Re:虚飾のお姉さんは曇り顔が見たい   作:MトK

47 / 47
第四十七話 クウェインの石は一人じゃ上がらない

「話そうぜ、ガーフィール」

 

 スバルは言った。

 

「お前と、ちゃんと向き合いに来た」

 

 墓所の前。

 

 夜気は冷たく、石段には月明かりが落ちていた。

 

 その下で、ガーフィールは荒い息を吐いている。

 

 服は裂け、体には傷が刻まれ、頬には血が滲んでいた。

 

 オットーとラムが命がけで稼いだ時間。

 

 その結果が、今のガーフィールの姿だった。

 

 けれど、倒れてはいない。

 

 むしろ、傷ついた分だけ獣じみていた。

 

 怒り。

 

 焦り。

 

 それから、もっと奥にある何か。

 

 それら全部を牙の奥に押し込めるように、金色の瞳をぎらつかせている。

 

「向き合う、だァ?」

 

 ガーフィールが低く唸った。

 

「今さら何を話すってんだよ。墓所を使って聖域を開く。そいつを止める。俺様がやることは、それだけだろうが」

 

「墓所を壊すつもりか」

 

「ああ」

 

 迷いはなかった。

 

「試練なんざなけりゃいい。墓所なんざなけりゃいい。聖域を出る道なんざ、最初からなけりゃいい。そうすりゃ、誰も外なんか見ねぇ」

 

 エミリアが息を呑んだ。

 

 スバルの横で、ユイも静かに目を細める。

 

 その言葉は、守るためのものではなかった。

 

 閉じるための言葉だった。

 

 怖いものを見ないために、入り口ごと壊そうとしている。

 

 スバルは一段、階段を降りた。

 

「なあ、ガーフィール」

 

「あ?」

 

「お前、本当に聖域を守りたいのか」

 

 ガーフィールの目が鋭くなる。

 

「何が言いてぇ」

 

「今のお前は、守るってより、閉じ込めようとしてるように見える」

 

「同じだろうが」

 

「違う」

 

 スバルは首を振った。

 

「守るってのは、外に出たい奴の足を折ることじゃない。見たくないものを見せる場所を壊すことでもない」

 

「知ったような口をきくな」

 

「知らねえよ」

 

 スバルは即答した。

 

「俺は、お前が何を見たのか知らない。どうしてそこまで墓所を壊したいのかも知らない。だから聞きに来たんだろ」

 

「……」

 

「何を見たんだよ、ガーフィール」

 

 ガーフィールの喉が、低く鳴った。

 

 牙を剥いているのに、答えがすぐ出てこない。

 

 言いたくない。

 

 思い出したくない。

 

 その感情が、怒りの奥で震えている。

 

「……母ちゃんだ」

 

 ようやく漏れた声は、ひどく低かった。

 

「試練で見た。母ちゃんが、俺様と姉貴を置いて、聖域の外へ出ていくところを」

 

 エミリアの表情が曇る。

 

 スバルは、黙って聞いた。

 

「母ちゃんは出ていった。俺様たちを置いて。外へ行って、そんで死んだ。土砂崩れに巻き込まれて、あっさりだ」

 

 ガーフィールの拳が震えていた。

 

「外なんざ、ろくなもんじゃねぇ。出ていった奴は戻ってこねぇ。だったら、誰も出なきゃいい。墓所なんざ壊して、試練なんざ終わらせて、聖域を閉じたままにすりゃいい」

 

 それは、子どもの叫びだった。

 

 母を失った子どもが、もう二度と誰も出ていかないようにと願った叫び。

 

 ガーフィールは、それを「聖域を守る」という言葉で覆っていた。

 

 スバルは息を吸った。

 

 知ったように言ってはいけない。

 

 今の自分は、ガーフィールの母親の真意を知らない。

 

 ただ、言えることはある。

 

「お前が見たのは、母ちゃんが外へ出て、死んだところなんだな」

 

「そう言ってんだろ」

 

「じゃあ、そこで止まってんだよ」

 

 ガーフィールの目が見開かれる。

 

「何……?」

 

「お前の時間が、そこで止まってる。外へ出て、死んだ。その場面で、ずっと止まってる」

 

「黙れ」

 

「だから、墓所を壊そうとしてるんだろ。もう二度とそこを見なくて済むように。誰にも見せなくて済むように」

 

「黙れっつってんだろ!」

 

 ガーフィールが吠えた。

 

 体が膨れ上がる。

 

 筋肉が隆起し、骨格が軋み、獣の気配が一気に濃くなる。

 

 エミリアが前に出かけた。

 

「ガーフィール、やめて!」

 

「エミリア!」

 

 スバルが強く呼んだ。

 

 真剣な声だった。

 

 いつもの「エミリアたん」ではない。

 

 彼女を守るためではなく、彼女を戦場の中心から遠ざけるための声。

 

「今は俺が話す。エミリアは下がっててくれ」

 

「でも、スバルが――」

 

「大丈夫じゃないけど、大丈夫にする!」

 

「それ、全然大丈夫じゃないよ!」

 

 エミリアの声が震える。

 

 それでも、スバルは前を見る。

 

 ユイがエミリアの横へ立った。

 

「エミリア様。今はスバルくんに任せましょう」

 

「ユイ……」

 

「危なくなれば、私が動きます。けれど、ここで彼の言葉を奪ってはいけない」

 

 エミリアは唇を噛み、踏みとどまった。

 

 ユイはガーフィールを見る。

 

 そして、わずかに息を吐いた。

 

 ここから先は、作戦の範囲だ。

 

 作戦会議の後。

 

 オットーとラムがガーフィールを足止めする段取りを確認したあと、ユイはスバルを呼び止めていた。

 

「スバルくん」

 

「ん?」

 

「ガーフィールさん相手に、正面から殴り合うのは無理よ」

 

「うん。俺もそこまで自分を見失ってない」

 

「それはよかった」

 

「もうちょっと信頼して?」

 

「信頼しているから、あなたにできることを増やすの」

 

 ユイは、地面に小枝で簡単な円を描いた。

 

「攻撃魔法は無理。防御も間に合わない。あなたに必要なのは、ほんの一瞬だけ相手の感覚を鈍らせる魔法」

 

「俺向きってこと?」

 

「悔しいけれど、向いているわ。相手を倒す力じゃなくて、死なないための目くらまし。あなたにはそれくらいがちょうどいい」

 

「ちょうどいいの方向性が悲しい」

 

「悲しむのは生き残ってから」

 

 ユイは淡々と言う。

 

「シャマク。陰属性の基礎魔法。相手の視界や感覚に黒い靄を落とす。ちゃんと使いこなさなくていい。ほんの一瞬、ガーフィールさんの突進が半歩ずれれば十分」

 

「半歩か」

 

「半歩あれば、直撃は避けられる。直撃を避けられれば、次がある」

 

「次って?」

 

「パックの結晶石」

 

 スバルは、手の中の小さな結晶を見た。

 

 エミリアから預かった、パックの気配が残る石。

 

「ガーフィールさんが獣化したら、これを当てる。獣化を支えているマナを少しでも削れば、勢いを殺せる可能性がある」

 

「可能性」

 

「確実なんて言えないわ」

 

「だよな」

 

「でも、何もしないよりはずっといい」

 

 それから、ユイは付きっきりでシャマクの形だけを教えた。

 

 スバルは何度も失敗した。

 

 黒い靄どころか、自分の足元だけ暗くして転びかけた。

 

 咳き込んだだけで終わった。

 

 出した靄が薄すぎて、ユイに「今のは目くらましではなく、ただの気配」と評された。

 

「先生、評価が辛い」

 

「実戦では評価される前に殴られるわ」

 

「はい」

 

「もう一回」

 

 何度目かの挑戦で、ほんの数秒だけ黒い靄が広がった。

 

 ユイはそれを見て、ようやく頷いた。

 

「それでいい」

 

「今ので?」

 

「ええ。完成度は求めない。使いどころだけ間違えないで」

 

「使いどころを間違えたら?」

 

「殴られる」

 

「わかりやすい!」

 

「だから間違えないで」

 

 ユイはスバルをまっすぐ見た。

 

「これは勝つための魔法じゃないわ」

 

「じゃあ、何のため?」

 

「あなたが、ちゃんと次の言葉を言うため」

 

 スバルは一瞬、言葉を失った。

 

 ユイは続ける。

 

「ガーフィールさんを倒すだけなら、別のやり方を考える。でも、あなたは話すつもりでしょう。だったら、まず死なないこと。倒されないこと。言葉が届くところに立ち続けること」

 

「……なるほど」

 

「だから、シャマク。あなたらしい、みっともないけどしぶとい戦い方よ」

 

「褒めてる?」

 

「かなり」

 

「なら受け取っとく」

 

 そして今。

 

 獣化したガーフィールが咆哮した。

 

 黄金の毛並み。

 

 巨大な爪。

 

 石床を砕く脚。

 

 それは、怒りと恐怖を鎧にした姿だった。

 

 スバルは息を吸う。

 

 足が震える。

 

 怖い。

 

 それでも、逃げない。

 

 勝つためではない。

 

 次の言葉を言うために。

 

「シャマク!」

 

 黒い靄が弾けた。

 

 不完全で、薄く、短い。

 

 だが、獣化したガーフィールの視界と感覚を一瞬だけ濁らせた。

 

 巨体の突進が半歩ずれる。

 

 スバルを砕くはずだった爪が肩を掠め、石床を深く抉った。

 

「ぐっ……!」

 

 血が飛ぶ。

 

 直撃ではない。

 

 それで十分だった。

 

 スバルは、痛みを噛み殺して前へ飛び込む。

 

 手にした結晶石を、獣化したガーフィールの体へ叩きつけるように押し当てた。

 

「吸え――!」

 

 結晶石が淡く光る。

 

 獣化を支える膨大なマナが、強引に吸い上げられていく。

 

 ガーフィールの巨体が揺らぐ。

 

 黄金の毛並みがざわめき、形が不安定になる。

 

「ぐ、ぅ……っ!」

 

 ガーフィールの喉から、苦しげな声が漏れた。

 

 効いている。

 

 だが、止まりきらない。

 

「この程度で……俺様を止めた気かよ!」

 

「普通は止まる流れだろ、今の!」

 

 スバルが叫ぶ。

 

 獣の爪が振るわれる。

 

 ユイが虚飾で軌道をほんの少しだけ逸らす。

 

 それでも衝撃は逃がしきれない。

 

 スバルは吹き飛ばされ、石床を転がった。

 

「スバル!」

 

 エミリアの悲鳴が響く。

 

 スバルは倒れたまま、右腕を押さえた。

 

 まだ足りない。

 

 シャマク。

 

 結晶石。

 

 それでも、ガーフィールは止まらない。

 

 なら、最後の一手。

 

 使いたくない力。

 

 けれど、今は使わなければ届かない力。

 

 スバルの右腕に、黒い熱が宿る。

 

 自分の中にあるのに、自分のものではないような不快感。

 

 怠惰の魔女因子。

 

「インビジブル……」

 

 胃がひっくり返る。

 

 頭が割れる。

 

 それでも、握る。

 

「プロヴィデンス!」

 

 不可視の腕が伸びた。

 

 獣化が崩れかけたガーフィールの顎を、下から撃ち抜く。

 

「がっ――!」

 

 ガーフィールの巨体が浮いた。

 

 同時に、スバルの体にも激しい反動が走る。

 

 右腕が軋み、視界が白く飛ぶ。

 

「ぐ、あ……っ」

 

 膝が落ちる。

 

 だが、ガーフィールもまだ終わらない。

 

 獣の姿が崩れかけたまま、最後の力でスバルへ向かう。

 

 その瞬間、黒い影が横から飛び込んだ。

 

 パトラッシュだった。

 

 地竜の巨体が、ガーフィールの獣の体へ体当たりする。

 

 重い衝撃。

 

 石床が震えた。

 

 ガーフィールとパトラッシュが、もつれるように倒れ込む。

 

 スバルも、反動と傷でその場に崩れた。

 

 視界がぐるりと回る。

 

 エミリアの叫ぶ声。

 

 ユイの駆け寄る気配。

 

 パトラッシュの低い声。

 

 それらが遠ざかっていく。

 

「……やべ」

 

 スバルは、かすれた声で呟いた。

 

「勝ったかどうか、確認する前に……落ちるの、締まらねぇ……」

 

 そこで、意識が途切れた。

 

 次に目を覚ました時、空は夜だった。

 

 頬に柔らかい感触があった。

 

 視界の上に、銀色の髪が揺れている。

 

「……天使?」

 

「起きた?」

 

 エミリアの声だった。

 

 スバルは数秒、ぼんやりとその顔を見上げた。

 

 それから、自分の頭がエミリアの膝に乗っていることに気づいた。

 

「……これは」

 

「動いちゃだめ」

 

「いや、動かない。むしろ永住したい」

 

「そういうこと言う元気があるなら、少し安心していいのかな」

 

 エミリアは呆れたように言ったが、その目は赤かった。

 

 泣いたのだろう。

 

 心配して。

 

 スバルは苦笑しようとして、痛みに顔をしかめる。

 

「いってぇ……」

 

「当たり前だよ。あんな無茶して」

 

「ガーフィールは?」

 

「向こう」

 

 エミリアが視線を動かす。

 

 少し離れた場所で、ガーフィールが寝かされていた。

 

 頭は、ラムの膝の上にある。

 

 ラムは当然のような顔で座り、眠るガーフィールを見下ろしている。

 

 その横で、オットーが座り込んでいた。

 

 顔は腫れ、服は破れ、見事にぼろぼろだ。

 

 スバルはそれを見た瞬間、反射的に起き上がろうとした。

 

「ぐっ……!」

 

「スバル!」

 

 エミリアが慌てて支える。

 

 だが、スバルは痛みをこらえて立ち上がると、そのままオットーへ向かって突っ込んだ。

 

「オットーォォォ!」

 

「え、ちょ、待っ――」

 

 スバルはオットーへタックルした。

 

 二人そろって地面に転がる。

 

「痛い痛い痛い! 僕、怪我人! 怪我人なんですけど!」

 

「生きてた!」

 

「生きてますよ! 勝手に殺さないでください!」

 

「お前、ほんとよくやった!」

 

 スバルはオットーの肩を掴んで揺さぶった。

 

「お前がいなかったら、ここまで来られなかった。マジで助かった。ありがとな!」

 

 オットーは、揺さぶられながら目を白黒させた。

 

「わ、わかりましたから! 感謝は受け取りますから! 傷に響く!」

 

 ラムの冷たい声が飛ぶ。

 

「バルス、騒がしいわ。ガーフが起きるでしょう」

 

「すでに起きてんだよ」

 

 低い声がした。

 

 ガーフィールだった。

 

 彼はラムの膝の上で目を開け、ぼんやりと空を見ていた。

 

 数秒して、自分の状況に気づく。

 

 顔が一気に赤くなった。

 

「……は?」

 

 ラムが見下ろす。

 

「起きたの?」

 

「なんで、俺様が……」

 

「ラムの膝で寝ていたわ」

 

「言うな!」

 

「事実よ」

 

「言うなっつってんだろ!」

 

 ガーフィールは起き上がろうとして、痛みに顔をしかめた。

 

 ラムはその額を指で軽く押す。

 

「動かない」

 

「ぐっ……」

 

「敗者は大人しくしていなさい」

 

「誰が敗者だ!」

 

「あなたよ」

 

 即答だった。

 

 ガーフィールは言葉を失う。

 

 スバルはオットーから離れ、ふらふらとガーフィールの方へ歩いた。

 

 ユイが横から支える。

 

「まだ立たないで」

 

「今だけ」

 

「その言葉、信用がないわ」

 

「あとで怒って」

 

「もう怒っているわ」

 

 スバルは苦笑しながら、ガーフィールの前に立った。

 

「よお」

 

「……てめぇ」

 

「軍門に下る準備はできたか?」

 

「あ?」

 

 ガーフィールが眉を吊り上げる。

 

「誰が、誰の軍門に下るって?」

 

「いや、流れ的にお前が俺の軍門に下るのかなって」

 

「寝言は寝て言え!」

 

「寝起きはお前だろ」

 

「うるせぇ!」

 

 ラムが淡々と言った。

 

「負けたのだから、軍門に下るぐらい言ってもいいのでは?」

 

「ラムまで!?」

 

「むしろ、言い方が気に入らないなら、配下でも子分でも」

 

「どれも嫌だ!」

 

 スバルは笑った。

 

 ガーフィールは悔しげに歯を食いしばる。

 

 だが、その目からは、先ほどまでの獣じみた怒りが消えていた。

 

 代わりに残っているのは、迷いと、痛みと、まだ消えない恐怖。

 

 スバルは笑みを消す。

 

「ガーフィール」

 

「……なんだよ」

 

「行けるか」

 

 その一言で、ガーフィールの顔が強張った。

 

 どこへ、とは言わない。

 

 墓所だ。

 

 試練だ。

 

 自分が壊そうとした場所。

 

 母の記憶が待つ場所。

 

 ガーフィールは唇を噛んだ。

 

「……俺様に、また見ろってのか」

 

「ああ」

 

「ふざけんなって言いたいところだが……」

 

 ガーフィールはラムを見た。

 

 ラムは何も言わない。

 

 ただ、まっすぐ見ている。

 

 逃げるな、と。

 

 そう言っている目だった。

 

 ガーフィールは顔を背ける。

 

「……行けばいいんだろ」

 

 声は震えていた。

 

 だが、逃げる声ではなかった。

 

 スバルは頷く。

 

「行ってこい」

 

「待ってろよ」

 

「ああ。待ってる」

 

「戻ってくる前に寝てんじゃねぇぞ」

 

「膝枕の誘惑には勝てる気がしねえけど、努力する」

 

「そこは勝てよ!」

 

 ガーフィールは吐き捨てるように言って、墓所へ向かう。

 

 その足取りは重い。

 

 体もぼろぼろだ。

 

 けれど、墓所へ向かう背中は、もう壊すためのものではなかった。

 

 向き合うための背中だった。

 

 墓所の中へ、ガーフィールが消える。

 

 沈黙が落ちた。

 

 スバルは、痛む体を抱えながら入口を見つめる。

 

「ちゃんと見てこい」

 

 小さく呟く。

 

 白い世界の中で、ガーフィールは過去を見た。

 

 幼い自分。

 

 幼いフレデリカ。

 

 そして、母。

 

 母は出ていこうとしていた。

 

 外へ。

 

 聖域の外へ。

 

 幼いガーフィールは、それを裏切りだと思っていた。

 

 自分たちを置いて、自分だけ外の幸せを探しに行くのだと。

 

 だから、睨んだ。

 

 怒った。

 

 泣かないように、強がった。

 

 けれど、今のガーフィールは違うものを見た。

 

 母の目。

 

 震える声。

 

 抱きしめる腕の強さ。

 

 離したくないと、全身で叫んでいるのに、それでも出ていこうとする姿。

 

 父を探しに行く。

 

 家族を、もう一度揃えるために。

 

 それは、捨てるための別れではなかった。

 

 迎えに行くための別れだった。

 

 場面が変わる。

 

 雨。

 

 崖道。

 

 崩れる斜面。

 

 土砂に呑まれる竜車。

 

 母の最後。

 

 ガーフィールは膝をついた。

 

 見た。

 

 昔も見た。

 

 でも、昔はそこで全部を決めつけた。

 

 外へ行ったから死んだ。

 

 自分たちを置いたから死んだ。

 

 だから外は奪う。

 

 だから誰も出してはいけない。

 

 そう思わなければ、耐えられなかった。

 

 でも、違った。

 

 母は捨てたのではない。

 

 戻るつもりだった。

 

 自分たちを、家族を、愛していた。

 

「母ちゃん……」

 

 涙が落ちる。

 

 止まらない。

 

 ガーフィールは、顔をぐしゃぐしゃにして泣いた。

 

「俺様……行くよ」

 

 怖い。

 

 外は怖い。

 

 それでも行く。

 

 母が目指した場所へ。

 

 姉がいる場所へ。

 

 自分が止めていた未来へ。

 

「俺様も、行く」

 

 白い光が、彼を包んだ。

 

 墓所の入口に影が現れた。

 

 ガーフィールだった。

 

 泣いた跡がはっきり残っている。

 

 目元は赤く、顔はぐしゃぐしゃだった。

 

 だが、先ほどまでの刺々しさは消えていた。

 

「……なんだよ」

 

 ガーフィールは、視線を逸らした。

 

「見んな」

 

「いや、見てねえよ」

 

 スバルは即答した。

 

「見てんだろ」

 

「ちょっとだけ」

 

「殺すぞ」

 

「元気そうで何より」

 

 ガーフィールは舌打ちした。

 

 ラムが近づく。

 

「泣いたの?」

 

「泣いてねぇ」

 

「目が赤いわ」

 

「砂が入った」

 

「墓所に?」

 

「うるせぇ!」

 

 ラムは、ほんの少しだけ笑った。

 

「格好悪いわね」

 

「……」

 

「でも、少しはましな顔になったわ」

 

 ガーフィールは言い返せなかった。

 

 顔を赤くして、乱暴に頭をかく。

 

 そして、スバルを見た。

 

 スバルはユイに支えられながら立っている。

 

 満身創痍。

 

 それでも、笑っていた。

 

「で、どうする?」

 

 スバルが聞く。

 

 ガーフィールは鼻を鳴らした。

 

「俺様は、てめぇらに協力してやる」

 

「素直じゃねえな」

 

「うるせぇ」

 

 ガーフィールは少しだけ視線を逸らし、それから戻した。

 

「……大将」

 

 スバルが目を瞬かせた。

 

「今、なんて?」

 

「二度言わねぇ」

 

「いや、言ったよな? 大将って言ったよな?」

 

「聞き間違いだ」

 

「絶対言った!」

 

「うるせぇ!」

 

 オットーが横からため息をつく。

 

「負けた相手を大将呼びするタイプだったんですね」

 

「てめぇも黙れ、商人!」

 

 スバルは笑った。

 

 痛みに顔をしかめながら、それでも笑った。

 

「よろしくな、ガーフィール」

 

「馴れ馴れしくすんな」

 

「大将にその態度?」

 

「調子乗んな!」

 

 空気が、ほんの少しだけ軽くなる。

 

 けれど、まだ終わりではない。

 

 エミリアは、墓所を見ていた。

 

 怖さは残っている。

 

 指先が震えている。

 

 けれど、ガーフィールが戻ってきた。

 

 逃げていた過去を見て、戻ってきた。

 

 その事実が、彼女の背中を押していた。

 

「私も、行く」

 

 エミリアが言った。

 

 スバルが振り返る。

 

「エミリア」

 

「怖いよ。まだ、すごく怖い。でも、逃げたままじゃ変われない。スバルも、ガーフィールも行った。だから、私も行く」

 

「一人じゃない」

 

 スバルは言った。

 

「外で待ってる」

 

「うん」

 

 エミリアは頷く。

 

 それから、少しだけ頬を赤くした。

 

「全部終わったら、その……約束して」

 

「約束?」

 

「ちゃんと、二人で出かけるの。誰かを助けるためとか、戦うためじゃなくて。ただ、二人で」

 

 スバルは一瞬ぽかんとした。

 

 それから、顔を輝かせる。

 

「つまりデートですね!」

 

「で、でーとって言い方はまだ早いと思う!」

 

「いやいや、これは完全にデートでしょう。異議は認めません」

 

「もう、スバル!」

 

 エミリアは慌てる。

 

 けれど、その顔には笑みがあった。

 

 ユイはその横で小さく息を吐いた。

 

「エミリア様」

 

「ユイ?」

 

「戻ってきたら、水を用意しておきます」

 

「泣く前提なの?」

 

「泣いても、戻ってくる前提です」

 

 エミリアは目を丸くした。

 

 それから、柔らかく笑った。

 

「ありがとう」

 

「いってらっしゃい」

 

 エミリアは頷き、墓所へ足を踏み入れた。

 

 スバルとガーフィールは、並んでその背中を見送った。

 

 ガーフィールが、ぼそりと言う。

 

「大将」

 

「ん?」

 

「姫様、大丈夫なのかよ」

 

「怖いだろうな」

 

 スバルは正直に答えた。

 

「でも、あいつは行った。なら、俺たちは待つしかねえ」

 

「待つだけかよ」

 

「ただ待つんじゃねえよ」

 

 スバルは少しだけ得意げに笑った。

 

「俺なりに、応援は仕込んである」

 

「あ?」

 

 墓所の中。

 

 エミリアは白い光の中を歩いていた。

 

 足は震えている。

 

 怖い。

 

 また見せられる。

 

 思い出したくないもの。

 

 忘れていたもの。

 

 それでも、進む。

 

 その時、石壁に文字が見えた。

 

 エミリアは足を止める。

 

 壁に、拙い文字が書かれていた。

 

 あちこちに。

 

 いくつも。

 

 スバルの字だった。

 

 大きな文字。

 

 少し曲がった文字。

 

 ところどころ妙な勢いのある文字。

 

 そこには、エミリアを励ます言葉が並んでいた。

 

 大丈夫。

 

 戻ってこい。

 

 怖くても進め。

 

 俺は外で待ってる。

 

 エミリアならできる。

 

 泣いてもいい。

 

 それでも、君は君だ。

 

 エミリアは、息を呑んだ。

 

 壁一面に、スバルの応援があった。

 

 彼が約束の時間を破ってまで、ここに残した言葉。

 

 彼なりの、外からの支え。

 

「……スバル」

 

 涙が滲む。

 

 でも、今度の涙は、恐怖だけではなかった。

 

 エミリアは、そっと壁の文字に触れた。

 

 外で待つと言った彼の声が、胸の中で響く。

 

 その頃、墓所の外では、スバルとガーフィールが入口を見上げていた。

 

 オットーは少し離れて座り込み、ラムはガーフィールの様子を横目で見ている。

 

 ユイだけが、音もなくその場を離れた。

 

 誰にも気づかれないように、というほどではない。

 

 ただ、今のスバルはエミリアから目を離さない。

 

 ガーフィールも、墓所を見上げている。

 

 だから、ユイが離れても、誰も引き止めなかった。

 

 向かう先は、ロズワールの部屋だった。

 

 扉の前に立ち、軽く叩く。

 

「どうぞぉ」

 

 いつもの間延びした声。

 

 ユイは扉を開けた。

 

 包帯だらけのロズワールは寝台に横たわっていた。

 

 あれほどの怪我を負ってなお、その顔には道化の笑みが貼りついている。

 

「おや、ユイくぅん。今夜はずいぶんと忙しそうだねぇ」

 

「ええ」

 

 ユイは扉を閉める。

 

 部屋に、静かな音が落ちた。

 

「ガーフィールさんは試練を越えました。エミリア様も墓所へ入った。スバルくんはまた、自分の体を削って道を作った」

 

「素晴らしい成果だねぇ」

 

 ロズワールは楽しげに言った。

 

 その言葉に、ユイの目が細くなる。

 

「成果」

 

「違うかな?」

 

「違わないわ。あなたにとっては、そうなのでしょうね」

 

 ユイは寝台のそばへ歩み寄る。

 

「スバルくんが傷つくことも、エミリア様が追い詰められることも、ガーフィールさんが壊れかけることも、あなたにとっては成果へ至る過程でしかない」

 

「ずいぶんと手厳しい」

 

「まだ優しい方よ」

 

 ユイはロズワールを見下ろした。

 

「あなたの目的は、聖域の解放だけではない。エミリア様の成長だけでもない。あなたはスバルくんを、自分と同じ場所まで引きずり下ろしたい」

 

 ロズワールの笑みが、ほんの一瞬だけ止まった。

 

「……面白いことを言うねぇ」

 

「屋敷と聖域。ベアトリスさんとエミリア様。村人と屋敷に残された者。あなたは問題を同時に並べ、彼に選ばせようとしている」

 

 ユイの声は冷静だった。

 

 感情を荒げない。

 

 怒りをぶつけない。

 

 ただ、知っている事実を一つずつ置いていく。

 

「全部は救えない。何かを切り捨てなければ進めない。そう理解させたい。あなたは、彼にそれを覚えさせようとしている」

 

 ロズワールは沈黙した。

 

 わずかに、目の奥の色が変わる。

 

 驚き。

 

 警戒。

 

 そして、興味。

 

「君は、どこまで知っているのかなぁ」

 

「あなたがエキドナに執着していること」

 

 ロズワールの指が、寝具の上で動いた。

 

「ベアトリスさんが四百年、禁書庫で“その人”を待たされていること」

 

 笑みが薄くなる。

 

「屋敷に刺客が向けられていること」

 

 ユイは止まらない。

 

「聖域に雪が降れば、飢えた兎が来ること」

 

 ロズワールの顔から、道化の軽さが消えた。

 

「あなたの本が、あなたをそこまで連れてきたこと」

 

 部屋の空気が変わる。

 

 それは殺気ではない。

 

 もっと静かで、重いものだった。

 

 ロズワールは、ゆっくりと息を吐いた。

 

「……驚いたよ」

 

「でしょうね」

 

「そこまで知られているとは思わなかった」

 

「でしょうね」

 

「だが、不思議だ。君はそれを知っていて、なぜ今まで言わなかった?」

 

「言っても、壊れるだけだったから」

 

 ユイは即答した。

 

「スバルくんは怒る。エミリア様は傷つく。ラムさんは揺らぐ。ベアトリスさんは閉じこもる。ガーフィールさんは余計に暴れる。あなたは予定を変える」

 

「私が予定を変えると困る?」

 

「困るわ」

 

 ユイは言った。

 

「あなたは邪魔だけれど、必要でもあるから」

 

 ロズワールの口元に、笑みが戻る。

 

「ひどい評価だねぇ」

 

「正確な評価よ」

 

「なら、君は私をどうするつもりかな。断罪する? 殺す? それともスバルくんにすべて話して、私を悪役にする?」

 

「どれもしない」

 

 ロズワールの眉がわずかに動く。

 

「では?」

 

「釘を刺しに来た」

 

「釘?」

 

「ええ」

 

 ユイは一歩、寝台へ近づいた。

 

「あの取引の場に、私もいた。スバルくんはあなたに宣言した。屋敷も、聖域も、エミリア様も、ベアトリスさんも、すべて救ってみせると。できなければ、あなたの望む形を認めると」

 

 ロズワールは黙っている。

 

 否定しない。

 

 ユイは続けた。

 

「あなたはそれを受けた。なら、余計なことをしないで」

 

「余計なこと?」

 

「追加で絶望を盛らない。スバルくんが選ぶ前に選択肢を潰さない。あなたの都合で、彼が自分で掴もうとしている道をさらに歪めない」

 

「それは、私に手を抜けということかなぁ」

 

「違うわ」

 

 ユイは即座に否定した。

 

「あなたはあなたのままでいい。屋敷の刺客も、聖域の雪も、ベアトリスさんの問題も、あなたがすでに配置したものはそのままでいい。スバルくんは、それを承知であなたに啖呵を切った」

 

 そこで、ユイの声がさらに低くなる。

 

「でも、取引が成立した後に、あなたがさらに横から手を加えるのは違う」

 

「……」

 

「純粋に受け入れなさい。スバルくんの取引を。彼が自分で背負った無謀を。自分で選んだ道を」

 

 ロズワールは、ユイを見つめる。

 

「それは、彼のため?」

 

「いいえ」

 

 ユイは首を振った。

 

「私のためよ」

 

 はっきりと言った。

 

 ロズワールは、数秒だけ黙った。

 

 その沈黙の中で、彼はユイの言葉の奥にあるものを測っていた。

 

 善意ではない。

 

 正義でもない。

 

 まして、ただの友情でもない。

 

 もっと個人的で、もっと暗い執着。

 

 それを、ユイは隠そうともしなかった。

 

「君は、私の邪魔をしに来たのかい?」

 

「今は違うわ」

 

「今は?」

 

「あなたが取引を守るなら、邪魔はしない」

 

「守らなければ?」

 

 ユイは胸元へ手を入れた。

 

 そして、一冊の黒い本を取り出した。

 

 古びた表紙。

 

 薄い紙束。

 

 それは、ただの本には見えなかった。

 

 見た瞬間、ロズワールの目が変わる。

 

 福音書。

 

 その気配を、彼は知っている。

 

「それは……」

 

「これを出す意味は一つよ」

 

 ユイは本を胸の前に掲げた。

 

「あなたが、本に従う人間だから」

 

 ロズワールの笑みが消える。

 

「あなたは、言葉だけの脅しでは動かない。感情論では取引しない。なら、あなたが理解する形式で話すしかない」

 

「福音書を持つ者として、私と交渉するつもりかい?」

 

「ええ」

 

 ユイは静かに名乗った。

 

「魔女教大罪司教」

 

 一拍。

 

「虚飾担当、雪白ユイ」

 

 その声は穏やかだった。

 

 だからこそ、異様だった。

 

 ロズワールはすぐには答えなかった。

 

 大罪司教。

 

 虚飾担当。

 

 そんな席は存在しない。

 

 存在しないはずだ。

 

 だが、完全に否定しようとした瞬間、記憶の奥に薄い靄がかかった。

 

 いたか。

 

 いや、いない。

 

 だが、聞いたような気もする。

 

 虚飾。

 

 そういう担当が、最初から大罪の列に紛れていたような違和感。

 

 ロズワールは、その違和感を認識した。

 

 そして、認識した瞬間、それがただの錯覚ではないことにも気づいた。

 

「……虚飾、か」

 

 ユイは説明しない。

 

 どうやってその枠を作ったのか。

 

 どこまで認識を浸食したのか。

 

 いつ完成したのか。

 

 それを語る必要はない。

 

 ロズワールに必要なのは、理屈ではない。

 

 目の前の結果だ。

 

 彼は今、完全には否定できなかった。

 

 それだけで十分だった。

 

「あなたは叡智の書に従う。なら、私は福音書を持つ者として、同じ土俵に立つ」

 

 ユイは本を閉じたまま言った。

 

「これは脅しの小道具ではないわ。取引の資格証明よ」

 

「資格証明」

 

「ええ」

 

「自分は、私が無視していいただの少女ではないと?」

 

「そういうこと」

 

 ユイは淡々と答える。

 

「あなたがスバルくんとの取引を純粋に受け入れるなら、私は今夜これ以上あなたの盤面を乱さない」

 

「乱すことができると?」

 

「できるわ」

 

「随分な自信だ」

 

「自信ではなく、事実よ」

 

 その言い方に、ロズワールは沈黙した。

 

 ユイは続ける。

 

「逆に、あなたが余計な手を加えるなら、私は虚飾を使う。あなたの予定にない認識を混ぜる。存在しないはずの余白を置く。あるはずの確信を曖昧にする」

 

「それは困るねぇ」

 

「でしょうね」

 

「脅しだ」

 

「ええ」

 

 ユイは認めた。

 

「私は正義の味方ではないもの」

 

 ロズワールは、しばらくユイを見ていた。

 

 その目には、明らかな興味があった。

 

 そして、同時に警戒もある。

 

 スバルとは違う異常。

 

 エミリアとも、ガーフィールとも、ベアトリスとも違う。

 

 福音書を持ち、存在しないはずの大罪司教を名乗り、スバルの苦しみを望みながらも、完全な破滅だけは拒む少女。

 

「君は、私の考えに賛成しない」

 

「しないわ」

 

「だが、私を排除もしない」

 

「今はね」

 

「理由は、スバルくんの曇った顔を見るため」

 

「正確には、曇ってもなお立つ顔を見るため」

 

「大差ないように聞こえるねぇ」

 

「重要な差よ」

 

 ロズワールは笑った。

 

 やがて、ゆっくりと頷く。

 

「いいだろう。取引を受けよう」

 

 ユイは表情を変えない。

 

「賢明ね」

 

「私は、スバルくんとの取引を純粋に受ける。すでに置いた盤面以上の横槍は入れない」

 

「それだけでは足りないわ」

 

 ユイが言った。

 

 ロズワールの目が細くなる。

 

「まだあるのかい?」

 

「ええ」

 

 ユイは、ロズワールをまっすぐ見た。

 

「スバルくんが取引に勝った場合、その後も余計なことをしないで」

 

 ロズワールの笑みが、ほんの少し止まる。

 

「その後?」

 

「彼が屋敷を救い、聖域を救い、エミリア様を立たせ、ベアトリスさんを連れ出し、あなたの条件を満たした場合――その時点であなたの負けよ」

 

「……」

 

「負けた後に、別の条件を持ち出さない。別の盤面を開かない。彼が勝ち取った結果を、あなたの本の都合でひっくり返さない」

 

「私が、そんなことをすると?」

 

「あなたならする可能性がある」

 

 ユイは即答した。

 

「だから今、条件に入れる」

 

 ロズワールは黙った。

 

 それから、くつくつと笑い始めた。

 

「本当に、容赦がないねぇ」

 

「あなた相手に容赦する理由がないもの」

 

「なるほど」

 

 ロズワールは目を細める。

 

「つまり、君の条件は二つ。取引中に余計な横槍を入れないこと。そして、彼が勝った後に、その勝利を汚さないこと」

 

「ええ」

 

「私が負けを認めることまで含めて?」

 

「もちろん」

 

 ユイは言った。

 

「スバルくんが勝ったら、あなたは負ける。それが取引でしょう」

 

「厳しいねぇ」

 

「純粋な取引を望むなら当然よ」

 

 しばらく、二人は黙って見つめ合った。

 

 ロズワールが先に目を細める。

 

「いいだろう」

 

 ユイは表情を変えない。

 

「言葉だけでは足りないわ」

 

「では、どうする?」

 

「あなたの本に誓う必要はない。あなた自身の執着に誓いなさい」

 

 ロズワールの目が、わずかに鋭くなる。

 

「エキドナに?」

 

「ええ」

 

 ユイは静かに言った。

 

「あなたが本当に彼女へ至りたいなら、取引の形を自分で汚さないことね。スバルくんが勝ったなら、その勝利を認める。それができないなら、あなたはエキドナへの執着すら、自分の都合で飾るだけの道化よ」

 

 空気が凍る。

 

 ロズワールの目から笑みが消えた。

 

 だが、怒鳴らない。

 

 殺気も出さない。

 

 ただ、静かにユイを見る。

 

「……君は、踏み込むねぇ」

 

「踏み込むために来たの」

 

 長い沈黙の後、ロズワールは笑った。

 

「いいだろう。誓おう」

 

 声は低かった。

 

「スバルくんが取引に勝ったなら、私はその結果を認める。追加の横槍は入れない。勝利を汚さない」

 

「取引中も」

 

「取引中も、すでに置いたもの以上には手を加えない」

 

「よろしい」

 

 ユイは頷いた。

 

 ロズワールは、薄く笑う。

 

「君は、本当に嫌なところを突く」

 

「褒め言葉として受け取らないわ」

 

「褒めているとも」

 

「なお悪い」

 

 ユイは福音書を胸元へ戻した。

 

「では、取引成立ね」

 

「そうだねぇ」

 

 ロズワールは、ゆっくりと言った。

 

「彼が勝てば、私の負け。彼が失敗すれば、私の勝ち」

 

「それでいい」

 

「君は、それを見届ける?」

 

「ええ」

 

 ユイは答えた。

 

「一番近い場所で見るわ。スバルくんがどんな顔をして、どんな選択をするのか」

 

「もし、彼が君を拒んだら?」

 

「それも見たいわね」

 

 ロズワールの笑みが、少し止まった。

 

 ユイは、微かに笑っていた。

 

「私を信じていた顔が曇る。怒りで歪む。裏切られたと傷つく。それでも、最後に私をどう扱うのか。見たいでしょう?」

 

「……君は本当に」

 

 ロズワールは、呆れとも感嘆ともつかない息を吐く。

 

「いかれているねぇ」

 

「あなたほどではないわ」

 

「いや」

 

 ロズワールは薄く笑った。

 

「方向が違うだけで、十分に同類だよ」

 

「一緒にしないで」

 

 ユイは扉へ向かう。

 

 その背に、ロズワールの声がかかる。

 

「ユイくぅん」

 

「何?」

 

「虚飾は、いつか剥がれるよ」

 

「ええ」

 

 ユイは振り返らずに答えた。

 

「その時のスバルくんの顔も、きっと綺麗でしょうね」

 

 扉が閉まった。

 

 廊下へ出ると、夜気が冷たかった。

 

 ユイは胸元に手を当てる。

 

 そこには、黒い福音書がある。

 

 存在しないはずの大罪司教。

 

 虚飾担当。

 

 雪白ユイ。

 

 ロズワールは取引を受けた。

 

 信用ではない。

 

 信頼でもない。

 

 ただ、互いの狂気の形を理解しただけ。

 

 そして、条件は増えた。

 

 取引中に余計な手を加えないこと。

 

 スバルが勝ったなら、その後も勝利を汚さないこと。

 

 ロズワールは誓った。

 

 エキドナへの執着にかけて。

 

 それだけで十分だった。

 

 墓所の方角から、かすかな光が漏れている。

 

 エミリアはまだ中にいる。

 

 スバルは外で待っている。

 

 ユイは歩き出す。

 

 秘密を胸に隠したまま。

 

 剥がれる日を、少しだけ楽しみにしながら。

  1. 目次
  2. 小説情報
  3. 縦書き
  4. しおりを挟む
  5. お気に入り登録
  6. 評価
  7. 感想
  8. ここすき
  9. 誤字
  10. よみあげ
  11. 閲覧設定

▲ページの一番上に飛ぶ
X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧 ※ログインせずに感想を書き込みたい場合はこちら
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。

評価する
※参考:評価数の上限
評価する前に 評価する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。


  1. 目次
  2. 小説情報
  3. 縦書き
  4. しおりを挟む
  5. お気に入り登録
  6. 評価
  7. 感想
  8. ここすき
  9. 誤字
  10. よみあげ
  11. 閲覧設定

読者層が似ている作品 総合 二次 オリ

魔女教大罪司教『傲慢』担当になってしまったTS僕っ子ロリ(作者:あのさぁBOT)(原作:Re:ゼロから始める異世界生活)

主人公スバルが座っていたかもしれない、大罪司教の空席『傲慢』。▼その席に一足早く座っちゃったTS僕っ子ロリの話。▼アニメ勢のにわかです。原作と違う点があっても許して▼(以下微ネタバレ注意)▼主人公描いてみました。少しでも想像の手助けになると幸いです。▼絵柄は合わせてないです(怠惰)▼↓▼【挿絵表示】▼


総合評価:6894/評価:8.7/連載:13話/更新日時:2026年05月15日(金) 12:08 小説情報

『虚飾』から始めるヒーローアカデミア(作者:百合カプはいいぞ)(原作:僕のヒーローアカデミア)

『虚飾の魔女』パンドラの成り主がパンドラっぽいエミュをしながらヒロアカの世界を楽しむ話▼なお、パンドラ成り主の他にエキドナ成り主も存在する模様▼地雷要素マシマシなので自衛推奨


総合評価:2066/評価:8.48/短編:10話/更新日時:2026年04月08日(水) 21:00 小説情報

Re:TS白黒ストライプバニー老害によるナツキ・スバルの悲喜劇観賞会(作者:F・M・T (フランチェスカ、マジ年増))(原作:Re:ゼロから始める異世界生活)

「アハハハハッ!始まり、始まりぃー♪パンフレット買った?ポップコーン持った?早くしないと世紀の戦いを見逃しちゃうよ?」▼ Fakeのあのキャラに転生したオリ主が、スバル君の奮闘を眺めてケラケラ笑いながら観賞をする話。▼「……あれれー?もしかして、このスバル君。放っておいたら正史から簡単に外れちゃうぅ?」


総合評価:4748/評価:8.79/連載:3話/更新日時:2026年05月07日(木) 18:00 小説情報

七崩賢『強欲の魔女』エキドナ(偽物)(作者:魔女の茶会のお茶汲み係)(原作:葬送のフリーレン)

 フリーレン世界にエキドナ憑依系TS転生者をぶち込んで、ただただエキドナロールプレイさせるだけの愉快なお話。▼「ボクはただ、君の全てを知りたいだけさ」▼ なおスペックは、種族が魔族になった以外まんまエキドナと同程度の力を扱えるが、頭が少しばかり残念になってます。▼「お前はその好奇心を満たすためにどれだけの人間を殺したんだ」▼ ちなこの転生者は人殺したことはあ…


総合評価:4721/評価:8.37/連載:2話/更新日時:2026年04月05日(日) 22:18 小説情報

不幸にも虚飾の魔女に懐かれてしまった男(作者:OZ)(原作:Re:ゼロから始める異世界生活)

リゼロ世界に転移してしまったオリ主が不幸にも虚飾の魔女に出会い、▼あまつさえ気に入られてしまった話。▼時間軸的には、スバル転移より少し前からスタート。


総合評価:13820/評価:8.84/連載:22話/更新日時:2026年04月15日(水) 23:49 小説情報


小説検索で他の候補を表示>>