ミリオの拳が、最後に残っていた分身体の顔面を捉えた。
緑色の稲妻をまとった一撃をまともに受けたそれは、廊下の奥まで吹き飛ばされ、壁へ叩きつけられる。
次の瞬間には輪郭が崩れ、泥のように溶けながら床へ広がっていった。
「……はぁぁぁぁ……」
ミリオは大きく息を吐いた。
ようやく終わった。
そう思った途端、身体のあちこちから遅れて疲労が押し寄せてくる。
透過を繰り返し、狭い地下通路で次々と現れる連合の複製を相手にしていたのだから無理もない。
そうでなくても、最近は身体の調子が悪くちょっとした事で息が上がってしまう。
肩を回すと、筋肉の奥に鈍い痛みが走った。
「いやあ……これは結構きついね」
誰にともなく呟きながら、壁へ片手をつく。
けれど、休んでいる場合ではなかった。
ミリオはゆっくりと顔を上げ、荒れ果てた廊下を見回した。
「それで……」
一度、沈黙する。
「どうなってるのかな、これ」
本当に分からない。
少し前まで、ここには緑谷出久がいた。
白い外骨格をまとった姿で、壊理という少女を抱えながら自分から逃げようとしていた。
そこへ連合の複製が大量に押し寄せ、いつの間にか本物らしいトガが少女を連れて逃走。
そこまでは、まだ理解できる。
問題はその後だった。
廊下の奥で凄まじい轟音が響いたかと思えば、床そのものが崩壊し、緑谷が階下へ落ちていった。
「緑谷君、落ちたよね……」
しかも、その直後から地下のさらに奥で何度も爆発するような音が続き、床も壁も振動していた。
何かと戦っている。
それだけは分かった。
だが、誰と戦っているのかまでは分からなかった。
そして数分もしないうちに、今度は下の方からとんでもない破砕音が連続して響いた。
──ドゴォンッ!!
そんな音と一緒に、白い何かが縦穴をものすごい速度で上へ飛んでいった。
見間違えようもない。
緑谷だった。
「上に飛んでいったよね……」
自分から跳んだようには見えなかった。
何かに殴られたか、吹き飛ばされたか。
とにかく、まるで砲弾のような勢いで地上方向へ消えていった。
そこまではまだいい。
いや、よくはないが。
問題は、その後だった。
床に開いた大穴から、今度は巨大な何かが這い上がってきた。
異様に膨れ上がった身体を何本もの腕で支えながら、怪物じみた何かが緑谷を追うように上へ登っていったのである。
ミリオはその光景を思い出し、眉間を押さえた。
「……何だったんだろうね、あれ」
考えてみても答えは出なかった。
八斎會の人間なのか、それとも連合が連れてきた新手なのか。
少なくとも、あれほど目立つ姿を一度でも見ていれば忘れるはずがない。
ミリオは壁から手を離すと、トガが壊理を抱えて逃げていった方向へ身体を向けた。
「まあ、行けば分かるよね」
今はそれしかない。
壊理の安全を確保し、緑谷を捕らえ、あの怪物の正体も確かめる。
順番に並べれば単純だが、どれも簡単に片づくとは思えなかった。
何より、自分の身体が思ったほど動いてくれない。
少し前から感じていたことだった。
以前なら、この程度の戦闘でここまで息が上がることはなかった。
連続して個性を使えば疲れるのは当然だが、最近はその疲労が妙に早く訪れ、しかもなかなか抜けてくれない。
今日もそうだ。
緑谷を追い、続けて大量の分身体を相手にしたとはいえ、すでに脚は重く、身体の芯にまで倦怠感が染み込んでいる。
「……最近、本当に体力落ちたなあ」
まだ学生なんだけどな、と苦笑しながら走り出した。
地下通路には八斎會と連合が暴れた痕跡が至るところに残り、崩れた壁や瓦礫が進路を塞いでいる。
ミリオはそれらを透過して最短距離を抜け、ときには床へ潜って別の通路へ移りながら、トガたちが向かった方向を追っていった。
ただ、いつものようにはいかない。
壁を抜けるたびに呼吸が少しずつ乱れ、床から飛び出した際には、一瞬だけ脚から力が抜けそうになる。
「っと……」
着地したミリオは膝へ手をつきかけ、すぐに身体を起こした。
「いやいや、まだいけるって」
自分に言い聞かせるように笑う。
体調が悪いだけだろう。
最近は訓練も実習も多かった。
今日に至っては緑谷との戦闘まであったのだから、疲れて当然だ。
そう考え、再び走り出す。
やがて地下特有の淀んだ空気が薄れ、前方から外の光が差し込んできた。
「出口……!」
最後の壁を透過し、地上一階へ飛び出す。
その瞬間だった。
──ドゴォンッ!!
「うわっ!?」
凄まじい衝撃音とともに建物全体が揺れた。
天井から粉塵が降り注ぎ、少し離れた場所では壁の一部が弾け飛ぶ。
ミリオは反射的に透過して飛んできた破片をやり過ごすと、すぐに音のした方向へ顔を向けた。
「……え?」
白い影、緑谷が視界を横切った。
先ほどよりさらに傷ついた白い外骨格をまといながら、床を蹴った勢いで身体を大きく横へ弾いている。
その直後、緑谷がいた場所へ巨大な腕が叩きつけられ、床が大きく陥没した。
さらに別の腕が横薙ぎに迫る。
緑谷は低く沈んでそれを掻い潜ると、両脚を圧縮するように深く曲げ、その反動で怪物の懐へ飛び込んだ。
白い拳が脇腹へ叩き込まれ、巨体が大きく揺れる。
「本当に戦ってる……」
ミリオは思わず呟いた。
地下から緑谷を追って這い上がっていった怪物だ。
改めて明るい場所で見ると、その異様さがよく分かる。
膨れ上がった巨体から何本もの腕が伸び、もはや人間だったのかどうかすら疑わしい姿をしていた。
緑谷と比べれば体格差は圧倒的だったが、動きそのものは白い方が速い。
怪物の腕が振るわれるたびに緑谷は僅かな隙間を抜け、懐へ入って打撃を返している。
「……さて」
ミリオは構えながら、珍しく判断に迷った。
「これ、どっちを止めればいいんだ?」
片方は緑谷出久。
全国指名手配されているヴィランであり、今回の八斎會襲撃を予告した張本人でもある。
本人も壊理を攫うために来たと認めている以上、見つけたなら捕らえるのが自分の役目だ。
一方で、もう片方は正体不明の巨大な怪物。
しかも壊理とトガの姿がない
周囲へ素早く目を走らせるが、二人の姿はどこにも見当たらなかった。
「……逃がしたのか?」
地下で見た状況を思い返す。
緑谷は壊理を抱えて逃げていたが、途中でトガへ彼女を預けた。その後に床が崩れ、緑谷だけが下へ落ちた。
そして今、その緑谷が怪物と戦っている。
ならば。
「トガヒミコたちを追わせないために、緑谷君が残った……?」
そう考えれば辻褄は合う。
しかし、それだけで緑谷の側に立っていいわけでもない。
壊理を八斎會へ戻すべきではないと考えていることと、彼女を敵連合へ連れていかせていいかどうかは別問題だ。
ミリオは一度、戦っている二人へ視線を戻した。
白い影が、また消える。
怪物の腕が振り下ろされるより早く、出久はその脇を抜けていた。
床を蹴った瞬間に白い外骨格が縮み、次の瞬間には弾かれたように別の位置へ移っている。
速い。
先ほど地下で戦った時よりも、さらに速く見えた。
真正面から距離を詰めたかと思えば、巨体の死角へ滑り込み、拳を一撃だけ叩き込んで即座に離脱する。
怪物が振り返る頃にはもう反対側へ回り込み、今度は膝を入れている。
「……すごいな」
ミリオは思わず目を細めた。
単純な速度だけなら、明らかに緑谷の方が上だった。
怪物の身体は巨大すぎるうえ、何本もある腕が互いの動きを邪魔している。
対する緑谷は細身になった白い外骨格を活かし、その隙間を縫うように動いていた。
攻撃そのものも通っている。
拳が入るたびに巨体が揺れ、装甲のように膨れた肉体が大きく歪む。
それなのに。
「……攻め切れないのか」
ミリオはすぐに違和感へ気づいた。
緑谷は圧倒しているように見えて、決して深追いしない。
一撃を入れて、離れる。
また隙を見つけて入り込み、一撃。
そしてすぐに退く。
連続して殴り続けられる場面でも、必ず途中で距離を取っていた。
理由はすぐに分かった。
怪物の一本の腕が、緑谷の背後を薙いだ。
避けられた掌が床へ触れる。
──バギンッ!!
次の瞬間、床が爆ぜた。
ただ砕けただけではない。
コンクリートが一度形を失い、その場で幾本もの巨大な棘へ組み替えられる。
緑谷は反射的に横へ跳んだ。
ほんの一瞬前まで白い身体があった場所を、棘がまとめて貫いていく。
一発でもまともに食らえば、その時点で勝負が終わりかねない。
怪物は腕そのものも巨大で、振り回すだけで十分な威力がある。
だが本当に危険なのは、その掌が何かへ触れた瞬間だった。
何に触れても、その周囲すべてが攻撃へ変わる。
しかも、どこから来るか分からない。
緑谷がいくら速くても、接近すればするほど怪物の掌が届く範囲へ入らなければならない。拳を一発入れるために、致命傷になり得る攻撃を何本も潜り抜ける必要がある。
「なるほど……」
速さでは勝っている。
だが、一度の失敗が許されない。
緑谷が慎重になるのも当然だった。
怪物の腕が横から伸びる。
緑谷は頭を下げてかわし、その腕を足場にするように一瞬だけ踏みつけると、巨体の肩口まで跳ね上がった。
白い脚が振り抜かれる。
──ドンッ!
蹴りが側頭部へ入った。
怪物の上半身が大きく傾き、苦しげな声が漏れる。
「ぐ……!」
ミリオの眉が僅かに動いた。
「……ん?」
今の声。
どこかで聞いた気がした。
しかし、怪物の姿があまりにも人間離れしているせいで、すぐには結びつかない。
ミリオは目を凝らした。
膨れ上がった異形の胴体。
そこから何本もの腕が伸び、さらに中央部には不自然なほど人間らしい何かが残っている。
怪物が出久を追って身体を捻った。
その瞬間、巨体の上部から突き出すものが見えた。
「……え?」
異様に膨れた肉体の中心から、まるで埋め込まれているように人間の上半身が生えている。
そして、見覚えのある顔。
ミリオの目が大きく見開かれた。
「……あれ」
思わず一歩前へ出る。
「治崎……?」
もう一度よく見る。
間違いない。
地下で話した男だ。
壊理を自分たちが保護していると言い張り、彼女の拘束を当然のように説明していた八斎會の若頭。
治崎廻。
その本人の身体が、巨大な怪物の中央から生えている。
「いやいやいや……」
ミリオの口が半ば開いたままになる。
「本当に治崎なのか!?」
怪物の正体そのものが治崎だった。
何か別の怪物を操っているわけでも、変身型の仲間が前へ出ているわけでもない。
治崎本人が、何かと融合したような姿になっている。
「どうしたら、そうなるんだよ……」
思わず出た言葉には、純粋な困惑が滲んでいた。
だが、驚いている間にも戦闘は続いている。
治崎の巨大な腕が床を掴むと、出久が即座に距離を取る。
次の瞬間、床一帯が隆起し、無数の棘が白い身体へ殺到した。
出久はその間を縫うように駆ける。
踏み込む度に外骨格が沈み込み、次の動きへ繋がっていく。
棘の一本が正面から迫れば身体を半身にしてかわし、横から来た一本は足裏で蹴って軌道を逸らす。
それでも攻撃へは移らない。
治崎の周囲には常に複数の掌が構えている。
一つ避けても二つ目がある。
二つ潜っても、その先で床そのものが変形する。
攻めているようで、攻め切れない。
治崎も捕まえられない。
互いに決定打を持ちながら、決定的な一歩だけが踏み込めない状態だった。
「……厄介だなあ」
ミリオが小さく呟く。
その時。
「デクさん! 右!」
高い声が響いた。
「!」
ミリオが反射的にそちらを見る。
戦場の端。
崩れた壁から落ちた大きな瓦礫の陰に、二つの人影があった。
「……あ!」
トガヒミコ。
そして、その傍らに壊理。
二人とも治崎から少しでも距離を取るように、瓦礫を盾にして身を潜めていた。
トガはいつでも壊理を抱えて逃げられるよう腰を落としながら、それでも戦っている出久から目を離していない。
壊理はその隣で瓦礫へ小さな手をつき、必死に身を乗り出していた。
「デクさん、頑張って!」
声が震えている。
それでも何度も叫んでいた。
「負けないで!」
その声が届いたのか、治崎の腕をかわした出久が一瞬だけそちらへ顔を向けた。
ほんの僅かに手を上げる。
すぐに治崎へ向き直った。
「……ああ」
ミリオはようやく理解した。
どうして緑谷が逃げないのか。
どうしてこれほど危険な相手を前に、一人で踏みとどまっているのか。
逃げれば治崎があの二人を追う。
だから緑谷は、ここで治崎を止めている。
そこまで理解した瞬間、ミリオの身体はほとんど反射的に前へ出ていた。
「緑谷君!」
床を蹴ろうとした、その時。
「待て!」
背後から肩を強く掴まれる。
「っ!?」
振り返ると、埃まみれの警察官が立っていた。装備や立ち位置から見て、この現場の指揮を執っていた人間だろう。
警官はミリオの肩を掴んだまま、鋭く問いかけた。
「今、お前はどっちを助けようとした!?」
ミリオの言葉が詰まる。
それだけで十分だった。
警官は険しい顔で治崎を睨み、それからすぐにミリオへ視線を戻した。
「気持ちは分かる。俺だって同じだ。あんなヤクザ野郎、今すぐひっ捕らえてやりたい」
だが、と低く続ける。
「今、俺たちに出ている指示は緑谷と敵連合の確保だ。目の前の光景だけで、それを忘れるな」
ミリオの拳が僅かに強く握られた。
警官はその目を真正面から見据える。
「ルミリオン、お前はオールマイトの後継者なんだろう」
一拍。
「──
間違えるな。
何を。
誰を。
どちらが正しいのかを。
ミリオは答えられないまま、再び戦場へ視線を戻した。
出久は相変わらず速い。
治崎の腕が振るわれるより先に懐へ潜り込み、白い拳を叩き込んでは離れる。
床が隆起すれば跳び、壁が変形すればその隙間を抜ける。
それでも決め切れない。
治崎の攻撃は、一度でもまともに受ければ終わる。
それが分かっているからこそ、出久も踏み込みきれない。
「……くそ」
ミリオは小さく歯噛みした。
今すぐ飛び込めば、少なくともあの攻撃のいくつかは自分が引き受けられる。
透過なら治崎の腕も、床から伸びる棘も抜けられる。
出久が攻撃へ集中できる瞬間を作ることだってできるはずだ。
だが、動けない。
動けば、それは今しがた止められた行動をそのまま繰り返すことになる。
ミリオは拳を握ったまま、治崎の巨体を睨んだ。
「せめて……」
思わず言葉が漏れる。
「連合の中に、ああいうのをどうにかできる個性の人がいれば……」
自分で口にしてから、何を考えているんだと眉を寄せた。
敵連合に期待する。
ヒーローである自分が。
普段なら笑い飛ばすような発想だった。
だが今だけは、本気でそう思ってしまう。
トガは壊理を守っている。
出久は治崎を止めている。
そして自分は、命令と現実の間で立ち尽くしている。
俺は一体何をしている?
治崎の巨腕が床へ叩きつけられた。
砕けたコンクリートが大きく隆起し、出久へ殺到する。
「緑谷君……!」
また一歩、身体が前へ出そうになるが、肩に残る警官の手の感触を思い出し踏み留まる。
ミリオは拳を強く握った。
その時だった。
「ぜぇ……っ、はぁ……っ、ぜぇ……!」
妙な呼吸音が聞こえた。
「……ん?」
戦闘音に混じって、荒い呼吸音がこちらへ近づいてくる
「はぁっ……ぜぇっ……もう……っ!」
続いて聞こえたのは、何か硬いものが床を転がる音だった。
ガラガラガラガラ──。
ミリオが振り返る。
廊下の奥から、一人の少女が走ってきていた。
茶色い髪を揺らし、顔を真っ赤にしながら、片手で大きなキャリーケースを引きずっている。
車輪が瓦礫にぶつかるたび、ガン、ゴン、と派手な音を立てていた。
「ぜぇっ……はぁっ……もうっ……!」
息も絶え絶えだった。
それでも足は止まらない。
「新幹線……高すぎやろ……!」
「……え?」
ミリオが目を瞬く。
「君は……麗日お茶子!?」
元、雄英高校一年。
麗日お茶子。
神野でも姿を見た少女だ。
警官も遅れて彼女に気づき、慌てて声を張った。
「君! 止まれ! ここは危険だ!」
しかし、お茶子は止まらなかった。
「すみません!」
謝りはする、けれど減速はしない。
むしろ治崎と出久の戦闘を目にした瞬間、その足はさらに速くなった。
「ちょっ、何処に行くつもりだ!」
ミリオの横をすり抜ける。
「はぁっ……はぁっ……いた……!」
出久が床から突き出した棘を蹴って方向を変える。
その視界の端に、こちらへ突っ込んでくる人影が入った。
「……え?」
白い外骨格の奥で目が見開かれる。
「麗日さん!?」
「デク君!」
お茶子が叫び返した。
その声に、出久の動きが僅かに乱れる。
「なんでここに!?」
「話は後!」
お茶子は走りながらキャリーケースの取っ手を離した。
「えいやっ!」
勢いのまま横へ放り投げる。
ガラガラと転がったケースが壁に激突し、派手な音を立てて倒れた。
「ちょ、荷物!」
「今それどころちゃうやろ!」
出久の至極もっともな反応を一蹴し、お茶子はそのまま治崎へ向かう。
治崎は気づいていなかった。
それも当然だ、目の前には少しでも隙を見せれば懐へ飛び込んでくる出久がいる。
その速度は、自分が一瞬でも視線を外せば致命打になりかねない。
「余所見してんじゃねえぞ、緑谷ァ!」
治崎の腕が振るわれる。
出久は後方へ弾けるように下がった。
その瞬間。
出久に集中していた治崎の死角へ、お茶子が滑り込む。
「──え?」
治崎がようやく気づいた、だがもう遅い。
「麗日さん、待っ──!」
出久の声が飛ぶ。
お茶子は止まらない。
巨大な腕がこちらへ向きを変えようとする。
その前に。
「タッチ!」
お茶子の指先が、治崎の巨体へ触れた。
五本の指すべてが接触する。
「……っ!」
治崎が首を傾げた次の瞬間、巨体が、ふわりと浮いた。
「な──」
何本もの腕が床から離れる。
巨大な脚も、身体を支えていたすべてが、一斉に重さを失う。
「なんだ、これは……!?」
治崎の巨体がゆっくりと持ち上がっていく。
今まで床そのものを武器としていた男が、その床から完全に切り離された。
治崎の巨体が、ゆっくりと宙へ浮いていく。
何本もの腕が空を掻き、足も床を捉えられない。
これまで当たり前のように使っていた地面という支点を失い、あれほど巨大だった身体が、今はかえってどうしようもなく不安定に揺れていた。
お茶子は荒い息のまま一歩下がると、出久へ向かって叫んだ。
「デク君! これで、なんの遠慮もいらんやろ!」
出久が一瞬だけ目を見開く。
次いで、苦笑するように息を吐いた。
「無茶するなぁ!」
「デク君にだけは言われたないわ!」
即座に返される。
そのやり取りの間にも、治崎は空中で身体を捻り、どうにか壁や床へ触れようとしていた。
「ふざけるな……!」
巨大な腕が伸びる。
だが、届かない。
お茶子の個性によって重量を失った身体は、わずかな動作だけでも姿勢を崩し、思うように進めない。
出久はそれを見て、深く腰を落とした。
ホワイト・ラビットが軋む。
全身に組み込まれた発条機構が、同時に沈み込んでいく。
既に限界は近い。
装甲には亀裂が走り、背中の一部は失われている。
呼吸も乱れ、脚には疲労が溜まっていた。
それでも。
今しかない。
「全因解放──」
治崎が振り返る。
「緑谷ァ!」
出久の脚が解放された。
「ホワイト・ラビット──スタンピード!」
白い影が消えた。
次の瞬間。
出久の拳が、治崎の腹部へ深く突き刺さる。
──ドンッ!!
「がっ……!」
巨体が空中で折れ曲がった。
拳が当たった反動を、そのまま肩から背骨、腰、脚へ流す。
全身の発条が一斉に圧縮される。
そして。
解放。
左拳。
──ドンッ!
治崎の巨体が反対側へ揺れる。
その反動を、再び身体へ取り込む。
右脚が縮む。
腰が沈む。
背骨が撓む。
次の瞬間には、膝が治崎の脇腹へ叩き込まれていた。
──ドンッ!!
「ぐぉ……っ!」
また反動。
また圧縮。
また解放。
一撃ごとに生まれる衝撃を、白い外骨格と全身の発条機構が拾い上げ、次の動作へ繋げていく。
姿勢を変えた勢いすら、次の打撃へ組み込まれていく。
出久の身体そのものが、一つの巨大な発条となっていた。
──ドドドドドドドドッ!!
連打が始まる。
「な……っ、待て──!」
治崎が腕を振るう。
だが当たらない。
出久は治崎の巨体の周囲を跳ね回りながら、死角から次々と打撃を叩き込んでいく。
治崎が振り向いた頃には、もうそこにいない。
そして何より、治崎は地面に触れられない。
分解も再構築も、自分の身体を支えることさえできない。
これまで出久を苦しめ続けていた最大の強みが、完全に封じられている。
「くそがァァァァ!!」
治崎が何本もの腕を滅茶苦茶に振り回す。
出久はその隙間を潜る。
掌のすぐ横を抜け、肘を胸部へ叩き込む。
反動。
圧縮。
解放。
今度は踵が顎を跳ね上げる。
巨体がさらに浮く。
逃げることも、落ちることもできない。
出久の攻撃とお茶子の個性が、治崎の身体を空中へ繋ぎ止め続けていた。
ミリオはその光景を呆然と見ていた。
「……なんだ、あれ」
先ほどとは違う。
治崎が地面から離れた途端、戦況が完全にひっくり返った。
緑谷はもう、一撃ごとに距離を取る必要がない。
攻撃そのものが次の攻撃を生み、ほとんど間断なく連鎖している。
「……止まらない」
そう見えた。
実際には、永遠に続くわけではない。
発条機構が衝撃をすべて回収できるわけではなく、打撃のたびに損失は生まれる。
出久自身の筋肉にも負荷が蓄積し、白い装甲の亀裂も少しずつ広がっていく。
それでも、今この瞬間だけは。
治崎が地面へ戻る前に。
この好機が終わる前に。
出久は持っているすべてを叩き込む。
「うおおおおおおっ!!」
右拳が腹へ、左拳が胸へ、膝が側腹部へ。
回転した勢いで踵が肩へ突き刺さる。
治崎の巨大な身体が、打撃のたびに空中で振り回されていく。
「やめろ……!」
拳。
「やめろォ!」
肘。
「緑谷ァァァ!!」
膝。
そしてまた拳。
もはや一撃一撃を目で追うことすら難しい。
白い残像が治崎の周囲を走り、そのたびに巨体が大きく揺れる。
だが、出久の呼吸も限界に近づいていた。
拳を振るうたびに肩が軋み、脚を弾くたびに白い装甲の亀裂が広がる。
発条機構はなお動いているものの、もう長くは保たない。
それでも、治崎の方が先に崩れていた。
何本もあった腕はまともに狙いを定められず、巨体そのものも連打に振り回され続けている。
反撃しようにも、地面にも壁にも触れられない。
出久は一度だけ大きく息を吸った。
そして、治崎の巨体を蹴って距離を取る。
「……っ!」
治崎の目が、その動きを追う。
出久は空中で身体を丸めるように縮めた。
全身の発条が、残っている力を一つの方向へ集めるように沈み込んでいく。
狙うのは巨大化した肉体ではない。
その中心、異形の身体から生えている治崎本人。
「これで──」
出久の右拳が引かれる。
「終わりだ!」
全身が解放された。
白い身体が一直線に飛ぶ。
──ドゴォンッ!!
右拳が、治崎本体の頭部を真正面から捉えた。
「が──」
声すら最後まで出なかった。
衝撃が頭部から首へ抜け、さらに融合した巨大な身体全体へ伝わっていく。
治崎の頭が大きく跳ねた。
巨体が空中で仰け反る。
出久も反動で後方へ弾かれ、白い外骨格から細かな破片が散った。
「うっ……!」
お茶子が口元を押さえた。
先ほどから感じていた吐き気が、一気に込み上げる。
治崎の身体はあまりにも大きい。
それを長時間浮かせ続けた負荷が、完全に限界へ達していた。
そして今、出久の一撃が入った。
治崎は意識を保っているかどうかすら怪しい。
ここで終わらせる。
「……デク君!」
お茶子は両手を胸の前へ持ち上げた。
左右の五指を合わせる。
「落ちろおおおおおっ!」
解除。
治崎の巨体に重さが戻った。
「──っ!?」
先ほどまで空中に留まっていた巨大な身体が、一気に落下を始める。
何本もの腕が無意識に動く。
しかし、姿勢を整える時間などない。
出久の一撃で大きく仰け反ったまま、治崎は真下へ落ちていく。
そして。
──ズドォォォォォンッ!!
地面が沈んだ。
建物全体が大きく揺れ、周囲の瓦礫が跳ね上がる。
巨大な治崎の身体が床へ叩きつけられ、コンクリートが放射状にひび割れた。
粉塵が一気に舞い上がる。
「きゃっ!」
お茶子が腕で顔を庇う。
舞い上がった粉塵が辺りを覆い、しばらく何も見えなくなった。
出久は着地したものの、今度こそ踏ん張りきれなかった。
「ぐっ……!」
片膝をつき、右手を床につく。
ホワイト・ラビットの各所から細かな破片が零れ落ちる。
呼吸は荒く、拳を握ろうとしても指先が僅かに震えていた。
「はぁ……はぁ……」
それでも顔を上げ、粉塵の向こうの治崎が落下した場所を見つめた。
治崎は動かない。
少なくとも、すぐに立ち上がってくる気配はない。
「……終わった?」
お茶子も口元を押さえたまま、恐る恐る覗き込む。
「たぶん……」
出久が答えた、その直後だった。
──ぐちゅ。
嫌な音がした。
「……!」
出久の目が鋭くなる。
崩れた床の中央。
治崎の巨大な身体が、僅かに蠢いた。
「まだ……!」
立ち上がろうとしているわけではない。
むしろ逆だった。
異形に膨れ上がっていた肉体が、少しずつ形を失い始めている。
何本もあった腕が崩れ、巨大な胴体が分かれていく。
融合によって一つにされていた身体が、一人ずつ元の形へ組み戻されていた。
その間に、トガが壊理へ何かを囁く。
壊理が不安そうに見上げると、トガは笑ってその頭を一度撫で、瓦礫の陰から離れていく。
やがて、治崎の周囲に数人の男たちが倒れ込んだ。
誰も動かない、意識を失っているのか、呻き声すらほとんど聞こえなかった。
そして中央には、元の姿へ戻った治崎廻がいた。
「……っ、ぐ……」
満身創痍だった。
服は破れ、身体のあちこちに打撃の跡が残っている。
先ほどの巨体で受け続けた衝撃が消えたわけではなく、元へ戻った身体にも疲労と損傷がそのまま残っていた。
もはや自分を完全に修復する余力さえ残っていないのか、元の姿へ戻った身体には、それまで受けた損傷が色濃く残っていた。
「ぐ……っ!」
床へ顔を伏せても、それでも諦めなかった。
指を立て、這うようにして進んでいく。
「治崎……!」
治崎は出久を見ていない。
その目が向いている先は一つだけだった。
瓦礫の陰。
「……壊理……」
掠れた声が漏れる。
壊理の身体が強張った。
「……っ」
治崎はさらに這う。
「壊理……戻れ……」
手を伸ばす。
「まだ……終わってねえ……」
指先が床を擦る。
「お前が……いれば……」
その手は壊理に届く事なく、途中で誰かに掴まれた。
「……え?」
治崎の指が止まる。
細い皺の浮いた手が、がっしりと治崎の手を握る。
「もうやめろ、廻」
低く、疲れた声がした。
治崎の目が見開かれた、ゆっくりと顔を上げる。
そこに、一人の老人が立っていた。
「……親父?」
声が震えた。
「なんで……」
八斎會の組長。
治崎が「親父」と呼ぶ男。
本来ならば、意識を失い寝たきりになっているはずの老人が、治崎の手を握っていた。
「なんで、ここに……」
治崎の顔から怒りが消える。
代わりに浮かんだのは、純粋な動揺だった。
老人は呆れたように息を吐いた。
「お前があんまり馬鹿なことやってるからな」
治崎が言葉を失う。
「寝てもいられなくなったんだよ」
「親父……」
「廻」
老人はゆっくりと腰を落とす。
そして、治崎の手を握ったまま、その身体を引き寄せた。
「もうこんな馬鹿なこと、やめろ」
「……」
「組を大きくするとか、昔みたいにするとか、そんなことのために何人傷つけりゃ気が済む」
治崎の唇が震えた。
「でも……俺は……」
「もういい」
老人の腕が、治崎の背中へ回る。
「もういいんだ、廻」
「……親父」
治崎の身体から力が抜けた。
張り詰めていたものが、そこでようやく切れたようだった。
「俺は……ただ……」
最後まで言葉にならない。
元々、立っていることすらできないほど消耗していた。
出久の連打。
そして地面への激突。
そこまで耐えていた意識が、とうとう限界を迎える。
「……」
治崎の目が閉じた。
老人へ身体を預けたまま、完全に動かなくなる。
「治崎……?」
出久が警戒したまま様子を見る。
反応はない。
今度こそ、本当に意識を失っていた。
壊理も何も言わず、その光景を見つめている。
そして。
「……うぇ」
突然、老人が妙な声を出した。
「え?」
出久が瞬きをする。
老人の輪郭が揺れた。
すべてが崩れるように変わっていく。
数秒後。
そこにいたのは老人ではなく、個性『変身』を解除したトガヒミコだった。
「うぇぇ……抱きついちゃった」
心底嫌そうな顔をしながら、意識を失った治崎を両手で押し離す。
治崎の身体が床へ、ごろん、と転がった。