ミッドナイトの声を最後に、出久の意識は完全に途切れた。
そこから先は、ひどく静かな作業になった。
玄関が開き、まず中へ入ってきたのは相澤だった。
捕縛布を肩に掛けたまま室内を見渡し、倒れている連合の面々と、手を伸ばしたまま床へ伏している出久を見る。
ミッドナイトが見慣れない少女を抱いているのを見て首を傾げるが、全員が眠っているのを確認し後ろへ合図を送った。
「入れ。全員、慎重に運べ」
その声に続いて、雄英の教師たちが別荘の中へ入ってくる。
外の包囲を維持していたエクトプラズムの分身の一部も玄関前まで寄り、搬送路の確保に回っていた。
ハウンドドッグは入口付近で周囲を警戒し、いつ誰かが目を覚ましても対応できるよう低く身構えている。
最初に運び出されたのはトガだった。
眠り香の影響で完全に意識を失っており、教師二人が腕と脚を支えて持ち上げても反応はない。
普段なら気配一つで飛び起きてもおかしくない少女が、今は力の抜けたまま運ばれていく。
外へ出ると、すでに警察が用意した拘束用の車両と器材が並んでいた。
トガは地面へ直接寝かされることなく担架へ移され、手首と足首へ専用の拘束具を装着される。
個性の使用を想定した処置も重ねられ、さらに身体検査を済ませたうえで車両へ収容された。
続いてトゥワイス。
その次にスピナー。
コンプレス、マグネと、別荘の中にいた連合のメンバーが一人ずつ運び出されていく。
誰も抵抗しない。
怒鳴り声も、戦闘音もない。
聞こえるのは教師たちが交わす短い確認と、拘束具が閉じる金属音、それから担架を運ぶ足音だけだった。
「呼吸、正常」
「脈拍も問題なし」
「拘束完了」
「次を」
必要な言葉だけが淡々と交わされていく。
捕らえる側にとっては、これ以上ないほど順調な確保だった。
だが、その場にいる教師の誰一人として喜んではいなかった。
雄英の生徒だった者たちが、今は犯罪者として一人ずつ拘束されていく。
その事実は、作戦の成功という言葉だけでは到底片づけられないものだった。
相澤は搬送されていくトガたちを無言で見送ったあと、再び別荘の中へ戻る。
最後に残っていたのは出久だった。
ミッドナイトの『眠り香』によって意識を失った瞬間、ホワイト・ラビットはすでに解除されている。全身を覆っていた白い骨格も鱗状の装甲も消え去り、床に横たわっているのは、外でハウンドドッグとの攻防によって上着を失ったままの少年だった。
ほんの少し前まで、複数の個性を統合した異形の姿で戦おうとしていた面影はない。
乱れた緑髪。
薄いシャツ。
眠りによって力の抜けた手足。
そうして見ると、全国指名手配され、敵連合の中心人物として追われている存在とは思えないほど、年相応の少年に見えた。
相澤はその横へしゃがみ込み、しばらく黙ったまま出久の顔を見る。
「……緑谷」
当然、返事はない。
呼吸は安定している。
相澤は確認を終えると、後ろにいる教師たちへ視線を向けた。
「……運ぶぞ。目を覚ました時に個性を使われる可能性がある。拘束は外で行う」
「了解」
教師たちは慎重に出久の身体を持ち上げた。
外骨格を纏っていた時とは違い、その身体は驚くほど軽い。
それでも誰も何も言わなかった。
眠ったままの出久が玄関から運び出される。
朝の光が顔へ当たっても、目を覚ます気配はない。
庭ではすでに、トガやトゥワイスたちの確保作業が進められていた。
警察官と教師たちが連携し、一人ずつ状態を確認しながら拘束具を装着している。
「校長、室内ノ人員ハ全員運ビ終エマシタ」
「あぁ、ご苦労様さ」
少し離れた場所では、この作戦全体の指揮を執っていた根津が、エクトプラズムの報告を受けながら警察官や教師たちの動きを静かに見守っていた。
予定していた手順に大きな狂いはない。
スナイプの狙撃で出久の森への逃走を妨害し、相澤の『抹消』で個性を封じたうえで、エクトプラズムとハウンドドッグが逃走経路を限定する。その間にミッドナイトが室内を制圧し、最後は出久自身を眠り香の残る別荘へ追い戻して無力化する。
正面から敵連合と衝突すれば、どれほどの被害が出るか分からなかった。
特に複数の個性を持つ出久との戦闘は、周辺一帯を巻き込む規模へ発展する可能性がある。
その危険を避けながら主要人物をまとめて確保できたのだから、作戦として見ればこれ以上ない結果だった。
しかし、根津の表情に達成感はなかった。
玄関から運び出されてきた出久を目にすると、それまで現場全体へ向けられていた視線が止まり、口元がわずかに強張る。
担架へ横たえられた少年に、ホワイト・ラビットの面影は残っていない。
眠り香によって意識を失ったことで白い装甲は消え、上着さえ失った薄いシャツ姿で、教師たちに手首と足首を拘束されている。
根津は何も言わなかった。
全国指名手配されているヴィランを確保するために必要な措置であり、目を覚ました出久が再び複数の個性を発動すれば、ここにいる警察官や教師が危険に晒される。
拘束を緩めるよう命じる理由はどこにもない。
それでも、目の前にいる少年をただの捕縛対象として見ることは、根津にはできなかった。
かつてヒーローを志し雄英へ入学してきた少年だった。
ヒーローに憧れ、それでも個性を持たず、誰より熱心に他人の個性を分析していた緑谷出久。
その少年が今ではいくつもの個性をその身に宿し、皮肉にも雄英の教師たちが総出で策を練らなければ安全に捕らえることさえ難しい存在になっている。
どこで、間違えたのだろう。
そんな答えの出ない問いが浮かんだところで、別荘の玄関から新たな担架が運び出されてきた。
根津の視線がそちらへ移る。
そして、その表情がさらに曇った。
「……麗日君」
お茶子だった。
彼女もまたミッドナイトの眠り香によって深く眠っており、教師たちに運ばれても目を覚ます様子はない。
すでに雄英を退学処分となった身ではあっても、根津にとって彼女がつい最近まで校内で学んでいた生徒だった事実まで消えるわけではなかった。
担架が出久の近くへ並べられる。
片方はヴィランとして雄英を去り、もう片方はその少年を助けたことで雄英を去った。
今、その二人が揃って雄英の教師たちによって運び出され、警察の拘束下へ置かれようとしている。
お茶子の手首にも拘束具が取り付けられた。
個性を使用できないよう必要な処置が施されていくが、彼女は何も知らないまま穏やかな寝息を立てている。
根津はその光景から目を逸らさなかった。
出久の確保は必要だった。
お茶子についても、八斎會で警察やプロヒーローの目の前で出久へ加勢した以上、もはや事情を聞かずに帰すことなどできない。
敵連合と行動を共にしていた現場まで押さえた以上、身柄を確保するのは当然の判断だった。
それでも、やはり胸を張って成功を宣言できるような光景ではなかった。
雄英が育てるはずだった二人の少年少女を、雄英自身の手で捕らえたのだから。
根津の隣へ相澤が歩いてきた。
彼もまた二つの担架へ一度目を向けたが、そこに何を思ったのかは口にせず、現場の状況だけを報告する。
「別荘内の確認を続けています。現時点で確保対象からの抵抗はありません。負傷者もなし。身元不明の少女がいましたが、現在確認を行なっています」
「そうかい」
根津は短く答え、周囲へ視線を戻した。
「眠り香の影響を受けた全員について、医療班に状態を確認させてから搬送しよう。特に緑谷君は複数の個性を持っている。眠っているからといって通常の拘束だけで済ませないように」
「分かっています」
「麗日君も同様さ。目を覚ましてから混乱する可能性がある。拘束は必要だけれど、不必要に威圧することはないよう伝えてほしい」
相澤が無言で頷く。
その間にも搬送は続いていた。
担架に固定された出久が車両へ向かい、その少し後ろをお茶子が運ばれていく。
根津は二人の姿が遠ざかっていくのを見つめながら、痛ましげに目を細めた。
やがて二人の担架が車両の近くまで運ばれたところで、根津はようやく視線を切った。
今は感傷に浸っている場合ではない。敵連合の潜伏場所を一つ押さえたからといって、周辺の安全が完全に確保されたわけではなく、別働隊や八斎會の人間が近くに潜んでいる可能性も残っている。
根津は胸元の無線機を手に取り、周辺警戒に配置している教師たちの状況を確認しようとした。
「こちら根津。各班、周辺の状況を──」
そこで言葉が止まった。
何かが聞こえた。
最初は、遠くを大型車両でも走っているのかと思うほど微かな音だった。
山の向こうから低く響いてくる、重い振動。耳で聞くというより、靴底を通して感じるような震えだった。
根津は無線機を口元へ近づけたまま、動きを止める。
相澤も気づいたらしい。
「……校長?」
「静かに」
根津が片手を上げると、近くにいた教師たちも口を閉じた。
風が木々を揺らす音の向こうで、もう一度。
──ズン。
低い振動が山肌を伝わってくる。
今度は先ほどより、はっきりしていた。
担架を運んでいた警察官の一人が足を止め、森の奥へ顔を向ける。
ハウンドドッグも即座に反応し、耳を立てると、口輪の奥から低い唸り声を漏らした。
「……地震か?」
誰かが呟いたが、根津は答えなかった。
地震にしては妙だった。
一定の間隔を置いて、断続的に地面が震えている。
──ズン。
再び地面が震える。
木々の枝から朝露がぱらぱらと落ち、駐車している車両の窓が微かに震えた。
数秒。
──ズン。
今度は、明らかに近い。
根津の表情から、それまで浮かんでいた痛ましさが消えていく。
代わりに現れたのは、この作戦を指揮する者としての鋭い警戒だった。
無線機を握り直す。
「各班、応答を。周辺で異常は──」
最後まで言い切る前に、遠くの森から鳥の群れが一斉に飛び立った。
何十羽もの鳥が朝の空へ逃げるように舞い上がり、その下で木々が大きく揺れている。
風ではない。
何かが森の中をこちらへ向かって進んでいるのだと根津が判断した直後、遠くの木々が大きく揺れ、何十年もそこに立っていたであろう一本が軋みを上げながら傾いた。
それに引きずられるように周囲の枝が折れ、地面を揺らす轟音とともに倒れていく。
それだけでは終わらなかった。
さらに奥で二本、三本と木々が倒れ、その異変は一直線にこちらへ近づいてくる。
先ほどまで靴底を通して感じる程度だった振動も急速に強まり、停車している車両のサスペンションが軋み、別荘の窓ガラスまで低く震え始めた。
「搬送を止めろ! 確保対象から離れるな!」
相澤の指示を受けた警察官たちは、出久やお茶子を乗せた車両を中心に配置を変えた。
エクトプラズムも別荘周辺に展開していた分身を呼び戻し、地響きの聞こえてくる方角へ次々と並べていく。
根津は無線機を握ったまま森を見据えた。
「各班、こちら根津。別荘北西側から大型の何かが接近している。確認できる者は報告を!」
『こちらセメントス! こちらでも振動を確認しています。ですが、木々に遮られて対象は確認できません!』
「了解。無理に接近する必要はない。進行方向を確認しながら別荘へ合流してくれ」
『了解!』
通信を終えるのとほとんど同時に、再び地面が揺れた。
今度は明確だった。
一定の間隔を置いて繰り返される振動は、地震などではない。
一度響くごとに少しずつ大きくなり、そのたびに森の奥で木々が揺れている。
足音だ。
それも、人間とは比較にならないほど巨大な何かが歩くことで生じている。
「……来るぞ」
相澤が捕縛布へ手を掛ける。
ハウンドドッグはすでに身体を低く落とし、毛を逆立てながら森へ向かって唸っていた。
ミッドナイトも眠った壊理を抱いたまま車両の後方へ移動し、周囲にいた警察官たちは銃器や盾を構えながら、次々と防衛位置へついていく。
やがて、朝靄の残る森の向こうに巨大な影が浮かび上がった。
あまりにも大きいため、最初は山肌の一部が動いているようにしか見えなかった。
ところが影が近づくにつれて、木々よりも遥かに高い位置にある頭部と肩、その両側から垂れ下がる巨大な腕が輪郭を持ち始める。
人の形をしている。
ただし、その尺度だけが完全に狂っていた。
「……何だ、あれは」
警察官の一人が思わず呟いた直後、巨体の前にあった木がまとめて押し倒された。
太い幹が何本も折れ、枝葉と土煙が舞い上がる。その向こうから姿を現したのは、何十メートルあるのか一目では判断できないほど巨大な人型だった。
岩塊をそのまま人間の形へ削り出したような肉体には異様なほど発達した筋肉が盛り上がり、腕の太さだけでも周囲の樹木を遥かに上回っている。
歩くたびに巨大な足が地面へ沈み込み、押し潰された土が周囲へ盛り上がっていた。
その姿を目にした瞬間、相澤の表情が変わった。
「……あいつは」
忘れるはずがない。
雄英高校のUSJがヴィランに襲撃された、あの日。
多数のヴィランとともに現れ、生徒たちの前へ立ちはだかった規格外の巨体が、今まさに自分たちへ向かって歩いてきている。
「USJの時の……!」
相澤がその巨体を睨みつけたまま捕縛布を構えると、森を押し分けて現れた巨人は一度だけ足を止めた。
朝靄の向こうに浮かぶその姿は、人間の形をしているという点を除けば、もはや生物というより山の一部に近かった。
肩や胸には岩肌のような筋肉が盛り上がり、木々よりも高い位置にある頭部がゆっくりと動くたび、その視線を追うだけでも周囲の警察官たちに緊張が走る。
巨人は相澤や根津、周囲を固める警察官たちにはほとんど関心を示さず、何かを探すように視線を巡らせたあと、連合の面々を収容した車両の方角でぴたりと動きを止めた。
その巨大な顔に、ほんのわずかな変化が浮かぶ。
「……あぁ……主の後継……」
低い声だった。
だが、その声量は人間の囁きとは比較にならず、遠く離れているにもかかわらず地面を這うように周囲へ響いた。
「……なんて無様な……」
巨人は再び歩き始めた。
一歩踏み出すたびに大地が沈み、周囲の木々が揺れる。
先ほどまで規則的に聞こえていた地響きが今度は明確な足音として響き始め、巨体は迷う様子もなく、出久やお茶子たちを収容している車両へ向かって進んでくる。
「車両を下げろ!」
根津の指示が飛び、運転席にいた警察官が慌ててエンジンをかける。
しかし、山間の狭い道ではすぐに速度を上げることができず、その間にも巨人は一歩ごとに凄まじい距離を詰めていた。
相澤はその様子を見て、すぐにゴーグルを上げた。
「止める!」
両目が赤く染まり、髪がふわりと逆立つ。
『抹消』。
巨人の身体にどれだけの個性が関わっているのかは分からない。
それでも、少なくとも異常な巨体の一部が個性によるものであるなら、何らかの変化は起こるはずだった。
そして、その判断は間違っていなかった。
相澤の視線が完全に巨人を捉えた瞬間、変化が始まる。
何十メートルもあった巨体が、みるみるうちに縮んでいった。
木々より高かった頭部が下がり、巨大だった肩幅や腕も急速に小さくなっていく。
周囲の警察官たちが呆然と見守る中、その身体は数秒とかからず人間に近い大きさまで縮小し、最終的には二メートル三十センチほどの巨漢へと姿を変えた。
「効いた……!」
誰かが声を上げる。
だが、相澤だけは表情を緩めなかった。
確かに巨体は縮んだ。
しかし、それだけだった。
筋肉の密度も異様な圧迫感も失われておらず、近い大きさになったことで、太い首や岩のような肩、胴体ほどもある腕の異常さがかえって際立って見える。
「サイズだけ……か。やっぱりあの筋肉は自前みたいだな」
巨人──ギガントマキアは自分の身体が縮んだことを確認するように一度だけ腕を見下ろしたが、特に驚いた様子もなく、そのまま歩みを続けた。
「止まれ!」
警察官が警告する。
「それ以上近づけば発砲する!」
だが、マキアは止まらない。
収容車両だけを見つめたまま、ゆっくりと、しかし確実に距離を詰めてくる。
「止まれ!」
再度の警告にも反応がない。
次の瞬間、発砲音が響いた。
数発の弾丸がマキアの胸や肩へ当たる。
だが、その身体が揺れることすらなかった。
弾丸は皮膚に食い込むこともなく、硬いものへぶつかったように弾かれ、地面へ落ちていく。
「なんで……!? 個性は消えている、はず」
警察官たちが動揺する。
それでもマキアは歩みを止めず、むしろ発砲されたこと自体を気に留めていないようだった。
やがて収容車両の目前まで来ると、その巨大な手を車体の側面へ伸ばした。
「やめろ!」
相澤が捕縛布を放つ。
布はマキアの腕へ絡みついたが、その瞬間、相澤の身体ごと前へ引かれた。
「っ……!」
足を踏ん張るが、それでも止まらない。
マキアは捕縛布を気にする様子もなく、片手を車体の下へ差し込んだ。
ほとんど力を込める素振りすら見せずに持ち上げる。
「な──」
数トンあるはずの収容車両が、片側からゆっくりと浮き上がった。
中には出久やお茶子、連合のメンバーたちが眠ったまま収容されている。
「車内に人がいる! やめろ!」
警察官の制止など聞く様子もなく、マキアはそのまま腕を押し上げた。
数トンある収容車両が片側から持ち上がり、内部で固定されていた担架や器材が一斉にずれる。
次の瞬間には車体全体が大きく傾き、その重量を支えきれなくなったタイヤが宙へ浮かんだ。
「離れろ!」
相澤が叫ぶ。
警察官たちが慌てて後退した直後、マキアは車体を横へ放るように力を加えた。
収容車両は轟音とともに横転し、側面を地面へ叩きつけた。
窓ガラスが砕け、金属板がひしゃげる音が山中へ響き渡り、車内に積まれていた器材や固定具が衝撃で外れていく。
さらに、横転した勢いだけでは終わらなかった。
車体が地面を滑った拍子に後部扉が歪み、固定部分が耐えきれずに開く。
中にいた人間たちの身体も拘束ごと大きく投げ出され、そのうち一人が土の上を転がりながら車外へ放り出された。
出久だった。
背中から地面へ叩きつけられ、そのまま二度、三度と転がる。
手首と足首にはまだ拘束具が残っていたが、担架へ固定していたベルトの一部は横転の衝撃で外れており、身体だけが車両から数メートル離れた場所へ投げ出されていた。
「緑谷!」
相澤が思わず声を上げる。
だが、すぐに駆け寄ることはできなかった。
マキアが間にいる。
発砲を続けていた警察官たちも、横転した車両に味方が巻き込まれる危険から一度射撃を止め、巨大な背中越しに出久の位置を確認しようとしていた。
その時、地面に倒れていた出久の指がわずかに動いた。
「……っ」
肺の奥から空気が押し出され、鈍い呻きが漏れる。
全身が痛い。
何かに殴られたような感覚ではなく、身体ごと何度も転がされた後の、どこが一番痛むのか判断できない種類の衝撃だった。
意識もひどく重い。
頭の奥にはまだ眠り香の影響が残っているらしく、考えようとするたびに思考が霧の中へ沈んでいく。
それでも、横転した車両の衝撃と地面へ叩きつけられた痛みが、半ば強引に意識を浮上させていた。
「……なん、だ……?」
出久は目を開ける。
最初に見えたのは土だった。
頬のすぐそばに小石があり、その向こうでは横倒しになった収容車両から白い煙が上がっている。
さらに周囲では警察官が何かを叫び、少し離れたところでは相澤がこちらを見ていた。
状況が繋がらない。
自分は別荘の中にいて、ミッドナイトが壊理を抱いているところまでは覚えている。
だが、その先の記憶がすっぽりと抜け落ちていた。
出久は重い身体を起こそうとしたが、手を動かした瞬間に金属が鳴った。
「……拘束?」
そこで初めて、自分の両手首に見慣れない拘束具が付けられていることに気づく。
さらに足首にも同様のものがある。
雄英に捕まった。
そこまで理解したところで、足元に大きな影が落ちた。
出久はゆっくりと顔を上げる。
視界に入ったのは、人間のものとは思えないほど太い脚だった。
そこから視線を上げていくと、岩のような筋肉に覆われた胴体があり、そのさらに上には、自分を見下ろしている巨大な男の顔がある。
出久の思考が止まった。
「…………え?」
二メートルを優に超える巨体だった。
ただし、それ以上に異様なのは、その圧迫感だった。
相澤の『抹消』によって何十メートルもの姿から縮んでいることを知らない出久にとっては、それでも十分すぎるほど巨大だった。
目の前に立っているだけで、空気そのものが重く感じられる。
「……起きたか」
地を這うような低い声が降ってくる。
出久は呆気に取られたまま、その顔を見上げた。
「……誰?」
自分でも驚くほど間の抜けた声だった。
マキアは答えない。
ただ出久を見下ろし、その表情を確かめるように目を細める。
その表情に安堵や喜びはなく、むしろひどく不満そうだった。
「主の後継が……この程度で捕らえられ、地に這うか」
「……は?」
出久には何を言われているのか分からなかった。
頭がまだはっきりしていないこともある。
それ以上に、「主の後継」という言葉が自分を指しているらしいという事実そのものが理解できなかった。
「ちょっと待って、何の──」
言い終える前に、マキアの右腕が持ち上がった。
拳が握られる。
それだけで腕の筋肉が異常なほど膨れ上がり、空気が軋むような圧迫感が生まれた。
出久はようやく、目の前の巨漢が自分を殴ろうとしているのだと理解した。
だが、理解したからといってどうにかなる状況ではない。
手首と足首には拘束具が残り、眠り香の影響もまだ完全には抜けていない。
身体へ力を入れようとしても反応が一拍遅れ、立ち上がるどころか、地面を転がって逃げることさえ難しかった。
「ちょ、ちょっと待って……!」
出久が反射的に身をよじる。
しかし、その程度で避けられる大きさの拳ではなかった。
マキアの腕が振り下ろされる。
その瞬間、横から強い衝撃が入った。
「っ!?」
出久の身体が地面の上を滑る。
何が起きたのか理解できないまま数メートル転がり、肩から土へぶつかったところでようやく止まった。
拘束具が鳴り、全身へ痛みが走るが、先ほどまで自分がいた場所からは確かに離れている。
そして、その場所には相澤がいた。
「先生……?」
出久の口から、思わず言葉が漏れる。
相澤は出久を突き飛ばした姿勢のまま、マキアの拳を避けようとしていたが、完全には間に合わなかった。
拳そのものの直撃こそ外れたが、振り下ろされた腕の側面が相澤の肩口をかすめ、その勢いだけで身体が弾き飛ばされた。
「相澤!」
誰かの叫びが聞こえた。
相澤は地面へ叩きつけられ、そのまま数度転がって止まった。
途中で頭部を地面へ強く打ちつけたらしく、額の生え際から血が流れ始める。
相澤は一度だけ腕を動かそうとした。
だが、力が入らない。
「……っ」
掠れた息が漏れたあと、その身体から完全に力が抜ける。
「イレイザーヘッド!」
警察官と教師たちが一斉に動く。
しかし、出久の耳には周囲の声が遠く聞こえていた。
視線は相澤から離れない。
「……なんで」
自分を捕まえに来たはずだ。
個性を封じ、追い込み、眠らせて、拘束した。
今の自分は相澤にとって生徒ではなく、確保対象のヴィランのはずだった。
それでも、相澤は迷わなかった。
出久を押し退け、自分が代わりに殴られた。
「……なんでだよ」
出久の声は、自分でも分かるほど震えていた。
地面に倒れた相澤は動かない。
額から流れた血が頬を伝い、土の上へ赤い染みを作っている。
周囲では教師や警察官たちが相澤のもとへ駆け寄ろうとしているが、その前にはマキアが立っており、迂闊に近づける状況ではなかった。
それでも出久には、そんな周囲の動きがほとんど目に入っていなかった。
出久は俯いたまま、ゆっくりと右手を握った。
手首にはまだ金属製の拘束具が嵌められている。
足首も同様で、このままではまともに立つことさえできない。
だが、もう個性を封じる視線はない。
相澤が意識を失ったことで、『抹消』は解除されている。
出久は一度だけ息を吐いた。
次の瞬間、右の掌の中央が盛り上がる。
皮膚の下から白いものが押し上がり、肉を裂くことなく外へ伸びていく。
それは瞬く間に細長い形を取り、先端を鋭く尖らせながら一本の骨槍となった。
『槍骨』。
出久は手首を捻り、骨槍の先端を拘束具の隙間へ差し込む。
通常の人間が身につけることを想定したものではなく、個性犯罪者を拘束するための強度を持つ金属だったが、出久は構わず力を加えた。
軋む音がする。
骨槍が拘束具の継ぎ目へ食い込み、さらに押し広げる。
金属が耐えきれずに歪み始めると、出久はそのまま手首を強く捻った。
甲高い破断音とともに、拘束具が弾けた。
片手が自由になる。
出久は続けて反対側の手首を壊し、そのまま足首の拘束にも骨槍を差し込んだ。
焦っているはずなのに、動作は妙に静かだった。
感情が爆発しているのではない。
むしろ逆、頭の中が冷え切っていた。
最後の拘束具が砕ける。
出久は骨槍を引き抜き、そのまま地面へ手をついて立ち上がった。
眠り香の影響はまだ残っている。
身体は重く、頭の奥にも鈍い霞がかかっていた。それでも先ほどまでとは違い、全身に力が戻り始めていることだけははっきりと分かった。
そして同時に、目の前の光景も変わっていく。
相澤の『抹消』が途切れたことで、マキアの身体は再び膨張を始めていた。
二メートル余りだった巨体が急速に高さを増し、肩が持ち上がり、腕や脚が何倍もの太さへ膨れ上がっていく。
数秒前まで人間の尺度に収まっていた肉体はあっという間に木々の高さを越え、最終的には十数メートルに達した。
巨大化に伴って地面が沈み、周囲の砂利が跳ねる。
教師や警察官たちが距離を取る中、出久だけはその場から動かなかった。
見上げる。
マキアもまた、足元に立つ出久へ視線を落とした。
両者の視線がぶつかった。
何者なのかも、なぜ自分を「主の後継」と呼ぶのかも、ここへ来た目的さえ分からない。
だが、一つだけはっきりしている。
あの男が相澤を殴った。
それだけで、今は十分だった。
出久の身体の表面から、白い骨が浮かび上がり始める。
白い外骨格が胸から肩、腕、脚へ一気に広がり、その隙間を鱗状の装甲が埋めていく。
筋肉、腱、骨格、外骨格が一つの発条機構として接続され、最後に頭部を覆った装甲から二本の突起が伸びた。
全因解放。
ホワイト・ラビット。
十数メートルの高さからこちらを見下ろすマキアを、真正面から睨み返す。
「……やってくれたな」