治崎の身体が床へ転がった、その直後だった。
出久の身体が大きく揺れた。
「……っ」
踏ん張ろうと右足を前へ出したものの、膝がほとんど反応しない。
戦闘中は無理やり押し込めていた疲労が、終わった途端に一気に噴き出したようだった。
「デク君?」
お茶子が顔を上げる。
出久は何か返そうとしたが、言葉になるより先に身体が前へ傾いた。
咄嗟に右手を床へ伸ばすものの、腕にも十分な力が残っておらず、そのまま白い外骨格ごと崩れ落ちる。
「デク君!」
「デクさん!」
お茶子が真っ先に駆け出し、治崎の傍を離れたトガもすぐに続いた。壊理も瓦礫だらけの床を懸命に走り、何度か躓きそうになりながら二人の後を追っていく。
お茶子は出久の傍へ膝をつくと、肩へそっと手を添えた。
「デク君! 聞こえる!?」
「……うん」
かすれてはいるが、返事はあった。
出久はうつ伏せになりかけていた身体を何とか横へ向け、大きく息を吐く。
ホワイト・ラビットは至るところが割れ、背中の装甲は大きく欠けていた。
肩や腕、脚にも細かな亀裂が走り、先ほどまで全身を一つの発条として酷使していた反動が、今になってまとめて押し寄せている。
「はぁ……っ、はぁ……」
指先まで力が抜け、身体を起こすことすら億劫だった。
それでも、出久は自分の傍まで駆け寄ってきた小さな姿を見つけると、荒い呼吸の合間に少しだけ笑った。
壊理は何も言わず、出久の顔を見つめている。
治崎との戦いが始まってからずっと強張っていた顔には、まだ恐怖が残っていた。治崎が倒れたことを理解していても、それだけで長い間染みついたものが消えてくれるわけではないのだろう。
出久は震える右手を少しだけ持ち上げた。
壊理の頭へ伸ばそうとして、途中で力が尽きる。
それを見た壊理が自分から身を寄せると、出久の指先がようやく白い髪へ触れた。
「……勝ったよ」
壊理の目が僅かに大きくなる。
出久はもう一度、今度ははっきりと笑った。
「壊理ちゃん」
「……」
「僕たちの勝ちだよ」
しばらく、壊理は何も言わなかった。
ただ出久の言葉を確かめるように、倒れている治崎へ視線を向ける。
動かない。
もうこちらへ這ってもこない。
自分の名前を呼びながら手を伸ばしてくることもない。
壊理は再び出久を見ると、その傍へ膝をついた。
「……ほんとに?」
「うん」
「もう……戻らなくていい?」
その問いに、出久の笑みが少しだけ消えた。
代わりに、迷いのない声で答える。
「戻らなくていい」
壊理の唇が震えた。
「絶対?」
「絶対」
小さな手が、出久の指を握った。
力は弱い。
けれど、離れようとはしなかった。
お茶子はそのやり取りを黙って見ていたが、やがて息を吐いて少しだけ表情を緩めた。
トガも同じように笑いながら、壊理の頭へ手を伸ばしかける。
その時だった。
「……デク君」
お茶子の声が低くなる。
出久も気づいていた。
周囲に、人の気配が増えている。
治崎との戦闘中は近づくことができず、瓦礫や壁の陰から状況を見守っていた警察官たちが、戦闘が完全に収まったことを確認して動き始めていた。
「緑谷出久!」
遠くから鋭い声が飛んだ。
壊理の肩がびくりと揺れる。
警官の一人が、盾越しにこちらを見据えていた。
「その場から動くな! 敵連合も抵抗をやめろ!」
別方向からも警官たちが姿を現す。
治崎との戦闘が終わったことで、これまで遠巻きに様子を窺っていた警察もようやく本格的に動き始めたのだろう。
崩れた壁の陰や通路の向こうから次々と人員が現れ、盾を前に出しながら慎重に距離を詰めてくる。
出久は起き上がろうと右腕へ力を込めたが、肘が震えただけで身体はほとんど持ち上がらなかった。
「……まずいな」
「まずいですねえ」
トガが警官たちを見回しながら、珍しく素直に同意する。
お茶子も口元を押さえたまま周囲へ視線を走らせた。
「逃げ道、ほとんど塞がれとるよ」
「うん……」
出久にも分かっていた。
今の自分では逃げきれない。
ホワイト・ラビットも戦闘に耐えられる状態ではなく、無理に動けば完全に崩れてしまうだろう。
トガも治崎との一件で消耗しているし、お茶子は巨大な治崎を浮かせ続けた反動でまだ顔色が悪い。
ましてや壊理を連れて、この包囲を強引に突破するなど現実的ではなかった。
「抵抗するな! 両手を見える位置に出せ!」
「緑谷出久、敵連合ともども確保する!」
怒声が重なる。
あと十数メートル。
出久は周囲を見回したが、どう考えても抜けられる場所はなかった。
その時だった。
足元から、低い振動が伝わってきた。
「……ん?」
最初に気づいたのはお茶子だった。
ひび割れた床が、僅かに上下している。
地震ではない。揺れているというより、動いていた。
「デク君、これ……」
お茶子が言い終える前に、床が大きくうねった。
コンクリートの表面が波のように持ち上がり、そのまま滑らかに沈んでいく。
「なに、これ!?」
トガが一歩下がる。
だが、逃げるより早く第二の波が足元を通り抜けた。
硬いはずの床が柔らかく沈み込み、トガの足首まで一気に呑み込む。
「えっ!?」
「トガさん!」
出久が手を伸ばす。
しかし、その出久自身の身体も沈み始めていた。
床に触れている背中から、まるで泥へ落ちていくように白い外骨格がゆっくりと埋まっていく。
「デクさん!」
壊理が慌てて出久へしがみついた。
「壊理ちゃん、離れないで!」
出久は残っている力で彼女を抱き寄せる。
お茶子も膝まで床へ沈み、驚きながら必死に出久の肩を掴んだ。
「ちょ、ちょっと待って! これ何!?」
「僕にも分からない!」
「誰かの個性!?」
「たぶん!」
床の異変は出久たちの周囲だけではなかった。
少し離れた場所で倒れていた治崎と八斎會の組員たちの下でも、コンクリートが大きく波打ち始める。
意識を失った組員の身体が傾き、そのまま床へ沈んでいく。
その頃、警察側では前進の準備が整いつつあった。
「第一班、右から回れ! 第二班は正面! 治崎にも警戒しろ!」
「了解!」
出久らの周囲は、崩れた壁や舞い上がる粉塵によって視界が遮られてしまっている。
「行くぞ!」
合図と同時に、盾を構えた警官たちが一斉に前へ出る。
その時にはもう、遅かった。
出久の肩が沈み、壊理の白い髪も床の下へ消えていく。お茶子とトガもほぼ同時に呑み込まれ、最後に治崎の周囲でうねっていた床が元の形へ戻った。
異変は、ほんの十数秒にも満たない出来事だった。
警察側から見えたのは、出久たちの姿が瓦礫と粉塵の向こうへ隠れたところまで。
その先で何が起きたのかを目撃した者はいなかった。
「緑谷出久! 抵抗するな!」
先頭の警官が瓦礫を回り込む。
盾を構えたまま戦場跡へ踏み込み──そこで足を止めた。
「……は?」
誰もいない。
つい先ほどまで出久たちがいたはずの場所には、砕けたコンクリートと瓦礫が散乱しているだけだった。
「緑谷は!?」
後続の警官たちも次々と踏み込んでくる。
「いません!」
「トガヒミコもいない!」
「待て、治崎はどうした!?」
その言葉で全員が周囲を見回すが、誰もいない
治崎だけではない。
融合を解かれ、床へ倒れていた八斎會の組員たちまで残らず消えている。
つい数十秒前まで、この場所には何人もの人間がいた。
それが警察が瓦礫を回り込んだ僅かな間に、一人残らず姿を消していた。
「馬鹿な……」
警官の一人が呆然と呟いた。
──
その頃、警察が無人となった戦場跡へ踏み込んでいることなど、出久たちには知る由もなかった。
床へ呑み込まれた瞬間、出久の視界は完全な暗闇に閉ざされていた。
「──っ!?」
落ちているのか、横へ運ばれているのか、それすら分からない。
全身を包んでいるのは土でもコンクリートでもなく、妙に柔らかい何かだった。
身体へ圧力はかかっているものの息苦しいほどではなく、むしろ狭い管の中を無理やり押し流されているような感覚に近い。
「壊理ちゃん!」
「デクさん!」
すぐ胸元から返事があった。
出久はそれだけで少し安堵し、抱き寄せた壊理の身体を両腕で包み直した。
何が起きているのか分からない以上、せめて自分の身体を盾にしておくしかない。
壊理を確認した直後、出久の身体を包んでいた感触が突然なくなった。
「え──」
重力が戻る。
身体が落ちた。
「うわっ!」
出久は咄嗟に壊理を胸元へ抱え込み、自分の背中を下へ向けた。
直後、背中から何か柔らかいものへ落ちる。
──ボスンッ!
「ぐっ……!」
衝撃そのものは大きくない。
しかし、治崎との戦闘で限界まで酷使した身体には、それだけでも十分に響いた。
「デクさん!」
「だ、大丈夫……」
出久は壊理を抱いたまま顔を上げた。
白い天井が見える。
「……え?」
鼻へ入ってくる消毒液の匂い。
先ほどまでいた崩壊寸前の建物とはまるで違う。
「ここ……どこ?」
壊理も出久の胸元から恐る恐る顔を上げる。
どうやら出久たちは、古い病室のような場所へ放り出されたらしい。
それほど広くはない一室だった。
壁際には医療器具や棚が並び、中央付近には大きなベッドが置かれている。
八斎會の地下施設の一部なのだろうが、これまで通ってきた研究設備とは違い、誰か一人を長期間療養させるために使われているように見えた。
「いたた……」
少し離れた場所から、お茶子の声がする。
見ると、彼女も床へ落とされていた。
幸いそれほど高い位置から放り出されたわけではなかったらしく、腰をさすりながら身体を起こしている。
「麗日さん、大丈夫?」
「なんとか……それよりデク君のほうこそ、大丈夫?」
「うん、僕も大丈夫」
出久は壊理を抱えたまま壁へ背を預け、どうにか上半身だけを起こす。
そこにいたのは自分たちだけではなかった。
「ボス! 無事か! 死にそうじゃねえか!」
「デク君!」
「おい、緑谷!」
聞き慣れた声が一斉に飛んでくる。
トゥワイス、コンプレス、マグネ、スピナー。さらにジェントルとラブラバまでいる。
地上で警察やヒーローを相手に戦っていたはずの面々が、揃って同じ部屋へ放り込まれていた。
「みんな……!」
出久は驚きながらも、それぞれが大きな怪我をしていないことを確かめて安堵した。
「地上にいた人たちまで……どうやって」
「たぶん、私たちと同じですねえ」
トガはそれほど驚いた様子もなく周囲を見回すと、ふと思い出したように手を打った。
「あ。ここ、デク君たちを探している時に見つけたお部屋みたいですね」
「……来たことあるの?」
「はい。ここで、あのお爺さんに頼み事をされたのです」
トガが指差した先には、一台のベッドがあった。
そこには一人の老人が寝かされている。
出久はその顔を見て、すぐに気づいた。
「この人……」
つい先ほど見たばかりだ。
治崎へ「もうやめろ」と告げ、最後には抱き締めて戦意を失わせた老人──あの時はトガが変身していたが、目の前に眠る人物こそがその本人なのだろう。
壊理も出久の腕の中から老人を見つめ、小さく呟いた。
「……組長さん」
「この人が……」
出久が老人を見ていると、そのベッドの傍から荒い呼吸が聞こえてきた。
「ぜぇ……っ、はぁ……っ……」
一人の大男が、ベッドの脚へ背中を預けるようにしてへたり込んでいた。
かなり大柄な男だったが、今はその身体にほとんど力が残っていないらしい。
顔色は青ざめ、全身から汗を流しながら、どうにか意識だけを繋ぎ止めている。
その手には、小さな注射器が握られていた。
すでに中身は残っていない。
「それ……個性ブースト剤……」
出久が眉を寄せる。
大男は答えなかった。
震える腕で身体を支えながら、部屋へ運び込まれた者たちへゆっくりと視線を巡らせる。
全員がいることを確かめると、大男はようやくベッドへ顔を向けた。
「……組長」
掠れた声で呼びかける。
老人から返事はない。
それでも大男は、僅かに安堵したような表情を浮かべた。
「全員……運び終えました」
その言葉を最後に、身体から力が抜ける。
「えっ」
大柄な身体がゆっくりと傾き、そのまま床へ倒れ込んだ。
手から零れた空の容器が乾いた音を立て、床を転がっていく。
「……この人が、僕たちを?」
出久は倒れた大男と、部屋に集められた面々を見比べた。
自分たちだけならまだしも、地上にいたトゥワイスたちまで運び込まれている。
個性ブースト剤まで使ったことを考えれば、本来なら到底届かない範囲にまで個性を及ぼしたのだろう。
お茶子が大男の呼吸を確かめようと近づいた、その時だった。
「……ぉ……」
床の一角から、低い呻き声が聞こえた。
意識を失っていた治崎の指先が動いていた。
「……治崎」
出久はすぐに壊理を自分の傍へ引き寄せる。
治崎は顔を歪めながら薄く目を開けた。
焦点の定まらない視線が天井を彷徨い、何度か瞬きを繰り返す。
「……ここ、は……」
身体を起こそうと腕をついたが、先ほどの戦闘で受けた損傷は消えていない。
肘が震え、途中で力が抜けそうになる。それでも治崎は歯を食いしばり、荒い息を吐きながらどうにか上半身を持ち上げた。
そして、視界にベッドが入った。
「──親父!?」
それまで朦朧としていた治崎の意識が、一瞬で覚醒した。
「親父……!」
痛みも忘れたように身を起こそうとして、すぐに膝をつく。それでも床へ手をつき、ほとんど這うようにしてベッドへ近づこうとした。
「なんで……ここに……」
その途中で、治崎の動きが止まった。
ベッドにいる。
間違いない。
長く見慣れてきた老人が、以前と変わらない姿でそこに寝かされている。
ならば。
治崎の脳裏に、地上での光景が蘇った。
自分を抱き締めた老人。
その言葉を聞いた途端、張り詰めていたものが切れ、抵抗する力さえ失った自分。
だが、本物の組長はずっとここにいた。
「……じゃあ」
治崎の顔から、驚きが消えていく。
代わりに浮かんだのは、理解と、それに続いて急速に膨れ上がる怒りだった。
「……あれは」
ゆっくりと首を動かす。
その視線の先にいたのは、トガだった。
トガは治崎と目が合うと、きょとんと首を傾げた。
「はい?」
「てめえ……」
治崎の声が震えた。
疲労ではない。
「てめえ……!」
床へ手をつき、無理やり立ち上がる。
身体は満足に動かず、立っただけで大きくふらついた。
それでも治崎は構わずトガへ向かう。
「ふざけたことをしやがって……!」
「あ」
トガがようやく何のことか分かったように声を上げる。
「さっきのことですか?」
「他に何がある!」
怒鳴っただけで傷へ響いたのか、治崎の顔が苦痛に歪む。
それでも止まらない。
「親父の姿を使って……俺を騙しやがったな!」
「騙したというか、伝言を──」
「黙れ!」
治崎が一歩踏み出す。
足元は覚束ない。
あれほど巨大な身体となって出久と戦っていた男とは思えないほど弱々しい足取りだったが、その目だけには剥き出しの怒りが宿っている。
「親父の顔でくだらねえ真似を……!」
トガへ詰め寄ろうとする治崎を見て、出久も壁へ手をついた。
「治崎、やめろ」
「てめえは黙ってろ!」
「壊理ちゃんの前でまた暴れるなら──」
立てる状態ではない。
それでも出久が身体を起こそうとしたため、お茶子が慌てて肩を押さえた。
「デク君も動いたらあかんって!」
「でも……」
「こっちにはうちらがおるから!」
トガの前にはすでにスピナーとマグネが出ており、コンプレスも治崎の動きを警戒している。
トゥワイスに至っては今にも飛びかかりそうだった。
「トガちゃんに触ってみろ! ぶっ殺すぞ! 話し合おうじゃねえか!」
「元気ですね」
トガ本人だけは普段と変わらない。
それが余計に治崎の神経を逆撫でしたらしい。
「てめえ……!」
治崎が震える腕を伸ばそうとした。
その時だった。
「──やめろ、廻」
掠れた声が、病室に響いた。
治崎の身体が固まった。
出久たちも一斉に声のした方を見る。
ベッドの上。
先ほどまで眠り続けていた老人の目が、薄く開いていた。
「……親父?」
先ほどの怒気が嘘のように、治崎の声から力が抜ける。
「なんで……動けるんだよ」
トガのことなど忘れたように、治崎はベッドへ向き直った。
老人はまだ完全に覚醒してはいないらしい。
瞼は重そうで、呼吸も決して強くない。それでもゆっくりと顔を動かし、治崎を見た。
「なんだ、廻。てめぇが寝たきりにした老人が起き上がって、ビビってんのか」
治崎が言葉を失う。
「それに……そのお嬢さんに当たるのは筋違いだ」
「何を……」
治崎は理解できないという顔でトガを振り返った。
「あいつは親父の姿を使って、俺を──」
「俺が頼んだ」
老人の一言で、治崎の言葉が止まった。
「……は?」
「そのお嬢さんは、俺からの伝言を伝えてくれたんだ」
老人はゆっくり息を吐いた、その声は弱い。
しかし、治崎を黙らせるには十分だった。
「……伝言?」
治崎の眉が寄る。
老人はしばらく呼吸を整えてから、枕元へ手をついた。
細い腕は震えていたが、それでも自分の力で上半身を起こそうとする。
「無理しない方が……」
出久が思わず声をかける。
「若いのに心配されるほど耄碌しちゃいねえよ」
そう返しながらも、身体は思うようには動かないらしい。
何度か息を詰まらせ、それでも老人はゆっくりと身体を起こし、起こされた背もたれへ身体を預けた
その様子を見ていた治崎の顔が、さらに険しくなる。
「親父……どうして……」
「どうして起きてるか、か?」
老人は鼻で笑った。
「てめぇに賛同しない奴が、八斎會に一人もいねえとでも思ってたのか」
「……何?」
「いるんだよ。何人もな」
治崎の表情が僅かに固まる。
「てめぇのやり方を気に入らねえ奴。俺をこんな目に遭わせたことを許してねえ奴。それでも表立って逆らえば潰されるから、黙って従ってた奴らがな」
老人は一度咳き込み、胸元を押さえた。
「そいつらに薬やら何やら調整してもらってた。身体はろくに動かせねえが、意識だけは保てるようにな」
「……」
「俺が何も知らずに寝てたと思ったか?」
返事はない。
老人は治崎を見つめたまま、呆れたように息を吐く。
「廻」
「……」
「てめぇ、本当に人徳がねえなぁ」
病室が静まり返った。
トゥワイスが何か言いかけたが、コンプレスが肩へ手を置いて止める。
トガも珍しく口を挟まず、老人と治崎を交互に見ていた。
治崎は拳を握り締める。
「俺は……八斎會のために……」
「そういうところだ」
老人は即座に切った。
「てめぇは何でも『八斎會のため』で片づける。人を薬にしても、仲間を道具にしても、ガキ一人泣かせ続けてもな」
壊理の身体が僅かに強張る。
出久はそれに気づき、肩を抱き寄せた。
「親父、俺は……」
「言い訳は聞き飽きた」
老人は治崎から視線を外した。
「お嬢さんに伝えてもらった通りだ。馬鹿なことはもうやめろ、廻」
声を荒げたわけではなかった。
それでも、その言葉は治崎の怒鳴り声よりも重く病室に落ちた。
「八斎會をどうにかしたかった気持ちまで否定する気はねえ。だがな、やり方を間違えすぎた」
「……」
「もう終わりにしろ」
治崎は何も言わない。
老人はしばらくその顔を見ていたが、やがて視線を動かした。
出久の傍から離れず、服を握っている小さな手。
それを見た後で、もう一度出久へ視線を戻した。
やがて、ゆっくりと背筋を伸ばす。
まだ身体は本調子には程遠い。
上半身を起こしているだけでも辛いのだろう。
腕は細かく震え、呼吸にも僅かな乱れがある。
それでも老人は姿勢を正した。
そして、出久に向かって深々と頭を下げた。
「……え」
出久が目を見開く。
「ちょ、ちょっと待ってください。身体が──」
老人は頭を上げない。
「この度は」
低く、はっきりとした声だった。
「ウチの馬鹿の不始末によって、多大な迷惑をかけてしまい──申し訳ありませんでした」
出久だけではない。
病室にいた者たちの視線が、一斉に老人へ集まる。
治崎もまた、呆然としていた。
「親父……?」
老人は構わず続けた。
「八斎會組長として、正式に謝罪しやす」
その言葉には、先ほどまで治崎を叱っていた時とは違う重みがあった。
親が子を叱るようなものではない。
八斎會という組織の長が、敵対した相手へ頭を下げている。
出久にも、それくらいは理解できた。
「いや、でも……」
どう返せばいいのか分からない。
自分たちは八斎會へ殴り込みをかけた側でもある。
治崎を倒し、壊理を連れ出し、その結果として建物も組織も滅茶苦茶になった。
そんな相手に、組長自ら頭を下げている。
「僕たちも、かなり好き勝手やったというか……」
「それとこれとは別だ」
老人が答える。
「先に筋を違えたのはウチだ」
「親父!」
治崎が思わず声を上げる。
「黙れ」
それだけで、治崎は口を噤んだ。
老人はゆっくり頭を上げた。
そして今度は、出久だけでなく、その背後にいるトゥワイスたちへも視線を向ける。
「それから」
一度息を整える。
「以降、八斎會は敵連合の要求を全て飲み、今回の抗争の後始末をさせて頂きやす」
騒然となったのは敵連合側だけではない。
「組長!」
床へ倒れていた八斎會の組員の一人が、いつの間にか意識を取り戻していた。
「それは……!」
別の場所でも呻き声が上がり、何人かが身体を起こし始める。
治崎との融合を解かれた直後で、まだ満足に動ける状態ではない。
それでも今の言葉だけは聞き捨てならなかったらしい。
「敵連合の要求を全部って……! そんなの実質併合じゃねえですか!」
「そいつらはウチに乗り込んできた連中でさあ!」
「若頭までこんな目に遭わせて……!」
「それを俺たちが……!」
次々と不満の声が上がった。
老人は反論を遮らず、しばらく黙って聞いていた。
やがてゆっくり顔を上げ、騒ぐ組員たちへ鋭い視線を向ける。
それだけで、病室が静まり返った。
怒鳴りも、脅しもしない。
それでも眼光を受けた男たちは一人、また一人と口を閉ざしていく。
最後まで何か言いたそうにしていた男も、やがて視線を伏せた。
「……へい」
治崎のように力で捻じ伏せる必要すらない。
出久はようやく、目の前の老人が八斎會を束ねてきた男なのだと理解した。
とはいえ、困った。
要求は全て飲むと言われても、出久には欲しいものなど思いつかない。
金も縄張りも必要ないし、八斎會を従わせたいわけでもない。
そもそも、ここへ来た目的は最初から一つだけだった。
壊理を助けること。
それはもう、果たしている。
「うーん……」
「デク君、悩んでます?」
「悩むよ。急に何でも言っていいって言われても……」
トガに答えた、その時だった。
きゅるる、と小さな音がした。
出久が下を見ると、服を握っていた壊理が固まっている。
少し遅れて自分のお腹を両手で押さえ、その頬がみるみる赤くなった。
「……おなか、すいた」
出久は一瞬目を丸くしたが、すぐに柔らかく笑った。
「お腹空いたんだね」
壊理は恥ずかしそうに頷く。
そういえば、いつからまともに食事を取っていないのだろう。
連れ去られ、拘束され、逃げて、また捕まり、ようやく救い出されたと思えば今度は戦闘に巻き込まれた。
出久自身も空腹を感じる余裕すらなかったが、壊理はまだ小さな子供だ。
出久は少し考えたあと、組長へ顔を向けた。
「じゃあ……」
「ん?」
「まず、一つお願いしてもいいですか?」
組長が眉を上げる。
「もちろんだ。言ってみな」
出久はもう一度笑ってから、組長へ向き直った。
「食事を用意して貰えますか? デザートはりんごでお願いします」
それを聞いた組長は、しばらく出久を見つめていた。
敵連合の要求を全て飲む。
そう宣言した直後に出てきた最初の要求が、食事とりんご。
あまりにも拍子抜けする内容だったのだろう。
やがて組長は喉の奥で低く笑った。
「……そうかい」
その笑いには、先ほどまでの険しさはなかった。
「分かった」
組長は近くにいた組員へ視線を向ける。
「聞いたな」
「……へい」
「飯の用意だ。全員分な」
「へい!」
「それと」
組長は壊理を見る。
「りんごも忘れんな」
「……へい!」
組員の返事を聞いて、壊理の顔がほんの少しだけ明るくなる。
出久はそれを見て、満足そうに息を吐いた。
「じゃあ、僕からは今のところそれで」
「本当にそれだけか?」
「はい」
「もっとあるだろ。金だの何だの」
「今はいらないです」
出久はあっさり答える。
「それより、今は壊理ちゃんにちゃんとご飯を食べてもらう方が大事なので」
組長は一瞬黙った。
それから、どこか呆れたように笑う。
「……変な奴だな、てめぇは」
「よく言われます」
出久も少し笑った。
その横で、壊理はまだ出久の服を握ったまま、小さな声で呟く。
「……りんご」
「うん」
「いっぱいあるかな」
「たぶんあるよ」
「……赤いの?」
「赤いのがいい?」
「うん」
出久は頷いた。
「じゃあ赤いりんごにしてもらおう」
壊理の口元に、ほんの僅かだが笑みが浮かんだ。