間違えずに、失う者たち   作:助兵衛

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第22話 悪魔の誘惑

 小さく舌打ちが漏れた。

 

 さっきまで頭を埋め尽くしていた体育祭への熱が、一気に冷えていく。胸の奥へ、嫌な重さが沈んだ。

 

(またか……)

 

 AFO、青山、黒い装甲、USJ。せっかく忘れかけていたものが、無理やり現実へ引きずり戻される。

 

 出久はメモ帳を閉じた。さっきまで必死に書き込んでいた作戦メモも、『障害物競走』『騎馬戦』『対かっちゃん』といった文字も、急に遠く感じる。

 

「……」

 

 深く息を吐き、出久はスマホをポケットへ突っ込むと、校舎脇の通路へ足を向けた。

 

 夕方の雄英は、少しずつ人の気配が減っていた。談笑しながら帰る経営科の集団や、グラウンドから聞こえる訓練音。そうした喧騒から少し離れるだけで、校舎裏は急に静かになる。

 

 コンクリートの壁。長く伸びる影。風に揺れる木々。そして校舎の片隅に、半ば物置のように置かれた小さな用具倉庫があった。

 

「……ここ」

 

 出久は足を止めた。

 

 古びたスチール製の扉。脇に積まれたコーン。砂埃。人の気配はない。

 

「……?」

 

 出久の眉が寄る。

 

 誰もいない。物音もしない。だが、呼び出しておいて本当に誰もいないとは思えなかった。

 

「……青山君?」

 

 小さく呼ぶ。

 

 返事はない。

 

 風が吹き抜けるだけだった。

 

 出久は、ゆっくり周囲を見回した。倉庫裏、植え込み、物陰。隠れられそうな場所を一つずつ確認していく。

 

 茂みを覗き、倉庫裏へ回り、給水ホースの陰や積み上がったマットの隙間まで確認した。

 

 だが、やはり人影はない。

 

「なんだよ……」

 

 出久の喉が、じわりと乾く。

 

 嫌な静けさだった。誰かに見られているような感覚だけが、肌へ纏わり付いている。

 

 その時だった。

 

 ガコンッ。

 

「——っ!?」

 

 不意に、用具倉庫のすぐ傍、本校舎側の壁面から金属音が響いた。

 

 出久が反射的に振り向く。

 

 壁面上部。四角い通気口。その鉄格子が、内側から僅かに歪んでいた。

 

「……?」

 

 ぞわり、と嫌な感覚が背筋を這い上がる。

 

 次の瞬間、ギギギギ、と金属が軋む音を立てながら、通気口の隙間から“何か”が這い出てきた。

 

「っ……!」

 

 出久の目が見開かれる。

 

 小さい。人間の子供ほどの大きさだが、生物として明らかに異常だった。

 

 頭部は巨大で、その上部からは脳味噌が剥き出しになっている。半透明の膜に包まれた灰白色の脳組織が、ぬらぬらと脈動していた。虚ろな目はギョロギョロと動き回り、裂けた口が顔面へ貼り付くように存在している。

 

 そして、その頭部に直接、細長い脚が生えていた。

 

 一頭身。

 

 胴体らしい胴体すらない。巨大な頭へ、脚だけが無理やり接続されているような異形だった。

 

「な……」

 

 出久の喉が引き攣る。

 

 怪物は、ぬるりと通気口から這い出た。金属の縁へ爪を引っ掛け、昆虫みたいに逆さまのまま壁を伝い、やがてストンと地面へ降り立つ。

 

 夕暮れの校舎裏に、沈黙が落ちた。

 

 風が吹き、木々が揺れる。その中で、怪物だけが不自然なほど静かに佇んでいた。

 

 やがて、ぐり、と脳味噌の塊みたいな頭部が出久の方を向く。

 

「……っ」

 

 見られた、と分かった。

 

 次の瞬間。

 

「グエ」

 

 怪物の口が裂ける。

 

「グエグエッ」

 

 気味の悪い鳴き声だった。壊れた玩具のような、不快で濁った声が喉の奥から漏れる。

 

 直後、ぶしゅっ、と裂けた口の奥から黒い液体のようなものが溢れ出した。

 

「……っ!?」

 

 泥。

 

 いや、液体と呼ぶには粘度が高すぎる。どろりとした黒い塊が口から零れ落ち、湿った下水のような腐臭が一気に周囲へ広がった。

 

「うっ……!」

 

 出久が思わず口元を押さえる。

 

 鼻が焼けそうだった。USJで嗅いだ臭い。AFOの傍に漂っていた、あの不快な臭気。

 

「ま、さか——」

 

 言い終わる前に、ズルリと怪物の口から溢れた黒泥が地面を這った。

 

 速い。

 

 生き物みたいに蠢きながら、一瞬で出久の足元へ到達する。

 

「っ!!」

 

 出久は反射的に飛び退こうとした。

 

 だが遅かった。

 

 黒泥は一気に跳ね上がる。

 

 バシャァッ!!

 

「うわっ!?」

 

 足、腰、腕。瞬く間に全身へ絡み付く。

 

 冷たく、ぬるぬるしている。それなのに異様な力で身体を締め付け、いくら振り払おうとしても剥がれない。

 

「くっ……!!」

 

 泥は、まるで意思を持っているみたいに出久へ纏わり付いた。

 

 そのまま、ズブリと視界が黒へ沈む。

 

「——っ!?」

 

 地面が消えた。

 

 上下感覚が一瞬で狂う。

 

 落ちる。いや、沈んでいる。身体が黒い泥の中へ引きずり込まれていく。

 

「っ……ぁ……!!」

 

 息が出来ない。耳鳴りがする。胃が裏返るような浮遊感が全身を襲う。

 

 そして次の瞬間。

 

 ドサッ!!

 

「がっ……!」

 

 出久の身体は、硬い床へ投げ出された。肺から空気が抜け、咳き込みながら顔を上げる。

 

「……っ」

 

 そこは、薄暗い地下空間だった。

 

 湿った空気。冷たいコンクリート。天井を走る無数の配管。低く響く機械音。どこかで液体が循環する音がしている。

 

 そして空間の中央、黒い泥の溜まりのような場所へ半ば沈むように、一人の男がいた。

 

「やあ」

 

 穏やかな声。

 

 生命維持装置の管。酸素マスク。機械に繋がれた肉体。それでもなお、圧倒的な威圧感だけは少しも衰えていない。

 

「来てくれてありがとう、緑谷出久君」

 

 AFOが、静かに笑う。

 

 暗い地下空間で、無数の管が脈動し、機械音が低く響いている。その中心で、機械へ繋がれた男だけが、不気味なくらい穏やかだった。

 

「急に呼び出してすまないねぇ。君も忙しい時期だろう? 体育祭も近い」

 

「……」

 

 出久は、床へ片手を突いたままAFOを睨み返す。さっきまでの浮遊感がまだ胃に残っており、制服にも黒泥の臭いが染み付いている。

 

 最悪だった。

 

 せっかく、少しだけ体育祭のことを考えられるようになっていたのに、またこの場所へ引き戻された。

 

「……あの」

 

 出久の声が僅かに硬くなる。

 

「あの変な生き物、一体なんなんですか?」

 

 脳味噌の剥き出しになった異形。一頭身。壊れた玩具のような鳴き声。思い出すだけで、背筋が粟立つ。

 

「あぁ、彼か」

 

 AFOは小さく頷いた。その言い方は、まるで犬か何かの話をしているみたいだった。

 

「移送用に調整した脳無だよ」

 

「……脳無?」

 

 出久の眉が寄る。

 

 USJにいた、あの大男。オールマイトと殴り合っていた怪物。脳無という単語から連想されるのは、どうしてもそちらだった。

 

「USJの彼は、厳密には脳無ではないよ。彼は私の可愛い部下の一人さ」

 

 AFOは、穏やかに続ける。

 

「いやぁ、USJの時に君へ時間稼ぎをお願いしていたのはね、ああいうものを何体か校内へ潜り込ませたかったからなんだよ」

 

「……!」

 

 出久の背筋へ、冷たいものが走る。

 

 AFOは気にした様子もなく続けた。

 

「雄英は流石に警備が厳しい。正面から戦力を送り込むだけでは、どうしても限界がある。だから、内部潜伏型の試験運用も兼ねていた」

 

 機械音と液体の循環音の中で、AFOの声だけが妙に穏やかに響く。

 

「自律的な行動がどこまで上手く出来るか、実験もしたくてね。配管移動、待機、索敵、最低限の命令遂行。あの小型脳無は、その辺りを重点的に調整してある」

 

「……」

 

 出久は言葉を失った。

 

 あんなものが雄英の校舎内を、通気口の中を、誰にも気付かれず這い回っていた。

 

 それだけで吐き気がした。

 

「幸い、結果は中々良好だった。君のおかげだよ、緑谷君」

 

「……っ」

 

 出久の拳へ力が入る。

 

 その“おかげ”の中には、飯田を殴ったことも、黒い装甲を纏ったことも、全部含まれている気がした。

 

 AFOは、そんな出久の反応を楽しむように数秒黙り、やがてふっと声音を変えた。

 

「——それはそうと、体育祭の話だよ」

 

「……!」

 

 出久の身体が、僅かに強張る。

 

 体育祭。

 

 その単語だけで、胸の奥がざわついた。憧れていた舞台。全国中継される、雄英最大級のイベント。そして今の自分にとっては、“普通のヒーロー科生徒”として立てる数少ない場所。

 

 AFOは、そんな出久を見透かしたみたいに微笑んだ。

 

「体育祭は、今や日本の一大エンターテインメントだ。僕も楽しみにしているんだよ」

 

 出久は答えない。ただ、視線だけを鋭くする。

 

 AFOは気にした様子もなく続けた。

 

「僕としてはね、鞭ばかりでは駄目だと思っているんだよ」

 

「……?」

 

「恐怖だけでは、人は長く壊れずに働けない。USJで頑張ってくれた君には、飴を——ご褒美をあげないといけないと思っていてね」

 

「ご褒美……?」

 

 嫌な予感しかしなかった。

 

 その時、ピッとどこかで電子音が鳴る。壁際に待機していたモニターが、ひとりでに起動した。

 

「……!?」

 

 モニターはレールもないのに滑るように宙を移動し、出久の目の前で停止した。

 

「なっ……」

 

「便利だろう?」

 

 画面へ、次々とデータが表示されていく。

 

 脳波、DNA配列、骨格構造、筋組織。そして。

 

『MIDORIYA IZUKU / QUIRK FACTOR ANALYSIS』

 

 その文字を見た瞬間、出久の背筋が凍った。

 

「……これ」

 

「君のデータだ」

 

 AFOが穏やかに言う。

 

「USJ以前から、少しずつ採取させてもらっていてねぇ」

 

「っ……!」

 

 出久の喉が強張る。

 

 いつ、どこで。そんな疑問が浮かぶが、目の前の男なら出来るとも思ってしまった。

 

 AFOは、モニターへ視線を向けたまま続ける。

 

「僕の仮説は、どうやら正しかったみたいでね」

 

 画面の一部が拡大される。個性因子構造図、複雑な波形。出久には意味が分からないが、AFOはそれを見て満足そうに頷いた。

 

「やはり、“無個性”には意味がある」

 

「……意味?」

 

「複数個性へ耐えうる才能の指標として、だよ」

 

 その瞬間、空気が変わった気がした。

 

 出久の心臓が、どくりと鳴る。

 

「通常、人間は複数個性に耐えられない。脳への負荷、肉体との齟齬、個性因子同士の衝突。様々な問題が起きる」

 

 USJの脳無が脳裏を過る。

 

「だからこそ、僕は探していた。“空き容量”のある人間を」

 

「……っ」

 

 出久は、無意識に一歩下がった。嫌な汗が流れる。

 

「そして、君だ」

 

 穏やかな声なのに、底知れなく恐ろしかった。

 

「つまり——君には、あと幾つか個性を与えても問題無さそうなんだよ」

 

 地下空間から、低い機械音が響く。規則的な駆動音、液体循環の音、どこかで泡立つような不気味な水音。その全ての中心で、AFOだけが静かに笑っていた。

 

「さて」

 

 ゆっくりと、老人が椅子へ深く座り直すみたいな仕草で、AFOが僅かに身体を沈める。

 

「ここからが、本題だ」

 

「……」

 

 出久は、無意識に喉を鳴らした。

 

 逃げたい。ここから離れたい。そう思っているのに、身体が動かなかった。

 

 モニターに映る自分の個性因子データ。“複数個性へ耐えられる”。その言葉が頭から離れない。

 

 AFOは、そんな出久を見ながら穏やかに言った。

 

「君は、どんな個性が欲しい?」

 

「——っ」

 

 心臓が、大きく跳ねた。

 

「筋力強化?」

 

 AFOが指を軽く動かすと、モニターへ新しいデータが映る。

 

『膂力増強』

 

『瞬発力』

 

『肥大化』

 

「遠距離攻撃も良い」

 

『押し出し』

 

『ダークボール』

 

『かまいたち』

 

 名前だけで強力だと分かる。ヒーローノートを書いてきた出久だからこそ理解できた。どれも一流ヒーロー級、いや、組み合わせ次第ではそれ以上の力だ。

 

「君は、体育祭へ出るんだろう?」

 

 AFOの声が、ゆっくり染み込む。

 

「勝ちたいと思わないかい?」

 

「……」

 

「皆を圧倒したいと思わないかい?」

 

 その言葉に、爆豪の姿が脳裏へ浮かぶ。

 

 続いて轟焦凍、常闇、飯田。雄英の天才達。

 

 自分は、その中で埋もれないだろうか。何も出来ずに終わるんじゃないか。

 

「君は努力家だ。だが、努力だけでは越えられない差も存在する」

 

 出久の拳が、ぎり、と鳴る。

 

「個性社会は、残酷だからねぇ」

 

 穏やかな声音が、一番痛い場所を正確に抉ってくる。

 

「……やめてください」

 

 出久が、掠れた声で言う。

 

「ん?」

 

「そういうの……」

 

 分かっている。

 

 これは誘惑だ。ヴィランの言葉だ。乗ってはいけない。そもそも、AFOと取引すること自体あり得ない。

 

 頭では、ちゃんと理解している。

 

 理解しているのに、モニターから目が離せなかった。

 

「例えば、君の身体能力を数倍へ引き上げる個性を一つ」

 

 画面が切り替わる。

 

「そして、反動を軽減する個性を一つ」

 

 さらに別の波形。

 

「加えて、思考加速系を与えれば——」

 

 そこまで聞いた瞬間、出久の脳裏で戦闘シミュレーションが始まってしまった。

 

 爆豪の爆破軌道。轟の氷結範囲。障害物競走。騎馬戦。対人戦。

 

 全部対応できる。

 

 勝てる。

 

 今よりもっと、強くなれる。

 

「……っ」

 

 駄目だ、と思った。

 

 これは危険だ。AFOの力を借りれば、絶対に戻れなくなる。ヒーローじゃなくなる。

 

 分かっている。

 

 分かっているのに、胸の奥で別の感情が膨れ上がっていく。

 

 欲しい。

 

 もっと強く。

 

 幼い頃から感じていた無力感を、全部潰せる力が。

 

 飯田を止めた時の、黒い装甲を纏った時の、あの“出来てしまう”感覚が蘇る。

 

 AFOは急かさない。ただ静かに待っている。その余裕が、余計に恐ろしかった。

 

「僕は……」

 

 出久の喉が掠れる。

 

 モニターへ映る無数の個性名。その一つ一つが、甘い毒みたいだった。

 

 勝てる。強くなれる。ずっと欲しかったものへ手が届く。そんな錯覚を起こさせる。

 

「……でも」

 

 出久は、ぎり、と拳を握った。

 

「それって、僕の力じゃないじゃないですか」

 

 絞り出すような声だった。

 

「貰った力で勝っても……そんなの」

 

 ヒーローじゃない。

 

 本当は、そう続けたかった。

 

 だが最後まで言い切れなかった。

 

 AFOは、そんな出久を静かに見つめる。否定しない。笑いもしない。ただ、穏やかに頷いた。

 

「なるほど。君は、そこを気にしているのか」

 

「……」

 

「だが、緑谷君」

 

 AFOが、ゆっくりと言葉を落とす。

 

「無個性は、君の才能だ」

 

「……え?」

 

 出久の眉が、僅かに動く。

 

「君は、“空”だった。だからこそ、受け入れられる。他者の個性を」

 

「……」

 

「それは、立派な資質だよ」

 

 AFOが微笑む。

 

「僕が与える個性も、結局は君が扱う。使いこなすのは君だ。戦うのも君だ。勝つのも、負けるのも君だ」

 

 出久の心臓が、どくどくと鳴る。

 

 駄目だ。そんな理屈は絶対におかしい。

 

 なのに、どこかで納得しかけている自分がいた。

 

「世のヒーロー達だって同じだろう?」

 

「……!」

 

「生まれ持った個性を使い、鍛え、応用し、組み合わせて、それで戦っている」

 

 モニターへ、爆豪の爆破軌道データが映る。次いで、轟の氷結範囲。飯田の加速。

 

「君のクラスメイト達は、皆、自分の力を最大限使って戦おうとしている」

 

「……っ」

 

 体育祭。

 

 その単語が頭へ浮かぶ。

 

 全国中継。プロヒーロー達の視線。未来を決める舞台。

 

 皆、本気だ。爆豪も、轟も、飯田も。全員が、自分の持つものを全部使って勝ちに来る。

 

「なのに、君だけ手を抜いて戦うつもりかい?」

 

「——っ」

 

 その瞬間、出久の呼吸が止まった。

 

「君は、“無個性”なんだろう?」

 

 AFOが、ゆっくり目を細める。

 

「ならば、その無個性だって、君の力じゃないか」

 

 どくん、と胸の奥で黒い感情が脈打つ。

 

 無個性。

 

 ずっと否定され続けた言葉。夢を諦めろと言われた理由。何も持たない証明。

 

 そのはずだった。

 

 なのに、AFOはそれを“才能”だと言った。

 

 出久の視線が揺れる。

 

 爆豪の背中。オールマイト。体育祭の歓声。全部が頭の中で混ざり合い、黒い装甲を纏った時の“出来てしまう”感覚だけが、妙に鮮明に残った。

 

「……僕は」

 

 掠れた声が漏れる。

 

 自分でも、何を言おうとしているのか分からなかった。

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