弥兵衛の笑いが収まっても、話は収まらなかった。
「その、ばな……」
「バナジウムです」
「うむ。それを入れた鋼も、研いでみたいのう。焼きを入れるなら、火の色はどの辺りになる」
腰へ納めた刀を、また抜きかねない顔だった。
真壁は作業台の布を畳み、戸口へ向かった。
「続きは鍛冶場でいたしましょう。その前に、ひと風呂いかがですかな」
「風呂?」
弥兵衛が、鋼の名を聞いた時とは違う顔で振り返った。
「湯に浸かれますよ。石鹸と手拭いもあります」
「おお、それはありがたい。川では、こうはゆかぬでな」
襟に残る旅埃を指で払い、外套の前を合わせる。
袖の繕いはまだしっかりしていたが、肩の生地はすっかり柔らかくなっていた。
「弥兵衛殿は、風呂もお好きなのだな」
エレナが言うと、老人は目を細めた。
「好きじゃとも。温かい湯を見つけて、わざわざ通り過ぎる歳でもあるまい」
「鍛冶場は、通り過ぎられぬようだったが」
「そちらも、歳には関わりがないのう」
少女が笑い、オスカーも口元を緩めた。
真壁は2人を客用の待合室へ案内し、ヴァルトに研究室で待つよう告げた。
弥兵衛だけを連れ、通路の奥へ進む。
灯りが続く岩壁の間に、湯の湿った匂いが混じり始めた。
「この奥は、まだ何があるのじゃ」
「今日は、風呂までにしておきましょう」
「そう言われると、気になるのう」
真壁は笑って木の扉を開けた。
棚には清潔な手拭いがあり、その先で湯面が明るく揺れている。
弥兵衛は草鞋を脱ぎ、足裏で床を踏んだ。
石や木の根を選んで歩く必要のない床だった。
「こちらで身体を洗ってから、お入りください。着替えも用意しますから、ごゆっくり」
「いや、そこまで世話を掛けては」
「私も、久しぶりによい手合わせをさせていただきました」
真壁が手拭いを渡すと、弥兵衛は両手で受け取った。
「では、甘えさせてもらおう」
刀へ添えていた手が、ようやく離れた。
古い着物を畳むと、袖の裏にも幾つもの縫い目があった。
弥兵衛はほつれを指で戻し、外套とともに《収納》へ収めた。
刀も、湯の掛からぬうちにしまっておく。
桶へ湯を汲んだだけで、肩から力が抜けそうになった。
足を洗い、手拭いに石鹸を含ませると、白い泡が節の間へ入っていく。
よく泡の立つ石鹸だった。
流した湯が床を伝い、旅の土とともに排水口へ消えた。
髪を洗い終えてから、肩へもう一度湯を掛ける。
「これは、いかんのう」
誰もいない洗い場で、弥兵衛は笑った。
まだ湯船へ入ってもおらぬのに、立つのが惜しくなってきた。
浴槽へ片足を入れ、縁をつかんで腰を沈めた。
湯が腹を包み、胸へ届く。
息を吐くと、白い髭の先で湯面が揺れた。
「……極楽じゃのう」
脚を伸ばした先にも、冷たい石はなかった。
手を開くと、湯の中で太い指がゆっくり動いた。
しばらくは、柄も槌も握らずにいてよさそうだった。
待合室では、エレナが置いた茶碗の脇で、オスカーの手が半歩の動きをなぞっていた。
「弥兵衛殿の木刀は、いつ上がったのだ。私には、もう首の横にあったように見えたぞ」
「私が打ち込む時には、既に外へ動かれていました。剣を追ったつもりが、ご本人を捉えられていなかったのです」
オスカーは膝へ手を戻した。
「見事でした。悔しいですが」
「では、よい手合わせだったのだな」
「はい。お尋ねしたいことも、増えてしまいました」
エレナは茶碗を取り、笑った。
「弥兵衛殿が湯から戻られたら、今度は質問の順番を決めねばならぬな」
浴場で弥兵衛が桶を縁へ置くと、からん、と軽い音がした。
湯から出した腕を撫で、また肩まで沈む。
西へ延びる街道にも、まだ知らぬ土地が続いている。
その途中に、これほどよい湯があった。
弥兵衛は目を閉じ、もう少しだけ脚を伸ばした。
研究室へ戻ってきた真壁は、衛星の図面を脇へ寄せ、代わりに紺の綿布を広げた。
ヴァルトは椅子を引きかけて、その手元を見た。
「何を作られるのですか」
「弥兵衛殿の浴衣をね。湯上がりに、また旅の着物を着ていただくのも何だろう」
真壁は布の端を折り、首へ当たる辺りを指で撫でた。
手合わせで間合いを測った相手の、今度は身丈を測っている。
「寸法は、分かるのですか」
「先ほど向かい合ったからな。浴衣なら、多少は帯で合わせられる」
紺の布が靄へ消えた。
真壁は《収納》の中で身頃と袖を切り分け、細く取った布を襟へ回していった。
しばらくして出した身頃を作業台へ重ねると、長さを見てから、再び収納へ戻した。
「先ほどの通信衛星の図ですが」
ヴァルトが言うと、真壁は空いた机へ図面を戻した。
大陸図の横に、地上を囲む円と、小さな箱が幾つも描かれている。
「うむ。電話を大陸全域へ通したいと思ってね」
「そのために、あの箱を空へ?」
「通信を中継する人工衛星だ。ゲンダイには、低い軌道へ多数を飛ばす、スターリンクという仕組みがある」
ヴァルトには、聞き覚えのない名だった。
だが、遠くへ電波を届かせるために高い所へ上げる、という考えなら分かる。
「空へ通信塔を置くのですね」
「置いておければ、話は早いのだがね」
真壁は丸い金具を1つ、円の上へ載せた。
指で押すと、金具は大陸図の上を通り、その先へ離れていった。
「低い軌道では、こうして地上の町の上を通り過ぎてしまう」
「王都を呼んでいる間に、いなくなりますか」
「そのままでは、そうなるね」
真壁はもう1つ金具を出し、最初の後ろへ置いた。
「見えなくなる前に、次へつなぐ」
ヴァルトは2つの金具を見てから、円の残りへ目をやった。
まだ、随分と空いていた。
「……2つでは、足りませんね」
真壁が返事をする前に、机へ金具が増えた。
並んだ金具の1つを、ヴァルトは地図の上で動かした。
王都から見える位置を離れる前に、後ろの1つを寄せる。
その次も動かしていると、最初に押した金具が紙の外へ滑った。
「あ」
「実物では、落とさぬようにせねばな」
真壁が拾い上げた金具を受け取り、ヴァルトは空いた所へ戻した。
「これは、何機ほど要るのですか」
「範囲と軌道によるが、何百機という数も考えねばなるまい」
ヴァルトは手元の金具を、そっと置いた。
机の上なら、2人で拾える。
空へ散らしてしまえば、そうはいかない。
「造るだけなら、《収納》で同じものを揃えるとして……」
「打ち上げて、軌道へ載せる速度を与える。向きを保ち、電源も持たせる。調子の悪いものは、いずれ直さねばならん」
「その数だけ、ですか」
「地上で受ける設備も要る。衛星同士と、地上との受け渡しもな」
真壁は図面を寄せ、作業台へ浴衣を出した。
袖の付いた身頃が、紺の長い形になっている。
袖口を開いて指を入れ、脇の継ぎ目を返した。
「ここは、もう少し柔らかい方がよいな」
いま造ろうとしているもののうち、少なくとも1つは、湯上がりまでに間に合いそうだった。
ヴァルトは円の外へ、地上の送受信所を描き足した。
「電話を使う方は、受話器を取るだけなのでしょう?」
「そうしたい」
「その裏で、これほど走り回るのですね」
真壁は浴衣を靄へ戻し、金具の群れを見た。
「今の我々には無理だな。電話に出る暇までなくなる」
ヴァルトは笑い、王都と領都の印を見比べた。
2つの町で声を交わせれば、それだけでも大仕事だった。
大陸図の端まで、金具を並べることもない。
「もう少し、頭上にいてくれるものならよいのですが」
真壁が、衛星の紙の隅へ『将来』と書いた。
ヴァルトは金具を片づけながら、そのうちの1つだけを残した。
「なるほど、アドバルーン……」
金具をつまんだまま、ヴァルトは呟いた。
真壁が顔を上げる。
「何を宣伝するつもりかね」
「いえ、広告ではなく。係留気球方式なら、どうでしょう」
ヴァルトは白紙へ地面を描き、上に気球を、その間に索を引いた。
「動くから何機も要るのなら、つないでおけばよいのではありませんか」
「地上から、索で引き留めるのか」
「はい。飛行船の技術が使えます。浮かべるだけなら、乗客も積み荷も要りません」
気球の下へ、通信装置を収める小さな箱を足す。
飛行船の船室と比べれば、随分と小さく描けた。
「浮力はヘリウム。装置と索の重さは《重力》で減らして、風に振られる分を《風》で補う」
「それなら、建造の見当はつくな」
真壁が紙を回し、気球の下へ高さを書き込んだ。
10km。
ヴァルトは、地面と気球の間を見直した。
さっきまで何でもなかった1本の線が、急に長くなった。
「ずいぶん上げますね」
「遠くを見通すには、高い方が有利だ。ただし、あちらは気圧も低い。機器を守る区画と、結界が要るだろう」
「索は軽くできても、横風を受ける分は残ります。下から上まで、ずっと」
ヴァルトは線の脇へ、幾つか矢印を描いた。
「私がここを引き、真壁さんがあちらを引いたら、真ん中は苦しそうですね」
「仲よく同じ方へ引いてくれる風なら、助かるのだが」
2人は図面を見て笑った。
真壁は次に、白い柔らかな布を取り出した。
浴衣の下に着る肌着用だった。
細い糸を引き出して織りに沿わせ、縫い合わせる所へ回していく。
ヴァルトは、気球の外皮にも継ぎ目を描きかけ、止めた。
着物なら、ほつれた所へ手が届く。
「何年も浮かべておくなら、魔石の補充はどうしますか」
真壁の方も、ちょうど同じ所へ目を戻していた。
ヴァルトは、地上へ続く索を指した。
「ここから送れませんか。地面とつながっているのですから、その中を魔力が流せれば……」
真壁は布から手を離し、新しい紙へ小さな円を描いた。
「《安定通魔性結晶材》だな」
細い試料が、机へ置かれる。
「中心を通魔材にして、その周りを魔素絶縁材で覆う。外側に、引く力を受ける丈夫な索を組む」
円が2重、3重になった。
ヴァルトは試料の端を持ち、光へかざした。
遊離した魔素を抜いても、よく魔力を通した結晶だった。
あの時に取り分けたものが、今度は空までつなぐ芯になる。
「上で《重力》も《風》も動かせますね。予備の魔石は、切れた時の分だけ置いておけます」
「索が送魔路にもなれば、補給のたびに上がらずに済む。問題は、その地上側だ」
真壁は細い試料を置き、地面に描いた小箱を鉛筆の尻で叩いた。
「何年も送るなら、こちらにも相当な魔力が要る」
ヴァルトが口を開きかけた時、真壁の鉛筆が止まった。
「……む」
「真壁さん?」
「森に、無限ともいえる魔力を放出している場所があるではないか」
ヴァルトも、地面の小箱を見た。
空の気球へ積む魔石ばかり考えていた。
「森へ逃がしている、あの分ですか」
「うむ。使い道があれば、捨てるばかりでもあるまい」
「以前は、余った遊離魔素を人工魔石へ変えましたね。今度は、使う方から話が来ましたか」
「ただし、こちらは回収して運ぶ仕組みからだ。森からこの箱へ、鉛筆1本でつなぐわけにはいかん」
真壁は小箱の横に『森』と書き、間を空けておいた。
ヴァルトは、手にした試料をそこへ置いた。
作業台へ、紺の浴衣が出てきた。
真壁は襟の裏を返し、指の腹で縫い代をなぞった。
肌着、下着、帯と重ね、上へ清潔な手拭いを載せる。
「まずは、こちらを届けてこよう」
戸口を出た真壁が、畳んだ衣服を抱え直した。
「弥兵衛殿。まだお湯ですか」
浴場の手前で呼び掛けると、桶を置く音のあとに返事があった。
「うむ。つい、長居をしておる」
「脱衣所の棚へ、着替えを置いておきます」
「おお、かたじけない。もう出ようと思うておったところじゃ」
「急がずとも結構ですよ」
「そうか。では、もう少し」
真壁は一式を棚へ置き、戸口で笑ってから引き返した。
研究室へ戻ると、ヴァルトは気球の絵へ、尖った嘴を描き足していた。
真壁がそれを覗き込んだ。
「新しい部品かね」
「鳥です」
「なるほど」
「しかし、鳥がつついたら終わりですね」
真壁は椅子へ座り、気球の中を幾つかに分けた。
「気嚢を分けておけば、1つの穴で全部のガスは失わない。外側は結界で覆おう」
「ええ。普通の鳥なら、それで」
ヴァルトは、横へもう1つ描き始めた。
今度の翼は、気球の絵より大きかった。
嘴のつもりで描いた先へ、牙まで生えた。
「では、飛行魔物が係留索を狙ったら?」
真壁は、新しく描かれたものを見た。
「……ヴァルト君。鳥の話ではなかったのかね」
「鳥だけで済んでくれれば、私も助かります」
ヴァルトが言うと、真壁は短く笑った。
気球を10kmまで上げれば、よいというものでもなかった。
索はそこから地面まで、ずっと続いている。
どの高さに何が飛ぶにしても、狙える所は長かった。
ヴァルトは線の途中を指で隠した。
「ここが切れれば、魔力も来なくなります」
「索の保護も要るな。気球側には、供給が絶えた時の分も持たせる」
真壁は予備の魔石を描き、索へも結界を添えた。
ヴァルトが風の矢印を指すと、索を支える所が、もう1つ増えた。
気球の下の小さな箱には、書き込む余地がなくなってきた。
「防御を増やすほど、重くなりますね」
「重くなれば、軽くする分の魔力も増す」
「結界を破ろうとされたら、そちらにも取られます」
真壁は鉛筆を置き、腕を組んで絵を眺めた。
「電話を置くつもりが、砦になってきたな」
「浮いている分、砦より手が掛かりそうです」
ヴァルトも鉛筆を置いた。
出来ない、とまでは思わなかった。
だが、この空中の砦から最初の声が届くまでに、2人とも随分と働くことになりそうだった。
真壁は、気球の紙の下から、大陸図を引き抜いた。
「待て。最初から大陸全部をつなぐ必要はあるまい」
真壁が王都の印から、領都へ指を戻した。
「まず領都だけ、ですか」
「うむ。侯爵邸の丘に、通信塔を建てればよい」
ヴァルトは、侯爵邸から見た町を思い浮かべた。
屋根が続き、その先を人や馬車が動いていた。
気球を上げずとも、あの丘は既に町より高い。
「丘を使わせていただければ、見通しはよさそうですね」
「侯爵家には相談しよう。建物で遮られる所には、小型の中継器を置けばよい」
真壁は領都の地図を出し、侯爵邸の位置へ塔を描いた。
今度は、その下に索がなかった。
ヴァルトは図の端へ、共同商館を見つけた。
「最初は、どことどこを通話させましょう」
「侯爵邸と共同商館だな」
真壁の鉛筆が、2つの建物の間をつないだ。
「用件ひとつ伝えるのに、人を出さずに済む。相手がいるか、返事は何か、その場で聞ける」
「商館から使いを出したら、先方もちょうど出発したあとだった、などということも減りますね」
「まずは、そこで声を通そう。町へ広げるのは、そのあとだ」
ヴァルトは地図の両端へ小さな印を足した。
受話器と送受信機を、互いにつながる形で用意する。
まだ実物のないものだったが、使う2人がどこに立つかは、もう分かった。
「電源は、手持ちの魔石で始められそうですね」
「あの気球を守り続けるよりは、随分と軽い仕事になる」
「森の余剰魔力は?」
真壁は、索の断面を描いた紙を捨てずに、衛星の紙と重ねた。
「王都や、その先へ広げる時に使いたい。回収と運搬の仕組みを考えておこう。気球の出番もあるだろう」
ヴァルトは領都の地図へ戻り、2つの印を指でたどった。
これなら、町へ帰れば、どちらの建物も歩いて見に行ける。
「さっきまで、宇宙へ行く話だったのに」
「電話を1本通すのに、宇宙まで行く必要はなかったな」
2人は、机の端へ積まれた金具を見た。
真壁がその1つを取り、領都の地図の重石にした。
「いやあ、実によい湯であった!」
戸口から声がして、ヴァルトが振り返った。
紺の浴衣を着た弥兵衛が、両手を袖へ入れて立っていた。
白髪はまだ湿り、整えた髭の下で頬が緩んでいる。
帯へ差した刀だけが、先ほどと変わらぬ角度だった。
「お待たせしてしもうたかの」
「いえ。こちらも、ちょうど一段落しました」
真壁が言うと、弥兵衛は袖から手を出し、その端をつまんだ。
「真壁殿。この浴衣も、下に着るものも、わしのために仕立ててくださったのか」
「寸法はいかがです」
「よい。腕を上げても、襟が引かれぬ」
そう言って片腕を動かし、今度は袖口の縫い合わせを見た。
そのまま調べ始めそうになったが、手を下ろして真壁へ向き直った。
「いや、まずは礼を申さねばな。湯のうえに、着るものまで。かたじけない」
弥兵衛が頭を下げると、真壁も礼を返した。
「こちらこそ、貴重な技を拝見しました。替えもありますので、お持ちください」
作業台へ、畳まれた紺の浴衣がもう1着出てきた。
その横へ肌着と下着が数組、予備の手拭いとともに重なる。
真壁は裾を揃えてから、一式を弥兵衛へ渡した。
「先ほどの手合わせのお礼です」
「刀を新しくしてくれたうえ、これほど頂いては、わしの方が得ばかりしておる」
「よい相手にお付き合いいただけるのは、得難いことですから」
老人は笑い、受け取った布の角を直した。
「次は、そう簡単にはいかぬぞ」
「それは心得ております」
弥兵衛が衣服へ手を添えると、靄が包んだ。
古い着物の繕い跡を、ヴァルトは思い出した。
この浴衣も、長く着てもらえそうだった。
「お2人は、何を楽しげに話しておられた」
弥兵衛が、机に残った気球の絵を覗いた。
気球の横には、牙を剥いたものが飛んでいる。
「……これは、退治の相談かの」
「電話の話です」
ヴァルトが答えると、老人は眉を上げた。
「遠くの者と、声で話すという、あれか」
「空へ浮かべようと思ったのですが。まずは、丘から始めることになりました」
真壁が領都の図を示す。
弥兵衛は2枚を見比べ、それから2人の顔を見た。
「わしが湯に浸かっておる間に、随分と遠くまで行ったものじゃのう」
「帰っては来ました」
ヴァルトが言うと、弥兵衛は声を上げて笑った。
真壁は机の上を片づけながら、時計へ目をやった。
「澪くんが帰ってくる頃合いだ。事業所に戻ろうか」
「澪殿とは、あの不思議な鋼を作った御仁じゃな?」
「ええ。ご紹介しましょう」
弥兵衛の顔が明るくなった。
「それは楽しみじゃ。聞きたいことが山ほどある」
真壁は衛星と気球の図を重ね、最後に領都の地図を上へ載せた。
気球の横で飛んでいた魔物が隠れ、丘と共同商館の印だけが残った。
「質問は夕食の後にしていただけると、助かりますな」
「それは、約束できぬのう」
真壁が笑い、図面を《収納》へしまった。
研究室を出たヴァルトたちが待合室へ寄ると、エレナはちょうど茶碗を置いたところだった。
「弥兵衛殿。よくお似合いだな、その浴衣は」
「こちらで、仕立ててくださってな。湯も、よかったぞ」
「よほどよい湯だったのだな。お顔が、ずいぶんさっぱりした」
エレナが立つと、オスカーも椅子を戻した。
「これから、事業所へ戻ります。弥兵衛殿を、澪さんへご紹介しようと」
ヴァルトが伝えると、少女は老人の方へ向いた。
「では、私もご一緒しよう。弥兵衛殿のお話は、私もまだ聞きたい」
「ほう。何から話したものかの」
エレナはオスカーへ笑いかけた。
「ほら、やはり順番を決めねばならぬ」
オスカーは礼をし、弥兵衛へ道を譲った。
通路へ出ると、浴衣の裾が草鞋の上で軽く揺れた。
弥兵衛は帯を直し、先に歩く真壁へ追いついた。
「しかし、不思議な日じゃ。刀を見たいと出掛けて、着るものまで変わってしもうた」
「鍛冶場へ行けば、まだ変わるかもしれませんよ」
「刀もかの」
「それは、弥兵衛殿次第です」
老人が、また楽しそうに笑った。
広い通路で真壁が足を止め、ヴァルトはエレナとオスカーを隣へ迎えた。
弥兵衛も加わると、真壁が《転移》を使った。
5人の足元から岩床が消え、次の瞬間には、事業所の窓から差す午後の光が、紺の袖を照らしていた。