勇者が生まれないか街を見張っていた魔物の私、懐いてきた子をうっかり勇者に育て上げてしまう 作:うちっち
魔王様の話は、長い。
その日の会議も、たいへん長かった。
黒曜石の床、青白い炎、壁際に並ぶ魔物たち。
そして、椅子が硬い。とても硬い。
以前はモルを膝に乗せて耐えていた。今は膝の上に何もない。硬さが直接、腰に来る。
モルは今、人間の街にいる。
無事なのは分かっている。3日前から、毛の中づたいに私の荷物が一つずつ届いているからだ。替えの靴下。干し林檎の残り。焼き菓子の包み。あっちで荷造りをしてくれているらしい。えらい。
心配なのは、帰り道である。
モルは雲羊だ。飛べない。馬車の切符も買えない。川があったらどうするんだろう。橋は渡れるだろうか。
早く帰ってこないかな。
迎えに行く、と言ったら、魔王様に「お主は謹慎中じゃ」と即答された。
「──以上のように、東部で買い出し部隊が帰還不能となっております。道が途中で別の場所へつながるようです」
参謀が羊皮紙をめくった。
広間がざわついた。
道が迷う。村が消える。人間の街で聞いたのと、同じことが起きている。
大異変。あれは人間だけの災いじゃなくて、下にいる全員の災いらしい。
困る。とても困る。道が迷ったら、買い出しに行けない。買い出しに行けなかったら、特産品が食べられない。灰鐘村の干し林檎も、聖都の白鈴菓も、道の向こうにあるのに。
「勇者対策はどういたしますか」
誰かが聞いた。
「結界を越えられんじゃろ。放置じゃ放置。あっちはもう安心じゃわい」
魔王様の一言で、その議題は終わった。
魔王様は、玉座の肘掛けに頬杖をついた。
「女神のやつが動いとらんのは、確かじゃ。それ以上は、ワシにも分からん」
「では、調査には誰を」
広間の魔物たちが、一斉に目を逸らした。みんな、女神様が怖いらしい。
結局、会議では誰が行くか決まらなかった。
「今日の会議はここまでじゃ。ネリネ、お主は終焉の間で、報告書の続きじゃ」
「はあい」
私は硬い椅子から立ち上がった。
腰が少し痛かった。
やっぱりあの椅子は、いい椅子だったな。
持ち場へ戻る途中、渡り廊下の上で、ばちん、と小さな雷が私に落ちた。
見上げると、ピリカが飛んでいた。私が空を飛ぶと、嫌がらせに雷を落としてくる喧嘩友達である。
「……ごめん、今日はいいや」
避けもせずにそう言うと、ピリカは空中で変な止まり方をした。
「なんだお前、張り合いのない。もこもこの相棒はどうした」
「人間の街。荷造りしてくれてるんだけど、モルは雲羊で飛べないから。帰ってこれるか心配で」
「あたしは雲羊を知ってるけど、あれは絶対雲羊じゃない」
「心配で」
「つまんない奴だな」
ピリカはそれだけ言って、どこかへ飛んで行った。
怒らせてしまったのかもしれない。今度、焼き菓子をあげよう。
* * *
ネリネが姿を消した、あの日以降。
ユリス率いる勇者一行は、驚異的な速度で魔王城に向かって進行した。
さらわれた仲間を取り戻すために魔王城へ向かう──その旅を、世界中が後押しした。
軍資金と装備が使いきれないほど集まったのは、序の口だった。
魔法都市は、門外不出の禁書庫をクラリッサに開いた。また彼女の石袋には、歴代最高と呼ばれる触媒石がいくつも納められた。
神殿は、口伝でしか継がれない祈りの秘儀を、エルミナに授けた。命脈の祈りの、さらに奥。歴代でも数えるほどしか届かなかった深みに、彼女は1週間で届いた。
引退した剣聖が、山を下りてユリスに口伝を授けた。聖剣は使い手に応えるように、日ごとに光の刃を伸ばした。
そして勇者一行は、1か月ほどで、果ての岬にたどり着いた。通常3年はかかる道のりだと人々は驚き、今度こそ平和が訪れるのではないかと胸を高鳴らせた。
果ての岬で『闇を渡る宝玉』を掲げ、女神の力を借りることが、魔王城の結界を破る唯一の方法だという。
果ての岬。
ユリスが荒れ狂う空に向けて、宝玉を掲げた。
しかし、何も起こらなかった。
聖都、王家の滞在所。
勇者一行とラウエルが囲む机の上には、3つの行き止まりが並んでいた。
1つ。魔王城への道。
ネリネの部屋から、魔王からの手紙が何通も発見された。彼女は誰にも言わなかったが、ずっと前から魔王城に来るように誘われていたらしい。そこに書かれていた情報によると、魔王城の結界を越えるには、女神の力が要るという。
2つ。大異変の予兆。
ガルドから回ってきた記録の束は、日ごとに厚くなっていた。迷う道。消えた村。狂う暦。危機はいよいよ近いと思われた。
3つ。女神は、今も本当に「いる」のか。
どれにも手掛かりがなかった。誰にも解決法が分からない。こんなときには他の話題が出る。ずっと話さないユリスの地雷を踏まないように、全員が注意深く様子をうかがっていた。
「……あの偽医者、出てこなくなったわね」
クラリッサが、低い声で言った。
「魔王軍だったんじゃないかしら。ネリネの監視の連絡役だったんじゃない?」
「先生はそんな人じゃありません!」
エルミナが、勢いよく立ち上がった。それから、少しずつ声が小さくなった。
「そんな人じゃ、ないと……思います……」
彼女は聖印を握って、静かに言い直した。
「もし万一そうだったら、私が始末をつけます」
声がとても穏やかだったので、かえって誰も何も言えなかった。
「ともかく、今は女神様よ。女神様が応えてくれたら、魔王城への道も大異変への対応も解決するんだから」
クラリッサが話を戻した。
「聖遺物って、困った民のために女神様が残したものなのよね」
「はい。癒やすもの、守るもの、道を示すもの」
「なら、あるはずよ。こんなに困っている時のための何かが」
3人とラウエルは、王家の聖遺物目録を端から精査した。
ひびの入った鏡。視たものを映すが、何を視ているかは分からない。違う。
欠けた聖杯。注いだ水を清める。違う。
小さな銀の鈴。眠った者を起こす。違う。
薄い金属板。文字を刻むと消えない。違う。
白い石。温かい。それだけ。違う。
夕方になって、目録の最後の頁が閉じられた。
誰も、何も見つけられなかった。
「女神様は、こういう時のためのものは、残してくれなかったんですね」
ラウエルがぽつりと言った。
エルミナが、お茶を淹れた。薬湯ではない、普通の香草茶だった。
クラリッサは、白帳を開いた。
行き止まりも記録しておく。それが彼女の流儀だった。ただ、書く前に、頁を遡る手が、つい昔の記録で止まった。
聖都外縁城壁の防衛記録。
「ネリネ:療養椅子上にて待機。起立なし」
「……この『起立なし』、毎回書かれてるのよね」
「ありますね。よっぽど大事なことなんでしょう」
エルミナが覗き込んで、少しだけ笑った。
「白楔宿の日は『仮受付。読札担当』です。ネリネさん、子どもに字を褒められて、得意げでした」
「灰鐘村は『ほうきによる清掃支援』よ。確かに言ってたわ。『これでお掃除完了です!』って」
ユリスは、笑わなかった。
笑いかけて、失敗していた。
白帳は旅の記録だった。つまり、ほとんど全部の頁に、ネリネが出てくる。まるで2度と手の届かない遠い過去を、振り返っているみたいだった。
それでもクラリッサは、頁をめくり続ける。
そして、ふと、手が止まった。
防衛戦の頁。備考:すやすや。
迷子札の頁。備考:すやや。
療養泉。すやあ。
灰鐘村。ぐうぐう。
「どうして『ぐうぐう』なんて残ってるのかしら」
「ネリネさんの癖みたいなものでは」
「でしょうけど。白帳は余計な記述を削るのよ?」
その時、ユリスが静かに立ち上がった。
「……悪い。少し、風に当たってくる」
ネリネの痕跡が残った白帳を、これ以上読んでいられなかったのだろう。
扉が閉まるのを待ち、クラリッサは声を低くした。
「2人とも。少しだけ実験に付き合って」
クラリッサは白帳の新しい頁に、さらさらと簡単な文を書いた。
『夕食のパンは硬かった。よく眠れた。ぐうぐう』
「これで一晩置くわ。白帳が残すなら、明日も残っているはずよ」
翌朝。
書いた一文は、跡形もなく消えていた。夕食の記録は「パン消費。睡眠良好」に直されていた。
なのに。
すやすや。
ぐうぐう。
すやあ。
ネリネの書いた寝息だけが、全部の頁で、無傷だった。
「つまり。白帳はこれを『余計』だと思ってない」
「消し忘れ、ではないんですね」
「ネリネの書いたものは、だいたい消すのよ。食事の感想は消えている。言い訳も。同じ人が同じ紙に書いたのに、寝息だけがいつも必ず残る。白帳にとっては、この記述はよほど大事なのね」
「……人の睡眠に敏感だということでしょうか?」
「おかしいわ。だって私の書いた文章からは消えてるんだもの。ネリネの書いた「ぐうぐう」にのみ、白帳は意味を見出しているということになる」
「ネリネさんの言葉は、白帳にとっては特別なんでしょうか?」
エルミナはそう言った後、自分で答えに気づいた顔をした。
天使は、女神の分身。女神の言葉を、地上へ運ぶ存在。
また、白帳は、女神の聖遺物。
女神自身の言葉を、女神の道具が――削れるはずがない。
そして、ネリネが書く文章には、必ず「ぐうぐう」「すやあ」という文字がある。あれが女神からの言葉だとすると、つまり――。
「女神様は──消えていない? 寝て、いらっしゃる……?」
「……レオンダルの言っていた神託」
クラリッサが、ゆっくりと言った。
「『道がふたたび迷うなら、私へ光を届かせよ』。あの男は、祈りを捧げろと読んだ。でも、寝ている人に祈りは届かないわ」
エルミナが顔を上げた。
「光を届かせろ。あれはつまり……『起こしに来て』という意味です」
沈黙のあと、ラウエルが、掠れた声で言った。
「朝告げの鈴」
全員が、彼を見た。
「さっき、聖遺物の中にありましたよね。眠った者を起こす鈴。そういえば、ネリネさんが欲しいと興味を示していました。「そんな場合ではない」と断りましたが」
ラウエルは、立ち上がった。
「今は──"そういう場合"です」
* * *
鈴は、箱の奥にあった。銀色の、木の実みたいな小さな鈴。
ユリスには、「白帳の古い記述から、女神様は眠っていると分かった」とだけ伝えた。彼は深く頷いて、それ以上の理屈は聞かなかった。
問題はあと2つだった。女神の眠る深き底への道。きっとネリネは知っている。だが、ネリネのいる魔王城へ行くには、女神の力が必要だという。
結局、その日は解決法は出ず、明日に持ち越しとなった。
ある日の晩。
女将さんの慌てた声がしたので、クラリッサは部屋から出た。
「お連れ様の羊が、その、部屋で妙な動きを……」
ユリスとエルミナも廊下に顔を出した。
「実は、ずっと困っていたんです」
ネリネの部屋には、モルがいた。
部屋の私物は、もう何もなかった。棚も、袋も、空だった。
ただ一つ、石の療養椅子だけが残っていて、モルはその前に座り込んでいた。
鼻で椅子を押したかと思うと、椅子と同じくらい膨らみ、3分の1くらいを何とか毛に飲み込み、また少し下がる。そしてまた、椅子をじっと眺める。
持っていくべきか、悩んでいるようだった。
――どこへ?
そんなこと、決まっていた。
「……モル」
ユリスが、膝をついた。
モルは、椅子を押すのをやめて、ユリスを見た。
「ネリネのところに、行くのか」
モルは答えなかった。
でも、否定もしなかった。
ユリスは、椅子を見た。迷子札の貼られた背もたれ。空白の返却先。
それから、モルに向き直った。
「頼む。……俺たちを、ネリネのところへ連れて行ってくれ」
モルは、しばらくユリスを見ていた。
それから、もふ、と毛を膨らませた。
――なんとか潜り込んだ毛の中は、干したお布団の匂いがした。
その直後。
宿の窓の外が、ばちん、と光った。
夜空から舞い降りてきたのは、こうもりの翼を持った女性の魔物だった。羽ばたきのたびに、細かな雷が散る。
魔物は窓から部屋を覗き込み、まるまると膨らんだ羊を見て、心底面倒くさそうに息を吐いた。
それから、モルを抱えて、夜空へ飛び上がった。
聖都の空に、雷鳴が一つ、置き土産みたいに残った。
* * *
終焉の間は、静かだった。
私は報告書の4割あたりで手が止まっていた。
その時、扉の外で、ぽく、ぽく、と足音がした。
聞き覚えのある足音だった。四本足で、柔らかくて、少し重い。
扉の隙間から、白いもこもこが入ってきた。
「モル!」
私は立ち上がった。
モルは、いつも通りの顔で、部屋の真ん中まで歩いてきた。
「おかえり! 帰ってこれたの? えらいね!」
もふもふを撫でると、モルは得意げに鼻を鳴らした。そして、毛を膨らませた。
ぽん、と療養椅子が出てきた。
「わ、椅子まで! ありがと──」
ぽん。
白鈴菓の包みが出てきた。
ぽん。
ユリスくんが出てきた。
「──え」
ぽん。ぽぽん。
クラリッサさん、エルミナさんが、順番に転がり出てきた。
終焉の間の床に、勇者一行が積み上がっていた。
私は、モルを見た。
「……荷物、多くない?」
その時、頭上で、どかん、と雷が一発鳴った。
ピリカだ。
どうやらモルは、ピリカに運ばれて帰ってきたらしい。今の雷は、「届けたぞ」の合図だと思う。今度、お礼に焼き菓子を倍あげよう。
最初に立ち上がったのは、ユリスくんだった。
埃を払って、私を見て、それから、私の背中の翼を見た。
私は少しだけ身構えた。もう隠すものはないけれど、なんとなく。
ユリスくんは、大きく息を吸った。
「ネリネ!」
「は、はい」
「ご飯、ちゃんと食べてるか」
「食べてるよ」
「よし」
ユリスくんは、それで頷いた。
それが最初に聞くことなんだ。いいんだ。
「そろそろ報告書はできたか……の……? んん?」
振り向くと、扉のところに魔王様が立っていた。後ろにはノルクもいる。魔王様は、ユリスくんを素早く3度見くらいした。
「な、なんで勇者がここにおるんじゃ!?」
「その声は……魔王!」
ユリスくんが、剣の柄に手をかけた。
その時、エルミナさんが、すっと動いた。
音もなく歩き、ノルクの前にそっと立つ。途中にいたユリスくんと魔王様は、黙って道を譲った。
「……先生」
「人違いです」
「魔王城で人違いはないと思います」
「……」
「魔王軍だったんですね」
「医者は、患者のいる場所に現れるものです」
「そうですか」
エルミナさんは、にっこり笑った。
「では、始末をつけますね」
ノルクが、初めて一歩下がった。
それから、終焉の間は臨時の会議室になった。
クラリッサさんが、白帳を差し出した。
「戦う前に、見ていただきたいものがあるの」
さっきのエルミナさんを見て腰が引けたらしい魔王様は、素直に頁をめくった。
聖都の防衛戦。灰鐘村。療養泉。整った実務記録の末尾に、毎回残っている文字。
すやすや。ぐうぐう。すやあ。
「白帳は、余計な記述を削る聖遺物よ。でも、これだけは削らない。天使は女神の言葉を運ぶ存在。なら、これは寝息だと、私たちは考えたわ」
魔王様は、しばらく黙っていた。
それから、側近に何か言いつけた。
運ばれてきたのは、見覚えのある紙の束だった。
私の報告書である。
魔王様は、白帳の隣に、報告書の束を並べた。
すやすや。ぐうぐう。すやあ。
二つの束の端に、同じ文字が並んでいた。
魔王様は、深く息を吐いた。
「昔からじゃ。力を使い果たして、ことんと寝よる。そして寝たら、なかなか自力では起きん。寝るとたまに中身だけ出歩くが、そうするとさらに眠りは深くなる」
「知り合いなんですか」
私が聞くと、魔王様は遠い目をした。
「古い、な」
「なら、起こせばいい。俺たちは、そのために来ました」
ユリスくんが身を乗り出した。
エルミナさんが、銀の鈴を掲げる。
「朝告げの鈴。眠った人を必ず起こす、女神様の聖遺物です」
魔王様は、鈴を見た。
白帳を見た。
報告書の束を見た。
最後に、私を見た。
そして、「うーむ」と考える。
「ネリネ。監視任務を再開じゃ。こやつらに同行して、女神を起こしてこい」
「いいの?」
「こちらとしても、今のままは困るからのう。いちおう、魔界からは天界に行ける道がある」
話が早い。さすが魔王様である。
それから魔王様は「だがこのまま境界が戻るとお主は戻されるかもしれんの」と謎の言葉を呟いて、手紙を書き始めた。
「起こしたら、これを渡せ」
魔王様は、封を押しながら、ぼそりと言った。
「案ずるな。あやつも、物分かりが悪い方ではないからのう」
何の話かは、よく分からなかった。
でも、魔王様がそう言うなら、たぶん大丈夫なのだと思う。
「ところでお主ら、ワシのこと友達だと思っとる?」
「え?」
「勇者一行が魔王に手紙の使いを頼むな」
「頼んだのはネリネさんの返還で、手紙はそちらの都合では……?」
「まあそれもそうじゃのう……」
一方。
部屋の隅では、ぐるぐる巻きに縛られたノルクが、器の中の暗い緑色の液体をひたすら飲まされていた。
「エルミナさん、あれは?」
「一番苦い薬湯です。悪い部分を浄化しています」
「かわいそう」
「自業自得だ」
ユリスくんが即答した。ノルクは何も言わなかった。ただ、目だけで私に助けを求めていた。あの目はたぶん、報告書が一枚書ける。題名は『薬湯に関する抗議と申し入れ』だと思う。
私は見なかったことにした。ごめんノルク。
「魔王様」
縛られたまま、ノルクが口を開いた。用件は言わなかった。
魔王様は、ノルクをしばらく見て、深いため息をついた。
「わかったわかった。お主も行け」
「御意」
頭の下げ方が、いつもより早かった。
「浄化は済みましたので、道中は私が管理します」
エルミナさんが、にこやかに縄を持った。
ノルクは、何も言わなかった。
最後に、ユリスくんが、包みを差し出してきた。
白鈴菓だった。
「置いていっただろ。……明日に残すか、悩んでたやつ」
受け取ると、包みはあの日のまま、きちんと畳まれていた。
「明日が来たよ。ネリネ姉ちゃん」
私は包みを開けた。
白い半月が、6つ。
ちょうど、縛られていない人数分あった。
「……ノルクの分は?」
「薬湯がありますから」
「かわいそう」
最後の一つを、魔王様に差し出す。
「食べたことないって言ってた」
魔王様は、少し黙ってから、受け取った。
「……ふん。人間の菓子など」
と言いつつ、一口で食べた。
「どう?」
「……悪くないわい」
誰かと食べるごはんは、おいしい。
おやつも、そうらしい。
「女神様ってどんな方なんだろう。甘いものは好きかな。上にも美味しいものはあると思う?」
私は抱きかかえたモルに聞いてみた。しかし、もふ、と毛を膨らますこともせず、モルはただそっと目を閉じた。
* * *
それからまた、しばらくの日が経過した。
クラリッサは、聖都の記録所に旅の記録を届けに来ていた。記録官を兼任することになったのは、完全に成り行きである。形の悪い成り行きだった。
「クラリッサ様、このネリネさんの報告書なんですけど」
部下の若い記録官が、一枚の紙を持ってきた。
『女神様のところまで、あと少しです。
今日は卵料理をみんなで食べました。
おいしかったです。
ぐうぐう』
「その、いつも思うんですが、この最後の『ぐうぐう』って、消していいですか。記録として意味が」
「駄目よ。そこが一番大事なの」
記録官は、納得のいかない顔で報告書を綴じた。
それから、別の書類を指でつついた。
「あと、ネリネさんって、もともと勇者様を見張る魔物だったんですよね。みんな知ってます。本人が羽を出して普通に歩いてますし」
「外套かもしれない……は無理があるわねえ」
「見張ってたのに、なんで見つけた勇者を倒さなかった上に、育てたりしたんですか」
クラリッサは、手を止めた。
机の端には、書きかけの──正確には、10日前から1行も書けていない冊子がある。
王家と神殿から正式に頼まれた、勇者一行の旅の物語。戦いの顛末を民へ伝えるための本だ。記録官と旅の同行者、両方を兼ねる者は他にいないから、書き手はクラリッサしかいなかった。
引き受けたはいいものの、書き出しが決まらなかった。
神託から始めるのは、形が悪い。聖剣から始めると、あの草地で木剣を打ち合うユリスとネリネが抜け落ちる。旅立ちから始めても、その前の10年が消えてしまう。どこから書いても、一番大事なものが、どこにも入らなかった。
「どうして、見張っていた魔物が勇者を育てたのか、か……」
窓の外からは、言い合う声が聞こえる。白鈴菓を何箱買うかで揉めている声だった。「日持ちの問題です」と神官が割って入り、「保存の観点から4箱でしょう」と、自称旅の医者の声が続いた。
クラリッサは、ペンを取った。
空白の冊子に、1行だけ書いて、そっとペンを置く。
そしてそのまま書類を置いて、記録所を出た。
すぐ目に入るのは、浮いた石の椅子。白い羊。灰色の羽根。8箱に落ち着いたらしい白鈴菓。
……あの子は、うっかり橋から落ちて、うっかり竜を殴って、うっかり聖像兵1000体を消して、今は、うっかり世界を救いに行く途中である。
書き出しなんて、一つしかなかったのだ。
クラリッサは少しだけ笑って、仲間の方へ歩き出した。
記録所の机の上には、冊子が残っている。いつか綴じられて、たくさんの人が読むことになる物語の、最初のページ。その最初のページが、ひらりと風で開いた。
そこには、一文だけ、こう書いてある。
――勇者が生まれないか街を見張っていた魔物が、懐いてきた子をうっかり勇者に育て上げてしまったところから、このお話は始まります――
~「勇者が生まれないか街を見張っていた魔物の私、懐いてきた子をうっかり勇者に育て上げてしまう」 おしまい~
ということで、完結です!
最後までお付き合いいただき、ありがとうございました!
私は勇者と魔物娘のほのぼの旅を書きたくて始めたはずなんですが、なんか書いてるうちに違う話になりました。どうしてでしょうね。たぶんノルクの手術が悪い。
まあこれからも元気に進んでいくんじゃないかなぁ。立ち歩いてるかもしれない女神様の中身ってどこにいるんでしょうね。関係ないですが、天界のものってなんかもこもこしてそうですよね。関係ないけど。
(いつもの広報)
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