別荘での生活にも、いつの間にか妙な慣れが生まれていた。
朝になれば誰かが台所を使い、昼になれば縁側や庭に人が散り、夜になれば居間に自然と集まる。
敵連合というより、行き場のない者たちが一時的に同じ屋根の下で暮らしているだけのような空気さえあった。
そして、その中には当然のように麗日お茶子もいた。
最初のうちは誰も深く突っ込まなかった。
八斎會との戦いでは、お茶子の個性がなければ治崎を仕留めることはできなかった。
戦闘後も警察の包囲を抜ける流れに巻き込まれ、そのまま地下へ落ち、組長のいる病室へ行き、食事をして、移動して、気がつけばこの別荘まで来ていた。
ただ、一週間二週間と経つ頃には、誰もが同じ疑問を抱き始めていた。
──なんでこいつ、まだいるんだろう。
朝食の席で、お茶子がごく自然に味噌汁を啜っていると、向かいに座っていたスピナーがちらりとこちらを見る。
「……」
「何?」
「いや、別に」
目を逸らした。
昼過ぎ、洗濯物を抱えて廊下を歩いていると、向こうからやってきたコンプレスが足を緩める。
「……」
「なんですか、その目」
「いやいや。何でもないよ」
夕方、壊理と一緒に台所で夕食の準備を手伝っていると、冷蔵庫から飲み物を取り出しに来たスピナーがまた見る。
「……」
「だから何なん?」
「いや……」
「言いたいことあるなら言ってや」
「……お前、いつ帰るんだ?」
「スピナー!」
近くで聞いていたマグネが声を上げた。
「そういうことストレートに聞くんじゃないわよ!」
「お前も気になってただろ!」
「気になってたけど!」
どうやら全員同じだったらしい。
お茶子は包丁を持ったまま、何とも言えない顔で二人を見る。
「……うちがおったらあかんの?」
「ダメっつーか……」
スピナーが言葉に困る。
「お前、ヴィランじゃないだろ」
お茶子は雄英高校を退学となっている。
それでも敵連合へ加入したわけではないし、少なくとも本人もヴィランを名乗っていない。
事情が事情だっただけに、最初の数日なら誰も気にしなかった。
八斎會との戦いで彼女が大きな助力となったことも、全員が知っている。
問題は、それから何日経っても帰る気配がないことだった。
「別にいいじゃないですか」
居間からひょこりと顔を覗かせたトガが言った。
「お茶子ちゃん、連合に入って一緒にヴィランやりましょう!」
「え〜、どうしようかなぁ」
そんなやり取りが何度か繰り返され、さらに数日。
とうとう出久も、この問題を無視できなくなった。
「麗日さん」
「ん?」
昼下がり。
お茶子は縁側に座り、庭で遊んでいる壊理を眺めていた。
少し離れた場所ではトガも一緒になって何かを探している。昨日、壊理が見つけた妙な形の石と似たものを探しているらしい。
出久はその隣へ腰を下ろした。
「どうしたん?」
お茶子は普段通り答えた。
だが、出久の表情を見た瞬間、何の話をされるのかは何となく分かった。
「麗日さん、ここに来てから結構経ったよね」
「……せやね」
「身体の調子とかは?」
「もう全然平気。元々そんな怪我しとらんかったし」
「そっか」
会話が途切れる。
出久が言いにくそうにしている。
お茶子は何も言わず、その続きを待った。
「……そろそろさ」
来た。
お茶子は表情を変えなかった。
「麗日さん、僕たちから離れた方がいいと思う」
予想通りだった。
「……なんで?」
「危ないからだよ」
出久は即答した。
「八斎會では本当に助けてもらった。麗日さんが来てくれなかったら、僕は治崎に勝てなかったと思う」
「……うん」
「だから、本当に感謝してる」
出久は一度庭へ目を向けてから、少し困ったように眉を下げた。
「でも、それとこれとは別だから」
お茶子は黙って聞く。
「麗日さんは僕たちの仲間じゃない。一応、一般人なんだよ」
「一応?」
「いや、元ヒーロー科だから普通の一般人って言うのも変だけど……少なくともヴィランじゃないって意味で」
「……元、か」
出久の表情が固まった。
「あ、ご、ごめん」
「ええよ。ほんまのことやし」
お茶子は小さく笑った。
雄英高校は、もう自分の学校ではない。
出久を助けた。
ヴィランとして追われていた出久を、ヒーローを目指す立場でありながら自分の意思で逃がした。
その結果として、お茶子は雄英を退学になった。
処分そのものについて、今さら何かを言うつもりはない。
あの時の行動を後悔しているわけでもなかった。
もう一度同じ状況になれば、また同じことをする。
「でもね」
出久は続けた。
「だからこそ、これ以上僕たちと一緒にいるのは危険だと思う」
「……」
「今ならまだ、ちゃんと説明すれば──」
「デク君」
「うん?」
「うち、どこに帰ればええん?」
出久の言葉が止まった。
お茶子は庭を見たままだった。
「麗日さんの家とか……」
「帰れると思う? うち雄英退学になっとるんよ、お父ちゃんの会社は潰れて、家族はバラバラ」
出久の表情が強張った。
お茶子はそれを横目で確認しながら、すぐには続きを口にしなかった。
嘘は言っていない。
雄英を退学になったのも、父親の会社が潰れたのも、家族が以前と同じように暮らせなくなったのも事実だ。
ただ、その原因を誰かのせいにするつもりはなかったし、少なくとも口に出すつもりはなかった。
自分が選んだ。
あの時、出久を助けると決めたのは自分だ。
その後に起きたことまで出久の責任にするのは筋違いだと、お茶子自身が一番よく分かっている。
だからこそ──言わない。
「デク君のせいで」などとは絶対に言わない。
出久は勝手に考える。
そして勝手に、自分を責める。
それを知っていて利用している時点で、かなり卑怯なことをしている自覚はあった。
「……会社、潰れたの?」
「うん」
お茶子は膝の上で両手を組んだ。
「色々あってね、テレビもいっぱい来たし、仕事の話もなくなって……お父ちゃん、だいぶ頑張っとったみたいやけど」
「……」
「まあ、しゃあないよ!」
わざと明るく笑う。
それが一番効くことも、分かっていた。
「うちが選んだことやし」
出久の眉間に皺が寄った。
お茶子は内心で小さく息を吐く。
──ごめん、デク君。
そう思いながら、やめなかった。
「それに、雄英に戻るんは無理やろ?」
「でも……退学のことだって、事情をもう一度説明すれば」
「誰に?」
「それは……先生とか、学校とか」
「もう説明したよ」
静かな返答だった。
「その上で退学になったんやもん」
「……」
「先生らが悪いとは思っとらんよ。学校にも立場があるし、うちがやったことは事実やから」
お茶子はそこで一度言葉を切り、庭へ視線を戻した。
壊理がしゃがみ込み、土を掘っている。
その隣でトガも何やら真剣な顔をしていたが、いつの間にか手が止まっていた。
顔はこちらを向いていない。
「それに、ジェントルの動画もあるし」
出久の肩が僅かに動いた。
「それで世間から敵連合の仲間やと思われたんも、自業自得やし」
「でも麗日さんは──」
「うん。連合やないよ」
お茶子はあっさり認めた。
「少なくとも今は」
「今は?」
「何でもない」
出久が怪訝そうな顔をしたが、お茶子は気にせず続ける。
「でも、世間の人はそんな細かい事情まで知らんやろ? 動画だけ見た人からしたら、うちはデク君らと繋がっとるようにしか見えへんし」
「……」
「それで今度は八斎會や」
お茶子は膝を抱えた。
「警察もヒーローもおったなあ」
出久は何かを言いかけたものの、結局口を閉じた。
お茶子は再び前を向いた。
「まあでも、仕方ないよ。壊理ちゃんを助けるにはああするしかなかったし」
「……」
「デク君一人やったら危なかったもん」
出久の顔がさらに曇った。
──効いとる。
そう思ってしまった自分に、お茶子は若干の自己嫌悪を覚えた。
だが、ここまで来て引き返すつもりもなかった。
「麗日さんがいなかったら、僕は勝てなかった」
「そうかもなあ。でも、うちが勝手にやったことやで?」
そこだけは強調する。
出久に責任があるとは言わず、むしろ否定する。
何度でも「自分で選んだ」と言う。
そのたびに出久は、自分のためにお茶子が何を失ったのかを勝手に数えてくれる。
お茶子には、それが分かっていた。
「デク君は何も悪ないよ」
最後に微笑むと、出久は完全に黙り込んだ。
自分でも酷いと思う。
出久が罪悪感を抱きやすいことを知っていて、その目の前に「自分が失ったもの」を一つずつ並べている。
しかも最後には必ず「デク君は悪くない」と付け加える。
悪くないと言われれば言われるほど、出久がどう感じるかまで分かった上で。
それでも。
──帰りたくない。
それだけは本心だった。
出久のそばから離れたくない。
またどこかで彼が戦っているのを、ニュースや動画越しに見るだけの生活へ戻りたくない。
今度こそ手の届かないところへ行ってしまうかもしれないと思いながら、何もできずに待つのは嫌だった。
しばらく、二人の間に沈黙が落ちた。
庭の向こうでは壊理がしゃがみ込み、何かを拾い上げてトガに見せている。遠くでは薪を割る音が響き、風が木々を揺らしていた。
出久は膝の上で両手を組んだまま、何度も考え込むように視線を落としている。
お茶子は何も言わなかった。
ここで急かしてはいけない。
自分から「置いてほしい」と言ってしまえば、出久はきっと別の方法を探そうとする。
安全な場所を用意しようとするかもしれないし、八斎會を頼って自分だけどこかへ移そうとするかもしれない。
それでは意味がない。
お茶子が欲しいのは安全な場所ではない。
出久のそばだった。
「……麗日さん」
「ん?」
ようやく出久が顔を上げた。
「その……」
言いにくそうに言葉を探している。
お茶子は努めて普通の顔を保ったまま、その続きを待った。
「麗日さんが、このまま一人でどこかに行くのも危ないと思うんだ」
「……うん」
「警察に行くのも、今の状況だとどうなるか分からないし。家族のところに戻るにしても、そこを警察が見てないとは限らない」
「せやね」
「それに、世間からもう僕たちと関係があるって思われてるなら……」
出久はそこで一度口を閉じる。
どうやら自分でも、この先を言っていいのか迷っているらしい。
お茶子は内心でじっと待った。
あと少し。
「……だったら」
出久が小さく息を吐く。
「しばらく、僕たちと一緒に行動する?」
お茶子の心の中で、何かが跳ねた。
──しめた!
危うく口元が緩みそうになり、慌てて押さえる。
来た。
自分から言わせた。
出久の方から。
お茶子はすぐに返事をしなかった。
ここで即答するのは、さすがに露骨すぎる。
「……一緒に?」
「うん」
出久は真面目な顔で頷く。
「もちろん、ずっとって意味じゃないよ。麗日さんがこれからどうするか決めるまでの間だけでも」
「……」
「僕たちといる方が危険なこともあると思う。でも、今すぐ一人で動くよりは、少なくとも何かあった時に守れる」
その言葉を聞いて、お茶子はまた少しだけ胸が痛んだ。
心の中で一度だけ謝る。
そして、ほんの少し考えたふりをしてから頷いた。
「……そうやね」
「うん」
「うちも、その方がええかもしれへん」
出久の表情が少しだけ和らぐ。
お茶子はそれを見て、さらに続けた。
「じゃあ、しばらく一緒におろうかな」
その言葉に、出久はようやく少し安心したように息を吐いた。
「うん。それがいいと思う。少なくとも今すぐ一人で動くよりは──」
「じゃあ決まりやね」
「え?」
お茶子はすっと立ち上がった。
さっきまでの、行き場をなくした少女らしい沈んだ雰囲気はどこへやら。
ぱん、と膝についた埃を払い、そのまま縁側から居間へ向き直る。
「みんなー!」
突然の大声に、別荘のあちこちから視線が集まった。
居間ではスピナーがゲーム機を持ったまま顔を上げ、ラブラバがノートパソコンの向こうから覗き込む。
マグネはソファに寝転がった姿勢のまま首だけをこちらへ向け、コンプレスも読んでいた雑誌を少し下げた。
庭にいたトガと壊理も振り返る。
「どうした?」
スピナーが訝しげに聞く。
「……?」
出久はまだ話の流れについていけていないらしく、首を傾げていた。
それを確認してから、お茶子は満面の笑みを浮かべ、両手を身体の前で揃えた。
「それじゃあこれから連合でお世話になります、麗日お茶子です!」
ぺこり。
勢いよく頭を下げる。
「よろしくお願いします!」
数秒、沈黙が落ちた。
「……」
スピナーがゲーム機を持ったまま固まる。
「……は?」
最初に声を出したのもスピナーだった。
「いや待て。お前さっきまで連合じゃなかったよな?」
「今なったんちゃう?」
「軽っ!」
「え、麗日さん」
出久まで慌てて割り込んでくる。
「僕、連合に入ってって意味で言ったわけじゃなくて、しばらく一緒に行動したらって──」
「一緒に行動するんやったら、どっちにしろ連合と一緒におるんやし」
「いや、そうなんだけど……」
出久が困惑する横で、お茶子はにこにこと笑っている。
その顔には、つい先ほどまでのしゅんとした様子など欠片も残っていなかった。
マグネはそれを見て、ゆっくり瞬きをした。
──恐ろしい子っ!
思わず心の中で叫ぶ。
ここまでの流れを思い返せば、すべてが綺麗につながっていた。
マグネは内心で唸った。
──トガちゃんに、とんでもなく強力なライバルが現れたわね。
ただそばにいたいと駄々をこねるのではない。
泣きつきもしない。
相手の性格を理解したうえで、自分から追い出せない状況を作り、最後の一言だけ本人に言わせる。
そして言わせてしまえば、あとは遠慮なく居座る。
なかなかできることではない。
「お茶子ちゃん!」
一方、その強力なライバル本人へ真っ先に飛びついたのはトガだった。
「はい!」
「ほんとに連合入るんですか!?」
「まあ、しばらくお世話になる感じかなあ」
「やったー!」
トガがお茶子の両手を掴み、ぶんぶん振る。
「女の子増えました! 嬉しいです!」
両手を掴んだまま弾むトガに、お茶子も一瞬だけ目を丸くした。
けれど、すぐに笑う。
「うちも女の子がおってくれて頼もしいわ!」
「ですよね!」
「うん。分からんこともいっぱいあるし、色々教えてな」
そう言って、お茶子はあらためて右手を差し出した。
トガが瞬く。
「握手ですか?」
「せやよ。これから一緒に動くんやし」
「します!」
トガは嬉しそうにその手を握った。
ぱっと見れば、実に微笑ましい光景だった。
新しく加わった少女と、以前から連合にいる少女。
互いに笑顔で手を取り合い、これからよろしくと挨拶を交わしている。
少なくとも、出久やスピナーにはそう見えていた。
「よろしくな、トガちゃん」
「はい! よろしくお願いします、お茶子ちゃん!」
二人はにこにこと笑う。
ただし。
握った手には、ほんの僅かに力が入っていた。
「デク君のこととか」
「はい?」
「連合のこととか、色々知らんこと多いからなあ。教えてもらえると助かるわ」
「もちろんです!」
「トガちゃん、デク君とは長いんやろ?」
「長いですよ」
「そっかぁ」
「お茶子ちゃんよりいっぱい知ってるかもしれません」
「……そうなん?」
「そうです」
やり取り自体は何もおかしくない。
何もおかしくないはずなのに、少し離れたところで見ていたマグネの口元がゆっくりと引きつった。
さっきまで「女の子が増えた」と純粋に喜んでいたトガも、どうやらお茶子の言葉に含まれたものを感じ取ったらしい。
お茶子もお茶子で、ただ教えを請うているわけではない。
どこまで出久を知っているのか。
どれくらい近いのか。
自分の知らない時間を、どれほど共有しているのか。
笑顔のまま、さりげなく測っている。
しかも、正面から敵意を見せる気はないらしい。
「そっかぁ。じゃあ色々教えてもらわなあかんな」
「いいですよー。デク君の好きなものとか、嫌いなものとか、私いっぱい知ってます!」
「へえ。頼もしいなあ」
「ですよね!」
握手したまま、にこにこと会話を続ける二人。
マグネは心の中でそっと額を押さえた。
(頑張んなさいよ、トガちゃん)
今回はさすがに、少しだけトガを応援したくなった。
トガは分かりやすい。
好きなら好きと言うし、抱きつきたければ抱きつく。嫉妬すれば顔に出るし、譲りたくなければ譲らないと堂々と言う。
少々、いやかなり危なっかしいところはあるが、そのぶん裏表がない。
一方で麗日お茶子という少女は、どうにも種類が違った。
出久の性格をよく理解している。
そして、自分がどう振る舞えば出久が何を考えるかまで、かなり正確に読んでいる。
マグネは出久には聞こえない声でそっと呟く。
「……頑張んなさいよ、トガちゃん」
もちろん。
お茶子にも負けてほしいわけではなかった。
ただ、今のところ少しだけ。
昔から連合にいる少女の方へ、肩入れしてやりたい気分だった。
──
翌日。
昼前のリビングで、お茶子は一人、ソファに座って考え込んでいた。
目の前のローテーブルには湯気の立つマグカップ。少し離れた窓の向こうでは、山の木々が風に揺れている。
別荘は静かだった。
スピナーは別室でゲーム。
トゥワイスはまた薪を弄っているらしく、庭の方から時々声が聞こえる。
マグネは風呂上がりだと言ってどこかへ消え、ラブラバはジェントルと何やら話していた。
出久とトガの姿もない。
だからこそ、考えるには都合がよかった。
お茶子はマグカップを両手で包み込みながら、じっと一点を見つめる。
脳内の議題は、極めて明快だった。
──デク君とトガちゃんって、そういう関係なん?
昨日からずっと引っかかっている。
いや、正確にはもっと前からだった。
トガは以前から出久に対して距離が近い。
名前の呼び方からしてそうだ。
デク君、デク君と気軽に呼び、平然と抱きつき、腕を絡め、時には頬が触れそうなくらい顔を近づける。
出久も最初こそ戸惑っていたものの、今ではそれを強く拒絶する様子がない。
そこが、お茶子にはどうにも引っかかっていた。
「……いや、でも」
マグカップを両手で包み込みながら、ぽつりと呟く。
トガが一方的に距離を詰めているだけなら、まだ分かる。
問題は出久の方だ。
抱きつかれても本気で引き剥がすことはないし、腕を絡められても困った顔をする程度。顔を近づけられれば慌てるものの、以前のような露骨な動揺も少なくなっている。
要するに。
「慣れとるんよなあ」
そこまで考えたところで、お茶子はふと別のことを思い出した。
「……あ」
大阪にいた頃、連合が拠点として使っていた廃業済みのラブホテルを。
お茶子自身、あそこには何度も足を運んでいる。
最初に訪れた時こそ多少面食らったものの、何度か出入りするうちに、あの独特な内装にも慣れてしまった。
連合にとっては単なる潜伏先だったし、お茶子も途中からはそういうものとして認識していた。
だから、今まで特に気にしていなかった。
けれど。
「……待って」
お茶子の思考が止まる。
今。
今だけは、話が違う。
脳内の議題が、
──デク君とトガちゃんに男女の関係があるんか。
これなのだから。
「……」
お茶子はゆっくりマグカップをテーブルへ置いた。
もちろん、ラブホテルがどういう用途で使われる場所なのかくらい知っている。
知らないほど無知ではない。
むしろ、何度も足を運んでいたからこそ、部屋の様子も具体的に思い出せてしまう。
「……いやいやいや」
ぶんぶんと首を振る。
違う、拠点として使っていただけだ。
それだけのはずだ。
みんなで生活していた、部屋だって複数あった。
出久とトガが二人きりだったわけではない。
お茶子だって何度も訪れているのだから、それくらい分かっている。
「せやけど……」
全員が常にエントランスに集まっていたわけでもない。
それぞれ寝る部屋もあれば、一人になる時間もある。
夜になれば当然、各自が部屋へ戻る。
そこまで考えた瞬間、お茶子の頭の中に余計な情景が浮かんだ。
夜。
静かになった廃ホテルの廊下。
出久の部屋へ、トガが入っていく。
「……っ!」
お茶子の顔が一気に熱くなる。
「ないないないない!」
両手で頬を押さえた。
「何考えとるん、うち!」
完全に想像だ、何の証拠もない。
そもそもトガが出久の部屋へ行っていたかどうかすら知らない。
ただ。
「……行きそうではあるんよなあ」
ぽつりと漏れた独り言に、自分で自分の想像を補強してしまった気がして、お茶子はますます眉間に皺を寄せた。
トガなら行く。
それも、深い意味など考えずに。
『デク君ー!』
くらいの調子で扉を開け、そのまま部屋へ入り込む姿が簡単に想像できる。
出久の方も最初こそ慌てるだろうが、最終的には根負けして追い出さず、そのまま相手をしてしまいそうだった。
問題は、その先である。
「……いや、せやから、その先を考えたらあかんねんて」
お茶子は両手で頬を挟んだ。
しかし、考えるなと言われて考えなくなるなら苦労はしない。
昨日までなら、廃業したラブホテルという事実に特別な意味など感じなかった。
何度も自分で足を運んでいるし、あそこが連合にとって単なる隠れ家だったことも知っている。
それでも一度、出久とトガの関係を意識してしまうと、過去に見た光景まで違って思えてくる。
同じ建物で暮らしていた。
同じ食事をし、同じ危険を潜り抜け、警察やヒーローから逃げながら長い時間を共有した。
そしてトガは、あれだけ出久に懐いている。
「……ほんまに何もないんかな」
声が小さくなる。
何かあったとしても、おかしくはないのではないか。
そう思うたび、胸の奥がざわついた。
付き合っている。
そういう特別な関係になっている。
あるいは、自分の知らないところでもっと距離が近づいている。
「……」
お茶子は再び頬が熱くなるのを感じ、慌ててマグカップへ手を伸ばした。
だが、その手は途中で止まった。
「大丈夫よ、麗日さん!」
「──ひゃあっ!?」
突然、背後から肩を叩かれた。
お茶子は飛び上がるように振り返る。
「ラ、ラブラバ……さん?」
そこに立っていたラブラバは、きょとんとしていた。
ノートパソコンを小脇に抱えている。どうやら別室へ移動する途中、リビングを通りかかったらしい。
「い、いつからおったん!?」
「少し前からよ」
「ほんま?」
「ほんとよ」
お茶子は疑いの目を向ける。
ラブラバはそんな彼女の顔を数秒見つめたあと、にやりと口元を緩めた。
「でも、何を考えてるかは何となく分かったわ」
「え」
「だって麗日さん、さっきから顔真っ赤にしたり、ホテルがどうとか呟いたりしてるんだもの」
「聞こえとったん!?」
「最後だけね」
お茶子は慌てて顔を覆った。
最悪だ。
よりによって、今一番人に聞かれたくない部分を聞かれている。
ラブラバは笑いながら隣へ腰を下ろす。
そして、まだ顔を覆っているお茶子の肩を、ぽんぽんと二度叩いた。
「だから大丈夫よ、麗日さん!」
「……何が?」
お茶子が指の隙間から覗く。
ラブラバは妙に自信満々だった。
「緑谷君は、まだチェリーボーイなんだから!」
「──っ!?」
今度こそ、お茶子の顔が真っ赤になった。
「何言ってるんよ!」
「麗日さんが一番気にしてたところでしょ?」
「そ、それは……!」
否定しようとして、できない。
まさにその通りだった。
お茶子は視線を左右へ泳がせる。
「……ほんま?」
「たぶんね」
「たぶん!?」
「本人に確認したわけじゃないもの」
「そらそうやろけど!」
お茶子は一度浮きかけた安堵を慌てて押し戻す。
「じゃあ分からんやん!」
「でも、見てればだいたい分かるわよ」
ラブラバは落ち着いた様子で足を組んだ。
「私、恋愛には結構敏感だから」
その言葉には妙な説得力があった。
ジェントルへの態度を考えれば、少なくともこの別荘の男性陣よりは遥かに信用できそうである。
「ほらトガさんって、恋愛観がちょっと特殊じゃない?」
「うん……」
「だから、そういう直接的なことは一切してないんじゃない?」
「……ほんまに?」
「少なくとも私はそう思う」
ラブラバは肩を竦めた。
「トガさんって、自分なりの『好き』がかなり完成してるのよ。世間一般の恋愛に合わせようって感じじゃないもの」
「……なるほど」
確かに。
言われてみれば納得できる。
トガにとって「好きな人」というのは、お茶子が想像している一般的な恋人像とは少し違うのかもしれない。
「……そっか」
お茶子は小さく呟いた。
それから、ようやく肩の力を抜くように息を吐く。
「……よかったぁ」
胸元に手を当て、そのまま本当にほっとしたように撫で下ろした。
その仕草を見て、ラブラバの目がすっと細くなる。
「そんなに心配だった?」
「そ、それは……まあ……」
お茶子は急に視線を泳がせた。
「だって、ほら。昨日から一緒に行動することになったわけやし、そういう人間関係とか、ちゃんと知っといた方がええかなって」
「ふーん」
ラブラバは口元を緩めたまま、お茶子を眺めている。
お茶子もそれ以上追及する気にはなれず、誤魔化すようにマグカップを手に取った。
まだ少し頬が熱い。
ただ、先ほどまで胸の奥に居座っていた妙なざわつきは、かなり薄れていた。
少なくとも。
自分の知らないところで、出久とトガの関係がすでに決定的なところまで進んでいた──というわけではなさそうだ。
それだけで十分だった。
「可愛いわぁ。恋する乙女って素敵!」
ラブラバは楽しそうに笑った。
「私は、麗日さんのこと応援しちゃおうかな」