「話そうぜ、ガーフィール」
スバルは言った。
「お前と、ちゃんと向き合いに来た」
墓所の前。
夜気は冷たく、石段には月明かりが落ちていた。
その下で、ガーフィールは荒い息を吐いている。
服は裂け、体には傷が刻まれ、頬には血が滲んでいた。
オットーとラムが命がけで稼いだ時間。
その結果が、今のガーフィールの姿だった。
けれど、倒れてはいない。
むしろ、傷ついた分だけ獣じみていた。
怒り。
焦り。
それから、もっと奥にある何か。
それら全部を牙の奥に押し込めるように、金色の瞳をぎらつかせている。
「向き合う、だァ?」
ガーフィールが低く唸った。
「今さら何を話すってんだよ。墓所を使って聖域を開く。そいつを止める。俺様がやることは、それだけだろうが」
「墓所を壊すつもりか」
「ああ」
迷いはなかった。
「試練なんざなけりゃいい。墓所なんざなけりゃいい。聖域を出る道なんざ、最初からなけりゃいい。そうすりゃ、誰も外なんか見ねぇ」
エミリアが息を呑んだ。
スバルの横で、ユイも静かに目を細める。
その言葉は、守るためのものではなかった。
閉じるための言葉だった。
怖いものを見ないために、入り口ごと壊そうとしている。
スバルは一段、階段を降りた。
「なあ、ガーフィール」
「あ?」
「お前、本当に聖域を守りたいのか」
ガーフィールの目が鋭くなる。
「何が言いてぇ」
「今のお前は、守るってより、閉じ込めようとしてるように見える」
「同じだろうが」
「違う」
スバルは首を振った。
「守るってのは、外に出たい奴の足を折ることじゃない。見たくないものを見せる場所を壊すことでもない」
「知ったような口をきくな」
「知らねえよ」
スバルは即答した。
「俺は、お前が何を見たのか知らない。どうしてそこまで墓所を壊したいのかも知らない。だから聞きに来たんだろ」
「……」
「何を見たんだよ、ガーフィール」
ガーフィールの喉が、低く鳴った。
牙を剥いているのに、答えがすぐ出てこない。
言いたくない。
思い出したくない。
その感情が、怒りの奥で震えている。
「……母ちゃんだ」
ようやく漏れた声は、ひどく低かった。
「試練で見た。母ちゃんが、俺様と姉貴を置いて、聖域の外へ出ていくところを」
エミリアの表情が曇る。
スバルは、黙って聞いた。
「母ちゃんは出ていった。俺様たちを置いて。外へ行って、そんで死んだ。土砂崩れに巻き込まれて、あっさりだ」
ガーフィールの拳が震えていた。
「外なんざ、ろくなもんじゃねぇ。出ていった奴は戻ってこねぇ。だったら、誰も出なきゃいい。墓所なんざ壊して、試練なんざ終わらせて、聖域を閉じたままにすりゃいい」
それは、子どもの叫びだった。
母を失った子どもが、もう二度と誰も出ていかないようにと願った叫び。
ガーフィールは、それを「聖域を守る」という言葉で覆っていた。
スバルは息を吸った。
知ったように言ってはいけない。
今の自分は、ガーフィールの母親の真意を知らない。
ただ、言えることはある。
「お前が見たのは、母ちゃんが外へ出て、死んだところなんだな」
「そう言ってんだろ」
「じゃあ、そこで止まってんだよ」
ガーフィールの目が見開かれる。
「何……?」
「お前の時間が、そこで止まってる。外へ出て、死んだ。その場面で、ずっと止まってる」
「黙れ」
「だから、墓所を壊そうとしてるんだろ。もう二度とそこを見なくて済むように。誰にも見せなくて済むように」
「黙れっつってんだろ!」
ガーフィールが吠えた。
体が膨れ上がる。
筋肉が隆起し、骨格が軋み、獣の気配が一気に濃くなる。
エミリアが前に出かけた。
「ガーフィール、やめて!」
「エミリア!」
スバルが強く呼んだ。
真剣な声だった。
いつもの「エミリアたん」ではない。
彼女を守るためではなく、彼女を戦場の中心から遠ざけるための声。
「今は俺が話す。エミリアは下がっててくれ」
「でも、スバルが――」
「大丈夫じゃないけど、大丈夫にする!」
「それ、全然大丈夫じゃないよ!」
エミリアの声が震える。
それでも、スバルは前を見る。
ユイがエミリアの横へ立った。
「エミリア様。今はスバルくんに任せましょう」
「ユイ……」
「危なくなれば、私が動きます。けれど、ここで彼の言葉を奪ってはいけない」
エミリアは唇を噛み、踏みとどまった。
ユイはガーフィールを見る。
そして、わずかに息を吐いた。
ここから先は、作戦の範囲だ。
作戦会議の後。
オットーとラムがガーフィールを足止めする段取りを確認したあと、ユイはスバルを呼び止めていた。
「スバルくん」
「ん?」
「ガーフィールさん相手に、正面から殴り合うのは無理よ」
「うん。俺もそこまで自分を見失ってない」
「それはよかった」
「もうちょっと信頼して?」
「信頼しているから、あなたにできることを増やすの」
ユイは、地面に小枝で簡単な円を描いた。
「攻撃魔法は無理。防御も間に合わない。あなたに必要なのは、ほんの一瞬だけ相手の感覚を鈍らせる魔法」
「俺向きってこと?」
「悔しいけれど、向いているわ。相手を倒す力じゃなくて、死なないための目くらまし。あなたにはそれくらいがちょうどいい」
「ちょうどいいの方向性が悲しい」
「悲しむのは生き残ってから」
ユイは淡々と言う。
「シャマク。陰属性の基礎魔法。相手の視界や感覚に黒い靄を落とす。ちゃんと使いこなさなくていい。ほんの一瞬、ガーフィールさんの突進が半歩ずれれば十分」
「半歩か」
「半歩あれば、直撃は避けられる。直撃を避けられれば、次がある」
「次って?」
「パックの結晶石」
スバルは、手の中の小さな結晶を見た。
エミリアから預かった、パックの気配が残る石。
「ガーフィールさんが獣化したら、これを当てる。獣化を支えているマナを少しでも削れば、勢いを殺せる可能性がある」
「可能性」
「確実なんて言えないわ」
「だよな」
「でも、何もしないよりはずっといい」
それから、ユイは付きっきりでシャマクの形だけを教えた。
スバルは何度も失敗した。
黒い靄どころか、自分の足元だけ暗くして転びかけた。
咳き込んだだけで終わった。
出した靄が薄すぎて、ユイに「今のは目くらましではなく、ただの気配」と評された。
「先生、評価が辛い」
「実戦では評価される前に殴られるわ」
「はい」
「もう一回」
何度目かの挑戦で、ほんの数秒だけ黒い靄が広がった。
ユイはそれを見て、ようやく頷いた。
「それでいい」
「今ので?」
「ええ。完成度は求めない。使いどころだけ間違えないで」
「使いどころを間違えたら?」
「殴られる」
「わかりやすい!」
「だから間違えないで」
ユイはスバルをまっすぐ見た。
「これは勝つための魔法じゃないわ」
「じゃあ、何のため?」
「あなたが、ちゃんと次の言葉を言うため」
スバルは一瞬、言葉を失った。
ユイは続ける。
「ガーフィールさんを倒すだけなら、別のやり方を考える。でも、あなたは話すつもりでしょう。だったら、まず死なないこと。倒されないこと。言葉が届くところに立ち続けること」
「……なるほど」
「だから、シャマク。あなたらしい、みっともないけどしぶとい戦い方よ」
「褒めてる?」
「かなり」
「なら受け取っとく」
そして今。
獣化したガーフィールが咆哮した。
黄金の毛並み。
巨大な爪。
石床を砕く脚。
それは、怒りと恐怖を鎧にした姿だった。
スバルは息を吸う。
足が震える。
怖い。
それでも、逃げない。
勝つためではない。
次の言葉を言うために。
「シャマク!」
黒い靄が弾けた。
不完全で、薄く、短い。
だが、獣化したガーフィールの視界と感覚を一瞬だけ濁らせた。
巨体の突進が半歩ずれる。
スバルを砕くはずだった爪が肩を掠め、石床を深く抉った。
「ぐっ……!」
血が飛ぶ。
直撃ではない。
それで十分だった。
スバルは、痛みを噛み殺して前へ飛び込む。
手にした結晶石を、獣化したガーフィールの体へ叩きつけるように押し当てた。
「吸え――!」
結晶石が淡く光る。
獣化を支える膨大なマナが、強引に吸い上げられていく。
ガーフィールの巨体が揺らぐ。
黄金の毛並みがざわめき、形が不安定になる。
「ぐ、ぅ……っ!」
ガーフィールの喉から、苦しげな声が漏れた。
効いている。
だが、止まりきらない。
「この程度で……俺様を止めた気かよ!」
「普通は止まる流れだろ、今の!」
スバルが叫ぶ。
獣の爪が振るわれる。
ユイが虚飾で軌道をほんの少しだけ逸らす。
それでも衝撃は逃がしきれない。
スバルは吹き飛ばされ、石床を転がった。
「スバル!」
エミリアの悲鳴が響く。
スバルは倒れたまま、右腕を押さえた。
まだ足りない。
シャマク。
結晶石。
それでも、ガーフィールは止まらない。
なら、最後の一手。
使いたくない力。
けれど、今は使わなければ届かない力。
スバルの右腕に、黒い熱が宿る。
自分の中にあるのに、自分のものではないような不快感。
怠惰の魔女因子。
「インビジブル……」
胃がひっくり返る。
頭が割れる。
それでも、握る。
「プロヴィデンス!」
不可視の腕が伸びた。
獣化が崩れかけたガーフィールの顎を、下から撃ち抜く。
「がっ――!」
ガーフィールの巨体が浮いた。
同時に、スバルの体にも激しい反動が走る。
右腕が軋み、視界が白く飛ぶ。
「ぐ、あ……っ」
膝が落ちる。
だが、ガーフィールもまだ終わらない。
獣の姿が崩れかけたまま、最後の力でスバルへ向かう。
その瞬間、黒い影が横から飛び込んだ。
パトラッシュだった。
地竜の巨体が、ガーフィールの獣の体へ体当たりする。
重い衝撃。
石床が震えた。
ガーフィールとパトラッシュが、もつれるように倒れ込む。
スバルも、反動と傷でその場に崩れた。
視界がぐるりと回る。
エミリアの叫ぶ声。
ユイの駆け寄る気配。
パトラッシュの低い声。
それらが遠ざかっていく。
「……やべ」
スバルは、かすれた声で呟いた。
「勝ったかどうか、確認する前に……落ちるの、締まらねぇ……」
そこで、意識が途切れた。
次に目を覚ました時、空は夜だった。
頬に柔らかい感触があった。
視界の上に、銀色の髪が揺れている。
「……天使?」
「起きた?」
エミリアの声だった。
スバルは数秒、ぼんやりとその顔を見上げた。
それから、自分の頭がエミリアの膝に乗っていることに気づいた。
「……これは」
「動いちゃだめ」
「いや、動かない。むしろ永住したい」
「そういうこと言う元気があるなら、少し安心していいのかな」
エミリアは呆れたように言ったが、その目は赤かった。
泣いたのだろう。
心配して。
スバルは苦笑しようとして、痛みに顔をしかめる。
「いってぇ……」
「当たり前だよ。あんな無茶して」
「ガーフィールは?」
「向こう」
エミリアが視線を動かす。
少し離れた場所で、ガーフィールが寝かされていた。
頭は、ラムの膝の上にある。
ラムは当然のような顔で座り、眠るガーフィールを見下ろしている。
その横で、オットーが座り込んでいた。
顔は腫れ、服は破れ、見事にぼろぼろだ。
スバルはそれを見た瞬間、反射的に起き上がろうとした。
「ぐっ……!」
「スバル!」
エミリアが慌てて支える。
だが、スバルは痛みをこらえて立ち上がると、そのままオットーへ向かって突っ込んだ。
「オットーォォォ!」
「え、ちょ、待っ――」
スバルはオットーへタックルした。
二人そろって地面に転がる。
「痛い痛い痛い! 僕、怪我人! 怪我人なんですけど!」
「生きてた!」
「生きてますよ! 勝手に殺さないでください!」
「お前、ほんとよくやった!」
スバルはオットーの肩を掴んで揺さぶった。
「お前がいなかったら、ここまで来られなかった。マジで助かった。ありがとな!」
オットーは、揺さぶられながら目を白黒させた。
「わ、わかりましたから! 感謝は受け取りますから! 傷に響く!」
ラムの冷たい声が飛ぶ。
「バルス、騒がしいわ。ガーフが起きるでしょう」
「すでに起きてんだよ」
低い声がした。
ガーフィールだった。
彼はラムの膝の上で目を開け、ぼんやりと空を見ていた。
数秒して、自分の状況に気づく。
顔が一気に赤くなった。
「……は?」
ラムが見下ろす。
「起きたの?」
「なんで、俺様が……」
「ラムの膝で寝ていたわ」
「言うな!」
「事実よ」
「言うなっつってんだろ!」
ガーフィールは起き上がろうとして、痛みに顔をしかめた。
ラムはその額を指で軽く押す。
「動かない」
「ぐっ……」
「敗者は大人しくしていなさい」
「誰が敗者だ!」
「あなたよ」
即答だった。
ガーフィールは言葉を失う。
スバルはオットーから離れ、ふらふらとガーフィールの方へ歩いた。
ユイが横から支える。
「まだ立たないで」
「今だけ」
「その言葉、信用がないわ」
「あとで怒って」
「もう怒っているわ」
スバルは苦笑しながら、ガーフィールの前に立った。
「よお」
「……てめぇ」
「軍門に下る準備はできたか?」
「あ?」
ガーフィールが眉を吊り上げる。
「誰が、誰の軍門に下るって?」
「いや、流れ的にお前が俺の軍門に下るのかなって」
「寝言は寝て言え!」
「寝起きはお前だろ」
「うるせぇ!」
ラムが淡々と言った。
「負けたのだから、軍門に下るぐらい言ってもいいのでは?」
「ラムまで!?」
「むしろ、言い方が気に入らないなら、配下でも子分でも」
「どれも嫌だ!」
スバルは笑った。
ガーフィールは悔しげに歯を食いしばる。
だが、その目からは、先ほどまでの獣じみた怒りが消えていた。
代わりに残っているのは、迷いと、痛みと、まだ消えない恐怖。
スバルは笑みを消す。
「ガーフィール」
「……なんだよ」
「行けるか」
その一言で、ガーフィールの顔が強張った。
どこへ、とは言わない。
墓所だ。
試練だ。
自分が壊そうとした場所。
母の記憶が待つ場所。
ガーフィールは唇を噛んだ。
「……俺様に、また見ろってのか」
「ああ」
「ふざけんなって言いたいところだが……」
ガーフィールはラムを見た。
ラムは何も言わない。
ただ、まっすぐ見ている。
逃げるな、と。
そう言っている目だった。
ガーフィールは顔を背ける。
「……行けばいいんだろ」
声は震えていた。
だが、逃げる声ではなかった。
スバルは頷く。
「行ってこい」
「待ってろよ」
「ああ。待ってる」
「戻ってくる前に寝てんじゃねぇぞ」
「膝枕の誘惑には勝てる気がしねえけど、努力する」
「そこは勝てよ!」
ガーフィールは吐き捨てるように言って、墓所へ向かう。
その足取りは重い。
体もぼろぼろだ。
けれど、墓所へ向かう背中は、もう壊すためのものではなかった。
向き合うための背中だった。
墓所の中へ、ガーフィールが消える。
沈黙が落ちた。
スバルは、痛む体を抱えながら入口を見つめる。
「ちゃんと見てこい」
小さく呟く。
白い世界の中で、ガーフィールは過去を見た。
幼い自分。
幼いフレデリカ。
そして、母。
母は出ていこうとしていた。
外へ。
聖域の外へ。
幼いガーフィールは、それを裏切りだと思っていた。
自分たちを置いて、自分だけ外の幸せを探しに行くのだと。
だから、睨んだ。
怒った。
泣かないように、強がった。
けれど、今のガーフィールは違うものを見た。
母の目。
震える声。
抱きしめる腕の強さ。
離したくないと、全身で叫んでいるのに、それでも出ていこうとする姿。
父を探しに行く。
家族を、もう一度揃えるために。
それは、捨てるための別れではなかった。
迎えに行くための別れだった。
場面が変わる。
雨。
崖道。
崩れる斜面。
土砂に呑まれる竜車。
母の最後。
ガーフィールは膝をついた。
見た。
昔も見た。
でも、昔はそこで全部を決めつけた。
外へ行ったから死んだ。
自分たちを置いたから死んだ。
だから外は奪う。
だから誰も出してはいけない。
そう思わなければ、耐えられなかった。
でも、違った。
母は捨てたのではない。
戻るつもりだった。
自分たちを、家族を、愛していた。
「母ちゃん……」
涙が落ちる。
止まらない。
ガーフィールは、顔をぐしゃぐしゃにして泣いた。
「俺様……行くよ」
怖い。
外は怖い。
それでも行く。
母が目指した場所へ。
姉がいる場所へ。
自分が止めていた未来へ。
「俺様も、行く」
白い光が、彼を包んだ。
墓所の入口に影が現れた。
ガーフィールだった。
泣いた跡がはっきり残っている。
目元は赤く、顔はぐしゃぐしゃだった。
だが、先ほどまでの刺々しさは消えていた。
「……なんだよ」
ガーフィールは、視線を逸らした。
「見んな」
「いや、見てねえよ」
スバルは即答した。
「見てんだろ」
「ちょっとだけ」
「殺すぞ」
「元気そうで何より」
ガーフィールは舌打ちした。
ラムが近づく。
「泣いたの?」
「泣いてねぇ」
「目が赤いわ」
「砂が入った」
「墓所に?」
「うるせぇ!」
ラムは、ほんの少しだけ笑った。
「格好悪いわね」
「……」
「でも、少しはましな顔になったわ」
ガーフィールは言い返せなかった。
顔を赤くして、乱暴に頭をかく。
そして、スバルを見た。
スバルはユイに支えられながら立っている。
満身創痍。
それでも、笑っていた。
「で、どうする?」
スバルが聞く。
ガーフィールは鼻を鳴らした。
「俺様は、てめぇらに協力してやる」
「素直じゃねえな」
「うるせぇ」
ガーフィールは少しだけ視線を逸らし、それから戻した。
「……大将」
スバルが目を瞬かせた。
「今、なんて?」
「二度言わねぇ」
「いや、言ったよな? 大将って言ったよな?」
「聞き間違いだ」
「絶対言った!」
「うるせぇ!」
オットーが横からため息をつく。
「負けた相手を大将呼びするタイプだったんですね」
「てめぇも黙れ、商人!」
スバルは笑った。
痛みに顔をしかめながら、それでも笑った。
「よろしくな、ガーフィール」
「馴れ馴れしくすんな」
「大将にその態度?」
「調子乗んな!」
空気が、ほんの少しだけ軽くなる。
けれど、まだ終わりではない。
エミリアは、墓所を見ていた。
怖さは残っている。
指先が震えている。
けれど、ガーフィールが戻ってきた。
逃げていた過去を見て、戻ってきた。
その事実が、彼女の背中を押していた。
「私も、行く」
エミリアが言った。
スバルが振り返る。
「エミリア」
「怖いよ。まだ、すごく怖い。でも、逃げたままじゃ変われない。スバルも、ガーフィールも行った。だから、私も行く」
「一人じゃない」
スバルは言った。
「外で待ってる」
「うん」
エミリアは頷く。
それから、少しだけ頬を赤くした。
「全部終わったら、その……約束して」
「約束?」
「ちゃんと、二人で出かけるの。誰かを助けるためとか、戦うためじゃなくて。ただ、二人で」
スバルは一瞬ぽかんとした。
それから、顔を輝かせる。
「つまりデートですね!」
「で、でーとって言い方はまだ早いと思う!」
「いやいや、これは完全にデートでしょう。異議は認めません」
「もう、スバル!」
エミリアは慌てる。
けれど、その顔には笑みがあった。
ユイはその横で小さく息を吐いた。
「エミリア様」
「ユイ?」
「戻ってきたら、水を用意しておきます」
「泣く前提なの?」
「泣いても、戻ってくる前提です」
エミリアは目を丸くした。
それから、柔らかく笑った。
「ありがとう」
「いってらっしゃい」
エミリアは頷き、墓所へ足を踏み入れた。
スバルとガーフィールは、並んでその背中を見送った。
ガーフィールが、ぼそりと言う。
「大将」
「ん?」
「姫様、大丈夫なのかよ」
「怖いだろうな」
スバルは正直に答えた。
「でも、あいつは行った。なら、俺たちは待つしかねえ」
「待つだけかよ」
「ただ待つんじゃねえよ」
スバルは少しだけ得意げに笑った。
「俺なりに、応援は仕込んである」
「あ?」
墓所の中。
エミリアは白い光の中を歩いていた。
足は震えている。
怖い。
また見せられる。
思い出したくないもの。
忘れていたもの。
それでも、進む。
その時、石壁に文字が見えた。
エミリアは足を止める。
壁に、拙い文字が書かれていた。
あちこちに。
いくつも。
スバルの字だった。
大きな文字。
少し曲がった文字。
ところどころ妙な勢いのある文字。
そこには、エミリアを励ます言葉が並んでいた。
大丈夫。
戻ってこい。
怖くても進め。
俺は外で待ってる。
エミリアならできる。
泣いてもいい。
それでも、君は君だ。
エミリアは、息を呑んだ。
壁一面に、スバルの応援があった。
彼が約束の時間を破ってまで、ここに残した言葉。
彼なりの、外からの支え。
「……スバル」
涙が滲む。
でも、今度の涙は、恐怖だけではなかった。
エミリアは、そっと壁の文字に触れた。
外で待つと言った彼の声が、胸の中で響く。
その頃、墓所の外では、スバルとガーフィールが入口を見上げていた。
オットーは少し離れて座り込み、ラムはガーフィールの様子を横目で見ている。
ユイだけが、音もなくその場を離れた。
誰にも気づかれないように、というほどではない。
ただ、今のスバルはエミリアから目を離さない。
ガーフィールも、墓所を見上げている。
だから、ユイが離れても、誰も引き止めなかった。
向かう先は、ロズワールの部屋だった。
扉の前に立ち、軽く叩く。
「どうぞぉ」
いつもの間延びした声。
ユイは扉を開けた。
包帯だらけのロズワールは寝台に横たわっていた。
あれほどの怪我を負ってなお、その顔には道化の笑みが貼りついている。
「おや、ユイくぅん。今夜はずいぶんと忙しそうだねぇ」
「ええ」
ユイは扉を閉める。
部屋に、静かな音が落ちた。
「ガーフィールさんは試練を越えました。エミリア様も墓所へ入った。スバルくんはまた、自分の体を削って道を作った」
「素晴らしい成果だねぇ」
ロズワールは楽しげに言った。
その言葉に、ユイの目が細くなる。
「成果」
「違うかな?」
「違わないわ。あなたにとっては、そうなのでしょうね」
ユイは寝台のそばへ歩み寄る。
「スバルくんが傷つくことも、エミリア様が追い詰められることも、ガーフィールさんが壊れかけることも、あなたにとっては成果へ至る過程でしかない」
「ずいぶんと手厳しい」
「まだ優しい方よ」
ユイはロズワールを見下ろした。
「あなたの目的は、聖域の解放だけではない。エミリア様の成長だけでもない。あなたはスバルくんを、自分と同じ場所まで引きずり下ろしたい」
ロズワールの笑みが、ほんの一瞬だけ止まった。
「……面白いことを言うねぇ」
「屋敷と聖域。ベアトリスさんとエミリア様。村人と屋敷に残された者。あなたは問題を同時に並べ、彼に選ばせようとしている」
ユイの声は冷静だった。
感情を荒げない。
怒りをぶつけない。
ただ、知っている事実を一つずつ置いていく。
「全部は救えない。何かを切り捨てなければ進めない。そう理解させたい。あなたは、彼にそれを覚えさせようとしている」
ロズワールは沈黙した。
わずかに、目の奥の色が変わる。
驚き。
警戒。
そして、興味。
「君は、どこまで知っているのかなぁ」
「あなたがエキドナに執着していること」
ロズワールの指が、寝具の上で動いた。
「ベアトリスさんが四百年、禁書庫で“その人”を待たされていること」
笑みが薄くなる。
「屋敷に刺客が向けられていること」
ユイは止まらない。
「聖域に雪が降れば、飢えた兎が来ること」
ロズワールの顔から、道化の軽さが消えた。
「あなたの本が、あなたをそこまで連れてきたこと」
部屋の空気が変わる。
それは殺気ではない。
もっと静かで、重いものだった。
ロズワールは、ゆっくりと息を吐いた。
「……驚いたよ」
「でしょうね」
「そこまで知られているとは思わなかった」
「でしょうね」
「だが、不思議だ。君はそれを知っていて、なぜ今まで言わなかった?」
「言っても、壊れるだけだったから」
ユイは即答した。
「スバルくんは怒る。エミリア様は傷つく。ラムさんは揺らぐ。ベアトリスさんは閉じこもる。ガーフィールさんは余計に暴れる。あなたは予定を変える」
「私が予定を変えると困る?」
「困るわ」
ユイは言った。
「あなたは邪魔だけれど、必要でもあるから」
ロズワールの口元に、笑みが戻る。
「ひどい評価だねぇ」
「正確な評価よ」
「なら、君は私をどうするつもりかな。断罪する? 殺す? それともスバルくんにすべて話して、私を悪役にする?」
「どれもしない」
ロズワールの眉がわずかに動く。
「では?」
「釘を刺しに来た」
「釘?」
「ええ」
ユイは一歩、寝台へ近づいた。
「あの取引の場に、私もいた。スバルくんはあなたに宣言した。屋敷も、聖域も、エミリア様も、ベアトリスさんも、すべて救ってみせると。できなければ、あなたの望む形を認めると」
ロズワールは黙っている。
否定しない。
ユイは続けた。
「あなたはそれを受けた。なら、余計なことをしないで」
「余計なこと?」
「追加で絶望を盛らない。スバルくんが選ぶ前に選択肢を潰さない。あなたの都合で、彼が自分で掴もうとしている道をさらに歪めない」
「それは、私に手を抜けということかなぁ」
「違うわ」
ユイは即座に否定した。
「あなたはあなたのままでいい。屋敷の刺客も、聖域の雪も、ベアトリスさんの問題も、あなたがすでに配置したものはそのままでいい。スバルくんは、それを承知であなたに啖呵を切った」
そこで、ユイの声がさらに低くなる。
「でも、取引が成立した後に、あなたがさらに横から手を加えるのは違う」
「……」
「純粋に受け入れなさい。スバルくんの取引を。彼が自分で背負った無謀を。自分で選んだ道を」
ロズワールは、ユイを見つめる。
「それは、彼のため?」
「いいえ」
ユイは首を振った。
「私のためよ」
はっきりと言った。
ロズワールは、数秒だけ黙った。
その沈黙の中で、彼はユイの言葉の奥にあるものを測っていた。
善意ではない。
正義でもない。
まして、ただの友情でもない。
もっと個人的で、もっと暗い執着。
それを、ユイは隠そうともしなかった。
「君は、私の邪魔をしに来たのかい?」
「今は違うわ」
「今は?」
「あなたが取引を守るなら、邪魔はしない」
「守らなければ?」
ユイは胸元へ手を入れた。
そして、一冊の黒い本を取り出した。
古びた表紙。
薄い紙束。
それは、ただの本には見えなかった。
見た瞬間、ロズワールの目が変わる。
福音書。
その気配を、彼は知っている。
「それは……」
「これを出す意味は一つよ」
ユイは本を胸の前に掲げた。
「あなたが、本に従う人間だから」
ロズワールの笑みが消える。
「あなたは、言葉だけの脅しでは動かない。感情論では取引しない。なら、あなたが理解する形式で話すしかない」
「福音書を持つ者として、私と交渉するつもりかい?」
「ええ」
ユイは静かに名乗った。
「魔女教大罪司教」
一拍。
「虚飾担当、雪白ユイ」
その声は穏やかだった。
だからこそ、異様だった。
ロズワールはすぐには答えなかった。
大罪司教。
虚飾担当。
そんな席は存在しない。
存在しないはずだ。
だが、完全に否定しようとした瞬間、記憶の奥に薄い靄がかかった。
いたか。
いや、いない。
だが、聞いたような気もする。
虚飾。
そういう担当が、最初から大罪の列に紛れていたような違和感。
ロズワールは、その違和感を認識した。
そして、認識した瞬間、それがただの錯覚ではないことにも気づいた。
「……虚飾、か」
ユイは説明しない。
どうやってその枠を作ったのか。
どこまで認識を浸食したのか。
いつ完成したのか。
それを語る必要はない。
ロズワールに必要なのは、理屈ではない。
目の前の結果だ。
彼は今、完全には否定できなかった。
それだけで十分だった。
「あなたは叡智の書に従う。なら、私は福音書を持つ者として、同じ土俵に立つ」
ユイは本を閉じたまま言った。
「これは脅しの小道具ではないわ。取引の資格証明よ」
「資格証明」
「ええ」
「自分は、私が無視していいただの少女ではないと?」
「そういうこと」
ユイは淡々と答える。
「あなたがスバルくんとの取引を純粋に受け入れるなら、私は今夜これ以上あなたの盤面を乱さない」
「乱すことができると?」
「できるわ」
「随分な自信だ」
「自信ではなく、事実よ」
その言い方に、ロズワールは沈黙した。
ユイは続ける。
「逆に、あなたが余計な手を加えるなら、私は虚飾を使う。あなたの予定にない認識を混ぜる。存在しないはずの余白を置く。あるはずの確信を曖昧にする」
「それは困るねぇ」
「でしょうね」
「脅しだ」
「ええ」
ユイは認めた。
「私は正義の味方ではないもの」
ロズワールは、しばらくユイを見ていた。
その目には、明らかな興味があった。
そして、同時に警戒もある。
スバルとは違う異常。
エミリアとも、ガーフィールとも、ベアトリスとも違う。
福音書を持ち、存在しないはずの大罪司教を名乗り、スバルの苦しみを望みながらも、完全な破滅だけは拒む少女。
「君は、私の考えに賛成しない」
「しないわ」
「だが、私を排除もしない」
「今はね」
「理由は、スバルくんの曇った顔を見るため」
「正確には、曇ってもなお立つ顔を見るため」
「大差ないように聞こえるねぇ」
「重要な差よ」
ロズワールは笑った。
やがて、ゆっくりと頷く。
「いいだろう。取引を受けよう」
ユイは表情を変えない。
「賢明ね」
「私は、スバルくんとの取引を純粋に受ける。すでに置いた盤面以上の横槍は入れない」
「それだけでは足りないわ」
ユイが言った。
ロズワールの目が細くなる。
「まだあるのかい?」
「ええ」
ユイは、ロズワールをまっすぐ見た。
「スバルくんが取引に勝った場合、その後も余計なことをしないで」
ロズワールの笑みが、ほんの少し止まる。
「その後?」
「彼が屋敷を救い、聖域を救い、エミリア様を立たせ、ベアトリスさんを連れ出し、あなたの条件を満たした場合――その時点であなたの負けよ」
「……」
「負けた後に、別の条件を持ち出さない。別の盤面を開かない。彼が勝ち取った結果を、あなたの本の都合でひっくり返さない」
「私が、そんなことをすると?」
「あなたならする可能性がある」
ユイは即答した。
「だから今、条件に入れる」
ロズワールは黙った。
それから、くつくつと笑い始めた。
「本当に、容赦がないねぇ」
「あなた相手に容赦する理由がないもの」
「なるほど」
ロズワールは目を細める。
「つまり、君の条件は二つ。取引中に余計な横槍を入れないこと。そして、彼が勝った後に、その勝利を汚さないこと」
「ええ」
「私が負けを認めることまで含めて?」
「もちろん」
ユイは言った。
「スバルくんが勝ったら、あなたは負ける。それが取引でしょう」
「厳しいねぇ」
「純粋な取引を望むなら当然よ」
しばらく、二人は黙って見つめ合った。
ロズワールが先に目を細める。
「いいだろう」
ユイは表情を変えない。
「言葉だけでは足りないわ」
「では、どうする?」
「あなたの本に誓う必要はない。あなた自身の執着に誓いなさい」
ロズワールの目が、わずかに鋭くなる。
「エキドナに?」
「ええ」
ユイは静かに言った。
「あなたが本当に彼女へ至りたいなら、取引の形を自分で汚さないことね。スバルくんが勝ったなら、その勝利を認める。それができないなら、あなたはエキドナへの執着すら、自分の都合で飾るだけの道化よ」
空気が凍る。
ロズワールの目から笑みが消えた。
だが、怒鳴らない。
殺気も出さない。
ただ、静かにユイを見る。
「……君は、踏み込むねぇ」
「踏み込むために来たの」
長い沈黙の後、ロズワールは笑った。
「いいだろう。誓おう」
声は低かった。
「スバルくんが取引に勝ったなら、私はその結果を認める。追加の横槍は入れない。勝利を汚さない」
「取引中も」
「取引中も、すでに置いたもの以上には手を加えない」
「よろしい」
ユイは頷いた。
ロズワールは、薄く笑う。
「君は、本当に嫌なところを突く」
「褒め言葉として受け取らないわ」
「褒めているとも」
「なお悪い」
ユイは福音書を胸元へ戻した。
「では、取引成立ね」
「そうだねぇ」
ロズワールは、ゆっくりと言った。
「彼が勝てば、私の負け。彼が失敗すれば、私の勝ち」
「それでいい」
「君は、それを見届ける?」
「ええ」
ユイは答えた。
「一番近い場所で見るわ。スバルくんがどんな顔をして、どんな選択をするのか」
「もし、彼が君を拒んだら?」
「それも見たいわね」
ロズワールの笑みが、少し止まった。
ユイは、微かに笑っていた。
「私を信じていた顔が曇る。怒りで歪む。裏切られたと傷つく。それでも、最後に私をどう扱うのか。見たいでしょう?」
「……君は本当に」
ロズワールは、呆れとも感嘆ともつかない息を吐く。
「いかれているねぇ」
「あなたほどではないわ」
「いや」
ロズワールは薄く笑った。
「方向が違うだけで、十分に同類だよ」
「一緒にしないで」
ユイは扉へ向かう。
その背に、ロズワールの声がかかる。
「ユイくぅん」
「何?」
「虚飾は、いつか剥がれるよ」
「ええ」
ユイは振り返らずに答えた。
「その時のスバルくんの顔も、きっと綺麗でしょうね」
扉が閉まった。
廊下へ出ると、夜気が冷たかった。
ユイは胸元に手を当てる。
そこには、黒い福音書がある。
存在しないはずの大罪司教。
虚飾担当。
雪白ユイ。
ロズワールは取引を受けた。
信用ではない。
信頼でもない。
ただ、互いの狂気の形を理解しただけ。
そして、条件は増えた。
取引中に余計な手を加えないこと。
スバルが勝ったなら、その後も勝利を汚さないこと。
ロズワールは誓った。
エキドナへの執着にかけて。
それだけで十分だった。
墓所の方角から、かすかな光が漏れている。
エミリアはまだ中にいる。
スバルは外で待っている。
ユイは歩き出す。
秘密を胸に隠したまま。
剥がれる日を、少しだけ楽しみにしながら。