どちらが退学か、最終的にプロレスで決めることになった二人。
圧倒的に櫛田が有利に思われた勝負だったが、佐倉愛里には秘密があった。

それは彼女が、初代タイガーマスクの大ファンだということ。

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前提から狂っているのであまり細かいこと気にせず見ていただけると助かります


満場一致プロレス対決

「では、最終確認を行う」

 

 茶柱佐枝の声が教室の空気を押し潰すように響き、黒板に残された『満場一致特別試験』の文字が、まるでこの場にいる全員へ逃げ場のなさを突きつけているようだった。

 

 最後の設問は『退学者を一名選出せよ』という短い一文でありながら、教室の中にある友情も信頼も打算も罪悪感も全部まとめて秤に乗せる、あまりにも悪趣味な問いだった。

 

 泣きそうな顔で俯く者、唇を噛んで黙る者、誰かに責任を押しつけたいのに押しつけきれずにいる者、そして自分だけは選ばれたくないという本音を隠しきれない者たちの中で、櫛田桔梗だけがいつものように柔らかく笑っていた。

 

「それで? どうするの?」

 

 櫛田は首を傾げ、まるで友達同士で放課後の予定を決めるかのような声で続けた。

 

「私を退学にする? それとも佐倉さん?」

 

 佐倉愛里は席に座ったまま小さく肩を震わせ、視線を机の上に落とし、膝の上で握りしめた手だけが必死に何かに耐えているように白くなっていた。

 

「櫛田さん、そんな言い方はやめてほしい」

 

 平田が苦しげに口を開いたが、櫛田は困ったように笑いながら、少しも困っていない目で平田を見た。

 

「どうして? これはそういう試験でしょ?」

 

 櫛田の声は柔らかいままだったが、言葉の中身だけが鋭く尖っていた。

 

「誰か一人を退学にするんだよね? だったら、比べるしかないよね?」

 

 平田は返す言葉を失い、その沈黙が逆にこの試験の残酷さを教室中へ広げてしまった。

 

「私はクラスに必要だと思うよ。みんなと話して、情報を集めて、友達も多くて、今までだってちゃんと動いてきたつもり」

 

 櫛田は笑顔のまま自分の価値を並べ、そこからゆっくり佐倉へ視線を向けた。

 

「佐倉さんは、何かした? このクラスのために、みんなのために」

 

 佐倉の肩がびくりと跳ね、教室の何人かは思わず目を逸らした。

 

 佐倉が悪人だからではなく、佐倉が怠けていたからでもなく、ただこの試験が人間の弱いところを数字や役割に変換してしまうせいで、彼女はその天秤の上であまりにも軽く見えてしまった。

 

「……待ってください」

 

 消え入りそうな声だった。

 

 全員の視線が集まる中、佐倉愛里は震えながら椅子から立ち上がり、今にも泣き出しそうな顔のまま、それでも机の端を握って自分の体を支えていた。

 

「私にも……勝負させてください」

 

 櫛田が目を細めた。

 

「勝負?」

 

「はい」

 

 佐倉は唇を噛み、逃げたい気持ちを必死に押し込めるように息を吸った。

 

「このまま、何もできないまま退学になるのは嫌です」

 

 平田が慎重に声をかけた。

 

「佐倉さん、勝負って……何をするつもり?」

 

 佐倉はしばらく黙った。

 

 言えば笑われる、分かっていながら、それでも自分の中にある唯一の武器を差し出すように言った。

 

「プロレスです」

 

 教室が完全に止まった。

 

「……は?」

 

 池が間の抜けた声を漏らし、続いてあちこちから小さなどよめきが起こった。

 

「プロレス?」

 

「佐倉さんが?」

 

「なんで?」

 

 櫛田は堪えきれないように笑った。

 

「佐倉さん、プロレスするの?」

 

 その笑いは優しくなかった。

 

「ごめんね。ちょっと想像できないかも」

 

 佐倉の顔は真っ赤になったが、それでも引かずに、胸の奥に隠していたものを取り出すように言った。

 

「私……佐山聡さんの大ファンなんです」

 

 また教室が止まった。

 

「佐山……?」

 

 池が首を傾げた瞬間、須藤が反射的に答えた。

 

「初代タイガーマスクだ」

 

 そう言ってから、須藤自身が驚いたように佐倉を見た。

 

「え、佐倉、お前マジか?」

 

 佐倉は小さく頷き、恥ずかしさと恐怖を押し殺すようにしながら、これまで誰にも見せなかった自分の蓄積を口にした。

 

「試合の映像、ずっと見ていました。入場から、構え、ステップ、ロープに走る前の踏み込み、跳ぶ時の身体の畳み方、腕の振り方、回転の入り方、丸め込みに繋げるタイミング……何度も止めて、戻して、真似しました」

 

 教室が静かになった。

 

 佐倉の声は震えていたが、ただ怯えているだけではなく、自分が一人で積み重ねてきた時間だけは否定されたくないという芯があった。

 

「人にかけたことはありません。試合もしたことはありません。でも、見ていただけじゃありません」

 

 櫛田の笑顔が、ほんの少しだけ止まった。

 

 佐倉は続けた。

 

「部屋では、ロープの反動だけは真似できませんでした。でも……反動をもらった後に、どう身体を使うのかは覚えています」

 

 池がぽつりと呟いた。

 

「逆に怖いな……」

 

 須藤が腕を組み、佐倉を見る目を少し変えた。

 

「いや、それならあるかもしれねえ」

 

「何が?」

 

「ロープ自体は初めてでも、戻ってきた後に何をするかを体が覚えてるなら、ワンチャンある」

 

 櫛田は鼻で笑った。

 

「ワンチャン?」

 

 そして、佐倉を見た。

 

「佐倉さんが?」

 

 佐倉は顔を赤くしたまま、それでも視線を逸らさなかった。

 

「勝てるとは、思ってません」

 

 そこで一度、言葉を切った。

 

「でも、何もできないって決められるのは嫌です」

 

 その言葉に、櫛田の笑顔が止まった。

 

「私が好きで、憧れて、一人で続けたものです。誰にも見せなかったけど、私にとっては……意味がありました」

 

 佐倉は涙を浮かべたまま、はっきりと言った。

 

「だから、これで勝負させてください」

 

 堀北が佐倉を見つめ、平田は何か言おうとして、結局言葉を飲み込んだ。

 

 茶柱が口を開いた。

 

「形式としては、教師立ち会いの競技なら申請は可能だ」

 

 全員が茶柱を見る。

 

「本気ですか?」

 

 平田が問うと、茶柱は表情を変えないまま続けた。

 

「私は可能性を述べているだけだ。佐倉本人が望み、櫛田が受け、クラスが満場一致で認めるなら、試験の決着方式として扱う余地はある」

 

 櫛田は佐倉を見て、再び笑った。

 

「私はいいよ? 佐倉さんとプロレスでも何でも」

 

 佐倉が小さく息を呑む。

 

 櫛田は続けた。

 

「60分も必要ないと思うけど」

 

 その一言に、佐倉の指が震えた。

 

 それでも、彼女は逃げなかった。

 

 堀北が静かに言った。

 

「では、満場一致を取るわ」

 

 その異様な提案は、異様なまま可決された。

 

 ──-

 

 体育館には、簡易リングが作られていた。

 

 マットが敷かれ、四方にはロープが張られ、クラスメイトたちはいつもの体育授業とはまったく違う重い空気の中で周囲に集まっていた。

 

 これは余興ではなく、体育祭でもなく、退学者を決めるための試合だった。

 

 リングの片側に、櫛田桔梗が立っていた。

 

 体操服姿で髪を後ろにまとめ、表情だけ見ればいつもの櫛田に見えたが、もう誰もその笑顔をそのまま信じることはできなかった。

 

 反対側に立つ佐倉愛里は眼鏡を外し、髪を簡単に結び、足を震わせながらもロープとマットと櫛田の位置を必死に見ていた。

 

「愛里」

 

 長谷部がリングの外から声をかけた。

 

 声が少し震えていた。

 

「無理しないで。でも……負けないで」

 

 佐倉は小さく頷いた。

 

「うん」

 

 須藤が叫んだ。

 

「佐倉! 力で行くなよ! ロープに振られたら逆らいすぎるな!」

 

 佐倉は顔を赤くしながらも頷いた。

 

「は、はい……!」

 

 櫛田が微笑んだ。

 

「すごいね、佐倉さん。みんなに応援してもらえて」

 

 佐倉は答えなかった。

 

 櫛田はゆっくり中央へ歩き、右手を差し出した。

 

「よろしくね」

 

 佐倉は一瞬ためらい、その手を握った。

 

 櫛田の指に力が入り、佐倉の表情がわずかに歪んだ。

 

 握手ではなく、圧だった。

 

 櫛田は顔だけ笑ったまま、佐倉にだけ聞こえる声で囁いた。

 

「楽しみにしてるね。タイガーマスク」

 

 佐倉の顔が強張ったが、手を引かなかった。

 

「……はい」

 

 ゴングが鳴った。

 

 ### 0分〜10分

 

 最初に動いたのは櫛田だった。

 

 佐倉の手首を取って素早く捻り、リストロックで膝を沈ませると、そのまま背後へ回って腕を背中側へ送った。

 

「っ……!」

 

 佐倉の顔が痛みに歪む。

 

「どうしたの?」

 

 櫛田が耳元で囁いた。

 

「タイガーマスクなんでしょ?」

 

 佐倉は答えられなかった。

 

 櫛田はさらに腕を捻り、観客席の長谷部が息を呑むのを視界の端に入れ、口元だけで笑った。

 

 そして、佐倉をロープ際へ押し込んだ。

 

 肩がロープに食い込む。

 

「ロープ!」

 

 レフェリーが声を上げる。

 

 だが、櫛田はすぐには離さなかった。

 

 一秒、二秒と佐倉の肩にロープが食い込み、レフェリーがもう一度「離れろ!」と声を強めたところで、櫛田はぱっと手を離した。

 

「すみません、力が入りすぎちゃって」

 

 笑顔だった。

 

 可愛い声だった。

 

 だからこそ、余計に恐ろしかった。

 

 佐倉がロープにもたれかかり息を吸った瞬間、櫛田はまた近づいて腕を取り、ロープから離れかけた佐倉をマットへ引き倒した。

 

 背中から落ちた佐倉に、レフェリーがすぐカウントに入る。

 

「ワン!」

 

 佐倉は慌てて肩を上げた。

 

 櫛田はすぐに押さえ込み直し、胸元ではなく呼吸がしづらい位置へ体重を乗せた。

 

「ワン!」

 

 佐倉がまた肩を上げる。

 

 櫛田は体を起こし、佐倉を見下ろした。

 

「思ったより頑張るね」

 

 声は優しい。

 

 だが、目は冷たかった。

 

「でも、これじゃ何もできないよ?」

 

 佐倉は息を荒げながらマットに手をつき、立ち上がる。

 

 櫛田が今度は首を抱えにいった瞬間。

 

 佐倉の身体が、沈んだ。

 

 前転するように腕の下を抜けようとし、肩が引っかかって少しもつれながらも、なんとか櫛田の腕から逃れた。

 

 佐倉は転がって距離を取る。

 

 その光景に周囲がどよめく。

 

「……今の逃げ方、普通じゃねえな」

 

 須藤が目を見開いた。

 

 櫛田の眉がわずかに動く。

 

「へえ」

 

 佐倉は立ち上がる。

 

「佐倉さん、本当に真似してたんだ」

 

 櫛田が笑った。

 

 佐倉は答えなかった。

 

 櫛田がじりじりと近づき、佐倉は下がる。

 

 さらに踏み込まれた佐倉は横へ逃げ、そのままロープへ向かった。

 

「逃げるの?」

 

 櫛田が追う。

 

 佐倉の背中がロープに触れた瞬間、佐倉の顔が強張った。

 

「想像より、強い……!」

 

 部屋で映像を見ていただけでは、絶対にわからない反動だった。

 

 ロープはただ背中を受け止めるものではなく、自分の意思とは別に身体を前へ押し返してくる生き物のようなものだった。

 

「っ……!」

 

 足がもつれかける。

 

 だが、戻ってくる瞬間の形だけは知っていた。

 

 何度も見て、何度も止めて、何度も戻した、初代タイガーマスクがロープから返ってくる瞬間の身体の畳み方だけは、佐倉の中に残っていた。

 

 佐倉は反動を殺さないように、倒れかけた体を無理やり前へ流す。

 そして腕を交差させ、櫛田めがけて跳んだ。

 

 フライングクロスチョップ。

 

 高さはなく、威力もなく、技というよりロープに吹っ飛ばされた勢いを前に流しただけにも見えた。

 

 だが、櫛田の予想にはなかった。

 

 佐倉の腕が櫛田の胸元へ入り、二人の体がぶつかる。

 

 櫛田が後ろへ倒れた。

 

「ワン!」

 

 レフェリーがカウントに入る。

 

 櫛田は即座に返した。

 

 カウント1。

 

 それでも、先にフォールを奪ったのは佐倉だった。

 

「うおっ! マジか!」

 

 須藤が声を上げた。

 

 池も目を丸くしていた。

 

「今、飛んだ?」

 

「飛んだっていうか、吹っ飛ばされてなかった?」

 

「でも当てたぞ!」

 

 長谷部の声が震えていた。

 

「愛里、すごい……!」

 

 佐倉はマットに手をついて起き上がり、自分でも驚いているような顔をしていた。

 

 初めて本物のロープに触れ、初めてその反動を受け、初めて人に当てたのだ。

 

 櫛田はすぐに起き上がった。

 

 笑顔は戻っていたが、ほんの少しだけ硬かった。

 

「びっくりした。本当にできるんだね」

 

 佐倉は肩で息をしていた。

 

「……私も、びっくりしました」

 

「そう」

 

 櫛田の声が低くなる。

 

「じゃあ、次は失敗させてあげる」

 

 櫛田はそこから露骨に距離を潰し始めた。

 

 ロープへ走らせず、横へ逃げようとすれば腕を取り、中央へ戻してマットに倒す。

 

「ワン!」

 

 佐倉が返す。

 

「ツー!」

 

 また返す。

 

 櫛田は笑顔で体を起こし、誰にも聞こえない声で囁いた。

 

「ねえ、佐倉さん。さっきの一回で、もう終わり?」

 

 ### 10分〜25分

 

 佐倉はロープへ行こうとしたが、櫛田はそれを許さなかった。

 

 近づき、組み、倒し、押さえ、ロープに届きそうになった瞬間だけ体重をずらし、佐倉の指先が届くか届かないかの場所で止める。

 

 佐倉の足がロープにかかった。

 

「ブレイク!」

 

 レフェリーが声を上げる。

 

 だが櫛田は押さえ込みを解かず、一秒、二秒と体重を乗せ続けた。

 

「櫛田、離れろ!」

 

「はい」

 

 櫛田は笑顔で離れた。

 

「ごめんねぇ? 佐倉さん。聞こえなかった」

 

 佐倉は荒く息を吐き、痛む肩と腕を引きずりながらもまたロープへ手を伸ばした。

 

 その手を、櫛田の足が踏む寸前で止める。

 

 レフェリーが見れば踏んでいない。

 

 けれど、佐倉の指は反射的に引っ込んだ。

 

「怖い?」

 

 櫛田が小さく囁く。

 

「じゃあやめれば?」

 

「櫛田、やり方が汚ねえぞ!」

 

 須藤が叫んだ。

 

 櫛田はリングの中央で振り返った。

 

「汚い?」

 

 そして、笑った。

 

「ルール違反はしてないよ?」

 

 それは事実だった。

 

 明確な反則ではない。

 

 けれど、見ている全員がわかっていた。

 

 櫛田桔梗は、佐倉愛里を壊しにいっている。

 

 佐倉がロープへ逃げようとした瞬間、櫛田の手が伸びた。

 

 周囲からは髪を掴んだように見えた。

 

 佐倉の頭がわずかに後ろへ引かれる。

 

「痛っ……」

 

「今の髪掴んだだろ!」

 

 須藤がまた叫ぶ。

 

 櫛田はきょとんとした顔で手を開いた。

 

「え? 肩を押さえただけだよ?」

 

 レフェリーが櫛田を見る。

 

 櫛田は困ったように笑う。

 

「すみません。気をつけます」

 

 その顔だけ見れば、誰も彼女を責められない。

 

 けれど、佐倉の目元には確かに痛みが残っていた。

 

 佐倉はロープまで這った。

 

 背中がロープに当たり、櫛田が追ってくる。

 

「逃がさない」

 

 佐倉はロープに身体を預け、一度目の感覚を思い出した。

 

 押し返される力。

 

 自分ではない力。

 

 それを殺さない。

 

 戻される。

 

 だが次の瞬間、横のロープが小さく揺れた。

 

 櫛田が手をかけていた。

 

 反動の角度が狂い、佐倉の身体が想定より低く流れ、足がもつれた。

 

「きゃっ……!」

 

 技に入れないまま、佐倉はマットへ転がった。

 

 櫛田はすぐに覆いかぶさる。

 

「ワン!」

 

「ツー!」

 

 佐倉が返す。

 

 櫛田は耳元で囁いた。

 

「ロープ、難しいね?」

 

 その声は、レフェリーには届かない。

 

「櫛田、今ロープ揺らしただろ!」

 

 須藤が叫ぶ。

 

 櫛田はきょとんとした顔で振り返った。

 

「え? 触っちゃっただけだよ?」

 

 そして、困ったように笑った。

 

「ごめんね。気をつける」

 

 その顔だけ見れば、誰も彼女を責められない。

 

 だが、佐倉の呼吸は明らかに乱れていた。

 

 櫛田は正面から勝つだけではなく、佐倉の武器を見抜き、それを潰すためならルールの端を平然と踏む。

 

 笑顔のまま。

 

 可愛い声のまま。

 

 観客とレフェリーの視線を利用して、少しずつ削っていく。

 

 一度目は、ロープに飛ばされた。

 

 二度目は、反動を狂わされて転ばされた。

 

 三度目は、櫛田に捕まって、そもそもロープに入らせてもらえなかった。

 

 それでも佐倉は、完全には折れなかった。

 

 ロープは怖い。

 

 けれど、逆らわなければ勝手に身体を返してくれる。

 

 それを、痛みと失敗の中で理解し始めていた。

 

「佐倉さん、もういいんじゃない?」

 

 櫛田は佐倉を押さえ込みながら、優しい声を出した。

 

「みんな見てくれたよ。佐倉さんが頑張ったって。だから、もう十分でしょ?」

 

 櫛田は体重を乗せる。

 

「ワン!」

 

「ツー!」

 

 佐倉が返す。

 

 櫛田の眉がわずかに動いた。

 

「まだ?」

 

 佐倉は答えない。

 

 答えられない。

 

 ただ、肩を上げる。

 

 櫛田は再び押さえ込む。

 

「ワン!」

 

「ツー!」

 

 また返す。

 

 佐倉の体は弱い。

 

 力もない。

 

 けれど、返す。

 

 それだけは、やめなかった。

 

「愛里! 負けないで!」

 

 長谷部の声に、佐倉の指がマットを掴んだ。

 

 櫛田が一瞬だけ長谷部を見る。

 

 その隙に、佐倉は下へ潜った。

 

 回転。

 

 櫛田の腕を絡め、自分の体を軸にして丸め込む。

 

「ワン!」

 

「ツー!」

 

 櫛田が返した。

 

 カウント2。

 

 リングがどよめく。

 

 櫛田は距離を取り、佐倉を睨んだ。

 

「……今のも、真似?」

 

 佐倉は荒い息のまま答えた。

 

「はい。何度も見ました」

 

「だから?」

 

「だから……まだ、終わってません」

 

 佐倉はロープに手をかけ、立ち上がった。

 

 ### 25分〜40分

 

 中盤に入り、試合の形は変わり始めた。

 

 櫛田が支配している。

 

 押さえ込みの数も、攻めている時間も、圧倒的に櫛田の方が多い。

 

 だが、佐倉がロープに触れた瞬間だけ、リングの空気が変わる。

 

 佐倉は、完全な別人になるわけではない。

 

 むしろ、何度も失敗した。

 

 反動を受けきれずに足が流れる。

 

 戻される速度に目が追いつかない。

 

 身体を畳むのが遅れて、技に入れない。

 

 ただロープに跳ね返されただけで、前のめりに転びかけるときもあった。

 

 それでも、少しずつ覚えた。

 

 ロープは壁ではない。

 

 味方でもない。

 

 勝手に身体を返す、怖い力。

 

 逆らうと崩れる。

 

 預けすぎると流される。

 

 けれど、ちょうどいい角度で受ければ、自分では出せない勢いをくれる。

 

 櫛田が佐倉をロープへ振った。

 

 佐倉の背中がロープに沈む。

 

 押し返される。

 

 佐倉はその勢いに逆らわなかった。

 

 足がもつれそうになる。

 

 それでも、身体を前へ流した。

 

 そのまま向こう側のロープまで走る。

 

 櫛田が目を見開いた。

 

 一往復で止まると思っていたのに、佐倉は止まらなかった。

 

 向こう側のロープに、今度は背中だけではなく肩と両腕を預ける。

 

 ロープが大きく沈む。

 

 押し返される。

 

 二度目の反動。

 

 その瞬間、佐倉の中で何かが噛み合った。

 

 一度目よりも自然だった。

 

 二度目の方が、身体がついていった。

 

 戻ってくる勢いを殺さない。

 

 踏み込み。

 

 腕の振り。

 

 身体の畳み方。

 

 何度も映像で見た。

 

 何度も止めた。

 

 何度も戻した。

 

 佐倉の身体が前へ跳ぶ。

 

 まっすぐではない。

 

 身体をひねり、側転するように軌道をずらす。

 

「え──」

 

 櫛田の視界から、佐倉が一瞬消えた。

 

 次の瞬間、回転しながら飛び込んできた佐倉の全身が櫛田にぶつかった。

 

 側転式フライングボディプレス。

 

 華麗とは言えない。

 

 本物より低く、回転も浅く、着地も崩れていた。

 

 しかし、そこには見るものの目を惹きつけて放さないなにかがあった。

 

 櫛田は受けきれず、マットへ倒れる。

 

 佐倉も一緒に転がり、そのまま必死に覆いかぶさった。

 

「ワン!」

 

 レフェリーが入る。

 

「ツー!」

 

 櫛田が返す。

 

 カウント2。

 

 体育館が爆発したように沸いた。

 

「今の何だよ!」

 

 池が叫ぶ。

 

「側転したぞ!?」

 

 須藤は目を見開いたまま、震えるように言った。

 

「佐倉って側転できるのかよ……いや、ロープは初めてのはずなのに、なんで合わせられんだよ……」

 

 長谷部は口元を押さえていた。

 

「愛里……」

 

 佐倉はマットに倒れたまま、荒く息をしていた。

 

 自分でも、今の技が成功したことを信じられないようだった。

 

 一度目は飛ばされた。

 

 二度目は転ばされた。

 

 三度目でようやく少しだけ噛み合った。

 

 そして、二本目のロープ反動で、独学で染み込ませた身体の畳み方が初めて試合の中で繋がった。

 

 櫛田は起き上がった。

 

 髪が乱れている。

 

 頬に汗が浮いていた。

 

 笑顔はもうなかった。

 

「……ふざけないで」

 

 低い声だった。

 

「なんで、そんなことできるの?」

 

 佐倉はゆっくり身体を起こす。

 

「……わかりません」

 

「は?」

 

「ロープは、今日初めてです。でも……戻ってきた後に、どう身体を畳めばいいかは……何度も見ました」

 

 櫛田の表情が歪む。

 

「それだけで?」

 

「それだけじゃないです。ずっと……真似してました」

 

「誰にも見せずに?」

 

「はい」

 

「何のために?」

 

 佐倉は答えに詰まる。

 

 その問いは、佐倉自身にもわからない部分だった。

 

 誰かに見せるためではない。

 

 試合に出るためでもない。

 

 強くなる予定があったわけでもない。

 

 ただ、憧れた。

 

 あんなふうに動けたら。

 

 あんなふうに強くなれたら。

 

 あんなふうに、怖いものから自由になれたら。

 

 そう思って、部屋の中で一人、何度も真似した。

 

「……変わりたかったから」

 

 佐倉が呟いた。

 

 櫛田の目が細くなる。

 

「変わる?」

 

「はい」

 

「そんなことで?」

 

「そんなことでも……私には、必要だったんです」

 

 櫛田は唇を噛んだ。

 

 そして、走った。

 

 今度はロープ際ではなく、中央で捕まえに来た。

 

 佐倉は逃げる。

 

 櫛田が腕を取る。

 

 佐倉は捻られる前に身体を沈め、櫛田の腕の下を潜り、横へ回った。

 

 ローリングソバットのように身体を回す。

 

 蹴りが来る。

 

 櫛田が反射的に身を引く。

 

 だが、佐倉の足は櫛田に当たらなかった。

 

 当てる技ではない。

 

「フェイント……!?」

 

 櫛田が気づいたときにはもう遅い

 

 佐倉は回転の勢いで低く潜り、櫛田の背後へ抜けていた。

 

 佐倉は背後から、櫛田の腰へぐっと腕を回す。

 

 持ち上げる力はない。

 

 だから持ち上げない。

 

 膝裏へ足をかけ、体重を斜めに預ける。

 

 櫛田の重心が崩れる。

 

 二人が転がり、佐倉が上になる。

 

「ワン!」

 

「ツー!」

 

 櫛田が返す。

 

 またカウント2。

 

「おいおいおい……佐倉、普通に強くね?」

 

 池が呆然とする。

 

「強いっていうか、技だけ本物っぽいんだよ。体は追いついてねえのに、動きの形がやたら綺麗なんだ」

 

 須藤が言った。

 

 堀北はじっとリングを見ていた。

 

「独学でここまで……?」

 

 綾小路清隆は思う。

 

 独学だからこそ、なのかもしれない。

 

 誰にも直されていない。

 

 誰にも型を崩されていない。

 

 映像の中の佐山聡だけを見て、自分の体に焼き付けた。

 

 だから不完全でありながら、妙に純度が高い。

 

 ただし、実戦経験がないために脆い。

 

 一撃ごとに完成度と危うさが同居している。

 

 櫛田からすれば、これほどやりにくい相手もない。

 

 櫛田は立ち上がった。

 

 呼吸が荒い。

 

 佐倉も立とうとする。

 

 しかし、膝が崩れた。

 

 櫛田はその瞬間を見逃さない。

 

 低く踏み込み、佐倉を押し倒す。

 

 横押さえ込み。

 

「ワン!」

 

 佐倉は動く。

 

「ツー!」

 

 肩が上がらない。

 

「愛里!」

 

 長谷部が叫ぶ。

 

 佐倉の足が、ロープへ伸びる。

 

 櫛田はそれに気づいていた。

 

 気づいたうえで、佐倉の腰に体重をずらす。

 

 届きそうで、届かない。

 

 佐倉の指先が震える。

 

「届かないよ。タイガーマスクさん」

 

 櫛田が囁く。

 

 佐倉の顔が歪む。

 

 それでも、体を捻った。

 

 肩が、ぎりぎりで浮いた。

 

 カウント2.8。

 

 櫛田が目を見開く。

 

「……なんで、まだ、返せるの?」

 

 佐倉は答えない。

 

 答えられない。

 

 ただ、呼吸だけが荒く響いていた。

 

 ### 40分〜55分

 

 残り20分。

 

 ここから、櫛田は徹底的に中央で潰しに来た。

 

 ロープへ近づけない、近づいたら引き戻す、押さえる、ブレイクを遅らせる。

 

 そうやって佐倉の心身を着実に削っていった。

 

「ほら、また失敗」

 

「見てる方が恥ずかしくない?」

 

「みんな、いつまで応援してくれるかな」

 

 櫛田がせせら笑う。 

 

 そのたびに佐倉の表情は揺れた。

 

 だが、折れなかった。

 

 櫛田は次第に焦り始めていた。

 

 試合全体を支配しているのは自分だ。

 

 それは間違いない。

 

 だが、佐倉は終わらない。

 

 何度押さえても、肩を上げる。

 

 何度ロープを潰しても、また手を伸ばす。

 

 何度失敗しても、次は少しだけ洗練されていく。

 

 それが櫛田には、どうしようもなく不快だった。

 

「なんで……」

 

 櫛田が呟いた。

 

 声が震えていた。

 

「なんであんたが、そんなに目立つの!?」

 

 佐倉はロープにもたれかかっていた。

 

 息が苦しい。

 

 目の前が揺れる。

 

 それでも、櫛田の声だけは聞こえた。

 

「私はずっとやってきた! みんなに好かれるように、嫌いな相手にも笑って、話を合わせて、役に立つようにして……ずっと、ずっと!」

 

 笑顔が崩れていく。

 

「なのに、なんであんたがここで目立つの!? なんであんたが、私の前で立ち上がるの!?」

 

 佐倉は何も言えなかった。

 

 主人公みたいな顔。

 

 そんなものをしているつもりはない。

 

 ただ、必死なだけだ。

 

 怖くて、痛くて、泣きそうで。

 

 それでも、退きたくないだけだ。

 

「私は……目立ちたいわけじゃ……ありません」

 

 佐倉はかすれた声で言った。

 

「じゃあ倒れてよ!」

 

 櫛田の叫びに、体育館が凍った。

 

「もういいじゃん! 十分頑張ったでしょ!? みんなも見たでしょ!? なんでまだ立とうとするの!?」

 

 佐倉はロープを握りしめる。

 

「私の人生は……これ以上逃げたら、終わりなんです」

 

 その言葉に、櫛田の表情がさらに歪んだ。

 

 怒り。

 

 苛立ち。

 

 そして、ほんのわずかな動揺。

 

「ずっと逃げてました。人前も、クラスも、自分のことも。でも、これだけは……私が好きで、私が勝手に憧れて、私が一人で続けたものなんです」

 

 佐倉は顔を上げた。

 

「それまで、意味がないって言われたくありません」

 

 櫛田は唇を噛む。

 

「今さら変わろうとしないでよ……」

 

 低い声だった。

 

「何もできないなら、最後まで何もできないままでいてよ!」

 

 攻めているはずの櫛田が、肩で息をしていた。

 

 佐倉はロープに身体を預けないと、自力で立てるかどうか怪しいほどに疲弊していた。

 

 だが、目は死んでいなかった。

 

 櫛田はゆっくりと近づく。

 

「終わりにする」

 

 声は静かだった。

 

 怒りも、嘲りも薄い。

 

 ただ、勝つための声だった。

 

 櫛田が腕が佐倉を捕まえる。

 

 佐倉の足はふらついている。

 

 櫛田は中央へ引き戻し、押さえ込む。

 

「ワン!」

 

「ツー!」

 

 佐倉が返す。

 

 もう一度。

 

「ワン!」

 

「ツー!」

 

 返す。

 

 さらにもう一度。

 

「ワン!」

 

「ツー!」

 

 返す。

 

 櫛田の顔が歪んだ。

 

「なんで……!」

 

 佐倉は答えない。

 

 答えられない。

 

 息をするだけで精一杯だった。

 

 残り5分。

 

 櫛田は佐倉を見下ろした。

 

 完全に勝ちを急いでいた。

 

 佐倉はもう動けない。

 

 ロープへ行く力もない。

 

 そう判断した。

 

 ### 55分〜60分

 

 残り5分。

 

 櫛田が攻めた。

 

 佐倉はほとんど防げなかった。

 

 中央で捕まる。

 

 倒される。

 

 押さえ込まれる。

 

「ワン!」

 

 返す。

 

「ツー!」

 

 返す。

 

 また倒される。

 

 また返す。

 

 佐倉の体は限界だった。

 

 腕も足も重い。

 

 呼吸は乱れ、視界もぼやけている。

 

 ロープへ行きたい。

 

 だが、櫛田が行かせない。

 

「もう終わりでしょ!?」

 

 櫛田が叫ぶ。

 

 佐倉を押さえ込む。

 

「ワン!」

 

「ツー!」

 

 佐倉が肩を上げる。

 

 櫛田の顔が歪む。

 

「なんで!?」

 

 もう一度。

 

「ワン!」

 

「ツー!」

 

 佐倉が返す。

 

「なんで! なんでまだ返せるの!?」

 

 櫛田の叫びが体育館に響く。

 

 佐倉は答えないまま、真っ直ぐな瞳で櫛田を見据える。

 

 櫛田にとって、それがどうしようもなく癇に障った。

 

「……ッ!」

 

 櫛田は佐倉を引き起こした。

 

 佐倉の足はふらついている。

 

「これで終わり!」

 

 櫛田は佐倉をロープへ振った。

 

 一瞬、櫛田自身がしまったという顔をした。

 

 だが、すぐに笑みを作る。

 

 佐倉の背中がロープに沈む。

 

 櫛田は横のロープに手を伸ばした。

 

 揺らすつもりだった。

 

 また反動を狂わせるつもりだった。

 

 だが、佐倉はそれを見ていた。

 

 何度もやられた。

 

 反動を殺され、角度を狂わされ、転ばされた。

 

 だから、今度は真っ直ぐ戻らなかった。

 

 向こう側のロープへ走るのでもない。

 

 セカンドロープへ足をかけるのでもない。

 

 戻ってきた勢いの中で、櫛田の腕を取る。

 

 これは部屋で練習した技ではない。

 

 ロープの感触も、反動の強さも、今日初めて知った。

 

 一度目は飛ばされた。

 

 二度目は転ばされた。

 

 三度目でようやく噛み合った。

 

 そして今、最後の一回。

 

 佐倉愛里は強くない。

 

 速くない。

 

 体力もない。

 

 けれど、その瞬間だけは違った。

 

 沈み込み。

 

 肩の入れ方。

 

 身体を畳む角度。

 

 着地ではなく、回転へつなげる発想。

 

 何度も映像で見た。

 

 何度も止めた。

 

 何度も戻した。

 

 誰にも見せず、誰にも褒められず、それでも部屋の中で繰り返した動き。

 

 模倣度だけなら、異様に高かった。

 

「──っ!」

 

 櫛田が腕を伸ばす。

 

 佐倉はその腕を絡め取った。

 

 ロープの反動で得た勢いを、無理やり回転へ変える。

 

 タイガースピンを思わせる、回転式の丸め込み。

 

 正式な技名など、佐倉には分からない。

 

 ただ、何度も見た動きに、今ある勢いを必死に繋げただけだった。

 

 二人がマットに転がる。

 

 櫛田の両肩がつく。

 

 佐倉が上から押さえ込む。

 

 残り1分。

 

「ワン!」

 

 体育館が揺れた。

 

 櫛田が暴れる。

 

「ツー!」

 

 佐倉は必死にしがみつく。

 

 腕が震える。

 

 足が震える。

 

 体力はもうない。

 

 それでも、離さない。

 

「スリ──」

 

 櫛田が肩を上げた。

 

 カウント2.9。

 

 佐倉は弾き飛ばされるように転がった。

 

 櫛田もすぐには起き上がれない。

 

 体育館中が息を呑んでいた。

 

「惜しい……!」

 

 長谷部が叫ぶ。

 

 涙声だった。

 

 須藤は拳を握りしめている。

 

「今の決まってただろ……!」

 

 残り30秒。

 

 佐倉はマットに手をつく。

 

 立てない。

 

 櫛田も膝をつく。

 

 二人とも限界だった。

 

 残り20秒。

 

 櫛田が先に動く。

 

 佐倉へ近づく。

 

 最後の押さえ込みを狙うつもりだ。

 

 佐倉は逃げない。

 

 逃げる足がない。

 

 櫛田の腕が佐倉を捕まえる。

 

 佐倉はその腕を抱え込む。

 

 また回ろうとする。

 

 だが、力が残っていない。

 

 二人はもつれるように倒れた。

 

 櫛田が上か。

 

 佐倉が上か。

 

 一瞬、判別できない。

 

 残り10秒。

 

 レフェリーが位置を確認する。

 

 両者の肩は完全にはついていない。

 

 カウントは入らない。

 

 残り5秒。

 

 佐倉が最後の力で身体を捻る。

 

 櫛田も耐える。

 

 ゴングが鳴った。

 

 60分。

 

 時間切れ。

 

 体育館は静まり返った。

 

 佐倉は仰向けに倒れていた。

 

 胸が大きく上下している。

 

 櫛田は横向きに倒れ、肩で息をしていた。

 

 どちらも、すぐには立てなかった。

 

 ──-

 

 勝負は判定に入った。

 

 攻勢点。

 

 フォール数。

 

 ニアフォール。

 

 試合支配率。

 

 最後まで戦い抜いたこと。

 

 茶柱は用紙を受け取り、しばらく黙っていた。

 

 体育館には、誰の声もなかった。

 

 櫛田は座り込んだまま、佐倉を見ていた。

 

 佐倉はまだ立てない。

 

 長谷部が駆け寄ろうとして、踏みとどまる。

 

 須藤も息を詰めている。

 

 茶柱が口を開いた。

 

「判定を発表する」

 

 全員が聞いた。

 

「試合全体の攻勢点、支配率では櫛田が優勢。押さえ込みの回数、中央での展開も櫛田が上回った」

 

 櫛田の表情に、ほんの少し安堵が浮かぶ。

 

 だが、茶柱は続けた。

 

「一方、佐倉は序盤から複数回の有効フォールを奪い、終盤にはカウント2.9に迫る最大のニアフォールを記録した。身体能力で劣る中、試合中にロープの反動へ適応し、空中技と回転技によって何度も試合の流れを変えた点は大きく評価される」

 

 佐倉は目を開けた。

 

 まだ息が整わない。

 

「また、櫛田には再三のブレイク遅延、ロープ際での注意行為があった。反則負けには至らないが、判定上の減点対象とする」

 

 櫛田の顔が強張った。

 

「判定は僅差」

 

 茶柱の声が響く。

 

「勝者──佐倉愛里!」

 

 一瞬、誰も動かなかった。

 

 次の瞬間、長谷部が泣きながら叫んだ。

 

「愛里!」

 

 体育館に声が広がる。

 

 須藤が拳を突き上げる。

 

「やったぞ、佐倉!」

 

 池が呆然としながら拍手する。

 

「マジで勝った……」

 

 佐倉は理解できないように、目を瞬かせた。

 

「……私が?」

 

 茶柱が頷いた。

 

「お前の勝ちだ」

 

 佐倉の目から涙がこぼれた。

 

 痛み。

 

 恐怖。

 

 疲労。

 

 そして、勝ったという事実。

 

 全部が一気に押し寄せてきた。

 

 櫛田は動かなかった。

 

 俯いたまま、肩で息をしている。

 

 佐倉は身体を起こそうとした。

 

 うまくいかない。

 

 それでも、手をついて座った。

 

「櫛田さん……」

 

 櫛田は答えない。

 

 佐倉は涙を拭いながら言った。

 

「私、櫛田さんが怖かったです」

 

 櫛田の指がぴくりと動いた。

 

「でも……私、自分の好きだったものを、何も意味がないって思いたくありませんでした」

 

 櫛田は顔を上げた。

 

 笑顔はなかった。

 

 ただ、疲れ切った少女の顔があった。

 

「……ムカつく」

 

 かすれた声だった。

 

「本当に、ムカつく」

 

 佐倉は何も言えなかった。

 

 櫛田は唇を噛み、目を逸らした。

 

「何よ、あの最後のやつ……」

 

 言ってから、櫛田は自分の言葉に気づいたように口を閉じた。

 

 佐倉は小さく肩を震わせた。

 

「た、タイガースピンの……つもりでした」

 

「つもり?」

 

 櫛田は苦笑した。

 

「ちゃんと痛かったんだけど」

 

「す、すみません……」

 

「謝らないで。余計ムカつく」

 

 佐倉は黙った。

 

 櫛田はしばらく佐倉を見ていた。

 

 そして、ぽつりと言った。

 

「佐倉さん」

 

「はい」

 

「私、あなたのこと嫌い」

 

「……はい」

 

「でも」

 

 櫛田は悔しそうに目を細めた。

 

「今日のあなたは、嫌いなくらいすごかった」

 

 それだけ言って、櫛田は顔を背けた。

 

 ──-

 

 その後、正式な投票が行われた。

 

 結果は満場一致。

 

 退学者、櫛田桔梗。

 

 勝負が終わったからといって、すべてが美談になるわけではない。

 

 櫛田が退学する。

 

 その現実は重かった。

 

 誰も心から喜べなかった。

 

 佐倉も同じだった。

 

 自分が勝った。

 

 だから櫛田が退く。

 

 その事実を、軽く受け止められるはずがない。

 

 だが、それでも、クラスの誰もが見た。

 

 佐倉愛里は、守られるだけの存在ではなかった。

 

 弱くても、臆病でも、人前が苦手でも、自分だけの憧れを抱えて60分戦い抜いた。

 

 しかも、ただ耐えただけではない。

 

 ロープに戸惑い、失敗し、それでも試合中に適応し、跳び、回り、櫛田の予測を何度も壊した。

 

 独学。

 

 実戦経験ゼロ。

 

 ロープワークも本番初体験。

 

 それでも、身体に染み込ませた模倣は高かった。

 

 堀北が佐倉の前に立った。

 

「佐倉さん」

 

 佐倉は顔を上げる。

 

「……はい」

 

「見事だったわ」

 

 佐倉の目が揺れた。

 

 堀北は静かに続ける。

 

「私はあなたを見誤っていた。少なくとも、今日のあなたはこのクラスに残る理由を自分で示した」

 

 佐倉の顔がくしゃりと歪んだ。

 

「ありがとう……ございます」

 

 須藤が頭を掻いた。

 

「いや、マジでびびったわ。お前、ロープ使った時だけ別人だったぞ」

 

 池が頷いた。

 

「佐倉タイガーじゃん」

 

「そ、その呼び方は……」

 

 佐倉は真っ赤になった。

 

 長谷部が泣きながら抱きつく。

 

「愛里、すごかった……ほんとにすごかった……!」

 

「は、波瑠加ちゃん、痛いです……体中痛いので……」

 

「あ、ごめん!」

 

 少しだけ、空気が緩んだ。

 

 だが、櫛田は笑わなかった。

 

 櫛田は茶柱の前に立った。

 

「負けたんですよね、私」

 

「判定上はそうだ」

 

「そっか」

 

 櫛田は短く笑った。

 

 それはいつもの可愛い笑顔ではなく、疲れて、壊れて、それでも自分を保とうとする笑みだった。

 

「最後まで、嫌な試験」

 

 茶柱は何も言わない。

 

 櫛田は一度だけ佐倉を見た。

 

 佐倉も見返した。

 

 長い沈黙。

 

 やがて、櫛田は背を向けた。

 

「佐倉さん」

 

「はい」

 

「初代タイガーマスク、ちょっとだけ見てみる」

 

 佐倉は目を丸くした。

 

「え……?」

 

 櫛田は振り返らない。

 

「別に、あなたの影響じゃないから」

 

 それだけ言って、櫛田は歩き出した。

 

 ──-

 

 翌日。

 

 佐倉愛里は、筋肉痛でまともに階段を降りられなかった。

 

「い、痛い……」

 

「そりゃ痛いでしょ」

 

 長谷部が呆れながらも肩を貸した。

 

「60分プロレスやって、しかもロープから飛んでたんだから」

 

「もう、二度とできません……」

 

 須藤が後ろから笑う。

 

「いや、あれは伸ばした方がいいって。佐倉、お前マジでロープワークだけ妙にうまいぞ」

 

「ロープワークだけ……」

 

「いや、褒めてる褒めてる」

 

 池が横から言う。

 

「最後のやつ、名前何?」

 

 佐倉は真っ赤になって俯いた。

 

「……タイガースピンのつもりです」

 

「つもりじゃなくて、ほぼタイガースピンだったろ」

 

 須藤が言った。

 

「いや、俺も詳しくはねえけど、形はかなりそれっぽかった」

 

「そ、そんなことないです……本物はもっとすごいです……」

 

 佐倉は慌てて否定する。

 

 けれど、その顔には少しだけ嬉しさがあった。

 

 綾小路は、その背中を見ていた。

 

 佐倉愛里は強くなった。

 

 いや、正確には、強くなるきっかけを自分で掴んだ。

 

 誰かに教えられた技ではない。

 

 誰かに用意された役割でもない。

 

 一人で映像を見て、一人で真似し、一人で積み重ねてきたものが、最悪の場面で彼女を助けた。

 

 ロープに触れた瞬間だけ、佐倉は自分の弱さから少しだけ自由になった。

 

 その姿は、初代タイガーマスクには程遠い。

 

 佐山聡には届かない。

 

 だが、櫛田桔梗の予測を壊し、クラス全員の認識を変えるには十分だった。

 

 堀北が横から小さく言った。

 

「綾小路くん」

 

「何だ」

 

「あなた、佐倉さんがあそこまでできると知っていたの?」

 

「いや」

 

 オレは答えた。

 

「知らなかった」

 

 これは本当だ。

 

 佐倉が佐山聡を好きだという話も、ここまで模倣度が高いということも、知らなかった。

 

 堀北は佐倉の方を見る。

 

「人を見る目は、まだまだ鍛える必要があるわね」

 

「お互いにな」

 

 堀北は否定しなかった。

 

 廊下の向こうで、佐倉がふとこちらを見る。

 

 目が合った。

 

 以前なら、すぐに俯いていたかもしれない。

 

 だが佐倉は、一瞬だけ迷った後、小さく笑った。

 

 オレも軽く頷いた。

 

 それだけで、佐倉は満足したように前を向く。

 

 歩き方はぎこちない。

 

 筋肉痛で、かなり情けない。

 

 けれど、昨日より少しだけ強く見えた。

 


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