迫りくるトラックから二人を救い、俺の人生は幕を閉じた。
――はずだった。
目覚めた先は大正の世。
雪ノ下も、由比ヶ浜も、小町さえもいない二度目の生。
型が使えない剣士と、鬼の頸を斬れない少女。
最悪の欠陥を抱えた二人は、最終選別で出会う。
その少女――胡蝶しのぶの声は、かつて彼が大切にしていた彼女によく似ていた。
※声優ネタ。
早見沙織さん繋がりで着想を得ました。
pixiv
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遠くに鳴る救急車のサイレンを、空を仰ぎながら聞く。
どこが痛いのか、もう分からない。
ただ、自分は助からないという確信だけがあった。
霞む視界に映るのは、二人の女の子。
「比企谷くん……!」
「ヒッキー、ねえ、返事してよ……!」
雪ノ下雪乃、由比ヶ浜結衣。
俺が間違い、傷付けてしまった二人。
俺の……大切に想っていた女の子。
ひどくおかしかった。
──あなたのやり方嫌いだわ
──人の気持ち、もっと考えてよ
あれだけやらかしておいて、今さらこんな顔をされる筋合いはない。
俺はただの部員で、二人にとって友人ですらない。都合のいい時だけ使われる便利屋みたいなもんだ。
少なくとも、泣かれるような立場じゃない。
なのに、なぜそんな顔をしているのか。
そんな状況じゃないのに、笑えてしまう。
悲しむことはない。
俺は、救えたのだ。
居眠りか飲酒か知らないが、迫りくるトラックから二人を救えたのだ。
手を握られる感覚が、遠くなっていく。
あと少し……最期に一言だけ、伝えたくなった。
「っ……」
声を出そうとして、失敗した。喉から溢れ出た血が、息を詰まらせた。
顔を横にずらして、なんとか吐き出す。辛うじて通るようになった喉で、血に塗れた声で言う。
「じゃあな……」
ちゃんと届いたかどうかは知らない。
ただ、二人の表情が歪んだのだけは見えた。
それだけで、十分だった。
意識が、途切れた。
◇◇◇
母親からお使いを頼まれ、それにしては多い金を渡される。
余りはお駄賃として貰ってやるつもりだ。気付かれないうちにさっさと行こう。
「八幡」
玄関で草履を履いたところで声を掛けられる。ゆっくりと振り返ると、大きな腹を抱えた母親がこっちに歩み寄ってきた。
「言うの忘れてたけど、ついでに野菜も買ってくるのよ」
「りょーかい」
「それと、もうそろそろ日が暮れるから、寄り道しないで帰ってきなさい。間違っても値切りで得した分で遊ぼうなんて考えるんじゃないわよ」
「…分かってる」
やはり心を読めるのではと疑いながら、母に見送られ家を出る。
夕暮れの空気は、やけに冷たい。
土を踏みしめる草履の感触にも、日本人のノスタルジーを刺激する景色にも、もう慣れた。
俺の名前は比企谷八幡。
令和の世で死に、気がつけば大正の世に生まれ変わっていた。
苗字も名前も、何故か前世と同じ。比企谷はともかく、八幡なんて付ける親が前世の両親以外にもいた事に驚いた。
生まれ変わった当初は、色々苦労もあった。
電気もない、ガスもない、当然スマホなんてあるはずもない。現代にどっぷり浸かっていた身としては、正直かなりきつい。
それに、今世の両親は当然ながら前世とは違う人間だ。社畜ではないし、旧・比企谷家特有のアホ毛も無い。
何より、小町がいない。あの生意気盛りで可愛い妹がいない事が、転生を含めた二生の中で一番キツかった。
……まあ、その代わりと言ってはなんだが。
今の母親の腹には、新しい命がいる。七つ差のきょうだいが増えるらしい。弟か妹かは知らないが、できれば妹であってほしい。切実に。
──ちなみに、俺の腐った目とアホ毛は健在だ。どうやらこれは遺伝関係なく仕様らしい。
夕暮れ時の街を進み、さっさと買い物を済ませる。
日が暮れる前に帰る必要があった。
両親曰く、夜になると人食い鬼が出るらしい。
最初に聞いた時は「鬼とか何言ってんだ」と思ったし、実際に遭遇したこともない。だが、あそこまで真剣に言われると笑えない。試す気にもならなかった。
「たでーまー」
「おかえりなさい」
「おー、帰ったか」
家に帰ると、母は米を炊いており、父も既に寛いでいた。
前世とはまるで違う。不便で、不慣れで、どうにも落ち着かない世界。
この平穏な日常がいつまでも続くと、そう思っていた。
……なんて、甘い考えだった。
その日の夜。
それは、あっさり終わった。
両親から聞かされていた『鬼』が現れて、二人は喰われた。
俺は、動けなかった。
父親が喰われ、母親も喰われ。
俺はそれを、ただ見ていることしかできなかった。
二人が喰われ、『鬼』がこちらを向いた。目が合った。
「ひっ……!」
終わったと思った。
逃げることも叫ぶこともできず、ただここで終わるのだと。
ぎゅっと目を瞑る。
──次の瞬間、グシャリと、ナニカが潰れる音がした。
恐る恐る目を開けると、そこには『鬼』だった物が転がっていた。
「怪我はないか?」
鉄球と鎖斧を手にした巨漢が、それに似合わない優しげな声で訊ねてくる。
「だい、じょうぶ、です」
うまく息が吸えず、言葉が震える。
それでも、なんとか答えることができた。
それから、俺の日常は目まぐるしく変化した。
巨漢の戦士──
両親を喰らったのは、やはり鬼だったこと。
鬼は夜に活動し、人を喰うこと。
悲明嶼さんは、鬼を狩る『鬼殺隊』に所属していること。
「君は、これからどうするつもりだ?」
悲明嶼さんの問いには、多分二つの選択肢があった。
一つが、鬼のことは忘れて平穏に暮らすこと。
もう一つが、『鬼殺隊』となり人に仇なす鬼を殺すこと。
俺は、後者を選んだ。
理由はよく分からない。
鬼に対する憎悪はある、命の恩人である悲明嶼さんへの憧れもある。
けれど、きっとそれだけじゃない。
こちらを選んだ方がいいと、本能がそう告げていた。
悲明嶼さんから、鬼殺隊員を育成する育手を紹介された。
最終選別という試練を突破するまでは、ここで修行をするようにとのことだ。
そこでは、基礎体力の向上や刀の使い方を教わり、そして鬼殺隊として最も重要なモノを教わった。
『全集中の呼吸』
血の巡りや体温を上げることで身体能力を向上させることが出来る、特殊な呼吸法。
人外の身体能力を誇る鬼へ、鬼殺隊が対抗するための唯一の手段。
御伽噺のようなこの技術を、俺は割とあっさり習得できた。
前世でラノベに精通し、妄想を拗らせていた俺だ。魔力やら気力やら、イマジネーションによる身体感覚の操作は得意分野だった。
まさか前世で培った中二病のキャリアが、大正時代で命綱になるとは思わなかった。
しかし。
「うーむ……」
育手である爺さんが、腕を組んで悩んでいる。
「……やっぱりダメっすかね?」
「いや、駄目じゃない。八幡は実力もあるし、駄目じゃないんだが……」
「型が使えないと、強い鬼には勝てない」
「そうだ」
爺さんの悩みの種は俺。
正確に言えば、俺が呼吸法を使った型を使えないことだった。
「……取り敢えず、受けるだけ受けてみてもいいですか?」
「取り敢えずとは言うが、下手をすれば……いや下手をしなくとも死ぬかもしれないのが鬼殺隊だ。型が使えないお前では……」
「そうは言いますけど、流石に四年も穀潰しをしてるのは気が引けるっつーか」
悲明嶼さんから助けられ、爺さんのもとで修行してもう四年。
俺は修行を重ね、身体も成長したし、刀の使い方も呼吸法の練度も上達した自負がある。
けれど、俺が型を使えないことと爺さんの慎重さが相まって、俺は最終選別へ向かう認可が下りずにいた。
「……分かった」
爺さんが、重々しく頷いた。
「最終選別を受ける認可をしよう。ただし、忘れるなよ八幡──」
「──慎重と臆病が違うように、勇敢と無謀を間違えるな。分かってますよ」
「ならいい。必ず、生きて帰ってくるように」
「うす」
こうして、俺は最終選別へ向かうこととなった。
最終選抜。
これを突破すれば、晴れて鬼殺隊に入隊することができる。
両親の復讐、悲鳴嶼さんへの恩返し。そして、本能の導き。
何としても生き残り、爺さんの約束を果たす。
そんな事を思いながら、藤襲山の麓で開始まで一人佇んでいると……
「しのぶっ!」「姉さん!!」
弾けるような声が、耳に届いた。
視線を向けると、二人の少女が抱き合っていた。
「元気で良かったわ、嬉しい」
「姉さんこそ………!」
どうやら姉妹らしい。育手での修行で離れ離れになり、ようやく再会したのだろうか。
冷静にそう思考する傍ら、身体は吸い寄せられるように彼女たちの方へ向かう。
「なに?」
「こらしのぶ、そんな言い方しないの。それで、何か御用かしら?」
眉間にしわを寄せたしかめっ面をして、きつい口調で訊ねてくる妹。
微笑みをたたえて丁寧な口調で問い掛けてくる、お淑やかな姉。
その妹──しのぶに、俺の意識は奪われていた。
顔も、背格好も、まるで違う。
なのに。
「……なに?」
もう一度、同じ声。
間違ってるはずなのに、間違いない。
「……雪ノ下?」
気づけば、口に出ていた。
◇◇◇
アホ毛で、目が腐った、失礼なやつ。
それが比企谷八幡への第一印象だった。
──ゆきのした
最終選別を前にして、念願の姉さんとの再会を噛み締めていた私へ、あいつはそう言った。
……誰のことだろう。
きっと、初恋の相手か何か。
でなければ、初対面の女を別人と間違える理由がない。
本当に、感じの悪い男だ。
それなのに。
「それじゃあ比企谷くん、しのぶのことよろしくね」
「…うす」
どういうわけか、私はその男と行動を共にすることになった。
私は姉さんと一緒に受けるつもりだったのに、「それでは意味がないわ」と強い口調と眼差しで拒否された。
それならと、私は一人で行動するつもりだった。よく知りもしない男と二人きりよりは、その方が安全だからだ。
けれど、できなかった。
こいつの目が、縋るように私を見ていたから。私に向けられたものじゃない、『ゆきのしたさん』に向けられたものだったとしても、これを振り払えるほど、私は人でなしではなかった。
「……行くわよ」
「ああ」
短く言って、背を向ける。
こうして、最悪の組み合わせで。私たちの四日間の最終選別が始まった。
山に入ってすぐ、こいつの評価を改めた。
無駄に歩かない。
足を止めるたびに、周囲を見ている。
「戦うならこの辺りだな。夜でも視界が確保できる」
木々が密集している森から、木々の無い空き地へ出る。
釣られて空を見上げると、月明かりが差し込んできそうな開け具合だった。
「……確かに」
つい、頷いてしまう。
「ここから逃げるなら……こっち側だな。斜面が緩い」
地形まで見ている。
……なるほど。優秀だ。
こうして待機場所を決めてからは、共闘のためお互いの力量を把握することを提案した。
「はぁ?! 型が一つも使えない!?」
「ああ」
そこで、まさかの事実を聞かされた。
「呼吸はできる。刀は振れる。岩も斬れる。ただ、あの動きがどうしてもできなかった」
淡々とした口調だった。誤魔化す気も、取り繕う気もないらしい。
「それで、胡蝶は?」
「っ、私は……」
とはいえ、私もそれを馬鹿することはできない。だって私は……
「……私は、鬼の頸が斬れないの」
「腕力が足りないってことか」
こいつはそれを、あっさりと受け入れた。
笑うでも憐れむでもなく、そういうものだと。
「呼吸は使えるのか?」
「…ええ。ちょっと合ってないけど、水の呼吸なら多少は」
「俺も爺さんから教わったのは水だ」
「一番習得しやすいって言われてるものね」
水の呼吸は、水のように変幻自在な歩法と刀捌きが特徴の流派技だ。技の多くが基礎に沿ったものであるため、他の流派と比べれば比較的習得しやすく、応用も利く呼吸だ。
それ故に扱う隊士の数が多く、私も育手から教わったのは水の呼吸だ。
「そんじゃ、役割は決まりだな」
「私が陽動で、あんたが頸を斬る?」
「そうだな」
話は纏まったのに、こいつは気まずそうに視線を逸らした。
「……悪い」
「何が?」
「いや、その……あれだろ。囮を任せて胡蝶の負担が大きいっつーか、俺が手柄を横取りしたみたいにもなるし」
遠回しすぎる。
でも、意図は分かった。
「馬鹿にしないで、鬼殺隊に入るため鬼と戦う覚悟はできてる。それに私は腕力こそ無いけど、速さと突きには自信があるの」
「……悪かった」
今度は、ちゃんとした謝罪だった。
こいつが選んだ空き地で、襲ってきた鬼を返り討ちにする。
最終選別を行うこの藤襲山には、入隊前の隊士のために弱い鬼が運ばれている。私とこいつの二人で戦えば、楽勝とは言わないが余裕を持って対処できた。
「あんた、普通に強いじゃない」
こいつ──比企谷は強かった。
戦闘のセンスは、おそらく無い。鬼の頸を斬るために開発された、数々の型を使いこなせるような器用なタイプじゃない。
けれど、相手の攻撃を捌く刀や足捌きに関しては、正直私よりずっと上だ。
「そりゃあ伊達に四年も穀潰ししてないからな」
「は? 四年?」
「ああ。育手の爺さんが慎重な性格でな。型が使えないからって最終選別を受けさせてくれなかった」
「ああ……」
確かに普通なら型の一つも使えない隊士なんて、鬼に殺されて終わりだ。そんな奴を送り出そうなんて思わない。
まあそんな事を言えば、鬼の頸を斬れない私なんて、お話にもならないわけだが。
「それはそうと……戦闘中、急に消えるの。あれなんなの?」
「だから言ってるだろ、影が薄いんだって。ステルス・ヒッキーだよ」
「すてるすひっきー、が何かは知らないけど、心臓に悪いんだけど」
そう、こいつは戦闘中、唐突に消えるのだ。
鬼を相手に二対一、優勢に戦っている最中。ふと、こいつの気配が消える。敵である鬼も、相方である私も、気付かぬうちにこいつを見失う。
そして、「あれ?」と思った次の瞬間、鬼の横手や背後に現れ、その頸を刎ねていく。
その太刀筋は鋭く、研鑽を重ねたと一目で分かる。おそらくそれなりに力のある鬼の頸も斬ることができるだろう。
頼もしくはある。相方として、頼もしくはあるのだが、それはそうと心臓に悪い。急に居なくなるのはやめてほしい。
そんな愚痴を零しながら、夜が明けるまで周囲の警戒をする。
そして、また一体の鬼が現れた。
緑色の、常人の五倍はあろうかという体躯に何本もの太い腕が無造作に巻き付いた、これまでの鬼とは一際異なる奇怪な姿をしている。
「胡蝶……」
比企谷の低い声。その腐った目が、真剣な様子で鬼を見据えている。
「うん、あの鬼つよ──」
「──逃げるぞ」
「……は?」
こいつは今何を言った?
「逃げるっつたんだ。あれはやばい、俺たちが戦うべき鬼じゃない」
「あんた自分が何言ってるかわかってるの」
「分かってる。ただあいつは駄目だ。勝てない」
確かにあいつからは、さっきまでの雑魚鬼とは比べ物にならないくらい、強い気配を感じる。
けれど、私たちは見習いとはいえ鬼殺隊。鬼を見つけた以上、戦わなければいけない。
「……じゃあ一人で逃げればいいでしょ」
私はそう告げると、未だこちらに気付いていない鬼へ、先手必勝とばかりに駆ける。
接近に気付いた鬼は、私へ向けて数多の腕を伸ばしてくる。私はそれを掻い潜り、渾身の突きを放った。
「ぐっ……!」
刀は鬼の喉元を貫通したけれど、貫通では駄目だ。鬼は頸を斬らなければ死なない。
斬り落とすため、刺さった刀を横薙ぎに振るおうとする……が、動かない。
「死ねぇ!」
鬼が再度、私へ腕を伸ばしてくる。
(まずいっ)
咄嗟に刀を抜き、飛び退こうとするが、間に合わない。数多の腕が私を捕らえようとして──
「──しぃ!」
──その攻撃は、全て斬り落とされた。同時に視界が揺れ、瞬く間に鬼との距離が開く。
「ちょ、降ろしなさいよ!」
「いたっ、殴んな馬鹿!」
冷静になり、比企谷に助けられ、さらには俵抱きにされていたと気づく。
背中をバシバシと叩くと、態度とは裏腹にそっと降ろされた。
「逃げるぞ」
文句と感謝を口にする前に、比企谷は再度逃亡を告げた。
「だからっ、私たちは鬼殺隊で……!」
「あれ見ろ! もう腕が直りかけてる。絶対、最終選別で出てくるような鬼じゃねえだろ」
鬼へ視線をやると、確かに比企谷が斬り捨てたはずの腕が、もう再生を始めていた。
一人二人喰っただけの雑魚鬼では、ありえない再生速度だ。
「……逃げてどうするのよ」
「試験を中断してもらう。柱か上級隊士かで討伐してもらって、その後にまた試験を受ければいい」
「……分かったわ」
悔しいけど、私じゃあの鬼を倒せない。鬼の頸を斬れない私じゃ、一対一じゃ勝ちようがない。
こいつが逃亡を選ぶなら、私もそれに従うしかない。
私たちは、目の前の鬼から逃げ出した。
麓へ辿り着いた私たちは、明らかに強すぎる鬼がいることを報告した。説明を聞いた優しげな男性──お館様は、急遽試験の中断を決めた。
どうやって受験者たちを下山させるのかと思えば、彼は山へ向かって複数の鴉を放った。聞けばあの鴉たちは人語を話すそうで、彼らに試験の中止を伝える任を出したそうだ。
とはいえ、麓に戻ってくるまでにあの鬼と出会さないとも限らない。
緊張を抱えて姉の帰りを待っていると……
「しのぶ! 無事だったのね!」
「姉さん!」
「強い鬼が紛れてるって聞いて、もしかしたらしのぶがって、心配だったの……!」
「姉さんこそっ、無事でよかった……」
姉さんから思い切り抱き締められ、私も力の限り抱き締め返す。
「姉さん、実はね」
「どうしたの?」
「その、ね……鴉が伝えた強い鬼って言うのが、私たちが戦った鬼なの」
「え!?」
姉さんが大きく目を見開いた。
「無事なの!? 怪我は!?」
「大丈夫。比企谷が助けてくれたのと、逃げて報告すべきだって、麓に降りてきたから」
「比企谷くんが……」
姉さんの目線が比企谷へ向いた。
「比企谷くん、ありがとう。この子を守ってくれて」
「…うす」
比企谷は相変わらず腐った目を携えて、小さく会釈した。
その後、最上位の隊員である柱・岩柱である悲鳴嶼さんが、それに次ぐ甲隊士を二人引き連れて藤襲山を徹底的に探索した。
彼らによりあの鬼──手鬼は討伐された。おそらく五十人以上の隊士を喰ったと推定される異常個体は、やはり私たち見習い隊士が戦うべきではなかった。
それを判断し、撤退・報告した私と比企谷は、お館様や悲鳴嶼さんにお褒めをいただくことになった。
「逃げることもまた、勇気だよ。君たちのその判断が、多くの子供たちの未来を救ったんだ」
穏やかな声だった。
けれど、その言葉はまっすぐ胸に落ちた。
「よくぞ生きて戻った……今回は選別、民間人を背に戦っているわけではない。引くべき時に引く、命を粗末にせぬことも、修行の成果よ」
重く、静かな声音。
その一言で、張り詰めていたものがほどけた気がした。
撤退という消極的な判断をした私たちだけど、ほんの少しだけ、胸を張れる気がした。
そして、改めて行われた最終選別。
今度は何事もなく。私と姉さん、ついでに比企谷は、無傷で突破を決めた。
◇◇◇
鬼殺隊に入って一年が経ち、今日も今日とて任務だ。
「はぁ……」
「おい、俺の顔見て溜息吐くな」
お互い初対面から大分慣れてきた胡蝶へ、文句を投げる。気持ちは分からなくもないが、それでも美人に溜息を吐かれると凹むのだ。
「だってまた比企谷と任務でしょ。最終選別からずっと、一度の例外もなく」
そう、俺と胡蝶は、何故か合同任務をさせられるようになっていた。
お館様の采配にケチを付けるつもりは無いし、理由もまあ、理解はできる。
片や未だ型が使えず、戦闘に不安がある俺。片や腕力が足りず、毒という新しい武器を試行錯誤している胡蝶。
お互い未熟者同士、補い合って鬼を殺せということなのだろう。
「……まあいいわ。今回も、いつも通りでいいわね」
「囮よろしく」
「殺すわよ」
「鬼殺隊員同士の戦闘は隊律違反だぞ」
「うるさいわね。毒漬けにするわよ」
こうして俺と胡蝶は、今日も今日とて任務へ向かう。
胡蝶の姉、カナエさんが柱になった。
花柱・胡蝶カナエの誕生だ。
カナエさんは、柱として貰える屋敷として、以前からあった鬼殺隊用の病院施設の改築を要求した。
胡蝶妹の医学・薬学の知識を見込んで、病院の役割も担うことにするのだとか。
「あの……」
「あら、どうしたの比企谷くん」
「俺もここに住んで良かったんですか?」
そして、そこに俺も住むことに決まった。
「いいのよ〜。比企谷くんならしのぶも嫌がらないし。ね、しのぶ?」
「……まあ、蝶屋敷を運営する上で、どうしても人手は必要だし」
「でもな……女二人の屋敷に男を入れるっつーのは」
「あんたがその気なら、私なんて何度も襲われてるじゃない」
「それはそうなんだけどな」
任務を共にするということは、共に夜を明かすということだ。藤の花の家──鬼殺隊士に宿を提供してくれる家──で共に寝ることも当然ある。
言われてみれば、今更ではある。
「だがなぁ……」
「なによ、私じゃなくて姉さん狙いなわけ?」
「ちげえよ」
「しのぶ、嫉妬は程々にね」
「違うわよ姉さん!」
こうして、俺と胡蝶姉妹の同居生活が始まった。
「それで? 比企谷くんはしのぶのことどう思ってるの?」
「なんですか急に」
「急じゃないわよ〜。最終選別を一緒に乗り越えて、毎日一緒に任務を熟して、これからは一緒に住むのよ? もう好きになっちゃってるんじゃない?」
「ないです、ないない」
「えー」
不満そうに頬を膨らませるカナエさんは、俺らより四つも年上とは到底思えない。
「しのぶがお気に召さない? 身内贔屓かもしれないけど、あの子可愛いでしょう?」
前々から思ってたけど、この人かなりのシスコンだよな。
「そりゃあとんでもなく美人だとは思いますけど」
「そうでしょう? 顔も可愛いし、性格も可愛い。おまけに『すたいる』もいいのよ? 惚れない要素が無いわよね?」
ぎこちない発音で爆弾を放り込まないでほしい。最近ますます育ってきた胡蝶に、目のやり場に困ることも多いのだ。俺の心中を察してか、カナエさんの笑みがさらに深まる。
……ダメだ、この人には絶対に勝てないと。俺は改めて覚った。
蝶屋敷の運営は順調だった。
神崎アオイや栗花落カナヲが加わったり、慌ただしくも幸せな日々が続いていた。
鬼殺隊士となり、実力と経験を積んで、鬼狩りにも慣れて余裕が出てきたこの頃。俺にも、胡蝶にも、カナエさんにも、きっと油断があった。
この平穏な日常がいつまでも続くと、そう思っていた。
甘い考えだった。
不幸は、厄災は──鬼は、いつ俺たちを襲うか分からないというのに。
花柱・胡蝶カナエが死んだ。
一対一で柱を殺し得る鬼、おそらく上弦と遭遇したのだ。
胡蝶は、死に際のカナエさんから、その鬼の特徴を聞き出した。
ニコニコと屈託なく笑い、穏やかに優しく話し、鋭い対の扇を武器として使う。頭から血をかぶったような鬼。
その日から、胡蝶は変わった。
常に微笑みを絶やさず、誰に対しても丁寧な口調で話す。まるで姉である胡蝶カナエを模するように、お淑やかな女性になった。
試行錯誤を繰り返していた藤の花の毒を完成させ、その功績により、かつての姉と同じ柱に手が届かんとしていた。
それだけなら、まだ良かった。
だが、決定的な場面を見て、俺もようやく口を挟む決意を固めた。
「何してる」
「比企谷くん」
夜も更けた蝶屋敷、一人薬剤庫に籠もっていた胡蝶に声を掛ける。
振り向いた胡蝶の手には、鬼への猛毒である藤の花が載せられていた。
「こんな夜更けにどうしました? 夜這いですか?」
「違う──もう一度聞く、何をしている胡蝶」
煙に巻こうとする胡蝶に、強い口調で再度訊ねる。
「はぁ……」
胡蝶は諦めたように息を吐く。そして、俺を真っ直ぐに見据えてきた。
「これは、私の調合する毒の核となる藤の花です」
「…ああ」
「私は、これを摂取します。少しずつ体内に毒を蓄え、そして姉さんを殺した上弦に喰われる。私は、姉さんの仇を討つ」
予想はしていた。
復讐を成し遂げるため、花柱・胡蝶カナエを葬った上弦を殺すため。胡蝶ならどんな手でも使うだろうと。
だけど。
「やめろ」
「嫌です」
端的な拒絶。胡蝶の目から、笑みが消えていた。
「これは、私の復讐です」
静かな声だった。
「姉さんを殺した鬼を、この手で殺す」
「……胡蝶」
言葉が、出てこない。
この感じを、俺は知っている。
──あなたのやり方嫌いだわ
──人の気持ち、もっと考えてよ
あの時、彼女たちが何に絶望し、何に怒っていたのか。
自分の命をチップに解決策を叩き出す俺を、どんな心地で眺めていたのか。
今、胡蝶しのぶという「鏡」を見て、ようやく……文字通り死ぬほど遅まきながら、理解できた気がした。
嫌だったんだ。
大切な奴が、自分勝手に、自分を勘定に入れずに、どこか遠くへ消えていこうとするのを見ているだけの無力感が。
胡蝶の復讐は正論だ。覚悟もある。止める理由なんてない。
それでも。
「お前は、死なないでくれ……」
「……は?」
あまりに弱々しく、女々しい。
詭弁も、理屈も、ひねくれた視点も、何一つ載っていない。
ただの比企谷八幡としての「本音」に、胡蝶の眉がわずかに揺れる。
「お前がカナエさんを想ってたのは知ってる。鬼殺隊に入った動機も理解してる。虫のいい話してるのも分かってる。その上で頼む──死なないでくれ」
「……それは、貴方の願望でしょう。私の復讐とは関係ない」
胡蝶の口調が乱れた。カナエさんのものに、元の胡蝶の口調が混じった。
「そうだな……。これは俺の我儘だ。でも……。でも、俺は……」
言うべき言葉の先を探して、視線をさまよわせる。
けれど、視界の中に言葉なんてどこにもなくて、目に映るのは、長い睫毛を伏せた横顔だけ。
不意に、その光景がじわりとぼやけた。
「俺は……」
言い直しても、先の言葉は見つからない。
俺は、何を言うべきなのだろうか。既に言いたいことは、胡蝶しのぶに生きていてほしいという願いは、言い終えてしまった。
これ以上彼女を説得するための言葉は、俺の中にはない。
なのに、考えても全然理解なんかできないのに、それでもまだ何か言うべきことを、言いたいことを探している。言ったって、伝わらないかもしれないのに。言うだけ無駄なのに。
「……ゆきのした」
沈黙の中、胡蝶がぽつりと呟いた。
「は?」
「初めて会った時、貴方が私を見て言ったのよ。ゆきのしたって」
憶えている。胡蝶の声が、彼女に──雪ノ下雪乃に、あまりにも似過ぎていたから。
「初恋の女の子なのかしら。その子の面影を想って、私に死なないでと言っているのでしょう?」
「違う……」
いつの間にか出ていた声は、自分でも震えているのがわかった。
「最初は、そうだったかもしれない。胡蝶しのぶに、雪ノ下雪乃の面影を見ていたかもしれない。……でも今は、今の俺は……」
言葉が出ない。
何を言えばいいのか、何と言えば伝わるのか、分からない。
それでも。
「俺は、胡蝶しのぶが欲しい」
その言葉は、静まり返った薬剤庫に、あまりにも場違いで、あまりにも自分勝手に響いた。
「……なに、それ、自分勝手過ぎるでしょ」
胡蝶は笑った。泣き笑いのように、笑った。
「本当に、最悪な男。人の覚悟も決意も全部、台無しにして」
「……その台無しにした分は、俺が継ぐ。お前の復讐は、俺の手で成し遂げてみせる」
「私の技と毒を使って?」
「ああ」
「貴方の刀で、殺してくれるの?」
「ああ」
迷いのない断言、とは言えない。
花柱・胡蝶カナエを下した、おそらく上弦を相手に勝ち切るなんて、全肯定で頷けるはずもない。
ただ俺自身の力で……俺と胡蝶の力で、憎き悪鬼の頸を断ち斬るのだと、その覚悟は本物のつもりだ。
「──そう」
手にしていた毒の花を机に置いて、胡蝶が一歩、二歩と、前に出る。
触れ合える距離、息遣いさえ届く距離で、俺たちは顔を見合わせた。
感情の昂りに、胡蝶の瞳が潤む。ついには決壊して、微笑みを伝って涙が流れ落ちた。
「私と貴方、二人で一つ。姿も名前も分からない鬼を、いつか必ず殺す」
「ああ。カナエさんの仇は、必ず討つ」
胡蝶は満足そうに微笑むと、俺の胸元を掴んで背伸びをする。
ゆっくりと、お互いの顔が近づき、距離が縮まる。
そして、重なった。
あの日を境に、胡蝶しのぶは変わった。
もう、姉の真似はしていない。勝ち気で口の悪い、いつものしのぶに戻った。
そして。
「八幡」
「…おう」
夜が更けた蝶屋敷。
音を立てないようにそっと、胡ちょ…しのぶが俺の部屋にやって来た。
「ねえ……今日も」
「ああ」
扉のすぐ側で立ち尽くしていたしのぶへ歩み寄り、そっと抱き寄せ、口付けを交わす。
ほんの一瞬、触れるだけの口付け。
それでも、確かに熱を持っていた。
唇が離れても、距離はそのまま。
言葉は、いらなかった。
静かな夜の中で、二人の呼吸だけが重なった。