教会本部から来た馬車は、儀礼の列を作るには少なすぎた。
先頭の箱馬車と、護衛を乗せた一台だけ。馬具には旅埃が残り、降り立った男の外套も裾だけ色が薄い。
アルベルトは玄関広間で一行を迎えた。六十歳ほどに見えるルドルフ・ハルトマンは、教会本部の上席聖職者を示す装いをしていたが、後ろにいるのは書記と必要最低限の護衛だけだった。
「お迎えに感謝します」
「遠路、ご苦労だった。部屋を用意してある」
アルベルトが応接室を示すと、ルドルフは一礼した。
「正式なご挨拶は、ここで済ませていただければ十分です。クララさんが普段いる場所へ案内していただきたい」
会食も、侯爵邸へクララを呼び出すことも求めない。
隣に立つエレナは何も言わなかったが、組んでいた指の力が少し抜けた。
「承知した。私も同行する」
先に領内へ来ていたマティアス司教が、教会側と侯爵家側の間に入る。一行は長い挨拶を重ねず、そのまま孤児院へ向かった。
磨かれた侯爵邸の床を離れ、馬車が町の石畳を進むにつれて、窓の外へ昼の生活が戻ってくる。
孤児院へ着くと、鍋を動かす音と子どもたちの声が聞こえた。水桶を抱えたシスターが道を譲り、干された布が春の風を受けて揺れている。
上席聖職者が来たからといって、孤児院の一日すべてを止めるわけにはいかない。
老神父に案内され、管理室の入口へ立つ。
クララは幼竜の前にしゃがみ、木の器に残った飼料を確かめていた。赤褐色の幼竜は器より彼女の手元を見ている。
来客へ気づいたクララが立ち上がると、幼竜もすぐに腰を上げた。クララが記録板を机へ置きに行けば、その後ろをついていく。短い角の根元ににじむ淡い光が、歩くたびに揺れた。
ルドルフは近づかず、数分のあいだ、その様子を見ていた。
クララが礼を取ろうとすると、幼竜の尾が長衣の裾へ乗った。
「普段のままで構いません」
「はい」
クララは尾を踏まない位置へ足をずらし、器と記録板を片づけた。
幼竜は来客を一度見ただけで、またクララの足元へ戻る。
「報告どおりですね」
ルドルフがマティアスへ告げた。
「はい。孵化後も変わっておりません」
奇跡という言葉は出なかった。
それでも、現物を確認したルドルフの視線は、先ほどより重くなっていた。
「クララさん。少し、お話をする時間をいただけますか」
クララは足元の幼竜へ目を落とし、うなずいた。
昼を過ぎた小応接室には、人数分の椅子を置くだけで余裕がなくなった。
ルドルフとマティアス、老神父。向かいにはアルベルトとエレナが座り、クララの両隣へ澪と真壁が加わった。押入商会には、幼竜の飼料と魔石を負担する者として、先触れの段階から正式な同席を求められていた。
幼竜は人間の都合を気にせず、クララの靴へ尾を巻きつけている。
卓へ出された薄い茶が冷め始めた頃、ルドルフは一通の書面を置いた。
前にマティアスが作成した報告書の写しだった。末尾には、孤児院に残りたい。幼竜を育てたい。侯爵家の家族でいたい。聖女になりたいとはまだ言っていないという、クララ自身の希望も記されている。
「こちらは、本部でも読みました」
ルドルフの指が、その末尾から離れる。
「そのうえで、クララさんには本部へ来ていただきたい。幼竜も一緒にです」
クララの足元で、尾が椅子の脚に触れた。
「来る、ではなく……移るのですか」
「本部側では、帰還日を定めず、しばらく本部で過ごしていただきたいと考えています」
窓の外を、桶を抱えた誰かが通った。水の揺れる音が遠ざかり、その後から子どもたちの足音が追いかけていく。
今まで通りの一日が、壁一枚の向こうにある。
「聖女になると決めたからですか」
「いいえ。そこはまだ決めていません」
否定は早かった。
「しかし、本部にはすでに、あなたを聖女として見る者がいます。火と光、二つの属性を持つ幼竜が高位聖職者のそばを離れない。事情を確認しないまま、噂だけを先に走らせるわけにはいきません」
エレナが口を開きかけ、クララを見た。
クララは膝の上で手を重ねたまま、ルドルフから目をそらさない。
「この子も、本部で調べるのですか」
「あなたから引き離す考えはありません。属性や状態は確認しますが、無理に触れさせることもしません」
「いつ、戻れますか」
ルドルフは、そこで言葉を選んだ。
「本部の上席聖職者たちが、あなたと幼竜を直接確認します。そのうえで、今後の扱いを協議することになります」
「いつ戻れるのかを、お聞きしました」
クララの声は強くなかったが、問いを譲らなかった。
「今の段階では、帰還の時期を決めておりません。確認と協議が終わるまで、としか申し上げられません」
エレナの顔から、わずかに残っていた期待が消えた。
前回は、孤児院を出ることも、幼竜と離されることも決まっていないと聞いた。今回は、まだ決めていない人々の前へ行き、終わる日を決めないまま暮らしてほしいと言われている。
悪意を向けられたわけではない。
だからといって、受け入れられる話にはならなかった。
クララの指が、靴へ触れている幼竜の尾を包んだ。
「移っていただく理由について、もう少し――」
「私は行きません」
ルドルフの言葉を遮ったことに気づき、クララの指先が固くなった。
それでも、言い直しはしなかった。
「戻る日が決まっていないのなら、行けません。私はここで続けたいことがあります」
クララが立ち上がったわけでも、声を荒らげたわけでもない。窓から差す光は少し傾き、卓の茶からはもう湯気が消えている。
ルドルフは報告書へ伸ばしかけた手を止めた。
「幼竜のことだけですか」
「いいえ」
クララは足元へ触れた。指が短い角の根元を撫でると、そこににじむ光が落ち着く。
「子どもたちの世話があります。具合の悪い方を診ることも、サリアさんと分けている夜の仕事もあります。高位聖職者になってから、任せていただけることも増えました」
何をしているのか説明するためではなく、置いてはいけないものを自分で確かめるように、一つずつ口にした。
「幼竜の食事と体調も見なければなりません。でも、それだけではありません。ここでしていること全部です」
廊下から、幼い声が飛んできた。
「クララ、布はこっちでいい?」
クララは反射的に扉へ顔を向けた。
「はい。サリアさんにも見てもらってください」
「分かった!」
足音が駆けていく。
ルドルフは閉じた扉を見た後、クララへ視線を戻した。
「本部でも、あなたにしかできない役目が生まれるかもしれません」
「まだ見たことのない役目のために、今していることを終わりにしたくありません」
言い切ると、胸が速く鳴った。
教会本部の上席聖職者へ、教会に属する自分が断っている。それでもこれは、教会を捨てるという話ではない。
誰かが決めた保護や家名や役目より先に、自分で選んだ暮らしを守りたかった。
「答えは聞いたな」
エレナがようやく口を開いた。
「クララ本人が、ここに残ると決めた」
アルベルトも続ける。
「侯爵家から命じて送り出すつもりはない」
老神父は教会側の席に座ったまま、クララの答えを覆す言葉を出さなかった。
澪も何か言おうとして、口を閉じる。代わりに断ってくれないことが、今はありがたかった。
「分かりました」
ルドルフは拒否を咎めなかった。
だが、報告書をしまおうともしない。
「本部からの案を、今ここで撤回することもできません。今夜は侯爵領に滞在します。明日の朝までに、別の形がないか、もう一度だけ話す機会をいただけませんか」
クララはすぐには答えなかった。
断る言葉は、もう言えた。
「もう一度、お話を聞くことなら」
幼竜がクララの靴へ身体を寄せる。
ルドルフは報告書をしまわず、卓の中央へ置いたまま、冷えた茶に手を伸ばした。
会談が終わると、エレナはクララと一緒に孤児院へ残った。
澪と真壁はアルベルトに伴われ、侯爵邸へ戻る。夕食の支度が始まった廊下では、食器を運ぶ使用人と何度もすれ違った。
真壁はそのたびに邪魔にならない側へ寄り、歩く速さを変えない。
「真壁さんは、止めないんですか」
澪が尋ねると、真壁は足を止めた。
「何をかね」
「クララさんを、教会本部へ行かせることです」
言ってから、少し違う気がした。
クララはもう断っている。正しくは、明日もう一度話すという教会側を止めないのか、だ。
「クララ君が断るなら、それは本人の判断だ。だが、行くこと自体を私が止める理由もない」
「でも、帰ってこられないかもしれないって」
「本部は、そう決めたわけではない。帰る日を決めていないだけだ」
違いがあるのは分かる。
クララにとっては、あまり違わないとも思う。
「危なくないんですか」
「何を危険と見るかによるな」
真壁はそれ以上を説明しなかった。
教会本部が何を確かめようとしているのか。クララが中央へ行けば、どんな影響が出るのか。真壁なら何か考えているはずだが、その答えを澪へ渡すつもりはないらしい。
アルベルトも、真壁へ政治の説明を求めなかった。ただ一度、横顔を見る。
「明朝、話し合いが再開される」
「承知している」
「それまでに、何かするつもりは?」
「ない。クララ君が考える時間だ」
真壁は再び歩き出した。
廊下の角まで来たところで、まるで話題が済んだようにアルベルトへ顔を向ける。
「幼竜の飼料は、次の補充まで足りるかね」
「孤児院から不足の報告はない」
「ならば結構」
本当に通常の仕事へ戻るつもりらしい。
澪だけが、帰る日を決めていないという言葉を、頭の中で何度もひっくり返していた。
翌朝、澪は幼竜の飼料と魔石を持って、孤児院の管理室へ来た。
クララは既に起きていた。机の上には使い込んだ記録板が広がり、昨夜の給餌量や睡眠時間が細かな字で書き込まれている。
足元では、赤褐色の幼竜が身体を丸めていた。扉が開いた音に顔を上げたものの、クララが動かないと分かると、また鼻先を前脚へ埋める。
「おはようございます。頼まれていた分、持ってきました」
「ありがとうございます」
澪が荷を置くと、クララは数と包みを確かめた。飼料と魔石を教会の備蓄へ混ぜず、幼竜の分として分けて棚へ収めていく。
手はいつもどおりに動いた。
けれど、記録板の上には書きかけの行が残っている。昨夜の続きではなく、今朝になって何かを書こうとして、やめた跡だった。
「今日、もう一度お話しするんですよね」
「はい」
クララは棚の扉を閉めた。
「教会本部へは、行きません」
昨日と同じ答えだった。声にも迷いはないはずだった。
それでも、すぐには記録板へ戻れなかった。
「ここを離れたくありません。子どもたちもいます。治療に来る方もいます。この子の世話も、まだ始まったばかりです」
幼竜が自分のことだと分かったわけではないだろう。けれどクララの声に反応し、頭を持ち上げる。
クララはその角の根元を撫でた。
「でも、本部へ行くことだけが嫌なのではないのだと思います」
「どういうことですか?」
「行ったら、もう帰ってこられない気がするんです」
ようやく出た言葉は、昨日の会談では口にしていないものだった。
幼竜の記録を続け、夜には子どもたちの様子を見て、必要なら患者の治療もする。ここでの日々は、誰かに与えられた役目だけではなく、自分で選んで積み重ねてきたものだった。
帰る日が決まっていないという条件は、その全部が途切れることに思えた。
澪は、棚の前に置かれた椅子へ腰を下ろした。
「戻っちゃ駄目なんですか?」
思いがけない問いに、クララは顔を上げた。
「行って、見て、帰ってくればいいんじゃないですか?」
「帰ることを、認めてもらえるでしょうか」
「そこを決めてから行けばいいと思います」
澪は江古田へ戻り、大学へ通い、会社へも行く。こちらへ来れば侯爵領や王都へ足を運び、用事を終えればまた帰っていく。
同じようにできるとは思わない。教会本部が相手なら、話はもっと重い。
それでも、帰る日を決めずに行くか、まったく行かないか。その二つだけで選ぶ必要はないのかもしれない。
「本部で見てもらうことと、ここで暮らすことは、両方できないんでしょうか」
クララは答えなかった。
幼竜が立ち上がり、膝へ鼻先を押しつける。クララは無意識にその頭を支えた。
行った先で何を求められるのかは、まだ分からない。
ならば、戻ることまで曖昧にしたまま、すべてを決める必要もなかった。
クララは椅子から立った。
「神父様と、エレナに相談します」
「はい」
「その上で、ハルトマン様にもう一度お話しします」
管理室を出ると、幼竜もすぐについてきた。
廊下の先には朝の光が落ちている。クララは足を止めず、老神父のいる礼拝堂へ向かった。
その朝、孤児院の応接室には昨日より少ない人数が集まった。
ルドルフと書記官が卓の一方へ座り、その隣にマティアスと老神父がいる。向かい側にはアルベルトとエレナ、澪、真壁が席を占めた。
クララの椅子だけは、卓から少し離して置かれている。足元に幼竜が座れるようにするためだった。
赤褐色の身体が裾へ触れている。その温かさを確かめてから、クララはルドルフを見た。
「昨日は、お時間をいただき、ありがとうございました」
ルドルフがうなずく。
「お考えはまとまりましたか」
「はい。教会本部へ、一時的に伺います」
書記官の筆が紙の上を走った。
ルドルフは表情を変えず、先を促す。
「ただし、私は、ここへ帰ってきます」
それは希望ではなかった。
ここで暮らし、子どもたちや患者を見て、幼竜を育てる。その生活へ戻ることを条件にして、本部へ行くという提案だった。
「一時的、という言葉だけでは判断できません」
ルドルフは穏やかに言った。
「本部での確認に、どれほどの時間が必要かは、現時点では分かりません。何を条件となさいますか」
「出発する前に、戻る日を決めてください」
「確認が終わらなかった場合は?」
クララは一度、膝の上で両手を組んだ。
「その時は、改めて私に尋ねてください。残るかどうかは、その時に決めます」
ルドルフの視線が、卓を挟んでクララへ向けられる。
返事はすぐには来なかった。
「ハルトマン殿」
真壁が口を開く。
「一時訪問とするなら、帰還日は出発前に定めるべきでしょう。延長が必要となった場合は、クララ君の新たな同意を得る。最初の承諾を、そのまま延長の承諾として扱わないことです」
「教会が、必要な確認を途中で打ち切ることになってもですか」
「確認を続けることと、本人を期限なく留めることは別です」
真壁はそれ以上、クララに代わって条件を足さなかった。
戻る日を決める。延ばすなら、もう一度クララが選ぶ。
曖昧だった境目だけが、卓の上へ置かれた。
ルドルフはマティアスへ目を向けた。次に老神父、アルベルトを見る。誰かの許可を求めるためではなく、異論があるかを確かめているようだった。
「分かりました」
やがて、ルドルフは答えた。
「本部への訪問は一時的なものとし、帰還日を出発前に定めます。期間の延長は、クララ殿ご本人が改めて同意なさった場合に限りましょう」
クララの肩から、わずかに力が抜けた。
「もう一つ、明らかにしておきます」
ルドルフは書記官へ待つよう手を上げた。
「今回の訪問への承諾は、聖女としての認定を受け入れるという意味ではありません。本部が事情を確認し、話し合うための訪問です」
「はい」
「幼竜は、どうなさいますか」
クララが足元を見ると、幼竜も顔を上げた。
「一緒に連れていきます」
「旅の途中も、ご自身で世話を?」
「はい。ただ、一人では難しい時があると思います」
ルドルフはうなずいた。
「教会が移動手段と護衛を用意します。夜間の見守り、水の用意、記録の補助ができる女性聖職者も同行させましょう。幼竜へ直接触れる必要があることは、クララ殿にお願いします」
幼竜がクララへ従うことと、他の者が扱えることは同じではない。
その線を越えない提案だった。
「侯爵家は、道中に必要な通行証と身分を示す文書を用意する」
アルベルトが告げた。
「押入商会は、幼竜の飼料と魔石を準備する」
真壁が続ける。
「旅程に合わせた量を、余裕を持って渡そう。ただし、給餌と記録はこれまでどおりクララ君が管理したまえ」
「分かりました」
書記官が、これまで決まった内容を読み上げた。
一時訪問であること。帰還日を事前に定めること。延長にはクララの新たな同意が必要であること。訪問への承諾は、聖女として扱われることへの承諾ではないこと。
移動と護衛は教会が受け持ち、侯爵家と押入商会が必要な準備を分担する。幼竜はクララと一緒に移動し、世話の中心は変えない。
クララは一つずつ聞き、間違いがないことを確かめた。
「こちらの条件で、教会本部へ伺います」
ルドルフが立ち上がる。
「この条件で受け入れます。必要な手続きは、私が本部へ通しましょう」
差し出された手を、クララも立って取った。
足元で幼竜が動き、椅子の脚へ爪が触れる。小さな音がした。
今度は、その音を聞いても、帰れなくなるとは思わなかった。
数日後の朝、孤児院の前に教会の幌馬車が止まっていた。
春の風が幌を揺らし、つないだ馬が石畳を蹄で軽く叩く。教会の護衛たちは荷台の固定を確かめ、同行する女性聖職者が水桶と毛布の位置を見ていた。
クララは管理室から運び出した記録板を、布で包んで荷へ入れた。
幼竜の飼料、魔石、水、身体を拭く布。夜間の様子を書き残せるよう、予備の紙と筆記具もある。
忘れ物がないか、もう一度指で数える。
「押入商会から用意した物は、これで全部だ」
真壁が飼料の包みと魔石の容器だけを確認し、荷台から離れた。
「道中も、何を、どれだけ与えたかは分けて記録したまえ」
「はい」
真壁はうなずくと、ほかの荷へ手を出さなかった。旅の支度は教会が整え、必要な文書は侯爵家が持たせている。
クララの足元を回っていた幼竜が、荷台の匂いを嗅いだ。知らない馬車を警戒しているのか、前脚をかけようとはしない。
「一緒に行きます」
声をかけると、幼竜はクララの裾へ身体を寄せた。
玄関前には、孤児院の子どもたちが並んでいた。
いつもなら朝の仕事に散っている時間だ。シスターサリアが列を整えようとしているものの、年少の子は何度も前へ出かけ、そのたびに年長の子へ肩を引かれている。
「クララ、これ」
一人の子が、何通もの手紙を束ねて差し出した。宛名の字は大きさも傾きも揃っていない。
「みんなで書いたの?」
「うん。向こうで読んで」
「ありがとう。大切に持っていきます」
別の子からは、小さな布袋を渡された。中には乾かした花と、色の違う小石が入っている。
「この子の分」
幼竜は差し出された袋へ鼻を寄せたが、クララが受け取るまで口を開かなかった。
「食べ物ではありませんよ」
言い聞かせると、黒い爪が石畳を一度引っかいた。
笑いが起こり、張りつめていた空気が少しほどける。
クララは手紙と布袋を記録板の隣へしまった。
「夜の見回りは、昨日お渡しした順番でお願いします。薬が減った時は、神父様にも伝えてください」
「分かっています」
サリアは答え、クララの肩へ手を置いた。
「こちらのことは任せなさい。あなたは、見てくるべきものを見てきてください」
「はい」
これまでクララが受け持っていた仕事は、サリアと老神父、ほかの聖職者へ引き継いである。
短い間でも、空ければ誰かの仕事が増える。申し訳なさは消えなかった。
それでも、戻る日が記された文書は、クララ自身の荷の中に入っていた。
「着いたら手紙をちょうだい」
エレナが言った。
「すぐには届かないと思います」
「待つわ。帰る時にも書いて」
「分かりました」
エレナは満足そうにうなずいた。その横で、澪が笑っている。
「クララ」
列の前にいた幼い子が、服の裾を握った。
「いつ帰ってくるの?」
決めた日を答えようとして、クララは口を閉じた。子どもには、教会本部までの日数も帰りの旅程も、まだうまく伝わらない。
だから、一番大切なことだけを答えた。
「帰ってきます」
子どもの手が離れる。
クララは幌馬車へ乗り込み、先に積んだ荷の横へ腰を下ろした。入口は閉じず、幼竜へ両手を伸ばす。
幼竜は一度だけ荷台を見上げた。
次の瞬間には地面を蹴り、前脚を縁へかける。護衛が動くより早く、クララが胸を支えて中へ引き上げた。
赤褐色の身体が膝へ乗る。角の根元からにじむ淡い光を見て、子どもたちが声を上げた。
御者が手綱を取り、出発の合図を待つ。
クララは開いたままの入口から、孤児院を見た。
「行ってきます」
「いってらっしゃい!」
澪とエレナの声も、子どもたちの声へ重なった。
馬車が動き出す。
クララは幼竜を抱いたまま、開いた入口の向こうで小さくなっていく手へ、いつまでも手を振っていた。