ガレスが山中の小屋へたどり着いたのは、日が暮れてからだった。
アルヴェラを出て三日。街道を避け、炭焼きの道や使われなくなった獣道を選んできた。最後の坂を上りきった時には、連れてきた馬の腹まで泥が跳ねていた。
斜面の窪みに、低い石壁と丸太で造られた小屋がある。傭兵だった頃、追われた仲間を匿った場所だった。
ここを知る者は少ない。
マルコが使う商人の網からも、ネリオの荷が通る道からも外れている。
「ここまで来れば大丈夫だ」
ガレスは後ろの三人へ言った。
誰も答えなかった。
小屋の戸を叩くと、明かりが細く漏れた。内側から覗いた男はガレスの顔を認めても、閂を外さなかった。
「誰を連れてきた」
「俺の部下だ。開けろ」
「先に金を見せろ」
ガレスの眉が動く。
「俺から取るのか」
「泊まるなら払え。食うなら、その分もだ」
「昔、お前が追われた時に匿ったのは誰だ」
「昔の話だ」
戸の向こうの男は、声を落とした。
「お前が集めた連中が消えたって話は、ここまで来てる。マルコからも切られたそうじゃないか」
「誰に聞いた」
「知る必要はない。嫌ならほかへ行け」
風が山肌を下り、濡れた外套の隙間へ入った。
ほかに行く場所はなかった。
ガレスは革袋から銀貨を出した。男は枚数を確かめてから、ようやく閂を外した。
「馬は貸さんぞ」
「金ならある」
「売る馬がない」
小屋の裏から、馬のいななきが聞こえた。
ガレスがそちらを見ると、男は戸口から退かなかった。
「寝床は納屋だ。朝になったら出ていけ」
昔の仲間を見る目ではなかった。
厄介事を持ち込んだ旅人へ向ける目だった。
ガレスは何も言わず、中へ入った。
翌朝、革袋は半分ほど軽くなっていた。
ガレスは寝床から跳ね起きた。枕代わりにしていた荷を開き、金貨と銀貨を数える。
「ロドとカイはどこだ」
納屋に残っていた男が、戸の方へ目をやった。
「夜中に出たようです」
「止めなかったのか!」
「見張りは交代のはずでした。俺が起きた時には、もう」
予備の食料も一袋なくなっている。馬は残っていたが、鞍袋へ分けた金が持ち去られていた。
ガレスは納屋の戸を蹴り開けた。
「追え」
残った二人は動かなかった。
「聞こえなかったのか。まだ遠くへは行っていない」
「どっちへ行ったかも分かりません」
「足跡を探せ」
一人が目を逸らし、もう一人が外套を着始めた。だが、追跡に出る支度ではない。自分の荷を背負っている。
「俺たちも、ここで別れます」
ガレスは男を見た。
「何だと?」
「西へ行くなら、あとは一人で行ってください」
「誰がここまで連れてきてやったと思っている」
「金で雇われただけです」
「その金を払ったのは俺だ」
「もう、その金もないでしょう」
ガレスの拳が男の頬を打った。
男は干し草へ倒れたが、すぐに起き上がった。口元の血を拭い、腰の短剣を抜く。
もう一人も後ろへ下がり、剣へ手を伸ばした。
「俺に刃を向けるのか」
「先に殴ったのはあんただ」
ガレスは笑わなかった。
長剣を抜く。
最初に踏み込んできた男の短剣を弾き、柄頭で顎を打った。身体が浮き、納屋の柱へぶつかる。もう一人の剣を半身で避け、肩口を斬った。
逃亡を続けていても、ガレスの腕は鈍っていなかった。
だが、夜通しの移動を重ねた脚は重い。食事も睡眠も足りていない。
倒したはずの男が足へしがみついた。
ガレスが剣を振り下ろそうとした時、背後で納屋の戸が鳴った。
小屋の男と、その仲間が立っている。
「止めろ!」
ガレスが怒鳴る。
「ここで揉めるなら、全員出ていけ」
「こいつらが俺の金を――」
「知るか」
誰もガレスを助けに来なかった。
肩を斬られた男が、痛みに顔を歪めながら剣を突き出す。ガレスは受けた。だが、足へしがみついていた男が膝裏を払う。
体勢が崩れた。
脇腹へ刃が入った。
ガレスは相手の顔を殴り、剣を引き抜こうとした。横から別の刃が胸へ突き立てられた。
「貴様ら……」
口から血がこぼれた。
膝をつき、それでも剣を離さなかった。最後に切っ先を向けたのは、自分を刺した男ではない。戸口で見ている昔の仲間だった。
「恩を忘れたか」
「お前が覚えているのは、貸した恩だけだ」
ガレスの身体が、冷えた土の上へ倒れた。
残った者たちは、しばらく動かなかった。
やがて一人がガレスの剣を拾う。別の男は外套の内側を探り、残った金を取り出した。
ガレス・モルナは、二度と起き上がらなかった。
「ガレスが死んだようです」
報告を受けたマルコは、椅子の背へ身体を預けた。
「確かなのか」
「山の隠れ場所で、仲間同士の争いになったと。死体を見た者もおります」
「そうか」
安堵はなかった。
ガレスの手勢の大半は、侯爵邸を襲おうとした夜に消えた。残った者も散り、ガレス本人まで死んだ。
荒事を引き受ける者がいなくなっただけではない。裏の荷を運ぶ時に使っていた道も、金を渡す連絡役も、ガレスを介していた。
「マルコ様。西倉庫の荷主が来ています」
「またか」
「今日中に代金を払うか、荷を返せと」
返せる荷ではなかった。
関税を通さず入れた染料と香辛料は、すでに別口へ分けている。売却代金で支払う予定だったが、買い手は三日前に手を引いた。
ほかにも、港で先払いした荷がある。盗品と知りながら安く仕入れ、内陸で売る予定だった銀器も動かせない。倉庫を変更したため余分な保管料が生じ、御者へ渡した手付金も戻らなかった。
新しい借金で期限を延ばそうにも、以前金を貸した商人たちは会おうとしない。
「払ってください」
通された荷主は、挨拶もそこそこに証文を机へ置いた。
「あと五日待て」
「前にもそう言われました」
「侯爵家の取引が滞っている。動き出せば払える」
「これは侯爵家との証文ではない。あなたとの証文です」
マルコは相手を睨んだ。
以前なら、それだけで声を落とした男である。今日は証文から手を離さなかった。
「明日、金を受け取りに来ます。なければ担保を引き取る」
荷主が去る前に、次の債権者が控えていた。
マルコは机の引き出しを開けた。手元の金では、一人分にも足りなかった。
「資金をお借りしたいのです」
セヴェリオは、向かいに立つマルコを見た。
数日前まで整っていた衣服には皺があり、目の下には濃い隈ができている。
「何に必要なのだ」
「商いが一時的に滞っております。数日あれば戻せますので、それまでの繋ぎに」
「どの商いかと聞いている」
マルコは答えなかった。
セヴェリオは家宰が持ってきた帳面を開いた。侯爵家が正式に扱う荷、代金、支払期限。そこに、マルコが求める額へ該当する取引はない。
「侯爵家の金では払えぬ」
「侯爵。これは私一人で始めた仕事ではありません」
「そうだな」
否定されなかったことに、マルコの顔がわずかに緩む。
「でしたら――」
「私が使わせた道と、お前が広げた商いは別だ」
セヴェリオの声は変わらない。
「海賊から流れた荷を買い、盗品を売り、人を商品にする者へ通じる道まで使ったのは誰だ」
「侯爵もご存じだったはずです」
「知っていた」
マルコが口を閉じた。
「だからこそ、アレシアを殺すなと命じた。お前にも、ガレスにもだ」
「私も、できるなら生かしておけと伝えました」
「できるなら、だと?」
セヴェリオの声から温度が消えた。
マルコは自分が口にした言葉の意味に気づき、黙った。
「今は関係ない」
セヴェリオは帳面を閉じた。
「お前が私の意図を越えたことと、私がお前を使ったことは別の問題だ。だが、お前個人の借金を領民の金で払わせることはできぬ」
「このままでは、私は」
「自分の財産で払え」
「足りません」
「ならば、それがお前の商いの結果だ」
マルコは何か言いかけたが、セヴェリオは家宰を呼んだ。
話は終わっていた。
それから三日で、マルコは町に持つ家を手放した。私有の馬車、宝飾品、倉庫に残っていた表へ出せる商品も売った。
最初に買い手がついたのは馬車だった。ただし、急いで金に換えようとしていることは相手にも分かる。提示された額は、マルコが考えていたものの半分だった。
「この馬車を、その額で売れと言うのか」
「今すぐ現金で払えるのは私だけでしょう」
「ほかにも買い手はいる」
「でしたら、そちらへ」
翌日まで待っても、ほかの買い手は来なかった。
家を担保に金を借りようとしたが、土地を見に来た商人は、債務が一つではないと知ると首を振った。倉庫の商品は、荷の出所を証明できる物だけが査定された。値の張る銀器ほど表へ出せなかった。
マルコは馬車を安値で売り、家も手放した。その金を最も期限の近い証文へ回す。
支払いを受けた債権者が帰る前に、別の男が現れた。
「そちらへ払う金があるなら、こちらにも払えるはずだ」
「期限は明後日だ」
「明後日まで残っている保証がない」
以前なら互いに顔を合わせないよう時間をずらしていた者たちが、同じ部屋で自分の証文を並べた。
それでも複数の証文を満たせなかった。
新たに金を貸す者はいない。侯爵家商業担当官の職も解かれた。期限を迎えた債務は、彼の身柄を含む残りの財産へ移った。
債権者の立会人が金額を読み上げる間、マルコは一言も発しなかった。
首へ掛けられた札には、返せなかった額が記されていた。
マルコ・ディネスは、その額を返し終えるまで、借金奴隷として債権者へ引き渡された。
裏の荷が止まると、倉庫だけが残った。
アルヴェラ南部の河岸にある倉庫では、三日前から荷車が出入りしていない。ところが港側の荷主は、荷をすでに引き渡したと主張した。
保管料を求める倉庫主と、荷の所在を確かめたい荷主が役人を呼んだ。
「この封印は古い」
関税を扱う役人は、木箱に貼られた札を指で剥がした。
上に貼られた札の下から、別の商会の印が現れる。封蝋も正規の色ではない。
「倉庫を開けろ」
管理人は鍵を持っていないと言い張った。役人が扉を壊す許可を取ろうとすると、奥の棚から鍵が見つかった。
「私は場所を貸していただけです」
「ならば、借り主を言え」
管理人はネリオの名をすぐには出さなかった。
だが、倉庫の賃料は二月分が先払いされ、その受取証にはネリオの店で使われる印が押されていた。荷を運んだ御者も、代金を受け取るため倉庫主のもとへ来ていた。
荷主、倉庫主、御者。三者の話は少しずつ違った。
違うところを確かめるたび、別の荷と別の保管場所が出てきた。
中には、関税を納めた印のない香辛料と酒。出所を偽った織物。削り取られた商標の残る銀器。荷札だけを付け替えた箱が積まれていた。
帳尻を合わせるための札と、過去の受取人を示す紙片も残っていた。
その名の一つが、ネリオ・サルヴァだった。
「王女殿下の件とは無関係だ!」
捕らえられたネリオは、役人へ何度も言った。
「人攫いにも、王族殺しにも関わっていない。調べれば分かる」
「今調べているのは、この荷だ」
役人は偽の札が付いた箱を示した。
「これはお前の店へ運ばれた物だな」
「荷を受けただけだ」
「関税を通していないと知らずにか」
ネリオは答えられなかった。
ネリオは王女襲撃から距離を取った。だが、それ以前に扱った密輸品も、盗品も、札を偽装した荷も倉庫から消えてはいなかった。
調べられた三つの倉庫と二つの店から、同じ印が出た。
ネリオは、自分の店の帳面だけなら辻褄を合わせられると思っていた。だが、倉庫主が保管料を書いた紙と、御者が受け取った運賃までは書き換えられない。
関税を納めたことになっている日、その荷はまだ河岸の倉庫へ届いていなかった。正規に買い取ったことになっている銀器には、別の町で奪われた商隊の印が削り残されていた。
「人を殺してはいない」
ネリオは裁定の場でも繰り返した。
「その件で裁いているのではない」
返ってきた言葉は、それだけだった。
数日後、ネリオには複数の商取引犯罪について裁定が下った。
王女を襲った罪ではない。
自分で積み重ねた犯罪によって、犯罪奴隷の札を付けられた。
「返事はそれだけか」
セヴェリオの問いに、バルディオは手元の書状を見た。
「本日までに届いたものは、こちらでございます」
半島の有力貴族へ送った招集に対し、届いた返事は半数にも満たない。
領地を離れられない。
日程の都合がつかない。
第一王女の巡察結果を確認した後にしたい。
理由はそれぞれ違うが、すぐにアルヴェラへ来ると答えた家は一つもなかった。
「カルネス家からの呼びかけに、返事すら寄越さぬか」
「使者を歓待した家は多かったとのことです」
「私に会うことは別、というわけだな」
バルディオは否定しなかった。
カルネス侯爵領で第一王女が襲われた。侯爵邸へ入った後も危害を加えようとする者が動いた。
その直後、侯爵家の商業担当官が破綻した。周辺の商人からは、大規模な密輸と盗品取引が見つかっている。
何より、王家直属の調査を担うネヴィオ・サレスへ、アレシアが使者を出したことはすでに伝わっていた。
セヴェリオが襲撃を命じたと知る者はいない。
それでも、半島の裏側まで把握し、王都を入れずに処理できるというカルネス家への信頼は揺らいだ。
「ほかには」
「王女殿下へ、直接書状を送った家がございます」
セヴェリオは顔を上げた。
「巡察で確認された街道の状況について、詳しく話を聞きたいと」
「何家だ」
バルディオが名を挙げる。
これまで、半島のことはカルネス侯爵へ伝えればよいと言っていた家だった。
すぐにアレシアを支持したわけではない。王家へ従うと決めたわけでもない。
ただ、セヴェリオを通さず、自分で王女の考えを確かめようとしている。
それだけで十分だった。
「下がってよい」
バルディオが一礼し、部屋を出る。
机には、来訪を断る書状だけが残った。
その中に、一通だけ封の色が違うものがあった。
来訪を断る文面に続けて、東門区へ造られた浄水設備について尋ねている。自領にも似た症状を訴える村があるため、アレシアが王都へ戻る前に話を聞けないか、と書かれていた。
宛先はセヴェリオではない。
アレシアだった。
以前なら、半島の領主が王家へ直接助けを求めることはなかった。まずカルネス家へ話を通し、半島の中で方法を探した。
今、その順番が変わろうとしている。
セヴェリオは書状を元の位置へ戻した。
アレシアを襲わせたのは、セヴェリオだった。
巡察を続ける気をなくさせろ。
半島は危険だと思わせ、王都へ帰らせろ。
そうマルコへ命じた。
同時に、何度も念を押した。
殺すな、と。
アレシアは第一王女であり、次代の王となる可能性がある。
その王女は、王都から遠いという理由で半島を放置するつもりがなかった。王家の役人を入れ、街道の警備を強め、盗賊や密輸を調べようとしていた。違法な奴隷取引も、領主ごとに異なる徴収も、そのままにはしない。
口先だけではない。
アレシアが王位を託されれば、本当に手を付けるだろうとセヴェリオは見ていた。
王位が欲しかったわけではない。
王都の手が、半島の奥まで入ってくることを恐れた。
大島の王都から半島へ指示が届くまでには時間がかかる。海賊が出ても、街道が塞がれても、貧しい村から人が消えても、中央の役人は紙に書かれた報告しか見ない。
王都で決めた規則だけでは、半島の交易も暮らしも回らない。
だから半島のことは半島で処理する。
旧王家の血を引くカルネス家が、その中心に立つ。
セヴェリオは、それを権利ではなく責任だと思ってきた。
正規の兵を動かせない時には、盗賊へ金を渡した。表の港を通せない荷は、密輸の道へ流した。海賊から買い戻す方が、奪われた品を早く取り返せることもあった。
マルコが盗品を扱っていることも知っていた。
その先に、人攫いや違法な奴隷取引を行う者がいることも知っていた。
セヴェリオ自身が人を攫わせたことはない。奴隷を売れと命じたこともない。
だが、道を切ることはできた。
マルコを商業担当から外し、倉庫を調べ、兵を出すこともできた。
しなかった。
名前を出せない仕事を引き受ける者が必要だった。王都を通さず荷を動かす道が便利だった。
必要な汚れだと、自分へ言い聞かせてきた。
その道を使って、アレシアを脅そうとした。
セヴェリオは殺すなと命じた。
マルコは、死んでも構わないと受け取った。
ガレスは、邪魔なら殺せばよいと動いた。
最後にはマルコの制止さえ無視し、数十人を侯爵邸へ向かわせた。
命令を変えたのは彼らだ。
だが、そのような者だと知りながら使ったのはセヴェリオだった。
街道から戻ったアレシアを玄関前で見た時、胸の底から安堵した。
怪我はないと聞き、身体から力が抜けた。
護衛を救った真壁たちへ礼を述べたのも、偽りではない。
妹の娘である。
幼い頃、母の手を引いてアルヴェラへ来たアレシアを覚えている。馬車に飽き、庭へ飛び出し、エリサと一緒に噴水の周りを走っていた。
死んでほしいと思ったことなど、一度もなかった。
それでも自分は、その姪へ武器を向けさせた。
机の端には、鉛汚染についてまとめられた紙があった。
窓の向こうに、アルヴェラの屋根が見える。さらに東には、旧銀山へ続く山並みがあった。
かつて銀は、旧王都へ富を運んだ。その残り滓から溶け出した鉛は、富を生んだ町の水へ入り続けた。
銀を求めた者も、井戸を掘った者も、何代も後の人間を病ませるつもりはなかっただろう。
意図していなかったことは、結果が残らない理由にはならない。
その考えが浮かんだ時、セヴェリオはマルコの顔を思い出した。
自分も同じではないのか。
アレシアを殺すつもりはなかった。
ただ危険を見せ、帰らせるだけだった。
そう言っても、街道で流れた護衛の血が消えるわけではない。
アルヴェラの衰えを、セヴェリオは長く王都の無関心のせいだと考えてきた。それが間違いだったとは思わない。王都が半島を後回しにしてきた事実はある。
だが、古い銀の精錬所から流れた鉛も、この土地の人間を長く苦しめていた。
病に倒れた者。
人が減り、消えた村。
井戸水を飲んで育った子どもたち。
すべてを王都の責任とは言えなかった。
しかも、それを見つけたのは半島の貴族ではない。
外国から来た商人だった。
彼らはアレシアを助け、負傷した護衛を診た。井戸水の鉛を見つけ、飲み水を作り、廃銀山で囚われていた者を救った。
汚染された土を取り除き、山から来る水を通す地下導水路まで造った。
外の人間に半島のことなど分からない。
以前なら、そう言い切れた。
今は、その言葉が喉に残る。
セヴェリオは断りの書状へ目を戻した。
半島を守ったつもりだった。
王都の手から守り、半島のやり方を残すために、表へ出せない者たちまで使った。
その裏側は自分の手を離れ、姪を殺そうとした。
半島の貴族たちは距離を取り、アレシアの方を見始めている。
それでも、自分のしてきたことがすべて間違いだったとは思えなかった。
王都に任せればよいとも思えない。
ただ、必要だったという一言だけでは、もう片付かなかった。
出発の朝、アルヴェラには薄い霧が残っていた。
霧の都と呼ばれる朝にしては、見通しが利く方だった。城館の塔は上半分を白く霞ませ、濡れた石敷きには馬と人の影が淡く映っている。
侯爵邸の前庭では馬車の車輪と馬具が確かめられ、荷が積み直されている。王女直属護衛の軽傷者は持ち場へ戻った。腕や脚の傷が深かった者は、無理をさせず馬車へ乗せる。
ルシオは新しい隊列を一人ずつ確認した。
先頭と後方には直属護衛。カルネス家から加わる兵は、半島の道を知る者を各所へ分ける。先触れが知るのは、次の宿泊地までだった。
旅支度を終えたフィオラは、馬車の中へ入れた毛布と薬箱をもう一度確かめた。以前の襲撃で傷んだ車体は修理され、目立たない新しい板が側面へ嵌め込まれている。
「殿下、用意が整いました」
「負傷した者たちは?」
「馬車へ乗っています。治療師からも、移動してよいと」
「分かりました」
アレシアは玄関前で、エリサの手を取った。
「いろいろと、ありがとうございました」
「次は、もう少し静かな時に来てください」
「そうしたいですね」
「約束ですよ」
エリサは笑ったが、手を離すまでに少し時間がかかった。
バルディオとダリオにも礼を述べる。二人はそれぞれの言葉で道中の無事を願った。
最後に、アレシアはセヴェリオの前へ立った。
「伯父様。長い間、お世話になりました」
「世話などと思わなくてよい。ここはお前の母の故郷でもある」
「はい」
アレシアの顔に疑いはなかった。
「東半島で見たことは、王都へ持ち帰ります。まだ見ていない土地についても、いずれ改めて訪ねるつもりです」
「東半島の巡察は、ここで区切るのだな」
「はい。まず王都へ伝えるべきことが増えました」
「巡察を続けるのなら、無理だけはするな」
「気をつけます」
「危険を感じたなら、予定にこだわる必要はない。ルシオ殿の判断も聞くのだぞ」
伯父としての言葉だった。
アレシアも、そのように受け取った。
「伯父様も、お身体を大切になさってください」
セヴェリオは一度だけ頷いた。
謝ることはできなかった。
許しを求めることもできない。
アレシアは何も知らないまま、馬車へ乗った。
御者が手綱を引く。
車輪が石敷きを転がり、門へ向かった。ルシオたちが続き、カルネス家の兵も動き出す。
窓からアレシアが振り返った。
エリサが手を振る。バルディオとダリオは頭を下げた。
セヴェリオは、その場に立っていた。
怖がらせて王都へ帰そうとした姪は、逃げなかった。
東半島の街道を歩き、盗賊と人攫いを見た。アルヴェラの水を知り、廃銀山から救われた人々とも会った。
王家へ知らせる使者を出し、次の土地へ進んでいく。
馬車は朝霧の残る大通りを抜け、城門の向こうへ小さくなった。
セヴェリオには侯爵位がある。
領地も、屋敷も、アレシアからの信頼も残っている。
だが、ガレスはいない。
マルコも、ネリオもいない。
半島の貴族たちも、以前のようにカルネス家だけを見てはいなかった。
やがて馬車が見えなくなっても、セヴェリオは門前に立っていた。
アルヴェラから消えた男たちは、真壁によって半島北部の寒村へ移されていました。真壁は村へ、彼らに仕事と食事を与えてほしいと頼み、漁師小屋も用意。海藻や小魚を良い値で買い取る約束まで残しています。男たちは漁や乾物作りを手伝い、やがて村へ溶け込みました。後にこの寒村は海産物の産地として発展しますが、澪と理央は何も知りません。