朝。
山あいの別荘には、まだ薄い朝靄が残っていた。
夜の冷気を引きずった空気が窓越しにも伝わり、リビングでは早起きした誰かが点けた暖房が低い音を立てている。
時計の針は、まだ七時を少し回ったところだった。
敵連合の面々は基本的に朝が遅い。
規則正しい生活を送る必要などこれまでほとんどなかったうえ、今は八斎會の組長から半ば強制的に休養を命じられているため、なおさらだった。
トゥワイスなどは昨夜遅くまでテレビを見ていたし、スピナーに至ってはゲーム機を持ったままソファで寝落ちしている。
その中では珍しく早く目を覚ました出久は、一人でキッチンに立っていた。
冷蔵庫から水を取り出して一杯飲み、何となく窓の外を見る。
庭にも人影はなく、聞こえるのは鳥の声と、時折木々を抜ける風の音くらいだった。
朝食を作るにはまだ少し早い。
かといって二度寝する気にもなれず、しばらくぼんやりしていた出久は、ふと思い出したように上着のポケットへ手を入れた。
取り出したのは、少し潰れた煙草の箱だった。
引石から一本もらったのをきっかけに吸い始めて以来、いつの間にか自分でも買うようになっている。
まだ習慣と言えるほど本数は多くなかったが、何もせず考え込んでしまう時間には、自然と手が伸びるようになっていた。
出久は一本を咥え、ライターを取り出す。
さすがにリビングで吸うのはまずいと思ったらしく、キッチンの換気扇の下へ移動してスイッチを入れた。
低い唸りとともにファンが回り始め、これなら煙も外へ抜けるだろうと考えたところで、ライターの火を煙草の先へ近づける。
「あー! 毒煙!」
「うわっ!?」
背後から突然声を浴びせられ、出久の肩が跳ねた。
振り返ると、キッチンの入口にトガヒミコが立っていた。
寝起きらしく髪はいつも以上に跳ね、普段の制服ではなく大きめのシャツに短パンという格好だったが、その表情だけはやけに険しい。
半分眠そうだった目もすっかり開き、出久の口元にある火の点いていない煙草へ向けられている。
「デク君! 室内喫煙は禁止になりましたよね!」
トガはぺたぺたと裸足のままキッチンへ入ってくると、換気扇の下にいる出久の真正面まで来た。
「換気扇の下だから大丈夫かなって」
「駄目です!」
即答だった。
出久が咥えたままの煙草へ火を近づけようとすると、トガはさらに一歩詰め寄り、指をびしりと玄関の方へ向ける。
「毒煙は外で吸ってください!」
「はいはい」
勢いに押されるようにライターを閉じ、出久は煙草を箱へ戻した。
トガはそれを見届けてもなお疑うように目を細めていたが、出久が本当に換気扇を止めてキッチンを離れると、ようやく腕を組んだまま頷いた。
「壊理ちゃんもいるんですからね。部屋の中が煙草臭くなったら駄目です」
「分かってるよ。ごめんごめん」
玄関脇のハンガーから上着を取り、シャツの上に羽織る。まだ寝起きの身体には山の朝は寒そうだったので、前を軽く合わせながら靴を履いた。
「じゃあ、外で吸ってくる」
「ちゃんと家から離れてくださいね!」
「厳しいなあ」
「当然です!」
背中に飛んでくる声へ片手を上げて答え、出久は玄関を出た。
冷えた空気が顔に触れる。
室内にいた時よりも朝靄は薄くなっていたが、山肌にはまだ白いものが漂い、木々の間から差し込む朝日は弱い。
昨日までと変わらない静かな朝で、別荘の周囲には鳥の鳴き声以外、特に変わったものは見当たらなかった。
出久は以前トゥワイスと話した切り株の近くまで来ると、上着のポケットから煙草の箱を取り出した。
「喫煙者は肩身が狭いや」
もっとも、未成年の自分が言えた台詞ではない。
そんなことを考えながら一本抜き取って口に咥え、風を避けるように手で囲ってライターを点ける。
火が煙草の先端へ移り、赤い光が小さく灯った。
その直後。
──パァン!
乾いた破裂音が山間に響いた。
出久の口元で煙草が弾け、先端が紙片と葉を撒き散らしながら消し飛んだ。
残った部分が唇から落ちるより早く、出久は反射的に身を沈めていた。
「──っ!」
眠気は一瞬で消えた。
何が起きたのかを考える必要すらない。
口元にあった煙草だけが、ほとんど狙い違わず撃ち抜かれたのだ。
頭部を狙った弾が偶然外れた可能性もあるが、それにしては弾道が正確すぎる。
銃撃。
「敵襲!」
叫ぶのと同時に、出久は地面を蹴って射線から外れようとした。
本来なら、この瞬間には複数の個性が連動し、身体の外側へ形成された白い骨格と鱗の装甲が全身を包み込んでいるはずだった。
身体強化によって基礎能力を引き上げ、形成した骨格と筋肉、腱を発条として接続し、一つの戦闘用の身体へ統合する。
全因解放──ホワイト・ラビット。
出久が現在持つ個性を戦闘へ最適化したその姿なら、たとえ狙撃手が相手でも、射線を外しながら一気に距離を詰められる。
そうなるはずだった。
「……え?」
何も起こらない。
身体の外へ骨が形成される感覚も、皮膚を覆っていく白い装甲もなければ、筋肉や腱が発条へ変化していく独特の感覚さえない。
出久は一瞬だけ発動に失敗したのかと思い、今度は明確に意識を集中させて個性を起動しようとした。
それでも、身体は応えなかった。
「まさか……」
焦りを押し殺しながら、別の個性へ意識を切り替える。
ホワイト・ラビットとして統合する必要はない。
身体強化でも五感強化でも、骨格形成でも構わなかった。
一つでも使えれば、そこから状況を立て直せる。
しかし、何を選んでも結果は同じだった。
個性が発動しない。
出久はそこで初めて、自分の身に起きている異常を正確に認識した。
これまで当たり前のように身体の内側に存在し、意識を向ければ即座に応えていた複数の個性が、まるで最初から存在しなかったかのように沈黙している。
別荘の玄関が勢いよく開いたのは、その直後だった。
「デク君!?」
「出てこないで!」
トガの姿を認めた瞬間、出久は鋭く叫んだ。
普段とは明らかに違う声に、外へ飛び出しかけていたトガが玄関口で足を止める。
「銃撃された! 誰かいる!」
そう警告しながら、出久は低い姿勢のまま周囲へ視線を走らせた。
本来なら五感強化を使い、銃声の方向や木々の揺れ、遠方の人影まで拾って狙撃地点を絞り込める。
しかし今の目に映るのは、朝靄の残る森と無数の木々だけで、耳に入ってくるのも風と鳥の声、それに先ほどの銃声が山間へ残した微かな反響だけだった。
頼れるのは、自分自身の感覚とこれまでの経験しかない。
「射線を切らないと……!」
同じ場所に留まり続けるのが危険であることだけは明白だった。
最初の一発が威嚇なのか、それとも本当に頭部を狙って外したのかは分からないが、次も外れる保証などない。
何より、今の出久には銃弾を防ぐ装甲も、発射を見てから回避できる身体能力もなかった。
別荘の周囲を素早く見渡した出久は、庭の端に何本かまとまって生えている木へ目を向けた。
幹の太さは人一人を完全に隠せるほどではないものの、木々の間へ入り込めば少なくとも遠距離から一直線に狙われ続けることは避けられる。
「トガさん、みんなを起こして! 窓には近付かないように!」
言い終えるより早く、出久は木立へ向かって走り出した。
個性の補助が一切ない足では、普段とは比較にならないほど遅い。
地面の凹凸を踏むたびに身体が揺れ、朝露に濡れた草では足を取られそうになる。
自分が無個性の頃なら何とも思わなかったはずの感覚が、複数の個性による身体能力に慣れきった今では、ひどく頼りなく感じられた。
それでも出久は頭を低くし、可能な限り不規則に進路を変えながら木立を目指す。
あと十メートルほど。
その距離まで近づいたところで、先頭の木の陰から黒いものが動いた。
「──!」
出久は咄嗟に足を止めた。
長身の人影が、木の裏側から静かに姿を現す。
黒いコートのような衣服に、顔の大半を覆うマスク。
義足である独特の脚部まで視界に入った瞬間、出久は相手が誰なのかを理解した。
「……エクトプラズム」
雄英高校教師、ヒーロー名エクトプラズム。
出久自身も授業を受けたことがある教師が、朝靄の残る山中でこちらを見ていた。
なぜここにいるのかと考えるより先に、その右側にある別の木陰から同じ姿が現れた。
さらに左からも。
一人、二人という話ではない。
出久が視線を巡らせている間にも、岩陰や斜面、別荘を囲む林の奥から、まったく同じ姿をしたエクトプラズムが次々と姿を現してくる。
「……なるほど」
出久は木立へ向かっていた足をゆっくり後ろへ引いた。
エクトプラズムの個性──『分身』。
口から噴き出した靄のような物質を自分と同じ姿へ変え、複数の分身体として操る個性であることを、出久は当然知っている。
雄英にいた頃には、その分身を相手にした実戦形式の試験さえ経験していた。
だからこそ、目の前の光景が何を意味しているのかも分かった。
最初に見えた数人だけではなかった。
木々の間から現れた分身は別荘を中心として左右へ展開し、互いに一定の間隔を保ちながら包囲を広げていく。
正確な数を数えている余裕はなかったが、二十人を越え、それでもまだ林の奥から増えているのを見る限り、三十人近くはいる。
そして誰一人、すぐに襲いかかってはこなかった。
じりじりと距離だけを詰めてくる。
出久が一歩後ろへ下がれば、それに合わせて前列が一歩進み、横へ動こうとすれば、その方向にいる分身たちが間隔を狭める。
完全に逃走経路を潰しながら、包囲そのものを縮小していた。
「煙草カ、悪童ニナッタナ、緑谷出久」
「生活指導のつもりですか? 先生」
出久はエクトプラズムの分身たちを睨みながら、少しずつ後退していく。
正面の木立へ踏み込めない以上、無理に突破しようとすれば数人がかりで押さえ込まれる可能性が高い。
しかも、どこかには先ほど煙草を撃ち抜いた狙撃手がいる。今の自分にとって、開けた場所を横切ることはそれだけで致命的だった。
ならば、ひとまず別荘まで戻るしかない。
室内なら壁と家具で射線を切れるうえ、トガたちとも合流できる。敵が雄英である以上、いきなり建物ごと吹き飛ばすような真似はしないだろうという期待もあった。
何より、現在個性が使えないのはほぼ間違いなく相澤消太──イレイザーヘッドが何処からか出久を見ることにより、『抹消』で個性を封じているからだろう。
「……厳しい状況だ」
出久は低く呟き、前方のエクトプラズムたちへ意識を集中させた。
その瞬間、包囲の一角で草が大きく揺れた。
分身が動いたのではない。
もっと低い位置を、何かが高速で突っ切ってくる。
「っ!?」
出久がそちらへ顔を向けた時には、すでに巨体が木陰から飛び出していた。
四肢を地面すれすれまで落とした前傾姿勢で、ほとんど獣のように駆けてくる。
大きな身体を覆う毛並みと、口元にはめられた頑丈な口輪、その鋭い目を見た瞬間、出久は相手の正体を理解した。
「ハウンドドッグ!」
雄英高校教師であり、生活指導も担当するプロヒーロー、ハウンドドッグ。
ハウンドドッグは走る勢いをほとんど殺さないまま地面を蹴り、出久へ飛びかかった。
「──っ!」
出久は反射的に横へ転がるように避けた。
直後、ほんの一瞬前まで立っていた場所へハウンドドッグの両腕が叩きつけられ、湿った土が大きく抉れる。
その威力を見た出久の背筋が冷えた。
生身で掴まれればひとたまりも無い。
普段なら、相手の初動を見てからでもいくらでも対応できた。
身体強化を使えば力負けすることはなく、ホワイト・ラビットまで使えば、真正面から組み合う必要すらない。
しかし今は、そうした選択肢がすべて消えている。
出久が起き上がろうとしたところへ、ハウンドドッグが地面を蹴った。
「速──!」
最後まで言う余裕すらなかった。
右から伸びてきた腕を咄嗟に両腕で受け止めるが、衝撃を殺し切れず、身体ごと大きく弾かれる。
靴底が地面を滑り、数歩分の距離を強制的に後退させられた。
「ぐっ……!」
腕が痺れる。
骨に直接響くような重さだった。
ハウンドドッグはそこで止まらず、一度低く沈んだかと思うと、今度は斜めから出久の脚を刈るように飛び込んできた。
単純な突進ではなく、四肢を使って地面との距離を自在に変えながら迫ってくるため、動きが読みにくい。
出久は後ろへ跳んで避けたものの、それも個性なしの身体では一歩半ほどしか距離を取れない。
次の瞬間には、ハウンドドッグの爪先が上着を掠めた。
「っ!」
布地が裂ける音とともに、出久はさらに後退する。
前へ出ようとしても、左右にはエクトプラズム。
横へ逃げようとしても、包囲が狭まっている。
背後に残されているのは別荘だけだった。
「最初から……こっちに追い込むつもりか!」
出久がそう気づいた時には、すでに遅かった。
ハウンドドッグは吠えるような低い唸り声を漏らしながら再び突進してくる。
口輪越しに荒い息が響き、四肢が土を蹴るたびに草と泥が跳ね上がった。
出久は真正面から受けることを諦め、身体を斜めにずらして腕を捌こうとする。
だが、速度が違いすぎた。
肩口を掴まれる。
「しまっ──!」
強烈な力で引かれ、出久の身体が一瞬宙に浮いた。
反射的に相手の手首を掴んで振りほどこうとしたが、びくともしない。
人間同士の組み合いとは思えないほどの膂力差だった。
「離して……!」
出久は身体を捻り、どうにか上着だけを脱ぐようにして拘束から抜け出した。
その代わり、羽織っていた上着がハウンドドッグの手に残る。
出久はシャツ一枚になったまま後ろへ転がり、すぐに立ち上がろうとした。
そこでエクトプラズムの分身たちが、一斉に一歩進んだ。
逃げ道が、さらに狭まる。
「……っ」
出久は歯を食いしばった。
ハウンドドッグの真正面に立てば力で押し切られ、左右へ動けばエクトプラズムに捕まる。
森側へ抜けようとすれば狙撃手の射線に入るうえ、そもそも木立まで辿り着く前に追いつかれる。
完全に誘導されている。
それは出久にも分かっていた。
ハウンドドッグは真正面から取り押さえることもできたはずなのに、決定的な一撃を避けながら進路だけを削り、エクトプラズムの分身たちも森側と左右の逃げ道を塞ぐことに徹している。
どこかにいる相澤によって個性まで封じられている以上、こちらが別荘へ戻る以外の選択肢を失うよう、最初から組まれた布陣なのだろう。
だからこそ、逆らう意味がない。
少なくとも今は。
「……分かってますよ」
出久は息を整えながらハウンドドッグを睨み、次の瞬間には踵を返して別荘へ走り出した。
背中を見せることには抵抗があったが、ここで意地を張って外に残れば、そのまま押さえ込まれるだけだ。
室内へ入れば狙撃手の射線を切れるうえ、相澤の『抹消』も視界が途切れれば維持できない。
そこまで考えれば、相手の誘導に乗ることになったとしても、別荘へ戻る方がまだ選択肢は多かった。
背後からハウンドドッグの足音が追ってくる。
出久は振り返らず、濡れた地面を蹴って玄関を目指した。
個性を失った状態では、ほんの数十メートルがひどく遠く感じられる。
肺が早くも熱を持ち、脚にも重さが出始めていたが、それでも足を止めるわけにはいかなかった。
玄関まで残り数メートル。
横からエクトプラズムの分身が回り込もうとするのが見え、出久は進路をわずかに変えてそれを避ける。
さらに背後でハウンドドッグが低く唸ったため、最後はほとんど飛び込むようにして玄関へ辿り着いた。
扉を開け、中へ滑り込む。
すぐに振り返って玄関扉を閉めると、外の景色が完全に遮断された。
その瞬間だった。
「──っ!」
身体の奥に、感覚が戻ってきた。
それまで何重にも蓋をされていたように沈黙していた個性が、一斉に反応する。
身体強化、骨格形成、鱗状の外装、筋肉と腱を発条として連動させる感覚──どれも消えていたわけではない。
やはり相澤だった。
出久はほとんど反射的に複数の個性を接続し、全身へ展開する。
白い骨格が皮膚の外へ形成され、それを覆うように装甲が噛み合っていく。
細身の人型を崩さないまま全身を包み込んだ白い外骨格の内部では、筋肉と腱、骨格が一つの発条機構として連結され、先ほどまで頼りなかった生身の身体へ一気に力が戻った。
これなら戦える。
出久は玄関を背にしたまま構え、まず外へ意識を向けた。
「敵襲だ!」
別荘中へ届くよう声を張り上げる。
「みんな起きて! 雄英が来てる!」
返事がない。
出久は眉を寄せた。
あれだけ大きな銃声が響き、外では自分とハウンドドッグが争っていた。
トガは少なくとも起きていたし、出久が外へ出る直前までキッチンにいたのだから、真っ先に反応してもおかしくない。
「トガさん!」
もう一度呼ぶ。
何も返ってこない。
「分倍河原さん! 引石さん! 壊理ちゃん!」
静かだった。
換気扇は止まったまま。
暖房の運転音だけが低く響いている。
つい数分前まで、ここには生活の気配があったはずなのに、今は別荘そのものが眠り込んでしまったようだった。
出久の胸の奥に、嫌なものが広がる。
「……おかしい」
外にはまだエクトプラズムたちがいる。
ハウンドドッグもいるし、相澤もどこかからこちらを見張っているはずだ。
それでも出久は玄関に留まらず、リビングへ続く廊下へ足を向けた。
一歩進むごとに、違和感が強くなる。
争った形跡がない。
家具が倒れているわけでもなく、床に血が落ちているわけでもない。
ヒーローがすでに室内へ侵入したのなら、少なくともトガやマグネが何の抵抗もせず捕まるとは考えにくかった。
リビングの入口まで来たところで、出久は足を止めた。
「……え?」
最初に見えたのは、ソファの横から伸びている足だった。
見覚えのある細い脚。
出久はすぐに中へ踏み込む。
「トガさん!」
トガヒミコが床に倒れていた。
ソファの脇で横向きになり、目を閉じている。
手元には何もなく、血も出ていなければ怪我をしている様子もない。
出久はすぐに傍へ膝をつき、肩へ手を伸ばした。
「トガさん! 起きて!」
反応がない。
身体を軽く揺すると頭が力なく動くが、呼吸はしている。
眠っている。
出久が顔を上げると、リビングの奥にも倒れている人影があった。
スピナーは昨日ゲームをしていたソファに半分もたれたまま、コントローラーを手にして眠っている。
トゥワイスは床に仰向けで倒れ、両腕を投げ出していた。
コンプレスは壁際の椅子から滑り落ちるような格好で動かず、マグネも廊下へ続く場所で横になっている。
誰一人、起きていない。
「……何だ、これ」
出久は立ち上がり、リビング全体へ視線を巡らせた。
誰も傷ついている様子はなく、争った形跡もない。
それなのに、トガを含めた連合の面々が揃って眠り込んでいる。
偶然全員が同じタイミングで意識を失ったなどとは考えられず、外で自分を別荘から引き離していた雄英側の動きと無関係であるはずもなかった。
何かをされた。
そう考えた瞬間、個性『五感強化』によって強化された嗅覚が、室内に漂う微かな匂いを拾った。
「……甘い?」
暖房の空気に混じって、ほんのりと甘い香りが鼻腔を掠めている。
菓子や果物の匂いとは違う、どこか人工的で、妙に意識へまとわりついてくるような甘さだった。
その匂いに覚えがあったわけではない。
だが、雄英に所属していた出久は、それに該当する個性を知っていた。
「……ミッドナイト」
雄英高校教師、ミッドナイト。本名、香山睡。
彼女の個性『眠り香』は、露出した肌から特殊な香気を発生させ、それを吸い込んだ相手を眠りへ誘うものだ。
閉鎖された空間で十分な濃度を確保できれば、複数人をまとめて無力化することもできる。
そして今、暖房によって空気が循環している別荘の中には、その甘い匂いが薄く広がっていた。
出久の表情が変わる。
連合の面々が争うことすらなく眠っている理由。
自分をわざわざ室内へと追い立てた理由。
すべてが繋がった。
「最初から……これが狙いか」
反射的に息を止める。
しかし、気づくのが遅かった。
室内へ戻ってからすでに何度も呼吸している。
しかもミッドナイトの個性が男性へ強く作用することを考えれば、出久に残された猶予は想像していた以上に短かった。
視界の端が、ふわりと揺れる。
「……まずい」
床へ視線を落とすと、ソファの脇にタオルが落ちていた。
出久はすぐに手を伸ばして拾い上げると、折り畳む余裕もなく口と鼻へ押し当てた。
どこまで効果があるのかは分からない。
個性によって発生した香りである以上、布一枚で完全に防げる保証などなかったが、このまま直接吸い込み続けるよりはましだった。
ところが、タオルを拾って立ち上がろうとした時には、すでに身体の感覚がおかしくなり始めていた。
「……っ」
膝に力が入らない。
ホワイト・ラビットの装甲はまだ全身を覆い、筋肉や腱、骨格を発条として連動させる仕組みも正常に働いている。
それでも、身体を動かすための意識そのものが急速に鈍っていくせいで、せっかく戻った力を十分に扱えなかった。
出久はテーブルへ片手をつき、辛うじて姿勢を保つ。
「みんなが……寝てるのは、これか……」
自分の声が妙に遠い。
思考に薄い膜が掛かり、一つの考えから次へ移るだけでも普段より時間がかかる。
身体は鉛でも詰め込まれたように重くなっているのに、意識だけは反対に浮き上がり、頭蓋の内側から少しずつ離れていくようだった。
まず外へ出るべきだと出久は理解した。
窓を割るなり壁を壊すなりして新鮮な空気のある場所へ逃げれば、まだ何とかなるかもしれない。
だが、それより先に確認しなければならないことがあった。
「……壊理ちゃん」
出久はタオルを口元へ押し当てたまま、リビングの奥へ向かおうとした。
一歩目で足が縺れた。
咄嗟に壁へ手をついたことで転倒だけは免れたが、その僅かな衝撃だけで視界が大きく揺れた。
個性で身体そのものはいくら強化されていても、眠りへ引きずり込まれている脳まではどうにもならない。
その時、廊下の奥から硬い音が聞こえた。
コツ、コツ、と一定の間隔で床を叩いている。
ハイヒールの靴音。
「……クソ」
誰なのかは、もう考える必要もなかった。
壁へ手をついたまま身体を起こそうとする。
しかし腕へ命令を送ってから実際に力が入るまで、妙な間が生じている。
白い外骨格に覆われた身体は本来なら通常とは比較にならない力を持っているはずなのに、今の出久には自分自身の身体を支えることさえ難しくなり始めていた。
ハイヒールの音が少しずつ近づいてくる。
その音を聞くたび、出久の意識は逆に遠ざかっていった。
とうとう壁へついていた手が滑り、出久は片膝を床についた。もう片方の脚にも力が残っておらず、そのまま両手をついて辛うじて倒れ込むのを防ぐ。
「……やられた」
口元へ押し当てていたタオルにも、力を込め続けられなくなっていた。
視界が霞む。
それでも出久は顔だけを上げた。
廊下の向こうから、一人の女性が姿を現す。
雄英高校教師、ミッドナイト。
彼女がここにいる以上、室内に漂っている甘い匂いが何なのかについて、もはや疑う余地はなかった。
だが、出久の注意を奪ったのは彼女自身ではない。
その腕の中に、小さな少女が抱かれていた。
「……壊理……ちゃん……」
白い髪をミッドナイトの胸元へ預け、壊理は目を閉じていた。
個性の影響を受けて眠っているらしく身体から力は抜けているものの、呼吸は穏やかで、苦しんでいるようには見えない。
ミッドナイトもまた、彼女を拘束するような抱き方はしていなかった。
片腕を背中へ、もう片方を膝の下へ回し、眠っている幼い子供を起こさないようにするかのように、壊理の身体を丁寧に支えている。
その姿を認識した瞬間、沈みかけていた出久の意識に僅かな抵抗が戻った。
「その子は……無関係、だ」
辛うじて絞り出した声は、自分でも驚くほど弱かった。
ミッドナイトはすぐには答えず、まず腕の中で眠る壊理へ目を落とした。
少女が苦しくないよう抱き直してから、床へ膝をついたまま自分を睨もうとしている出久へ視線を戻す。
その表情には、授業中に見せていたような妖艶な笑みも、敵を挑発する時の余裕もなかった。
「ゆっくり眠りなさい緑谷君……」
微かに憐憫の混ざった声を聞きながら、出久は意識を手放した。