く道を歩き出した。

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