少し前、2027年3月上旬のことだった。
明石税理士の事務所では暖房が動いていたが、窓の外にはまだ冬の冷たさが残っていた。
机の上には申告書の控えと源泉徴収票、社会保険の資料、それに貴金属の買取明細が並んでいる。
数千円の手数料が記された明細も、何千万円の取引が記された明細も、紙の大きさだけは同じだった。
澪は真壁と並んで、その紙の束を見た。
1月に一度、必要な資料はまとめている。その後に追加を求められた書類も、すべて提出した。
納税に備えて、個人で受け取った金の半分近くは残してある。
今日は足りない物を探す日ではない。
答えを聞いて、払う日だ。
「2026年分の計算が終わりました」
明石は厚い資料を広げず、確認に必要な数枚だけを2人の前へ置いた。
「先に聞いてもいいですか」
「資金は足ります」
澪が尋ね終える前に答えが返ってきた。
「納税しても、生活や学費に困る状態にはなりません」
「よかった……」
椅子の背へ預けかけた身体を、澪は戻した。
安心するのはまだ早い。
足りることと、惜しくないことは別だった。
「今回確認するのは、2人の個人所得です。合同会社押入商会の第1期決算と法人申告は、ここへ混ぜません」
「承知した」
真壁は資料の上から下へ視線を動かしている。
税額そのものより、どの数字がどこへ移ったかを見ているようだった。
「篠原さんは項目が多いので、先に真壁さんから確認しましょう」
明石が一番上の紙を入れ替えた。
中央に印字されていたのは、真壁久忠という名前と、7,000,000円という数字だった。
「真壁さんの役員報酬は、2026年8月分からです」
明石は支給記録を確かめると、1枚目の確認表を真壁の前へ置いた。
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2026年分 真壁久忠
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給与収入 7,000,000円
給与所得 5,200,000円
社会保険料 約841,200円
所得税・復興特別所得税
約324,700円
年末調整 処理済
今回の追加納付 0円
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月額800,000円を8月から12月までの5か月分。
通常報酬4,000,000円に年末賞与3,000,000円を加え、給与収入は7,000,000円になる。
澪は知っていた数字を、紙の上でもう一度見た。
月80万円と賞与300万円。
別々に聞けば、いつもの報酬である。
年間7,000,000円とまとめられると、急に立派な会社役員の数字に見えた。
「社会保険料は、これから払う額ではないのだな」
「はい。健康保険、介護保険、厚生年金として、給与と賞与から既に支払っています」
真壁は表の上から順に確認し、最後の行で指を止めた。
「追加納付は0円か」
「給与については源泉徴収し、年末調整まで済んでいます。給与以外の個人所得もありませんので、今回はこれで終わりです」
真壁は確認表を横へ置いた。
追加納付、0円。
澪はその数字を見て、少し安心した。
自分も月額は同じ800,000円で、賞与も同じ3,000,000円だった。
「では、篠原さんです」
明石が次の紙を取り出した。
「合同会社押入商会が成立したのは、2026年6月中旬です。ただし、篠原さんの役員報酬は7月分から支給を始めています」
設立した月の途中からではなく、翌月からの開始だった。
「6月分の支給はありません。給与も社会保険料も、7月開始でそろえています」
7月から12月までの6か月で、通常報酬は4,800,000円。
そこへ賞与3,000,000円を加え、給与収入は7,800,000円になる。
「ここまでは、真壁さんと似ていますね」
「似ているのは額面だけです」
明石が代表月の給与明細を横へ出した。
総支給800,000円の下には、健康保険約38,908円、厚生年金59,475円、子ども・子育て支援金約909円が並んでいる。
社会保険だけで、ひと月あたり約99,292円。
さらに源泉所得税が引かれ、銀行への振込額は60万円台になっていた。
「毎月、これだけ引かれていたんですか?」
「給与明細にも書いてあります」
「銀行に入った額は見てました」
「控除欄は?」
澪は明細へ目を戻した。
武刺大学では経済学部に通っている。
経済を学んでいることと、自分の給与明細を毎月読むことは、同じではなかった。
「賞与も、3,000,000円すべてが口座へ入ったわけではありません。社会保険料と所得税を引いた振込額は約210万円です」
「口座へ来るまでに、100万円近く減ってる……」
「どちらも支給時に納付済みです。確定申告で再び支払う金ではありません」
給与収入7,800,000円から給与所得控除1,880,000円を差し引き、給与所得は5,920,000円。
2026年に負担した社会保険料は884,202円だった。
「給与だけなら、真壁さんと大きくは変わりません」
「給与だけなら、です」
明石は給与明細を閉じた。
次に出てきた紙は、白金の買取明細だった。
白金の明細を置かれると、真壁は重量と品位から見た。
澪は先に金額を探した。
同じ紙でも、見る場所が違う。
「約4,400万円という金額には見覚えがあります」
「概算としては間違っていません。ただし、申告書を概算では作れません」
明石が、元の買取明細を基に作った確認表を2人の間へ置いた。
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白金売却 精算明細
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持込重量 4,812.6g
白金品位 81.65%
純白金換算重量 3,929.49g
精算単価 11,267円/g
白金評価額 44,273,564円
品位分析料 -33,000円
溶解・精製加工料 -144,378円
事務取扱料 -16,500円
振込手数料 -660円
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実入金額 44,079,026円
税務計算
譲渡価額 44,273,564円
概算取得費 -2,213,678円
譲渡費用 -194,538円
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白金譲渡益 41,865,348円
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持ち込んだ白金粒は4,812.6g。
分析後の品位は81.65%で、純白金に換算すると3,929.49gだった。
「すべて白金だったわけではないのだな」
「はい。分析した品位に応じて精算されています」
精算単価は1g当たり11,267円。
評価額44,273,564円から各種費用が引かれ、銀行へ実際に入ったのは44,079,026円になる。
「こっちが、口座に入った金額ですね」
「そうです。下の41,865,348円は、税務上の譲渡益です」
「同じ白金なのに、数字が3つあります」
「評価額、実入金額、譲渡益です。使う場所が違います」
取得時にいくら払ったかを円で証明できる資料はない。
そのため、評価額の5%に当たる2,213,678円を概算取得費として差し引いていた。
「この取得費は、今、銀行から支払う金ではありません」
澪は確認表の左側を上から下へ追い、最後の41,865,348円で止まった。
約4,400万円なら、既に知っている数字だった。
1円単位に近い形で並べられると、まったく別の物に見えた。
「次は、法人化前の金貨3回分です」
明石が白金の確認表を残したまま、折れ跡のある古い明細を取り出した。
飯島貴金属の古い明細には、3回分の入金が残っていた。
第1回は532,560円。
第2回は250,000円。
第3回は239,100円。
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金貨実入金合計 1,021,660円
税務上の金貨譲渡益 966,534円
最初の532,560円を見ただけで、澪は当時の銀行残高を思い出せた。
家賃を払える。
食費も残る。
あの頃は、それだけで大事件だった。
「ここから始まったのか」
真壁が明細を見た。
「はい。その時は、本当に大金だったんです」
「今でも小さな額ではない」
真壁は現在と比べて笑うのではなく、押入商会が始まった時の金として見ていた。
3回分の評価額は、合計1,062,520円。
分析と精錬、振込手数料に交通・雑費2,000円を加えた直接費用は42,860円になる。
取得時の円での支出を証明できないため、評価額の5%に当たる53,126円を概算取得費として使っていた。
「概算取得費は、今回口座から出る金ではありません。所得の計算で差し引く額です」
明石の説明を聞きながら、澪は実入金合計と譲渡益を見比べた。
金貨3回分の譲渡益は966,534円。
白金の41,865,348円と並べると小さく見えるが、この金がなければ今の押入商会も始まっていない。
明石は金貨の明細を白金の確認表へ重ねた。
「これで、給与、金貨、白金がそろいました」
次に出された紙には、篠原澪という名前が大きく印字されていた。
明石が出したのは、2026年分の個人所得を1枚にまとめた確認表だった。
「上から順に確認してください」
澪は言われたとおり、給与の欄から目を通した。
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2026年分 篠原澪 個人所得確認
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【給与】
役員報酬 4,800,000円
役員賞与 3,000,000円
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給与収入 7,800,000円
給与所得控除 -1,880,000円
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給与所得 5,920,000円
【貴金属】
金貨譲渡益 966,534円
白金譲渡益 41,865,348円
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譲渡益合計 42,831,882円
特別控除 -500,000円
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短期譲渡所得 42,331,882円
【所得合計】
給与所得 5,920,000円
短期譲渡所得 42,331,882円
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合計所得 48,251,882円
社会保険料控除 -884,202円
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課税所得 47,367,000円
【所得税】
所得税額 16,519,150円
復興特別所得税加算後
16,866,000円
源泉徴収済額 -591,600円
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追加納付額 16,274,400円
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給与所得5,920,000円までは、真壁と大きく違わない。
その下へ、金貨と白金の譲渡益が加わっている。
特別控除500,000円を差し引いた短期譲渡所得は42,331,882円。
給与所得と合わせた合計所得は、48,251,882円になった。
「これ、私のですか?」
「篠原澪さん個人の、2026年の合計所得です」
会社の売上でも、銀行残高でもない。
澪個人の名前に結びついた所得だった。
社会保険料884,202円を控除し、端数を処理した課税所得は47,367,000円。
「基礎控除はないんですか?」
「この所得額ですので、0円です」
真壁の確認表にはあった控除が、澪の表にはなかった。
そのまま下へ進み、所得税額16,519,150円を通る。
復興特別所得税を加えた16,866,000円から、既に源泉徴収された591,600円を差し引く。
最後の行で、澪の目が止まった。
追加納付額、16,274,400円。
「いち、じゅう、ひゃく……」
「1,627万4,400円だ」
真壁が途中で答えた。
「分かってます。確認してただけです」
横に置かれた真壁の紙には、追加納付0円と書かれている。
澪の紙には、16,274,400円。
2枚の大きさは同じだった。
「資金は足ります」
明石は、澪が聞き直す前に個人資金の確認表を出した。
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澪 個人資金
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確定申告前残高 40,065,174円
所得税追加納付 -16,274,400円
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納付後残高 23,790,774円
今後の住民税見込
約4,740,000円
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「現在、自由資金として把握している個人残高が40,065,174円です」
武刺大学2年から4年までの学費3,494,400円と、これまでの生活費2,219,760円は、その残高を出す前に反映されている。
表を見てから、もう一度差し引く金ではなかった。
澪はスマホで銀行アプリを開いた。
表示された残高は、明石の表と一致している。
「ここから16,274,400円を払っても、23,790,774円残ります」
「大学にも生活にも支障はありません」
「払えます」
澪は答えた。
会社の請求書で1,600万円を見るのとは違う。
書類の名義も、引き落とされる口座も、今回は篠原澪個人だった。
「1月に確認したとおり、納税用の資金を残していたのが効いています」
最初に金貨を売った頃から、入ってきた金を全部は使わず、税金の分を先に残してきた。
将来16,274,400円を納めるところまでは、当時の澪も想像していなかった。
それでも、残してきた金は今のためにある。
明石の確認を受けながら、電子申告と納付を進めた。
画面上では、必要な項目を確かめ、決定するだけだった。
澪は最後の確認画面を見た後、決定を押した。
納付完了の表示が出る。
銀行アプリへ戻ると、残高は23,790,774円になっていた。
2,000万円以上残っている。
困る金額ではない。
ただし、先頭にあった4は、きれいになくなっていた。
納付を確認すると、澪はようやくスマホを机へ置いた。
「これで終わりですね」
「所得税の申告と納付は終わりです」
明石は申告書を閉じた。
澪は、個人資金の確認表に残っている最後の2行へ目を落とした。
今後の住民税見込、約4,740,000円。
「これ、まだ払ってませんよね」
「2027年6月以降です。正式な金額は、自治体からの通知で決まります」
「真壁さんにも住民税はありますよね?」
「あります。ただし、給与所得だけですから、篠原さんと同じ金額にはなりません」
「金貨と白金を売ったのは澪君だからな」
「分かってます」
原因は、確認表の中央にまとまっていた。
「住民税の見込み分は、引き続き確保しておいてください」
明石は約4,740,000円の行を指した。
「今後は、入ってきた金を何でも半分残す必要はありません。こちらで納税見込額を計算しますので、必要な額を分ける形に変えましょう」
「半分じゃなくていいんですか」
「必要以上に動かせない金を作ることもありません」
税金が分からなかった頃は、半分残すという方法しかなかった。
今は、払う時期と見込額を先に確認できる。
澪は個人資金の確認表を、納付済みの申告書と一緒にクリアファイルへ入れた。
「会社の方も、これで終わりですか?」
「いいえ。合同会社押入商会の第1期決算と法人申告は別です」
明石は机の端に残っている会社用のファイルを指した。
「今日は個人分だけです。法人の数字は混ぜません」
「まだそっちもあるんですね」
「ある」
真壁の返事は短かった。
澪は会社用のファイルを見た後、自分のクリアファイルへ視線を戻した。
表から見える位置には、追加納付額16,274,400円がある。
その後ろには、住民税約4,740,000円と書かれた紙が重なっていた。
澪はどちらも落ちないよう、クリアファイルの奥へ押し込んだ。