時間は、少しだけ遡る。
緑谷出久を捕まえると宣言してから数日、爆豪勝己は街中にある小さなヒーロー事務所から出てくると、背後で自動ドアが閉まるのを待つこともなく歩道へ踏み出した。
「……クソが」
ポケットから取り出したのは、何度も開閉したせいですっかり折り目の柔らかくなった一枚の紙だった。
そこには自宅から通える範囲を中心に、大小数十のヒーロー事務所が所在地や連絡先とともに書き出されており、その半分近くには既に大きなバツ印が付いている。
爆豪は今しがた出てきた事務所を見つけると、ボールペンでそこにも二本の線を引き、舌打ちしながら次の候補へ向かって歩き始めた。
ここ数日、ずっとこれを繰り返している。
雄英を辞めた現在の爆豪には、ヒーローとして活動するための免許がない。
仮免許試験を受けるところまでは雄英に在籍していたが、そこで不合格となり、その後に用意されていた補講を経て再試験を受けるより先に学校を去っている。
体育祭を始めとした過去の活躍から戦闘能力そのものは広く知られていたものの、資格を何一つ持たない高校中退の未成年を所属させ、現場へ出すことのできる事務所など当然ながら見つからなかった。
それどころか、面談まで辿り着けば決まって聞かれる質問がある。
『どうして雄英を辞めた?』
最初の数軒では事情をそのまま説明したが、ヴィランとなった元同級生を自分の手で捕まえるためだと答えれば、相手の反応はさらに悪くなった。
資格がないだけなら、今後の取得を前提に雑用や事務仕事を任せながら面倒を見てくれる事務所を探す余地もある。
しかし、所属そのものを出久へ近づく手段として利用するのではないかと疑われれば話は別であり、中には爆豪の戦闘能力を惜しみ、雄英へ復学できないのなら別のヒーロー科へ編入して正式な教育課程へ戻るべきだと勧めるヒーローもいた。
「……余計なお世話だ、クソ」
赤信号で足を止めた爆豪は、もう一度リストを開いた。
次の候補はここから徒歩十五分ほどの場所にある小規模な事務所で、所属しているヒーローも数人しかいない。
大手より融通が利く可能性があると考えて候補に入れた場所だったが、これまでの結果を見る限り、期待できる材料はその程度しかなかった。
それでも他に当てがあるわけではなく、信号が青へ変わると同時に紙を折り畳み、人の流れに混じって横断歩道を渡る。
以前の爆豪なら、自分を売り込むために何軒もの事務所を訪ね、そのたびに断られるなど耐えられなかっただろう。
しかし今は、自尊心を守ることよりも先にやるべきことがある。
いきなりヒーローとして雇わせることが無理なら最初は雑用でも構わず、働きながら免許を取得する道を探し、正規に現場へ立てるだけの資格と経験を手に入れるつもりだった。
問題は、そこまで条件を下げても自分を受け入れる理由を相手へ示せるかどうかだった。
そんなことを考えながらコンビニの前を通り過ぎようとした時、店内から怒鳴り声が響いた。
「どけぇッ!」
自動ドアを押し開くような勢いで飛び出してきたのは、顔の下半分を布で覆った大柄な男だった。
両腕には金属製の籠手に似た機械を装着し、背中のバッテリーらしき箱から伸びた太いケーブルがそれぞれの腕へ接続されている。
正規のサポートアイテムに似た構造ではあるものの、配線の一部が剥き出しになった粗雑な造りで、走るたびに固定の甘い部品がぶつかって金属音を立てていた。
男が胸の前に抱えているのは、千切れた配線を垂らしたコンビニのレジスターだった。
「誰か捕まえてくれ!」
遅れて店員が飛び出してきたことで、周囲の通行人も何が起きたのかを理解したらしい。
歩道を塞いでいた人々が左右へ逃れるなか、男はレジを抱えたまま速度を落とさず、避けきれない者を肩で押し退けながら走っていく。
通りがかった会社員が咄嗟に腕を伸ばすと、男は片腕の装置をそちらへ向けた。
「触んな!」
籠手の先端から青白い火花が散り、破裂音とともに会社員が慌てて手を引いた。
爆豪は眉間へ皺を寄せた。
今の自分には、目の前のヴィランを追う資格がない。
雄英にいた頃なら教師やプロヒーローの監督下で事件へ関わる余地もあったが、今は学校との関係もなく、免許も持っていない。
ここで個性を使ってヴィランを追えば、正当なヒーロー活動ではなく無資格者による個性の行使として扱われる可能性があり、ただでさえ難航している事務所探しを自分から潰すことにもなりかねなかった。
「チッ……」
爆豪は逃走する男を睨みながらも動かなかった。
周囲では既に誰かが警察へ通報している。
近くにヒーローがいれば間もなく駆けつけるはずなのだから、自分が割って入る必要はない。少なくとも、今の立場ならそれが正しい。
その時、逃げ惑う人々の中に一人だけ周囲の動きについていけていない者がいることに気づいた。
杖をついた老婆だった。
歩道の端をゆっくり進んでいた老婆は、人々が突然左右へ散ったことを不思議に思ったらしく、足を止めて辺りを見回している。
その背後からレジを抱えた男が迫っていたが、まだ気づいていない。
「危ない!」
通行人の叫び声を聞いて老婆が振り返る。
「え……?」
男との距離は既に十メートルもない。
老婆は慌てて道を空けようとしたものの、急に身体を動かしたことで杖の先が路面を滑り、体勢を崩した拍子に男の進路上へよろめき出てしまった。
「ババア、どけぇッ!」
男は怒鳴ったが、勢いを緩めようとはしない。
爆豪の視線が、老婆の手から離れて路面へ落ちた杖を捉えた。
「クソがッ!」
直後、掌から噴き出した爆炎が空気を叩いた。
反動で一気に加速した爆豪は逃げ惑う通行人の頭上を越え、老婆へ迫る男との距離を瞬く間に詰めていく。
爆発音と罵声に気づいた強盗が振り返り、突然迫ってきた爆豪の姿に驚いて僅かに足を鈍らせた。
「邪魔なんだよ、クソモブがァ!」
もう一度掌を開き、老婆との間へ割り込むために爆発の向きを調整しようとした、その瞬間だった。
「──あ?」
胸元に奇妙な圧迫感が走ったかと思えば、シャツからズボンまで、身につけている衣服そのものが一斉に動き始めた。
「ぐっ!?」
襟元が首へ食い込み、両袖が腕を締め上げる。背中側へ引かれた生地に姿勢を崩され、さらにズボンまで太腿へ巻きついたことで、空中で体勢を制御していた手足の自由が一気に奪われた。
爆豪は反射的に掌の向きを変えようとしたが、捻れた袖に腕を引かれて狙いが逸れる。
「ッ、なんだこりゃあ!?」
爆発が斜め下へ噴き出し、その反動で身体が横向きに弾かれた。
腕を十分に前へ出せないまま肩から歩道へ落下し、そのまま数メートルほど舗装の上を転がって止まる。
「ぐッ……何しやがった……!」
服に拘束されたまま顔を上げた爆豪は、強盗が何かしたのかと疑ったものの、あの籠手が発生させていたのは放電の類であり、こちらへ装置を向けた様子もない。
なら、別の誰かがいる。
そう判断した直後、強盗が再び老婆へ向かって走り始めた。レジを片腕で抱え直し、空いた手を前へ突き出す。
「邪魔だ、どけッ!」
「ババア!」
爆豪の叫びと男が腕を振り出すのはほぼ同時だった。
しかし、その手が老婆へ届くより早く男の上着が後方へ引き絞られ、袖と裾が身体へ巻きつく。
さらにズボンまで脚の動きを封じたことで、男は盛大につまずき、抱えていたレジを放り出しながら歩道へ倒れ込んだ。
「クソッ、なんだこれ! 脱げねえ!」
起き上がろうともがく男を見て、爆豪は自分の身体へ食い込んでいる服へ目を落とした。
「……チッ」
誰が介入したのか、おおよその見当がついたところで周囲から歓声が上がる。
「お、おいあれ!」
「本物!?」
「マジかよ! 俺ファンなんです!」
「ベストジーニスト!」
人垣の向こうから現れたのは、全身をデニムで包み、高く立てた襟で口元まで覆った長身の男だった。
「……」
ヒーロービルボードチャート三位、ベストジーニスト。
よりにもよって、かつて職場体験で世話になった相手との再会に、爆豪の苛立ちがそのまま声となって漏れた。
ベストジーニストは周囲から向けられる歓声へ軽く片手を上げて応じながら、乱れた前髪を指先で整える。
「片手間故、乱暴な捕り物となってしまった事、謝罪しよう」
まず強盗のもとへ向かい、衣服で動きを封じたまま両腕を拘束バンドで固定すると、籠手型の装置も操作できないよう腕ごと追加のバンドで留める。
逃走も反撃も不可能になったところでようやく個性を解除し、続いて老婆のもとへ向かった。
「マダム、私が」
「あら……ありがとうございます」
落ちていた杖を拾って手渡し、身体を支えながら立ち上がらせる。
強盗に触れられる前に制止できたこともあり、老婆に怪我はない。
それを確認したベストジーニストは僅かに目元を和らげた。
「マダム、お怪我がないようで何よりです。素敵なお召し物にも、傷一つありません」
「あらまあ……ありがとうございます、ヒーローさん」
「礼には及びません。どうかお気をつけて」
老婆から手を離すと、事件の収束を見守っていた群衆から改めて拍手が起こった。
強盗の身につけていた籠手から微かに電子音が鳴り、ボンッと軽く破裂した事には誰も気付かない。
その頃には爆豪の服に掛かっていた力も消えていた。試しに肩を動かしてみれば何の抵抗もなく腕が上がったため、片手を地面について立ち上がると、助けられたことへの礼を口にすることもなく、人垣を抜けて次のヒーロー事務所がある方向へ歩き始めた。
「クソが、捻り上げやがって……」
大通りから一本外れた路地へ入ったところで悪態を吐き、転倒した際に打ちつけた右肩を大きく回す。
骨や筋を傷めた感覚はなかったものの、衣服で無理な方向へ引かれた肩甲骨の辺りには妙な張りが残っていた。
「いってぇな……あのジーパン野郎」
「待ちなさい」
背後から聞き覚えのある声が届いた。
爆豪が眉間へ皺を寄せながら振り返ると、路地の入口からベストジーニストが歩いてくる。
強盗の身柄は既に警察へ引き渡したらしく、先ほどの群衆もついてきてはいない。
「職場体験ぶりだな、爆豪」
雄英一年の体育祭を終えた後、爆豪は数多く届いた指名の中からベストジーニストの事務所を職場体験先に選んでいる。トップヒーローから戦闘技術を学べると考えて出向いた爆豪を待っていたのは、ヒーローとしての品格や立ち居振る舞いについての説教と、本人の意思を無視した髪型の矯正だった。
「ずいぶんと久しい再会になった。もっとも、先ほどのような形で顔を合わせることになるとは思っていなかったが」
爆豪は答えず、近づいてくる男を威嚇するように睨みつけた。
「俺の事も捕まえるってのか? 往来で派手に個性使ったからよお」
「半分正解だ」
「……あ?」
「君は仮免許すら持っておらず、もはや雄英の生徒でもない。だというのに往来で個性を使用し、人に向けようとした事は憂慮すべきだ」
「分かってんだよ、んなことは。だから捕まえるんなら──」
「だが、君が罵声を上げつつ迫ったおかげで、強盗の動きが一瞬鈍った」
「……は?」
「あの男はマダムへ接触する直前、背後から急速に接近する君へ注意を向けた。ほんの僅かな時間ではあったが、そのおかげで私も余裕を持って双方を制止できた」
ベストジーニストはそこで言葉を切り、爆豪を真っ直ぐに見た。
「マダムは怪我をせずに済んだ。よくやった」
「…………あ?」
無免許で個性を使った以上、説教されることは覚悟していた。
しかし最後に褒められるとは思っておらず、爆豪はしばらくベストジーニストを見つめたまま、普段なら反射的に飛び出す悪態さえ口にできなかった。
「……そーかよ」
結局、それ以上考えることを放棄するように答えると、ベストジーニストへ背を向ける。
「説教が終わったならもういいよな」
まだ訪ねる予定の事務所は残っている。そう考えて歩き出した途端、背中のシャツが急に引き絞られた。
「ぐおっ!?」
襟が後ろへ引かれるのと同時に両袖が捻れ、ただでさえ痛めていた右肩まで締め上げられる。
「いってえな! 何のつもりだクソジーンパン野郎!」
「ジーンパンではない。せめて正しく罵りたまえ」
「どうでもいいわ! さっさと離せ!」
爆豪が拘束から抜けようと肩を捻れば、それに合わせて繊維が動き、今度は両腕を背中側へ引き寄せた。
忌々しそうに睨む爆豪の正面へ回り込み、ベストジーニストは平然と告げる。
「君の目の前にいるのはナンバー3ヒーローだぞ。知らぬ仲でもない。なぜ利用してやろうと思えんのだ?」
「……あァ?」
「君は今、雇ってくれて経験を積ませてくれる場所を探している」
「なんでテメェが──」
「先ほど君が出てきた事務所を偶然見ていてな。その後も折り畳んだ紙を何度か確認していた。雄英を辞め、仮免許すら取得していない君がヒーロー事務所を訪ね歩いているとなれば、目的を推測することは難しくない」
爆豪は否定せず、眉間の皺だけを深くした。
「だからなんだよ」
「幼馴染とは違って、正規の手段で、ということなのだろう?」
その一言で、爆豪の表情が変わった。
「……デクのこと知ってんのか」
「無論だ。緑谷出久が現在どういう立場にあり、何をしているのか。ヒーローである私が知らないとでも?」
ベストジーニストはそこで出久についての説明を打ち切った。
「君は彼を追うためにヒーローになろうとしている。しかし無免許のまま勝手に追えば、君自身も法を逸脱することになる。それを避けるため、正規に活動できる立場を得ようとしているわけだ」
「……だったらなんだ」
「その方法で何軒断られた?」
爆豪は答えなかったが、ポケットの中で無意識に握り締めた紙が僅かに音を立てた。
ベストジーニストは追及せず、爆豪の服に掛けていた力を緩める。
「君が今まで訪ねた事務所の判断を、私は間違っているとは思わない。資格を持たない未成年を預かり、特定のヴィランを追う目的があると知ったうえで経験を積ませるとなれば、相応の責任が発生する。戦闘能力だけを見て受け入れられる話ではない」
「……じゃあ何が言いてぇんだよ」
結局は他の事務所と同じ話ではないかと爆豪が吐き捨てると、ベストジーニストは額へ垂れかけていた金髪へ指を差し入れ、軽く梳いて形を整えた。その手を流れるような動作で爆豪へ向け、人差し指を真っ直ぐ突きつける。
「うちの事務所に来い、爆豪」
ずびし! と、効果音でも付きそうなほど綺麗に決められ、爆豪は思わず目を瞬いた。
「…………は?」
「私が最高の環境で最高の経験を積ませてやろう」
「いや待てや。テメェ今、他の事務所が俺を断んのは間違ってねぇっつったばっかだろうが!」
「その通りだ」
「だったらなんでテメェんとこはいいんだよ!」
「私だからだ」
「説明になってねぇ!」
爆豪の怒声が路地に響いた。
もっとも、完全な暴論というわけでもない。
ナンバー3ヒーローが率いる事務所なら、爆豪がこれまで訪ねてきた小規模な事務所とは抱えている人員も設備も違い、何よりベストジーニスト自身が職場体験を通じて爆豪の能力も性格も直接知っている。
それでも、わざわざ自分から厄介事を抱え込む理由にはならない。
「……なんでそこまですんだよ」
「ふむ」
ベストジーニストは顎へ手を添え、少しだけ考えるような間を置いた。
「私も雄英在学時は、なかなかのやんちゃ小僧でな」
「…………は?」
服装から髪型、言葉遣いに至るまで身だしなみを徹底し、職場体験に来た生徒の髪型まで強引に七三分けへ矯正した男である。
その本人から「やんちゃ小僧」などという言葉が出てくるとは思わず、爆豪の顔から一瞬だけ険が消えた。
「人には歴史というものがある。私とて最初からベストジーニストだったわけではない。若き私は差し詰めダメージジーンズと言ったところか」
(ダメージジーンズ?)
そう付け加えながら、ベストジーニストは僅かに乱れた前髪を再び整えた。
「私にも、周囲の言葉へ素直に耳を傾けられなかった時期があった。それでも道を外れずに済んだのは、見捨てずに面倒を見てくれた者がいたからだ」
爆豪は口を挟まなかった。
「まあ、その時の恩師への恩返し代わりだ」
ベストジーニストはそれ以上昔話を続けることなく、改めて爆豪を見る。
「もちろん、君を無条件で現場へ放り出すという意味ではない。今の君には資格がない以上、できることとできないことは明確に分ける。必要な教育も受けてもらうし、仮免許を取得するための道筋もこちらで用意する。それまでは事務所内の業務と訓練を基本とし、現場へ同行させる場合も無資格者に認められた範囲を越える行動はさせない」
「……」
「正式に活動できる資格を得たなら、その時から相応の仕事を任せよう」
それは、ここ数日どれだけ探しても見つからなかった条件だった。
しかも相手は爆豪の個性も性格も知っており、扱いづらさについて今さら説明する必要さえない。
「どうする、爆豪。まだその紙に書かれた事務所を一軒ずつ回るか。それとも、私を利用するか」
爆豪はポケットから紙を取り出し、今日までに引いた無数のバツ印と、その下に残った十数軒の事務所を数秒ほど眺めた後、乱暴に折り畳んだ。
「……チッ。分かったよ」
「何がだね?」
「行くっつってんだよ! 二度も言わせんな!」
苛立ちをぶつけるような返事だったが、ベストジーニストは気を悪くした様子もなく、小さく頷いた。
「結構。では行こう」
「今からかよ」
「善は急げと言うだろう。それに、これ以上その紙に無用なバツ印を増やす必要もあるまい」
言い終えると同時にベストジーニストは路地の出口へ向かい、爆豪も折り畳んだ紙をポケットへ押し込んで後に続いた。
思い返せば、ベストジーニストの事務所へ行くのは職場体験以来となる。
当時は数多くのプロヒーローから届いた指名の中で、ランキング上位の実力者という理由から選んだものの、実際に待っていたのは戦闘訓練よりもヒーローとしての品格や立ち居振る舞いについての指導であり、髪まで勝手に整えられた記憶が強烈に残っている。
「先に言っとくけどよ、髪弄ったらブッ飛ばすからな」
「何の話かね?」
「すっとぼけんな!」
そんなやり取りをしながら大通りへ戻り、しばらく歩いたところでベストジーニストが足を止めた。
「着いたぞ」
爆豪が視線を上げると、そこに建つ事務所は、ここ数日訪ね歩いてきた小規模なヒーロー事務所とは外観からして違っていた。
街路に面した建物は大きなガラス面と直線を基調とした現代的な造りで、派手な装飾や巨大な広告看板こそないものの、外壁から入口のサインに至るまで統一感があり、ナンバー3ヒーローの拠点に相応しい格を備えている。入口付近にはベストジーニストの名前とエンブレムが控えめに掲げられ、自己主張の強い看板を並べるよりも建物全体の印象を整えることが優先されていた。
八年連続でベストジーニスト賞を受賞している男だけあって、身だしなみに対する拘りは事務所全体にも行き渡っているらしい。
自動ドアを抜けた先のエントランスには無駄な物が置かれておらず、来客用のソファや受付カウンター、壁面の写真や観葉植物まで含めて綺麗に配置されていた。
「相変わらず気取った事務所だな」
「洗練されていると言いたまえ」
「どっちでもいいわ」
「言葉の選択は人間性という生地を仕立てる糸の一つだ。決してどうでもよくはない」
「入って三十秒で説教始めんじゃねえ!」
爆豪の怒声がエントランスに響き、受付にいた女性が一瞬こちらを見たものの、ベストジーニストは何事もなかったように奥へ進んでいく。
その途中で何人かのサイドキックとすれ違った。
「ジーニストさん、お疲れ様です!」
「お疲れ様です!」
「ああ、ご苦労」
ヒーローコスチューム姿の者は機能性を保ちながら全体のシルエットが崩れないよう装備をまとめ、書類を抱えて歩いている者もシャツやジャケットをきちんと着こなしている。
髪や服装を無造作なままにしている者は見当たらず、ベストジーニストほど極端ではないにせよ、彼の美意識は部下たちにも相応に浸透しているようだった。
そんな彼らも、ベストジーニストの数歩後ろを歩いている人物へ気づくと、僅かに反応を変えた。
「……あれ?」
一人の若いサイドキックが爆豪を見て目を瞬かせ、隣にいたヒーローも同じように一度だけ視線を向けた。
雄英体育祭で派手に暴れ、表彰式では拘束された状態で一位の表彰台に立たされた爆豪の顔は、ヒーロー業界の人間なら知っていても不思議ではない。
まして以前この事務所へ職場体験に来ていたことを知る者なら、本人だと気づくのは難しくなかった。
「……んだよ」
視線を感じた爆豪が睨み返すと、若いサイドキックは慌てて首を横に振った。
「いや、別に。お疲れ様です!」
「俺は疲れてねえ!」
「挨拶だ、爆豪」
「知ってるわ!」
ベストジーニストは歩みを止めないまま、すれ違ったサイドキックへ視線を向けた。
「彼については後ほど説明する。今は各自、仕事へ戻りたまえ」
「はい!」
返事は素早く、サイドキックたちはそれ以上爆豪について尋ねることなく、それぞれの持ち場へ戻っていった。
「……随分しつけてんな」
「しつけとは感心しない表現だな。彼らは私の部下である以前に、それぞれ資格を持って活動するプロヒーローだ」
そう言いながらベストジーニストは部屋の奥に置かれた自分のデスクへ向かい、脇にある鍵付きの引き出しを開けると、数枚の書類をまとめたファイルを取り出した。
「まずはこちらだ」
書類をデスクの中央へ置き、向かい側にいる爆豪の方へ滑らせる。
「事務所への雇用に関する契約書だ。君にはサイドキック候補として所属してもらうが、資格を取得するまでは事務所内での業務と訓練が中心になる。現場へ同行する場合も見学や後方での補助など、法令上認められた範囲を越える活動は認めない」
「さっき聞いた」
「ならば話は早い。条件については全て記載してあるから、確認したうえで署名したまえ。未成年である以上、正式な手続きには保護者の確認も必要になるが、まずは君自身が内容を理解し、同意しておくべきだろう」
「チッ……親に連絡すんのかよ」
「当たり前だろう」
爆豪は書類を手に取り、一枚目から目を通し始めた。
雇用期間、勤務時間、報酬、事務所内で担当する業務、訓練施設の利用規則、機密保持義務。
さらに無資格の状態では単独でヒーロー活動を行わないことや、現場へ同行した場合もベストジーニストを始めとする有資格者の指示に従うことが細かく定められている。
ここ数日訪ね歩いた事務所でも似たような話は何度か聞いていたため、特に理解できない部分はなかった。むしろ仮免許取得へ向けた訓練時間まで勤務予定の中に組み込まれ、事務所に所属するヒーローやスタッフから指導を受けられることまで明記されており、資格を持っていない今の爆豪が得られる環境としては十分すぎるほど条件がいい。
爆豪が契約解除に関する項目へ目を通している間に、ベストジーニストは何気ない手つきでデスクの端へ整髪剤を一本置いた。
爆豪が気づかないまま次の項目へ進むと二本目のワックスが加わり、その次には細身の櫛、さらにスプレータイプの整髪料と、契約書を読み進めるたびに身だしなみを整えるための道具が一つずつ増えていく。
ベストジーニストは一言も発さず、それぞれの容器の正面が綺麗に爆豪側へ向くよう角度を揃え、僅かに位置のずれた櫛まで数ミリ単位で修正していた。
爆豪はまだ気づいていない。
数日前まで受け入れてくれる事務所すら見つからなかったことを考えれば、ここで妙な見落としをするつもりはなかった。
報酬や勤務時間だけでなく、違反時の処分や事務所側が負う責任についても確認しながら読み進め、やがて最後のページへ到達する。
「……こんなもんか」
最終ページの下部には署名欄があり、その横にはベストジーニスト側の署名が既に記されていた。
爆豪はデスクに置かれていたペンへ手を伸ばし、そのまま名前を書こうとして手を止めた。
「…………」
署名欄のすぐ上、契約事項の末尾に小さな文字で一行だけ記されている。
『服装については雇用主の指定に従うものとする』
爆豪は無言のまま顔を上げた。
ベストジーニストはデスクの向こうで両手を組み、実に落ち着いた様子で座っている。
その右側には、いつの間に用意したのか分からない整髪剤と櫛が綺麗に並べられていた。
「なにか?」
「なんだこのふざけた一文は!」
爆豪は契約書を持ち上げると、最後の隅に記された一文を指で叩いた。
その声量に事務所内の何人かが振り返ったものの、ベストジーニストは動じることなく問題の箇所へ目を落とし、小さく呟く。
「……気付かれたか」
「聞こえてんぞ!」
「しかし、契約内容を隅々まで確認する姿勢は評価しよう。理解しないまま署名するのは感心できないからな」
「こんなところに罠仕込んだ奴が言うんじゃねえ!」
「罠ではない。双方が合意すべき正式な雇用条件だ」
「だったら堂々と書けや!」
爆豪は契約書をデスクへ戻し、いつの間にか一式揃っていた整髪剤や櫛へ目を向けた。
職場体験で強制された七三分けを思い出すには十分すぎる光景である。
「……先に言っとくぞ。絶対にあのクソダセェ七三にはしねえからな」
「私はまだ髪型を指定していないが?」
「その櫛持って言ってみろや!」
ベストジーニストは手にしていた櫛を一度見てから、何事もなかったようにデスクへ置いた。
「ならば選びたまえ、爆豪。服装の自由を手放して私の事務所で経験を積むか、それとも、この契約を断って再び路頭に迷うか」
「テメェ……」
「記載してある以上、条件を隠してはいない。君が私の事務所で働くなら、ヒーローとしての能力だけでなく身だしなみも私の指導対象になる。それを受け入れられないのであれば、署名する必要はない」
「文字ちっせぇんだよ!」
「読めたのだから問題あるまい」
「あるわ!」
爆豪は契約書とベストジーニストを交互に睨んだ。
ポケットには、今日までにいくつものバツ印を書き込んだ事務所のリストがまだ入っている。
「ぐぐぐぐぐ……」
「時間ならある。よく考えたまえ」
「その余裕ぶったツラがムカつくんだよ……!」
爆豪はペンを掴んだものの、すぐには書き始めなかった。署名欄のすぐ上にある例の一文をもう一度確認し、隣に並べられた整髪料へ恨めしげな視線を送ってから、とうとう腹を括ったようにペン先を紙へ押しつける。
「……クソがァ」
普段なら数秒で済む自分の名前を苦々しげに書き終え、爆豪はペンをデスクへ放った。
「書いたぞ! これで文句ねえだろうが!」
「結構」
ベストジーニストは契約書を引き寄せ、署名に不備がないことを確認してから丁寧にファイルへ収めた。
「では、あとは保護者の確認を得れば正式に手続きは完了だ。歓迎しよう、爆豪。君自身の意思については、これで確認できた」
「……覚えてろよ、テメェ」
「何をだね?」
ベストジーニストはそう尋ねながら、デスクの端に並べた整髪剤の中から一本を手に取った。
爆豪の眉間に、深い皺が刻まれた。