押し入れの向こうは異世界でした   作:Brooks

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第340話 澪の確定申告

 

 少し前、2027年3月上旬のことだった。

 

 明石税理士の事務所では暖房が動いていたが、窓の外にはまだ冬の冷たさが残っていた。

 

 机の上には申告書の控えと源泉徴収票、社会保険の資料、それに貴金属の買取明細が並んでいる。

 

 数千円の手数料が記された明細も、何千万円の取引が記された明細も、紙の大きさだけは同じだった。

 

 澪は真壁と並んで、その紙の束を見た。

 

 1月に一度、必要な資料はまとめている。その後に追加を求められた書類も、すべて提出した。

 

 納税に備えて、個人で受け取った金の半分近くは残してある。

 

 今日は足りない物を探す日ではない。

 

 答えを聞いて、払う日だ。

 

「2026年分の計算が終わりました」

 

 明石は厚い資料を広げず、確認に必要な数枚だけを2人の前へ置いた。

 

「先に聞いてもいいですか」

 

「資金は足ります」

 

 澪が尋ね終える前に答えが返ってきた。

 

「納税しても、生活や学費に困る状態にはなりません」

 

「よかった……」

 

 椅子の背へ預けかけた身体を、澪は戻した。

 

 安心するのはまだ早い。

 

 足りることと、惜しくないことは別だった。

 

「今回確認するのは、2人の個人所得です。合同会社押入商会の第1期決算と法人申告は、ここへ混ぜません」

 

「承知した」

 

 真壁は資料の上から下へ視線を動かしている。

 

 税額そのものより、どの数字がどこへ移ったかを見ているようだった。

 

「篠原さんは項目が多いので、先に真壁さんから確認しましょう」

 

 明石が一番上の紙を入れ替えた。

 

 中央に印字されていたのは、真壁久忠という名前と、7,000,000円という数字だった。

 

 

 

「真壁さんの役員報酬は、2026年8月分からです」

 

 明石は支給記録を確かめると、1枚目の確認表を真壁の前へ置いた。

 

━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━

2026年分 真壁久忠

━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━

 

給与収入     7,000,000円

給与所得     5,200,000円

社会保険料    約841,200円

 

所得税・復興特別所得税

         約324,700円

 

年末調整     処理済

今回の追加納付      0円

 

━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━

 

 月額800,000円を8月から12月までの5か月分。

 

 通常報酬4,000,000円に年末賞与3,000,000円を加え、給与収入は7,000,000円になる。

 

 澪は知っていた数字を、紙の上でもう一度見た。

 

 月80万円と賞与300万円。

 

 別々に聞けば、いつもの報酬である。

 

 年間7,000,000円とまとめられると、急に立派な会社役員の数字に見えた。

 

「社会保険料は、これから払う額ではないのだな」

 

「はい。健康保険、介護保険、厚生年金として、給与と賞与から既に支払っています」

 

 真壁は表の上から順に確認し、最後の行で指を止めた。

 

「追加納付は0円か」

 

「給与については源泉徴収し、年末調整まで済んでいます。給与以外の個人所得もありませんので、今回はこれで終わりです」

 

 真壁は確認表を横へ置いた。

 

 追加納付、0円。

 

 澪はその数字を見て、少し安心した。

 

 自分も月額は同じ800,000円で、賞与も同じ3,000,000円だった。

 

「では、篠原さんです」

 

 明石が次の紙を取り出した。

 

 

 

「合同会社押入商会が成立したのは、2026年6月中旬です。ただし、篠原さんの役員報酬は7月分から支給を始めています」

 

 設立した月の途中からではなく、翌月からの開始だった。

 

「6月分の支給はありません。給与も社会保険料も、7月開始でそろえています」

 

 7月から12月までの6か月で、通常報酬は4,800,000円。

 

 そこへ賞与3,000,000円を加え、給与収入は7,800,000円になる。

 

「ここまでは、真壁さんと似ていますね」

 

「似ているのは額面だけです」

 

 明石が代表月の給与明細を横へ出した。

 

 総支給800,000円の下には、健康保険約38,908円、厚生年金59,475円、子ども・子育て支援金約909円が並んでいる。

 

 社会保険だけで、ひと月あたり約99,292円。

 

 さらに源泉所得税が引かれ、銀行への振込額は60万円台になっていた。

 

「毎月、これだけ引かれていたんですか?」

 

「給与明細にも書いてあります」

 

「銀行に入った額は見てました」

 

「控除欄は?」

 

 澪は明細へ目を戻した。

 

 武刺大学では経済学部に通っている。

 

 経済を学んでいることと、自分の給与明細を毎月読むことは、同じではなかった。

 

「賞与も、3,000,000円すべてが口座へ入ったわけではありません。社会保険料と所得税を引いた振込額は約210万円です」

 

「口座へ来るまでに、100万円近く減ってる……」

 

「どちらも支給時に納付済みです。確定申告で再び支払う金ではありません」

 

 給与収入7,800,000円から給与所得控除1,880,000円を差し引き、給与所得は5,920,000円。

 

 2026年に負担した社会保険料は884,202円だった。

 

「給与だけなら、真壁さんと大きくは変わりません」

 

「給与だけなら、です」

 

 明石は給与明細を閉じた。

 

 次に出てきた紙は、白金の買取明細だった。

 

 

 

 白金の明細を置かれると、真壁は重量と品位から見た。

 

 澪は先に金額を探した。

 

 同じ紙でも、見る場所が違う。

 

「約4,400万円という金額には見覚えがあります」

 

「概算としては間違っていません。ただし、申告書を概算では作れません」

 

 明石が、元の買取明細を基に作った確認表を2人の間へ置いた。

 

━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━

白金売却 精算明細

━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━

 

持込重量       4,812.6g

白金品位        81.65%

純白金換算重量    3,929.49g

精算単価       11,267円/g

 

白金評価額    44,273,564円

 

品位分析料      -33,000円

溶解・精製加工料   -144,378円

事務取扱料      -16,500円

振込手数料       -660円

──────────────────

実入金額     44,079,026円

 

 

税務計算

 

譲渡価額     44,273,564円

概算取得費    -2,213,678円

譲渡費用      -194,538円

──────────────────

白金譲渡益    41,865,348円

 

━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━

 

 持ち込んだ白金粒は4,812.6g。

 

 分析後の品位は81.65%で、純白金に換算すると3,929.49gだった。

 

「すべて白金だったわけではないのだな」

 

「はい。分析した品位に応じて精算されています」

 

 精算単価は1g当たり11,267円。

 

 評価額44,273,564円から各種費用が引かれ、銀行へ実際に入ったのは44,079,026円になる。

 

「こっちが、口座に入った金額ですね」

 

「そうです。下の41,865,348円は、税務上の譲渡益です」

 

「同じ白金なのに、数字が3つあります」

 

「評価額、実入金額、譲渡益です。使う場所が違います」

 

 取得時にいくら払ったかを円で証明できる資料はない。

 

 そのため、評価額の5%に当たる2,213,678円を概算取得費として差し引いていた。

 

「この取得費は、今、銀行から支払う金ではありません」

 

 澪は確認表の左側を上から下へ追い、最後の41,865,348円で止まった。

 

 約4,400万円なら、既に知っている数字だった。

 

 1円単位に近い形で並べられると、まったく別の物に見えた。

 

「次は、法人化前の金貨3回分です」

 

 明石が白金の確認表を残したまま、折れ跡のある古い明細を取り出した。

 

 

 

 飯島貴金属の古い明細には、3回分の入金が残っていた。

 

 第1回は532,560円。

 

 第2回は250,000円。

 

 第3回は239,100円。

 

──────────────────

金貨実入金合計   1,021,660円

 

税務上の金貨譲渡益  966,534円

 

 最初の532,560円を見ただけで、澪は当時の銀行残高を思い出せた。

 

 家賃を払える。

 

 食費も残る。

 

 あの頃は、それだけで大事件だった。

 

「ここから始まったのか」

 

 真壁が明細を見た。

 

「はい。その時は、本当に大金だったんです」

 

「今でも小さな額ではない」

 

 真壁は現在と比べて笑うのではなく、押入商会が始まった時の金として見ていた。

 

 3回分の評価額は、合計1,062,520円。

 

 分析と精錬、振込手数料に交通・雑費2,000円を加えた直接費用は42,860円になる。

 

 取得時の円での支出を証明できないため、評価額の5%に当たる53,126円を概算取得費として使っていた。

 

「概算取得費は、今回口座から出る金ではありません。所得の計算で差し引く額です」

 

 明石の説明を聞きながら、澪は実入金合計と譲渡益を見比べた。

 

 金貨3回分の譲渡益は966,534円。

 

 白金の41,865,348円と並べると小さく見えるが、この金がなければ今の押入商会も始まっていない。

 

 明石は金貨の明細を白金の確認表へ重ねた。

 

「これで、給与、金貨、白金がそろいました」

 

 次に出された紙には、篠原澪という名前が大きく印字されていた。

 

 

 

 明石が出したのは、2026年分の個人所得を1枚にまとめた確認表だった。

 

「上から順に確認してください」

 

 澪は言われたとおり、給与の欄から目を通した。

 

━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━

2026年分 篠原澪 個人所得確認

━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━

 

【給与】

 

役員報酬     4,800,000円

役員賞与     3,000,000円

──────────────────

給与収入     7,800,000円

 

給与所得控除   -1,880,000円

──────────────────

給与所得     5,920,000円

 

 

【貴金属】

 

金貨譲渡益     966,534円

白金譲渡益    41,865,348円

──────────────────

譲渡益合計    42,831,882円

 

特別控除      -500,000円

──────────────────

短期譲渡所得   42,331,882円

 

 

【所得合計】

 

給与所得     5,920,000円

短期譲渡所得   42,331,882円

──────────────────

合計所得     48,251,882円

 

社会保険料控除   -884,202円

──────────────────

課税所得     47,367,000円

 

 

【所得税】

 

所得税額     16,519,150円

復興特別所得税加算後

        16,866,000円

 

源泉徴収済額    -591,600円

──────────────────

 

追加納付額    16,274,400円

 

━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━

 

 給与所得5,920,000円までは、真壁と大きく違わない。

 

 その下へ、金貨と白金の譲渡益が加わっている。

 

 特別控除500,000円を差し引いた短期譲渡所得は42,331,882円。

 

 給与所得と合わせた合計所得は、48,251,882円になった。

 

「これ、私のですか?」

 

「篠原澪さん個人の、2026年の合計所得です」

 

 会社の売上でも、銀行残高でもない。

 

 澪個人の名前に結びついた所得だった。

 

 社会保険料884,202円を控除し、端数を処理した課税所得は47,367,000円。

 

「基礎控除はないんですか?」

 

「この所得額ですので、0円です」

 

 真壁の確認表にはあった控除が、澪の表にはなかった。

 

 そのまま下へ進み、所得税額16,519,150円を通る。

 

 復興特別所得税を加えた16,866,000円から、既に源泉徴収された591,600円を差し引く。

 

 最後の行で、澪の目が止まった。

 

 追加納付額、16,274,400円。

 

「いち、じゅう、ひゃく……」

 

「1,627万4,400円だ」

 

 真壁が途中で答えた。

 

「分かってます。確認してただけです」

 

 横に置かれた真壁の紙には、追加納付0円と書かれている。

 

 澪の紙には、16,274,400円。

 

 2枚の大きさは同じだった。

 

 

 

「資金は足ります」

 

 明石は、澪が聞き直す前に個人資金の確認表を出した。

 

━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━

澪 個人資金

━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━

 

確定申告前残高  40,065,174円

所得税追加納付 -16,274,400円

──────────────────

納付後残高    23,790,774円

 

今後の住民税見込

        約4,740,000円

 

━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━

 

「現在、自由資金として把握している個人残高が40,065,174円です」

 

 武刺大学2年から4年までの学費3,494,400円と、これまでの生活費2,219,760円は、その残高を出す前に反映されている。

 

 表を見てから、もう一度差し引く金ではなかった。

 

 澪はスマホで銀行アプリを開いた。

 

 表示された残高は、明石の表と一致している。

 

「ここから16,274,400円を払っても、23,790,774円残ります」

 

「大学にも生活にも支障はありません」

 

「払えます」

 

 澪は答えた。

 

 会社の請求書で1,600万円を見るのとは違う。

 

 書類の名義も、引き落とされる口座も、今回は篠原澪個人だった。

 

「1月に確認したとおり、納税用の資金を残していたのが効いています」

 

 最初に金貨を売った頃から、入ってきた金を全部は使わず、税金の分を先に残してきた。

 

 将来16,274,400円を納めるところまでは、当時の澪も想像していなかった。

 

 それでも、残してきた金は今のためにある。

 

 明石の確認を受けながら、電子申告と納付を進めた。

 

 画面上では、必要な項目を確かめ、決定するだけだった。

 

 澪は最後の確認画面を見た後、決定を押した。

 

 納付完了の表示が出る。

 

 銀行アプリへ戻ると、残高は23,790,774円になっていた。

 

 2,000万円以上残っている。

 

 困る金額ではない。

 

 ただし、先頭にあった4は、きれいになくなっていた。

 

 

 

 納付を確認すると、澪はようやくスマホを机へ置いた。

 

「これで終わりですね」

 

「所得税の申告と納付は終わりです」

 

 明石は申告書を閉じた。

 

 澪は、個人資金の確認表に残っている最後の2行へ目を落とした。

 

 今後の住民税見込、約4,740,000円。

 

「これ、まだ払ってませんよね」

 

「2027年6月以降です。正式な金額は、自治体からの通知で決まります」

 

「真壁さんにも住民税はありますよね?」

 

「あります。ただし、給与所得だけですから、篠原さんと同じ金額にはなりません」

 

「金貨と白金を売ったのは澪君だからな」

 

「分かってます」

 

 原因は、確認表の中央にまとまっていた。

 

「住民税の見込み分は、引き続き確保しておいてください」

 

 明石は約4,740,000円の行を指した。

 

「今後は、入ってきた金を何でも半分残す必要はありません。こちらで納税見込額を計算しますので、必要な額を分ける形に変えましょう」

 

「半分じゃなくていいんですか」

 

「必要以上に動かせない金を作ることもありません」

 

 税金が分からなかった頃は、半分残すという方法しかなかった。

 

 今は、払う時期と見込額を先に確認できる。

 

 澪は個人資金の確認表を、納付済みの申告書と一緒にクリアファイルへ入れた。

 

「会社の方も、これで終わりですか?」

 

「いいえ。合同会社押入商会の第1期決算と法人申告は別です」

 

 明石は机の端に残っている会社用のファイルを指した。

 

「今日は個人分だけです。法人の数字は混ぜません」

 

「まだそっちもあるんですね」

 

「ある」

 

 真壁の返事は短かった。

 

 澪は会社用のファイルを見た後、自分のクリアファイルへ視線を戻した。

 

 表から見える位置には、追加納付額16,274,400円がある。

 

 その後ろには、住民税約4,740,000円と書かれた紙が重なっていた。

 

 澪はどちらも落ちないよう、クリアファイルの奥へ押し込んだ。

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