一年A組の教室には、朝のホームルーム前とは思えないほど重い空気が沈んでいた。
誰かが騒いでいるわけでもなければ、教師に叱られた直後というわけでもない。
それでも教室全体が妙に静まり返り、普段なら席を立って友人同士で話している時間にもかかわらず、生徒たちはそれぞれ自分の机に座ったまま、ほとんど口を開こうとしなかった。
まるで通夜だった。
その原因は、全員の机の上に一枚ずつ置かれたプリントにある。
白い紙の上部には、簡潔な文章が印刷されていた。
『今年度雄英高校学園祭 開催休止のお知らせ』
その文字を見つめたまま、誰も紙を裏返そうとしない。
裏面に何か書かれているわけでもないことは分かっていた。
そこにあるのは、今年度予定されていた学園祭を休止すること、今後の学校行事についても安全面を考慮しながら改めて判断すること、そして生徒や保護者へ理解を求める文章だけだ。
理由については、ほとんど何も書かれていなかった。
『諸般の事情を鑑み、生徒及び来校者の安全確保を最優先とした結果──』
曖昧な言葉が並んでいる。
けれど、どうして学園祭が中止になったのかを本気で分からない者など、この教室には一人もいなかった。
「……やっぱり、なくなったか」
切島がぽつりと呟いた。
隣の席で上鳴がプリントの端を指先で弄っていたが、普段のような軽い調子で何かを言うことはない。
「まあ……そうなるよな」
「うん」
耳郎も短く返したきり、机へ視線を落とした。
一年A組から、二人の生徒がヴィランとなった。
緑谷出久。
そして、麗日お茶子。
片方は今や全国に名前を知られたヴィランとして指名手配され、敵連合の中心人物として扱われている。
もう片方も、その緑谷を助けたことで雄英を去り、つい先日の八斎會事件では実際に敵連合側として戦闘に参加した姿まで確認されていた。
世間が雄英を見る目が、以前と同じであるはずがない。
学園祭。
外部の人間を校内へ入れ、多くの生徒が一堂に会する大規模行事を、この状況で予定どおり開催できるはずがなかった。
教室の空気がさらに重く沈みかけた、その時だった。
廊下の方から、妙に楽しげな声が近づいてくる。
「おやおやおや?」
何人かが顔を上げる。
次の瞬間、教室の前扉からひょいと顔を覗かせた人物を見て、上鳴が露骨に嫌そうな顔をした。
「……うわ」
「なんだい、その反応は」
B組、物間寧人だった。
制服をきっちり着こなし、いつものように口元へ薄い笑みを浮かべながら、まるで自分の教室へ入るような気軽さでA組へ足を踏み入れてくる。
そして室内を一周するように見回した物間は、机に座ったまま沈黙している生徒たちと、その机の上に置かれた同じプリントを確認すると、大仰に両腕を広げた。
「おやおや、通夜かい!?」
「……朝っぱらから何しに来たんだよ」
切島が眉をひそめる。
「いやあ、廊下を歩いていたらあまりにも静かなものだからね。ここが本当に一年A組なのか確認しに来たんだよ」
物間は楽しそうに笑いながら、近くの机に置かれていたプリントへ視線を落とした。
「ああ、なるほど。原因はこれか」
誰も答えない。
その沈黙さえ気に入ったのか、物間はさらに笑みを深めた。
「残念だねえ。僕らB組も、今年の学園祭を楽しみにしていたんだけど」
「……物間」
拳藤がいれば間違いなく止めていただろうが、この場にB組の他の生徒はいない。
物間は止まらなかった。
「それがこの有様だよ」
指先でプリントを軽く叩く。
「A組からヴィランが二人」
教室の空気が変わった。
何人もの表情が険しくなる。
それでも物間は構わず続けた。
「そして中退者が一人」
今度は、誰がとは言わなかった。
言う必要もない。
緑谷出久と麗日お茶子。
そして爆豪勝己。
この短期間でA組から消えた三人を、教室にいる全員が思い浮かべていた。
「おかげで学校全体が警戒態勢。外部の人間を呼ぶような行事なんて到底できません、と。いやあ、まったく良い迷惑だよ」
物間は大仰に肩をすくめると、机の上に置かれたプリントを指先で弾いた。
「僕らB組だけじゃない。普通科もサポート科も経営科も、みんな学園祭を楽しみにしていたんだ。それがA組から立て続けに三人もいなくなったせいで、この有様だ」
紙が机の上を滑り、かすかな音を立てて止まる。
「物間、お前な……」
切島の声が低くなる。
上鳴もさすがに笑えないらしく、険しい顔で物間を睨んでいた。
耳郎は何も言わなかったが、机の上で組んだ指に力が入り、八百万も眉をひそめている。
だが物間は、そんなA組の反応など気にも留めない。
「まったく、良い迷惑だよ」
もう一度、今度は先ほどよりもはっきりと言う。
「ただ問題を起こしたってだけならともかく──」
そこでわざと間を置き、教室中の視線が自分へ集まったのを確かめてから、物間は笑った。
「ヴィラン・デクなんて巨悪を生み出してしまうんだからさぁ!」
ガタンッ!
椅子が床を擦る激しい音が響いた。
「なんだ、その言い草は!」
教室中が振り向く。
立ち上がっていたのは飯田だった。
いつものように規律を重んじ、誰かが感情的になれば真っ先に仲裁へ入るはずの飯田が、今は机へ両手をつき、物間を睨みつけている。
「おや?」
物間が目を丸くする。
「飯田君?」
「先ほどから黙って聞いていれば、あまりにも無礼ではないか!」
飯田は机の脇から出ると、大股で物間へ向かった。
「学園祭の休止を残念に思う気持ちは分かる! A組に対して不満を抱くことも否定はしない! だが、それを理由に面白おかしく侮辱していいはずがないだろう!」
「面白おかしく? 僕は事実を──」
「ふざけるのも大概にしろ!」
飯田の怒声が教室に響いた。
それまで険しい顔で成り行きを見守っていたA組の面々も、思わず息を呑む。
普段の飯田なら、たとえ腹を立ててもここまで露骨に感情を剥き出しにすることは少ない。
まして相手の目の前まで歩み寄り、真正面から睨みつけるなど、よほどのことがなければしない。
だが、物間は怯まなかった。
むしろ先ほどまで浮かべていた芝居がかった笑みをゆっくりと消し、飯田の視線を正面から受け止める。
「ふざけてなんかないさ」
声の調子が変わった。
「本音だよ」
「……何だと!」
飯田が眉を寄せる。
物間はもう笑っていなかった。
いつものようにA組へ絡みに来た時の、鼻につくほど大仰な身振りもない。
肩をすくめることも、わざとらしく声を張ることもなく、ただ機嫌の悪そうな顔で飯田を見返している。
「君らはまだ分かってないのか?」
「何をだ!」
「今起きてることが、問題児だとかトラブルメーカーだとか、そんな次元の話じゃないってことをだよ」
物間の声は低かった。
その変化に、切島たちも口を挟めなくなる。
「授業中に問題を起こしました、校則を破りました、ヴィランに襲われました。そんな話なら僕だってここまで言わないさ。精々いつもみたいに『さすがA組だねぇ』って笑って、からかって終わりだ」
一度だけ教室を見渡し、物間は続けた。
「でも今回は違うだろ」
机の上に置かれた学園祭休止のプリントへ目を向ける。
「雄英からヴィランが出た。それも一人じゃない。片方は敵連合の中心にいて、もう片方はそいつを助けた末に同じ側へ行った。さらに、その直後に別の生徒まで学校を辞めた」
「爆豪君まで一緒にするな!」
「一緒になんかしてない」
飯田が遮るより早く、物間は返した。
「爆豪勝己がヴィランだなんて一言も言ってないだろ。ただ、外から見ればどう映ると思う?」
「……」
「同じクラスから短期間で三人いなくなった。二人はヴィラン、一人は自主退学。そんな学校を見て、世間が『たまたまだね』で済ませると思ってるのか?」
飯田は答えられなかった。
物間の言葉が気に入らないことと、それを完全に否定できることは別だった。
物間はそんな飯田の沈黙を見ても勝ち誇らなかった。それどころか、表情はますます険しくなっていく。
「これはA組だけの問題じゃない」
はっきりと言った。
「雄英全生徒、全教員、それに今までこの学校を卒業していった全員の信頼に関わる問題だ」
教室の空気が再び重くなる。
「雄英高校って名前がどういう扱いを受けてるか、ニュースくらい見てるなら分かるだろ。『ヴィランを育てた学校なんじゃないか』『教育に問題があったんじゃないか』『他にも同じような生徒がいるんじゃないか』って、好き放題言われてる」
「それはマスコミが──」
「マスコミだけの話にするなよ」
物間が初めて飯田の言葉を強く遮った。
普段の芝居がかった声ではなく、本気で腹を立てている声だった。
「僕らB組だって聞かれてるんだよ。家族に、親戚に、中学時代の知り合いに。『雄英って大丈夫なのか』ってさ」
「……」
「普通科だってそうだ。サポート科だってそうだろう。先生たちなんてもっと酷い。自分が教えてもいない生徒のことで頭を下げて、説明して、学校全体の安全管理まで疑われてる」
そこで物間は一度息を吐いた。
「卒業生だって同じだ。現役のプロヒーローで『雄英卒』って肩書きを持ってる人間が何人いると思ってる? その名前までまとめて疑われるんだぞ」
飯田の拳が強く握られる。
「だからと言って、緑谷君たちを──」
「庇うなとは言ってない!」
物間の声が強くなる。
飯田が言葉を止めた。
「友達なんだろ。庇いたいなら庇えばいい。信じたいなら勝手に信じればいいさ。僕にだって友達くらいいるし、そいつが同じことになったら簡単に切り捨てられるかは分からない」
一瞬だけ、物間の表情が歪む。
「でもな、それと現実を見ないことは別だろ」
飯田は黙ったまま物間を睨んでいた。
「緑谷出久と麗日お茶子がどういう人間だったかなんて、君達しか知らないんだよ」
飯田の口がわずかに開いたが、言葉は出なかった。
物間はそんな彼を見据えたまま、さらに一歩だけ近づく。
「多少遠慮して、直接言う奴がいないからって勘違いするなよ、A組委員長」
教室の空気が凍りついた。
呼び方こそいつもの皮肉混じりだったが、そこに普段の楽しげな響きはない。
「別に責任を取れなんて言わないさ、流石にそこまで主張するつもりもない。ただ、被害者ヅラされたら気分悪いぜ」
物間の最後の言葉が教室に落ちた直後、校内に予鈴が鳴り響いた。
少し間の抜けた電子音が、張り詰めていた空気を無理やり現実へ引き戻す。
誰もすぐには動かなかった。
飯田と物間はまだ向かい合ったままで、切島たちも席を立ちかけた姿勢のまま止まっている。
言い返したいことは山ほどあるはずなのに、先ほどまでの勢いのまま口に出せる者はいなかった。
物間も、しばらく飯田を見ていた。
やがて廊下へ視線を向けると、小さく息を吐く。
「……予鈴か」
先ほどまでの険しい表情はまだ残っていたが、いつもの調子を取り戻そうとするように肩をすくめた。
「僕も戻らないとね。B組まで遅刻したら、それこそ君たちに笑われそうだ」
「物間君」
飯田が低く呼び止める。
物間は振り返った。
飯田の顔にはまだ怒りが残っている。だが、先ほどのように今にも掴みかかりそうな勢いはなかった。
「……君の言い方は、到底許容できるものではない」
「そう」
「だが……」
続きが出ない。
物間が言ったことのすべてを否定できないことも、飯田自身が分かってしまっていた。
物間はそれを待つこともなく、教室の出口へ向かう。
「別に納得してもらおうとは思ってないよ……悪かったね、感情的になった」
それだけ言い残し、物間は廊下へ出ていく。
開いた扉の向こうから、遠ざかっていく足音が聞こえた。
誰かが追いかけることも、呼び戻すこともなかった。
「……」
飯田はしばらく扉を見つめたまま立っていたが、やがて無言で自分の席へ戻った。
椅子を引き、座る。
机の上には、学園祭休止のプリントが置かれたままだった。
さっきまでとは、少し違って見えた。
「……ムカつく」
上鳴がぼそりと言った。
「うん」
耳郎が答える。
「めちゃくちゃムカつく」
「分かる」
切島も自分の席へ戻りながら、険しい顔のまま頷いた。
「でも……」
そこまで言って、続けられない。
物間の言い方が最低だったことと、言っていた内容に全く根拠がないことは同じではない。
その事実が、余計に腹立たしかった。
八百万も机の上のプリントへ視線を落としながら、何かを考え込んでいる。
芦戸は頬杖をついたまま口を尖らせ、瀬呂は背もたれへ深く体重を預けた。
誰も納得してはいない。
誰も物間に同意したわけでもない。
それでも、先ほどまでのように「物間がまた嫌味を言いに来た」で片づけられなくなっていた。
やがて、廊下のスピーカーから次の授業についての放送が流れた。
『一年A組の生徒は、次時限の演習に備え、訓練場βへ集合してください。各自、指定の訓練装備へ着替えた上で──』
教室の何人かが顔を上げる。
「……次、演習だったな」
尾白が時計を確認した。
「やべ。もう行かねえと間に合わないじゃん」
上鳴が立ち上がる。
その一言をきっかけに、教室の空気がゆっくり動き始めた。
椅子を引く音が重なり、机の中から訓練用の手袋や筆記具を取り出す者、ロッカーへ向かう者、プリントを鞄へしまう者が次々と立ち上がる。
いつもなら誰かがくだらないことを言い、その周囲で笑いが起きるはずの時間だったが、今日は誰もそんな気分にはなれなかった。
「委員長、行こうぜ」
「ああ。皆、遅れないようにしよう」
切島に声を掛けられ、飯田もようやく普段の調子を取り戻そうとするように返事をした。
とはいえ、その声にはまだ先ほどの怒りが残っている。
上鳴と瀬呂が先に教室を出て、その後を耳郎や芦戸が続く。
八百万も必要なものをまとめると、机の上に残っていた学園祭休止のプリントを一度だけ見つめてから立ち上がった。
皆、何か言いたそうな顔をしていた。
物間に対してなのか、自分たちに対してなのか、それとももうここにはいない三人に対してなのかは分からない。
それでも、今は訓練へ行かなければならない。
生徒たちは黙々と準備を終え、少しずつ教室から出ていった。
そんな中一人だけ、動かない者がいた。
青山優雅だった。
「……」
机に座ったまま、俯いている。
いつもなら必要以上に姿勢を正し、自分がそこにいることを周囲へ示すように振る舞う青山が、今は背中をわずかに丸め、両手を膝の上へ置いたまま動かなかった。
机の上には、他の生徒たちと同じプリントがある。
『今年度雄英高校学園祭 開催休止のお知らせ』
白い紙に並んだ文字が、妙に目に刺さった。
物間の言葉も、頭から離れない。
青山の指先が、僅かに震えた。
──二人じゃない。
その言葉が喉まで出かかった。
もちろん、実際に口にするはずなどない。
言えるはずがなかった。
緑谷出久と麗日お茶子、そして爆豪勝己。
物間は、その三人を挙げていた。
A組には、裏切り者がまだいる。
誰にも知られていないまま、教室の中に残っている。
AFOのために動いていた人間が。
仕方なかった、仕方なく従っていた。
命令に逆らえば何をされるか分からなかった。
自分だけではなく、父も母も巻き込まれる。
その恐怖があったから従うしかなかったのだと考えなければ、とても耐えられなかった。
物間が先ほどまで怒っていた「雄英全体の信頼」を、自分もまた見えないところから傷つけていた。
もし、それが知られたらどうなるのだろう。
そう考えた瞬間、心臓が強く脈打った。
青山は反射的に顔を上げ、周囲を見回す。
教室に残っている生徒はもう少なく、蛙吹が鞄を持って出口へ向かい、障子と尾白もその後に続いている。
誰も青山を見てはいないのに、全員が自分の秘密を知っているような錯覚だけが消えなかった。
もしかすると学校はすでに何かに気づいているのではないか。
相澤は、校長は、教師たちは、本当は何かを掴んでいて、自分がまだここに置かれているのも証拠を揃えるためなのではないか。
考えれば考えるほど、胃の奥が冷たくなる。
発覚すれば、退学だけで済むのかさえ分からない。
警察に連れていかれ、両親まで事情を聞かれ、家族ごとすべてを失うことになるかもしれない。
それ以上に恐ろしいのは、今まで笑って話してきたクラスメイトたちの目が変わることだった。
飯田も、切島も、八百万も、芦戸も、上鳴も、今まで笑って話していた全員が、自分が最初から裏切り者だったと知ったら、その顔はどう変わるのか。
そこまで想像すると、息が浅くなる。
しかし、恐怖と同時に、別の考えも胸の奥から浮かび上がっていた。
もう終わったのではないか。
AFOは捕まった。
以前のように自由に動くことはできず、最近は命令も来ていない。
両親の様子も少しずつ変わり、家の中であの男の名前が出ることも減っていた。
もしかしたら、本当に解放されたのかもしれない。
このまま何も言わず、誰にも知られずにいれば、自分は普通の生徒として卒業できるのではないか。
皆と一緒に授業を受け、訓練をして、いつかヒーローになることさえできるのではないか。
そう考えると、ほんの少しだけ胸が軽くなる。
だが、その直後には必ず罪悪感が追いかけてくる。
それでいいのか。
何もなかった顔をして、この教室に居続けていいのか。
緑谷や麗日のことで学校全体が揺れ、物間ですらあれほど本気で怒っていたのに、自分だけが秘密を抱えたまま「知られなかったから終わり」で済ませていいのか。
青山には分からなかった。
解放されたのかもしれないという希望と、いつ露見するか分からない恐怖、自分のしたことへの罪悪感、それでも皆と一緒にいたいという願いが頭の中で絡まり合い、どれを信じればいいのかさえ分からなくなっていた。
「青山さん?」
突然声を掛けられ、青山の肩が大きく跳ねた。
顔を上げると、教室の扉のところに八百万が立っていた。すでに出ていったと思っていたが、青山がついてきていないことに気づいて戻ってきたらしい。
「どうかなさいました? 次は訓練場ですわ。もう皆さん向かっていますけれど……体調でも悪いのですか?」
「……あ」
すぐには声が出なかった。
一瞬だけ、全部言ってしまえばいいという衝動が胸をよぎる。
僕は、本当は。
ずっと。
けれど、言葉は喉の奥で止まった。
怖かった。
今はまだ自分を心配してくれている八百万の表情が、驚きに変わり、疑いに変わり、最後には軽蔑へ変わるところを想像してしまった。
青山は無理やり口角を上げる。
「……ノン。なんでも」
仕方なかった、僕は悪くない。
──
放課後、雄英高校の職員会議室。
普段なら各学年や授業の進捗、校内設備、実習予定などが事務的に確認されていくその部屋には、この日ばかりはいつもと違う緊張が漂っていた。
長机を囲むように教員たちが座り、壁際には追加の椅子まで並べられている。
担任、副担任、実技担当、生活指導、保健、サポート科や普通科の担当教員まで、ほぼ全ての教員が集められていた。
誰も私語をしていない。
資料をめくる音や、椅子がわずかに軋む音だけが、妙に大きく聞こえる。
その最奥に座っていた根津は、いつもの柔和な笑みを浮かべていなかった。
小さな両手を机の上で組み、集まった教員たちをゆっくりと見渡している。
その表情は珍しいほど険しく、普段の彼を知る者ほど、今から話される内容の重さを感じ取っていた。
やがて根津は静かに口を開いた。
「今、雄英高校は、創立以来でも例のないほど大きな困難に直面している」
誰も身じろぎしなかった。
「社会的な信用の低下、保護者からの不安、報道機関による連日の取材要請、そして何より、生徒たち自身の動揺」
根津は一度言葉を切ると、机上に置かれた資料へ視線を落とした。
そこには、緑谷出久と麗日お茶子に関する報告書、八斎會事件の概要、雄英に寄せられた問い合わせ件数、今後の行事予定の見直し案などがまとめられている。
「しかし、その全ての根本にある事実から、我々は目を逸らしてはいけないのさ」
根津が顔を上げる。
「我が校から、ヴィランが二人も出てしまった」
会議室の空気が一段重くなる。
誰も反論しない。
できなかった。
「これは教育機関として、そしてヒーロー育成機関として、決してあってはならないことさ」
根津の声に怒鳴るような強さはなかったが、それだけに言葉は重かった。
「我々は、生徒に力の使い方を教えるだけの学校ではないのさ。力を持つ者が社会の中でどう振る舞うべきか、何を守り、何をしてはいけないのか、その判断まで含めて育てる責任があるのさ」
相澤は腕を組んだまま、机の一点を見つめていた。
オールマイトも黙っている。
プレゼント・マイクですら、今日は茶化すような気配を見せない。
「結果論で全てを断罪するつもりはないさ」
根津は続ける。
「緑谷君がヴィランとなった経緯も、麗日君が彼の側へ行った経緯も、単純な一言で説明できるものではないだろうさ。本人たちの選択だけでなく、家庭環境、社会環境、我々の対応、周囲の大人たちの判断、その全てが積み重なって今に至っている可能性があるのさ」
根津の言葉が途切れると、会議室には重い沈黙が残った。
やがて、椅子を引く音が響く。
「……校長」
立ち上がったのは相澤だった。
根津が視線を向ける中、相澤はいつもの気怠そうな姿勢を正すと、校長だけでなく、その場に集まった全教員へ向き直った。
「その件について、一つ言わせてください」
そう告げるなり、深々と頭を下げる。
「……申し訳ありませんでした」
プレゼント・マイクやミッドナイトが驚いたように相澤を見る。
失敗を認めない男ではないが、大勢の教員を前にここまで頭を下げる姿など、滅多に見るものではなかった。
「緑谷の異変については、予兆を発見しつつも、的確な対応を取ることができていませんでした。担任である自分の責任です」
「相澤君」
相澤の指先に力が入る。
「判断を誤りました。もう少し早く踏み込んでいれば、あいつが抱えていたものを聞き出せたかもしれない。少なくとも、ヴィラン側へ行く前に学校として対応する機会は作れたはずです」
さらに、麗日についても同じだった。緑谷との関係が深いことを把握しながら、緑谷の件が起きた後の精神状態や行動を十分に追えていなかった。
その結果、二人とも自分のクラスからいなくなった。
相澤は頭を下げたまま、改めて謝罪した。
「一年A組担任として、校長をはじめ、先生方全員に謝罪します。今回の件で学校全体に負担を掛けました」
「いえ!」
根津が声を掛けるより早く、別の椅子が勢いよく引かれた。
立ち上がったのはオールマイトだった。
「相澤君だけの責任ではない! 彼を止めることができる最後の機会をフイにしたのは、私です。神野で私は、彼を殴り、ヴィランとして叩き伏せるしか出来なかった……」
「そこまでにしよう」
根津の声は大きくなかったが、不思議なほどよく通った。
相澤とオールマイトの言葉が止まり、会議室にいる全員の視線が最奥へ集まる。
根津は二人を交互に見たあと、机の上で組んでいた両手をほどいた。
「この会議は、誰か一人を吊るし上げて、その人間にすべての責任を負わせようという会議じゃないのさ」
相澤がわずかに顔を上げる。
「相澤君。君が担任として責任を感じるのは理解できる。オールマイト君、君が神野でのことを悔やんでいるのも分かる。でも、今ここで二人が『自分が悪かった』と競うように頭を下げても、何も解決しないのさ」
「しかし──」
「反省と責任の所在を検証することは必要だよ。けれど、それは別に行う」
根津はそこで一度区切り、会議室全体を見渡した。
「今、我々が最優先で考えなければならないことは、失われた信頼をどう取り戻すかだ」
その言葉に、教員たちの表情が引き締まる。
「我が校は、信頼を取り戻さなければならない。保護者からも、生徒たちからも、社会からもね」
根津の声にはいつもの柔らかさが残っていたが、その内容は明確だった。
「そして、そのために避けて通れない問題がある」
机上の端に置かれていた厚い封筒へ手を伸ばす。
「緑谷出久だ」
相澤の目が細くなる。
オールマイトも、わずかに息を呑んだ。
「彼は、もう我が校の生徒として扱える段階にはいない」
その言葉だけで、会議室の空気が変わった。
「校長、それは……」
「残念だけれど、事実だよ」
根津は相澤の方を見る。
「少なくとも現状では、教師と生徒という関係だけで接することはできないのさ。彼は指名手配され、敵連合の中心人物として活動し、八斎會の件でも大規模な戦闘に関与している」
反論する者はいなかった。
「我々が個人的にどう思っているかは関係ない。彼にどんな事情があったとしても、今の彼は社会から見れば明確なヴィランであり、警察やプロヒーローの確保対象だ」
根津は封筒を開き、中から複数の資料を取り出した。
「だから、ここから先は教師としてではなく──」
そこで根津は、わずかに声を低くした。
「ヒーローとして動く」
会議室に沈黙が落ちる。
「雄英は、緑谷出久を捕まえる」
はっきりとした宣言だった。
相澤の指が僅かに動く。
オールマイトは何も言わないまま、根津を見つめていた。
「……本気ですか」
セメントスが問う。
「もちろん」
「学校として直接?」
「正確には、警察及び関係機関と連携したうえで、我々も捜索と確保に参加する形になる。だが、直接現場に赴き戦闘を行うのは我々の予定だ」
根津は淡々と説明しながら、手元の資料を隣へ回した。
「これを見てほしい」
紙束が順番に教員たちの手へ渡っていく。
最初の一枚には東京の地図が大きく印刷され、その上に無数の印が打たれていた。
「これは……」
プレゼント・マイクが眉をひそめる。
「緑谷君の目撃情報さ」
赤い印。
青い印。
黄色い印。
それぞれ時期や信頼度によって色分けされ、東京二十三区を中心に、かなり広い範囲へ散らばっている。
「警察へ寄せられた通報、SNS上へ投稿された映像、監視カメラ、報道機関が集めた情報、それにプロヒーロー側から共有された記録を整理したものだよ」
根津の説明を聞きながら、教員たちは配られた地図と一覧表へ視線を走らせていた。
東京各地に散らばる目撃情報のほとんどは断片的で、時間が曖昧だったり、撮影された映像が遠すぎて本人かどうか判別できなかったりと、決定打に欠けるものばかりだった。
それでも、複数の情報を重ねれば行動範囲に一定の傾向が見えてくる。
相澤は地図上の印を追いながら、緑谷が頻繁に姿を見せている地域と、その周辺にある主要道路や駅を頭の中で照合していた。
そんな教員たちの様子をしばらく見ていた根津が、不意に口を開く。
「ただし、今渡した資料には入れていない情報が一つあるのさ」
相澤が顔を上げた。
「入れていない?」
「今朝、緑谷出久の目撃情報が雄英へ匿名で届いた」
会議室の空気が僅かに変わった。
根津は自分の手元に残していた薄い封筒を持ち上げると、中から数枚の紙を取り出した。
「警察を通したものではなく、雄英の外部窓口へ直接送られてきた情報だよ。しかも、今みんなに渡したものとは少し性質が違う」
そう言って一枚目を机の上へ置く。
「日時と場所が、非常に正確なのさ」
資料には年月日だけではなく、時刻が分単位で記されていた。場所についても単なる町名ではなく、通りの名前や建物、出入口まで指定されている。
相澤の目が細くなる。
「……随分細かいな」
「そうだろう?」
根津は次の紙を出した。
「そして、これも添付されていた」
そこに印刷されていたのは、一枚の写真だった。
これまで地図と一緒に回されていた不鮮明な監視カメラ映像とは明らかに質が違う。
夕方らしい街並みを背景に、一人の少年が歩いている。
緑色の少し伸びた前髪。
幼い印象を与えるソバカス。
顔は横向きだったが、判別に困るような距離ではなかった。
相澤が写真を手に取り、じっと見る。
「……緑谷だな」
オールマイトも隣から写真を覗き込み、表情を強張らせた。
「これは……かなり近い距離から撮られていますね」
「そうなのさ」
根津はもう一枚を置いた。
今度は少し離れた位置から撮られた写真で、緑谷の全身が映っている。
そのさらに奥には何人か人影があったが、顔までは判別できない。
「写真は全部で四枚。撮影間隔から考えると、少なくとも数分間は彼を追っていた可能性が高い」
プレゼント・マイクが資料を受け取ると、二枚ほど見比べてから眉間に皺を寄せた。
「いやそりゃあ、怪しくないですか」
「怪しいね」
根津はあっさり答えた。
「って、そこ即答するんすか」
「もちろんさ。これだけ都合の良い情報が、送り主不明のまま学校へ届いているんだ。疑わない方がおかしい」
マイクは写真を指先で叩きながら続ける。
「日時も場所も完璧、顔までしっかり撮れてる。しかも警察じゃなくて、わざわざ雄英に送ってきたんでしょう? 『ここにいますよ、捕まえてください』って言ってるようなもんじゃないですか」
「その通りだよ」
根津は否定しなかった。
「送信経路は?」
相澤が尋ねる。
「現在解析中。複数の中継を挟んでいるうえ、使われた端末も特定できていない。少なくとも、一般人が思いつきで送ったような形跡ではないね」
「なら罠の可能性が高い」
「当然、その可能性も考えている」
相澤は資料へ視線を戻し、写真の背景に映り込んだ建物や道路を確認していく。
「写真自体の加工は?」
「今のところ大きな改竄は見つかっていない。光源や影、周囲の監視カメラ映像とも矛盾していないから、少なくともその時間、その場所に緑谷君がいた可能性はかなり高い」
「じゃあ、情報そのものは本物ってことか」
マイクの言葉に、根津は小さく頷いた。
「そう考えているのさ」
セメントスが腕を組みながら、写真を眺める。
「問題は、なぜそれを我々へ渡したのかですね」
「そこだね」
根津は椅子へ深く座り直した。
「送り主の目的は分からない。敵連合内部で何らかの対立が起きていて、緑谷君を排除しようとしている可能性もある」
「内部分裂か」
ブラドキングが呟く。
「あるいは、敵連合と対立する別のヴィラン組織が我々を利用しようとしているのかもしれない。緑谷君を雄英と戦わせ、双方を消耗させようとしている可能性もある」
相澤が低く息を吐く。
「八斎會関係は?」
「否定はできない。ただし、現在確認できている状況を見る限り、積極的に緑谷君を売る動機があるかどうかは疑問だね」
根津はそこで一度言葉を切り、机の中央へ置かれた写真へ視線を落とした。
「結局、現時点では誰が、何の目的でこの情報を送ってきたのかは分からないのさ」
会議室に静かな緊張が広がる。
送り主不明。
目的不明。
それなのに内容だけは、これまでに得られたどの情報より具体的だった。
「……で、どうするんです?」
マイクが尋ねる。
「怪しいって分かってても行くんですか」
「行くよ」
根津は迷わなかった。
「怪しいのは承知の上さ。しかし、情報は情報だ」
相澤が根津を見る。
「罠だった場合は?」
「罠である前提で動く」
根津の返答は早かった。
「匿名情報だけを信用して突入するつもりはない。これまで集めてきた目撃情報、移動傾向、周辺の監視カメラ、交通記録、それに今回の写真を照合する。そのうえで緑谷君が再び同じ地域へ現れる可能性を割り出すのさ」
根津は別の資料を机上へ広げた。
そこには今回の匿名情報で示された地点を中心として、複数の円と進入経路、主要道路、駅、地下道などが記されている。
「今朝届いた情報だけなら、僕もここまで踏み込むつもりはなかった。ただ、過去一週間分の目撃情報と重ねると、この場所を中心とした半径数キロ以内で緑谷君らしき人物が複数回確認されている」
相澤が地図を覗き込む。
「匿名情報とは別口で?」
「そう。つまり、送り主の意図は分からなくても、場所そのものには一定の信憑性がある」
オールマイトも資料へ目を落とし、低い声で尋ねた。
「彼の拠点が近くにあると?」
「そこまでは断定できないね。仮拠点、連絡場所、移動経路、単に頻繁に立ち寄る地域という可能性もある。ただ、少なくとも現在の緑谷君の生活圏と何らかの関係がある可能性は高い」
根津は全員を見渡した。
「匿名情報の送り主が敵連合内部の人間なのか、敵対組織なのか、それとも我々を誘い出そうとしている第三者なのかは分からない」
一拍置き、根津は続ける。
「それでも、これまで我々が集めた情報と、今朝届いた情報を基に──緑谷出久確保作戦を始動する」
会議室に、重い沈黙が落ちた。
相澤は机の上に置かれた写真へ目を落とす。
そこに映る少年の顔は、教室で見ていた頃と大きく変わったわけではない。
だが、次に会った時。
自分は担任として声を掛けるのではない。
プロヒーロー、イレイザーヘッドとして、彼を止める。
相澤は写真を資料へ戻し、その上から静かに手を置いた。
「……了解しました」