押し入れの向こうは異世界でした   作:Brooks

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第339話 帰ってくればいいんじゃないですか?

 

 教会本部から来た馬車は、儀礼の列を作るには少なすぎた。

 

 先頭の箱馬車と、護衛を乗せた一台だけ。馬具には旅埃が残り、降り立った男の外套も裾だけ色が薄い。

 

 アルベルトは玄関広間で一行を迎えた。六十歳ほどに見えるルドルフ・ハルトマンは、教会本部の上席聖職者を示す装いをしていたが、後ろにいるのは書記と必要最低限の護衛だけだった。

 

「お迎えに感謝します」

 

「遠路、ご苦労だった。部屋を用意してある」

 

 アルベルトが応接室を示すと、ルドルフは一礼した。

 

「正式なご挨拶は、ここで済ませていただければ十分です。クララさんが普段いる場所へ案内していただきたい」

 

 会食も、侯爵邸へクララを呼び出すことも求めない。

 

 隣に立つエレナは何も言わなかったが、組んでいた指の力が少し抜けた。

 

「承知した。私も同行する」

 

 先に領内へ来ていたマティアス司教が、教会側と侯爵家側の間に入る。一行は長い挨拶を重ねず、そのまま孤児院へ向かった。

 

 磨かれた侯爵邸の床を離れ、馬車が町の石畳を進むにつれて、窓の外へ昼の生活が戻ってくる。

 

 孤児院へ着くと、鍋を動かす音と子どもたちの声が聞こえた。水桶を抱えたシスターが道を譲り、干された布が春の風を受けて揺れている。

 

 上席聖職者が来たからといって、孤児院の一日すべてを止めるわけにはいかない。

 

 老神父に案内され、管理室の入口へ立つ。

 

 クララは幼竜の前にしゃがみ、木の器に残った飼料を確かめていた。赤褐色の幼竜は器より彼女の手元を見ている。

 

 来客へ気づいたクララが立ち上がると、幼竜もすぐに腰を上げた。クララが記録板を机へ置きに行けば、その後ろをついていく。短い角の根元ににじむ淡い光が、歩くたびに揺れた。

 

 ルドルフは近づかず、数分のあいだ、その様子を見ていた。

 

 クララが礼を取ろうとすると、幼竜の尾が長衣の裾へ乗った。

 

「普段のままで構いません」

 

「はい」

 

 クララは尾を踏まない位置へ足をずらし、器と記録板を片づけた。

 

 幼竜は来客を一度見ただけで、またクララの足元へ戻る。

 

「報告どおりですね」

 

 ルドルフがマティアスへ告げた。

 

「はい。孵化後も変わっておりません」

 

 奇跡という言葉は出なかった。

 

 それでも、現物を確認したルドルフの視線は、先ほどより重くなっていた。

 

「クララさん。少し、お話をする時間をいただけますか」

 

 クララは足元の幼竜へ目を落とし、うなずいた。

 

 

 

 昼を過ぎた小応接室には、人数分の椅子を置くだけで余裕がなくなった。

 

 ルドルフとマティアス、老神父。向かいにはアルベルトとエレナが座り、クララの両隣へ澪と真壁が加わった。押入商会には、幼竜の飼料と魔石を負担する者として、先触れの段階から正式な同席を求められていた。

 

 幼竜は人間の都合を気にせず、クララの靴へ尾を巻きつけている。

 

 卓へ出された薄い茶が冷め始めた頃、ルドルフは一通の書面を置いた。

 

 前にマティアスが作成した報告書の写しだった。末尾には、孤児院に残りたい。幼竜を育てたい。侯爵家の家族でいたい。聖女になりたいとはまだ言っていないという、クララ自身の希望も記されている。

 

「こちらは、本部でも読みました」

 

 ルドルフの指が、その末尾から離れる。

 

「そのうえで、クララさんには本部へ来ていただきたい。幼竜も一緒にです」

 

 クララの足元で、尾が椅子の脚に触れた。

 

「来る、ではなく……移るのですか」

 

「本部側では、帰還日を定めず、しばらく本部で過ごしていただきたいと考えています」

 

 窓の外を、桶を抱えた誰かが通った。水の揺れる音が遠ざかり、その後から子どもたちの足音が追いかけていく。

 

 今まで通りの一日が、壁一枚の向こうにある。

 

「聖女になると決めたからですか」

 

「いいえ。そこはまだ決めていません」

 

 否定は早かった。

 

「しかし、本部にはすでに、あなたを聖女として見る者がいます。火と光、二つの属性を持つ幼竜が高位聖職者のそばを離れない。事情を確認しないまま、噂だけを先に走らせるわけにはいきません」

 

 エレナが口を開きかけ、クララを見た。

 

 クララは膝の上で手を重ねたまま、ルドルフから目をそらさない。

 

「この子も、本部で調べるのですか」

 

「あなたから引き離す考えはありません。属性や状態は確認しますが、無理に触れさせることもしません」

 

「いつ、戻れますか」

 

 ルドルフは、そこで言葉を選んだ。

 

「本部の上席聖職者たちが、あなたと幼竜を直接確認します。そのうえで、今後の扱いを協議することになります」

 

「いつ戻れるのかを、お聞きしました」

 

 クララの声は強くなかったが、問いを譲らなかった。

 

「今の段階では、帰還の時期を決めておりません。確認と協議が終わるまで、としか申し上げられません」

 

 エレナの顔から、わずかに残っていた期待が消えた。

 

 前回は、孤児院を出ることも、幼竜と離されることも決まっていないと聞いた。今回は、まだ決めていない人々の前へ行き、終わる日を決めないまま暮らしてほしいと言われている。

 

 悪意を向けられたわけではない。

 

 だからといって、受け入れられる話にはならなかった。

 

 クララの指が、靴へ触れている幼竜の尾を包んだ。

 

 

 

「移っていただく理由について、もう少し――」

 

「私は行きません」

 

 ルドルフの言葉を遮ったことに気づき、クララの指先が固くなった。

 

 それでも、言い直しはしなかった。

 

「戻る日が決まっていないのなら、行けません。私はここで続けたいことがあります」

 

 クララが立ち上がったわけでも、声を荒らげたわけでもない。窓から差す光は少し傾き、卓の茶からはもう湯気が消えている。

 

 ルドルフは報告書へ伸ばしかけた手を止めた。

 

「幼竜のことだけですか」

 

「いいえ」

 

 クララは足元へ触れた。指が短い角の根元を撫でると、そこににじむ光が落ち着く。

 

「子どもたちの世話があります。具合の悪い方を診ることも、サリアさんと分けている夜の仕事もあります。高位聖職者になってから、任せていただけることも増えました」

 

 何をしているのか説明するためではなく、置いてはいけないものを自分で確かめるように、一つずつ口にした。

 

「幼竜の食事と体調も見なければなりません。でも、それだけではありません。ここでしていること全部です」

 

 廊下から、幼い声が飛んできた。

 

「クララ、布はこっちでいい?」

 

 クララは反射的に扉へ顔を向けた。

 

「はい。サリアさんにも見てもらってください」

 

「分かった!」

 

 足音が駆けていく。

 

 ルドルフは閉じた扉を見た後、クララへ視線を戻した。

 

「本部でも、あなたにしかできない役目が生まれるかもしれません」

 

「まだ見たことのない役目のために、今していることを終わりにしたくありません」

 

 言い切ると、胸が速く鳴った。

 

 教会本部の上席聖職者へ、教会に属する自分が断っている。それでもこれは、教会を捨てるという話ではない。

 

 誰かが決めた保護や家名や役目より先に、自分で選んだ暮らしを守りたかった。

 

「答えは聞いたな」

 

 エレナがようやく口を開いた。

 

「クララ本人が、ここに残ると決めた」

 

 アルベルトも続ける。

 

「侯爵家から命じて送り出すつもりはない」

 

 老神父は教会側の席に座ったまま、クララの答えを覆す言葉を出さなかった。

 

 澪も何か言おうとして、口を閉じる。代わりに断ってくれないことが、今はありがたかった。

 

「分かりました」

 

 ルドルフは拒否を咎めなかった。

 

 だが、報告書をしまおうともしない。

 

「本部からの案を、今ここで撤回することもできません。今夜は侯爵領に滞在します。明日の朝までに、別の形がないか、もう一度だけ話す機会をいただけませんか」

 

 クララはすぐには答えなかった。

 

 断る言葉は、もう言えた。

 

「もう一度、お話を聞くことなら」

 

 幼竜がクララの靴へ身体を寄せる。

 

 ルドルフは報告書をしまわず、卓の中央へ置いたまま、冷えた茶に手を伸ばした。

 

 

 

 会談が終わると、エレナはクララと一緒に孤児院へ残った。

 

 澪と真壁はアルベルトに伴われ、侯爵邸へ戻る。夕食の支度が始まった廊下では、食器を運ぶ使用人と何度もすれ違った。

 

 真壁はそのたびに邪魔にならない側へ寄り、歩く速さを変えない。

 

「真壁さんは、止めないんですか」

 

 澪が尋ねると、真壁は足を止めた。

 

「何をかね」

 

「クララさんを、教会本部へ行かせることです」

 

 言ってから、少し違う気がした。

 

 クララはもう断っている。正しくは、明日もう一度話すという教会側を止めないのか、だ。

 

「クララ君が断るなら、それは本人の判断だ。だが、行くこと自体を私が止める理由もない」

 

「でも、帰ってこられないかもしれないって」

 

「本部は、そう決めたわけではない。帰る日を決めていないだけだ」

 

 違いがあるのは分かる。

 

 クララにとっては、あまり違わないとも思う。

 

「危なくないんですか」

 

「何を危険と見るかによるな」

 

 真壁はそれ以上を説明しなかった。

 

 教会本部が何を確かめようとしているのか。クララが中央へ行けば、どんな影響が出るのか。真壁なら何か考えているはずだが、その答えを澪へ渡すつもりはないらしい。

 

 アルベルトも、真壁へ政治の説明を求めなかった。ただ一度、横顔を見る。

 

「明朝、話し合いが再開される」

 

「承知している」

 

「それまでに、何かするつもりは?」

 

「ない。クララ君が考える時間だ」

 

 真壁は再び歩き出した。

 

 廊下の角まで来たところで、まるで話題が済んだようにアルベルトへ顔を向ける。

 

「幼竜の飼料は、次の補充まで足りるかね」

 

「孤児院から不足の報告はない」

 

「ならば結構」

 

 本当に通常の仕事へ戻るつもりらしい。

 

 澪だけが、帰る日を決めていないという言葉を、頭の中で何度もひっくり返していた。

 

 

 

 翌朝、澪は幼竜の飼料と魔石を持って、孤児院の管理室へ来た。

 

 クララは既に起きていた。机の上には使い込んだ記録板が広がり、昨夜の給餌量や睡眠時間が細かな字で書き込まれている。

 

 足元では、赤褐色の幼竜が身体を丸めていた。扉が開いた音に顔を上げたものの、クララが動かないと分かると、また鼻先を前脚へ埋める。

 

「おはようございます。頼まれていた分、持ってきました」

 

「ありがとうございます」

 

 澪が荷を置くと、クララは数と包みを確かめた。飼料と魔石を教会の備蓄へ混ぜず、幼竜の分として分けて棚へ収めていく。

 

 手はいつもどおりに動いた。

 

 けれど、記録板の上には書きかけの行が残っている。昨夜の続きではなく、今朝になって何かを書こうとして、やめた跡だった。

 

「今日、もう一度お話しするんですよね」

 

「はい」

 

 クララは棚の扉を閉めた。

 

「教会本部へは、行きません」

 

 昨日と同じ答えだった。声にも迷いはないはずだった。

 

 それでも、すぐには記録板へ戻れなかった。

 

「ここを離れたくありません。子どもたちもいます。治療に来る方もいます。この子の世話も、まだ始まったばかりです」

 

 幼竜が自分のことだと分かったわけではないだろう。けれどクララの声に反応し、頭を持ち上げる。

 

 クララはその角の根元を撫でた。

 

「でも、本部へ行くことだけが嫌なのではないのだと思います」

 

「どういうことですか?」

 

「行ったら、もう帰ってこられない気がするんです」

 

 ようやく出た言葉は、昨日の会談では口にしていないものだった。

 

 幼竜の記録を続け、夜には子どもたちの様子を見て、必要なら患者の治療もする。ここでの日々は、誰かに与えられた役目だけではなく、自分で選んで積み重ねてきたものだった。

 

 帰る日が決まっていないという条件は、その全部が途切れることに思えた。

 

 澪は、棚の前に置かれた椅子へ腰を下ろした。

 

「戻っちゃ駄目なんですか?」

 

 思いがけない問いに、クララは顔を上げた。

 

「行って、見て、帰ってくればいいんじゃないですか?」

 

「帰ることを、認めてもらえるでしょうか」

 

「そこを決めてから行けばいいと思います」

 

 澪は江古田へ戻り、大学へ通い、会社へも行く。こちらへ来れば侯爵領や王都へ足を運び、用事を終えればまた帰っていく。

 

 同じようにできるとは思わない。教会本部が相手なら、話はもっと重い。

 

 それでも、帰る日を決めずに行くか、まったく行かないか。その二つだけで選ぶ必要はないのかもしれない。

 

「本部で見てもらうことと、ここで暮らすことは、両方できないんでしょうか」

 

 クララは答えなかった。

 

 幼竜が立ち上がり、膝へ鼻先を押しつける。クララは無意識にその頭を支えた。

 

 行った先で何を求められるのかは、まだ分からない。

 

 ならば、戻ることまで曖昧にしたまま、すべてを決める必要もなかった。

 

 クララは椅子から立った。

 

「神父様と、エレナに相談します」

 

「はい」

 

「その上で、ハルトマン様にもう一度お話しします」

 

 管理室を出ると、幼竜もすぐについてきた。

 

 廊下の先には朝の光が落ちている。クララは足を止めず、老神父のいる礼拝堂へ向かった。

 

 

 

 その朝、孤児院の応接室には昨日より少ない人数が集まった。

 

 ルドルフと書記官が卓の一方へ座り、その隣にマティアスと老神父がいる。向かい側にはアルベルトとエレナ、澪、真壁が席を占めた。

 

 クララの椅子だけは、卓から少し離して置かれている。足元に幼竜が座れるようにするためだった。

 

 赤褐色の身体が裾へ触れている。その温かさを確かめてから、クララはルドルフを見た。

 

「昨日は、お時間をいただき、ありがとうございました」

 

 ルドルフがうなずく。

 

「お考えはまとまりましたか」

 

「はい。教会本部へ、一時的に伺います」

 

 書記官の筆が紙の上を走った。

 

 ルドルフは表情を変えず、先を促す。

 

「ただし、私は、ここへ帰ってきます」

 

 それは希望ではなかった。

 

 ここで暮らし、子どもたちや患者を見て、幼竜を育てる。その生活へ戻ることを条件にして、本部へ行くという提案だった。

 

「一時的、という言葉だけでは判断できません」

 

 ルドルフは穏やかに言った。

 

「本部での確認に、どれほどの時間が必要かは、現時点では分かりません。何を条件となさいますか」

 

「出発する前に、戻る日を決めてください」

 

「確認が終わらなかった場合は?」

 

 クララは一度、膝の上で両手を組んだ。

 

「その時は、改めて私に尋ねてください。残るかどうかは、その時に決めます」

 

 ルドルフの視線が、卓を挟んでクララへ向けられる。

 

 返事はすぐには来なかった。

 

「ハルトマン殿」

 

 真壁が口を開く。

 

「一時訪問とするなら、帰還日は出発前に定めるべきでしょう。延長が必要となった場合は、クララ君の新たな同意を得る。最初の承諾を、そのまま延長の承諾として扱わないことです」

 

「教会が、必要な確認を途中で打ち切ることになってもですか」

 

「確認を続けることと、本人を期限なく留めることは別です」

 

 真壁はそれ以上、クララに代わって条件を足さなかった。

 

 戻る日を決める。延ばすなら、もう一度クララが選ぶ。

 

 曖昧だった境目だけが、卓の上へ置かれた。

 

 ルドルフはマティアスへ目を向けた。次に老神父、アルベルトを見る。誰かの許可を求めるためではなく、異論があるかを確かめているようだった。

 

「分かりました」

 

 やがて、ルドルフは答えた。

 

「本部への訪問は一時的なものとし、帰還日を出発前に定めます。期間の延長は、クララ殿ご本人が改めて同意なさった場合に限りましょう」

 

 クララの肩から、わずかに力が抜けた。

 

「もう一つ、明らかにしておきます」

 

 ルドルフは書記官へ待つよう手を上げた。

 

「今回の訪問への承諾は、聖女としての認定を受け入れるという意味ではありません。本部が事情を確認し、話し合うための訪問です」

 

「はい」

 

「幼竜は、どうなさいますか」

 

 クララが足元を見ると、幼竜も顔を上げた。

 

「一緒に連れていきます」

 

「旅の途中も、ご自身で世話を?」

 

「はい。ただ、一人では難しい時があると思います」

 

 ルドルフはうなずいた。

 

「教会が移動手段と護衛を用意します。夜間の見守り、水の用意、記録の補助ができる女性聖職者も同行させましょう。幼竜へ直接触れる必要があることは、クララ殿にお願いします」

 

 幼竜がクララへ従うことと、他の者が扱えることは同じではない。

 

 その線を越えない提案だった。

 

「侯爵家は、道中に必要な通行証と身分を示す文書を用意する」

 

 アルベルトが告げた。

 

「押入商会は、幼竜の飼料と魔石を準備する」

 

 真壁が続ける。

 

「旅程に合わせた量を、余裕を持って渡そう。ただし、給餌と記録はこれまでどおりクララ君が管理したまえ」

 

「分かりました」

 

 書記官が、これまで決まった内容を読み上げた。

 

 一時訪問であること。帰還日を事前に定めること。延長にはクララの新たな同意が必要であること。訪問への承諾は、聖女として扱われることへの承諾ではないこと。

 

 移動と護衛は教会が受け持ち、侯爵家と押入商会が必要な準備を分担する。幼竜はクララと一緒に移動し、世話の中心は変えない。

 

 クララは一つずつ聞き、間違いがないことを確かめた。

 

「こちらの条件で、教会本部へ伺います」

 

 ルドルフが立ち上がる。

 

「この条件で受け入れます。必要な手続きは、私が本部へ通しましょう」

 

 差し出された手を、クララも立って取った。

 

 足元で幼竜が動き、椅子の脚へ爪が触れる。小さな音がした。

 

 今度は、その音を聞いても、帰れなくなるとは思わなかった。

 

 

 

 数日後の朝、孤児院の前に教会の幌馬車が止まっていた。

 

 春の風が幌を揺らし、つないだ馬が石畳を蹄で軽く叩く。教会の護衛たちは荷台の固定を確かめ、同行する女性聖職者が水桶と毛布の位置を見ていた。

 

 クララは管理室から運び出した記録板を、布で包んで荷へ入れた。

 

 幼竜の飼料、魔石、水、身体を拭く布。夜間の様子を書き残せるよう、予備の紙と筆記具もある。

 

 忘れ物がないか、もう一度指で数える。

 

「押入商会から用意した物は、これで全部だ」

 

 真壁が飼料の包みと魔石の容器だけを確認し、荷台から離れた。

 

「道中も、何を、どれだけ与えたかは分けて記録したまえ」

 

「はい」

 

 真壁はうなずくと、ほかの荷へ手を出さなかった。旅の支度は教会が整え、必要な文書は侯爵家が持たせている。

 

 クララの足元を回っていた幼竜が、荷台の匂いを嗅いだ。知らない馬車を警戒しているのか、前脚をかけようとはしない。

 

「一緒に行きます」

 

 声をかけると、幼竜はクララの裾へ身体を寄せた。

 

 玄関前には、孤児院の子どもたちが並んでいた。

 

 いつもなら朝の仕事に散っている時間だ。シスターサリアが列を整えようとしているものの、年少の子は何度も前へ出かけ、そのたびに年長の子へ肩を引かれている。

 

「クララ、これ」

 

 一人の子が、何通もの手紙を束ねて差し出した。宛名の字は大きさも傾きも揃っていない。

 

「みんなで書いたの?」

 

「うん。向こうで読んで」

 

「ありがとう。大切に持っていきます」

 

 別の子からは、小さな布袋を渡された。中には乾かした花と、色の違う小石が入っている。

 

「この子の分」

 

 幼竜は差し出された袋へ鼻を寄せたが、クララが受け取るまで口を開かなかった。

 

「食べ物ではありませんよ」

 

 言い聞かせると、黒い爪が石畳を一度引っかいた。

 

 笑いが起こり、張りつめていた空気が少しほどける。

 

 クララは手紙と布袋を記録板の隣へしまった。

 

「夜の見回りは、昨日お渡しした順番でお願いします。薬が減った時は、神父様にも伝えてください」

 

「分かっています」

 

 サリアは答え、クララの肩へ手を置いた。

 

「こちらのことは任せなさい。あなたは、見てくるべきものを見てきてください」

 

「はい」

 

 これまでクララが受け持っていた仕事は、サリアと老神父、ほかの聖職者へ引き継いである。

 

 短い間でも、空ければ誰かの仕事が増える。申し訳なさは消えなかった。

 

 それでも、戻る日が記された文書は、クララ自身の荷の中に入っていた。

 

「着いたら手紙をちょうだい」

 

 エレナが言った。

 

「すぐには届かないと思います」

 

「待つわ。帰る時にも書いて」

 

「分かりました」

 

 エレナは満足そうにうなずいた。その横で、澪が笑っている。

 

「クララ」

 

 列の前にいた幼い子が、服の裾を握った。

 

「いつ帰ってくるの?」

 

 決めた日を答えようとして、クララは口を閉じた。子どもには、教会本部までの日数も帰りの旅程も、まだうまく伝わらない。

 

 だから、一番大切なことだけを答えた。

 

「帰ってきます」

 

 子どもの手が離れる。

 

 クララは幌馬車へ乗り込み、先に積んだ荷の横へ腰を下ろした。入口は閉じず、幼竜へ両手を伸ばす。

 

 幼竜は一度だけ荷台を見上げた。

 

 次の瞬間には地面を蹴り、前脚を縁へかける。護衛が動くより早く、クララが胸を支えて中へ引き上げた。

 

 赤褐色の身体が膝へ乗る。角の根元からにじむ淡い光を見て、子どもたちが声を上げた。

 

 御者が手綱を取り、出発の合図を待つ。

 

 クララは開いたままの入口から、孤児院を見た。

 

「行ってきます」

 

「いってらっしゃい!」

 

 澪とエレナの声も、子どもたちの声へ重なった。

 

 馬車が動き出す。

 

 クララは幼竜を抱いたまま、開いた入口の向こうで小さくなっていく手へ、いつまでも手を振っていた。

 

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