「昨日の棚、やっぱりもう一段あった方がいいかもしれません」
仕事が一段落し、机の上を片づけていた理央が言った。
今日はゲンダイ側の新事務所で仕事をしている。
話題は、昨日、私物を運び込んだ異世界側の自分の部屋だった。
「もう埋まったんですか?」
「まだ埋まってません。けど、横に重ねると下の本が取りにくいんですよ」
理央は筆記具をケースへ戻しながら、棚の幅を手で示した。
「お祖母ちゃんの家には、まだマンガが結構残ってます」
理央は片づけていた手を止めずに続けた。
「全部持ってくるわけじゃないですけど、古いゲーム機も、動かすならケーブルを探さないと」
「まだ増えるんですね」
「少しだけです」
昨日、廊下の床を段ボール箱で狭くした本人が言う少しなので、あまり信用はできない。
理央にとっては、自分の部屋をどう使うかという話だった。
澪には、棚に並んだ一冊一冊が、昨日のヴァルトの姿と重なった。
表紙の傷へ指を置き、自分が机から落とした物だと告げたこと。
攻略本の数字を訂正したのも、自分だと認めたこと。
そして、理央には話してほしいと頼まれたこと。
「澪さん?」
理央が筆記具のケースを持ったまま、こちらを見ていた。
「聞いてますか?」
「ごめんなさい。棚の話ですよね」
「そうですけど。無理なら、先に本を減らします」
「棚は確認します。その前に――」
言葉が一度止まった。
伝えることは決めている。
決められていないのは、どこから話すかだった。
「理央ちゃん。この後、少し時間ありますか?」
「ありますけど」
理央はケースを机へ置いた。
事務所の奥では、紙をまとめる音がしている。椅子を机の下へ戻し、帰り支度を始めた人もいた。
「話したいことがあります」
「ここじゃ駄目ですか?」
理央は空いている部屋の方を見た。
扉を閉めれば、二人で話すことはできる。
けれど、これから話すのは会社の秘密ではない。理央の家族の話だった。
「向かいまで、付き合ってもらえますか」
「浅間神社ですか?」
「はい」
理央はすぐに上着を取ったが、袖へ腕を通す途中で澪を見る。
「私、何かしました?」
「していません」
「じゃあ、仕事の失敗とか?」
「それでもありません」
「なら、何の話ですか」
ここで答えれば、場所を移す意味がなくなる。
「理央ちゃんのことです。外で話します」
理央は納得していない顔をした。
それでも、先に事務所の扉へ向かった。
二人で新事務所を出ると、道路を走る車の音が近くなった。
信号を渡り、浅間神社の鳥居をくぐる。
道路から離れた分だけ、エンジン音が遠ざかった。
春先の風が、まだ葉のない枝を揺らしている。桜は咲いておらず、枝先の蕾だけが少し膨らんでいた。
澪は参拝者の邪魔にならない場所まで歩いた。
周囲に人がいないことを確かめると、理央が先に口を開く。
「私の話ですよね?」
「はい」
「仕事の話じゃないんですよね」
「違います」
「じゃあ、家のこと?」
そこまで分かっているなら、遠回りを続ける方が理央を不安にさせる。
「昨日、理央ちゃんから聞いた、おじさんのことで話があります」
「おじさん?」
「相原和彦さんのことです」
理央の表情から、叱られるのではないかという警戒が消えた。
代わりに、なぜ澪が伯父のことで自分を連れ出したのか、別の疑問が浮かぶ。
「何か分かったんですか?」
「はい」
ここから先は、順番を間違えたくなかった。
相原和彦という名前から始めれば、結論だけを理央へ投げつけることになる。
「ヴァルトさんは、転生した人なんです」
理央は何も言わなかった。
驚いて声が出ないというより、聞いた言葉の意味を確かめているようだった。
「転生って、本当に生まれ変わったって意味ですか?」
「はい」
「前の人の記憶もあるんですか?」
「あります」
「全部?」
「どこまでかは、私にも分かりません。でも、家族のことや、前にしていた仕事のことは覚えています」
理央は参道の先へ目を向けた。
異世界へ行き、神とも話し、スキルまで持っている。
生まれ変わりという話だけを、あり得ないと切り捨てられる立場ではない。
それでも、何度も会ったヴァルトに別の人生があったと言われれば、すぐには普段の顔と結び付かない。
「それと、おじさんに何の関係があるんですか?」
理央は先へ急いだ。
「ヴァルトさんは、前の人生をどこで生きてたんですか?」
「ゲンダイです」
「日本?」
「はい」
理央の目が澪へ戻る。
転生者という遠い話が、急に自分たちの側へ寄った。
「日本の人が、死んで、あっちでヴァルトさんに生まれ変わったんですか」
「そう聞いています」
「いつ死んだんですか?」
「2000年のお正月です」
理央の返事が止まった。
遠くで車が曲がり、タイヤの音が短く響く。
「会社員で、年越しの仕事に出ていた時期に亡くなったそうです」
「ちょっと待ってください」
今度は、理央が澪の言葉を止めた。
「母さんのお兄さんも、2000年のお正月です」
「はい」
「会社で倒れたって、聞いてます」
澪は続きを言わずに待った。
理央が、自分で二つの話を重ね始めている。
「日本人で、会社員で、2000年のお正月に死んだんですよね」
「はい」
「前の名前は?」
理央の声が硬くなった。
「何ていうんですか?」
澪は一呼吸置いた。
「相原和彦さんです」
「……え?」
理央は、目の前の澪を見たまま動かなかった。
「ヴァルトさんが?」
「はい」
「私のおじさんの、相原和彦?」
「そうです」
答えるたびに、理央の中で逃げ道が一つずつなくなっていく。
理央は澪から目を外した。
会ったことのない伯父は、祖母の家の仏壇にある写真と、残された部屋の中にいた。
ヴァルトは、火山へ一緒に行き、仕事の相談をし、普通に言葉を交わしてきた人だった。
顔も違う。
年齢も違う。
名前も、今は違う。
その二人を同じ人だと言われても、すぐ重なるはずがなかった。
「同じ名前ってだけじゃなくて?」
「相原和彦という名前を知ったのは、昨日です」
「昨日?」
「理央ちゃんから聞いた後、ヴァルトさん本人に確かめました」
「じゃあ、それまでは分からなかったんですか」
「名前は分かりませんでした」
澪は、そこで言葉を区切った。
「でも、妙子さんがヴァルトさんの前世の妹だということは、もっと前に分かっていました」
理央の眉が寄った。
「どうやって?」
「去年、彫金教室の忘年会で、みんなで写真を撮りましたよね」
「澪さんも写ってた写真?」
「はい。後で、ヴァルトさんにも見せたんです」
あの時は、妙子の写真を見せれば、元の世界で待っていた家族が誰なのか分かるかもしれないと思っただけだった。
まさか、自分が知っている相手へつながるとは考えていなかった。
「ヴァルトさんは、妙子さんを見て、最初に『母さん』と言いました」
「母さん?」
「今の妙子さんが、前世のお母さまに似ていたそうです。その後で、妙子さんだと分かりました」
「写真を見ただけで?」
「名前も伝えました。それに、妙子さんが話していた昔のことと、ヴァルトさんが覚えていたことも一致しました」
「昔のことって?」
「大晦日の日、成人式の着物を着た妙子さんを、おじさんが写真に撮ったことです」
理央はすぐに返事をしなかった。
その話を、妙子から聞いたことがあるのだろう。
「ヴァルトさんも覚えてたんですか」
「はい。2000年のお正月に、会社で亡くなったことも同じでした」
「それで、昨日名前まで同じだって分かった」
「はい」
理央は上着のポケットへ手を入れた。
春先の風は冷たい。
けれど、寒さだけでそうしたわけではないように見えた。
「昨日、ヴァルトさんもあの部屋を見たんですよね」
「見ました」
「それで、自分が相原和彦だって認めたんですか?」
「名前を聞く前から、棚にあった物を自分の物だと分かっていました」
理央が何かを言いかけた。
しかし、別の疑問へ先に気づいたらしい。
「待ってください」
視線が澪へ戻る。
「母が妹だって、もっと前に分かってたんですよね」
「はい」
「それ、いつの話ですか?」
「去年の暮れです」
「私のことは?」
「妙子さんに17歳の娘がいることも、その時に伝えました」
「その娘が私だって?」
「はい」
理央の質問の間が短くなった。
「じゃあ、ヴァルトさんは、私と初めて会った時には知ってたんですか?」
「知っていました」
「私が、ヴァルトさんの姪だって?」
「はい」
「澪さんも?」
「知っていました」
理央は足を止めた。
澪だけが半歩進み、振り返る。
さっきまで隣にいた理央との間に、砂利一枚分ではない距離ができた。
「何で言ってくれなかったんですか」
声は大きくない。
それでも、問い方ははっきり強くなっていた。
「最初に分かった時、理央ちゃんは異世界のことも、ヴァルトさんのことも知りませんでした」
「それは分かります」
理央はすぐ返した。
「でも、私、もうずっとこっちにも来てますよね」
「はい」
「ヴァルトさんとも何度も会ってます」
「はい」
「それでも言わなかった」
「言えませんでした」
理央の眉がさらに寄る。
「言わなかったんじゃなくて?」
「それも、そうです」
言葉を選んで、自分だけが安全な位置へ逃げるべきではなかった。
「これは、ヴァルトさんの前世のことです」
ヴァルトだけの秘密ではない。
「理央ちゃんと妙子さんの家族の話でもあります。私が勝手に話していいことではありませんでした」
「でも、私の話でもあります」
「はい」
そこは、理央の言う通りだった。
「理央ちゃんがこちらへ来るようになってからは、いつまで黙っていていいのか、私も迷っていました」
「昨日まで?」
「昨日までです」
「ヴァルトさんが駄目だって言ってたんですか?」
「駄目だとは言われていません。私も、本人へ話してよいか聞かないまま、理央ちゃんへ言うことはできませんでした」
「じゃあ、二人とも、決めないまま黙ってたんですか」
澪は、すぐに返事ができなかった。
そう言われれば、その通りだった。
「はい」
理央は砂利へ目を落とした。
靴の先に触れた小石が、横へ転がる。
「知ってたのに」
「はい」
「私だけ知らなかったんですね」
否定できなかった。
澪は何も足さず、理央が次に顔を上げるまで待った。
「火山の時も?」
理央の口から、別の時の話が出た。
「ドラコラプトルが火を吐いた時です」
「その時も、知っていました」
理央の目が、澪ではなく、もっと遠い場所を見る。
火山の乾いた熱気。
こちらへ向いたドラコラプトルの口。
吐き出された炎を収納で取り込もうとして、最初の動きが遅れた。
広げた靄の外へ、火炎の端が漏れた。
その後ろで、ヴァルトの結界が炎を受け止めた。
当時の理央は、自分が取りこぼした分を、仕事仲間に守られたのだと思っていた。
それは間違いではない。
ヴァルトなら、相手が理央でなくても結界を張っただろう。
けれど、あの時すでに、自分が姪だと知っていた。
その事実だけが加わり、同じ場面の見え方が変わる。
「あの時も、私が姪だって分かってたんですよね」
「はい」
「じゃあ……あの時、何を考えてたんですか」
澪は答えられなかった。
家族だから必死に守ったのか。
仕事仲間として当然のことをしただけなのか。
その両方だったのか。
どれも澪が決めてよい答えではない。
「それは、私には分かりません」
「聞いてないんですか?」
「聞いていません」
「最初に会った時は?」
「それも、ヴァルトさんにしか答えられません」
理央は口を閉じた。
初めて会った時も。
一緒に仕事をした時も。
火山で自分の後ろへ立っていた時も。
ヴァルトは何も言わず、いつも通り「理央君」と呼んでいた。
今度は、その呼び方まで前と同じには聞こえなくなっていた。
「昨日、あの部屋を見て、何か言ってましたか?」
しばらくして、理央が尋ねた。
「攻略本を手に取っていました」
「あの数字が直してある本?」
「はい。表紙の傷は、自分が机から落とした時に付けたものだと覚えていました」
「傷まで?」
「角から落ちて、表紙がずれたそうです。中の書き込みも、自分が直したものだと」
理央の口が少し開いた。
「あれ、ヴァルトさんが書いたんだ」
さっきまでの強い声ではなかった。
子どもの頃、攻略本に載っている数字を信じて、何度も同じところで失敗した。
印刷されている方が正しいと思い、横に書かれた訂正へ腹を立てた。
妙子へ見せると、それは伯父の字だと教えられた。
その字を書いた本人と、理央はすでに何度も話している。
「私、勝手にかなり読んでるんですけど」
「そうですね」
「マンガも。ゲームも、動くのはだいたいやりました」
「昨日、ヴァルトさんにも伝えました」
「今さら怒られますかね」
「そこは、本人に聞いてください」
理央は困ったような顔をした。
「聞くこと、増えてません?」
「増えましたね」
ほんの少しだけ、いつもの理央の話し方が戻った。
それでも、伯父の本とヴァルトは、もう別々の場所にはいなかった。
「おじさんの物、もっとあります」
「昨日も、そう言っていましたね」
「マンガも、ゲームも。持っていかなかった攻略本も、まだお祖母ちゃんの家にあります」
理央は一度言葉を切った。
「ヴァルトさん、自分の部屋が残ってることも知ったんですか?」
「はい」
「お祖母ちゃんが残してたって?」
「伝えました」
理央はまた歩き始めた。
澪も隣へ並ぶ。
「昨日、お祖父さまのことも伝えました」
「祖父のこと?」
「亡くなっていると」
理央が横を向いた。
「何て言ってました?」
「『父は、もういないのですね』と」
理央の足が遅くなった。
「いつ亡くなったか、聞かなかったんですか?」
「聞かれました。でも、私が知らなかったので答えられませんでした」
「母さんか、お祖母ちゃんに聞けば分かります」
「はい。でも、今はまだ聞けません」
「そうですよね」
理央にとって、祖父が亡くなったことは以前から変わらない事実だった。
ヴァルトにとっては、2000年に自分が死んだ時には生きていた父親だ。
27年の間に何があり、いつ亡くなったのかも知らない。
「その後で、ヴァルトさんから、お母さまのことを聞かれました」
「お祖母ちゃんの?」
「はい。今も元気なのか、と」
「元気です。今も母さんと一緒に会いに行ってます」
「そう伝えました」
理央は前を向いたまま黙った。
自分が会いに行く祖母。
ヴァルトが、まだ生きているのかと尋ねた母親。
同じ人だった。
「会いたいんですかね」
理央が言った。
「分かりません」
「聞かなかったんですか?」
「聞けませんでした」
「どうして?」
「会いたいかどうかと、会ってよいかどうかは、同じではないと思ったからです」
理央は黙って続きを待った。
「お祖母さまにとって、相原和彦さんは27年前に亡くなった息子です」
その息子は、今は顔も名前も違う。
「ヴァルトさんが会いたいと思っても、それだけで決められることではありません」
「でも、本人なんですよね」
「本人の記憶があります。でも、今はヴァルトさんとして生きています」
それがどこまで同じ人で、どこから別の人なのか。
澪にも、簡単な答えはなかった。
「だから、理央ちゃんへ話すことも、昨日まで待ちました」
「それで全部納得したわけじゃないです」
「はい」
「私には、もっと早く言ってほしかったです」
「はい」
澪は言い返さなかった。
理央がそう思ったことまで、説明で変える必要はない。
「昨日、ヴァルトさんから預かった言葉があります」
理央は歩くのをやめなかった。
「理央ちゃんには、事実を話してほしいと言っていました」
「それは、今聞きました」
「自分を伯父として受け入れるよう、求めないでほしいとも言われました」
そこで、理央が澪を見た。
「ヴァルトさんが、そう言ったんですか?」
「はい。理央ちゃんにとって自分は、これまで仕事で会ってきたヴァルトだから、急に伯父として振る舞うつもりはない、と」
「私に、おじさんって呼べとも言わない?」
「言いません」
理央の表情から、少しだけ力が抜けた。
血縁を知っていたことと、それを使って関係を変えようとしなかったことは、同じ沈黙の中にあった。
「母さんと、お祖母ちゃんには?」
「まだ話さないでほしいそうです。まず理央ちゃんに知ってもらって、その後のことは理央ちゃんの考えも聞きたいと」
「私が先なんですね」
「はい」
理央は鳥居の方へ向きを変えた。
道路へ近づくにつれ、車の音がまた大きくなる。
「母さんにも、お祖母ちゃんにも、まだ言わないでおきます」
「分かりました」
「でも、ヴァルトさんとは話したいです」
「予定を確認します」
「今日すぐじゃなくていいです」
理央は鳥居の手前で足を止めた。
「聞きたいこと、たくさんあるので」
「はい」
火山で結界を張った時、何を思っていたのか。
初めて姪と会った時、何を思ったのか。
残された部屋を見て、母親へ会いたいと思ったのか。
澪には、どれも答えられない。
理央も、それを分かったうえで新事務所の方を見た。
「何で黙ってたのか、本人に聞きます」