森へ飛び込んでから、どれほど走ったのか分からなかった。
舗装された道など当然なく、足元には湿った落ち葉と浮き出た木の根が絡み合っている。
斜面を横切るたびに柔らかな土が崩れ、前を走る者が蹴り上げた小石が後ろへ飛んでくるため、少しでも気を抜けば簡単に足を取られそうになるが、それでも誰一人として速度を落とそうとはしなかった。
後方からは、いまだに重い轟音が断続的に響いている。
木々と山肌に遮られ、先ほどほどはっきり聞こえるわけではない。
それでも地面へ巨大な何かが叩きつけられるような音や、遠くで木々がまとめてへし折られる鈍い響きが時折届いてくる以上、あの別荘周辺ではまだ戦闘が続いているらしかった。
出久は走りながら何度か後ろを振り返ったものの、マキアの姿は見えない。
あれほど執拗に自分を狙っていた巨人だけに、ラビット・ホーンを受けたあとも追ってくる可能性は考えていた。
しかし、少なくとも今のところ地響きがこちらへ近づいてくる気配はなく、むしろ轟音そのものが徐々に遠ざかっている。
「……追ってきてない」
息を切らしながら呟くと、隣を走っていたコンプレスがちらりと後ろへ視線を向けた。
「ありがたい話だね。あれに追いつかれたら、山ごと逃げ道を潰されかねない」
「いやあ、ボスがあんなデカいのぶっ刺したからな! そりゃ休みたくもなるぜ!」
壊理を抱えたトゥワイスが得意げに言うと、スピナーがすぐさま呆れた声を返す。
「お前がやったみたいに言うなよ」
「俺たちのボスがやったんだから実質俺たちの手柄だろ!」
「理屈がおかしいだろ!」
いつもの調子で言い合う二人の声を聞きながら、出久は少しだけ肩の力を抜いた。
誰も欠けてはいない。
眠り香の影響がまだ完全に抜けていない者はいるものの、全員が自分の足で走れており、壊理もトゥワイスにしっかり抱えられている。
先ほどまでとは違って怯えた様子が見られないことも、今の出久にとっては小さくない安心材料だった。
とはいえ、安心できる状況でないことに変わりはない。
自分たちは一度完全に捕まり、敵連合の人数も居場所も把握されたうえで、雄英側に綿密な作戦を立てられていた。
今回はマキアの乱入によって偶然脱出できただけであり、同じ場所へ戻れば今度こそ逃げ切れないだろう。
そんなことを考えながら先頭を走っていると、少し後ろでスピナーがポケットから携帯電話を取り出した。
走りながら画面を確認したものの、表示された内容を見て眉間へ皺を寄せる。
「……まだ圏外か。緑谷、『電波』出してくれよ」
「そんなWi-Fiみたいなこと出来ないよ」
「んだよ」
スピナーは諦めきれない様子で携帯電話を少し高く掲げてみるが、当然、それだけで状況が変わるはずもなかった。
「電波のあるところまで出たら、すぐ八斎會に連絡しようぜ」
その言葉に、前を走っていたマグネが振り返る。
「八斎會に?」
「ああ。別荘が襲われたんだぞ。向こうも何か掴んでるかもしれねえし、このまま連絡なしってわけにもいかねえだろ。それに次の隠れ場所だって必要だ。あいつらに話を通せば、別の場所くらい用意できるかもしれねえ」
言っていること自体は自然だった。
八斎會との関係が続いている以上、今回の襲撃について報告し、今後どうするか相談するというのは妥当な選択に思える。
しかし、マグネはすぐには賛成しなかった。
「……いや。しばらく連絡はやめておきましょう」
走る速度を少し落とし、全員に聞こえるよう声を大きくすると、スピナーが怪訝そうに顔を向ける。
「なんでだ?」
「今回の件、まだ何がどうなってるか分からないもの。私たちの居場所が警察や雄英に割れてた。問題は、それがどこから漏れたのかよ」
「八斎會を疑ってんのか?」
「そうは言ってないわ。でも、疑えるものは全部疑っておいた方がいい」
マグネは後方の山を一度だけ振り返り、息を整えながら続ける。
「八斎會の本部が今どうなってるかも分からない。あっちまで警察やヒーローに押さえられてる可能性だってあるし、連絡手段そのものを監視されてるかもしれないでしょ?」
スピナーの表情が僅かに変わった。
確かに、八斎會の別荘まで正確に特定された以上、本部が無事だと考える根拠はない。
仮に八斎會側がすでに捜査対象となり、通信を監視されているのなら、こちらから連絡を入れた瞬間に現在地を探られる可能性さえある。
「それと、もう一つ。後々のことを考えたら、私たちと八斎會の関係はできるだけ薄く見せておいた方がいいと思うのよ。今回使ってた別荘について聞かれたとしても、『八斎會の許可を得て潜伏してました』じゃなくて、『勝手に使ってました』って方向にしておくの」
スピナーが目を細めた。
「それは、無茶な言い訳じゃないか?」
「無茶でも何でもやるしかないじゃない」
マグネはそう言い切ると、走りながら一度周囲へ目を配った。
すでに別荘からはかなり距離を取っており、背後から聞こえていた轟音も、今では山肌と木々に遮られて時折低く響いてくる程度まで遠ざかっている。
「それに、この人数でまとまって動いてたら目立ちすぎるわ。今は森が隠してくれてるけど、山を下りればそうもいかないでしょうし、ここからは分散して潜伏しましょう。二人か三人くらいに分かれて、それぞれ別方向へ逃げる。連絡も最低限にした方がいいわ。誰か一人捕まって、そこから芋づる式に全員の居場所が割れたら、今度こそ終わりよ」
「えー、みんな一緒に居られないんですか?」
トガが露骨に嫌そうな顔をする。
「ずっとじゃないわよ。警察とヒーローの動きが落ち着くまで。それまでは──」
マグネの声にかぶせる様に、若い男の声が不意に響いた。
「まあ、落ち着けよ」
マグネの言葉が途切れたのとほぼ同時に、出久の身体が反応した。
走る速度を一気に落とし、白い外骨格に覆われた脚を地面へ食い込ませるようにして停止する。
後ろを走っていた仲間たちも次々と足を止めた。
トガは壊理の近くへ寄り、コンプレスはいつでも個性を使えるよう片手を浮かせ、スピナーも反射的に得物へ手を伸ばしている。
「……誰だ」
出久は『五感強化』に意識を集中し、警戒を強めながら周囲を見渡した。
正面には木々が密集し、右手には斜面、左側には低い藪と岩肌が続いている。
背後には自分たちが走ってきた道らしいものが辛うじて残っているものの、どこにも人影はなく、耳を澄ませても地面を踏む足音や枝の揺れる気配すら聞こえてこない。
それなのに、今の声は間違いなく近くから聞こえていた。
「おい、今の誰だ?」
スピナーが低い声で問いながら周囲へ視線を走らせる。
「俺じゃねえぞ!」
「聞けば分かる!」
トゥワイスの返事を即座に切り捨てる一方、出久はさらに感覚を研ぎ澄ませた。
湿った土と落ち葉の匂い、仲間たちの汗、荒い呼吸。
そこへ知らない何者かの気配が混じっているはずなのに、どうしても位置を掴めない。
もしヒーロー側の追手なら妙だった。
ハウンドドッグのように匂いを追ってきたのなら、ここまで近づく途中で何らかの音が聞こえていてもいいし、エクトプラズムの分身だとしても完全に姿を隠せるわけではない。
何より、声には切迫した敵意が感じられなかった。
だからといって警戒を解く理由にもならない。
「出てきてください。隠れてるなら、こっちも警戒します」
「別に隠れてるつもりはないんだけどな」
先ほどと同じ若い声が返ってくる。やはり近いが、前にも横にも姿は見えない。
「……どこだ?」
コンプレスまで訝しげに辺りを見回した、その時だった。
「上に!」
ジェントルの鋭い声が飛んだ。
全員が一斉に顔を上げると、木々の枝葉が複雑に重なったさらに上、朝の光を背にして一人の人影が浮かんでいた。
「……え?」
出久は思わず目を細める。
人影は木の枝に立っているわけでも、何かに掴まっているわけでもなく、翼すら見当たらない。
それにもかかわらず、その若い男は深く被ったフードを風に揺らしながら、何の支えもない空中へ静かに立っていた。
そして、その両足の下には、それぞれ一つずつ淡い光の輪が浮かんでいる。
地面と平行に広がった光輪は、まるで透明な足場のように男の身体を支えていた。
やがて光輪がゆっくりと高度を下げ始め、それに合わせて男の身体も木々の間へ滑り込むように降下してくる。落下しているわけではなく、速度は一定で、空中に存在する見えない階段を一段ずつ降りているかのような滑らかな動きだった。
出久は男から目を離さず、足元の輪を観察する。
単純に浮力を生み出すだけの個性なのか、それとも別の用途まで持つのかは分からない。
今の自分たちは全員疲労しているうえ、警察と雄英から逃げ出した直後なのだから、相手が友好的な口調で話しかけてきた程度で信用するわけにはいかなかった。
「おぉ、本物の緑谷出久だ」
男は感心したように呟きながら、さらに高度を落としていく。
光輪が木々の間を抜けるたびに枝葉へ淡い光が反射する一方、男は何度か首元へ手を伸ばしかけ、そのたびに途中で指を止めていた。
何かを我慢するように拳を握ってから手を下ろすという動作を、無意識なのか数秒おきに繰り返している。
「……何だ、あいつ」
スピナーが訝しげに呟いた。
やがて男の足元にあった光輪が地面すれすれで一度強く輝き、降下の勢いを完全に殺した。
靴底が湿った土へ触れると同時に二つの光輪は細かな光の粒となって消え、男は連合の面々を一通り見渡す。
「俺は別にお前たちを捕まえに来た訳じゃない。むしろ逆だよ」
出久たちが一斉に警戒していることには当然気づいているらしい。
腰を落としていつでも飛び出せるよう構えている出久を筆頭に、トガは凶器へ手を伸ばし、スピナーもナイフへ手を掛けている。
それを見た男は困ったように肩を竦めた。
「そう殺気立たないでくれ」
敵意がないことを示すように両手をゆっくり肩の高さまで上げ、掌をこちらへ向けて何も持っていないことまで見せる。
「な?」
それでも出久は構えを解かなかった。
相手が何者であろうと、自分たちの居場所を把握したうえで先回りしていたことに変わりはない。
しかも、つい先ほどまで雄英と警察の襲撃を受けていたばかりなのだから、「味方です」と名乗られたところで素直に信じられるはずもなかった。
男もそれを理解しているのか、両手を上げたまま少し考えるように首を傾ける。
「俺は、とある組織……というか、団体の遣いでやってきた者だ」
「組織? ほう……」
真っ先に反応したのはスピナーだった。
男は頷く。
「『敵連合の面々が困ってるみたいだから助けて、こっちに招いてやってくれ』って頼まれてるんだよ。だから、こうしてわざわざ山まで迎えに来たってわけ」
あまりにも軽い口調だった。
その内容だけを聞けば、自分たちにとって願ってもない申し出ではある。
潜伏先を失い、八斎會ともすぐには連絡を取れず、これから少人数に分かれて逃亡しようとしていたところへ、助けるために来たという人間が現れたのだから。
だからこそ、マグネの表情はさらに険しくなる。
「随分と都合のいい話ね」
「だろ?」
男は苦笑しながら答えたものの、上げた両手を下ろそうとはしなかった。
出久も男の一挙手一投足を注意深く観察する。
嘘をついているかどうかまでは分からないが、少なくとも今すぐ襲いかかってくる様子はなく、先ほど空中から自分たちを見下ろしていた時から現在まで、こちらへ攻撃らしい動作を一度も見せていない。
「その組織って、何なんだ?」
スピナーが尋ねる。
警戒していることに変わりはない。それでも出久には、その声が先ほどより僅かに弾んで聞こえた。
「闇の……黒の組織みたいな、やつか」
「その辺は、来てくれたらちゃんと話す。勝手に話すと怒られちまうから」
悪びれもせずに答えた男は、ようやく両腕を下ろした。
「まあ、こんなところで立ち話するのもなんだ。下の山道に車を止めてあるから、来るなら来てくれ」
男が斜面の下を指し示した直後、遠くから再び重い轟音が響いた。
山肌を伝ってきた振動が足元の土を僅かに震わせ、木々の枝葉がざわめく。
「……っ」
トゥワイスの腕の中で、壊理の身体がびくりと強張った。
出久は反射的にそちらを見る。
先ほどまでラビット・ホーンの話を楽しそうにしていた表情は消え、壊理はトゥワイスの服を小さな手で掴みながら、音がした方向へ不安そうな視線を向けていた。
無理もない。
目を覚ました時には巨大な怪物が暴れ、周囲では警察やヒーローが入り乱れて戦っていた。
その直後から今度は山中を走り続け、ようやく足を止めたと思えば、また正体の分からない男が現れたのだ。
自分たちならともかく、壊理にこれ以上付き合わせるには酷すぎる。
それに、いつ警察や雄英が追跡を再開するかも分からず、マキアがこちらへ来ない保証もない以上、ここに留まり続けること自体が危険だった。
男の話が本当だという保証はない。
だが、現状より悪くなる可能性だけを考えて何も選ばなければ、結局は山の中を当てもなく逃げ続けることになる。
出久は数秒だけ考え、やがて構えていた身体から少し力を抜いた。
「……分かりました」
「いいね、助かるよ」
男は僅かに首を傾げてからそう答え、そのまま斜面を下り始めた。
連合の面々も一定の距離を空けながら後を追う。
先頭には男、その数メートル後ろを出久とスピナーが歩き、中央に壊理を抱えたトゥワイスとトガ、お茶子、ラブラバ。左右をマグネとコンプレスが警戒し、ジェントルが最後尾から後方を確認する形になった。
誰も男へ背中を預けてはいないし、男自身もそれを理解しているらしく、振り返って急かしたり、不用意に距離を詰めたりはしなかった。
途中、何度か枝や倒木が行く手を塞いだものの、そのたびに男は足元へ淡い光輪を浮かべ、僅かに身体を持ち上げて障害物を越えていく。
そうしてしばらく斜面を下っていくうちに木々の密度が薄くなり、湿った土の匂いへアスファルトの熱と排気ガスの臭いが混じり始めた。
藪を抜けた先には細い山道があり、そこには本当に一台の車が停まっていた。
「……ある」
トゥワイスが妙に感心した声を出す。
「嘘だと思ってたのか?」
「九割くらいな!」
「ほぼ信じてねえじゃん」
男が呆れたように答えた。
停められていたのは黒い大型の乗用車で、一般的なミニバンより一回り大きく、車高も高い。
外見には企業名や組織を示すようなものはなく、ナンバープレートにも特に目立った特徴はないうえ、窓には濃いスモークが施されているため、外から内部を覗き込むことも難しかった。
男が後部のスライドドアを開けると、連合の面々は互いに視線を交わしながら順番に車へ乗り込んでいった。
最初にトゥワイスが壊理を抱えたまま後部座席へ入り、その隣へトガとラブラバが続く。
マグネとコンプレス、スピナーも車内を警戒しながら乗り込み、ジェントルとお茶子が最後尾側へ収まった。
出久だけは乗る直前に一度、運転席へ視線を向けた。
そこには見知らぬ男が座っている。年齢は四十前後だろうか。
帽子を深く被っており、こちらを一瞥しただけで何も言わない。
車内に拘束具らしきものは見当たらず、少なくとも見える範囲に武器もない。
それでも出久は完全には警戒を解かず、何かあった時にはすぐ外へ飛び出せる位置を選んで腰を下ろした。
全員が乗ったことを確認すると、フードの男は助手席へ回り込む。
「全員乗ったな。出してくれよ」
後ろを振り返って人数をざっと確認してから運転席へ顎を向けると、運転手は無言で頷いた。
エンジンの音が僅かに高まり、黒い大型車はゆっくりと山道を走り始める。
窓の外では、先ほどまで自分たちが潜んでいた森が後方へ流れていった。
誰もすぐには口を開かなかった。
つい数分前まで警察と雄英から逃げ回っていたのだから当然ではあるが、車内の空気は妙に重く、トゥワイスでさえ珍しく黙っている。
そんな空気を気にした様子もなく、フードの男は助手席へ深く腰を下ろした。
「まあ、先に言っとくとな。今から、うちのボス的な人に会ってもらう」
その言葉に何人かの視線が一斉に集まり、特にスピナーがすぐさま食いついた。
「ボス的な人? 的な、って何だよ。ボスなのか違うのかどっちだ」
「その辺の呼び方がちょっと面倒なんだよ。立場としては一番偉い……いや、一番偉いって言うとまた違うか」
男は自分でも説明しづらそうに頭を傾ける。
「とにかく、俺より遥かに話が通じる人だ。お前らを招いたのもその人だし、詳しい説明もそっちから聞いた方が早い」
「じゃあ、あなたは何も説明しないつもり?」
マグネが眉を寄せると、男は困ったように肩を竦めた。
「しないんじゃなくて、できないんだって。俺の判断で話せることって、あんまりないんだよ。勝手にペラペラ喋ると怒られちまうからな」
「さっき来たら答えるって言ってなかったか?」
スピナーの声が少し低くなる。
「質問には答えるって言った。でも、答えられないものは答えられない」
「詐欺師みてえなこと言いやがって」
スピナーが苛立たしげに吐き捨てる横で、出久は男の後頭部をじっと見ていた。
組織の名前も目的も分からず、自分たちの居場所を把握していた理由についても説明されていない。
この男は先ほどから会話そのものを拒絶しているわけではないのに、肝心な部分だけを巧妙に避けている。
「……貴方は何者なんですか?」
男の肩が僅かに動いた。
「俺?」
「組織のことを話せないなら、貴方自身のことなら話せますよね。名前まで無理なら、それでもいいです。どういう立場で、どうして僕たちを迎えに来たのかくらいは教えてください」
出久が視線を逸らさず尋ねると、男は納得したように頷き、少し考えてから窓の外へ目を向けた。
「俺は、その組織の遣い走りだ。特に語るような肩書もないな。あと、一応……かなりマイナーだけど、ヒーローもやってる」
一瞬、車内が静まり返った。
「…………は?」
最初に声を漏らしたのはトゥワイスだった。
男が振り返る。
「ヒーロー」
「マジか!?」
トゥワイスの大声が車内へ響き、壊理が驚いて肩を震わせる。
「おい止めろ! 下ろしてくれ! 罠だ! やっぱ罠だった!」
「落ち着けって」
「ヒーローの車にヴィラン全員乗ってんだぞ!? 落ち着けるか!」
トゥワイスは本当にドアを開けようと身体を捩ったが、壊理を抱えているせいで上手く動けず、余計に慌て始める。
「待て待て、走ってる最中だぞ。危ねえだろ」
男は小さく息を吐いてから、後部座席へ身体を少し捻った。
「そもそも、そんなに警戒しなくてもいいだろ。連合にも現役のヒーローがいるんだろう?」
その一言で、先ほどまで騒がしかった車内の空気が目に見えて変わった。
ほんの僅かな反応だったが、出久には分かる。
コンプレスの指先が止まり、マグネが目を細め、スピナーも先ほどまでの騒ぎを忘れたように男を見た。
男はそれを見逃したのか、それとも気づいていて敢えて触れないのか、変わらない口調で続ける。
「俺だけ特別ってわけじゃないだろ? ヒーローを続けながらヴィランと付き合ってる奴がいるって聞いてるんだけどな」
「いませんよ」
出久は間を置かずに答えた。
男がこちらを振り返る。
「ん?」
「連合に現役のヒーローなんていません」
その返答に迷いは見せなかった。
ナガンの存在を、この男へわざわざ教える理由はない。
そもそも相手がどこまで連合について知っているのかも分からず、ナガンについて具体的な情報を持っているのではなく、こちらの反応を確かめるために探りを入れている可能性も十分に考えられる。
ここで余計な反応をすれば、相手の質問へ答えるどころか、自分たちの側から重要な情報を与えることになる。
男はしばらく出久の顔を見つめていたが、それ以上追及することなく前へ向き直った。
「……あっそう」
男が前へ向き直ってからも、出久はその背中をじっと見つめ続けていた。
現役のヒーローだという話が本当なら、知名度が低かろうと何らかの活動記録は残っているはずだ。
まして、先ほど山中で見せた空中移動はかなり特徴的だった。
両足の下へ光輪を形成し、浮力を得る個性など、そう何人もいるとは思えない。
ただ、今の男の姿からヒーローを連想するのは難しかった。
深く被ったフードに、どこにでもありそうな上着とパンツ。
顔もまともに見えず、街中ですれ違ったところで一般人として見過ごしてしまいそうな格好であり、ヒーローらしい装備や意匠と呼べるものは一つもない。
足元へ現れるあの光輪だけが、唯一それらしい特徴だった。
出久は少し迷ってから口を開く。
「そのフードで、いつもヒーローとして活動してるんですか?」
「ん?」
男が肩越しにこちらを見た。
「いや、流石に違うって」
質問の意図に気づいたらしく、小さく笑う。
「ヒーロースーツはもうちょっとヒーローっぽいやつだ。流石にこの格好で街中飛び回ってたら、不審者と区別つかねえだろ」
「今も十分不審者だけどな」
スピナーが横から口を挟むと、男は「それは否定しねえ」とあっさり認めた。
「ただ、俺、ああいうピチッとしたスーツってあんまり好きじゃねえんだよな。身体の線が全部出るやつ。なんかダサくないか?」
「全国のヒーローとそのオタクを何人か敵に回したぞ。ちなみにうちのボスがそのオタク君だ」
コンプレスが呆れたように言う。
「いやいや、似合う奴は似合うよ。オールマイトとか。でも俺は着たくねえな。ほら……トイレとかどうしてんだって思わねえ?」
「オールマイトはトイレなんかしない」
ほとんど間を置かずに返した出久に、男は一瞬きょとんとしてから吹き出した。
笑いながら前へ向き直る男を見つめつつ、出久は頭の中に蓄えてきた記憶を探っていた。
先ほど見た光輪を使った空中移動。
本人が言うには、かなり知名度の低い現役ヒーロー。
年齢も声から判断する限り、それほど上ではない。
有名な飛行系ヒーローではないことは間違いない。
ホークスのように翼そのもので飛ぶタイプとは根本的に異なり、挙動だけならアメリカのザ・スカイクロウラーに近いところがあるものの、こちらは足元に明確な光輪を形成している。
どこかで見たことがある。
そんな感覚が、先ほどから頭の片隅に引っかかっていた。
「……」
出久が黙り込んでいることに気づいたのか、男が再び肩越しに振り返った。
「何だよ、その顔」
「いえ……」
「もしかして、俺が誰か当てようとしてる?」
図星だった。
出久が答えるより先に、男は吹き出すように笑う。
「無理無理。めっちゃマイナーだから、俺」
自虐することに慣れているのか、本人は特に気を悪くした様子もなく、むしろ少し楽しそうだった。
「緑谷出久がヒーローオタクなのは聞いてるけど、流石に俺まで知ってたら引くぞ」
その言葉によって、かえって出久の記憶にあった曖昧な輪郭が形を持ち始めた。
地方で活動する若手で、特徴的な光輪を使う飛行系の個性。それでいて、本人が自認するほど知名度が低い。
以前、地方で発生した災害について調べていた時、似た個性を使うヒーローの記事を見た記憶がある。
確か、山間部で発生した土砂災害だった。
崩落によって道路が寸断され、救助隊が直接近づけなくなった区域から住民を避難させるため、何人かの地方ヒーローが投入されていた。
その記事の片隅に、足元へ円形の光を浮かべながら空中を移動し、被災者を運んでいる若いヒーローの小さな写真が掲載されていたはずだ。
記事そのものは決して大きくなく、中心として扱われていたのも別のヒーローだった。
その人物について書かれていた文章も、恐らく数行程度しかなかったと思う。
それでも覚えている。
飛行系としては珍しい個性だったこともあるが、何より、そのヒーロー名が妙に印象へ残っていた。
確か──。
「……ヘイロー」
ほとんど独り言のように名前が漏れた瞬間、助手席から妙な音がした。
「ぶっ──!」
男が盛大に吹き出した。
「え?」
出久が顔を上げるより早く、男は勢いよく後部座席へ身を乗り出してくる。
「はぁ!?」
「うわっ」
突然距離を詰められた出久が反射的に身体を引いたが、男はそんな反応など気にも留めず、フードの奥から信じられないものを見るように出久を凝視していた。
「お前、知ってんの!? やばいな、ドン引きだ」
声まで僅かに裏返っている。
先ほどまで見せていた余裕のある態度は完全に消え、助手席の背もたれへ片手をつきながら、ほとんど顔を突き合わせるような距離まで身を乗り出していた。
その反応を見たスピナーが目を丸くする。
「当たりっぽいな」
「俺の事知ってるやつなんか家族以外で初めてあったわ! ははっ、今度家で自慢させてもらうわ」
男はひとしきり笑ってから、改めて出久の顔をまじまじと眺めた。
「いやあ、本当にいるんだな。こういうヒーローオタク」
「記事で一度見ただけですけど……」
「それを覚えてる時点で十分だよ」
男は感心したように何度か頷いたものの、やがて何かを思い出したように「あー」と声を漏らすと、先ほどまでとは打って変わって少しだけ気まずそうに視線を逸らした。
「まあ、普通に登録してるヒーロー名だから、調べりゃ出てくるし、別に隠してるわけでもないんだけどさ。ただ……」
珍しく歯切れが悪い。
「ちょっと恥ずかしいんだよ、そのヒーロー名」
「じゃあ何で変えないの?」
ラブラバが尋ねると、男は少し考えてから肩を竦めた。
「面倒くさい。それに、知名度低いとはいえ活動地域じゃ多少は定着してるし、わざわざ変えるほど嫌ってわけでもないんだよ。ただ、こうやって面と向かって呼ばれると恥ずかしい」
「自分で付けたんじゃないのか?」
「昔の俺に言ってくれ」
スピナーの問いにげんなりした顔を返したあと、男は身体を半分だけ後ろへ向け、出久を指差した。
「だから緑谷、あんまりヘイローって呼ばないでくれ。頼むから」
「え、じゃあ何て呼べば……」
「ああ」
そこで初めて気づいたらしく、男は僅かに目を見開いた。
「名前も言ってなかったな」
先ほどまで出久へ向けていた手を下ろし、助手席へ座り直す。
それまでの軽薄さが消えたわけではなかったが、名乗る以上は一応形を整えようと思ったのか、男は深く被っていたフードへ手を掛け、そのまま後ろへ脱いだ。
現れたのは、出久が想像していた通り二十代前半ほどの若い男だった。
整った顔立ちではあるものの、目の下には薄く隈が浮かび、肌もあまり健康的とは言い難い。
とりわけ目元と首筋には乾燥したような荒れが目立ち、山中で何度かそこへ手を伸ばしかけていた理由も、単なる癖ではなかったらしい。
男は首元へ手をやりかけたものの、出久たちから視線を集めていることに気づくと、少し気まずそうにその手を膝へ戻した。
それから、改めて後部座席へ顔を向ける。
「改めて──ヘイロー。本名、志村転孤だ」
「志村……」
出久は無意識にその苗字を繰り返していた。
何かが引っかかる。
ヒーローに関する知識のどこかで、その姓を目にしたことがあるような気がした。
先ほど「ヘイロー」という名前を探り当てた時とは違い、今度は記憶を辿ろうとしても曖昧な感覚だけが残り、肝心の答えまでは浮かんでこない。
そもそも今は、考えなければならないことが多すぎた。
目の前にいる志村転孤という青年は、少なくとも表向きには現役のプロヒーローでありながら、正体も目的も分からない組織に所属し、その指示を受けて敵連合を助けに来たという。
それだけでも十分に異常な話なのに、その組織は自分たちの潜伏場所どころか、雄英と警察による襲撃が行われたことまで把握していた可能性が高い。
そして今、自分たちはその正体不明の組織が用意した車に全員揃って乗っている。
窓の外へ目を向ければ、山道の景色は絶えず後方へ流れていた。
引き返すなら、恐らく今が最後だ。
それでも出久は何も言わず、もう一度、助手席に座る志村転孤の横顔へ視線を戻した。