押し入れの向こうは異世界でした   作:Brooks

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第451話 空に電話線を張りましょう

 

 弥兵衛の笑いが収まっても、話は収まらなかった。

 

「その、ばな……」

 

「バナジウムです」

 

「うむ。それを入れた鋼も、研いでみたいのう。焼きを入れるなら、火の色はどの辺りになる」

 

 腰へ納めた刀を、また抜きかねない顔だった。

 

 真壁は作業台の布を畳み、戸口へ向かった。

 

「続きは鍛冶場でいたしましょう。その前に、ひと風呂いかがですかな」

 

「風呂?」

 

 弥兵衛が、鋼の名を聞いた時とは違う顔で振り返った。

 

「湯に浸かれますよ。石鹸と手拭いもあります」

 

「おお、それはありがたい。川では、こうはゆかぬでな」

 

 襟に残る旅埃を指で払い、外套の前を合わせる。

 

 袖の繕いはまだしっかりしていたが、肩の生地はすっかり柔らかくなっていた。

 

「弥兵衛殿は、風呂もお好きなのだな」

 

 エレナが言うと、老人は目を細めた。

 

「好きじゃとも。温かい湯を見つけて、わざわざ通り過ぎる歳でもあるまい」

 

「鍛冶場は、通り過ぎられぬようだったが」

 

「そちらも、歳には関わりがないのう」

 

 少女が笑い、オスカーも口元を緩めた。

 

 真壁は2人を客用の待合室へ案内し、ヴァルトに研究室で待つよう告げた。

 

 弥兵衛だけを連れ、通路の奥へ進む。

 

 灯りが続く岩壁の間に、湯の湿った匂いが混じり始めた。

 

「この奥は、まだ何があるのじゃ」

 

「今日は、風呂までにしておきましょう」

 

「そう言われると、気になるのう」

 

 真壁は笑って木の扉を開けた。

 

 棚には清潔な手拭いがあり、その先で湯面が明るく揺れている。

 

 弥兵衛は草鞋を脱ぎ、足裏で床を踏んだ。

 

 石や木の根を選んで歩く必要のない床だった。

 

「こちらで身体を洗ってから、お入りください。着替えも用意しますから、ごゆっくり」

 

「いや、そこまで世話を掛けては」

 

「私も、久しぶりによい手合わせをさせていただきました」

 

 真壁が手拭いを渡すと、弥兵衛は両手で受け取った。

 

「では、甘えさせてもらおう」

 

 刀へ添えていた手が、ようやく離れた。

 

 

 

 古い着物を畳むと、袖の裏にも幾つもの縫い目があった。

 

 弥兵衛はほつれを指で戻し、外套とともに《収納》へ収めた。

 

 刀も、湯の掛からぬうちにしまっておく。

 

 桶へ湯を汲んだだけで、肩から力が抜けそうになった。

 

 足を洗い、手拭いに石鹸を含ませると、白い泡が節の間へ入っていく。

 

 よく泡の立つ石鹸だった。

 

 流した湯が床を伝い、旅の土とともに排水口へ消えた。

 

 髪を洗い終えてから、肩へもう一度湯を掛ける。

 

「これは、いかんのう」

 

 誰もいない洗い場で、弥兵衛は笑った。

 

 まだ湯船へ入ってもおらぬのに、立つのが惜しくなってきた。

 

 浴槽へ片足を入れ、縁をつかんで腰を沈めた。

 

 湯が腹を包み、胸へ届く。

 

 息を吐くと、白い髭の先で湯面が揺れた。

 

「……極楽じゃのう」

 

 脚を伸ばした先にも、冷たい石はなかった。

 

 手を開くと、湯の中で太い指がゆっくり動いた。

 

 しばらくは、柄も槌も握らずにいてよさそうだった。

 

 

 

 待合室では、エレナが置いた茶碗の脇で、オスカーの手が半歩の動きをなぞっていた。

 

「弥兵衛殿の木刀は、いつ上がったのだ。私には、もう首の横にあったように見えたぞ」

 

「私が打ち込む時には、既に外へ動かれていました。剣を追ったつもりが、ご本人を捉えられていなかったのです」

 

 オスカーは膝へ手を戻した。

 

「見事でした。悔しいですが」

 

「では、よい手合わせだったのだな」

 

「はい。お尋ねしたいことも、増えてしまいました」

 

 エレナは茶碗を取り、笑った。

 

「弥兵衛殿が湯から戻られたら、今度は質問の順番を決めねばならぬな」

 

 

 

 浴場で弥兵衛が桶を縁へ置くと、からん、と軽い音がした。

 

 湯から出した腕を撫で、また肩まで沈む。

 

 西へ延びる街道にも、まだ知らぬ土地が続いている。

 

 その途中に、これほどよい湯があった。

 

 弥兵衛は目を閉じ、もう少しだけ脚を伸ばした。

 

 

 

 研究室へ戻ってきた真壁は、衛星の図面を脇へ寄せ、代わりに紺の綿布を広げた。

 

 ヴァルトは椅子を引きかけて、その手元を見た。

 

「何を作られるのですか」

 

「弥兵衛殿の浴衣をね。湯上がりに、また旅の着物を着ていただくのも何だろう」

 

 真壁は布の端を折り、首へ当たる辺りを指で撫でた。

 

 手合わせで間合いを測った相手の、今度は身丈を測っている。

 

「寸法は、分かるのですか」

 

「先ほど向かい合ったからな。浴衣なら、多少は帯で合わせられる」

 

 紺の布が靄へ消えた。

 

 真壁は《収納》の中で身頃と袖を切り分け、細く取った布を襟へ回していった。

 

 しばらくして出した身頃を作業台へ重ねると、長さを見てから、再び収納へ戻した。

 

「先ほどの通信衛星の図ですが」

 

 ヴァルトが言うと、真壁は空いた机へ図面を戻した。

 

 大陸図の横に、地上を囲む円と、小さな箱が幾つも描かれている。

 

「うむ。電話を大陸全域へ通したいと思ってね」

 

「そのために、あの箱を空へ?」

 

「通信を中継する人工衛星だ。ゲンダイには、低い軌道へ多数を飛ばす、スターリンクという仕組みがある」

 

 ヴァルトには、聞き覚えのない名だった。

 

 だが、遠くへ電波を届かせるために高い所へ上げる、という考えなら分かる。

 

「空へ通信塔を置くのですね」

 

「置いておければ、話は早いのだがね」

 

 真壁は丸い金具を1つ、円の上へ載せた。

 

 指で押すと、金具は大陸図の上を通り、その先へ離れていった。

 

「低い軌道では、こうして地上の町の上を通り過ぎてしまう」

 

「王都を呼んでいる間に、いなくなりますか」

 

「そのままでは、そうなるね」

 

 真壁はもう1つ金具を出し、最初の後ろへ置いた。

 

「見えなくなる前に、次へつなぐ」

 

 ヴァルトは2つの金具を見てから、円の残りへ目をやった。

 

 まだ、随分と空いていた。

 

「……2つでは、足りませんね」

 

 真壁が返事をする前に、机へ金具が増えた。

 

 並んだ金具の1つを、ヴァルトは地図の上で動かした。

 

 王都から見える位置を離れる前に、後ろの1つを寄せる。

 

 その次も動かしていると、最初に押した金具が紙の外へ滑った。

 

「あ」

 

「実物では、落とさぬようにせねばな」

 

 真壁が拾い上げた金具を受け取り、ヴァルトは空いた所へ戻した。

 

「これは、何機ほど要るのですか」

 

「範囲と軌道によるが、何百機という数も考えねばなるまい」

 

 ヴァルトは手元の金具を、そっと置いた。

 

 机の上なら、2人で拾える。

 

 空へ散らしてしまえば、そうはいかない。

 

「造るだけなら、《収納》で同じものを揃えるとして……」

 

「打ち上げて、軌道へ載せる速度を与える。向きを保ち、電源も持たせる。調子の悪いものは、いずれ直さねばならん」

 

「その数だけ、ですか」

 

「地上で受ける設備も要る。衛星同士と、地上との受け渡しもな」

 

 真壁は図面を寄せ、作業台へ浴衣を出した。

 

 袖の付いた身頃が、紺の長い形になっている。

 

 袖口を開いて指を入れ、脇の継ぎ目を返した。

 

「ここは、もう少し柔らかい方がよいな」

 

 いま造ろうとしているもののうち、少なくとも1つは、湯上がりまでに間に合いそうだった。

 

 ヴァルトは円の外へ、地上の送受信所を描き足した。

 

「電話を使う方は、受話器を取るだけなのでしょう?」

 

「そうしたい」

 

「その裏で、これほど走り回るのですね」

 

 真壁は浴衣を靄へ戻し、金具の群れを見た。

 

「今の我々には無理だな。電話に出る暇までなくなる」

 

 ヴァルトは笑い、王都と領都の印を見比べた。

 

 2つの町で声を交わせれば、それだけでも大仕事だった。

 

 大陸図の端まで、金具を並べることもない。

 

「もう少し、頭上にいてくれるものならよいのですが」

 

 真壁が、衛星の紙の隅へ『将来』と書いた。

 

 ヴァルトは金具を片づけながら、そのうちの1つだけを残した。

 

「なるほど、アドバルーン……」

 

 金具をつまんだまま、ヴァルトは呟いた。

 

 真壁が顔を上げる。

 

「何を宣伝するつもりかね」

 

「いえ、広告ではなく。係留気球方式なら、どうでしょう」

 

 ヴァルトは白紙へ地面を描き、上に気球を、その間に索を引いた。

 

「動くから何機も要るのなら、つないでおけばよいのではありませんか」

 

「地上から、索で引き留めるのか」

 

「はい。飛行船の技術が使えます。浮かべるだけなら、乗客も積み荷も要りません」

 

 気球の下へ、通信装置を収める小さな箱を足す。

 

 飛行船の船室と比べれば、随分と小さく描けた。

 

「浮力はヘリウム。装置と索の重さは《重力》で減らして、風に振られる分を《風》で補う」

 

「それなら、建造の見当はつくな」

 

 真壁が紙を回し、気球の下へ高さを書き込んだ。

 

 10km。

 

 ヴァルトは、地面と気球の間を見直した。

 

 さっきまで何でもなかった1本の線が、急に長くなった。

 

「ずいぶん上げますね」

 

「遠くを見通すには、高い方が有利だ。ただし、あちらは気圧も低い。機器を守る区画と、結界が要るだろう」

 

「索は軽くできても、横風を受ける分は残ります。下から上まで、ずっと」

 

 ヴァルトは線の脇へ、幾つか矢印を描いた。

 

「私がここを引き、真壁さんがあちらを引いたら、真ん中は苦しそうですね」

 

「仲よく同じ方へ引いてくれる風なら、助かるのだが」

 

 2人は図面を見て笑った。

 

 真壁は次に、白い柔らかな布を取り出した。

 

 浴衣の下に着る肌着用だった。

 

 細い糸を引き出して織りに沿わせ、縫い合わせる所へ回していく。

 

 ヴァルトは、気球の外皮にも継ぎ目を描きかけ、止めた。

 

 着物なら、ほつれた所へ手が届く。

 

「何年も浮かべておくなら、魔石の補充はどうしますか」

 

 真壁の方も、ちょうど同じ所へ目を戻していた。

 

 ヴァルトは、地上へ続く索を指した。

 

「ここから送れませんか。地面とつながっているのですから、その中を魔力が流せれば……」

 

 真壁は布から手を離し、新しい紙へ小さな円を描いた。

 

「《安定通魔性結晶材》だな」

 

 細い試料が、机へ置かれる。

 

「中心を通魔材にして、その周りを魔素絶縁材で覆う。外側に、引く力を受ける丈夫な索を組む」

 

 円が2重、3重になった。

 

 ヴァルトは試料の端を持ち、光へかざした。

 

 遊離した魔素を抜いても、よく魔力を通した結晶だった。

 

 あの時に取り分けたものが、今度は空までつなぐ芯になる。

 

「上で《重力》も《風》も動かせますね。予備の魔石は、切れた時の分だけ置いておけます」

 

「索が送魔路にもなれば、補給のたびに上がらずに済む。問題は、その地上側だ」

 

 真壁は細い試料を置き、地面に描いた小箱を鉛筆の尻で叩いた。

 

「何年も送るなら、こちらにも相当な魔力が要る」

 

 ヴァルトが口を開きかけた時、真壁の鉛筆が止まった。

 

「……む」

 

「真壁さん?」

 

「森に、無限ともいえる魔力を放出している場所があるではないか」

 

 ヴァルトも、地面の小箱を見た。

 

 空の気球へ積む魔石ばかり考えていた。

 

「森へ逃がしている、あの分ですか」

 

「うむ。使い道があれば、捨てるばかりでもあるまい」

 

「以前は、余った遊離魔素を人工魔石へ変えましたね。今度は、使う方から話が来ましたか」

 

「ただし、こちらは回収して運ぶ仕組みからだ。森からこの箱へ、鉛筆1本でつなぐわけにはいかん」

 

 真壁は小箱の横に『森』と書き、間を空けておいた。

 

 ヴァルトは、手にした試料をそこへ置いた。

 

 作業台へ、紺の浴衣が出てきた。

 

 真壁は襟の裏を返し、指の腹で縫い代をなぞった。

 

 肌着、下着、帯と重ね、上へ清潔な手拭いを載せる。

 

「まずは、こちらを届けてこよう」

 

 戸口を出た真壁が、畳んだ衣服を抱え直した。

 

「弥兵衛殿。まだお湯ですか」

 

 浴場の手前で呼び掛けると、桶を置く音のあとに返事があった。

 

「うむ。つい、長居をしておる」

 

「脱衣所の棚へ、着替えを置いておきます」

 

「おお、かたじけない。もう出ようと思うておったところじゃ」

 

「急がずとも結構ですよ」

 

「そうか。では、もう少し」

 

 真壁は一式を棚へ置き、戸口で笑ってから引き返した。

 

 研究室へ戻ると、ヴァルトは気球の絵へ、尖った嘴を描き足していた。

 

 真壁がそれを覗き込んだ。

 

「新しい部品かね」

 

「鳥です」

 

「なるほど」

 

「しかし、鳥がつついたら終わりですね」

 

 真壁は椅子へ座り、気球の中を幾つかに分けた。

 

「気嚢を分けておけば、1つの穴で全部のガスは失わない。外側は結界で覆おう」

 

「ええ。普通の鳥なら、それで」

 

 ヴァルトは、横へもう1つ描き始めた。

 

 今度の翼は、気球の絵より大きかった。

 

 嘴のつもりで描いた先へ、牙まで生えた。

 

「では、飛行魔物が係留索を狙ったら?」

 

 真壁は、新しく描かれたものを見た。

 

「……ヴァルト君。鳥の話ではなかったのかね」

 

「鳥だけで済んでくれれば、私も助かります」

 

 ヴァルトが言うと、真壁は短く笑った。

 

 気球を10kmまで上げれば、よいというものでもなかった。

 

 索はそこから地面まで、ずっと続いている。

 

 どの高さに何が飛ぶにしても、狙える所は長かった。

 

 ヴァルトは線の途中を指で隠した。

 

「ここが切れれば、魔力も来なくなります」

 

「索の保護も要るな。気球側には、供給が絶えた時の分も持たせる」

 

 真壁は予備の魔石を描き、索へも結界を添えた。

 

 ヴァルトが風の矢印を指すと、索を支える所が、もう1つ増えた。

 

 気球の下の小さな箱には、書き込む余地がなくなってきた。

 

「防御を増やすほど、重くなりますね」

 

「重くなれば、軽くする分の魔力も増す」

 

「結界を破ろうとされたら、そちらにも取られます」

 

 真壁は鉛筆を置き、腕を組んで絵を眺めた。

 

「電話を置くつもりが、砦になってきたな」

 

「浮いている分、砦より手が掛かりそうです」

 

 ヴァルトも鉛筆を置いた。

 

 出来ない、とまでは思わなかった。

 

 だが、この空中の砦から最初の声が届くまでに、2人とも随分と働くことになりそうだった。

 

 真壁は、気球の紙の下から、大陸図を引き抜いた。

 

「待て。最初から大陸全部をつなぐ必要はあるまい」

 

 真壁が王都の印から、領都へ指を戻した。

 

「まず領都だけ、ですか」

 

「うむ。侯爵邸の丘に、通信塔を建てればよい」

 

 ヴァルトは、侯爵邸から見た町を思い浮かべた。

 

 屋根が続き、その先を人や馬車が動いていた。

 

 気球を上げずとも、あの丘は既に町より高い。

 

「丘を使わせていただければ、見通しはよさそうですね」

 

「侯爵家には相談しよう。建物で遮られる所には、小型の中継器を置けばよい」

 

 真壁は領都の地図を出し、侯爵邸の位置へ塔を描いた。

 

 今度は、その下に索がなかった。

 

 ヴァルトは図の端へ、共同商館を見つけた。

 

「最初は、どことどこを通話させましょう」

 

「侯爵邸と共同商館だな」

 

 真壁の鉛筆が、2つの建物の間をつないだ。

 

「用件ひとつ伝えるのに、人を出さずに済む。相手がいるか、返事は何か、その場で聞ける」

 

「商館から使いを出したら、先方もちょうど出発したあとだった、などということも減りますね」

 

「まずは、そこで声を通そう。町へ広げるのは、そのあとだ」

 

 ヴァルトは地図の両端へ小さな印を足した。

 

 受話器と送受信機を、互いにつながる形で用意する。

 

 まだ実物のないものだったが、使う2人がどこに立つかは、もう分かった。

 

「電源は、手持ちの魔石で始められそうですね」

 

「あの気球を守り続けるよりは、随分と軽い仕事になる」

 

「森の余剰魔力は?」

 

 真壁は、索の断面を描いた紙を捨てずに、衛星の紙と重ねた。

 

「王都や、その先へ広げる時に使いたい。回収と運搬の仕組みを考えておこう。気球の出番もあるだろう」

 

 ヴァルトは領都の地図へ戻り、2つの印を指でたどった。

 

 これなら、町へ帰れば、どちらの建物も歩いて見に行ける。

 

「さっきまで、宇宙へ行く話だったのに」

 

「電話を1本通すのに、宇宙まで行く必要はなかったな」

 

 2人は、机の端へ積まれた金具を見た。

 

 真壁がその1つを取り、領都の地図の重石にした。

 

 

 

「いやあ、実によい湯であった!」

 

 戸口から声がして、ヴァルトが振り返った。

 

 紺の浴衣を着た弥兵衛が、両手を袖へ入れて立っていた。

 

 白髪はまだ湿り、整えた髭の下で頬が緩んでいる。

 

 帯へ差した刀だけが、先ほどと変わらぬ角度だった。

 

「お待たせしてしもうたかの」

 

「いえ。こちらも、ちょうど一段落しました」

 

 真壁が言うと、弥兵衛は袖から手を出し、その端をつまんだ。

 

「真壁殿。この浴衣も、下に着るものも、わしのために仕立ててくださったのか」

 

「寸法はいかがです」

 

「よい。腕を上げても、襟が引かれぬ」

 

 そう言って片腕を動かし、今度は袖口の縫い合わせを見た。

 

 そのまま調べ始めそうになったが、手を下ろして真壁へ向き直った。

 

「いや、まずは礼を申さねばな。湯のうえに、着るものまで。かたじけない」

 

 弥兵衛が頭を下げると、真壁も礼を返した。

 

「こちらこそ、貴重な技を拝見しました。替えもありますので、お持ちください」

 

 作業台へ、畳まれた紺の浴衣がもう1着出てきた。

 

 その横へ肌着と下着が数組、予備の手拭いとともに重なる。

 

 真壁は裾を揃えてから、一式を弥兵衛へ渡した。

 

「先ほどの手合わせのお礼です」

 

「刀を新しくしてくれたうえ、これほど頂いては、わしの方が得ばかりしておる」

 

「よい相手にお付き合いいただけるのは、得難いことですから」

 

 老人は笑い、受け取った布の角を直した。

 

「次は、そう簡単にはいかぬぞ」

 

「それは心得ております」

 

 弥兵衛が衣服へ手を添えると、靄が包んだ。

 

 古い着物の繕い跡を、ヴァルトは思い出した。

 

 この浴衣も、長く着てもらえそうだった。

 

「お2人は、何を楽しげに話しておられた」

 

 弥兵衛が、机に残った気球の絵を覗いた。

 

 気球の横には、牙を剥いたものが飛んでいる。

 

「……これは、退治の相談かの」

 

「電話の話です」

 

 ヴァルトが答えると、老人は眉を上げた。

 

「遠くの者と、声で話すという、あれか」

 

「空へ浮かべようと思ったのですが。まずは、丘から始めることになりました」

 

 真壁が領都の図を示す。

 

 弥兵衛は2枚を見比べ、それから2人の顔を見た。

 

「わしが湯に浸かっておる間に、随分と遠くまで行ったものじゃのう」

 

「帰っては来ました」

 

 ヴァルトが言うと、弥兵衛は声を上げて笑った。

 

 真壁は机の上を片づけながら、時計へ目をやった。

 

「澪くんが帰ってくる頃合いだ。事業所に戻ろうか」

 

「澪殿とは、あの不思議な鋼を作った御仁じゃな?」

 

「ええ。ご紹介しましょう」

 

 弥兵衛の顔が明るくなった。

 

「それは楽しみじゃ。聞きたいことが山ほどある」

 

 真壁は衛星と気球の図を重ね、最後に領都の地図を上へ載せた。

 

 気球の横で飛んでいた魔物が隠れ、丘と共同商館の印だけが残った。

 

「質問は夕食の後にしていただけると、助かりますな」

 

「それは、約束できぬのう」

 

 真壁が笑い、図面を《収納》へしまった。

 

 研究室を出たヴァルトたちが待合室へ寄ると、エレナはちょうど茶碗を置いたところだった。

 

「弥兵衛殿。よくお似合いだな、その浴衣は」

 

「こちらで、仕立ててくださってな。湯も、よかったぞ」

 

「よほどよい湯だったのだな。お顔が、ずいぶんさっぱりした」

 

 エレナが立つと、オスカーも椅子を戻した。

 

「これから、事業所へ戻ります。弥兵衛殿を、澪さんへご紹介しようと」

 

 ヴァルトが伝えると、少女は老人の方へ向いた。

 

「では、私もご一緒しよう。弥兵衛殿のお話は、私もまだ聞きたい」

 

「ほう。何から話したものかの」

 

 エレナはオスカーへ笑いかけた。

 

「ほら、やはり順番を決めねばならぬ」

 

 オスカーは礼をし、弥兵衛へ道を譲った。

 

 通路へ出ると、浴衣の裾が草鞋の上で軽く揺れた。

 

 弥兵衛は帯を直し、先に歩く真壁へ追いついた。

 

「しかし、不思議な日じゃ。刀を見たいと出掛けて、着るものまで変わってしもうた」

 

「鍛冶場へ行けば、まだ変わるかもしれませんよ」

 

「刀もかの」

 

「それは、弥兵衛殿次第です」

 

 老人が、また楽しそうに笑った。

 

 広い通路で真壁が足を止め、ヴァルトはエレナとオスカーを隣へ迎えた。

 

 弥兵衛も加わると、真壁が《転移》を使った。

 

 5人の足元から岩床が消え、次の瞬間には、事業所の窓から差す午後の光が、紺の袖を照らしていた。

 

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