共同商館の朝は、荷車の車輪と木箱を動かす音から始まっていた。
帳場では今日の入荷が読み上げられ、開いた扉の向こうを荷運びの者たちが行き来している。前日に東都への初回納品を終えた澪も、今日からは異世界側の仕事へ戻るつもりでいた。
けれど、真壁と一緒に商館へ入ったところで、その予定は止まった。
教会の紋章を付けた若い使いが、帳場の脇で二人を待っていた。
「押入商会の方ですね」
澪たちを見つけた使いが立ち上がる。急いで来たのか、外套の裾には朝露が残っていた。
「夜明け前に、卵が孵りました」
「……孵ったんですか?」
喜ばしい言葉のはずなのに、澪の胸には安堵より先に緊張が走った。
生まれたのは、ゼグルド火山から持ち帰った竜の卵だ。
火山性の魔力に偏ったまま育てば、狂暴化する危険がある。そう聞かされてから、クララが長い間、魔力を与え、変化を記録してきた。
その竜が、とうとう殻の外へ出た。
「時刻は」
真壁が聞いた。
声に驚きはない。報告を聞いた時よりも、わずかに姿勢が固くなっただけだった。
「夜明けの鐘より少し前です」
「クララ君は無事か」
「はい」
「シスターサリアは」
「ご無事です」
「負傷者は。火は出たか。建物の損傷はあるか」
「どれもありません。子どもたちも無事です」
真壁は一つずつ答えを受け取り、最後に使いの顔を見た。
「幼竜は暴れているか」
「いいえ。クララさんから離れようとしません」
そこで澪は、ようやく止めていた息を吐いた。
怪我人はいない。火も建物の損傷もなく、少なくとも、火竜が孤児院で暴れているという知らせではなかった。
「それなら、何が……」
使いは困ったように眉を下げた。
「クララさんが、お二人に来てほしいと。助けてほしいそうです」
澪は真壁を見る。
真壁はすでに踵を返していた。
「現物を確認しよう」
商館の帳場へ、今日の予定を変更するとだけ告げる。
朝の荷運びは変わらず続いていた。その中で、竜が生まれたという報告だけが、どう考えても日常の大きさに収まっていなかった。
孤児院の管理室には、以前と同じ布と薬草、それに石鹸の匂いが残っていた。
違っていたのは、保護台の上だ。
白灰色の卵は、もうない。
厚い布の上には割れた殻が残り、乾いた破片が時折、小さな音を立ててずれていた。
そして、その下の石床に竜がいた。
クララがまだ抱き上げられる大きさの身体を、赤褐色の鱗が覆っている。頭には短い角があり、身体に比べて少し大きな足を動かすたび、黒い爪が石床をこすった。
火竜の幼体だと聞けば、澪にも納得できる姿だった。
だが、鱗の隙間には淡い光がにじんでいる。
角の根元でも、呼吸に合わせて柔らかな明かりが強くなり、また弱くなった。炎ではない。火の粉も飛んでいない。魔灯に似た光が、床へ薄い影を落としていた。
「……本当に、生まれたんですね」
「はい。夜明け前でした」
クララは幼竜から手の届く位置に立っていた。眠っていないのだろう。目元には疲れが残っている。
管理室の入口には、シスターサリアがいた。
その向こうから、何人もの子どもが顔を覗かせている。幼竜を見ようと身を乗り出した一人を、サリアが腕で静かに止めた。
「子どもたちは、まだ中へ入れていません」
「それでいい」
真壁が室内へ足を踏み入れる。
幼竜は爪を立てて顔を上げ、低く喉を鳴らした。開いた口の奥に、細い歯が並んでいる。
クララが首へそっと手を添えた。
「大丈夫です」
誰に向けた言葉なのか、澪には分からなかった。
けれど、幼竜の前足から力が抜ける。角の根元の光も元の明るさへ戻った。
クララは保護台の脇にある記録板を取るため、二歩だけ動いた。
幼竜も立ち上がり、爪を鳴らしながらすぐ後ろをついていく。クララが戻れば一緒に戻り、その足へ身体を寄せて丸くなった。
「ずっと、こうなんですか?」
「はい。孵ってから、ずっとです」
クララの口元が緩んだ。
毎日見守り、魔力を与え、自分の疲労まで書き残して育ててきた卵が、今はその足元で呼吸をしている。
それでも、クララは入口の子どもたちを室内へ招かなかった。
「私にはおとなしくしています。でも、ほかの人にも同じかは、まだ分かりません」
澪は幼竜へ近づきかけた足を止めた。
可愛いと思うのは、確認が終わってからでも遅くない。
真壁は幼竜の頭から尾へ視線を動かし、四肢、腹部、翼の付け根を順に確かめた。触れる前に鑑定を使い、外傷と生命反応、体温、内部の魔力を見る。
次に保護台へ寄り、割れた卵殻を調べた。
殻に不自然な割れ方はない。外から砕かれた跡も、内部に残った異常も見当たらなかった。幼竜自身の力で殻を割り、外へ出たらしい。
「竜種、幼体。固有の種名は出ていない」
真壁が幼竜へ視線を戻す。
澪は、鱗の間ににじむ光を見た。
「火属性は、残ってるんですね」
「残っている。光もある」
「2つですか」
「ああ」
火が消え、代わりに光へ変わったのではなかった。
幼竜の内側には、火属性の魔力がはっきりとある。その上へ重なるように、別の光属性が穏やかに巡っていた。
「火山にいた時のような偏りは」
真壁は幼竜から目を離さない。
「現時点では見えん。火属性の流れも安定している。狂暴化の傾向も確認できない」
「少なくとも、今は大丈夫なんですね」
「今は暴走していない、ということだ」
孵化したばかりで、この個体にとって何が普通なのかも分からない。成長すれば性質が変わるかもしれず、空腹や恐怖へどう反応するかも未知のままだ。
それでも澪は、止めていた息をゆっくり吐いた。
火山で見た荒い魔力は、幼竜の中には見当たらない。
クララの足元では、火と光を宿した小さな身体が、一定の速さで呼吸を続けていた。
真壁の確認が一通り終わった頃、廊下から足音が近づいてきた。
「遅くなりました」
管理室へ入ってきたのはヴァルトだった。シスターサリアが共同商館とは別に出した使いから、孵化の知らせを受けたという。
ヴァルトは真壁の説明を聞いた後も、幼竜と卵殻を自分で調べた。それからクララの記録板を受け取る。
殻の温度と色、内部から押された時刻、魔力を与えた時間、その後の反応。クララ自身の疲労と、次の供給までの回復も、孵化直前まで欠けずに続いていた。
「光属性の反応を感じたことは?」
「ありません。荒い揺れが前より弱くなったことと、私が近づくと中から殻を押すことは書いてあります」
ヴァルトはその記録と、幼竜の内側を巡る二つの魔力を見比べた。
「火山性魔力から離した後、偏りは弱くなっています。クララさんの魔力を受けている間も、成長は安定していた。孵化した幼体に、あの頃の狂暴化傾向は見えません」
淡く光る鱗へ視線を移し、言葉を選ぶ。
「光属性については、関係がないとは思いません。ただ、これだけでは原因までは決められません」
「クララさんの魔力で、光になったわけではない?」
「そう言い切る材料がありません。逆も同じです」
卵が最初から光属性の性質を持っていた可能性もある。火山性魔力から離れたことで、それが表へ出たのかもしれない。
クララの《浄化》《微光》《祈り》に近い魔力が、長い時間をかけて関わったことも考えられた。複数の条件が重なった可能性まで含めれば、孵化した一頭だけで原因を選び出すことはできない。
「私が、変えてしまったのでしょうか」
クララの指が、記録板の縁を強く持った。
「以前にも申し上げましたが、クララさんの魔力は、卵へ強く色を付けるより、乱れを抑える方向に働いていました」
ヴァルトは記録板の、荒い揺れが弱まったと書かれた部分を指した。
「光属性の発現に関わった可能性はあります。ですが、あなたが誤ったものを加えたと考える根拠はありません」
「では、この子は」
「火と光を持って生まれた竜です。それ以上は、これから見なければ分かりません」
クララの指先が幼竜の額へ触れた。角の根元の光がゆっくりと弱まり、クララもようやく記録板を握る力を抜く。
その様子を見届けてから、澪は共同商館で聞いた言葉へ戻った。
「それで、助けてほしいというのは?」
クララとサリアの表情が、同時に曇った。
返事の代わりに、クララが管理室の隅から布袋を持ってくる。
袋は軽かった。口を下へ向けると、細かな石の粉だけが床へ落ちる。
「孵ってしばらくしてから、この子が魔石へ反応しました」
教会には、魔灯や暖房、浄化加湿循環器を動かすための低級魔石が備蓄されている。その袋も、管理室で交換用に置かれていた物だった。
「最初は1個だけ渡しました。魔力が必要なのだと思って」
「食べたんですか?」
「はい。噛んで、砕きました」
クララは記録板を開いた。
魔石を口へ入れてから飲み込むまでの時間と、食べた後の様子。次を探し始めるまでの間隔も書き込まれている。
「1個ずつ様子を見ながら追加しました。吐き出すことも、苦しむこともありませんでした。でも、食べ終わるとまた探して……」
短い時間で、用意した袋は空になった。
話を聞いていた幼竜が起き上がる。
クララの手にある袋へ近づき、鼻先を入れた。何もないと顔を上げ、もう一度奥まで差し込む。
それでも見つからないと分かると、今度は室内へ顔を向けた。
幼竜の視線が、木製の浄化加湿循環器で止まる。
装置の背面に固定された魔石は、正面からは見えない。それでも幼竜は爪を鳴らし、迷わず装置へ近づいていった。
クララが後ろから抱き上げる。
「それは食べてはいけません」
幼竜は暴れなかった。
クララの腕へ身体を預けたまま、首だけを伸ばして装置の背面を見続けている。
「……そこにも魔石、入ってましたね」
「入っています」
サリアが答えた。
孤児院の空気をきれいにし、乾燥を和らげるための装置である。
幼竜には、次の食料に見えているらしい。
「教会の魔石は、子どもたちの生活に使う物です」
サリアは幼竜を責めず、備蓄の用途を順に挙げた。
「魔灯と暖房、浄化加湿循環器。そのほかにも必要な魔道具があります。補充する分にもお金がかかります」
幼竜が食べたのは低級魔石だ。一つ一つは高位の魔石ほど高価ではないが、毎日の設備を動かす分まで食べられては、孤児院の予算で補充し続けられない。
しかも、今はクララが抱き上げられる大きさである。成長すれば食べる量も増えると考えておいた方がよかった。
「このまま教会の魔石を使っていいとは思えませんでした」
クララは幼竜を抱いたまま言った。
「でも、この子はまだ食べたがっています。私だけでは、どうすればいいのか分からなくて」
「はい。それで正解です」
澪はすぐに答えた。
「子どもたちの分を、この子へ回し続けるわけにはいきません。相談してくれてよかったです」
クララの腕の中で、幼竜が身じろぎする。
床へ下ろせば、またクララの足へ身体を寄せた。今すぐ別の場所へ移せば、この安定まで崩すかもしれない。
「孤児院の魔石を使う必要はない。こちらで用意しよう」
真壁が言った。
「押入商会が、この子を引き取るのですか?」
「そういう話ではない。少なくとも、今すぐ君から引き離す理由はない」
クララは足元の幼竜を見た。
「我々が持ち込んだ卵だ。当面必要な物はこちらで持とう。責任の分担は、餌を確保してから詰めればよい」
真壁の視線が、空の布袋へ移る。
「まず、この個体が何を、どれだけ必要とするかだ」
真壁は幼竜へ鑑定を使った。
食べた低級魔石の魔力は取り込まれている。それでも、孵化に使った分をまだ補い切れていなかった。火と光の流れ、体温にも目を通し、試す前の状態を記憶する。
それから収納より、標準的な人工魔石を1個だけ出した。
「最初から多くは与えん」
人工魔石を魔道具の動力にできることと、生き物が食べ続けられることは別だった。
真壁は人工魔石をクララへ渡す。
「君の手から与えてくれ」
「はい」
クララは手のひらへ人工魔石を載せ、幼竜の前へ差し出した。
幼竜は鼻先で一度触れ、そのまま口へ入れる。
バリッ、と乾いた音が管理室へ響いた。
入口から覗いていた子どもたちが、一斉に目を丸くする。
もう一度、バリバリと硬い音がした。幼竜の喉が動き、人工魔石は欠片まできれいになくなった。
クララは口元を覗き込み、歯の間に破片が残っていないかを確かめる。
真壁もすぐに鑑定へ移った。
人工魔石の魔力が幼竜の内側へ広がり、孵化で減っていた分を埋めていく。鱗の隙間から漏れる光も、先ほどより揃っていた。
火属性に荒い乱れはない。光属性も崩れず、吐き戻しや体温の急変も見当たらない。
「これなら、魔石代は何とかなりますか?」
人工魔石なら押入商会で補充できる。澪はようやく、空の袋から目を離した。
「魔力を与えるだけならな」
幼竜はクララの足元へ戻り、前足を折って身体を丸くした。
澪は、これで落ち着いたのだと思った。
ところが幼竜はすぐに顔を上げ、床の布袋へ鼻先を入れた。袋を押して裏返し、それでも何も出てこないと室内を見回す。
「魔力、戻ってるんですよね?」
「ああ」
真壁は次の人工魔石を出さず、食べる前の状態ともう一度比べた。取り込まれた魔力は消えていない。回復も続いている。
「じゃあ、なんでまだ探してるんでしょう」
幼竜は浄化加湿循環器へ顔を向けかけ、クララに呼ばれて足を止めた。
「魔力だけを求めているわけではないのかもしれんな」
「ほかにも、足りないものがある?」
「可能性はある」
試したのは1回だけだ。孵化直後の竜が普通ならどれだけ食べるのか、魔力を取り込んでから満たされるまで時間がかかるのかも分からない。
真壁は空の袋を拾い上げ、残った粉を指先で確かめた。
「次は条件を分けよう。人工魔石だけの場合と、別の餌を与えた場合で比べる」
「幼竜へ、魔獣の乳を与えた例はあります」
ヴァルトが幼竜を見ながら言った。
「乳、飲むんですか?」
目の前にいるのは、赤褐色の鱗と角を持ち、石を歯で砕く竜だ。乳を入れた器へ顔を寄せる姿は、澪にはすぐ結びつかなかった。
「少なくとも、与えて育てたとする記録はあります。ただ、竜種すべてに当てはまるとは限りません」
真壁は幼竜の前足から胴へ視線を動かした。
「身体を大きくする材料まで、石だけで足りるとは限らんな」
今は小さくても、骨も筋肉も内臓も成長する。鱗も今より厚くなるはずだ。
ゲンダイの生き物ならタンパク質や脂質を考えるところだが、その知識を異世界の竜へそのまま当てはめることはできない。
「この個体は火と光を持っています。乳なら何でもよいとは言えません」
ヴァルトは指を折りながら、確かめる条件を挙げた。
「魔獣の種類、乳に含まれる魔力と属性、濃さ。この個体との相性もあります。試すなら少量からです」
「試す価値はあるな。乳そのものも先に見よう」
真壁の視線を受けて、ヴァルトが頷いた。
「候補を調べます」
「人工魔石だけの時と、乳を与えた時。まずはそこで比べよう。組み合わせるのはその後だ」
真壁が決めると、クララはすぐに記録板の空いている場所を探した。
「食べた量と魔石の数。食べる前と後の魔力、活動した時間と、眠った時間も見ます」
「体重と体長も要るな」
「私が測ります」
卵の温度と魔力を見続けてきた時と、同じ迷いのない返事だった。
クララは体重の欄へ、毎日同じ時刻に測ると小さく書き添える。体長については、足元で尾を曲げている幼竜を見て手が止まった。
「真っすぐにして測るのは難しそうです」
「無理に伸ばす必要はない。同じ姿勢で比べられる基準を決めよう」
「はい」
クララが書き込む横で、サリアは管理室の中を見回した。
「子どもたちの魔石とは、分けて置きます」
交換用の魔石は幼竜の届かない場所へ移す。浄化加湿循環器にも近づけないよう、管理室の導線を変えることになった。
「子どもたちにも、勝手に与えないよう話します」
「お願いします。人工魔石と試験用の魔獣乳は、こちらで用意します」
澪が答えると、クララの筆が止まった。
「ありがとうございます」
「クララさん。一人で抱えないでくださいね。食べたものだけでなく、クララさんの疲れも今までどおり書いてください」
「はい。変わったことがあれば、すぐにシスターサリアへ伝えます」
サリアも頷く。
幼竜は話し合いの間も、クララの足へ身体をつけたまま離れなかった。
当面の魔力を補う手段と、次に試す物が決まり、管理室の張り詰めた空気がほどけた。
幼竜はクララの足元で丸くなっている。赤褐色の鱗の隙間から漏れる光は柔らかく、呼吸も安定していた。
ただ、空の布袋だけは諦めていない。
少し眠りかけては顔を上げ、袋の中へ鼻先を入れる。何もないと確かめると、またクララの足元へ戻った。
クララは使い込んだ記録板へ、食餌量と魔石量、魔力の変化を書き込む欄を作っていた。その隣には、体重、体長、睡眠、活動量が並んでいく。
クララの筆が止まる。
「もう一つ、必要です」
幼竜はまだ名前も決まっていない。
空の袋へ鼻先を入れたその横で、クララは最後の欄に「食費」と書き込んだ。