新事業所へ入ると、理央が共用机の前で待っていた。
鞄も上着も自分の部屋へ置いたらしいのに、仕事を始めた様子がない。
机には使い込まれたノートが開かれている。
ただし、書かれているのは小説の続きではなかった。
「澪さん、ちょっといいですか」
「はい?」
理央は困ったように自分の胸元を指した。
「収納とか、いろいろ変わっちゃったんですけど」
澪は足を止めた。
昨日、教会で自分の鑑定結果を見た時にも、同じようなことが起きている。
「変わったって、技能名がですか?」
「はい。朝、自分を鑑定したら、知らない名前が四つもあって」
「収納の中身は?」
「残ってました。出し入れもできます。でも、何もしてないのに変わるって、ちょっと怖くないですか?」
理央は昨夜まで、自分の収納を普通に使っていた。
朝になってみれば、技能の名前が変わり、レベルも1になっていたという。
中身が消えなかったからといって、気にせず仕事を始められる変化ではない。
「理央ちゃん、昨日はジョブを変えてませんよね」
「変えてません。教会では見てただけです」
それは澪も覚えている。
司祭様の前へ出たのは、真壁と澪だけだった。
理央は儀式を受けていない。
「見てもいいですか?」
「お願いします。私の鑑定でも同じように見えたので、たぶん見間違いじゃないです」
澪は理央へ鑑定を向けた。
----------------------------------
飯島 理央
分類:人間/異界渡航者
現在ジョブ:商人
レベル:9
前職:作家見習い Lv10
前々職:箱入り娘 Lv5
状態:良好
疲労度:5%
身体異常:なし
----------------------------------
基礎能力値
体力:61
筋力:44
器用:97
知力:101
判断:99
精神:90
集中:117
----------------------------------
未使用SP
19
----------------------------------
既得スキル
共鳴:2
鑑定:10
生体収納:1
錬金:4
並行思考:10
世界地図:1
関門接続:1
重力:6
雷:6
作文:10
彫金:7
順風満帆:1
商才:4
薬学:1
防衛用収納展開:4
射撃:5
火:1
収納内時間操作:2
統率個体識別:1
大量生産:3
収納内工程:3
醸造:芽あり(+)
医術:芽あり(+)
----------------------------------
加護
成長促進
見守り
----------------------------------
「レベル9……」
最初に目へ入った数字を、澪は思わず読んだ。
「そこも上がってたんですけど、今はこっちです」
「商人になってから、ずいぶん上がりましたね」
「仕事してただけなんですけど」
「商人の仕事ですから」
理央は納得しきれない顔をした。
特殊フローライトの生産に加わり、トルヴィアでは魚市場や加工場を回り、循環交易にも関わっている。
本人にとっては押入商会で頼まれた仕事でも、成長促進のある身にとってジョブにとっては十分な経験だったらしい。
理央がノートを澪の方へ向けた。
生体収納。
世界地図。
関門接続。
順風満帆。
四つの名前が、少し乱れた字で書き写されている。
どれもレベルは1だった。
澪は椅子を引き、理央の向かいへ座った。
「私も、もう一度見ます」
自分へ鑑定を向ける。
----------------------------------
篠原 澪
分類:人間/異界渡航者
現在ジョブ:貿易商
レベル:1
前職:行商人 Lv16
前々職:商人 Lv14
状態:良好
疲労度:6%
身体異常:なし
----------------------------------
基礎能力値
体力:66
筋力:49
器用:94
知力:109
判断:118
精神:116
集中:115
----------------------------------
未使用SP
42
----------------------------------
既得スキル
商才:7
鑑定:10
生体収納:1
錬金:7
薬学:1
並行思考:7
世界地図:1
順風満帆:1
防衛用収納展開:5
雷:10
射撃:4
火:1
収納内時間操作:3
収納内工程:5
収納内温度操作:5
統率個体識別:2
醸造:1
手仕事:7
彫金:4
重力:3
関門接続:1
大量生産:4
土木工事:5
建築:5
栽培知識:芽あり(+)
緑の手:芽あり(+)
医術:芽あり(+)
----------------------------------
加護
安息:5
----------------------------------
理央に現れた四つは、澪の表示にも並んでいる。
名前だけでなく、レベルまで揃っている。
「同じですよね」
「うん。四つとも同じです」
「でも、私、貿易商じゃないですよ」
「そこなんですよね……」
「それに、前に上げた技能が、全部1に戻ってます」
理央は四つの名前を順に指した。
元になった収納、地図、移動加速、転移は、どれも時間をかけて育ててきた技能だ。
「私も昨日、同じでした。上位技能になったせいで、レベルを上げ直すことになったみたいです」
「また1からですか」
「たぶん」
「うれしいのか、もったいないのか、分かんないです」
理央は生体収納の文字を見ながら、眉を寄せた。
強くなったはずなのに、昨日までできたことを同じようにできる保証はない。
手放しで喜べないのは澪も同じだった。
ジョブに伴う変化なら、商人の理央にまで起きる理由がない。
澪は理央の鑑定結果へ戻り、一番上にある技能を見た。
「共鳴、でしょうか」
理央も同じ文字を見るように視線を落とす。
「前にもありましたよね。澪さんに医術の芽が出たら、私にも出たの」
「ありました。あの時も、ほとんど間を置かずに」
今回は芽ではなく、澪の転職で変化した四つの技能が、そのまま理央にも発生している。
共鳴がどんな時に働くのかは、まだ分からない。
理央が共鳴の文字を指先でなぞった。
「これって、澪さんに何か起きるたび、私にも起きるんですか?」
「たぶん、おそらく共鳴が関係してる可能性は高いと思います。」
「それ、安心していいんですか?」
安心はできない。
ただし、今すぐ危険が迫っている表示もない。
澪は四つのうち、生体収納へ意識を向けた。
従来の収納機能に加え、生きている対象を収納できる。
対象には人間も含まれている。
昨日から、その表示を見るたびにヴァルトの顔が浮かぶ。
「やっぱり、これならヴァルトさんを……」
理央の反応も早かった。
「入れたまま、押し入れを通れる可能性はあるんですよね」
「うん」
ヴァルト自身は、江古田側へ通り抜けられない。
だが、澪の収納内に入れるなら、押し入れを越えるのは澪だけで済む。
理央の母親にも、まだ生きている祖母にも会わせられるかもしれない。
机の端へ置いた澪の指に、力が入った。
その気持ちを押さえたのは、表示された数字だった。
「でも、レベル1です」
「人間って、いきなり入れていい大きさじゃないですよね」
「絶対に駄目です」
前日に真壁から聞いた話もある。
アルヴェラの襲撃者は、意識を失わせ、仮死状態にしたうえで従来の収納へ入れていた。
生きたまま、意識を保った人間を安全に運んだ前例ではない。
まして、その方法をヴァルトへ使う気にはなれなかった。
「レベルが上がったら、入れられる生き物も大きくなるんでしょうか」
理央が尋ねた。
「ありそうです。収納も、レベルが上がるほど扱える量が増えましたから」
「だったら、小さい生き物から試せますよね」
「入るかどうかだけじゃなくて、出したあとも見ないと駄目です」
「生きたまま出せるか、ですよね」
「それと、弱ったりしてないかも」
理央は開いていたノートを引き寄せ、新しい頁へ日付を書いた。
小さな生物。
短時間。
すぐ元の場所へ戻す。
澪が口にした条件が、理央の字で並んでいく。
澪は頷きかけて、以前の試験を思い出した。
以前、トルヴィアの海水を収納した時、植物性プランクトンは入った。
動物性プランクトンと魚は、海水の中からきれいに取り残された。
同じ場所で同じものを対象にすれば、旧収納との差が分かる。
「トルヴィアへ行きましょう」
「海ですか?」
「前に入らなかった生き物が分かってます。比べるなら、あそこが一番です」
理央の表情が明るくなり、すぐに少し曇った。
「でも、関門接続は試さないんですよね」
「はい。何と何をつなぐ技能なのかも分かってませんから」
転移は関門接続へ変わっている。
澪も理央も、自力でトルヴィアへ移動する手段を今は使えない。
ちょうどその時、新事業所の入口で鍵の回る音がした。
入ってきた真壁は、机に並べられた二人分の鑑定結果を見て足を止める。
「朝から、ずいぶん増えたようだな」
「真壁さん。理央ちゃんにも、私と同じ技能が出てます」
澪が要点を話す間、真壁は口を挟まなかった。
理央が転職していないこと。
四つの上位技能が、すべてレベル1で現れたこと。
共鳴が関係しているかもしれないこと。
そして、生体収納をトルヴィアで試したいこと。
「旧収納で入らなかった生物を、同じ場所で対象にするのか」
「はい」
「比較はできるだろう」
真壁は理央の鑑定結果へ目を通し、生体収納の文字で指を止めた。
「私が二人を運ぼう。ただし、関門接続には触れない。生体も、すぐに戻せる場所で試す」
「分かりました」
「私もです」
理央は返事をしてから、ノートの四つの技能名を丸で囲んだ。
そのうち今日調べるのは、一つだけだ。
けれど、その一つには、対象として人間まで含まれている。
澪は急いで立ち上がらず、海で使う容器と記録道具を揃えた。
ヴァルトを江古田へ連れていきたいからこそ、最初の実験台にする気にはなれなかった。
共同商館側から異世界へ入り、真壁の転移でトルヴィアへ移動した。
港から離れた海岸には、まだ春の冷たい風が残っている。
波が崩れるたびに、湿った砂の上へ細かな泡が伸びた。
澪たちは漁の邪魔にならず、人もほとんど来ない岩場の手前で足を止めた。
理央は風に押される髪を耳へ掛け、持ってきたノートを板ばさみへ留めた。
真壁は潮の流れと足場を見て、二人が立つ位置を少しだけ陸側へ直す。
「採ったものは、この場で海へ戻す。持ち帰るのは記録だけだ」
「はい」
澪と理央の返事が重なった。
浅い容器を二つ置き、どちらが使ったものか分かるよう脇へ石を置く。
大がかりな設備はない。
必要なのは、入る前と出た後を見失わないことだった。
「前に試したのは、この辺りです」
澪が海面を指す。
以前に海水を調べた時も、一か所から大量に取らず、場所を変えながら少しずつ収納した。
今回も同じようにする。
澪は波打ち際へ近づき、足元を洗った海水の一部へ意識を向けた。
靄が、水面を薄く覆う。
海水が消え、すぐ次の波が窪みを埋めた。
収納内部を確かめる。
海水は、周囲の空気ごと一つの区画に収まっていた。
成分を探すと、以前にも入った植物性プランクトンが見つかる。
その隣に、前回はなかった分類が増えていた。
動物性プランクトン。
「入ってます」
澪はしゃがんだまま、振り返った。
「動物性の方もです」
「生きているか見よう」
真壁の言葉に頷き、採った海水を浅い容器へ戻す。
靄が消えると、透明な水の中に小さな動きが散った。
目で形を追える大きさではない。
それでも鑑定を向ければ、収納前と同じように生きていることは分かる。
澪は容器の水を海へ戻した。
「次、私がやっていいですか?」
「お願いします」
理央は澪が使った場所から少し離れ、寄せてきた波へ手を伸ばした。
海水へ触れたわけではない。
けれど、冷たさを想像したのか、指先がわずかに引っ込む。
「これくらいなら……」
靄が広がった。
澪が収納した時より狭い範囲から、海水が一塊だけ消える。
理央は目を閉じるようにして、収納内部へ意識を向けた。
「いました。植物性のと、動物性のも」
「出して、状態を見てください」
「はい」
海水は別の容器へ戻された。
鑑定で異常がないことを見てから、理央も海へ返す。
二人の生体収納は、同じところまで使えた。
レベル1で入ったのは、肉眼では形を追えないほど小さな生物だった。
澪は念のため、波間に見える小魚へ意識を向けた。
靄は周囲の海水を取り込んだものの、魚だけは海に残る。
取り残された小魚は身体をくねらせ、次の波が来ると沖へ逃げた。
「見える大きさになると、まだ入らないですね」
理央が結果を書き加える。
生体を対象にできるようになっても、何でも取り込めるわけではない。
場所を変え、対象にする水の量も変えながら、収納と放出を繰り返した。
一度入れた生物を何度も使わないよう、戻した場所からは離れる。
理央が次の海水を取り込んだところで、ふいに顔を上げた。
「上がりました」
「もう?」
「生体収納、レベル2です」
理央自身が一番驚いていた。
加護の《成長促進》がある以上、澪より早くても不思議ではない。
それにしても早い。
「澪さんは?」
「まだ1です」
「……待ちます?」
「先に試してください。私も続けますから」
理央は嬉しそうに頷き、すぐ海の方へ向き直った。
待つと言いながら、試してみたい気持ちは顔に残っている。
澪が手で先を促すと、理央はしらすほどの小魚を探し始めた。
少し沖では、透けるほど小さな魚の群れが波に揺られている。
しらすほどの大きさしかない。
旧収納なら、海水だけが消えて魚はその場へ取り残されたはずだ。
「あの魚を、周りの水ごと狙えますか?」
「やってみます」
理央は群れの端へ意識を絞った。
靄が海面を滑り、一部の海水が消える。
取り残された魚はいなかった。
「入りました」
収納内部では、小魚が海水の中を泳いでいる。
理央は声を弾ませたものの、長く入れたままにはしなかった。
すぐ同じ位置へ海水ごと戻す。
小魚は一瞬散り、また群れへ混ざっていった。
「泳いでます」
「直後の様子に異常はないようだな」
真壁も魚の動きを追っていた。
「長く入れた場合まで安全とは言えん。今は、出し入れできたところまでだ」
「はい」
理央はノートへ短く書き込む。
収納していた時間は長くない。
それでも、海水だけを保存できた旧収納とは、はっきり違っている。
次に見つけたのは、浅瀬の石の陰を動く小蟹だった。
甲羅は指の爪ほどしかない。
理央が海水と一緒に収納し、すぐ別の浅瀬へ戻すと、小蟹は脚を忙しく動かして石の下へ逃げ込んだ。
「魚だけじゃないんですね」
「生体収納ですから、種類より大きさなのかもしれません」
澪はそう答えながら、自分の技能を使い続けた。
海水だけではない。
理央が入れられた小魚と同じくらいの個体へ意識を向ける。
しかし、靄が持ち去ったのは周囲の海水だけだった。
小魚は水面から一瞬落ちかけ、すぐに次の波へさらわれる。
「私は、まだ駄目でした」
「レベルの差、分かりやすいですね」
理央は言ってから、少し申し訳なさそうな顔をした。
「すみません。私だけ先に上がって」
「謝るところじゃないです。それより、同じ魚で差が出たなら、レベルの影響はありそうです」
澪は場所を移し、また動物性プランクトンを含む海水を収納した。
戻す。
次の場所で、同じことを繰り返す。
やがて技能の感覚がわずかに広がり、生体収納がレベル2へ上がった。
「私も上がりました」
「じゃあ、さっきの魚、入りますか?」
理央の問いに、澪は別の小魚を探した。
同じくらいの大きさの個体を海水ごと対象にする。
靄が引いたあと、水面に魚だけが残ることはなかった。
収納内部を泳いでいる。
元の海へ戻すと、小魚は尾を振って岩陰へ消えた。
「入りました」
「やっぱり、レベルですね」
理央のノートには、レベル1とレベル2で入った生物が分けて記されていく。
レベル1では動物性プランクトンまで。
レベル2になると、しらすほどの小魚や小蟹まで入る。
もう少し大きな幼魚は、周囲の水だけが消えてその場に残った。
理央は入らなかった幼魚の長さを、指の幅と見比べてノートへ残す。
「センチで測った方がいいですよね」
「次からは定規を持ってきます」
「今日、持ってないんですか?」
「魚を測るところまでは考えてませんでした」
理央は自分の筆箱を開き、短い定規を取り出した。
「あります」
「何で持ってるんですか」
「線を引くので」
作家の鞄に定規が入っていることを、澪は忘れていた。
ただし、泳いでいる魚へ当てることはできない。
二人は結局、海面の近くへ定規をかざし、おおよその長さだけを記録した。
入る大きさと、入らない大きさが分かれ始めていた。
二人は同じ種類ばかりを追わず、場所を変えながら小さな生物を対象にした。
磯にいる小蟹。
細い幼魚。
波間を漂う小さな生物。
取り込んでは短時間で戻し、動きを見る。
理央がまた先に立ち止まった。
「レベル3になりました」
今度は澪も驚かなかった。
「本当に早いですね」
「3倍って、こういう時すごいです」
理央は嬉しそうだったが、勝手に次の魚へ手を出さず、真壁を見た。
「大きいの、試してもいいですか?」
「海へ戻せる位置から動かさずに行うならよい」
真壁は沖ではなく、浅瀬を指した。
そこには小型魚の成魚が一匹、岩の間を出入りしている。
ゲンダイの魚なら、アジと同じくらいの大きさだ。
理央は魚そのものではなく、その周囲の海水まで含めて意識を定めた。
靄が広がる。
魚は、海水と一緒に姿を消した。
「入りました!」
理央がすぐに戻すと、魚は身をひるがえし、沖へ向かって泳いでいった。
その速さに、弱った様子はない。
「レベル2では、あの大きさは入らなかったのに」
澪は自分の生体収納が上がるまで、さらに試行を続けた。
理央ほど早くはない。
それでも、それまで入らなかった小さな成魚を何度か対象にしたところで、技能がレベル3へ上がった。
同じ大きさの別の魚を選ぶ。
今度は海水だけでなく、魚も靄の中へ消えた。
収納内部を横切る魚の動きは速い。
狭いところへ閉じ込められたように暴れるのではなく、水の中で自分から向きを変えている。
収納内の海水には、外から見える容器も壁もない。
それでも一塊の水として保たれ、魚はその範囲から飛び出さなかった。
澪が海へ戻すと、何事もなかったように泳ぎ去った。
「上がるたびに、本当に大きくなってますね」
「はい。少なくともレベル3までは」
澪は断定する範囲を狭くした。
まだ三段階しか見ていない。
生物の種類や状態によって違う可能性もある。
それでも、大きさが一段ずつ増していることは否定しにくかった。
波の向こうを、細長い魚の群れが通り過ぎた。
背は青みがかり、腹側は白い。
まだ小さいが、成長すればかなり大きくなる魚だ。
「ペスリモンですね」
以前に市場で見た成魚は、もっと太く、長かった。
ゲンダイのブリを思わせる姿をしているが、同じ魚だと決められるものではない。
目の前を泳いでいるのは、その幼魚だった。
「あれも入るでしょうか」
「中型以上になる魚の幼体だ。レベル3の境目を見るにはよいだろう」
真壁は群れの端にいる一匹へ視線を向けた。
「澪君が試すといい。理央君は周囲を見てくれ」
「はい」
澪は一匹を追い、周囲の海水ごと範囲を決めた。
靄が魚影を包む。
海面に小さな窪みができ、波に埋まった。
収納内部には、海水がある。
その中を、ペスリモンの幼魚が泳いでいた。
「入りました」
澪はすぐに出さず、内部の動きを追った。
魚は急に止まることも、横倒しになることもない。
海中にいた時と同じように尾を振り、海水の中で向きを変えている。
短い時間だけ見てから、元の海へ戻した。
ペスリモンは一度身を震わせ、そのまま群れを追って泳いでいった。
澪は別の一匹を海水ごと収納し、今度は少し長く内部の様子を見ることにした。
「レベル3で、ペスリモンの子どもまでですね」
理央は自分のノートを見ながら言った。
「人間は、まだまだ先じゃないですか?」
動物性プランクトンから、しらす、小蟹、小型魚、ペスリモンの幼魚。
レベルが上がるたび、対象は確かに大きくなっている。
成人男性のヴァルトとは比べるまでもない。
「私も、そう思います」
澪は海を見たまま答えた。
「人間を安全に入れられるか試すのは、もっとレベルが上がってからにします」
「現段階で人間を対象にする理由はない」
真壁はそこで言葉を切り、海面へ視線を戻した。
理央は少し残念そうに、ノートへ「人間は保留」と書き加えた。
澪は、状態を見るために残していたペスリモンへ意識を向けた。
「まだ泳いでます」
「中で、どんな感じなんですか?」
「海にいた時と変わりません。端まで行ったら、向きを変えて戻ってきてます」
収納した海水の中を、ペスリモンの幼魚が泳いでいる。
海水の中で尾を振り、端まで来ると向きを変える。
数分経っているが、動きに目立った変化はない。
収納した物は、外から命令しなければ動かないと思っていた。
けれど、魚は違う。
尾を動かし、自分で進み、自分で向きを変えている。
「出さなくても、泳いでいられるんですね」
理央が澪の隣へ来て、しばらく考え込んだ。
「海水ごと入ってるんですよね」
「うん」
「だったら、すぐに出さなくてもいいんでしょうか」
澪は収納内部の魚を見た。
今は、周囲の海水に含まれていた空気だけで生きている。
長く置けば酸素が足りなくなる。
餌も必要になる。
どの程度の広さと水量が要るのかも分からない。
それでも、海水は収納できる。
空気を用意する方法もある。
餌も、手に入らないものではない。
「必要なものを揃えたら、ここで生かしておけるかもしれません」
「海から離れてもですか?」
「収納の中なら、運んでいる間も海水の中です」
理央は波打ち際と澪を見比べた。
それから、目を輝かせる。
「これ、生け簀にできるかも」