昆虫ミールを混ぜた飼料を、ペスリモンは二度目から迷わず食べた。
澪は自分の生け簀にいる10匹が食べ終えるまで待ち、残った粒を回収した。
食欲、遊泳、排泄、体表。
鑑定結果を上から追い、異常なしの表示を確かめてから、ようやく息を吐く。
「私の方は問題ありません」
「こっちも10匹、全員元気です」
理央は自分の収納内を見たまま答えた。
隣にいても、見えている水面は別々だ。
澪には理央の魚が見えず、理央にも澪の魚は見えない。
だから2人は、各自で確かめたことを言葉にして伝えるしかなかった。
「では、魚粉はこれ以上使わないこととしよう」
真壁が作業表の魚粉欄に線を引いた。
「残量は?」
「49%です」
「私は51%」
理央が少し得意そうに言った。
澪は顔を上げた。
「勝ち負けではありませんよ」
「分かってますけど、数字で並ぶと2%勝ってます」
「何に勝ったんですか」
「節約?」
疑問形になったところで、真壁が魚粉の容器を保管棚へ戻した。
「どちらも非常用として保存する」
勝負は成立しなかったらしい。
主飼料は、侯爵領で増やした虫を原料にした昆虫ミールへ切り替える。
豆類由来のタンパク質と油脂、ミネラルを合わせ、魚粉は入れない。
食べたというだけでは、まだ入口だった。
成長し、健康を保ち、その先まで進めるのかを確かめなければならない。
「1日ずつ進める」
真壁は新しい工程表を2人へ渡した。
「給餌、酸素供給、固形物の除去、換水、浄化、その後に鑑定だ」
澪は工程を指で追った。
魚の世話を30日分、手で繰り返した時の疲れが、妙に鮮明によみがえる。
「今度は最初から自動ですね」
「魚で学びましたから」
理央が胸を張る。
「普通は最初に気づく」
真壁が言った。
理央の胸が、すぐ元の位置へ戻った。
「でも、最初の30日があったから工程を作れたんですよね?」
「そうだ」
「じゃあ学びました」
「普通に近づいただけだ」
「褒めるところ、そこまで削ります?」
澪は笑いそうになり、慌てて自分の作業表へ目を落とした。
真壁は真面目に答えている。
そこがいちばん困る。
澪と理央は、それぞれ自分の収納へ工程を設定した。
1日分だけ時間を進める。
澪の生け簀では給餌器が決めた量を落とし、魚が食べ終えたあとに底の固形物が集められた。
酸素量が保たれ、古い海水の一部が抜かれ、同じ温度と塩分に整えた海水が補われる。
最後に浄化が走った。
工程が止まったのを確かめ、澪は10匹を鑑定する。
異常なし。
「1日目、問題ありません」
「私もです」
「続ける」
真壁の返事には、祝う気配が一切なかった。
まだ1日だと分かっていても、もう少しくらい何かあってもいい気がする。
澪がそう思った横で、理央が工程表の次の欄へ印を付けた。
「これ、何日続いたら褒めてもらえます?」
「結果が出た時だ」
「遠いなあ」
2日目へ進める前から、理央の声だけが先に疲れていた。
時間は、1日ずつ進めた。
最初の数日は、毎回同じところで息を詰めた。
飼料を食べるか。
底に残りすぎていないか。
泳ぎの鈍い個体はいないか。
澪は自分の10匹を端から確かめ、結果を帳面へ書き込んだ。
理央も自分の生け簀を見ながら、同じ項目を声に出して報告する。
「残餌、少し多いです」
「こちらも昨日より増えています」
「配合を変える」
真壁は2人の報告を並べ、昆虫ミールの割合をわずかに下げた。
次は脂質を調整し、その次は粒の大きさを変えた。
食べ残しが減れば、今度は成長量を見る。
成長が鈍れば配合を戻し、排泄物の状態が変われば一度止める。
魚は帳面の都合に合わせてくれなかった。
「昨日うまくいったのに」
理央が不満そうに言う。
「昨日の魚と今日の魚は、同じ大きさではありませんから」
「澪さん、魚の味方をしてません?」
「私は安全の味方です」
「言い方が強い」
数日が10日になり、10日が数十日になった。
2人の収納内では、外よりはるかに速く時間が積み重なっていく。
それでも澪には、日数を飛ばしている感覚がなかった。
1日進めるたび、必ず自分で止めて確認する。
その繰り返しが、魚の体を少しずつ大きくしていた。
10匹は1匹も欠けなかった。
理央の方も同じだった。
ある日の確認を終えた時、澪の視界に見慣れない表示が重なった。
生体収納がLv5からLv6へ上がり、続けて浄化もLv5からLv6へ変わる。
魚が何かの節目を迎えたからではない。
長期間、生体を保ち、環境を整え続けた結果らしい。
「上がりました」
澪は表示をもう一度見直した。
「生体収納と浄化、両方Lv6です」
「あ、私も」
理央は自分の表示を追い、声を弾ませた。
「同じです。両方上がってます」
「継続使用の結果だろう」
真壁がそれぞれの報告を記録する。
「魚が大人になったから、ではないんですね」
「技能は魚の成人式を待たない」
「言われてみればそうですけど」
理央が笑い、澪もつられて頬を緩めた。
技能が上がったことは嬉しい。
20匹がそろって生きていることは、それ以上に嬉しかった。
けれど、嬉しいと思った直後に、胸の奥が落ち着かなくなる。
順調すぎる。
前にも魚は順調に育った。
その結果、魚粉が恐ろしい速さで減り、2人そろって残量表示を見つめることになった。
順調という言葉を、もう無条件では喜べない。
見落としている異常があるのではないか。
収納内だけで現れる変化を、鑑定が拾えていないのではないか。
澪は自分の10匹をもう一度鑑定した。
「また見てます?」
理央に気づかれた。
「念のためです」
「さっき異常なしでしたよ」
「そのあと技能が上がりましたから」
「魚、疑われすぎじゃないですか?」
「疑っているわけでは……」
言いながら、澪は異常なしの表示をもう一度読んだ。
理央が真壁を見る。
「疑ってますよね?」
「確認は必要だ」
「真壁さんまで魚側に立ってくれない」
魚側という立場がいつできたのだろう。
澪が生け簀へ意識を戻すと、10匹は何も知らずに餌の時間を待っていた。
さらに日数を重ねると、ペスリモンの体つきが変わった。
幼さの残っていた輪郭が締まり、銀色の体は成魚らしい厚みを持ち始める。
澪は給餌後の確認を終え、いつものように飼育状態を開いた。
表示された項目が、昨日までとは違っていた。
----------------------------------
飼育状態
成長段階:成熟期
成熟個体:あり
雄個体:あり
雌個体:あり
身体異常:なし
----------------------------------
上から読み、もう一度下から読む。
雄と雌の数までは表示されていない。
それでも、自分の10匹の中に両方がいることは分かった。
「成熟期です」
澪は顔を上げた。
「雄も雌もいます」
「待ってください、私も見ます」
理央が自分の生け簀へ意識を向ける。
少しして、その眉が上がった。
「こっちもです。成熟期、雄あり、雌あり」
「身体異常は?」
「なしです」
真壁は2人の記録へ同じ印を付けた。
「無魚粉飼料で成熟まで到達した」
澪は作業台の端に手を置いた。
最初は、魚加工場でもらった端材を口にするかどうかで騒いでいた。
次は虫を育て、その虫を粉にし、食べ残しの量に一喜一憂した。
それが、もう成熟期である。
素直に喜びたいのに、成熟という言葉が次の問題を連れてきた。
澪が口を開くより早く、理央も同じ場所へたどり着いたらしい。
「次、繁殖ですよね」
「そうなる」
真壁は即答した。
「ちょっとは間を置いてください」
「間を置いても魚は成熟している」
「魚に急かされてる……」
理央が自分の収納内を見た。
「昨日まで子どもだった気がするのに」
「こちらの感覚では、そうですね」
収納内では何十日も過ぎている。
毎日確かめていたはずなのに、外で過ごした時間は短い。
澪の気持ちだけが、成長へ追いついていなかった。
「成熟したなら、繁殖能力まで確認する必要がある」
「魚は待ってくれませんか?」
理央が訊く。
「魚は待つという合意をしない」
「急に正論で殴られました」
澪は笑ってしまった。
笑ったあと、自分の10匹を見直す。
20匹を成熟まで育てられた。
それだけでも十分に大きな結果のはずだった。
けれど、実験はまだ結果の途中にいる。
繁殖試験に入る前に、3人は条件を決め直した。
薬剤やホルモンは使わない。
人為的に産卵を誘導する処置も行わない。
水温、塩分、明暗の周期は、トルヴィア沿岸で観測した自然な範囲に収める。
その環境で産卵し、受精卵が得られるかだけを見る。
澪は条件を書き写しながら、最後の行を二重に囲んだ。
「受精卵が確認できたら、今度こそ終了です」
「その予定だ」
真壁が答える。
「その予定、って言いました?」
理央がすぐ拾った。
「言った」
「終了です、でいいじゃないですか」
「確認前に断定はできない」
反論はできないが、澪には嫌な予感がした。
以前にも、自分たちは何度か終わりを口にしている。
そのたびに真壁が次の工程を見つけ、気づけば魚の餌にする虫まで育てていた。
「終わりの条件を、はっきりさせましょう」
澪は帳面を真壁の方へ向けた。
「自然な条件で産卵し、受精卵が確認できたところで試験終了です」
「承知した」
「孵化は含みません」
「現時点では含めない」
「現時点」
理央が呟いた。
澪は今の言葉を聞かなかったことにしたかった。
だが、聞かなかったことにして困るのは、たいてい後の自分である。
「真壁さん、前にも似た話をしましたよね」
「覚えている」
「覚えていて、これなんですね」
「前回より条件は明確だ」
改善点として出されると、反論しにくい。
理央が澪の帳面を覗き込み、二重線の外側へもう一本線を足した。
「これで三重です」
「線の数で拘束力は変わりませんよ」
「気持ちは強くなります」
その気持ちだけは、澪にもよく分かった。
2人はそれぞれ自分の生け簀へ、決めた範囲内で環境変化を設定した。
明暗の周期を整え、水温をわずかに動かす。
魚に無理をさせないよう、1日ずつ進めては止めた。
澪は毎回、体調と行動を確かめる。
理央の生け簀でも異常がないことは、本人の報告で確認した。
あとは魚次第だった。
「産んだら終わり」
理央が自分に言い聞かせる。
「受精卵を確認したら、です」
「澪さんまで条件を足す」
「最初から書いてあります」
真壁だけが黙って次の記録欄を増やしていた。
変化は、数日後に来た。
澪の生け簀では、水面近くを漂う小さな粒が増えていた。
餌でも排泄物でもない。
動かした環境条件を止め、すぐに鑑定を開く。
----------------------------------
繁殖状態
産卵確認
浮遊卵多数
受精卵確認
未受精卵あり
----------------------------------
受精卵確認。
三重線で囲んだ終了条件が、きちんと満たされている。
澪の肩から力が抜けた。
「産みました」
「私もです」
理央の返事が重なる。
「浮遊卵多数、受精卵あり。未受精卵もあります」
「こちらも同じです」
2人とも自分の表示を読んでいるだけなのに、示し合わせたような結果だった。
「多数って、何個なんでしょう」
理央が表示を睨む。
「数えられないほど、では?」
「鑑定、逃げてません?」
澪も自分の生け簀へ目を凝らした。
小さな卵が海水の中を漂い、流れに沿って集まっては散っていく。
数え始めれば、こちらが先に音を上げる数であることは間違いない。
「私も多数で済ませたいです」
「澪さんが逃げる側になった」
「必要な分だけ分離する」
真壁は卵の数を数える競争に参加しなかった。
「受精卵を数千粒ほど、各自の孵化区画へ移したまえ」
「数千粒は必要な分なんですか?」
「孵化率を見るなら、少なすぎる数は避ける」
理央は納得しかけ、ふと真壁を見た。
「誰も真壁さんの子だとは思ってませんよ」
一瞬、部屋が静かになった。
澪はゆっくり顔を向けた。
「理央ちゃん」
「違います、必要な分だけって言い方が、なんか養育費みたいで」
「理央ちゃん」
「すみません」
真壁は表情を変えず、工程表へ孵化区画の項目を追加した。
「謝罪は受け取った。作業を続けよう」
受け取るのだ。
澪は笑わないよう唇を結び、自分の収納内へ新しい区画を作った。
親魚の生け簀とは水を分け、水温と塩分を揃える。
細かな網で卵を集め、受精しているものを選別する。
取りすぎないよう注意しながら、数千粒ほどを孵化区画へ移した。
理央も自分の収納で同じ作業を進めている。
「私、移し終わりました」
「こちらも終わりました」
親魚は元の生け簀に残り、受精卵は2人の別々の孵化区画へ収まった。
澪は卵の状態を鑑定する。
発生は始まっている。
異常はない。
ここまでで試験終了。
帳面に書けば、確かにそうなる。
「終わりましたね」
澪は、今度こそ慎重に言った。
「ええ、終わりました」
理央も頷いた。
真壁は何も言わなかった。
その沈黙が、いちばん信用できなかった。
澪は終了条件の欄へ大きく印を付けた。
自然な範囲の環境で産卵し、受精卵を確認した。
昆虫ミールを主原料とする飼料で成熟し、繁殖もできた。
十分な成果である。
むしろ、十分すぎる。
「片づけに入りましょうか」
澪が帳面を閉じかける。
「はい」
理央も嬉しそうに返した。
「その卵は孵化するのか?」
真壁が訊いた。
帳面は閉じきらなかった。
澪は表紙に手を置いたまま、真壁を見る。
「受精しています」
「受精していても、正常に孵化するとは限らない」
「それは、そうですけど」
「孵化区画まで作りましたよね」
理央が言った。
「作ったな」
「作ったなら、見るだけですよね」
自分から言ったあとで、理央が口を押さえた。
「今のなしです」
「聞こえているよ」
「真壁さんが言わせたんですよ」
「私は質問しただけだ」
澪は閉じかけた帳面を開いた。
見るだけ。
収納内の時間を進めて、孵化するか確かめるだけなら、それほど長くはかからない。
そう考えた瞬間、前にも同じような理屈で工程が増えたことを思い出した。
「孵化を確認したら、本当に終わりです」
「異常なく孵化したと確認できれば、試験項目は一つ埋まる」
「終わりとは言ってませんね」
「言っていない」
理央が天井を見上げた。
「正直すぎる」
澪は孵化区画の条件を確認した。
受精卵はすでに発生を進めている。
今ここで放置する選択はない。
自分たちが分けた卵である。
責任まで孵化前で止めるわけにはいかなかった。
「確認しましょう」
「ですよね」
理央の返事は諦めに近い。
「ただし、孵化までです」
「帳面に書きます?」
「今度は四重線にします」
「線では変わらないと仰ったのでは?」
真壁の指摘は正確だった。
「気持ちは強くなります」
澪は理央の言葉を借り、孵化確認の欄を四角く囲んだ。
澪と理央は、それぞれの孵化区画だけ時間を進めた。
親魚の区画とは分けたまま、海水の状態を保つ。
卵の発生を確かめ、異常があれば止められるよう、短い間隔で区切った。
澪の孵化区画では、透明に近かった卵の中へ少しずつ形が現れた。
目に見える変化があるたび、胸の奥が落ち着かない。
無事に生まれてほしいとは思う。
同時に、生まれたあとの世話まで考えてしまい、手放しでは喜べなかった。
「動いてます」
理央が自分の区画を見て言った。
「卵の中で、尾みたいなのが」
「こちらもです」
澪は返事をしながら、自分の卵だけを見つめた。
次の時間経過を終えた時、海水の中に小さな影が増えた。
卵膜を破り、細い体が頼りなく泳いでいる。
澪はすぐに鑑定を開いた。
----------------------------------
孵化状態
孵化確認
仔魚多数
身体異常なし
卵黄あり
----------------------------------
「孵化しました」
声にすると、思っていた以上に嬉しかった。
「こっちもです。すごい、小さい」
理央の声も明るい。
「身体異常なし。卵黄ありです」
「私の方も同じです」
孵化しなかった卵もある。
それでも、海水の中には数え切れないほどの仔魚がいた。
自分の10匹から始まった命が、細い尾を動かしている。
澪はしばらく見入ってから、はっとして帳面を開いた。
「これで孵化確認も終わりです」
「終わりました」
理央が間髪入れずに言う。
「卵黄はいつまで持つ?」
真壁が訊いた。
2人の返事が止まった。
澪は鑑定の最後の行を見る。
卵黄あり。
つまり、今はそれを栄養にしている。
なくなったあとは、自分で食べなければならない。
「今、聞きます?」
理央が弱々しく言った。
「今でなければ遅い」
「正しいのが腹立つ……」
「理央ちゃん」
「小声です」
澪は仔魚を見た。
生まれたばかりの口は小さく、親魚用の飼料を砕いただけでは食べられそうにない。
浮いている粒へ追いつく力も、まだほとんどない。
「仔魚用の餌が必要ですね」
認めると、また一つ工程が増えた。
理央が自分の孵化区画を見つめる。
「この魚たち、空気を読んで卵黄を長持ちさせたりしません?」
「魚は空気ではなく海水の中にいる」
真壁が答えた。
「そういう意味じゃないです」
澪はとうとう吹き出した。
仔魚は何も知らず、残った卵黄で泳いでいた。
仔魚の口に入る大きさで、水中を動き、生きたまま与えられる餌。
候補は、トルヴィア沿岸の海水にいる小型の動物プランクトンだった。
親魚用の無魚粉飼料を細かくする案も試したが、粒は仔魚の口に合わず、反応も鈍い。
卵黄が残っているうちに、次の餌へつなぐ必要がある。
3人は侯爵領事業所で必要な容器と細かな網を準備し、真壁の移送でトルヴィアへ向かった。
海岸へ出ると、潮の匂いと波の音が一度に戻ってくる。
ペスリモンを最初に得た海だった。
「また来ましたね」
理央が水際を見た。
「魚を返しに、なら良かったんですけど」
「その前に餌ですね」
澪は容器を持って浅瀬へ入った。
目に見える大きな生物は避け、海水ごと少量ずつ採取する。
鑑定で種類と大きさを確かめ、人や魚に有害なものを除く。
細かな網を何段階か通し、仔魚の口に入る範囲だけを残した。
理央も少し離れた場所で自分の分を採っている。
「これ、小さすぎて採れた感じがしません」
「鑑定では入っていますか?」
「入ってます。見えないだけで、かなり」
「なら十分です」
「多数ですか?」
「数えませんよ」
「澪さんも完全に逃げる側だ」
必要量だけを採り、2人はそれぞれ自分の収納へ取り込んだ。
澪は自分の孵化区画へ、ごく少量の動物プランクトンを入れる。
理央も自分の区画で同じことをした。
澪の仔魚は、すぐには反応しなかった。
弱い水流に押されながら、小さな体が散っている。
そのうちの1匹が、目の前を動いた餌へ向きを変えた。
口が開き、プランクトンが消える。
別の個体も続いた。
「食べました」
澪は自分の結果だけを伝えた。
「私の方も、今食べました」
理央の声が弾む。
「ちゃんと追ってます。あ、また」
澪は与えすぎないところで供給を止め、食べ残しと仔魚の状態を鑑定した。
摂餌確認。
身体異常なし。
自分で食べた。
安心が胸へ広がった次の瞬間、その先が頭に浮かんだ。
餌を食べれば育つ。
育てば餌の種類と量が変わる。
稚魚になり、若魚になり、また成魚になる。
「卵から孵って、餌を食べて、それで大きくなって……」
理央が指を折る。
「また成熟して、産卵しますよね」
「しますね」
「増えた魚の餌にする虫も増やしますよね」
「必要になります」
「虫の餌も増やしますよね」
2人で黙った。
育成計画の先に、育成計画が並んでいる。
魚を一世代育てれば終わると思っていた。
命は工程表の最後で止まらず、勝手に次の行を作っていく。
澪は自分の仔魚を見た。
可愛いと思う。
無事に食べてくれて嬉しい。
だからこそ、このまま収納内で数を増やし続けるわけにはいかなかった。
「放流しましょう」
澪は言った。
「この海へ返します」
「賛成です」
理央の返事は、今回いちばん早かった。
真壁が海と2人を見比べる。
「自力で継続摂餌できるところまでは育てる必要がある」
「そこまではやります」
澪は頷いた。
「でも、その先の一生は海にお願いします」
波が足元で砕けた。
海は返事をしなかったが、少なくとも新しい工程表は出してこなかった。
侯爵領事業所へ戻る前に、3人は海岸で試験結果を整理した。
澪は風にめくられないよう帳面の端を押さえる。
「生体収納内で、海水生物を長期間飼育できました」
最初の項目へ印を付ける。
「収納内時間を進めても、給餌と環境維持を自動化できた」
「魚も成長しました」
理央が横から付け足す。
「世界を越えて移送しても、生存に問題はなかった」
侯爵領とトルヴィアの間を移し、必要な時には押入れを経てゲンダイ側でも確認した。
それぞれの収納から出さない限り、10匹ずつの群れは保たれた。
「魚粉を使わない飼料で成熟した」
「自然な条件で産卵して、受精卵もできた」
「孵化して、仔魚が餌を食べた」
理央が最後まで言い切り、澪の帳面を覗いた。
「これ、もう合格ですよね?」
「試験としては十分です」
澪は全項目に印が付いたことを確かめた。
できるかどうかは、分かった。
だが、できることと、事業にすることは同じではない。
何千、何万の魚を収納内で育て続けるなら、担当者が必要になる。
飼料用の虫を増やし、その餌を確保し、海水を整え、病気と繁殖を管理しなければならない。
澪と理央が片手間で続けていい規模ではなかった。
「養殖事業を始めるかどうかは、別に考えます」
「始めない、でいいと思います」
理央が即答した。
「判断が早いですね」
「卵の『多数』を見ましたから」
「私もです」
もし事業化するなら、現地の漁業や価格への影響も調べる必要がある。
収納が便利だからという理由だけで、大量の魚を市場へ流すわけにはいかない。
「今回は、可能性の確認で止めます」
澪は帳面を閉じた。
「異論はありません」
理央が胸を撫で下ろす。
「放流までの工程を決める」
真壁が言った。
理央の手が止まった。
「その顔、次がありますよね」
「放す前に死亡させてはならない」
「正しいですけど、顔がもう工程表なんですよ」
真壁の顔から工程表を読み取れるようになったのは、成長と呼んでいいのだろうか。
澪には判断できなかった。
「最低限、自力で餌を食べられる状態まで育てます」
「親魚も放流前に再確認する」
「分かりました」
今度こそ最後の工程だった。
澪はそう信じる代わりに、最後という言葉を帳面へ書かないことにした。
放流前の最低限の飼育も、トルヴィア沿岸に残ったまま続けた。
動物プランクトンを切らさず、食べ残しを除き、海水の状態を保つ。
収納内の時間は短く区切り、口と体の成長に合わせて餌の大きさを変えた。
収納の外では、海の様子がほとんど変わらないうちに必要な日数を重ねられる。
卵黄は消えた。
それでも仔魚は自分で餌を追い、食べ続けた。
弱々しかった体に魚らしい輪郭が現れ、稚魚と呼べる大きさになる。
澪はそこで時間を止めた。
育てようと思えば、まだ育てられる。
だが、それを始めれば、また次の節目まで見届けたくなる。
ここで手を離すと決めたのは、魚をどうでもいいと思ったからではない。
自分の手の中へ置き続けるより、生まれるはずだった海へ返す方がいいと考えたからだった。
採取した場所と同じ海域で、水温と塩分を確かめる。
澪は放流前に、自分の収納内を順に鑑定した。
親魚10匹、身体異常なし。
活動状態、正常。
稚魚、身体異常なし。
自力摂餌、可能。
「こちらは放せます」
「私の方も、親魚と稚魚、どちらも異常なしです」
理央も自分の結果を伝えた。
2人は波の穏やかな入り江を選び、それぞれ別の位置に立った。
まず、澪が自分の海水ごと親魚を出す。
銀色の10匹は一度まとまり、すぐに海の色へ紛れた。
続けて稚魚を放す。
小さな影の群れが、浅い水の中で向きを変えた。
理央の方でも、別の群れが海へ広がっていく。
最初は合計20匹だった。
鰓が動いているか、尾に傷がないか、1匹ずつ確かめていた。
それが今は、目で数えることを諦めるほど増えている。
無事に育ったことが嬉しい。
増えすぎたことには、まだ少し困っている。
澪の中で、その2つはきれいに分かれてくれなかった。
「行きましたね」
理央が海を見つめた。
「行きましたね」
澪は今度だけ、同じ言葉を返した。
魚影が見えなくなるまで待ち、収納内を確認する。
生け簀も孵化区画も空になっていた。
長く聞いていた水音が消え、急に広く感じる。
「終わりました」
理央が慎重に言った。
「終わりましたね」
澪も海を見たまま答えた。
「もう卵もいません」
「仔魚もいません」
「虫はいますけど」
理央の一言で、澪の表情が止まった。
魚の餌用に育てた虫は、それぞれの収納内に残っている。
「……虫は、残渣処理の試験に使えます」
「やっぱり次があるじゃないですか」
「魚の続きではありません」
「育成計画の親戚です」
真壁が空になった生け簀の報告を聞き、海へ視線を戻した。
「カブトムシを育てる小学生のようだったな」
「どこがですか」
澪と理央の声が重なった。
真壁は少し考えた。
「始める時より、終える時の方が増えている」
「カブトムシは海へ放しません」
理央がすぐ返す。
「そこではありません」
澪は額へ手を当てた。
だが、言いたいことは分かってしまった。
幼虫を数匹もらい、世話をして、卵が増え、翌年には容器が増えている。
魚でも、だいたい同じことが起きた。
「少なくとも、夏休みの宿題より長かったです」
理央が言う。
「自由研究なら、評価は高い」
「真壁さん、今それで褒めたつもりですか?」
「結果は出ている」
理央が澪を見る。
「やっと褒められました」
「普通に近づいた、ではありませんでしたね」
2人で笑うと、波打ち際から小さな魚影がひとつ跳ねた。
それが放したペスリモンだったのかは、もう分からなかった。
それから数年、トルヴィア沿岸では、ペスリモンが妙によく網へ入る年が続いた。
漁師たちは海流が良かったのだと言い、魚加工場は仕入れが安定したと喜んだ。
放流した親魚と稚魚が増えたのかもしれない。
生体収納内で長期間、遊離魔素に触れたことが何か影響した可能性もあった。
あるいは、ただ海の条件が重なっただけかもしれない。
原因が確かめられることはなく、ペスリモンは毎年、理由を説明せずに網の中で銀色に光った。