普段恋人にしか見せないクッソ恥ずかしい姿を上映する怪奇現象 作:東頭鎖国
それから二ヶ月が過ぎた。
ワルプルギスの夜を倒した平和な世界は、拍子抜けするほど穏やかに続いていた。
ほむらは相変わらず彼の前では玄関まで小走りになり、杏子は年上彼氏の冷蔵庫を管理し、マミは年下彼氏に紅茶を出しながら時々おにいちゃん呼びをしていた。
まどかは彼氏を甘やかすために手作りお菓子のレパートリーを増やし、さやかは彼と付き合いたてのぎこちなさを少しずつほどいていった。
上映会のことは、誰も完全には忘れていなかった。
けれど、思い出すたびに顔を赤くして終わるだけの、過去の事故みたいな扱いになりかけていた。
「いやー、上映会とかあったよねえ」
ある日曜日、さやかは軽い調子でそう言った。
五人はいつものように集まって、他愛のない話をしていた。
まどかはお弁当箱を片づけながら苦笑し、ほむらはその言葉に少しだけ眉を動かす。
杏子は菓子をくわえたまま嫌そうな顔をし、マミは紅茶の水筒を持つ手を静かに止めた。
「美樹さやか。そういう発言は、本当に危険よ」
ほむらは真剣だった。
自分がどれほど焼かれたかを、彼女は忘れていない。
杏子もマミも、さやかの軽口に対して普段より明らかに警戒していた。
まどかですら、困ったように笑いながらも、どこか不安そうに空を見上げている。
「大丈夫だって。もう二ヶ月も何もないんだし、あの変な空間も空気読んで引退したんじゃない?」
さやかは笑った。
余裕だった。
二ヶ月前なら、その余裕が即座に死亡フラグになると全員が理解していたはずだ。
けれど平和な日常は、人を少しずつ油断させる。
ほむらは深くため息をつき、さやかの彼氏が最近ずいぶん幸せそうにしていることを思い出して、胸の奥に嫌な予感を覚えた。
その夜、五人は再び白い空間にいた。
さやかは椅子に座らされた瞬間、笑顔のまま凍りついた。
ほむらは何も言わなかった。
ただ、あなたが言ったのよ、という視線を向けた。
杏子は頭を抱え、マミは静かに目を閉じ、まどかはさやかの肩へそっと手を伸ばそうとして、途中で止めた。
「……うそでしょ」
さやかの声は乾いていた。
二ヶ月ぶりの白い空間は、妙に懐かしさすらある無慈悲な白さをしている。
正面のスクリーンはまだ暗い。
しかし全員が知っている。
この空間が、一度座らせた相手をただ帰すほど優しくないことを。
「……だから言ったでしょう」
ほむらは静かに言った。
責めるというより、心底疲れた声だった。
さやかは反論しようとしたが、スクリーンが光り始めたせいで口を閉じた。
タイトルが浮かび上がる。
『美樹さやか・交際二ヶ月目の現在』
その文字列を見た瞬間、さやかは椅子の上で小さく沈んだ。
「……現在って何。
現在って何よ! もうちょっと過去の穏当なやつとかあるでしょ!」
「現在を避けたい時点で、何かあるって言ってるようなものよ」
ほむらの指摘は正確だった。
さやかは顔を真っ赤にして睨んだが、視線に力が入らない。
映像が始まった。
そこはさやかの部屋だった。
二ヶ月前の屋上で両想いになった彼が、ベッドの端に腰かけている。
体格は特別大きいわけでもない。
王子様みたいに完璧なわけでもない。
けれど、よく笑って、さやかと同じ速度で軽口を返せる、どこにでもいそうで、彼女にとってはもうどこにも代わりがいない男子だった。
画面の中のさやかは、部屋の扉の前で彼を見ていた。
いつもの元気な顔ではない。
緊張と嬉しさと甘えたい気持ちが混ざりすぎて、どう振る舞えばいいか分からなくなっている顔だった。
彼が「おいで」と小さく言うと、さやかの表情が一気に崩れた。
「……っ、呼び方ずるい」
そう言いながら、画面の中のさやかは彼へ駆け寄った。
小走りだった。
ぱたぱたと音がしそうな勢いで、一直線に彼の胸元へ飛び込む。
白い空間で、ほむらの目がわずかに見開かれた。
自分の玄関小走り案件を思い出したのだろう。
さやか本人は椅子の上で両手を顔に当てた。
「……ぱたぱた走ってたな」
「ぱたぱた走ってたね」
杏子とまどかのつぶやきに対して、さやかは顔を真っ赤にして否定した。
「待って、それは違う。
あたしはほむらみたいに毎回ぱたぱた走ってるわけじゃない!」
「今、画面の中で走っているわ」
ほむらは淡々と言った。
さやかは何も言い返せない。
画面の中の自分は、彼の胸元に勢いよく抱きつき、両腕を背中へ回している。
そして、深く息を吐いた。
「はふぅ……♡」
白い空間が止まった。
ほむらが顔を赤くして目を逸らした。
まどかは両手で口元を押さえ、杏子は菓子袋を握り潰しかけた。
マミは頬を染めながら、あら、と小さく息を漏らす。
さやか本人は、完全に椅子の上で崩れた。
「おい、今の『はふぅ』もほむらのやつじゃねーか!」
「……私のものではないわ。
でも、美樹さやかが今『はふぅ』をやったのは事実よ」
「言うな~っ!」
画面の中の彼は、さやかの背中へ腕を回していた。
笑っている。
明るくて、嬉しそうで、少し照れている。
彼はさやかが飛び込んできたことを茶化さず、ただ受け止めて、頭を撫でた。
その瞬間、画面の中のさやかの肩から力が抜ける。
「ん……もっと」
「頭?」
「頭も。あと、ぎゅーも」
「はいはい」
「はいは一回」
「はい」
「よし」
画面の中のさやかは、彼に抱きついたまま満足そうに頷いた。
その態度は、ほむらのようにとろとろに溶ける甘えと、杏子のような命令混じりの甘えを同時にやっている。
白い空間の杏子が、うわ、と小さく声を漏らした。
「さやか、おまえ……他人の甘え方を吸収してねえか?」
「してない! してないってば! たまたま!」
「たまたまにしては、今のぎゅー要求は見覚えがありすぎるわ」
マミが穏やかに言った。
声は優しいが、内容は逃がしてくれない。
映像は進む。
画面の中のさやかは、彼に抱きしめられたまま顔を上げた。
頬は真っ赤に染まり、目元は甘く緩んでいる。
そして、彼の胸元を指先で軽く叩く。
怒っているわけではない。
構ってほしい時の、あまりにも分かりやすい合図だった。
「ねえ」
「何?」
「さやかちゃん、今日頑張った」
「うん。知ってる」
彼は即答した。
その即答に、画面の中のさやかの顔がさらに溶ける。
褒めてほしかったのだ。
「授業中眠かったのに起きてたし、委員の仕事も手伝ってたし、帰りにまどかの荷物も持ってた。さやか、ちゃんと頑張ってたよ」
画面の中のさやかは、完全に撃ち抜かれた顔をした。
白い空間のまどかが、はっと息を呑む。
これは自分の甘やかし記録に近い。
頑張りを拾われて、褒められて、相手の言葉で逃げ道を塞がれる。
ただし、今回はさやかが受ける側だった。
「……もっと」
画面の中のさやかが小さく言った。
彼は少し照れながらも、さやかの髪を撫でる。
目元が優しい。
さやかがどれだけ褒められることに弱いかを、もう知っている目だった。
「笑ってるさやかが好きだよ。でも、無理して笑ってない時のさやかも好きだよ」
「……ずるい」
「ずるくない」
「ずるい。
そういう言い方されたら、あたし、何も言い返せないじゃん」
「じゃあ、言い返さなくていいよ」
「もっとずるい……」
さやかは彼の胸元に顔を押しつけた。
声が完全に甘い。
白い空間のさやかは目を覆った。
今度はさやか自身が、さやかの映像を直視できなくなっていた。
「まどかの甘やかしと、私の甘えが混ざっているわね」
「分析しないで!」
さやかの悲鳴は切実だった。
だが、分析は止まらない。
「あと、あたしの添い寝前のやつも混ざってる。服掴んで離さねえ感じがまんまそれだ」
「杏子まで!」
「いや、事実だろ」
「事実ほど言わないでほしいことってあるんだよ!」
画面の中のさやかは、彼の服をがっちり掴んでいた。
彼が少し身体を離そうとすると、すぐに指に力が入る。
その反応を見た彼は、困ったように笑って戻ってきた。
さやかは満足そうに胸元へ頬を寄せる。
「行くな」
画面の中のさやかが、ぽつりと言った。
杏子が固まった。
自分の添い寝の時の台詞に近すぎたからだ。
彼は少しだけ驚いたあと、背中を撫でながら優しく返した。
「行かないよ。今日はまだ帰らない」
「ほんと?」
「本当」
「寝るまで?」
「寝るまで」
「寝ても?」
「少しだけいる」
「……約束」
「約束」
白い空間の空気が、甘さで重くなった。
これは完全に杏子の系譜だった。
ただし、さやかの声にはほむらのようなとろけ方も混ざっている。
映像は切り替わった。
今度は彼の部屋らしい。
さやかはテーブルの前で腕まくりをしていた。
彼は少し困ったように台所の前に立っている。
冷蔵庫の中身が寂しい。
どこかで見たような状況だった。
杏子の眉がぴくりと動いた。
「あんたさあ、またパンだけで済ませようとしてたでしょ」
「いや、パンと牛乳だから二品」
「そういう問題じゃない! 育ち盛りが何やってんの、ほんとにもう!」
画面の中の自分は、エプロンもなしに料理を始めている。
手際は杏子ほど慣れていない。
けれど、気持ちの勢いだけは強い。
彼が手伝おうとすると、さやかは菜箸を持ったまま振り向いた。
「あんたは座ってなさい」
「でも、俺の部屋だし」
「今日はさやかちゃんが甘やかす日なの。異論は認めません」
「甘やかす日?」
「そう。あたしがあんたを甘やかす日」
まどかが完全に顔を赤くした。
自分の「甘やかし記録」と同じ言い回しだったからだ。
さやかは彼を甘やかす側にも回っている。
二ヶ月の交際で、彼女は他のメンバーの要素を全部取り込むどころか、状況に応じて切り替えるようになっていた。
映像はまた切り替わる。
夜、彼の部屋に布団が敷かれている。
杏子が即座に顔をしかめた。
自分の添い寝デロ甘の記憶が蘇ったのだろう。
「止まれ。
ここで止まれ。
頼むからぁ……!」
さやかが祈るように言った。
当然、止まらなかった。
画面の中のさやかは、布団の端に座っていた。
昼間の世話焼きモードは消えている。
彼が隣に来ると、少しだけ目を泳がせてから、両手を広げた。
彼はそれを見て、嬉しそうに笑う。
「今日はどっち?」
「……どっちって何」
「俺が甘える日か、さやかが甘える日」
「今日は……両方」
白い空間の全員が、同時に沈黙した。
両方。
その一言が、あまりにも強い。
さやかは彼を甘やかし、彼にも甘えたい。
まどかとほむら、杏子の要素が同時に発動している。
「両方は、欲張りだね」
画面の中の彼が笑った。
さやかはむっとした顔をしたが、目元は甘い。
彼の胸元へ額を寄せ、服を掴む。
その仕草は完全に甘える側だ。
しかし次の瞬間、彼の頭を自分の肩へ引き寄せ、髪を撫で始めた。
「欲張りで悪い?」
「悪くない」
「じゃあ、今日はあたしがあんたを甘やかす。でも、あたしも甘やかされる。文句は?」
「ないです」
「よろしい」
その言い方は杏子の世話焼きに近い。
だが、撫でる手つきはまどかの甘やかしに近い。
そして彼に抱きついている身体は、ほむらや杏子の甘えに近い。
「さやかちゃん……全部盛りだね」
まどかの声は、心からの驚きだった。
さやかは顔を覆ったまま、消え入りそうに言う。
「言わないで。自分でも分かってるから」
画面の中の彼は、さやかの肩に頭を預けながら、少しだけ力を抜いた。
さやかはその反応を見て、嬉しそうに目を細める。
相手が甘えてくれるのが嬉しい。
これはまどかの系譜だった。
けれど、その彼が腕を回してくると、さやかは一瞬で甘える側へ戻る。
「……もっとぎゅってして」
「うん」
「でも、頭こっち。撫でたい」
「どっち優先?」
「どっちも」
「本当に欲張りだ」
「彼女だからいいの」
この一言で、白い空間のさやかは完全に沈んだ。
彼女だからいい。
二ヶ月前、彼女さんと呼ばれて恥ずかしがっていた自分が、今では自分からその立場を使って要求している。
成長なのか堕落なのか分からない。
「美樹さやか。あなた、交際二ヶ月でかなり開き直ったのね」
「開き直ってない! いや、ちょっと開き直ったかもしれないけど!」
「認めるのね」
「だって彼女だし!」
映像の中では、彼がさやかの背中を撫でていた。
さやかは彼の頭を撫で返している。
お互いに甘やかし、お互いに甘える。
その状態が数秒続いたあと、さやかは急に彼の胸元へ顔を埋めた。
そして、くぐもった声で言った。
「……おにいちゃん」
白い空間が爆発した。
マミの顔がみるみる赤く染まっていく。
杏子が菓子を落として硬直した。
ほむらも同じ用に硬直し、まどかは目を丸くして口元を押さえる。
さやか本人は、声にならない悲鳴を上げた。
「違う! 今のは違う! 絶対違う!」
「映像の中で言っているわ」
画面の中の彼も固まっていた。
さやかは彼の胸元に顔を埋めたまま、すぐに耳まで赤くなる。
たぶん、言ってみたくなっただけだった。
だが、彼は数秒後、顔を真っ赤にしながらもさやかを抱きしめ直した。
「……今日は、そういう日?」
「聞かないで。
恥ずか死ぬ」
「でも、嫌じゃない」
「そこはちょっとくらい嫌がってもいいでしょ!」
「無理。好きな子に甘えられて嫌なわけない」
画面の中のさやかは、完全に撃沈した。
さっきまでおにいちゃん呼びで彼を攻撃したはずなのに、彼の直球で自分が崩されている。
「美樹さん。
それは、私の領域では……」
「マミさんの領域って何ですか! あと、あたしだって意図して侵入したわけじゃないです!」
「無意識に他者の秘技を取り込むタイプなのね」
「ほむらも分析しないで!」
画面の中の彼が「さやか」と名前を呼ぶと、あっという間に顔が甘く崩れる。
「……もう一回」
「さやか」
「もう一回」
「さやか」
「はふぅ……♡」
ほむらが完全に目を逸らした。
まどかが赤面して両手で口を覆った。
杏子は菓子を食うどころではなく、あまりの全部盛りに軽く引いている。
マミは頬を赤くしたまま、どこか遠い目をしていた。
さやか本人は椅子の上で崩れ落ち、もう何も言えなくなっている。
「……他のどのメンバーよりもヤバいわね」
ほむらが、低い声で結論を出した。
それは残酷だが、正確だった。
さやかの甘え方は、他の四人のどれか一つではない。
全部やっている。
ほむらの小走りととろけ声。
杏子の世話焼きと添い寝のしがみつき。
マミのおにいちゃん呼び。
まどかの甘やかし。
それらを、美樹さやからしい勢いと照れとツッコミで無理やり混ぜていた。
「一番余裕こいてたやつが、一番爆弾抱えてたってことか」
杏子がしみじみ言った。
画面の中のさやかは、布団の中で彼に抱きついていた。
彼の頭を撫でたい気持ちと、自分が抱きしめられたい気持ちが両立しているせいで、姿勢が少し忙しい。
彼は笑いながらも、さやかの要求に付き合っている。
「さやか、眠い?」
「眠い」
「寝る?」
「寝るけど、離れないで」
「離れない」
「あと、明日も好きって言って」
「明日も言う」
「朝も?」
「朝も」
「昼は?」
「昼も」
「夜は?」
「夜も」
「……毎日?」
「毎日」
画面の中のさやかは、そこで完全にとろけた。
今までの光景を見て、四人はなんとなく察していた。
さやかは、ずっと好きと言われることに飢えていたのかもしれない。
失恋を経て、自分自身を選ばれる言葉を、何度も確認したかったのだ、と。
「……これは確かに相当なものだけれど、あなたが彼を信じている証拠でもあるわ」
ほむらが静かに言った。
自身が彼の前でとろける理由を、ようやく認められた時と同じ声だった。
「あなたは、強がりで、すぐ笑いに逃げる。
でも彼の前では、好きと言ってほしいと何度も求めている。
私たち全員の甘え方を吸収して、全力で甘えている。
それを言える相手がいるなら、悪いことではないと思うわ」
さやかは何も言えなかった。
顔はまだ熱い。
恥ずかしさで死にそうだ。
けれど、ほむらの言葉は胸の奥にゆっくり入ってきた。
自分の甘え方は確かにやばい。
かなりやばい。
他の全員の癖を吸収したみたいで、否定する材料がない。
それでも、その根っこにあるのは、彼にちゃんと好きでいてほしいという気持ちだった。
「吸収してないってば!」
上映が終わったあと、さやかは顔を真っ赤にしたまま叫んだ。
スクリーンはすでに暗くなっているのに、そこに映っていたさやかの姿だけは、まだ全員の脳裏に焼きついている。
彼氏の胸へぱたぱた駆け寄り、はふぅと甘い息を漏らし、彼を甘やかす日と自分が甘やかされる日を強引に両立させ、最後にはおにいちゃん呼びまで試していた。
その全部盛りの惨状を前にしても、さやか本人だけは、本気で心当たりがない顔をしていた。
「いや、してるだろ。
あたしの添い寝のやつ、ほぼそのまま持ってっただろ」
杏子は菓子袋を握ったまま、じっとりした目でさやかを見た。
怒っているというより、自分の恥部を別人の身体で再演された衝撃が抜けていない顔だった。
画面の中のさやかが、彼に「行くな」「寝ても少しだけいて」と甘えていた時、杏子は明らかに自分の夜の姿を思い出していた。
あれは他人の甘えではない。
自分が彼氏に向けていた執着の形を、さやかが無自覚に別角度から照らしたものだった。
「持ってってない! あたしはただ、帰ってほしくなかっただけ!」
「そこが同じなんだよ。
帰ってほしくねえ時の声が、あたしのやつと似てたんだよ……!」
杏子は言いながら、自分でダメージを受けて顔を赤くした。
普段ならもっと勢いよく噛みつくはずなのに、言葉を重ねるほど自分の添い寝デロ甘が蘇るのだろう。
年下なのにお姉ちゃんぶって世話を焼き、夜になると彼にしがみついて離れない自分。
さやかの映像は、その姿を笑うためのものではなく、杏子自身の執着を本人へ突き返す鏡になっていた。
「私にも……その、佐倉さんの甘やかしが入ってたように見えたわ。
鹿目さんのも……。
……あと、私のも」
マミは控えめに言った。
けれど、その表情にも穏やかさだけではない疲労があった。
さやかが彼にスープを作り、食べ終えるまで見守り、ちゃんと休めと世話を焼く姿は杏子寄りだった。
しかし彼の頑張りを拾い上げて褒め、相手が力を抜いた瞬間に嬉しそうな顔をするところは、まどかの甘やかしそのものでもあった。
そして年上でもない相手に「おにいちゃん」と甘える様子は、マミのそれだった。
「さやかちゃんは、真似してるつもりじゃないんだと思うよ」
まどかは小さく言った。
声は優しい。
けれど、その優しさの奥に自分の胸を押さえるような恥ずかしさがあった。
「でも、彼氏さんを甘やかしてる時の顔が……私、ちょっと分かっちゃって。
相手が安心してくれると嬉しくて、もっとしてあげたくなっちゃう感じが、すごく分かっちゃって……」
まどかは言いながら、顔を赤くして俯いた。
彼氏を甘やかすことが嬉しい。
それは、彼を支えたいという優しさであり、同時に、自分が彼の休める場所でありたいというかなり強い願いでもある。
さやかの映像は、まどかにその事実をもう一度突きつけた。
自分の中にある、柔らかいけれど濃い執着。
それをさやかの明るい顔で見せられたせいで、まどかは逃げ道を失っていた。
「……あなたが彼の胸に飛び込むところなのだけれど」
ほむらは短く言った。
それだけで、彼女自身の上映会が全員の頭に蘇る。
彼が来た瞬間ぱたぱた小走りで玄関へ向かい、自室に入った瞬間ぎゅーっと抱きつき、はふぅと溶けた声を漏らす暁美ほむら。
さやかの映像は、それと同じ速度で彼へ飛び込んでいた。
しかも、さやか本人にはそれを真似した自覚がない。
だからこそ、ほむらには余計に刺さった。
「私は、あの時……彼の前でだけ、抑えが利かなくなる自分を見せられたわ。
でも、あなたが同じように走っていくのを見たら、自分が外からどう見えていたのか、改めて理解してしまったの」
ほむらの声は冷静だったが、耳まで赤かった。
自分が恋人へ向かう時の勢い。
普段の理性も警戒も置き去りにして、彼の体温へまっすぐ向かってしまう姿。
さやかがそれを無自覚に再現したことで、ほむらは自分の執着を他人の身体で見せられた。
それは、ただ恥ずかしい以上のダメージだった。
好きな人に向かう自分の重力を、客観的に見てしまったからだ。
「うわ……。
ごめん、ほむら。何か、ごめん」
「謝る必要はないわ。
ただ、非常に効いたというだけよ」
「それ、余計申し訳ないんだけど……」
さやかは肩を落とした。
しかし、責められているわけではないと分かると、少しずつ頭が回り始める。
小走りに飛び込む。
抱きしめて離さない。
彼を甘やかし、褒められて溶ける。
世話を焼き、寝る時はしがみつく。
おにいちゃんと呼んでみる。
毎日好きと言ってほしいと確認する。
並べれば並べるほど、自分が何をしていたのか分からなくなってくる。
「……あたし、そんなに全部やってた?」
「やってたわ」
「やってた」
「やっていたわね」
「……うん」
ほむらが即答した。
杏子も頷く。
マミも控えめに頷いた。
まどかだけは、さやかを傷つけないように一度迷ってから、やはり小さく頷いた。
全員一致だった。
「終わった。
美樹さやか、終わりました。
彼氏いないから安全って言ってた女が、付き合って二ヶ月で全部盛りになってました」
さやかは死んだ目で天を仰いだ。
顔はまだ真っ赤になったままだった。
「まあ、あたしたちの被害を全部見た後だったからな……」
杏子は少しだけ同情した声で言った。
さやかは首だけ動かして杏子を見る。
杏子の顔にも、まだ自分の執着を見せ返された痛みが残っている。
「さやかはさ、たぶん全部見たんだよ。
ほむらの甘えも、あたしの甘えも、マミのおにいちゃん呼びも、まどかの甘やかしも。
それで、あんたの中で『恋人ってそういうもんなんだ』ってなったんじゃねえの」
杏子の声は、珍しく真面目だった。
さやかは言葉に詰まる。
確かに、自覚はない。
けれど、見ていた。
みんなが恋人の前でどう変わるのかを、真正面から見てしまった。
恥ずかしいと思ったし、脳が焼けた。
それでも同時に、みんなが大切な人の前で安心していることも知ってしまった。
恋人に甘えることは、恥ずかしいけれど許されることなのだと、どこかで学習していたのかもしれない。
「美樹さんは私たちの真似をしたのではなくて、恋人に対して、自分がしてもいいと思ったことを全部まっすぐ出してしまったのよ」
マミの声は穏やかだった。
けれど、その内容はなかなか致命的だった。
さやかは顔を覆ったまま動けない。
まっすぐ出してしまった。
それは、美樹さやかという少女を説明するにはあまりにも正確だった。
「…………つまり、あたしが一番節操ないってこと?」
「言い方は悪いけれど、恋人に対しての出力が非常に高いのは確かね」
ほむらが冷静にまとめた。
さやかは呻いた。
非常に高い。
それはたぶん、かなりオブラートに包んだ表現だった。
彼氏へ向ける好きの出力が高すぎる。
甘えたいし、甘やかしたいし、好きと言われたいし、自分からも言いたい。
相手を休ませたいし、自分も抱きしめられたい。
その全部を止めるブレーキが、交際二ヶ月でかなり壊れている。
「でも、彼氏くんは嬉しそうだったよ」
まどかが、そっと言った。
さやかは顔を上げる。
まどかの目は優しかった。
彼女は少しだけ頬を赤くしながら続けた。
「さやかちゃんが甘えたり甘やかしたりするたびに、すごく幸せそうにしてた。
たぶん、さやかちゃんに必要とされてるのが嬉しいんだと思う」
その言葉に、さやかの胸がまた変な音を立てた。
彼は嬉しそうだった。
それは映像を見れば分かる。
下心があるみたいで不誠実だと思って告白できなかった彼が、付き合った後は全力で誠実に好きだと返してくれている。
そのことを思うと、さやかの顔はまた熱くなる。
「……あたし、ほんとに自覚なかった」
さやかは小さく言った。
声はさっきより落ち着いている。
全員が静かに聞いていた。
「みんなの見て、すごいなとか、うわーって思ってたけど。
自分がそうなるとは思ってなかった。
でも、あいつといると、なんか……全部したくなるんだよ。
褒めたいし、褒められたいし、抱きしめたいし、抱きしめられたいし、好きって言いたいし、言われたい」
言葉にするほど、さやかの顔は赤くなった。
しかし、もう止めなかった。
彼に向けている自分の気持ちを、ここでだけはちゃんと認めてもいい気がした。
「あたし、欲張りなんだな」
「そうね」
ほむらが即答した。
さやかは顔を上げる。
そこはもう少し慰めるところでは、と思ったが、ほむらの表情は穏やかだった。
「でも、恋人相手に欲張りになるのは、そこまで悪いことではないと思うわ。
少なくとも、彼があなたを大切にしているなら」
「……大切に、されてると思う」
さやかは小さく答えた。
それは照れながらも、確かな声だった。
彼は大切にしてくれる。
傷ついていた時も、付き合ってからも、変わらずに。
いや、付き合ってからはもっと分かりやすく。
その誠実さがあるから、さやかはどんどん欲張りになってしまったのだろう。
「なら、いいんじゃない?」
まどかが微笑んだ。
その声には、親友の幸せを本気で喜ぶ温かさがあった。
さやかは少しだけ目元が熱くなる。
昨日までなら、こんな話をされたら大げさに照れて逃げただろう。
でも今は、逃げるより先に頷きたかった。
「……うん」
さやかは小さく頷いた。
その瞬間、白い空間の緊張が少しだけゆるむ。
杏子が菓子袋をようやく開け、マミが柔らかく息を吐く。
ほむらはいつものように無表情へ戻ろうとして、しかし完全には戻りきらなかった。
まどかは嬉しそうに、さやかを見つめている。
「でも、他メンバーの甘え方全部盛りなのはやっぱりすごいよね」
まどかが、悪気なく言った。
さやかは一瞬で顔を真っ赤にした。
ほむらが目を伏せ、杏子が噴き出しかけ、マミが口元を押さえる。
さやかは椅子の上で両手を振った。
「まどか! 今いい感じに終わりかけてたのに!」
「ご、ごめんね。でも、本当にすごかったから……」
「すごいって言わないで! やばいって意味にしか聞こえないから!」
「やばかったのは確かだろ」
杏子の追撃に、さやかは崩れた。
だが、今度の空気には少しだけ笑いが混ざっていた。
誰もさやかを馬鹿にしていない。
ただ、友人があまりにも派手に恋人へ甘えている事実に、全員がまだ処理を終えられていないだけだった。
「……それにしても」
マミが、ふと呟いた。
全員の視線が向く。
マミは少しだけ頬を赤くしながらも、真面目な表情をしていた。
「美樹さんの映像を見ていると、自分の姿をもう一度見せられているようで、なかなか堪えたわね」
「あ、それな」
杏子が即座に頷いた。
ほむらも静かに目を伏せる。
まどかも、困ったように笑いながら頷いた。
さやかは目を瞬かせる。
その反応で、ようやく理解した。
自分が恥ずかしいだけではない。
他のみんなも、自分の姿をさやかの中に見つけてダメージを受けていたのだ。
「私が彼を甘やかしてる時って、あんな顔してたんだなって……」
まどかは頬を押さえながら言った。
杏子も口元を押さえながら続ける。
「あたしも、寝る時に『行くな』って言ってんの、ああいう感じなのかって思ったら、普通に死んだ」
「私は……彼へ向かう時の自分の勢いを思い出したわ」
ほむらの声は静かだったが、赤い頬がすべてを語っていた。
マミも小さく頷く。
「私も、おにいちゃんと呼んだ時の自分を、別の角度から見た気がしたわ」
「……あたし、みんなに反射ダメージ与えてたってこと?」
さやかは呆然とした。
自分が恥ずかしいと思っていた裏で、他のメンバーもそれぞれ自分の執着を掘り返されていた。
まったく自覚がない。
本当にない。
ただ彼のことが好きで、したいことを全部やっていただけだ。
その結果、全員の甘え方に似た要素が自然に出て、全員の急所を順番に踏んでいた。
「最悪の無自覚広域攻撃ね」
ほむらが言った。
さやかは即座に突っ込もうとして、言葉の正確さに負けた。
無自覚。
広域。
攻撃。
全部合っている気がしてしまった。
「でも、まあ」
杏子は菓子を噛みながら、少しだけ視線を逸らした。
声は普段より柔らかい。
「そういうの全部やれるくらい、相手を信用してんだろ。
だったら、別にいいんじゃねーの」
さやかは杏子を見た。
杏子は照れくさそうに目を逸らしたままだ。
その横顔には、自分も彼に信用して甘えている者としての実感があった。
ほむらも頷く。
マミも、まどかも、同じようにさやかを見ていた。
「美樹さやか。
あなたの甘え方は、かなり混沌としていたわ」
「そこは否定してよ……」
「でも、混沌としているだけで、彼への気持ちはとても分かりやすかった」
ほむらの言葉に、さやかは口を閉じた。
彼への気持ち。
それは、映像の中で全部出ていた。
好き。
離れたくない。
好きと言ってほしい。
甘やかしたい。
甘やかされたい。
彼が安心してくれると嬉しい。
彼に選ばれていると、何度でも確かめたい。
「……うん」
さやかはまた頷いた。
今度は少しだけ笑えた。
顔はまだ赤い。
恥ずかしさも消えない。
でも、彼を好きな自分を否定する気は、もうあまりなかった。
白い空間が薄れ始める。
元の世界へ戻る前の、いつもの感覚が近づいてきた。
さやかは暗いスクリーンを見つめながら、彼の顔を思い浮かべる。
今夜会ったら、たぶん普通には振る舞えない。
でも、会いたい。
彼の名前を呼びたいし、自分の名前を呼んでほしい。
抱きしめたいし、抱きしめられたい。
そして、今日見られた全部盛りの反省をしようと思いながらも、彼の前に立った瞬間、また全部忘れてしまう予感がしていた。
「……控えめにする。今日は、控えめにするから」
さやかは小さく呟いた。
誰にも聞こえないつもりだった。
しかし全員が聞いていた。
まどかは困ったように微笑み、マミは穏やかに目を細め、杏子は肩をすくめる。
ほむらだけが、静かに言った。
「無理でしょうね」
「そんな事~……!」
さやかの抗議は、白い空間が消える光に飲まれた。
けれど、その叫びにはもう深刻さはなかった。
恥ずかしくて、やばくて、全員に反射ダメージを与えた無自覚全部盛りの甘え方。
それでも、その真ん中にはただ、彼を好きで、彼に好きでいてほしい美樹さやかがいるだけだった。
やがて光が収まると、五人は元の空間に戻されていた。
「……結局、あれってなんだったんだろ?」
さやかがぽつりと呟くと、誰もすぐには答えられなかった。
罰にしては悪意がなく、救いにしてはあまりにも悪趣味だった。
ただ、誰にも言えなかった甘えや執着を否定されなかったことで、五人の胸には妙に気まずい温かさと頬の火照りだけが残っていた。