共同商館のフードコートは、昼になると一段とうるさくなる。
食器が触れ合う音に、注文を通す声や椅子を引く音が重なり、厨房からは焼いた肉と香草入りのスープの匂いが流れてきていた。
澪は向かいに座るリュシアの話を聞きながら、フォークで芋を一切れ刺した。
同時に、意識の端で収納へ触れる。
大豆の葉に萎れはない。
土の水分は、そろそろ補った方がよさそうだった。
二酸化炭素の濃度を見て、養分が減り始めた区画を分け、収穫を終えた畝の土も鑑定する。
目の前の皿へ意識を戻すと、リュシアがこちらを見ていた。
「それで、樽の方は――澪?」
「はい?」
「さっきから何してるんだい」
「何がですか?」
「収納だよ」
澪の手が止まった。
収納そのものが見えているわけではないはずだ。
「……分かります?」
「返事が遅いんだよ。今も半分くらい、どこかへ行ってただろ」
図星だった。
最初の頃なら、食事中に収納へ気を向けるなどしなかったと思う。
ところが今は、水分を足すのも収穫区画を入れ替えるのも、台所の鍋を見るのと大差のない日常になりかけている。
「農場をちょっと見てました」
「農場?」
「この前、火山から持ってきた土を農業用に改良したんです。そこでサツマイモと大豆を育てていて」
リュシアは口へ運びかけていたパンを皿へ戻した。
「収納って、そんなことまでできるのかい?」
「先に生け簀も作りましたけど、あちらはできれば忘れたいです」
「全滅したのかい」
「いえ。育って、卵を産んで、その卵が育って、また卵を産んで……終わりがないことに気づいてしまいました」
リュシアは澪の顔をしばらく眺めた後、パンをちぎった。
「生体も入るようになったとは聞いてたけどね。魚を増やしすぎて困った人は初めて見たよ」
「私も初めて困りました」
「それで、今度は畑かい」
「中では今も育ってますから」
「だからって、食事中まで畑を見る商人はそういないよ」
言われてみれば、その通りだった。
澪は収納内の時間操作をいったん止めた。
急に静かになった気がして、肩から力が抜ける。
止められるのに止めず、合間まで見張っていたのは、収穫が増えるのが楽しくなっていたせいかもしれない。
そして、楽しいまま続けた結果については、そろそろ誰かに相談しなければならなかった。
「リュシアさん。実は、その農場のことで相談があるんです」
「もう嫌な予感がするね」
「まだ何も言ってませんよ」
「澪が普通の量で困るとは思えないからね」
付き合いが長い人の勘は、あまり都合よく外れてくれないらしい。
「サツマイモと大豆の在庫が、ちょっと多めにあるんですけど」
「どのくらいだい」
普通の仕入れ相談を受けるような顔で、リュシアがスープをすくう。
澪は収納の在庫表示をもう一度見た。
数字が置かれている場所は、どこまでも広い収納の中だ。
倉庫の床も塞がず、袋の山も見えないため、どうにも切迫感が薄い。
「サツマイモが1,000tを超えました」
リュシアの匙が皿の上で止まった。
周囲では誰かが追加のパンを頼み、厨房から皿が運ばれていく。
二人の卓だけ、音が一拍遅れたように静かだった。
「……大豆は」
「500tくらいです」
「澪」
「はい」
「次から『ちょっと』は付けるんじゃないよ」
「はい……」
叱られた理由には納得できる。
けれど、最初から数字を並べるよりは、少し柔らかく切り出した方がよいと思ったのだ。
どうやら柔らかくなるのは言葉だけで、量は1kgも減らないらしい。
「一度でそんなに採れたのかい」
「何度か繰り返しました。収穫するたびに土を鑑定して、水と二酸化炭素と減った養分を足して、また植えて」
「何度か、ねえ」
「途中から楽しくなって、どんどん植えてしまいました」
「畑が趣味って人はいるけど、収納に箱庭を作ってやるものじゃないね」
「場所はありますから」
「その言い方をする人に、場所を渡しちゃいけなかったね」
リュシアは呆れたように息を吐いたが、すぐに視線が商人のものへ変わった。
「大豆は味噌と醤油にできるね」
「芋は食用と加工用、それに種芋か」
「品質は揃ってるのかい?」
「栽培条件は揃えています。サツマイモなら、焼いたものがありますよ」
「用意がいいね」
「相談に来ましたから」
「量も相談できる範囲にしてほしかったけどね」
澪が収納から取り出した石焼き芋は、まだ熱かった。
焦げ茶色の皮から飴色の蜜がにじみ、皿へ置いただけで甘い香りが立ち上る。
リュシアが目を細めた。
「話を芋で逸らしてないかい」
「商品として見てほしいんです」
「なら食べるけどね」
澪が半分に割ると、濃い黄色の中身から湯気が上がった。
肉とスープの匂いに満ちていた食堂へ、蜜を煮詰めたような香りが割り込んでいく。
リュシアは小さく切った一片を口へ入れた。
一度噛み、断面を見直し、もう一口食べる。
「……澪」
「はい」
「これ、本当に芋かい」
「サツマイモです」
「砂糖を入れてないね?」
「入れてません」
「それ、何ですか?」
横から声がした。
休憩中らしい売り子が、空になった皿を持ったまま立ち止まっている。
「サツマイモです」
「澪姉ちゃん。こんな甘そうな芋、見たことないよ」
今度はトトが、売り子の後ろから顔を出した。
「甘い芋だよ」
「その説明、見れば分かるよ」
もっともな指摘をされてしまった。
澪が言葉を探している間に、セルマの弟子が足を止めた。
「お菓子じゃないんですか?」
「芋です」
「芋って、こんな匂いでしたっけ」
ヴァルトの弟子まで寄ってくる。
「私に聞かれても……」
答えながら周囲を見ると、いつの間にか人が増えていた。
誰かが呼びに行った様子はない。
近くを通った者が香りに気づき、立ち止まった者の肩越しに皿をのぞき、そのまま列のようなものができている。
リュシアに味見を頼んだだけのはずが、どうしてこうなったのだろう。
1,000tを超えた芋の行き先を心配していた澪の胸に、別の心配が浮かぶ。
この人数へ配り始めたら、昼食はいつ終わるのだろうか。
「澪。それ、何?」
弟子たちの向こうから、セルマが歩いてきた。
人垣を作っていた弟子が、さっと道を開ける。
「セルマさん。サツマイモです」
セルマはすぐには手を伸ばさなかった。
皮に浮いた蜜を見てから、割った面へ顔を寄せ、色と香りを確かめる。
「蜜が出てるわね。焼きむらもない」
「食べます?」
「一口もらうわ」
澪が切り分けた芋を、セルマはゆっくり噛んだ。
「……甘いわね」
その一言を待っていた弟子たちの目が、一斉に澪へ向く。
「見てないで、自分の分は澪に聞きなさい」
「私ですか?」
「持ってきたのはあんただよ」
リュシアにまで言われ、澪は諦めて収納へ意識を向けた。
熟成させたサツマイモを石と一緒に並べ、温度を160℃に合わせる。
収納内で120分進めれば、外ではほとんど待たずに焼き上がる。
「全員、一口ずつですよ」
「並びな。押した人は後だよ」
追加の焼き芋を出した途端、リュシアが切り分ける順番を仕切り始めた。
売り子と弟子たちが素直に列を作る。
商品説明をする前に、試食会が始まっていた。
最後の一片がトトの口へ消える頃には、卓の上に皮だけが残っていた。
まだ甘い匂いが漂う中、リュシアは指先を布で拭いた。
「大豆は全部、うちで買うよ」
「全部ですか?」
「500tあるんだろ?」
「あります」
「味噌と醤油にする」
返事に迷いがなかった。
澪は思わず、リュシアの顔を見直した。
少し前まで、増やしすぎた在庫をどうするかで頭が重かった。
収納に収まっている限り腐らせる心配は少なくても、使い道の決まらない食料を積み上げていくのは、どうにも落ち着かなかったのだ。
「かなり作れますね」
「ようやくだよ」
リュシアの目は、もう卓の上にはなかった。
工場の蒸し釜や樽、人の動きを頭の中で並べているのだろう。
試験を重ねてきた時間を知っているからこそ、その短い言葉が澪の胸へ残った。
「サツマイモは半分買う」
「半分?」
「残りは種芋にも回すんだろ」
「はい。王国側へ回せればと思ってます」
「なら残しな。こっちは半分でも多すぎるくらいだよ」
「500t以上になりますけど」
「1,000tを『ちょっと多め』って言った人に言われたくないね」
また返す言葉がなくなった。
大豆は全量、サツマイモは現時点の在庫の半分を、リュシア食品会社向けに押さえる。
正式な数量を確定してから、価格、納品単位、会計処理を決めることになった。
残りのサツマイモは種芋と王国側への供給、備蓄用に分けておく。
売り先が決まると、在庫表示の数字を見ても、先ほどまでほど胃が重くならなかった。
ほっとしたのも束の間、リュシアの指が皿の縁を軽く叩き始めた。
「大豆はある」
「はい」
「塩も何とかなる」
「はい」
「麹が足りないね」
「……あ」
澪は、さっきまでの安心が引っ込んでいくのを感じた。
「その顔、前にも見たよ」
「前も忘れました」
「二度目は威張るところじゃないよ」
「すみません」
「大豆だけ500tあっても、樽へ入れれば味噌になるわけじゃないからね」
大豆が揃えば進められると思っていたが、量が増えれば、足りないものも同じだけ増える。
樽、人手、塩、麹。
どれか1つでも足りなければ、そこから先へは進めない。
「麦麹なら、作り方を確認できます。麦味噌に回せますよね」
「まず工程を見せな」
「醤油の方は、蒸した大豆と炒った小麦に、醤油用の種麹を付ける方ですね」
「そうだよ」
「麦麹をそのまま使うんじゃない」
「そっちは前に試した工程を広げる」
主原料が揃ったのは、問題の終わりではなかった。
ようやく、もっと大きな工程を動かす入口へ立ったのだ。
翌日、澪はリュシア食品会社の作業場にいた。
大きな蒸し釜のそばには冷却台があり、洗って乾かした麹蓋が壁際へ重ねられている。
作業台には丸麦と麦麹用の種麹、温度計を並べた。
背後の設備に比べれば、目の前の材料は拍子抜けするほど小さい。
「最初の基準は、丸麦500gに種麹2gです」
「待ちな」
「はい」
「今、500tの大豆をどうするかって話をしてたね」
「試験なので」
「分かってるよ。分かってるけど、小さくなりすぎだね」
「失敗するなら500gの方がいいです」
「それはそうだね。続けな」
数字の落差には言いたいことがあっても、少量から始めることには反対しない。
そういうところがリュシアらしかった。
澪は丸麦の入った器へ手を添えた。
「最初に洗って、1、2時間ほど水に浸します。それから30分から1時間、水を切ります」
リュシアは作業台の端へ置いた帳面に時間を書き込んだ。
「蒸すのは?」
「40分から50分くらいです。蒸し上がったら、40℃くらいまで冷まします」
「その後に種麹かい」
「はい」
「偏らないように全体へ混ぜて、35℃から40℃くらいで保温します」
「18時間から20時間を目安に一度ほぐして、それから半日から1日ほどです」
「見るのは温度だけじゃないね?」
「栗みたいな香りが出ているか、菌が均等に広がっているか。変な匂いや熱の上がりすぎがないかも見ます」
リュシアの視線が、丸麦から積み上げられた麹蓋へ移った。
次に蒸し釜、冷却台、温湿度計を見て、最後に何もない空間へ目を留める。
そこには、彼女の収納の中が見えているのだろう。
「……これ、私の収納で回せるね」
「ですよね」
「蒸すところまでは工場でやる」
「冷ましたら麹蓋へ分けて収納だね」
「浸してるもの、冷ましたもの、種を付けたもの、手入れを待つものを離して置けばいい」
「温度と状態を見ながらですね。仕込みをずらせば、一度に全部を見る必要もありません」
「完成したものまで同じところへ置かないよ。仕込み用と、次へ残す種も分ける」
リュシアは帳面の余白へ線を引き、工程ごとの置き場を書き加えていく。
彼女の収納では時間を早められない。
それでも、大容量の収納へ麹蓋を並べ、仕込み時刻ごとに置き場を分けられれば、工場の床を埋めずに多数のロットを同時に進められる。
「一度に全部やるんじゃないよ。まずこれを通して、次は量を増やす」
「はい」
澪の収納農場で原料を作り、リュシアの工場と収納で加工する。
自分が最後まで抱えるのではなく、得意な人へ渡した先で量産へつながっていく。
それが分かると、500tという数字がようやく、人の手で扱える大きさに分かれた気がした。
最初の麦麹が仕上がったのは、それから2日ほど後だった。
麹蓋の上では、丸麦の表面へ白い菌糸が回っている。
リュシアは指先で麦をほぐし、顔を寄せて香りを確かめた。
作業場には、蒸した麦とは違う、栗を思わせる甘い匂いが漂っていた。
「変な匂いはない。熱も上がりすぎてないね」
「麦麹、増やせそうですか?」
「増やせる」
リュシアはそう言って、珍しく長く笑った。
「醤油の方も、前にやった醤油麹の工程を広げればいい」
棚には試験を終えた麦麹があり、開いた帳面には大豆約500tの文字と、これから組む仕込みの欄が並んでいる。
窓の外では春の光が明るく、畑仕事が忙しくなる季節はすぐそこまで来ていた。
「じゃあ、ようやく味噌と醤油を量産できるね」
喜んでいるのに、その言葉の次にはもう、どの設備をどう動かすかを考えている。
澪は大豆を持ち込んだ本人なのに、少し置いていかれた気分になった。
「これで500t、仕込みに回せますね」
「一度に樽へ詰める気じゃないだろうね」
「そこまで無茶しません」
「ならいい。味噌と醤油は分けて、仕込める量ずつ順番に回すよ」
リュシアは新しい紙を引き寄せた。
「農作業が本格的に始まる前に、人を集める。前に仕込みをやった連中にも声を掛けるよ」
「かなりの人数になりません?」
「500t持ってきてから人数を心配するんじゃないよ」
また正しいことを言われた。
洗浄、蒸し、麹、仕込み、樽詰め、それぞれを覚えた人が必要になる。
収納が運搬や保管を助けても、匂いを嗅ぎ、温度を見て、手入れをする人まで消えるわけではない。
「人を集めるなら……昨日の人たち、まだ焼き芋の話をしてましたけど」
「仕事を頼む前に、芋で集めてどうするんだい」
「集めようとしたわけではないんです」
「もっと悪いじゃないか」
作業場の入口から、ひょいと売り子が顔を出した。
「あの、仕込みの人を探してるって聞いたんですけど」
リュシアが持っていた紙から顔を上げる。
「まだ探し始めてもいないよ」
「手伝ったら、あの芋、また食べられます?」
澪は黙ってリュシアを見た。
リュシアも澪を見返し、それから紙の一番上へ何かを書き込んだ。
「……一人来たね」
甘い匂いはもう残っていないのに、焼き芋は人手まで連れてきていた。