小さく舌打ちが漏れる。
さっきまで頭を埋め尽くしていた体育祭の熱が、一気に冷えていく。
胸の奥へ、嫌な重さが沈んだ。
(またか……)
AFO。
青山。
黒い装甲。
USJ。
せっかく忘れかけていたものが、無理やり引きずり戻される。
出久は、メモ帳を閉じた。
さっきまで必死に書き込んでいた作戦メモ。
『障害物競走』
『騎馬戦』
『対かっちゃん』
そんな文字達が、急に遠く感じる。
「……」
深く息を吐く。
そして。
出久は、スマホをポケットへ突っ込むと、校舎脇の通路へ足を向けた。
夕方の雄英は、人が減っていた。
談笑しながら帰る経営科の集団。
グラウンドから聞こえる訓練音。
そんな喧騒から少し離れるだけで、校舎裏は急に静かになる。
コンクリートの壁。
長く伸びる影。
風に揺れる木々。
そして。
校舎の片隅。
半ば物置みたいに置かれた、小さな用具倉庫。
「……ここ」
出久は、足を止める。
古びたスチール製の扉。
脇へ積まれたコーン。
砂埃。
人の気配は、ない。
「……?」
出久の眉が寄る。
誰もいない。
物音もしない。
だが。
呼び出しておいて、誰もいないとは思えなかった。
「……青山君?」
小さく呼ぶ。
返事はない。
風が吹き抜けるだけ。
出久は、ゆっくり周囲を見回した。
倉庫裏。
植え込み。
物陰。
隠れられそうな場所を、一つずつ確認する。
「……」
誰もいない。
茂みを覗く。
倉庫裏へ回る。
給水ホースの陰。
積み上がったマットの隙間。
だが。
やはり、人影はなかった。
「なんだよ……」
出久の喉が、じわりと乾く。
嫌な静けさだった。
誰かに見られているみたいな。
そんな感覚だけが、肌へ纏わり付いている。
その時だった。
ガコンッ。
「——っ!?」
不意に。
用具倉庫のすぐ傍、本校舎側の壁面から金属音が響いた。
出久が反射的に振り向く。
壁面上部。
四角い通気口。
その鉄格子が、内側から僅かに歪んでいた。
「……?」
ぞわり、と。
嫌な感覚が、背筋を這い上がる。
次の瞬間。
ギギギギ——
通気口の隙間から、“何か”が這い出てきた。
「っ……!」
出久の目が見開かれる。
小さい。
人間の子供ほどの大きさ。
だが。
生物として、明らかに異常だった。
頭。
脳味噌が、剥き出しになっている。
半透明の膜に包まれた灰白色の脳組織が、ぬらぬらと脈動していた。
目は虚でギョロギョロと動き回り、裂けた口が顔面へ貼り付くみたいに存在している。
そして。
その頭部へ、直接足が生えていた。
一頭身。
胴体らしい胴体すらない。
巨大な頭へ、細長い脚だけが無理やり接続されているみたいな異形。
「な……」
出久の喉が、引き攣る。
怪物は、ぬるりと通気口から這い出る。
金属の縁へ爪を引っ掛け。
昆虫みたいに逆さまのまま壁を伝い。
そして。
ストン、と。
地面へ降り立った。
「……」
沈黙。
夕暮れの校舎裏。
風が吹く。
木々が揺れる。
その中で。
怪物だけが、不自然なくらい静かだった。
そして。
ゆっくり。
ぐり、と。
脳味噌の塊みたいな頭部が、出久の方を向く。
「……っ」
“見られた”と分かった。
次の瞬間。
「グエ」
怪物の口が、裂ける。
「グエグエッ」
気味の悪い鳴き声。
まるで壊れた玩具みたいな、不快な声だった。
怪物が、喉を潰したみたいな声で鳴く。
その瞬間。
ぶしゅっ、と。
「……っ!?」
裂けた口の奥から、黒い液体みたいなものが溢れ出した。
泥。
いや。
液体と呼ぶには、粘度が高すぎた。
どろり、とした黒。
腐臭。
湿った下水みたいな臭気が、一気に周囲へ広がる。
「うっ……!」
出久が思わず口元を押さえる。
鼻が焼けそうだった。
USJで嗅いだ臭い。
AFOの傍に漂っていた、あの不快な臭気。
「ま、さか——」
言い終わる前だった。
ズルリ、と。
怪物の口から溢れた黒泥が、地面を這った。
速い。
生き物みたいに蠢きながら、一瞬で出久の足元へ到達する。
「っ!!」
出久は反射的に飛び退こうとした。
だが。
遅い。
黒泥は、一気に跳ね上がった。
バシャァッ!!
「うわっ!?」
足。
腰。
腕。
瞬く間に全身へ絡み付く。
冷たい。
ぬるぬるしている。
それなのに、異様な力で身体を締め付けてくる。
「くっ……!!」
振り払えない。
泥は、まるで意思を持っているみたいに出久へ纏わり付いた。
そのまま。
ズブリ、と。
「——っ!?」
視界が、黒へ沈む。
地面が消えた。
上下感覚が、一瞬で狂う。
落ちる。
いや。
沈んでいる。
身体が、黒い泥の中を引きずり込まれていく。
「っ……ぁ……!!」
息が出来ない。
耳鳴り。
浮遊感。
胃が裏返るみたいな感覚。
そして。
次の瞬間。
ドサッ!!
「がっ……!」
出久の身体が、硬い床へ投げ出された。
肺から空気が抜ける。
咳き込みながら顔を上げると。
「……っ」
そこは。
薄暗い地下空間だった。
湿った空気。
冷たいコンクリート。
天井を走る無数の配管。
低く響く機械音。
どこかで、液体が循環する音がしている。
そして。
空間の中央。
黒い泥の溜まりみたいな場所へ半ば沈むように、一人の男がいた。
「やあ」
穏やかな声。
生命維持装置の管。
酸素マスク。
機械に繋がれた肉体。
それでもなお。
圧倒的な威圧感だけは、少しも衰えていない。
「来てくれてありがとう、緑谷出久君」
AFOが、静かに笑う。
暗い地下空間。
無数の管が脈動し、機械音が低く響いている。
その中心で。
機械へ繋がれた男だけが、不気味なくらい穏やかだった。
「急に呼び出してすまないねぇ」
柔らかい声音。
まるで近所の老人が世間話でも始めるみたいな口調だった。
「君も忙しい時期だろう? 体育祭も近い」
「……」
出久は、床へ片手を突いたまま睨み返す。
さっきまでの浮遊感が、まだ胃に残っていた。
制服にも、黒泥の臭いが染み付いている。
最悪だった。
せっかく。
少しだけ。
体育祭の事を考えられるようになっていたのに。
また、この場所へ引き戻された。
「……あの」
出久の声が、僅かに硬くなる。
「あの変な生き物、一体なんなんですか?」
脳味噌の剥き出しになった異形。
一頭身。
壊れた玩具みたいな鳴き声。
思い出すだけで、背筋が粟立つ。
「あぁ」
AFOが、小さく頷く。
「彼か」
その言い方は、まるで犬か何かの話をしているみたいだった。
「移送用に調整した脳無だよ」
「……脳無?」
出久の眉が寄る。
USJにいた、あの大男。
オールマイトと殴り合っていた怪物。
脳無という単語から連想されるのは、どうしてもそちらだった。
「USJの彼は厳密には脳無では無いよ、彼は私の可愛い部下の一人さ」
AFOが、穏やかに続ける。
「いやぁ、USJの時に君へ時間稼ぎをお願いしていたのはね」
まるで雑談でもするみたいな軽さだった。
「ああいうのを、何体か校内へ潜り込ませたかったからなんだよ」
「……!」
出久の背筋へ、冷たいものが走る。
AFOは気にした様子もなく続けた。
「雄英は流石に警備が厳しい。正面から戦力を送り込むだけでは、どうしても限界があってねぇ」
機械音。
液体の循環音。
その中で、AFOの声だけが妙に穏やかだった。
「だから、内部潜伏型の試験運用も兼ねていた」
「試験……」
「うん」
AFOが頷く。
「自律的な行動が、どこまで上手く出来るか実験もしたくてね」
さらり、と。
恐ろしい事を口にする。
「配管移動。待機。索敵。最低限の命令遂行。あの小型脳無は、その辺りを重点的に調整してある」
「……」
出久は、言葉を失う。
あんなものが。
雄英の校舎内を。
通気口の中を。
誰にも気付かれず這い回っていた。
それだけで、吐き気がした。
「幸い、結果は中々良好だった」
AFOが、小さく笑う。
「君のおかげだよ、緑谷君」
「……っ」
出久の拳へ、力が入る。
その“おかげ”の中には。
飯田を殴った事も。
黒い装甲を纏った事も。
全部含まれている気がした。
AFOは、そんな出久の反応を楽しむみたいに数秒黙る。
そして。
「——それはそうと」
ふっと、声音が変わった。
「体育祭の話だよ」
「……!」
出久の身体が、僅かに強張る。
体育祭。
その単語だけで、胸の奥がざわついた。
憧れていた舞台。
全国中継される、雄英最大級のイベント。
そして今の自分にとっては。
“普通のヒーロー科生徒”として立てる、数少ない場所。
AFOは、そんな出久を見透かしたみたいに微笑んだ。
「体育祭が今や日本の一大エエンターテインメントだ、僕も楽しみにしているんだよ」
出久は答えない。
ただ、視線だけを鋭くする。
AFOは、気にした様子もなく続けた。
「僕としてはね」
低い機械音の中。
穏やかな声だけが響く。
「鞭ばかりでは駄目だと思っているんだよ」
「……?」
「恐怖だけでは、人は長く壊れずに働けない」
AFOが、ゆっくりと目を細める。
「USJで頑張ってくれた君には、飴を」
にこり、と。
柔らかく笑った。
「ご褒美をあげないといけないと思ってるんだ」
「ご褒美……?」
AFOは、そんな出久を見透かしたみたいに微笑んだ。
嫌な予感しかしなかった。
その時だった。
ピッ、と。
どこかで電子音が鳴る。
壁際に待機していたモニターが、ひとりでに起動した。
「……!?」
出久が目を見開く。
モニターが、レールもないのに滑るように動き始める。
宙を移動し。
そのまま、出久の目の前で停止した。
「なっ……」
「便利だろう?」
画面へ、次々とデータが表示されていく。
脳波。
DNA配列。
骨格構造。
筋組織。
そして。
『MIDORIYA IZUKU / QUIRK FACTOR ANALYSIS』
その文字を見た瞬間。
出久の背筋が凍った。
「……これ」
「君のデータだ」
AFOが穏やかに言う。
「USJ以前から、少しずつ採取させてもらっていてねぇ」
「っ……!」
出久の喉が強張る。
いつ。
どこで。
そんな疑問が浮かぶ。
だが。
目の前の男なら出来る、とも思ってしまった。
AFOは、モニターへ視線を向けたまま続ける。
「僕の仮説は、どうやら正しかったみたいでね」
画面の一部が拡大される。
個性因子構造図。
複雑な波形。
出久には意味が分からない。
だが。
AFOは、それを見て満足そうに頷いた。
「やはり、“無個性”には意味がある」
「……意味?」
「複数個性へ耐えうる才能の指標として、だよ」
その瞬間。
空気が変わった気がした。
出久の心臓が、どくりと鳴る。
「通常、人間は複数個性に耐えられない」
AFOが淡々と語る。
「脳への負荷。肉体との齟齬。個性因子同士の衝突。様々な問題が起きる」
USJの脳無。
あの異形が、脳裏を過る。
「だからこそ、僕は探していた」
AFOの目が、ゆっくり出久へ向く。
「“空き容量”のある人間を」
「……っ」
出久は、無意識に一歩下がる。
嫌な汗が流れた。
「そして、君だ」
穏やかな声。
なのに。
底知れなく恐ろしかった。
「つまり——」
AFOが、小さく笑う。
「君には、あと幾つか個性を与えても問題無さそうなんだよ」
地下空間から、低い機械音が響く。
規則的な駆動音。
液体循環の音。
どこかで泡立つような、不気味な水音。
その全ての中心で。
AFOだけが、静かに笑っていた。
「さて」
ゆっくりと。
老人が椅子へ深く座り直すみたいな仕草で、AFOが僅かに身体を沈める。
「ここからが、本題だ」
「……」
出久は、無意識に喉を鳴らした。
逃げたい。
ここから離れたい。
そう思っているのに。
身体が動かなかった。
モニターに映る、自分の個性因子データ。
“複数個性へ耐えられる”。
その言葉が、頭から離れない。
AFOは、そんな出久を見ながら穏やかに言った。
「君は、どんな個性が欲しい?」
「——っ」
心臓が、大きく跳ねた。
「筋力強化?」
AFOが、指を軽く動かす。
モニターへ、新しいデータが映る。
『膂力増強』
『瞬発力』
『肥大化』
「遠距離攻撃も良い」
『押し出し』
『ダークボール』
『かまいたち』
名前だけで。
強力だと分かる。
ヒーローノートを書いてきた出久だからこそ、理解出来た。
どれも。
一流ヒーロー級。
いや。
組み合わせ次第では、それ以上。
「君は、体育祭へ出るんだろう?」
AFOの声が、ゆっくり染み込む。
「勝ちたいと思わないかい?」
「……」
「皆を圧倒したいと思わないかい?」
その言葉に。
脳裏へ、爆豪の姿が浮かぶ。
轟焦凍。
常闇。
飯田。
雄英の天才達。
自分は、その中で埋もれないだろうか。
何も出来ずに終わるんじゃないか。
「君は努力家だ」
AFOが静かに続ける。
「だが、努力だけでは越えられない差も存在する」
出久の拳が、ぎり、と鳴る。
「個性社会は、残酷だからねぇ」
穏やかな声音。
だが。
一番痛い場所を、正確に抉ってくる。
「……やめてください」
出久が、掠れた声で言う。
「ん?」
「そういうの……」
分かっている。
これは誘惑だ。
ヴィランの言葉だ。
乗ってはいけない。
そもそも。
AFOと取引すること自体、あり得ない。
そんな事。
頭では、ちゃんと理解している。
理解しているのに。
モニターから、目が離せなかった。
「例えば」
AFOが、さらりと言う。
「君の身体能力を数倍へ引き上げる個性を一つ」
画面が切り替わる。
「そして、反動を軽減する個性を一つ」
さらに別の波形。
「加えて、思考加速系を与えれば——」
そこまで聞いた瞬間。
出久の脳裏で、戦闘シミュレーションが始まってしまった。
爆豪の爆破軌道。
轟の氷結範囲。
障害物競走。
騎馬戦。
対人戦。
全部。
全部、対応出来る。
勝てる。
今よりもっと。
強くなれる。
「……っ」
駄目だ。
そう思った。
これは危険だ。
AFOの力を借りれば、絶対に戻れなくなる。
ヒーローじゃなくなる。
分かっている。
分かっているのに。
胸の奥で。
別の感情が、膨れ上がっていく。
——欲しい。
もっと強く。
もっと。
幼いころから感じていた無力感を、全部潰せる力が。
飯田を止めた時の。
黒い装甲を纏った時の。
あの、“出来てしまう”感覚が蘇る。
AFOは、急かさない。
ただ静かに待っている。
その余裕が、余計に恐ろしかった。
「僕は……」
出久の喉が、掠れる。
モニターへ映る無数の個性名。
その一つ一つが、甘い毒みたいだった。
勝てる。
強くなれる。
ずっと欲しかったものへ、手が届く。
そんな錯覚を起こさせる。
「……でも」
出久が、ぎり、と拳を握る。
「それって、僕の力じゃないじゃないですか」
絞り出すみたいな声だった。
「貰った力で勝っても……そんなの」
ヒーローじゃない。
本当は、そう続けたかった。
だが。
最後まで言い切れなかった。
AFOは、そんな出久を静かに見つめる。
否定しない。
笑いもしない。
ただ。
穏やかに頷いた。
「なるほど」
優しい教師みたいな声だった。
「君は、そこを気にしているのか」
「……」
「だが、緑谷君」
AFOが、ゆっくりと言葉を落とす。
「無個性は、君の才能だ」
「……え?」
出久の眉が、僅かに動く。
「君は、“空”だった」
機械音の響く地下空間。
その中で、AFOの声だけが妙に鮮明だった。
「だからこそ、受け入れられる」
モニターへ、再び複雑な個性因子構造図が映る。
「他者の個性を」
「……」
「それは、立派な資質だよ」
AFOが微笑む。
「僕が与える個性も、結局は君が扱う」
ゆっくり。
一言ずつ。
逃げ道を塞ぐみたいに。
「使いこなすのは君だ」
「っ……」
「戦うのも君だ」
「……」
「勝つのも、負けるのも君だ」
出久の心臓が、どくどくと鳴る。
駄目だ。
そんな理屈。
絶対におかしい。
なのに。
どこかで納得しかけている自分がいた。
AFOは、さらに続ける。
「世のヒーロー達だって同じだろう?」
「……!」
「生まれ持った個性を使う」
穏やかな声。
「鍛える」
「応用する」
「組み合わせる」
「それで戦っている」
モニターへ、爆豪の爆破軌道データが映る。
次いで、轟の氷結範囲。
飯田の加速。
「君のクラスメイト達は、皆、自分の力を最大限使って戦おうとしている」
「……っ」
体育祭。
その単語が、頭へ浮かぶ。
全国中継。
プロヒーロー達の視線。
未来を決める舞台。
皆、本気だ。
爆豪も。
轟も。
飯田も。
全員が、自分の持つものを全部使って勝ちに来る。
「なのに」
AFOが、静かに言った。
「君だけ、手を抜いて戦うつもりかい?」
「——っ」
その瞬間。
出久の呼吸が止まった。
「君は、“無個性”なんだろう?」
AFOが、ゆっくり目を細める。
「ならば」
「その無個性だって、君の力じゃないか」
どくん、と。
胸の奥で、黒い感情が脈打つ。
無個性。
ずっと否定され続けた言葉。
夢を諦めろと言われた理由。
何も持たない証明。
そのはずだった。
なのに。
AFOは、それを“才能”だと言った。
出久の視線が、揺れる。
爆豪の背中。
オールマイト。
体育祭の歓声。
全部が、頭の中で混ざり合う。
そして。
黒い装甲を纏った時の、あの感覚。
“出来てしまう”。
あの万能感だけが、妙に鮮明だった。
「……僕は」
掠れた声が漏れる。
自分でも。
何を言おうとしているのか、分からなかった。