押し入れの向こうは異世界でした   作:Brooks

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第347話 終わらない育成計画

 

 昆虫ミールを混ぜた飼料を、ペスリモンは二度目から迷わず食べた。

 

 澪は自分の生け簀にいる10匹が食べ終えるまで待ち、残った粒を回収した。

 

 食欲、遊泳、排泄、体表。

 

 鑑定結果を上から追い、異常なしの表示を確かめてから、ようやく息を吐く。

 

「私の方は問題ありません」

 

「こっちも10匹、全員元気です」

 

 理央は自分の収納内を見たまま答えた。

 

 隣にいても、見えている水面は別々だ。

 

 澪には理央の魚が見えず、理央にも澪の魚は見えない。

 

 だから2人は、各自で確かめたことを言葉にして伝えるしかなかった。

 

「では、魚粉はこれ以上使わないこととしよう」

 

 真壁が作業表の魚粉欄に線を引いた。

 

「残量は?」

 

「49%です」

 

「私は51%」

 

 理央が少し得意そうに言った。

 

 澪は顔を上げた。

 

「勝ち負けではありませんよ」

 

「分かってますけど、数字で並ぶと2%勝ってます」

 

「何に勝ったんですか」

 

「節約?」

 

 疑問形になったところで、真壁が魚粉の容器を保管棚へ戻した。

 

「どちらも非常用として保存する」

 

 勝負は成立しなかったらしい。

 

 主飼料は、侯爵領で増やした虫を原料にした昆虫ミールへ切り替える。

 

 豆類由来のタンパク質と油脂、ミネラルを合わせ、魚粉は入れない。

 

 食べたというだけでは、まだ入口だった。

 

 成長し、健康を保ち、その先まで進めるのかを確かめなければならない。

 

「1日ずつ進める」

 

 真壁は新しい工程表を2人へ渡した。

 

「給餌、酸素供給、固形物の除去、換水、浄化、その後に鑑定だ」

 

 澪は工程を指で追った。

 

 魚の世話を30日分、手で繰り返した時の疲れが、妙に鮮明によみがえる。

 

「今度は最初から自動ですね」

 

「魚で学びましたから」

 

 理央が胸を張る。

 

「普通は最初に気づく」

 

 真壁が言った。

 

 理央の胸が、すぐ元の位置へ戻った。

 

「でも、最初の30日があったから工程を作れたんですよね?」

 

「そうだ」

 

「じゃあ学びました」

 

「普通に近づいただけだ」

 

「褒めるところ、そこまで削ります?」

 

 澪は笑いそうになり、慌てて自分の作業表へ目を落とした。

 

 真壁は真面目に答えている。

 

 そこがいちばん困る。

 

 澪と理央は、それぞれ自分の収納へ工程を設定した。

 

 1日分だけ時間を進める。

 

 澪の生け簀では給餌器が決めた量を落とし、魚が食べ終えたあとに底の固形物が集められた。

 

 酸素量が保たれ、古い海水の一部が抜かれ、同じ温度と塩分に整えた海水が補われる。

 

 最後に浄化が走った。

 

 工程が止まったのを確かめ、澪は10匹を鑑定する。

 

 異常なし。

 

「1日目、問題ありません」

 

「私もです」

 

「続ける」

 

 真壁の返事には、祝う気配が一切なかった。

 

 まだ1日だと分かっていても、もう少しくらい何かあってもいい気がする。

 

 澪がそう思った横で、理央が工程表の次の欄へ印を付けた。

 

「これ、何日続いたら褒めてもらえます?」

 

「結果が出た時だ」

 

「遠いなあ」

 

 2日目へ進める前から、理央の声だけが先に疲れていた。

 

 

 

 

 時間は、1日ずつ進めた。

 

 最初の数日は、毎回同じところで息を詰めた。

 

 飼料を食べるか。

 

 底に残りすぎていないか。

 

 泳ぎの鈍い個体はいないか。

 

 澪は自分の10匹を端から確かめ、結果を帳面へ書き込んだ。

 

 理央も自分の生け簀を見ながら、同じ項目を声に出して報告する。

 

「残餌、少し多いです」

 

「こちらも昨日より増えています」

 

「配合を変える」

 

 真壁は2人の報告を並べ、昆虫ミールの割合をわずかに下げた。

 

 次は脂質を調整し、その次は粒の大きさを変えた。

 

 食べ残しが減れば、今度は成長量を見る。

 

 成長が鈍れば配合を戻し、排泄物の状態が変われば一度止める。

 

 魚は帳面の都合に合わせてくれなかった。

 

「昨日うまくいったのに」

 

 理央が不満そうに言う。

 

「昨日の魚と今日の魚は、同じ大きさではありませんから」

 

「澪さん、魚の味方をしてません?」

 

「私は安全の味方です」

 

「言い方が強い」

 

 数日が10日になり、10日が数十日になった。

 

 2人の収納内では、外よりはるかに速く時間が積み重なっていく。

 

 それでも澪には、日数を飛ばしている感覚がなかった。

 

 1日進めるたび、必ず自分で止めて確認する。

 

 その繰り返しが、魚の体を少しずつ大きくしていた。

 

 10匹は1匹も欠けなかった。

 

 理央の方も同じだった。

 

 ある日の確認を終えた時、澪の視界に見慣れない表示が重なった。

 

 生体収納がLv5からLv6へ上がり、続けて浄化もLv5からLv6へ変わる。

 

 魚が何かの節目を迎えたからではない。

 

 長期間、生体を保ち、環境を整え続けた結果らしい。

 

「上がりました」

 

 澪は表示をもう一度見直した。

 

「生体収納と浄化、両方Lv6です」

 

「あ、私も」

 

 理央は自分の表示を追い、声を弾ませた。

 

「同じです。両方上がってます」

 

「継続使用の結果だろう」

 

 真壁がそれぞれの報告を記録する。

 

「魚が大人になったから、ではないんですね」

 

「技能は魚の成人式を待たない」

 

「言われてみればそうですけど」

 

 理央が笑い、澪もつられて頬を緩めた。

 

 技能が上がったことは嬉しい。

 

 20匹がそろって生きていることは、それ以上に嬉しかった。

 

 けれど、嬉しいと思った直後に、胸の奥が落ち着かなくなる。

 

 順調すぎる。

 

 前にも魚は順調に育った。

 

 その結果、魚粉が恐ろしい速さで減り、2人そろって残量表示を見つめることになった。

 

 順調という言葉を、もう無条件では喜べない。

 

 見落としている異常があるのではないか。

 

 収納内だけで現れる変化を、鑑定が拾えていないのではないか。

 

 澪は自分の10匹をもう一度鑑定した。

 

「また見てます?」

 

 理央に気づかれた。

 

「念のためです」

 

「さっき異常なしでしたよ」

 

「そのあと技能が上がりましたから」

 

「魚、疑われすぎじゃないですか?」

 

「疑っているわけでは……」

 

 言いながら、澪は異常なしの表示をもう一度読んだ。

 

 理央が真壁を見る。

 

「疑ってますよね?」

 

「確認は必要だ」

 

「真壁さんまで魚側に立ってくれない」

 

 魚側という立場がいつできたのだろう。

 

 澪が生け簀へ意識を戻すと、10匹は何も知らずに餌の時間を待っていた。

 

 

 

 

 さらに日数を重ねると、ペスリモンの体つきが変わった。

 

 幼さの残っていた輪郭が締まり、銀色の体は成魚らしい厚みを持ち始める。

 

 澪は給餌後の確認を終え、いつものように飼育状態を開いた。

 

 表示された項目が、昨日までとは違っていた。

 

----------------------------------

飼育状態

 成長段階:成熟期

 成熟個体:あり

 雄個体:あり

 雌個体:あり

 身体異常:なし

----------------------------------

 

 上から読み、もう一度下から読む。

 

 雄と雌の数までは表示されていない。

 

 それでも、自分の10匹の中に両方がいることは分かった。

 

「成熟期です」

 

 澪は顔を上げた。

 

「雄も雌もいます」

 

「待ってください、私も見ます」

 

 理央が自分の生け簀へ意識を向ける。

 

 少しして、その眉が上がった。

 

「こっちもです。成熟期、雄あり、雌あり」

 

「身体異常は?」

 

「なしです」

 

 真壁は2人の記録へ同じ印を付けた。

 

「無魚粉飼料で成熟まで到達した」

 

 澪は作業台の端に手を置いた。

 

 最初は、魚加工場でもらった端材を口にするかどうかで騒いでいた。

 

 次は虫を育て、その虫を粉にし、食べ残しの量に一喜一憂した。

 

 それが、もう成熟期である。

 

 素直に喜びたいのに、成熟という言葉が次の問題を連れてきた。

 

 澪が口を開くより早く、理央も同じ場所へたどり着いたらしい。

 

「次、繁殖ですよね」

 

「そうなる」

 

 真壁は即答した。

 

「ちょっとは間を置いてください」

 

「間を置いても魚は成熟している」

 

「魚に急かされてる……」

 

 理央が自分の収納内を見た。

 

「昨日まで子どもだった気がするのに」

 

「こちらの感覚では、そうですね」

 

 収納内では何十日も過ぎている。

 

 毎日確かめていたはずなのに、外で過ごした時間は短い。

 

 澪の気持ちだけが、成長へ追いついていなかった。

 

「成熟したなら、繁殖能力まで確認する必要がある」

 

「魚は待ってくれませんか?」

 

 理央が訊く。

 

「魚は待つという合意をしない」

 

「急に正論で殴られました」

 

 澪は笑ってしまった。

 

 笑ったあと、自分の10匹を見直す。

 

 20匹を成熟まで育てられた。

 

 それだけでも十分に大きな結果のはずだった。

 

 けれど、実験はまだ結果の途中にいる。

 

 

 

 

 繁殖試験に入る前に、3人は条件を決め直した。

 

 薬剤やホルモンは使わない。

 

 人為的に産卵を誘導する処置も行わない。

 

 水温、塩分、明暗の周期は、トルヴィア沿岸で観測した自然な範囲に収める。

 

 その環境で産卵し、受精卵が得られるかだけを見る。

 

 澪は条件を書き写しながら、最後の行を二重に囲んだ。

 

「受精卵が確認できたら、今度こそ終了です」

 

「その予定だ」

 

 真壁が答える。

 

「その予定、って言いました?」

 

 理央がすぐ拾った。

 

「言った」

 

「終了です、でいいじゃないですか」

 

「確認前に断定はできない」

 

 反論はできないが、澪には嫌な予感がした。

 

 以前にも、自分たちは何度か終わりを口にしている。

 

 そのたびに真壁が次の工程を見つけ、気づけば魚の餌にする虫まで育てていた。

 

「終わりの条件を、はっきりさせましょう」

 

 澪は帳面を真壁の方へ向けた。

 

「自然な条件で産卵し、受精卵が確認できたところで試験終了です」

 

「承知した」

 

「孵化は含みません」

 

「現時点では含めない」

 

「現時点」

 

 理央が呟いた。

 

 澪は今の言葉を聞かなかったことにしたかった。

 

 だが、聞かなかったことにして困るのは、たいてい後の自分である。

 

「真壁さん、前にも似た話をしましたよね」

 

「覚えている」

 

「覚えていて、これなんですね」

 

「前回より条件は明確だ」

 

 改善点として出されると、反論しにくい。

 

 理央が澪の帳面を覗き込み、二重線の外側へもう一本線を足した。

 

「これで三重です」

 

「線の数で拘束力は変わりませんよ」

 

「気持ちは強くなります」

 

 その気持ちだけは、澪にもよく分かった。

 

 2人はそれぞれ自分の生け簀へ、決めた範囲内で環境変化を設定した。

 

 明暗の周期を整え、水温をわずかに動かす。

 

 魚に無理をさせないよう、1日ずつ進めては止めた。

 

 澪は毎回、体調と行動を確かめる。

 

 理央の生け簀でも異常がないことは、本人の報告で確認した。

 

 あとは魚次第だった。

 

「産んだら終わり」

 

 理央が自分に言い聞かせる。

 

「受精卵を確認したら、です」

 

「澪さんまで条件を足す」

 

「最初から書いてあります」

 

 真壁だけが黙って次の記録欄を増やしていた。

 

 

 

 

 変化は、数日後に来た。

 

 澪の生け簀では、水面近くを漂う小さな粒が増えていた。

 

 餌でも排泄物でもない。

 

 動かした環境条件を止め、すぐに鑑定を開く。

 

----------------------------------

繁殖状態

 産卵確認

 浮遊卵多数

 受精卵確認

 未受精卵あり

----------------------------------

 

 受精卵確認。

 

 三重線で囲んだ終了条件が、きちんと満たされている。

 

 澪の肩から力が抜けた。

 

「産みました」

 

「私もです」

 

 理央の返事が重なる。

 

「浮遊卵多数、受精卵あり。未受精卵もあります」

 

「こちらも同じです」

 

 2人とも自分の表示を読んでいるだけなのに、示し合わせたような結果だった。

 

「多数って、何個なんでしょう」

 

 理央が表示を睨む。

 

「数えられないほど、では?」

 

「鑑定、逃げてません?」

 

 澪も自分の生け簀へ目を凝らした。

 

 小さな卵が海水の中を漂い、流れに沿って集まっては散っていく。

 

 数え始めれば、こちらが先に音を上げる数であることは間違いない。

 

「私も多数で済ませたいです」

 

「澪さんが逃げる側になった」

 

「必要な分だけ分離する」

 

 真壁は卵の数を数える競争に参加しなかった。

 

「受精卵を数千粒ほど、各自の孵化区画へ移したまえ」

 

「数千粒は必要な分なんですか?」

 

「孵化率を見るなら、少なすぎる数は避ける」

 

 理央は納得しかけ、ふと真壁を見た。

 

「誰も真壁さんの子だとは思ってませんよ」

 

 一瞬、部屋が静かになった。

 

 澪はゆっくり顔を向けた。

 

「理央ちゃん」

 

「違います、必要な分だけって言い方が、なんか養育費みたいで」

 

「理央ちゃん」

 

「すみません」

 

 真壁は表情を変えず、工程表へ孵化区画の項目を追加した。

 

「謝罪は受け取った。作業を続けよう」

 

 受け取るのだ。

 

 澪は笑わないよう唇を結び、自分の収納内へ新しい区画を作った。

 

 親魚の生け簀とは水を分け、水温と塩分を揃える。

 

 細かな網で卵を集め、受精しているものを選別する。

 

 取りすぎないよう注意しながら、数千粒ほどを孵化区画へ移した。

 

 理央も自分の収納で同じ作業を進めている。

 

「私、移し終わりました」

 

「こちらも終わりました」

 

 親魚は元の生け簀に残り、受精卵は2人の別々の孵化区画へ収まった。

 

 澪は卵の状態を鑑定する。

 

 発生は始まっている。

 

 異常はない。

 

 ここまでで試験終了。

 

 帳面に書けば、確かにそうなる。

 

「終わりましたね」

 

 澪は、今度こそ慎重に言った。

 

「ええ、終わりました」

 

 理央も頷いた。

 

 真壁は何も言わなかった。

 

 その沈黙が、いちばん信用できなかった。

 

 

 

 

 澪は終了条件の欄へ大きく印を付けた。

 

 自然な範囲の環境で産卵し、受精卵を確認した。

 

 昆虫ミールを主原料とする飼料で成熟し、繁殖もできた。

 

 十分な成果である。

 

 むしろ、十分すぎる。

 

「片づけに入りましょうか」

 

 澪が帳面を閉じかける。

 

「はい」

 

 理央も嬉しそうに返した。

 

「その卵は孵化するのか?」

 

 真壁が訊いた。

 

 帳面は閉じきらなかった。

 

 澪は表紙に手を置いたまま、真壁を見る。

 

「受精しています」

 

「受精していても、正常に孵化するとは限らない」

 

「それは、そうですけど」

 

「孵化区画まで作りましたよね」

 

 理央が言った。

 

「作ったな」

 

「作ったなら、見るだけですよね」

 

 自分から言ったあとで、理央が口を押さえた。

 

「今のなしです」

 

「聞こえているよ」

 

「真壁さんが言わせたんですよ」

 

「私は質問しただけだ」

 

 澪は閉じかけた帳面を開いた。

 

 見るだけ。

 

 収納内の時間を進めて、孵化するか確かめるだけなら、それほど長くはかからない。

 

 そう考えた瞬間、前にも同じような理屈で工程が増えたことを思い出した。

 

「孵化を確認したら、本当に終わりです」

 

「異常なく孵化したと確認できれば、試験項目は一つ埋まる」

 

「終わりとは言ってませんね」

 

「言っていない」

 

 理央が天井を見上げた。

 

「正直すぎる」

 

 澪は孵化区画の条件を確認した。

 

 受精卵はすでに発生を進めている。

 

 今ここで放置する選択はない。

 

 自分たちが分けた卵である。

 

 責任まで孵化前で止めるわけにはいかなかった。

 

「確認しましょう」

 

「ですよね」

 

 理央の返事は諦めに近い。

 

「ただし、孵化までです」

 

「帳面に書きます?」

 

「今度は四重線にします」

 

「線では変わらないと仰ったのでは?」

 

 真壁の指摘は正確だった。

 

「気持ちは強くなります」

 

 澪は理央の言葉を借り、孵化確認の欄を四角く囲んだ。

 

 

 

 

 澪と理央は、それぞれの孵化区画だけ時間を進めた。

 

 親魚の区画とは分けたまま、海水の状態を保つ。

 

 卵の発生を確かめ、異常があれば止められるよう、短い間隔で区切った。

 

 澪の孵化区画では、透明に近かった卵の中へ少しずつ形が現れた。

 

 目に見える変化があるたび、胸の奥が落ち着かない。

 

 無事に生まれてほしいとは思う。

 

 同時に、生まれたあとの世話まで考えてしまい、手放しでは喜べなかった。

 

「動いてます」

 

 理央が自分の区画を見て言った。

 

「卵の中で、尾みたいなのが」

 

「こちらもです」

 

 澪は返事をしながら、自分の卵だけを見つめた。

 

 次の時間経過を終えた時、海水の中に小さな影が増えた。

 

 卵膜を破り、細い体が頼りなく泳いでいる。

 

 澪はすぐに鑑定を開いた。

 

----------------------------------

孵化状態

 孵化確認

 仔魚多数

 身体異常なし

 卵黄あり

----------------------------------

 

「孵化しました」

 

 声にすると、思っていた以上に嬉しかった。

 

「こっちもです。すごい、小さい」

 

 理央の声も明るい。

 

「身体異常なし。卵黄ありです」

 

「私の方も同じです」

 

 孵化しなかった卵もある。

 

 それでも、海水の中には数え切れないほどの仔魚がいた。

 

 自分の10匹から始まった命が、細い尾を動かしている。

 

 澪はしばらく見入ってから、はっとして帳面を開いた。

 

「これで孵化確認も終わりです」

 

「終わりました」

 

 理央が間髪入れずに言う。

 

「卵黄はいつまで持つ?」

 

 真壁が訊いた。

 

 2人の返事が止まった。

 

 澪は鑑定の最後の行を見る。

 

 卵黄あり。

 

 つまり、今はそれを栄養にしている。

 

 なくなったあとは、自分で食べなければならない。

 

「今、聞きます?」

 

 理央が弱々しく言った。

 

「今でなければ遅い」

 

「正しいのが腹立つ……」

 

「理央ちゃん」

 

「小声です」

 

 澪は仔魚を見た。

 

 生まれたばかりの口は小さく、親魚用の飼料を砕いただけでは食べられそうにない。

 

 浮いている粒へ追いつく力も、まだほとんどない。

 

「仔魚用の餌が必要ですね」

 

 認めると、また一つ工程が増えた。

 

 理央が自分の孵化区画を見つめる。

 

「この魚たち、空気を読んで卵黄を長持ちさせたりしません?」

 

「魚は空気ではなく海水の中にいる」

 

 真壁が答えた。

 

「そういう意味じゃないです」

 

 澪はとうとう吹き出した。

 

 仔魚は何も知らず、残った卵黄で泳いでいた。

 

 

 

 

 仔魚の口に入る大きさで、水中を動き、生きたまま与えられる餌。

 

 候補は、トルヴィア沿岸の海水にいる小型の動物プランクトンだった。

 

 親魚用の無魚粉飼料を細かくする案も試したが、粒は仔魚の口に合わず、反応も鈍い。

 

 卵黄が残っているうちに、次の餌へつなぐ必要がある。

 

 3人は侯爵領事業所で必要な容器と細かな網を準備し、真壁の移送でトルヴィアへ向かった。

 

 海岸へ出ると、潮の匂いと波の音が一度に戻ってくる。

 

 ペスリモンを最初に得た海だった。

 

「また来ましたね」

 

 理央が水際を見た。

 

「魚を返しに、なら良かったんですけど」

 

「その前に餌ですね」

 

 澪は容器を持って浅瀬へ入った。

 

 目に見える大きな生物は避け、海水ごと少量ずつ採取する。

 

 鑑定で種類と大きさを確かめ、人や魚に有害なものを除く。

 

 細かな網を何段階か通し、仔魚の口に入る範囲だけを残した。

 

 理央も少し離れた場所で自分の分を採っている。

 

「これ、小さすぎて採れた感じがしません」

 

「鑑定では入っていますか?」

 

「入ってます。見えないだけで、かなり」

 

「なら十分です」

 

「多数ですか?」

 

「数えませんよ」

 

「澪さんも完全に逃げる側だ」

 

 必要量だけを採り、2人はそれぞれ自分の収納へ取り込んだ。

 

 澪は自分の孵化区画へ、ごく少量の動物プランクトンを入れる。

 

 理央も自分の区画で同じことをした。

 

 澪の仔魚は、すぐには反応しなかった。

 

 弱い水流に押されながら、小さな体が散っている。

 

 そのうちの1匹が、目の前を動いた餌へ向きを変えた。

 

 口が開き、プランクトンが消える。

 

 別の個体も続いた。

 

「食べました」

 

 澪は自分の結果だけを伝えた。

 

「私の方も、今食べました」

 

 理央の声が弾む。

 

「ちゃんと追ってます。あ、また」

 

 澪は与えすぎないところで供給を止め、食べ残しと仔魚の状態を鑑定した。

 

 摂餌確認。

 

 身体異常なし。

 

 自分で食べた。

 

 安心が胸へ広がった次の瞬間、その先が頭に浮かんだ。

 

 餌を食べれば育つ。

 

 育てば餌の種類と量が変わる。

 

 稚魚になり、若魚になり、また成魚になる。

 

「卵から孵って、餌を食べて、それで大きくなって……」

 

 理央が指を折る。

 

「また成熟して、産卵しますよね」

 

「しますね」

 

「増えた魚の餌にする虫も増やしますよね」

 

「必要になります」

 

「虫の餌も増やしますよね」

 

 2人で黙った。

 

 育成計画の先に、育成計画が並んでいる。

 

 魚を一世代育てれば終わると思っていた。

 

 命は工程表の最後で止まらず、勝手に次の行を作っていく。

 

 澪は自分の仔魚を見た。

 

 可愛いと思う。

 

 無事に食べてくれて嬉しい。

 

 だからこそ、このまま収納内で数を増やし続けるわけにはいかなかった。

 

「放流しましょう」

 

 澪は言った。

 

「この海へ返します」

 

「賛成です」

 

 理央の返事は、今回いちばん早かった。

 

 真壁が海と2人を見比べる。

 

「自力で継続摂餌できるところまでは育てる必要がある」

 

「そこまではやります」

 

 澪は頷いた。

 

「でも、その先の一生は海にお願いします」

 

 波が足元で砕けた。

 

 海は返事をしなかったが、少なくとも新しい工程表は出してこなかった。

 

 

 

 

 侯爵領事業所へ戻る前に、3人は海岸で試験結果を整理した。

 

 澪は風にめくられないよう帳面の端を押さえる。

 

「生体収納内で、海水生物を長期間飼育できました」

 

 最初の項目へ印を付ける。

 

「収納内時間を進めても、給餌と環境維持を自動化できた」

 

「魚も成長しました」

 

 理央が横から付け足す。

 

「世界を越えて移送しても、生存に問題はなかった」

 

 侯爵領とトルヴィアの間を移し、必要な時には押入れを経てゲンダイ側でも確認した。

 

 それぞれの収納から出さない限り、10匹ずつの群れは保たれた。

 

「魚粉を使わない飼料で成熟した」

 

「自然な条件で産卵して、受精卵もできた」

 

「孵化して、仔魚が餌を食べた」

 

 理央が最後まで言い切り、澪の帳面を覗いた。

 

「これ、もう合格ですよね?」

 

「試験としては十分です」

 

 澪は全項目に印が付いたことを確かめた。

 

 できるかどうかは、分かった。

 

 だが、できることと、事業にすることは同じではない。

 

 何千、何万の魚を収納内で育て続けるなら、担当者が必要になる。

 

 飼料用の虫を増やし、その餌を確保し、海水を整え、病気と繁殖を管理しなければならない。

 

 澪と理央が片手間で続けていい規模ではなかった。

 

「養殖事業を始めるかどうかは、別に考えます」

 

「始めない、でいいと思います」

 

 理央が即答した。

 

「判断が早いですね」

 

「卵の『多数』を見ましたから」

 

「私もです」

 

 もし事業化するなら、現地の漁業や価格への影響も調べる必要がある。

 

 収納が便利だからという理由だけで、大量の魚を市場へ流すわけにはいかない。

 

「今回は、可能性の確認で止めます」

 

 澪は帳面を閉じた。

 

「異論はありません」

 

 理央が胸を撫で下ろす。

 

「放流までの工程を決める」

 

 真壁が言った。

 

 理央の手が止まった。

 

「その顔、次がありますよね」

 

「放す前に死亡させてはならない」

 

「正しいですけど、顔がもう工程表なんですよ」

 

 真壁の顔から工程表を読み取れるようになったのは、成長と呼んでいいのだろうか。

 

 澪には判断できなかった。

 

「最低限、自力で餌を食べられる状態まで育てます」

 

「親魚も放流前に再確認する」

 

「分かりました」

 

 今度こそ最後の工程だった。

 

 澪はそう信じる代わりに、最後という言葉を帳面へ書かないことにした。

 

 

 

 

 放流前の最低限の飼育も、トルヴィア沿岸に残ったまま続けた。

 

 動物プランクトンを切らさず、食べ残しを除き、海水の状態を保つ。

 

 収納内の時間は短く区切り、口と体の成長に合わせて餌の大きさを変えた。

 

 収納の外では、海の様子がほとんど変わらないうちに必要な日数を重ねられる。

 

 卵黄は消えた。

 

 それでも仔魚は自分で餌を追い、食べ続けた。

 

 弱々しかった体に魚らしい輪郭が現れ、稚魚と呼べる大きさになる。

 

 澪はそこで時間を止めた。

 

 育てようと思えば、まだ育てられる。

 

 だが、それを始めれば、また次の節目まで見届けたくなる。

 

 ここで手を離すと決めたのは、魚をどうでもいいと思ったからではない。

 

 自分の手の中へ置き続けるより、生まれるはずだった海へ返す方がいいと考えたからだった。

 

 採取した場所と同じ海域で、水温と塩分を確かめる。

 

 澪は放流前に、自分の収納内を順に鑑定した。

 

 親魚10匹、身体異常なし。

 

 活動状態、正常。

 

 稚魚、身体異常なし。

 

 自力摂餌、可能。

 

「こちらは放せます」

 

「私の方も、親魚と稚魚、どちらも異常なしです」

 

 理央も自分の結果を伝えた。

 

 2人は波の穏やかな入り江を選び、それぞれ別の位置に立った。

 

 まず、澪が自分の海水ごと親魚を出す。

 

 銀色の10匹は一度まとまり、すぐに海の色へ紛れた。

 

 続けて稚魚を放す。

 

 小さな影の群れが、浅い水の中で向きを変えた。

 

 理央の方でも、別の群れが海へ広がっていく。

 

 最初は合計20匹だった。

 

 鰓が動いているか、尾に傷がないか、1匹ずつ確かめていた。

 

 それが今は、目で数えることを諦めるほど増えている。

 

 無事に育ったことが嬉しい。

 

 増えすぎたことには、まだ少し困っている。

 

 澪の中で、その2つはきれいに分かれてくれなかった。

 

「行きましたね」

 

 理央が海を見つめた。

 

「行きましたね」

 

 澪は今度だけ、同じ言葉を返した。

 

 魚影が見えなくなるまで待ち、収納内を確認する。

 

 生け簀も孵化区画も空になっていた。

 

 長く聞いていた水音が消え、急に広く感じる。

 

「終わりました」

 

 理央が慎重に言った。

 

「終わりましたね」

 

 澪も海を見たまま答えた。

 

「もう卵もいません」

 

「仔魚もいません」

 

「虫はいますけど」

 

 理央の一言で、澪の表情が止まった。

 

 魚の餌用に育てた虫は、それぞれの収納内に残っている。

 

「……虫は、残渣処理の試験に使えます」

 

「やっぱり次があるじゃないですか」

 

「魚の続きではありません」

 

「育成計画の親戚です」

 

 真壁が空になった生け簀の報告を聞き、海へ視線を戻した。

 

「カブトムシを育てる小学生のようだったな」

 

「どこがですか」

 

 澪と理央の声が重なった。

 

 真壁は少し考えた。

 

「始める時より、終える時の方が増えている」

 

「カブトムシは海へ放しません」

 

 理央がすぐ返す。

 

「そこではありません」

 

 澪は額へ手を当てた。

 

 だが、言いたいことは分かってしまった。

 

 幼虫を数匹もらい、世話をして、卵が増え、翌年には容器が増えている。

 

 魚でも、だいたい同じことが起きた。

 

「少なくとも、夏休みの宿題より長かったです」

 

 理央が言う。

 

「自由研究なら、評価は高い」

 

「真壁さん、今それで褒めたつもりですか?」

 

「結果は出ている」

 

 理央が澪を見る。

 

「やっと褒められました」

 

「普通に近づいた、ではありませんでしたね」

 

 2人で笑うと、波打ち際から小さな魚影がひとつ跳ねた。

 

 それが放したペスリモンだったのかは、もう分からなかった。

 

 

 

 

 それから数年、トルヴィア沿岸では、ペスリモンが妙によく網へ入る年が続いた。

 

 漁師たちは海流が良かったのだと言い、魚加工場は仕入れが安定したと喜んだ。

 

 放流した親魚と稚魚が増えたのかもしれない。

 

 生体収納内で長期間、遊離魔素に触れたことが何か影響した可能性もあった。

 

 あるいは、ただ海の条件が重なっただけかもしれない。

 

 原因が確かめられることはなく、ペスリモンは毎年、理由を説明せずに網の中で銀色に光った。

 

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