決着から、数日が経った。
出久らが滞在している八斎會が所有する山奥の別荘は、驚くほど静かな場所だった。
街から遠く離れ、舗装された道すら途中で途切れる。
周囲を囲むのは深い森ばかりで、朝になれば鳥の声が聞こえ、夜になれば風が木々を揺らす音しか届かない。
建物そのものは古いが手入れが行き届いており、十数人が滞在しても困らないだけの部屋数があった。
広い居間に台所、風呂も複数あり、裏手には小さな庭まである。
警察の捜索が続いている間、街へ戻るのは危険だ。
少なくとも騒ぎが落ち着くまでは、ここで大人しくしていてくれ。
組長からそう言い渡された敵連合の面々は、半ば強制的に休養期間へ入っていた。
そして。
「つまらないです」
居間の中央で、トガヒミコが不機嫌そうに寝転がっていた。
「すっごく、つまらないです」
畳の上に腹這いになり、両脚をぱたぱたと上下させる。
誰も反応しない。
「ねえ、聞いてます?」
ソファに座ってゲームをしていたスピナーが、画面から目を離さず答えた。
「何回も聞いてるよ、今日で十回目もな」
「だって暇なんですよ!」
トガは勢いよく身体を起こした。
「山! 木! 山! 木! たまに鳥! それだけです!」
「十分じゃない?」
窓際から出久が答える。
治崎との戦闘による傷は彼の個性、オーバーホールによって完全に回復していた。
とはいえ個性の酷使によるダメージはまた話が違う、この数日は個性の訓練すら禁止されていた。
出久は縁側に近い椅子へ座り、湯気の立つ湯呑みを両手で持っていた。
「空気も綺麗だし、静かだし」
「デク君がお爺ちゃんみたいになっちゃいました」
トガは頬を膨らませた。
今回、一番厳しく外出を止められているのは彼女だった。
変身という個性の性質上、街へ下りれば誤魔化せる可能性は高い。
しかし同時に、警察が最も警戒している人物の一人でもある。
何より本人が、出掛ければ大人しく買い物だけして戻ってくる保証がない。
そのため組長からも、
『嬢ちゃんは特に街へ下りるな』
と念を押されていた。
トガはそれを未だに根に持っている。
「変身すればバレませんよ?」
「そういうこと言うから止められてるんじゃないかな」
出久がそう言うと、トガはさらに不機嫌そうに畳へ倒れ込んだ。
一方で、他の面々はこの状況をかなり満喫していた。
トゥワイスは朝から庭で薪を割っていた。
「山籠もり最高だぜ! 虫は死ね!」
何が楽しいのか本人にも分かっていないようだが、とにかく元気だった。
コンプレスは縁側で将棋を並べ、ジェントルを相手に勝負している。
ラブラバはその横でノートパソコンを開いていたが、仕事をしているというより動画を眺めている時間の方が長い。
マグネは庭に建っている小さなサウナに入り浸り、スピナーは毎日ゲーム三昧だ。
誰も戦っていない。
誰も追われていない。
誰も作戦を立てていない。
敵連合にとって、それはかなり久しぶりのことだった。
そして、その中で一番この休息を満喫しているのは、もしかすると壊理だったかもしれない。
昼を少し過ぎた頃、別荘の玄関が勢いよく開き、廊下を駆けてくる軽い足音が居間まで響いてきた。
「ただいまー!」
聞こえてきた壊理の声に、窓際で本を読んでいた出久が顔を上げる。
ほどなくして廊下の向こうから壊理が姿を現し、その少し後ろをお茶子が歩いてきたのだが、二人を見た出久は思わず本を閉じた。
「おかえり……二人とも、どうしたのそれ?」
壊理は頭から足先まで見事に泥だらけだった。
白い髪には細かな葉が絡まり、頬にも土がついている。
服の裾や膝は茶色く汚れ、靴に至っては元が何色だったのか分からないほど泥にまみれていた。
その後ろにいるお茶子も大差ない。
壊理ほどではないにせよ、ジャージの膝から腰にかけて泥が広がり、髪にも葉っぱが一枚引っかかっている。
「いやあ、ちょっと」
お茶子は頬を掻きながら曖昧に笑った。
当の壊理は泥だらけになったことなどまるで気にしていない様子で駆け寄ってきた。
「デクさん、これ!」
壊理が得意げに差し出したのは、両手で抱えていた小さな籠だった。
中には森で拾ってきたらしい木の実がたくさん入っている。
丸いものや細長いもの、赤や黒に色づいたものに混じって、途中で気に入ったらしい葉や小石までいくつか収まっていた。
「すごいね。こんなに拾ってきたの?」
「うん! いっぱいあった!」
壊理は満面の笑みで頷くと、出久の前に籠を置き、そのまま畳を指差した。
「デクさん、ここ座って!」
「ここ?」
「うん!」
どうやら椅子に座ったままでは駄目らしい。
出久が言われるまま畳へ腰を下ろすと、壊理も正面に座り込み、籠の中身を一つずつ取り出して並べ始めた。
「これは、ごはん。こっちはおにくで、これはおさかな」
「……全部木の実に見えるけど」
「これは、おにく」
かなり真剣だったので、出久は素直に訂正を受け入れた。
壊理の中ではきちんと役割が決まっているらしく、大きめの木の実が肉、細長いものが魚、赤い実はデザートらしい。
途中で綺麗な石まで料理の横へ置かれたが、それについては説明がなかったので、出久も深く追及しないことにした。
少し離れたところで二人の様子を見ていたお茶子が、髪についた葉を取りながら笑う。
「おままごとやな。帰ってくる途中から、デク君に食べてもらうんやって張り切っとったんよ」
「なるほど。それで僕がお客さんなんだ」
「デクさん!」
並べ終えた壊理が姿勢を正した。
泥のついた顔には満足そうな笑みが浮かんでおり、自分なりに精一杯整えた料理を両手で示しながら、元気よく言う。
「召し上がれ!」
「いただきます」
出久も笑って手を合わせ、まずは肉ということになっている丸い木の実を摘まみ上げた。
もちろん、本当に口へ入れるつもりはない。
何の実かも分からないものを食べるわけにはいかないので、口元まで運んで食べる仕草だけをしてから、いかにも味わっているように頷いてみせる。
「うん、おいしい。壊理ちゃん、料理上手だね」
「……」
「次はお魚かな。こっちもいただきます」
今度は細長い木の実を手に取り、同じように食べたふりをしてみせる。
「こっちもおいしいよ」
「……」
しかし、壊理は喜ばなかった。
褒められて照れるでもなく、次の料理を勧めるでもなく、ただ出久の手元をじっと見つめている。
その視線が妙に真剣なので、出久も次第に笑顔を保てなくなってきた。
「……壊理ちゃん? どうしたの?」
問いかけると、壊理は出久の指先に残っている木の実を見たあと、不思議そうに首を傾げた。
「食べないの?」
「え?」
「これはおままごとだから、本当に食べるんじゃなくて、食べたふりをする遊びなんじゃないかな?」
「うん」
「うん?」
話が通じたようで通じていない。
壊理は出久の説明に頷いたにもかかわらず、相変わらず木の実を持った手から視線を逸らさなかった。
「……食べないの?」
「だからね、壊理ちゃん。これは食べたふりを──」
そこで言葉を切り、出久は壊理の顔を見る。
どうやら壊理にとってのおままごとは、木の実を料理に見立てるところまでは同じでも、それを客役の出久が実際に食べるところまで含まれているらしい。
出久は手の中の木の実と、こちらを期待に満ちた目で見つめている壊理を交互に見た。
正直なところ、食べること自体が絶対に無理というわけではない。
出久には個性『剛躯』がある。
多少の毒や消化に悪いものなら、普通の人間よりはずっと耐えられるだろうし、腹を壊す可能性も低いのかもしれない。
だからといって、正体の分からない山の木の実を口へ放り込むことに抵抗がなくなるわけではなかった。
出久は木の実を指先で摘まみ、しげしげと眺める。
「それでも、これはちょっと勇気がいるなあ……」
「デクさん」
「うん」
「召し上がれ」
「……はい」
逃げ道はなさそうだった。
壊理は怒っているわけでも、無理強いしているつもりでもない。
ただ純粋に、自分が作った料理を食べてもらえるものだと信じ切っている。
その顔を前にしてしまうと、出久も「これは食べ物じゃないよ」と一蹴する気にはなれなかった。
仕方なく覚悟を決め、丸い木の実を口元へ近づける。
「じゃあ……一個だけね」
壊理の顔がぱっと明るくなる。
その反応に背中を押されるように、出久が口を開きかけた、その時だった。
コン、コン。
玄関の方から、控えめなノックの音が響いた。
出久の動きが止まる。
「……」
もう一度。
コン、コン。
「はい!」
出久は即座に木の実を畳へ戻した。
「ちょっと見てくる!」
「デクさん」
背後から壊理に呼ばれ、出久の肩が僅かに跳ねる。
「帰ってきたら食べてね」
「……うん」
完全には逃げ切れなかった。
それでも今だけは猶予ができたので、出久は「よしきた」とでも言いたげな勢いで廊下へ向かい、そのまま玄関の扉を開けた。
「はい、どちらさ──」
そこで声が止まる。
扉の向こうに立っていたのは、治崎だった。
その半歩ほど後ろには、側近である玄野針もいる。
出久は思わず目を瞬いた。
「……治崎?」
数日前まで殺し合いに近い戦闘をしていた相手が、今は黒いスーツに身を包み、玄関先に立っている。
もちろん身体に傷はない。
戦闘後、治崎自身の個性によって身体は修復されている。
ただ、以前より僅かに顔色が悪く見えるのは、肉体ではなく精神的な疲労のせいかもしれなかった。
出久がどう反応すべきか迷っていると、治崎は一歩前へ出た。
そして、ごく自然な動作で腰を折る。
「兄さん。ご無沙汰してます」
出久はしばらく、目の前で頭を下げている治崎を見つめていた。
数日前まで互いに本気で殴り合っていた相手が、今ではすっかりヤクザらしい礼儀正しさを身につけ、自分を明らかに兄貴分として扱っている。
その変化にどうにも慣れず、出久は困ったように眉を下げた。
「……治崎」
「へい」
「そういうの、やめてって言ったじゃないか」
治崎は顔を上げたものの、表情は変わらない。
「いえ。そういうわけにはいきません」
「なんで?」
「八斎會は今や連合の傘下にあります」
治崎は至極当然のことを説明するように答えた。
「兄さんは、その連合の長ですから」
「……」
出久がどう返したものかと黙り込んでいると、治崎はその反応を気にする様子もなく、少しだけ視線を家の奥へ向けた。
「ところで兄さん。お嬢はいらっしゃいますか」
「お嬢?」
一瞬だけ誰のことか分からず、出久は首を傾げる。
けれど、すぐに思い至った。
八斎會にとって「お嬢」と呼ぶべき相手など、一人しかいない。
組長の血縁である壊理だ。
「ああ、壊理ちゃんならリビングにいるよ」
「そうですか」
治崎が僅かに頷く。
考えてみれば、八斎會の人間としてはこちらの呼び方の方が本来は自然なのだろう。
組長の血縁である壊理を敬い、「お嬢」と呼ぶ。
今の治崎の態度だけを見れば、むしろ筋の通った接し方だった。
ただし、出久の中にある治崎と壊理の記憶は、その呼び方とはあまりにも噛み合わない。
壊理の身体を利用し、個性を材料として扱い、逃げれば連れ戻し、泣こうが怯えようが研究を続けていた。
あの頃の治崎にとって、壊理は「お嬢」などではなかった。
少なくとも、そう呼ぶに値する扱いをしていたとは到底言えない。
出久はしばらく黙ったまま、治崎を見つめていた。
数日前までのことを思えば、今さら「お嬢」と呼んで丁寧に接しようとしている姿を素直に受け入れることはできなかった。
言葉遣いが変わったからといって、壊理の中に残っている恐怖まで消えるわけではない。
治崎も、その視線の意味には気づいているようだった。
「……兄さん、お嬢に会わせて頂けませんか」
呼ばれて、出久は小さく息を吐いた。
「正直に言うね。僕は、君を壊理ちゃんに会わせたくない」
治崎の表情が僅かに止まる。
後ろに立つ玄野も何も言わなかった。
出久は続けた。
「壊理ちゃんは今、やっと普通に笑ったり、外で遊んだりできるようになってきた。まだ君のことを思い出すだけで怖がることもあると思う」
そこで一度言葉を切る。
「だから、君が会いたいからって理由だけで会わせるつもりはないよ」
拒絶としては、かなりはっきりした言葉だった。
それでも治崎は反論しなかった。
眉を寄せることも、苛立つこともなく、ただ一度だけ目を伏せる。
「……そうですか」
そして、静かに頷いた。
「分かりました」
それだけだった、出久は少し意外そうに目を瞬く。
「反論しないんだ」
「出来るわけがありません」
治崎は淡々と答えた。
「兄さんの言ってることは正しい」
以前なら絶対に口にしなかったであろう言葉だった。
治崎は一歩だけ後ろへ下がると、玄野へ視線を向けた。
「玄野」
「へい」
玄野は最初から持っていた紙袋を差し出した。
かなりしっかりした作りの袋だった。落ち着いた色合いで、中央には金の箔押しまで入っている。
見るからに安物ではない。
治崎はそれを受け取ると、出久へ差し出した。
「では、これだけ渡していただけませんか」
出久は少し迷ってから受け取った。
思ったより重い。
袋の中を覗くと、さらに綺麗な包装紙に包まれた箱が入っていた。
赤と金を基調にした上品な包みで、端には林檎を模した意匠が入っている。
「りんご?」
「お嬢が好きだと伺いましたんで」
治崎はそう答えた。
「菓子です。林檎を使ったもので、日持ちもするそうです」
「……ずいぶん高そうだけど」
「失礼があってはいけないと、馴染みの店に用意させました」
出久は紙袋を持ったまま、少しだけ複雑そうな顔をする。
中身が悪いわけではない。
壊理がりんごを好きなのも事実だ、これを見れば、きっと喜ぶだろう。
だからこそ、余計に引っかかった。
「治崎」
「へい」
「こんなことをして、許されると思ってるの?」
治崎はしばらく出久を見つめたあと、静かに首を横へ振る。
「いいえ」
迷いはなかった。
「そんな都合の良い話じゃないのは分かってます」
治崎はそこまで言うと、一度だけ紙袋へ視線を落とした。
「菓子の一つ渡したところで、俺がやったことがなくなるわけじゃねえ。お嬢が怖がらなくなるわけでも、俺を許す理由になるわけでもない。それくらいは分かってます」
「……じゃあ、なんで?」
「償う義務があるからです」
治崎の返事は簡潔だった。
数日前までの治崎なら、こんな言葉を口にしただろうか。
今の治崎は少なくとも、自分に許しを求める権利がないという理屈だけは理解しているように見えた。
出久が紙袋を受け取ったまま黙っていると、治崎はそれ以上何かを求めることもなく、玄野へ目配せした。
「それじゃあ、失礼します」
「あ、うん」
「何か生活に不便があったら連絡してください。食い物でも日用品でも、必要なものがありゃすぐに用意させますんで」
「本当に今のところ大丈夫だよ」
「そうですか。それなら結構です」
治崎は最後にもう一度頭を下げた。
「では、兄さん」
「だから、その兄さんっていうのは……」
「失礼します」
「聞いてないなあ」
出久が困ったように眉を下げても、治崎は取り合わなかった。
玄野も軽く一礼し、二人はそのまま玄関先を離れていく。
別荘の前には黒い車が一台停められていた。
玄野が運転席へ乗り込み、治崎は後部座席の扉を開ける。
その直前、一度だけ別荘の方を振り返ったが、何かを言うことはなかった。
扉が閉まる。
ほどなくしてエンジン音が響き、黒い車は山道をゆっくりと下っていった。
出久は玄関先に立ったまま、その姿が木々の向こうへ消えるまで見送った。
「……」
手元には、高級そうな紙袋だけが残っている。
何とも言えない気分だった。
「デク君?」
背後から声がして、出久が振り返る。
玄関の奥から、お茶子がひょこりと顔を覗かせていた。
「どうしたん? 誰やった?」
「ああ……治崎」
「治崎!?」
お茶子の表情が一瞬で変わった。
すぐに外へ視線を向けたものの、車はもう見えない。
「何しに来たん?」
「壊理ちゃんに会いに来たみたい。でも、僕が会わせたくないって言ったら、そのまま帰ったよ」
「……そっか」
お茶子は少しだけ安心したように息を吐く。
出久は手にしていた紙袋を差し出した。
「これ、壊理ちゃんに渡してあげて」
「これ?」
「治崎から」
お茶子が紙袋を受け取る。
ずしりとした重さに少し驚いたようだった。
「何入っとるん?」
「りんごのお菓子だって。壊理ちゃんが好きだからって」
「……へえ」
お茶子は包装を覗き込み、何とも言えない顔をした。
「デク君が渡さんの?」
「疲れたから、ちょっと一服してくる」
それだけ答えると、出久は靴を履いた。
「あ、うん」
お茶子はまだ何か言いたそうだったが、出久は先に玄関を出た。
外へ出ると、山の空気が肌に触れる。
昼過ぎの陽射しはまだ明るいが、木陰に入れば随分涼しい。
庭の端には大量の薪が積み上げられていた。
そのすぐそばで、トゥワイスが切り株に腰掛けて休んでいる。
朝からひたすら斧を振っていたせいか、マスクの隙間から覗く首筋には汗が浮かんでいた。
「おう、ボス!」
出久に気づき、片手を上げる。
「薪割り終わったぜ! 自然破壊楽しいー!」
「お疲れさまです」
出久は隣の切り株へ腰を下ろした。
トゥワイスは手にしていた水のボトルを傾けながら、横目で出久を見る。
「さっきヤクザ来てたな」
「見えてました?」
「黒塗りの車なんか山奥じゃ目立つんだよ!」
トゥワイスが勝手に一人で突っ込みまで済ませるのを聞きながら、出久はポケットへ手を入れた。
指先に触れた箱を取り出し、煙草を一本抜く。
「お前、吸うのか」
「最近ね。引石さんにもらってからかな」
「悪ガキめ、一本よこせ」
出久は苦笑しながらタバコを咥え、ライターで火を点けた。
先端が赤く灯り、ゆっくり吸い込むと、独特の苦みと熱が喉を通って肺へ落ちていく。
数秒置いて吐き出した煙が、山の澄んだ空気の中へ細く広がった。
普段なら少し罪悪感を覚えるところだが、今はそれより頭の中を整理したかった。
出久からタバコを受け取ったトゥワイスはマスクを顎の辺りまでずらし、口元を露出させる。
出久は何となくその顔を見た。
マスクを外したトゥワイスを見る機会は、今でもそれほど多くない。
本人が落ち着かなくなることも知っているので、出久も特に何かを言うことはなかった。
トゥワイスは慣れた手つきで煙草に火を点け、一度深く吸い込む。
「ふう……」
煙を吐き出した直後、すぐさま眉を顰めた。
「うめえ! まずい!」
「忙しいなあ」
「俺はいつでも忙しい男だ!」
二人の間に煙が流れる。
少し離れたところでは、割り終えた薪が綺麗に積まれており、その向こうからは木々が揺れる音が聞こえてくる。
別荘の中とは違って、ここには人の声もほとんど届かない。
出久は煙草を指に挟んだまま、しばらく何も言わなかった。
治崎の車が消えていった山道を見る。
そして、もう一度煙を吸い込む。
「……分倍河原さん」
「あ?」
トゥワイスが横を見る。
出久はすぐには目を合わせなかった。
「治崎と壊理ちゃん、会わせるべきですかね」
トゥワイスはすぐには答えなかった。
煙草を咥えたまま出久の横顔を見て、それから「あー」と小さく声を漏らす。
何かを言いにくそうに頭を掻いたあと、観念したように煙を吐いた。
「……わりぃ」
「え?」
「実は盗み聞きしててな」
出久がゆっくり振り向く。
「事情は分かってるぜ」
「……聞いてたんですか?」
「わりぃ。ヤクザが来たら、そりゃ身構えるぜ」
トゥワイスは言い訳するように両手を上げ、それから片方に煙草を持っていることを思い出したのか、慌てて灰を落とした。
「まあ、その……治崎がガキに会わせろって言って、お前が断って、菓子置いてったんだろ。それで『一生かけて償う義務がある』とか何とか」
「……はい」
「なら一応、話は分かる」
トゥワイスは切り株の上で少し姿勢を崩し、薪の山へ背中を預けるように座った。
「で、先に言っとくとな」
そこで一度、煙草を深く吸う。
「治崎が謝りに来てんのは、ただの組長の指示だぜ」
出久の目が僅かに細くなった。
「……やっぱり、そう思います?」
「思うっつーか、そうだろ」
トゥワイスはあっさり言った。
「あいつ自身が急に目覚めて、『俺はなんて酷いことをしたんだ』って泣きながら菓子屋に走ったように見えたか?」
「それは……見えませんでしたけど」
「だろ?」
即答だった。
「親父に頭押さえつけられて、『てめえがやったことに筋通せ』って言われたから来てんだよ。兄さん呼びも、お嬢呼びも、菓子持ってくるのも、今は全部そっちが先だ」
「……」
「本人が本当に反省してるかって言えば」
トゥワイスは少しだけ考えるように煙を吐き、あっけらかんと続けた。
「実際は全くしてねえだろうよ」
かなり身も蓋もない言い方だった。
出久は煙草を持った手を止める。
「全く、ですか」
「少なくとも今はな」
「でも、治崎は自分が間違ってたって──」
「言えるようになっただけだろ」
トゥワイスの返しは早かった。
「分かるのと、腹の底からそう思うのは別だぜ」
出久は黙る。
その言葉は妙に腑に落ちた。
治崎は確かに以前とは違っていた。
出久に拒絶されても怒らず、言い返さず、自分が壊理に会う資格など当然あるとは主張しなかった。
ただ、それが即座に後悔や罪悪感へ結びついているかと問われれば、出久にも自信はない。
「十年後は知らねえな」
トゥワイスは続けた。
「十年?」
「十年も毎日毎日、親父に怒鳴られて、ガキに会わせてもらえなくて、それでも頭下げて菓子持ってきて、金出して、面倒見て、償い続けたらよ」
煙草を指先でくるりと回す。
「その頃には、本当に何か分かるかもしれねえ」
「……」
「一生分かんねえかもしれねえけどな! 人は変われる!」
「どっちですか」
「未来なんか分かるか!」
それは確かにそうだった。
出久は思わず小さく笑い、それから煙草を口へ運んだ。
煙を吸い込み、ゆっくり吐き出す。
「でも、反省してないなら……償うって言葉も嘘になりませんか」
「ならねえだろ」
トゥワイスは即答した。
「え?」
「償う義務があるって言うなら、やらしとけばいい」
あまりにも単純な答えに、出久は少し目を瞬いた。
トゥワイスはそんな出久を横目で見ながら続ける。
「反省してなきゃ何もしちゃいけねえなんて決まりあんのか?」
「いや……」
「罪悪感で泣きながらじゃなきゃ金出しちゃいけねえのか? ガキの好きな菓子買っちゃいけねえのか?」
「そういうわけじゃないですけど」
「じゃあ、やらせとけよ」
トゥワイスは煙草の灰を落とした。
「治崎がどう思ってようが、壊理ちゃんにとって害がねえ範囲で、あいつが勝手に金使って、勝手に頭下げて、勝手に一生償うってんなら、好きにさせりゃいい」
「……好きに」
「そうだよ」
トゥワイスの口調は軽い。
「償いってのは、気持ちじゃなくて行動の話でもあるだろ」
出久の視線が止まった。
トゥワイス自身は深いことを言ったつもりなどないらしく、相変わらず煙草を吸っている。
「反省してるから償う。そりゃ立派だ」
一服。
「反省してねえけど、やった責任があるから償う。まあ、それも別にいいんじゃねえの」
「……」
「少なくとも、逃げるよりはマシだ」
最後の言葉だけ、少し声が低かった。
出久は何となくトゥワイスの横顔を見る。
彼自身にも、逃げたことや逃げられなかったこと、後悔していることがいくつもあるのだろう。
けれど、それを聞くつもりはなかった。
「じゃあ、壊理ちゃんと会わせるのは?」
「それは別」
「別なんですね」
「当たり前だろ」
トゥワイスは少し呆れたように言う。
「治崎が償うのは治崎の勝手だ。ガキがそれに付き合う必要はねえ」
「……」
「菓子は受け取る。金も使わせる。必要なら八斎會に世話もさせる。でも会いたくねえなら会わせねえ。それでいいじゃねえか」
「それ、都合よくないですか?」
「何が?」
「治崎のものだけ受け取って、本人には会わせないって」
「被害者側が加害者に気ぃ遣ってどうすんだよ」
また即答だった。
出久は言葉を失う。
「そもそも償いってのは、見返りもらうためにやるもんじゃねえだろ」
トゥワイスは煙草を口から離す。
「菓子十個渡したら面会一回とか、百万円払ったら許してもらえるとか、そういうポイントカードじゃねえんだからよ」
トゥワイスはそう言って鼻から煙を吐き、短くなってきた煙草を指先で弾いた。
出久はしばらく黙っていたが、やがて少しだけ肩の力を抜いた。
「なんか、僕が変に考えすぎてた気がします」
「ボスはいつも考えすぎなんだよ!」
トゥワイスは笑いながらそう返したものの、そのあと急に黙り込んだ。
視線は薪の山ではなく、その向こうの森へ向いている。
出久が横目で見ると、トゥワイスは煙草を咥えたまま、少しだけ遠い目をしていた。
「……でもまあ」
「はい?」
トゥワイスは一度言葉を切った。
普段のように勢い任せで続けず、何かを選ぶように少し間を置く。
「躓いた人間が居場所を得るには、信頼が必要だ」
出久が目を瞬く。
いつものトゥワイスらしからぬ、妙にまっすぐな言葉だった。
本人もそれを分かっているのか、すぐに照れ隠しのように鼻を鳴らす。
「義爛の受け売りだけどさ」
「義爛さんの?」
「ああ。昔あいつに言われたんだよ」
トゥワイスは煙草を口から離し、指先で軽く揺らした。
「躓いた奴がもう一回どっかに居場所作ろうと思ったら、結局最後に要るのは信頼だってな」
風が吹き、二人の間に漂っていた煙をさらっていく。
「金があっても、力があっても、それだけじゃ駄目だ。こいつなら背中預けられるとか、約束は守るとか、逃げねえとか、そういうもんを一個ずつ積んでいくしかねえ」
出久は黙って聞いていた。
トゥワイスは少し気恥ずかしそうに口元を歪める。
「俺はビビッと来てよ、クソみたいな時期だったのもあって、座右の銘にしてるぜ」
「……意外です」
トゥワイスは不満そうに舌打ちしたあと、もう一度森へ目を向けた。
「まあ、だからよ」
声が少し落ち着く。
「あいつは今、その信頼を稼いでる最中なのさ」
「治崎が?」
「そう」
トゥワイスは頷いた。
「今はまだ、親父に言われたから頭下げてるだけかもしれねえ。菓子持ってきたのも、筋を通せって言われたからかもしれねえ」
「はい」
「でも、それでも一回だ」
出久が少し眉を寄せる。
「一回?」
「お前に会わせろって言って断られた。それで暴れなかった。文句も言わなかった。菓子だけ置いて帰った」
トゥワイスは指を一本立てる。
「一個」
もう一本。
「次に何か頼まれて、ちゃんとやったら二個」
さらに一本。
「その次も約束守ったら三個」
「……信頼を積んでいくってことですか」
「そういうこと」
トゥワイスは煙草を咥え直した。
「反省してるかどうかなんて、今はどうでもいいんだよ。口で何言ったって分かんねえんだから。だったら行動見りゃいい」
「……なるほど」
「一年後もちゃんとやってたら、ちょっと信用する。五年後もやってたら、もうちょっと信用する。十年後も逃げずにやってたら──」
そこでトゥワイスは肩を竦めた。
「その時になってから考えりゃいい」
出久は煙草の先端を見つめた。
確かに、その方が分かりやすかった。
治崎が今、本当に反省しているのか。
自分の罪をどこまで理解しているのか。
そんな内面を、出久が今ここで正確に判断することなどできない。
けれど、これから何をするかなら見える。
約束を守るのか、壊理の意思を尊重するのか、拒絶されても受け入れるのか。
償うと言った言葉を、何年経っても投げ出さないのか。
それを見ていけばいい。
「……信頼か」
出久が呟く。
「そうだ」
トゥワイスは答えた。
「居場所なんてな、誰かに『今日からここがお前の家です』って言われたら出来上がるもんじゃねえんだよ」
その声が、少しだけ低くなる。
「そこにいていいって思えるまで、時間が要る」
出久は何も言わなかった。
今の言葉だけは、治崎について語っているようには聞こえなかったからだ。
トゥワイス自身の話でもあるのだろう。
社会から外れ、自分自身すら信用できなくなり、それでも義爛に拾われ、敵連合へ辿り着いた男の言葉だった。
「俺も……」
トゥワイスが口を開く。
しかし、その先は続かなかった。
「……」
出久は待った。
トゥワイスは煙草を持ったまま数秒固まり、やがて乱暴に煙を吐き出した。
「いや、何でもねえ」
「分倍河原さん?」
「何でもねえっつってんだろ! もっと聞いてくれー」
いつもの調子に戻った声だった。
出久が苦笑すると、トゥワイスも僅かに口元を緩めた。
彼が何を言おうとしたのかは、何となく想像できる。
自分も信頼を積んできた。
自分も居場所をもらった。
あるいは、自分もまだその途中なのだと。
けれど、それを本人が口にしなかった以上、出久が勝手に言葉にする必要はない。
少しの沈黙が流れる。
その沈黙は、気まずいものではなかった。
やがてトゥワイスが灰を落としながら、ぽつりと言った。
「まあ、治崎が本当に居場所欲しいのかは知らねえけどな」
「八斎會にはもう居場所があるんじゃないですか?」
「だからこそだよ」
出久が振り向く。
「一回ぶっ壊した信頼を、元に戻すのは新しく作るより面倒くせえんだ」
トゥワイスは苦い顔で笑った。
「でも、やるってんならやらせりゃいい。途中で逃げたら、そこまでの奴だったってだけだ」
「……はい」
「続けたら、その時は?」
「その時は、その時だ」
トゥワイスは最後まで吸った煙草を携帯灰皿へ押し込み、マスクを元の位置まで戻した。
出久は短くなった煙草を携帯灰皿へ押し込み、立ち上がった。
「……ありがとうございます、分倍河原さん」
「あ?」
「相談してよかったです。ちょっと整理できました」
トゥワイスは一瞬だけ黙ったあと、照れたように顔を背ける。
「礼なんか要らねえよ! もっと感謝しろ!」
いつもの返しに、出久は小さく笑った。
「じゃあ、戻りますね」
「おう」
数歩進んだところで、出久はふと足を止めた。
「分倍河原さん」
「今度は何だよ」
「本当に、ありがとうございました」
今度は冗談を混ぜずに言って、軽く頭を下げる。
トゥワイスは何か言い返そうとしたようだったが、結局声にはせず、片手だけをひらひらと振った。
出久はそのまま別荘へ戻っていく。
庭を横切り、玄関へ向かう背中を、トゥワイスは切り株に座ったまま眺めていた。
やがて扉が閉まり、出久の姿が完全に見えなくなる。
「……ったく」
ぽつりと呟く。
さっきまで出久からもらった煙草を吸っていたせいか、口の中にはまだ苦みが残っていた。
「ガキは目が真っ直ぐ過ぎていけねぇや」
あんな目で礼を言われると困る。
何かを信じようとする時も、誰かを助けようとする時も、自分が間違っているのではないかと悩む時でさえ、出久の目は妙に真っ直ぐだった。
ヴィランのくせに、とトゥワイスは思う。
人を疑うことを知らないわけではない。
むしろ出久はよく疑い、よく考え、相手の言動を細かく観察している。
それでも最後の最後で、相手が変わる可能性を完全には捨てない。
「面倒くせえ奴」
トゥワイスは苦笑した。
「いい奴だよな!」
すぐに自分で否定する。
「最低だ!」
さらに否定した。
「……どっちでもいいか」
誰も聞いていない庭でそう呟き、ポケットへ手を入れる。
さっき吸った一本は出久からもらったものだった。
今度は自分の煙草を取り出す。
少し潰れた箱を振ると、中で残りの煙草が軽い音を立てた。
一本抜き取り、マスクを再び顎までずらす。
火を点ける。
先端が赤くなり、深く吸い込んだ煙が肺へ入った。
「……ふぅ」
長く吐き出す。
白い煙は風に乗って、薪の山の向こうへ流れていった。