志賀はぶつぶつと文句を言いながら玄関を出ると、砂利の上を歩いて停めてある車へ向かった。
ナガンもその後を追う。
治崎は二人についていかなかった。
もともと運転してきたのは治崎だが、まだ出久に用があるらしく、玄関脇に立ったまま二人を見送っている。
「……」
出久は閉じた車のドアをしばらく眺めてから、長く息を吐いた。
「……疲れた」
本当に、何をしに来たのだろう。
出久は玄関の扉を閉め、鍵を掛けた。
カチリ、と錠の噛み合う音がする。
「兄さん」
ほとんど同じタイミングで、背後から治崎に呼ばれた。
「……何?」
出久が振り返る。
先ほどの志賀とのやり取りで気力を削られたせいか、「兄さん」という呼び方に訂正を入れる元気もなかった。
治崎はそれをどう受け取ったのか、いつものように淡々とした顔で続ける。
「お耳に入れておきたいことがあります」
「僕に?」
「へい」
治崎がわざわざ残ったのは、そのためらしい。
「何かあった?」
「工事中のうちの屋敷に、兄さんの同級生を名乗る方が訪ねてきました」
出久の眉間に皺が寄った。
同級生。
その言葉だけで、頭の中にいくつもの顔が浮かんでくる。
雄英高校一年A組。
ほんの少し前まで自分も所属していた教室。
今となっては、随分遠い場所に感じられる。
「最初に来たのは数日前です。屋敷はまだ工事中ですから、出入りする人間は普段より多い。そいつも最初は工事関係者か何かだと思われたらしいんですが、門のところで若い衆に声を掛けてきたそうです」
「なんて?」
「『緑谷出久に会わせてほしい』と」
出久の表情が変わった。
「……僕の名前を出したの?」
「はっきりとな」
治崎が頷く。
「自分は兄さんの同級生だから、会って話がしたい。そう言ってきたそうです」
「それで?」
「追い出しました」
即答だった。
「……まあ、そうなるよね」
「当然でしょう」
治崎は悪びれる様子もない。
「八斎會の屋敷にいきなりやって来て、指名手配中の敵連合の頭に会わせろと言ってるんです。警察か公安の差し金かもしれねえし、ヒーロー側の人間かもしれねえ。素性も確認できてねえ奴を相手に、馬鹿正直に『はい、こちらです』なんて案内するわけがない」
「うん。それは正しいと思う」
「ですから、その日は『緑谷出久なんてここにはいない』とシラを切って追い出しました」
「それで終わったんじゃないの?」
その程度なら、わざわざ治崎が報告してくるとも思えない。
案の定、治崎は僅かに眉を寄せた。
「それで終わってくれりゃ、俺も兄さんの耳に入れる必要はなかったんですがね」
「……まさか」
「次の日も来ました」
「え」
「その次の日もです」
出久が瞬きをする。
「……何日来てるの?」
「今日を入れて五日です」
「五日?」
思わず声が大きくなった。
廊下の奥から様子を窺っていたお茶子も、「五日?」と同じように聞き返している。
治崎は面倒そうに頷いた。
「もう何日も通ってきて、兄さんに会わせろと言って聞かねえんです」
「毎日?」
「毎日です。最初の二日は『ここにはいない』で追い返しました。三日目からは向こうもこっちがシラを切ってると思ったらしく、『いるのは分かってる』の一点張りですよ」
「……なんで分かってるんだろう」
「さあ。ただのハッタリかもしれませんがね」
治崎としても、出久がこの別荘にいることまで知られているとは考えていないらしい。
そもそも相手が訪ねてきているのは八斎會本部であり、出久の居場所を正確に把握しているなら、わざわざ工事中の屋敷へ何日も通う必要はない。
おそらく、報道から敵連合と八斎會の繋がりを知り、八斎會を経由すれば出久へ辿り着けると踏んでいるのだろう。
「それで、今日も来たの?」
「来ましたよ。昼前にな」
治崎の声に、分かりやすく苛立ちが混じる。
「門の前で一時間近く粘りやがった。『緑谷出久に会わせろ』『ここにいねえなら連絡を取れ』『話がある』って、何度追い返そうとしても聞きやしねえ」
「……すごいな」
「感心するところじゃありません」
「いや、そうなんだけど……」
五日間。
相手が本当に雄英時代の同級生なら、今の出久がどういう扱いを受けているのか知らないはずがない。
全国に顔と名前を晒され、敵連合を率いるヴィランとして指名手配されている。
つい一週間ほど前には八斎會本部を襲撃し、警察やプロヒーローを巻き込んだ大規模な戦闘まで起こしたばかりだ。
そんな人間を訪ねて、極道の本部へ一人で五日間も通う。
普通ではない。
「その自称同級生は爆豪勝己と名乗っています」
「……かっちゃんが?」
「知り合いですか」
「いや、知り合いっていうか……」
出久はまだ信じられないように治崎を見る。
「かっちゃんが、僕に会いに来てるの?」
出久は完全に困惑していた。
爆豪勝己。
名前を聞いた瞬間、五日間という異常な粘り強さだけは妙に納得できてしまった。
あの幼馴染なら、一度こうと決めたら門前払いを何度食らおうが翌日にまた来てもおかしくない。
だが、それと「出久に会いたがっている」という話は別だった。
「……間違いなく本人なの?」
「一応、素性は調べさせました」
治崎はそう言って、ポケットからスマートフォンを取り出した。
「爆豪勝己。雄英高校ヒーロー科一年A組。個性は『爆破』」
「……うん」
「顔も公開されてる写真と一致してます。少なくとも、俺たちのところへ来てる奴が世間で『爆豪勝己』として知られてる本人なのは間違いないでしょう」
そこまで聞いて、出久はますます分からなくなった。
爆豪が自分に会いたがる理由も分からなければ、五日間も八斎會本部へ通い詰める理由も分からない。
雄英や警察から何か頼まれている可能性も考えたが、それなら単独で極道の本部へ毎日押しかけるという行動が、あまりにも爆豪個人の判断らしすぎる。
出久は腕を組み、しばらく俯いて考え込んだ。
「……」
「兄さん?」
「ちょっと待って」
治崎を手で制し、頭の中で状況を整理する。
お茶子も口を挟まず待っていたが、やがて出久は何かに気づいたように顔を上げた。
「治崎。かっちゃんは実家から通ってるの?」
「実家?」
「うん。かっちゃんの家、ここから近いわけじゃないから。五日間も毎日来てるなら、その度に家から八斎會まで来てるのかなって」
「ああ、それなら違います」
治崎はすぐに答えた。
「屋敷の近くに宿を取って、そこから通っているようです」
「……宿まで取ってるの?」
「ええ。調べた限りでは、最初にうちへ来た日から泊まってます」
つまり、一度や二度追い返された程度で諦めるつもりは最初からなかったらしい。
「爆豪君、本気やなあ……」
お茶子も呆れ半分に呟く。
「うん……」
爆豪勝己は頑固だ。
一度こうと決めれば、周囲が何を言おうと簡単には曲げない。
それは幼い頃から知っている。
だが、だからといって何の理由もなく宿まで取り、極道の屋敷へ五日間も通い続けるような人間ではない。
「……何かあるんだ」
「でしょうね」
「でも、何で僕なんだろう」
「それを俺に聞かれても分かりませんよ。本人に聞くしかないでしょう」
「……そうなんだよね」
結局、そこへ行き着く。
出久は少し考えてから尋ねた。
「その宿、どこ?」
治崎が僅かに眉を上げる。
「行くんですか?」
「住所だけ教えて」
「構いませんが」
治崎はスマートフォンを取り出し、調べさせていた情報を表示した。
出久も自分の端末を取り出し、宿泊場所の名前と住所を受け取る。
地図を開いてみれば、確かに八斎會本部からそう離れていない。
毎日通うことを前提に選んだのではないかと思えるほどの場所だった。
「これ、宿って言うか……」
爆豪が自分を探している。
五日間毎日、わざわざ近くに宿まで取って。
その事実だけで、少なくとも何かしらの理由があることは分かる。
ここでいくら考えていても、その理由までは分からない。
出久はスマートフォンをポケットへしまった。
「ちょっと外に出てくる」
「今から?」
「うん」
お茶子へ答えながら、廊下に掛けてあった上着を手に取る。
「こっちから行った方が早いから。何の用なのか聞いてくる」
「じゃあ、うちも行く」
「うん」
出久はそれだけ答えて上着に腕を通した。
玄関に向かうまでに、トガはもちろんコンプレスやマグネ、トゥワイスまでもが何も言わずに着いてくる。
出久は止めなかった。
誰が来るのか数えもしなかったし、なぜ来るのかも聞かなかった。
敵連合で行動するようになってから、こういうことは珍しくなくなっている。
出久が出掛けると言えば、暇な者がついてくる。買い物へ行く時も、食事へ行く時も、特に理由がなくても何人か増える。
今の状況で皆がついてくることを、出久も不思議には思わなかった。
出久は靴紐を結んで立ち上がり、玄関の鍵へ手を伸ばす。そのすぐ後ろでは、お茶子とトガが並んで靴を履き、さらにスピナー、トゥワイス、コンプレス、マグネが続いていた。
扉を開けると、山の冷たい空気が流れ込んでくる。
少し離れた場所には治崎の車が停まったままで、車内には志賀とナガンの姿が見えた。
出久はそちらを一瞥しただけで、特に声を掛けなかった。
「行こうか」
「うん」
「はい!」
お茶子とトガの返事が重なる。
出久はスマートフォンで地図を確認しながら歩き出した。
その後ろを、連合の面々もごく当然のようについていく。
──
八斎會本部からそう離れていない繁華街。
夕方を迎えつつある通りには、飲食店や居酒屋、パチンコ店の看板が隙間なく並び、仕事帰りらしい人間や学生が行き交っていた。
一本裏へ入れば古びた雑居ビルが立ち並び、その一角に、爆豪勝己がここ数日寝泊まりしているネットカフェが入っている。
雑居ビルの三階。
受付の奥から爆豪が姿を現した。
「……チッ」
機嫌は最悪だった。
今日も駄目だった。
朝から八斎會の屋敷へ行き、緑谷出久に会わせろと要求したものの、返ってきた答えはこれまでと同じ。
そんな奴はいない。知らない。帰れ──返ってくるのは、五日間ずっと同じ言葉ばかりだった。
「いるに決まってんだろうが……」
苛立たしげに呟きながら、爆豪はポケットへ手を突っ込んだ。
八斎會と敵連合が無関係なはずがない。
あれだけ派手な襲撃を受けた直後だというのに、八斎會は敵連合へ報復する気配を見せず、それどころか事件後の動きまで妙に静かだった。
テレビでは好き勝手に「敵連合の傘下へ入った」などと騒いでいるが、少なくとも両者の間に何らかの話がついているのは間違いない。
なら、あそこへ通えばいつか出久に繋がる。
そう踏んでいる。
実際、三日目あたりから門番の反応も微妙に変わった。
最初は本当に知らない相手を見るような顔だったのが、今では爆豪の顔を見るだけで露骨に嫌そうな表情を浮かべる。
爆豪は廊下の端にあるエレベーターへ向かった。
錆の浮いた扉の横にあるボタンを押す。
しばらくして、
──ガコン。
嫌な音とともに扉が開いた。
「……ボロすぎんだろ」
乗り込む。
中も相応だった。
床の隅は黒ずみ、壁には何年前のものか分からない広告シールの跡が残っている。
操作盤の数字もいくつか擦れて薄くなっており、閉ボタンを押してから扉が動き始めるまでに妙な間があった。
爆豪は一階を押す。
扉が閉まり、エレベーターがゆっくり下降し始めた。
途中で一度、小さく揺れる。
「……落ちんなよ」
本気で信用できない。
数秒後、またガコンと音を立てて一階へ到着した。
外へ出ると、雑居ビル独特の湿った空気から一転して、夕方の街の騒音が耳に入ってくる。
爆豪はフードを深めに被った。
顔が知られている以上、無駄に目立つ必要はない。
目的地はすぐ近くだった。
通りを一本渡った先にあるコンビニ。
ここ数日、食事の大半はそこで済ませている。
店へ入ると軽快な入店音が鳴った。
「いらっしゃいませー」
爆豪は返事もせず、まっすぐ弁当棚へ向かう。
「……」
焼肉弁当。唐揚げ弁当。ハンバーグ。パスタ。
「チッ……」
どれも大して食いたくない。
五日も似たような食事を続けていれば当然だった。
爆豪は一度焼肉弁当へ手を伸ばし、途中で止める。
「昨日食ったな……」
戻す。
唐揚げを見る。
「これも食った」
戻す。
隣のカレー。
「……甘口しか残ってねえじゃねえか」
苛立ちが増す。
結局、少し辛そうな表示のついた麻婆丼を取り、サラダと味噌汁、それに水を籠へ入れた。
ついでに栄養補助食品も二つ。
レジへ向かう。
「こちら温めますか?」
「あー、お願いします」
「お箸は一膳でよろしかったでしょうか」
「はい」
店員は慣れた手つきで会計を進める。
爆豪は腕を組みながら電子レンジの残り時間を睨んでいた。
待っているだけなのに苛立つ。
八斎會の連中の顔が頭に浮かぶ。
明日も行く。
明後日も必要なら行く。
何日かかろうが構わない。
出久本人に会うまでは帰るつもりはなかった。
レンジが鳴る。
「お待たせしました」
袋を受け取った爆豪は、それを片手に店を出た。
夕方の空気が頬を撫でる。
「……明日はもっと早く行くか」
独り言を漏らしながら歩道へ出る。
八斎會の屋敷までは、ここから歩いても行ける。
どうせ明日また追い返されるなら、今夜のうちに別の手も考えておいた方がいい。
門から駄目なら裏を探る。工事業者に紛れてもいいし、出入りする車を追ってもいい。
いくらでも方法は──
「っ!?」
突然、右腕を掴まれた。
考えるより早く身体が動く。
「誰だコラァ!」
爆豪が振りほどこうとした瞬間、今度は上着の背中側を強く引かれた。
足が半歩浮きそのまま横へ。
コンビニ脇の細い路地へ、強引に身体を引き込まれる。
「テメェ──!」
路地へ引き込まれた爆豪は、着地するより早く身体を捻り、右手を振り抜こうとした。
掌にはすでに汗が滲み、個性を発動させる寸前まで力が入っている。
だが、その瞬間、背中に軽く手が置かれた。
「おっと。少しでも暴れたら、『圧縮』しちゃうよ」
「……あ?」
爆豪の動きが止まる。
背後に立っていたのは、仮面をつけたヴィランだった。
手は爆豪の背中へ添えられているだけで、力ずくで拘束しているわけではない。
だからこそ、それが押さえつけるための手ではなく、いつでも個性を発動できるという警告なのだと理解できた。
「全身きれいに収められればいいんだけどね。ちょっとでもズレたら、悲惨だぜ」
軽い口調だったが、内容は笑えない。
「テメェ……神野にいた仮面野郎……!」
爆豪は盛大に舌打ちしながらも、掌に込めていた力を抜いた。
「賢明だね」
コンプレスの余裕のある声を聞き流しながら、爆豪は視線だけを動かして周囲を確認した。
路地は表通りから十数メートル入っただけの場所だったが、両側を古い建物に挟まれているため薄暗く、夕方だというのに先の方はすでに夜のように沈んでいる。
室外機の低い唸りと、表通りを走る車の音だけが聞こえ、コンビニの自動ドアが開くたびに入口付近だけが一瞬明るくなった。
そして、その薄暗がりにはコンプレス以外にも何人もの人影がいる。
壁際には大柄な男──マグネが立ち、その近くには顔を覆ったトゥワイスと壁に張り付き周囲を警戒するスピナーの姿も見えた。
さらに奥へ目を向けたところで、爆豪は見覚えのある人物を見つける。
「やっぱり爆豪君やったんやね」
お茶子だった。
「……丸顔。テメェ……やっぱ一緒にいやがったか」
「まあね」
私服姿のお茶子は少し困ったように笑ったが、その隣からすぐに別の少女が顔を覗かせる。
「こんにちは!」
金髪に特徴的な笑顔。
爆豪は顔を見るなり眉間に皺を寄せた。
「渡我被身子」
「正解です!」
「喜ぶなやクソヴィラン!」
トガは気にした様子もなく楽しそうに笑っている。
爆豪はもう一度周囲を見回した。
敵連合の主要メンバーが、ほとんど揃っている。
繁華街のど真ん中とはいえ、ここは表から死角になった細い路地だ。
しかも自分はコンプレスに背後を取られた状態で、下手に暴れれば個性を使われかねない。
「……なるほどな」
「何が?」
お茶子が尋ねる。
「俺が八斎會んとこ嗅ぎ回ってんのに気づいて、始末しに来たってわけか」
「違うよ」
否定した声は、お茶子のものではなかった。
もっと奥から聞こえたその声に、爆豪の表情が変わる。
幼い頃から何度も聞いてきた声だった。
後ろをついて回っていた頃も、雄英に入ってからも、その後すべてが変わってしまってからでさえ、聞き間違えるはずがない。
「ボス。本人で間違いないみたいだよ」
その呼びかけに合わせるように、路地の奥にいた人間たちがわずかに位置をずらした。
開いた隙間の向こうに、一人の少年が立っている。
黒い上着を羽織り、以前より少し伸びた緑色の髪を揺らしながら、どこか困ったような表情でこちらを見ていた。
「……かっちゃん」
その呼び方に、爆豪の眉がぴくりと動いた。
「……デク」
低く吐き捨てる声には、ここ数日分の苛立ちがそのまま乗っていた。
だが出久は怒鳴り返すでもなく、むしろ爆豪の顔をじっと見つめたまま、どこか戸惑ったように眉を寄せる。
「かっちゃん、雄英は大丈夫なの?」
「あ?」
「何日もこんなところにいたら、みんな心配するよ。授業だってあるし、それに──」
「雄英なら辞めてきた」
出久の言葉へ被せるように、爆豪はあっさりと言った。
「……え?」
意味を理解するまでに、わずかに間があった。
出久は瞬きをして、それから爆豪の顔を見直す。
冗談を言っているようには見えないし、言葉を選び間違えた様子もない。
「……辞めた?」
「ああ」
「雄英を?」
「何回言わせんだ」
爆豪の声にはいつもの苛立ちがあったが、出久はそれどころではなかった。
「なんで?」
信じられないという表情のまま、出久は一歩前へ出た。
「雄英は、かっちゃんの憧れだったじゃないか」
幼い頃から、何度も聞いてきた。
誰よりも強いヒーローになる。
オールマイトを超える。
そのために雄英へ行くのだと、爆豪はずっと言っていた。
「ずっと雄英に行きたがってたし、ヒーローになるんじゃなかったの?」
「……」
「かっちゃん、ヒーローになるためにずっと頑張ってたじゃないか。なのに、なんで辞めるんだよ」
出久の声には、本気の困惑が滲んでいた。
ヴィランになった自分が言うのもおかしい。
それでも、爆豪勝己が雄英を辞めたという事実だけは、どうしてもすんなり受け入れられなかった。
自分とは違う。
爆豪には目標も才能も、個性もあった。
誰よりも強くヒーローを目指していたし、それを途中で投げ出すような人間ではない。
「……なんで?」
出久はもう一度尋ねた。
先ほどよりも声は小さかったが、困惑は消えていない。
爆豪が雄英を辞めたという事実を、どうしても自分の中で飲み込めずにいるのが表情から分かった。
爆豪はすぐには答えなかった。
コンビニの袋を持ったまま、しばらく俯いている。さっきまでなら何を聞かれても噛みつくように返していたはずなのに、今だけは言葉を探しているようだった。
「……俺には、その資格がねえからだ」
「資格……?」
爆豪は顔を上げないまま答えた。
「ヒーローになる資格がねえ」
出久の眉が寄る。
「何言ってるんだよ。かっちゃんがずっとヒーローを目指してきたことくらい、僕は知ってるよ。資格がないなんて──」
「そういう話じゃねえ」
爆豪は低く遮った。
それ以上言わせたくないというより、自分自身へ言い聞かせるような響きだった。
「強えとか、個性がどうとか、成績がどうとか、そんな話してんじゃねえんだよ」
そこでようやく爆豪は出久を見た。
いつものように睨みつけてはいるものの、その奥にある感情は怒りだけではない。
出久にも、それくらいは分かった。
「お前がヴィランになったって知った時な」
爆豪はゆっくり言葉を続けた。
「俺が真っ先に考えたのは、中学ん時のことだった」
出久の表情が止まる。
「……中学?」
「俺がお前にしてたことだよ」
その言い方に、お茶子が僅かに視線を落とした。
トガも何も言わない。
周囲にいた連合の面々は、爆豪が何を話そうとしているのか分からないまま、それでも口を挟まずにいた。
「俺はずっと、お前を見下してた。無個性で、俺より弱くて、俺の後ろにいる奴だって決めつけてた」
爆豪は途切れ途切れに言った。
「俺より遥か後ろにいるはずのお前が、ヒーローとしてずっと先にいる気がした。見たくなくて、認めたくなくて、遠ざけたくて虐めてた」
昔の記憶を引っ張り出すたびに、自分で噛み潰すように声が荒くなる。
「殴った。個性も使った。物も壊した。他の奴らと一緒になって笑ったこともある」
「かっちゃん」
「黙って聞け」
出久が何か言おうとしたが、爆豪はすぐに止めた。
怒鳴ったわけではない。
「お前がヴィランになって……最初に思ったんだよ」
爆豪の手が、コンビニ袋の持ち手を強く握り込む。
「俺のせいなんじゃねえかって」
出久の目が僅かに見開かれた。
「俺がお前をずっと虐めてたから、お前がヴィランになっちまったんじゃねえかって」
爆豪自身、その言葉を口にするのが相当に苦しいのだろう。
一気には続かない。
普段なら勢いだけで押し切る男が、今は一つ言葉を出すたびに間を置いていた。
「お前は昔から人が困ってりゃ勝手に手ぇ伸ばしやがる。俺より弱えくせに、そういうところだけはずっと先にいやがった」
「……」
「無個性だから俺より下。弱えから俺より下。俺が勝ってんだから、お前が俺に口出すのがおかしい。助けようとされんのも気に食わねえ。そう思ってた」
幼い頃、川へ落ちた自分へ手を伸ばしてきた出久の顔まで思い出す。
あの時も腹が立った。
なぜ自分より弱いはずの人間が、自分を助けようとするのか理解できなかった。
「それが気に食わなかった」
だから突き放した。
それから何年も、ずっと。
「雄英に入ってからは俺が一番じゃねえって思い知らされても、それでもお前に対してだけは昔のままだった」
出久は何も言えなかった。
爆豪がこんなふうに、自分から過去のことを口にするとは思っていなかった。
「お前がヴィランになった」
爆豪は一度息を吐いた。
「俺は馬鹿みてえに考えたよ。俺があんなことしてなかったら、お前は違ったんじゃねえかって。俺があそこまで追い込まなかったら、ヴィランなんかにならなかったんじゃねえかってな」
「だからって……」
出久はしばらく黙っていたが、やがて戸惑いを隠せないまま口を開いた。
「だから、罪悪感からヒーローを諦めるって言うの?」
「は?」
爆豪が眉をひそめる。
「僕のことで責任を感じてるのは分かった。でも、それで雄英を辞めて、ヒーローになることまで諦めるなんて──」
「誰がヒーロー辞めるっつった」
出久の言葉を遮り、爆豪は露骨に不機嫌そうな顔をした。
「……え?」
「辞めたのは雄英だけだ」
当然のことを説明するような口調だった。
「別に雄英卒業しなきゃヒーローになれねえわけじゃねえだろ。中卒だろうが何だろうが、免許さえ取りゃヒーローはできる」
「じゃあ……」
「ああ。ヒーローにはなる」
爆豪はきっぱりと言い切った、迷いはなかった。
むしろ先ほどまで過去を語っていた時より、ずっと爆豪らしい声だった。
「ただし、目的は一個だ」
爆豪は出久を真っ直ぐ睨んだ。
「お前を捕まえる」
出久が僅かに目を見開く。
「俺はお前を捕まえるためにヒーローになる」
その言葉を聞いて、周囲の空気が少しだけ張り詰めた。
トガの表情から笑みが消え、スピナーも壁から身体を離す。
お茶子も爆豪と出久の間を見比べたが、出久本人が動かなかったため、誰も割って入ろうとはしなかった。
「かっちゃん、それ……」
「勘違いすんなよ。警察に褒められたいとか、雄英に戻りたいとか、そういう話じゃねえ」
爆豪は吐き捨てるように続けた。
「俺がやるって決めただけだ」
「でも、どうしてそこまで──」
「俺が始めたことだからだよ」
爆豪の声が低くなる。
出久は何も言えなかった。
爆豪の理屈は乱暴だったし、どこか独善的ですらある。それでも、本人の中ではすでに結論が出ているのだと分かった。
「お前を捕まえる。そしたら俺もヒーロー辞める」
「……え?」
今度こそ出久は本気で驚いた。
「待って。それはもっと分からないよ。なんで僕を捕まえたら辞めるの?」
「俺にとっちゃ、それで終わりだからだ」
爆豪は視線を逸らさない。
「ヒーローになりてえって夢はあった。今だって、なりてえよ」
その言葉だけは、少しだけ苦かった。
「でも、その夢を何事もなかったみてえに追っかける気はねえ」
出久の眉が寄る。
「お前を捕まえるまではヒーローになる。俺の手で、お前を止める。その後は辞める」
爆豪はそこで一度だけ息を吐いた。
「そっから先は、少しずつでも償ってく」
「償うって……僕に?」
「お前だけじゃねえ」
即答だった。
「今まで俺が踏みつけてきたもん全部だ。何すりゃ償いになるかなんざ知らねえし、何年かかるかも分からねえ。でも、知らねえからって何もしねえ理由にはならねえだろ」
出久は黙ったまま爆豪を見ていた。
こんなことを言う爆豪を、これまで見たことがない。
自信に満ちていて、常に自分が一番だと信じていて、誰にも頭を下げず、弱さを見せることを何より嫌っていた幼馴染が、自分自身の過去を真正面から見ている。
それでも、出久には納得できない部分があった。
「でも、かっちゃん」
出久が一歩近づく。
「僕は、かっちゃんにヒーローを辞めてほしいなんて思ってないよ」
「テメェがどう思ってるかは関係ねえ」
「関係あるよ。だって僕のことで──」
「だから、テメェの許可取るために来たんじゃねえんだよ」
爆豪も前へ出た。
その瞬間、背中に添えられていたコンプレスの手が僅かに動く。
「おっと」
警告するような声が飛んだが、爆豪は止まらなかった。
コンプレスの個性が発動できる距離であることなど、もう気にしていない。
爆豪は警告を無視してさらに一歩踏み込み、そのまま出久との距離を詰めた。
「ちょ、爆豪君」
お茶子が思わず声を上げたが、爆豪はそちらを見ることすらなかった。
コンプレスもすぐには圧縮しなかった。
暴れるために動いているわけではないことが分かったからだ。
爆豪はそのまま出久の目の前まで来ると、ほとんど胸が触れそうな距離で立ち止まった。
体格差はほとんどない。
それでも互いの立ち方は、昔とはまるで違っていた。
「デク」
爆豪背後のコンプレスにも、周囲を囲む敵連合にも構わず、まっすぐ幼馴染だけを睨んだ。
「お前は俺が捕まえる」
低い声だった。
怒鳴っているわけではない。
それでも、先ほどまでのどんな言葉よりも強く、狭い路地の空気を押し返すような迫力があった。
「絶対にだ。テメェがどこに逃げようが、どんな力持ってようが関係ねえ。俺が追っかけて、俺が止める」
出久は息を呑んだ。
昔から爆豪はこういう人間だった。
一度決めたことは曲げない。無理だと言われれば余計に燃え上がり、誰かに止められればその手ごと振り払って前へ進む。
けれど今、目の前にいる爆豪から向けられている執念は、幼い頃に見てきたものとは少し違っていた。
勝ちたいからでも、上に立ちたいからでもない。
自分を捕まえる。
その一点だけを目的に、雄英まで辞めてここへ来たのだと、その目が何より雄弁に語っている。
「かっちゃん……」
「覚えとけ、デク。次に会った時は──」
突然、背後からコンプレスの声が割り込んだ。
「あっ、やべ」
「は?」
爆豪が僅かに眉を動かした、その瞬間だった。
コンプレスの手が、まだ触れていた背中へぴたりと押し当てられる。
「ちょ──」
出久が声を上げるより早く、爆豪の身体が消えた。
正確には、消えたように見えた。
つい先ほどまで出久の目の前に立っていた爆豪の全身が一瞬で縮まり、直後、小さな球体となって地面へ落ちる。
カツン。
硬質な音が路地裏へ響いた。
「……え」
ビー玉ほどの大きさになった球体が一度跳ね、そのままアスファルトの僅かな傾斜に沿ってころころと転がっていく。
「かっちゃん!?」
出久は慌ててしゃがみ込み、転がっていく球へ手を伸ばした。
「ちょ、ちょっと待って! 何してるの!?」
「いやあ、つい」
コンプレスは悪びれもせず、自分の右手を眺めていた。
「ついって何!?」
「……いや、警告しただろう? 近づいてきたから反射的に」
出久はあと少しで側溝へ転がり込みそうになっていた球体を両手で受け止める。
手のひらの上には、透明感のある小さな球が乗っていた。
その内部には、確かに先ほどまで目の前で啖呵を切っていた爆豪が収められている。
「大丈夫なの、これ!?」
「大丈夫、大丈夫」
コンプレスが軽く手を振った。
「しばらくしたら戻るから」
「さっきズレたら悲惨だって言ってたじゃないか!」
「ズレてないでしょ?」
「良くないよ!」
出久が球体となった爆豪を両手で庇うように持っていると、横からトゥワイスが覗き込んできた。
「ちっせえ! 可愛いじゃねえか! 今すぐ投げろ!」
「投げないよ!」
「そりゃそうだ!」
そんなやり取りの間にも、コンプレスは路地の入口へ視線を向けていた。
爆豪を引きずり込んだ時点では人目を避けていたものの、ここは繁華街のすぐ裏だ。
長時間集団で固まっていれば、それだけ通報される可能性も高くなる。
「それより、そろそろここを離れよう」
コンプレスの声音が少しだけ真面目になる。
「こいつを探して五日も八斎會に通ってたんだろ? なら周辺を警戒してる奴がいてもおかしくない。俺たちだってこんな場所でいつまでも立ち話してるほど暇じゃない」
スピナーも路地の入口から外を確認しながら頷いた。
「同感だ。さっきから人通りが増えてる」
「じゃあ帰りましょう!」
トガは即座に出久の腕を取る。
「待って。かっちゃんは?」
「持って帰ります?」
「いや……駄目でしょ」
出久は反射的に否定した。
爆豪をこのまま連れ去れば、それこそ完全な誘拐である。
「ここに置いてくのも危ないかな」
お茶子が球体を見ながら言う。
「戻った時に車に轢かれたりしたら洒落にならんし」
「それはそうだけど……」
出久が悩んでいると、コンプレスが手を差し出した。
「大丈夫だよ。戻るまでそう長くない。人目につかない場所に置いておけばいい」
出久は警戒するようにその手を見る。
「もう圧縮しない?」
「今圧縮されてるのに、これ以上どうしろっていうんだい」
「それもそうだけど」
出久は少し迷った末、爆豪の入った球体を手渡した。
コンプレスはそれを指先で摘まむと、路地の奥に積まれていた空のコンテナの陰へ移動し、汚れていない段ボールの上へそっと置く。
「これでよし」
「本当に戻るんだよね?」
「戻る戻る」
まだ不安そうな出久へ、コンプレスは肩をすくめた。
「それにしてもボス。こんなおっかない幼馴染がいるなんてな」
出久が何とも言えない顔をする。
出久はもう一度、コンテナの陰に置かれた小さな球体を振り返った。
あまりにも現実感のない姿だった。
ほんの少し前まで、あそこで自分を睨みつけながら将来のすべてを語っていた人間が、今はビー玉ほどの大きさになっている。
けれど、あの言葉だけは耳に残っていた。
──お前は俺が捕まえる。
「……」
出久が足を止めていると、お茶子が隣から軽く腕を引いた。
「デク君、行こ」
「……うん」
トガも反対側から出久の袖を掴む。
「戻ってきたら、また勝手に追いかけてきますよ」
「それは……たぶんそうだね」
むしろ間違いなくそうするだろう。
爆豪勝己は諦めない。
出久は最後にもう一度だけ路地の奥を振り返ってから、連合の面々とともに表通りとは反対側の出口へ向かった。
先頭をスピナーが歩き、その後ろにコンプレスとトゥワイスが続く。お茶子とトガに挟まれるような形になった出久も、その流れに従って路地を離れていく。
数分もしないうちに、敵連合の姿は繁華街の雑踏へ紛れて見えなくなった。
あとに残されたのは、薄暗い路地裏と、コンテナの陰に置かれた小さな球体だけだった。