***
とても短いです。駄文ですが、読んでいただけると幸いです。
しとしとと、雨が降っている。
ある日の午前、私はパソコンを叩く手を止め、窓へ向かった。窓のロックを解除し、開け放った。
――理由は自分でも曖昧だった。ただ、濡れてしまえばいい、とだけ思っていた。
雨が部屋に入り込み、私を包み込む。
柔らかく、けれど確かに冷たい雨だった。その冷たさが、どこか――心地よかった。
なんとも言いようのない、高揚感に包まれる。冷たさが、痛みに近い感覚が、妙に私を落ち着かせる。けれど次の瞬間、その感情に恥ずかしくなった。こんなことで楽になろうとしている自分が、みっともなかった。
急いで窓を閉め、スーツや周囲を綺麗にした。何事もなかったかのように。
* * *
程なくして、担当である藤田さんが教室へ入ってきた。
ことね「プロデューサー!おっはようございまーす!」
春風を纏ったような柔らかな表情の彼女に、
『藤田さん、おはようございます。今日も世界一かわいいですね。』
朝の挨拶として、定型文になりかけている—本当にかわいいとは思っているのだが—それを口にする。
――自然に言えたのだろうか。
自分でも分からなかった。ただ、言葉は口から滑り落ちるように出ていった。
ことね「えへへ、またまた〜。でも、ありがとうございますっ!」
彼女は照れたように笑いながらも、いつものように元気に返してくる。その反応に、ほんのわずかだけ胸の奥が軽くなる。
けれど、それは長くは続かない。
椅子に座り直し、パソコンへ向き直る。画面には、未完成の企画書。締切はとうに過ぎている。修正依頼のメールは、未読のまま何十件も溜まっていた。
視界が、にじむ。
ことね「……プロデューサー?」
気づけば、彼女がすぐ隣まで来ていた。
ことね「大丈夫ですか?顔、ちょっと……」
言葉を濁す。優しさだ。はっきり言わないことで、こちらを守ろうとしている。
『大丈夫ですよ。少し寝不足なだけです』
即座に返す。反射的に。考えるよりも先に。
ことね「ほんとに?」
彼女の目が、まっすぐこちらを見ていた。
逃げ場がない、と思った。
――いや、違う。
逃げているのは、ずっと自分の方だ。
『……本当は、大丈夫じゃないかもしれません』
気づけば、そんな言葉が漏れていた。
ことね「!」
彼女の表情が、少しだけ変わる。驚き。でも、それだけじゃない。
ことね「……そっか」
否定も、過剰な心配もなかった。ただ、受け止める声。
それが、妙に効いた。
『朝起きても、体が重くて。何もしていないのに疲れていて……やるべきことは分かっているのに、手が動かないんです』
言葉にするたび、自分の情けなさが浮き彫りになる気がした。
藤田さんは、少しだけ考えてから、ぽん、と手を叩いた。
ことね「じゃあ今日は、プロデューサーを元気にする日ですね!」
『……元気に?』
ことね「はい!特別プログラムです!この前の授業で、あさり先生から聞いたことがあるんです!」
そう言って、藤田さんはどこからか小さなメモ帳を取り出した。
ことね「まずは一個だけ!今日やること、一番ちっちゃいのでいいので決めましょう!」
『小さいこと……ですか…』
ことね「うん。“メール一通だけ返す”とか、“タイトルだけ書く”とか!」
ことね「いきなり全部やろうとすると、しんどいですから。だから、ひとつ!」
その言葉に、少し考える。
―確かに、全部は無理だ。
でも、ひとつなら。
『……では、この企画書のタイトルだけ、書きます』
ことね「いいですね!」
彼女は満面の笑みで頷いた。
その笑顔に押されるように、キーボードへ手を置く。
指が、少しだけ動いた。
――カタ、カタ。
たったそれだけの音なのに、やけに大きく感じる。
数秒後、画面には一行のタイトルが表示されていた。
ことね「できましたね!」
『……ええ』
本当に、それだけだ。
たった一行。
でも、さっきまでの自分には、それすらできなかった。
胸の奥に、ほんの小さな達成感が灯る。肩から、何かが少しだけ抜けた気がした。
ことね「じゃあ次は〜……」
『いえ、…藤田さん』
彼女の言葉を遮る。
ことね「?」
『今日は……これで十分です』
ことねは一瞬きょとんとして、それからふっと笑った。
ことね「はい!じゃあ今日は“タイトル記念日”ですね!」
『そんな大げさな』
ことね「大げさでいいんです!」
力強く言い切る。
その勢いに、思わず笑ってしまった。
――ああ。
笑えた。
いつぶりだろうか。
窓の外では、まだ雨が降っている。
けれど、その雨は、さっきとは少し違って見えた。その音は、少しだけ優しく聞こえた。
『藤田さん』
『ありがとうございました』
ことね「プロデューサー」
『はい』
ことね「明日も、ひとつやりましょうね」
『……ええ』
小さく頷く。
それでいいのだと思えた。
全部じゃなくていい。
完璧じゃなくていい。
ただ、一歩。
彼女と一緒なら、それが踏み出せる気がした。
――しとしとと雨が降っている。
あの冷たさは、まだそこにある。けれど今は、それだけではなかった。