神代から弾かれたアマゾネス女王は、間桐桜を攫って聖杯戦争を壊す   作:あかちゅきぼちゃん

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4話 禅城桜

 

 

 朝の光は、思っていたよりも白かった。

 

 薄いカーテン越しに差し込む光が、古い畳の縁を静かに照らしている。

 

 冬木の朝。

 

 昨日の夜とは、まるで違う顔をしていた。

 

 桜は鏡の前に立っていた。

 

 穂群原学園の制服。

 

 まだ袖に硬さが残っている。

 

 襟元を整え、リボンに触れる。

 

 鏡の中には、黒い髪の少女がいる。

 

 十年前より伸びた髪。

 

 夜よりも明るいところで見ると、瞳の青さが少しだけはっきりする。

 

 遠坂の家にいた頃の色。

 

 間桐に渡されるはずだった自分が、失わずに済んだ色。

 

 桜は、袖の下に隠れた手首へ触れた。

 

 そこには何も見えない。

 

 けれど、肌の奥に細い熱がある。

 

 呼ぶための道。

 

 命令ではなく、選ぶための道。

 

 桜は小さく息を吐いた。

 

 机の上には、黒い匣が置かれている。

 

 白い布の上。

 

 夜よりも静かに、ただそこにある。

 

 持っていくべきか。

 

 置いていくべきか。

 

 桜は少し迷っていた。

 

 学校に、こんなものを持っていくわけにはいかない。

 

 鞄に入れれば入らないことはない。

 

 けれど、これは普通の荷物ではない。

 

 ペンテの眠りを置いておく場所。

 

 ヒッポリュテの気配を繋ぎ止める場所。

 

 桜自身の影を安定させるための、黒い匣。

 

 手放すことには、不安がある。

 

 それでも、学校にそのまま持ち込めば目立つ。

 

 人目もある。

 

 結界もある。

 

 魔術師でない人間のそばで、不用意に軋ませるわけにはいかない。

 

 桜が匣を見つめていると、奥から声がした。

 

『持っていかぬのか』

 

「学校に箱を持っていくのは、少し目立ちます」

 

『目立てば斬ればよい』

 

「斬らないでください」

 

『では威圧する』

 

「それもやめてください」

 

 桜は少しだけ困ったように笑った。

 

 黒い匣は動かない。

 

 けれど、その奥でペンテが不満そうに腕を組んでいる姿が、なんとなく思い浮かんだ。

 

『お前は面倒な場所へ行く』

 

「そうですね」

 

『戦場より規則が多い』

 

「学校ですから」

 

『戦場にも規則はある』

 

「それとは違うと思います」

 

『ならば、なおさら面倒だ』

 

 桜は机の上に手を置いた。

 

 匣の縁に、そっと指先を触れさせる。

 

 冷たい。

 

 けれど、奥は繋がっている。

 

 今日は匣そのものは置いていく。

 

 ただし、手首の加護と影の道を通して、細く接続を保つ。

 

 何かがあれば呼べる。

 

 聞こえる。

 

 届く。

 

 それで十分だと、桜は自分に言い聞かせた。

 

 匣のさらに奥で、薄い気配が揺れた。

 

『普通に行け』

 

 ヒッポリュテの声だった。

 

 桜は鏡越しに顔を上げる。

 

「普通、ですか」

 

『お前が欲しかったものだろう』

 

 胸の奥が、静かに鳴った。

 

 普通。

 

 朝起きて、制服を着て、学校へ行く。

 

 教室に入って、名前を呼ばれて、机に座る。

 

 誰かと挨拶をして、授業を受けて、帰ってくる。

 

 ただそれだけのこと。

 

 けれど桜にとっては、ただそれだけではなかった。

 

 冬木で朝を歩けること。

 

 冬木で自分の名前を名乗れること。

 

 誰かの所有物としてではなく、ひとりの生徒として教室へ入ること。

 

 それは、とても遠かったものだ。

 

 桜は制服の襟をもう一度整えた。

 

「はい」

 

 鞄を持つ。

 

 机の上の黒い匣に、軽く頭を下げる。

 

「行ってきます」

 

『呼べ』

 

「はい」

 

『困れば呼べ』

 

「はい」

 

『嫌なら呼べ』

 

「はい」

 

『それと、斬ってよい相手がいれば呼べ』

 

「そこは相談してからにしてください」

 

 桜は小さく笑い、玄関へ向かった。

 

 靴を履く。

 

 扉を開ける。

 

 朝の光が、まっすぐに差し込んできた。

 

   ◇

 

 通学路には、たくさんの声があった。

 

 自転車のベル。

 

 駆け足の靴音。

 

 友人同士で笑う声。

 

 眠そうに鞄を抱える生徒。

 

 朝練を終えたのか、汗を拭きながら歩く生徒。

 

 桜は、その流れの端を歩いていた。

 

 同じ制服を着ている。

 

 それだけで、周囲と少し繋がったような気がした。

 

 でも、完全には混ざれない。

 

 自分だけが少し遅れて、この朝に入ってきたような感覚がある。

 

 この街で、朝に歩くことができる。

 

 それだけで、十年前の夜とは違う。

 

 桜はそう思った。

 

 夜の冬木は、影の底に沈んでいた。

 

 今の冬木は、眩しい。

 

 眩しすぎて、少し痛い。

 

 校門が見えてきた。

 

 穂群原学園。

 

 資料で何度も見た名前。

 

 書類に何度も書いた場所。

 

 けれど、実際に門の前に立つと、紙の上とは違った。

 

 ここには人がいる。

 

 日常がある。

 

 誰かの当たり前が、積み重なっている。

 

 桜は校門の少し手前で立ち止まった。

 

 職員室はどちらだっただろう。

 

 事前に地図は見ていた。

 

 けれど、校舎は思っていたより広い。

 

 朝の生徒の流れに紛れてしまうと、方向の感覚が少しずれる。

 

 桜が書類を取り出そうとした時、横から声がした。

 

「大丈夫か?」

 

 桜は顔を上げた。

 

 そこに、ひとりの男子生徒が立っていた。

 

 赤みがかった髪。

 

 少し困ったような、けれど真っ直ぐな目。

 

 鞄を肩にかけ、校門の方を指している。

 

「職員室なら、たぶんそっちだぞ。転入生?」

 

 桜は一瞬だけ、言葉を探した。

 

 彼の周囲には、不思議な空白があった。

 

 焼け跡のようなもの。

 

 何かが一度、大きく失われて。

 

 そのあとに、別の何かで支えられているような気配。

 

 空っぽ。

 

 けれど、倒れていない。

 

 むしろ、空っぽのまま真っ直ぐ立っている。

 

 桜はその感覚に、ほんの少しだけ胸がざわついた。

 

「はい。今日からです」

 

「そっか。なら、職員室はあっち。分かりにくいけど、玄関入って右に曲がって、それから突き当たりの少し手前」

 

「ありがとうございます」

 

「困ったら藤村先生に聞けば、大体なんとかなると思う」

 

「藤村先生……?」

 

「ああ。ちょっと騒がしいけど、いい先生だから」

 

 男子生徒は、自然に笑った。

 

 見返りを求めるでもなく、名前を聞くでもなく。

 

 ただ困っていそうだったから声をかけた。

 

 それだけの顔だった。

 

 桜の奥で、ペンテが低く呟く。

 

『隙が多い男だ』

 

 桜は心の中で、そっと返す。

 

 でも、悪い人ではなさそうです。

 

『悪い者ほど、善い顔をする』

 

 それはそうかもしれません。

 

『……面倒な返しを覚えたな』

 

 桜は少しだけ口元を緩めた。

 

 男子生徒が不思議そうに首を傾げる。

 

「どうかした?」

 

「いえ。助かりました」

 

「ならよかった。俺、衛宮士郎。二年だから、何か困ったら聞いてくれ」

 

「衛宮先輩、ですね」

 

「ああ。えっと、名前は?」

 

 桜は少しだけ背筋を伸ばした。

 

「禅城桜です」

 

「禅城さんか。よろしく」

 

「よろしくお願いします」

 

 士郎は軽く手を振って、校舎の方へ歩いていった。

 

 その背中を、桜は少しだけ見送る。

 

 焼け跡のような空白。

 

 それなのに、誰かに手を伸ばすことを当たり前だと思っている人。

 

 桜は胸元に手を添えた。

 

 この街には、まだ知らない傷がある。

 

 そう思った。

 

   ◇

 

 職員室は、士郎の言った通りの場所にあった。

 

 桜が扉の前で一度深呼吸をしてから声をかけると、中から明るい声が飛んできた。

 

「はーい、どうぞ!」

 

 扉を開ける。

 

 職員室の中は、朝から慌ただしかった。

 

 書類を抱える教師。

 

 電話に出る教師。

 

 生徒に何かを注意している教師。

 

 その中から、ひときわ元気な女性が顔を上げた。

 

「あ、禅城さんね! 今日からよろしく!」

 

 藤村大河。

 

 事前に聞いていた名前。

 

 桜は丁寧に頭を下げた。

 

「禅城桜です。本日からお世話になります。よろしくお願いいたします」

 

「うわ、すごいしっかりしてる!」

 

 藤村は目を丸くした。

 

「先生、朝から負けそう!」

 

「いえ、そんなことは……」

 

「いやいや、立派立派。緊張してる?」

 

「少し」

 

「よし、正直でえらい!」

 

 勢いのある人だった。

 

 でも、不思議と嫌な感じはしない。

 

 声が大きい。

 

 動きも大きい。

 

 それなのに、こちらを飲み込むような強さではない。

 

 人を明るい方へ押し出すような勢い。

 

 桜は少しだけ肩の力を抜いた。

 

「じゃあ、まず教室に案内するわね。荷物は持てる?」

 

「はい」

 

「無理しなくていいからね。分からないことは何でも聞いて。だいたい先生が何とかするから!」

 

 今朝、士郎が言っていた言葉を思い出す。

 

 困ったら藤村先生に聞けば、大体なんとかなる。

 

 桜は小さく頷いた。

 

「はい。ありがとうございます」

 

「よし、じゃあ行こう!」

 

 藤村が職員室の扉を勢いよく開ける。

 

 その背中について、桜は廊下へ出た。

 

 朝の校舎は、まだ少しざわついていた。

 

 教室から笑い声が聞こえる。

 

 廊下を走ろうとして注意される生徒がいる。

 

 窓の外では、校庭を横切る生徒たちの姿が見える。

 

 日常。

 

 どこにでもあるようで。

 

 桜にとっては、まだ少し遠いもの。

 

 けれど、今日はその中に入る。

 

   ◇

 

 教室に入ると、ざわめきが一度止まった。

 

 黒板の前。

 

 藤村が明るく手を叩く。

 

「はいはい、注目! 今日からこのクラスに入る転入生を紹介します!」

 

 視線が集まる。

 

 桜は、一歩前に出た。

 

 たくさんの目。

 

 好奇心。

 

 探るような視線。

 

 単純な興味。

 

 悪意はない。

 

 けれど、人の視線というだけで、身体の奥が少し硬くなる。

 

 桜は手首の奥にある熱を感じた。

 

 大丈夫。

 

 ここは、間桐の家ではない。

 

 誰かに値踏みされるために立っているのではない。

 

 自分の名前を、自分で名乗るために立っている。

 

 桜は静かに頭を下げた。

 

「禅城桜です」

 

 声は、思っていたよりも落ち着いていた。

 

「よろしくお願いします」

 

 教室が、少しざわめいた。

 

 禅城。

 

 聞き慣れない苗字。

 

 落ち着いた転入生。

 

 黒い髪。

 

 整った所作。

 

 誰かが小さく「綺麗」と言った。

 

 誰かが「大人っぽい」と囁いた。

 

 桜は顔を上げる。

 

 その瞬間、奥で薄い声がした。

 

『旗を立てたな』

 

 ヒッポリュテの声。

 

 桜は心の中で答える。

 

 はい。

 

 藤村が席を指す。

 

「じゃあ、禅城さんはあそこの席ね。分からないことがあったら周りの人に聞いて。みんなも助けてあげるように!」

 

 桜は指定された席へ向かった。

 

 椅子を引き、座る。

 

 机の感触。

 

 教科書を置く音。

 

 窓から入る朝の光。

 

 桜は両手を膝の上に置いた。

 

 普通の教室に座っている。

 

 それだけのことが、胸の奥で静かに重かった。

 

   ◇

 

 二年の廊下では、朝から妙な噂が流れていた。

 

「一年に転入生来たらしいよ」

 

「この時期に?」

 

「禅城って苗字だって」

 

「すごい綺麗なんだってさ」

 

「なんか遠坂さんに雰囲気似てるって聞いたけど」

 

 凛は、そこで足を止めた。

 

 数人の生徒が何気なく話しているだけ。

 

 ただの噂話。

 

 けれど、その中に混じった名前が、凛の胸を刺した。

 

 禅城。

 

 桜。

 

 もう学校に来ている。

 

 昨日の夜、門の前で別れたばかりなのに。

 

 凛は廊下の窓へ視線を向けた。

 

 校舎の向こう。

 

 一年の教室がある方角。

 

 直接見えるわけではない。

 

 それでも、そこにいるのだと思うと、落ち着かなかった。

 

 霊体化したアーチャーの声が、耳元ではなく、意識の近くに届く。

 

『有名人だな、君の妹は』

 

 凛は小声で返す。

 

「妹って言い方、軽くしないで」

 

『では、禅城桜と呼ぶべきか』

 

 凛の表情がわずかに歪む。

 

「……好きに呼べば」

 

『あの名は、君にとっても痛むらしい』

 

「余計な観察しないで」

 

『観察は弓兵の基本だ』

 

「屁理屈だけは一流ね」

 

 凛は廊下を歩き出した。

 

 いつも通りに。

 

 遠坂凛として。

 

 学校では優等生。

 

 魔術師としては聖杯戦争の参加者。

 

 そして今は、十年ぶりに戻ってきた妹を、どう扱えばいいのか分からない姉でもある。

 

 そのどれもが、凛の中でうまく噛み合わない。

 

   ◇

 

 昼休み。

 

 桜は校内の地図を見ながら、中庭の近くを歩いていた。

 

 図書室へ行こうとしていたはずなのに、廊下の分岐をひとつ間違えたらしい。

 

 授業は終わった。

 

 教室で何人かの生徒が話しかけてくれた。

 

 名前。

 

 前の学校。

 

 冬木は初めてか。

 

 好きな食べ物。

 

 部活はどうするのか。

 

 質問は多かったが、悪意はなかった。

 

 桜は丁寧に答えた。

 

 丁寧に答えながら、少し疲れていた。

 

 人と話すのは嫌いではない。

 

 でも、一度にたくさんの視線を受けるのは、まだ慣れない。

 

 中庭に出ると、少しだけ空気が変わった。

 

 風がある。

 

 木の影が揺れている。

 

 桜が立ち止まっていると、聞き覚えのある声がした。

 

「あ、今朝の」

 

 振り向くと、士郎がいた。

 

 弁当らしき包みを片手に持っている。

 

「禅城さん、だったよな」

 

「はい。衛宮先輩」

 

「名前、覚えてたんだ」

 

「藤村先生が呼んでいました」

 

「ああ、藤ねえか……」

 

「藤ねえ?」

 

「あ、いや、藤村先生。昔から知ってるから、つい」

 

 士郎は少し照れたように頭をかいた。

 

 その距離の近さに、桜は少しだけ目を細めた。

 

 この人の周りには、人の名前が柔らかく残っている。

 

 先生。

 

 家族。

 

 知人。

 

 境界が少し曖昧で、その分だけ温かい。

 

 桜には、それが少し眩しかった。

 

「図書室を探しているのか?」

 

「はい。でも、少し迷ってしまって」

 

「図書室なら、この校舎じゃなくて向こう側だな。案内するよ」

 

「お昼休み中では?」

 

「別に急いでないし。困ってるなら、手伝った方がいいだろ」

 

 何気ない言葉だった。

 

 士郎にとっては、きっと深い意味などない。

 

 けれど、桜の胸には静かに触れた。

 

 困っているなら、手伝った方がいい。

 

 まるで、それが当たり前のことのように。

 

 桜は士郎を見た。

 

「衛宮先輩は、誰にでもそうなんですか」

 

「そうって?」

 

「困っていたら、声をかけるところです」

 

 士郎は少し考えた。

 

「誰にでも、っていうか……困ってるなら、放っておく理由もないし」

 

「そうですか」

 

「変かな」

 

「いいえ」

 

 桜は首を横に振った。

 

「少し、眩しいと思いました」

 

「眩しい?」

 

「はい」

 

 士郎はよく分からないという顔をした。

 

 桜はそれ以上、説明しなかった。

 

 この人は、自分の手が足りなくなっても、伸ばすことをやめない人だ。

 

 そう感じた。

 

 優しい。

 

 でも、危うい。

 

 手を伸ばすことと、自分を削ることの境目を、きっとこの人はうまく見ていない。

 

 その危うさは、桜の胸に小さな不安を残した。

 

   ◇

 

 少し離れた廊下から、凛はその様子を見ていた。

 

 士郎と桜。

 

 朝に会ったばかりのはずなのに、もう普通に話している。

 

 士郎は何も知らない。

 

 桜が何者なのかも。

 

 十年前に何があったのかも。

 

 聖杯戦争の気配が、この学校に近づいていることも。

 

 桜もまだ、士郎が何を抱えているのか知らない。

 

 ただ、二人が同じ場所に立っている。

 

 それだけなのに、凛の胸は妙に落ち着かない。

 

『不思議な光景だな』

 

 アーチャーの声がした。

 

 凛は視線を前に向けたまま答える。

 

「何が」

 

『あの少年の隣に、あの少女が立っている』

 

「知り合いみたいな言い方ね」

 

『さてな』

 

「またそれ?」

 

 凛は小さく睨む。

 

 アーチャーはそれ以上、答えなかった。

 

 ただ、見ていた。

 

 士郎の横に立つ、禅城桜を。

 

 彼の知るはずの少女とは違う立ち方。

 

 沈むだけではない影。

 

 救いを待つのではなく、自分で歩く足。

 

 アーチャーの中で、何かが噛み合わない音を立てる。

 

 けれど、その違和感はまだ言葉にはならなかった。

 

   ◇

 

 その視線とは別に。

 

 もうひとつ、桜を見ている目があった。

 

 廊下の角。

 

 人の流れから少し外れた場所。

 

 間桐慎二は、教室へ戻る途中で足を止めていた。

 

 最初は、ただの転入生だと思った。

 

 黒髪で、落ち着いた雰囲気の一年。

 

 少し目立つ。

 

 それだけだった。

 

 けれど、誰かが名前を口にした。

 

 禅城桜。

 

 その瞬間、慎二の胸の奥に嫌なものが走った。

 

「禅城……桜?」

 

 聞いたことがある。

 

 いや、聞かされていた。

 

 間桐に来るはずだった娘。

 

 遠坂から渡されるはずだった才能。

 

 臓硯が欲しがった子ども。

 

 逃げた養子。

 

 自分ではない誰か。

 

 間桐が、慎二ではなく欲しがったもの。

 

 慎二は唇を歪めた。

 

 確信はない。

 

 髪の色も、姿も、聞いていた話の中にあったものとは違う気がする。

 

 けれど、名前が引っかかる。

 

 禅城。

 

 桜。

 

 胸の奥で、嫉妬と不快感が混ざる。

 

 自分の家に関わる名前。

 

 自分よりも、あの老人が価値を見た才能。

 

 慎二は桜を見た。

 

 桜は士郎と話している。

 

 そのことも、なぜか気に入らなかった。

 

 桜がふと視線を動かす。

 

 慎二と目が合った。

 

 一瞬。

 

 ほんの一瞬だけ。

 

 慎二は反射的に目を逸らしそうになり、すぐにそれを誤魔化すように笑った。

 

 桜は笑わなかった。

 

 ただ、静かに慎二を見た。

 

 その奥で、ペンテの声が低く沈む。

 

『あれは何だ』

 

「……間桐の人です」

 

『なら斬るか』

 

「学校です」

 

『学校でなければ斬るのか』

 

「……話を聞いてからです」

 

『つまり、場合による』

 

「そうは言っていません」

 

『似たようなものだ』

 

 桜は心の中で小さく息を吐く。

 

 慎二はもうこちらを見ていないふりをしていた。

 

 けれど、その視線の残りは肌に残った。

 

 間桐の家は、まだ終わっていない。

 

 桜は改めてそう思った。

 

   ◇

 

 放課後の校舎は、昼間とは違う音を持っていた。

 

 生徒の数が減り、廊下に残る足音が遠く響く。

 

 部活動へ向かう声。

 

 職員室から漏れる教師の話し声。

 

 窓の外では、夕日が校庭の端を赤く染めている。

 

 桜は、校舎の一角で足を止めた。

 

 士郎が、ひとりで片付けをしていた。

 

 誰かに頼まれたのか。

 

 あるいは、自分から始めたのか。

 

 重そうな荷物を運び、壊れかけた棚を直し、ついでのように散らかったものを整えている。

 

 嫌な顔はしていない。

 

 当たり前のように手を動かしている。

 

 桜は声をかけようとして、やめた。

 

 まだ、踏み込む時ではない。

 

 それでも、視線は離せなかった。

 

 士郎は優しい。

 

 けれど、その優しさは、自分を数に入れていないように見える。

 

 桜はそれが少し怖かった。

 

 誰かを助ける手は、尊い。

 

 でも、手を伸ばし続ければ、いつか届かない場所が出てくる。

 

 その時、この人はどうするのだろう。

 

 諦めるのか。

 

 それとも、自分の腕が千切れても伸ばすのか。

 

 桜は手首に触れた。

 

 自分は、手を取ってもらった。

 

 だから今度は、誰かに手を伸ばしたい。

 

 でも。

 

 伸ばし方を間違えれば、誰かを救う前に、自分が壊れる。

 

 それを、桜は知っている。

 

   ◇

 

 校舎の別の場所で、凛は廊下を歩いていた。

 

 表向きは、ただの見回り。

 

 実際には、学校周辺の魔力の流れを確認している。

 

 聖杯戦争が始まった以上、学校も安全とは限らない。

 

 人が多い場所。

 

 魔術師が潜むには向かないが、犠牲を出すにはあまりに脆い場所。

 

 凛は窓の外を見る。

 

 夕方の空。

 

 校庭。

 

 遠くに見える弓道場。

 

 アーチャーの気配は、霊体化してそばにある。

 

『妙だな』

 

「今度は何」

 

『この学校、思ったよりも多くの糸が絡んでいる』

 

「糸?」

 

『魔術師の家の娘。正義を夢見る少年。間桐の名を持つ者。そして、戻ってきた妹』

 

「詩人みたいな言い方やめて」

 

『事実を並べただけだ』

 

「事実ほど厄介なものはないわね」

 

 凛はそう言って、歩き出そうとした。

 

 その時。

 

 空気が変わった。

 

 細い。

 

 冷たい。

 

 鋭い。

 

 まるで、肌のすぐ横に刃を当てられたような感覚。

 

 凛の足が止まる。

 

 アーチャーの気配も、瞬時に鋭くなった。

 

『来るぞ』

 

「サーヴァント?」

 

『ああ』

 

 凛は息を潜める。

 

 校舎の外。

 

 屋上か。

 

 校庭か。

 

 まだ距離はある。

 

 けれど、その殺意はあまりに鮮やかだった。

 

   ◇

 

 同じ瞬間、桜も足を止めていた。

 

 放課後の廊下。

 

 窓の外に伸びる夕闇。

 

 その中を、何かが走った。

 

 見えたわけではない。

 

 けれど、影の底が震えた。

 

 桜の奥で、ペンテの声が低く響く。

 

『止まれ』

 

 桜は動きを止めた。

 

 指先が、自然と手首へ触れる。

 

「……サーヴァントですか」

 

『近づいて殺す者だ』

 

 ペンテの声が硬い。

 

『速い。槍か、長柄の武器を使う』

 

 桜は窓の外を見た。

 

 校庭の向こう。

 

 夕闇が深まり始めた屋上の縁。

 

 そこを、青い影が一瞬だけ走った気がした。

 

 心臓が、静かに鳴る。

 

 学校。

 

 教室。

 

 制服。

 

 普通の一日。

 

 そのすぐ横に、戦場が口を開けている。

 

 桜は息を吸った。

 

 影が足元で少しだけ沈む。

 

 遠くで、士郎の気配がまだ校内にある。

 

 凛もいる。

 

 慎二もいる。

 

 何も知らない生徒たちも、まだ完全には帰っていない。

 

 桜は手首の熱を感じた。

 

 呼ぶための道は、そこにある。

 

 けれど、まだ呼ばない。

 

 まだ、選ぶ。

 

 日常の終わりは、鐘の音ではなかった。

 

 誰かが笑うように、夜の校舎の上を風が抜けた。

 

 その風の先で。

 

 槍のように鋭い殺意が、静かに牙を剥いた。

 

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人理を照らす、開闢の星・序章〜awakening,precious,star〜(作者:札切 龍哦)(原作:Fate/)

生命を終えた、空虚な魂▼だが、末期の慟哭が虚ろなる世界の外側の住人──全能の観測者を呼び覚ます。▼観測者の計らいで、人理焼却…人類史における神話級の殺人事件──の為された世界を救うマスターのサーヴァントとして、無名の魂は未来を奪われた紅蓮の特異点へと転生を果す。▼器の名は英雄王ギルガメッシュ。神と訣別し、人の時代を始めた全てを見定める黄金の王。▼己である事す…


総合評価:31925/評価:8.25/完結:3000話/更新日時:2025年08月02日(土) 13:50 小説情報


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