押し入れの向こうは異世界でした   作:Brooks

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第452話 まだ半分も話しておらん

 

 

 真壁が戸を開けると、外を行く荷車の音が、急にはっきり聞こえた。

 

 弥兵衛は玄関を出て、紺の袖へ当たる陽を見た。

 

 風呂上がりの肌を、初夏の風が撫でていく。

 

「今度は、ちゃんと歩いて出られたのう」

 

 老人が言うと、ヴァルトは笑った。

 

「ここから先は、普通の道です」

 

「道まで、油断のならぬ日じゃ」

 

 エレナも戸口を抜けたところで、通りの向こうから男が近づいてきた。

 

 裾に道の埃を付けた男は、少女の前で足を止め、一礼した。

 

「エレナ様。アルベルト様から、お戻りになるようにとのお言葉です」

 

「兄上からか」

 

 エレナは弥兵衛を振り返った。

 

「分かった。すぐ戻ろう」

 

「ありがとうございます。それと、真壁殿、ヴァルト殿。アルベルト様から、お二方にも今夜、館へお越しいただきたいとのことです」

 

「承知しました。今夜、アルベルト殿の館へ伺います」

 

 真壁が答えると、ヴァルトも礼を返した。

 

 オスカーは通りを横切る荷車を見送り、エレナの通る方を空けた。

 

「弥兵衛殿。また話を聞かせてほしい。私も、まだ伺いたいことがあるのだ」

 

「うむ。今日は、よい所を案内してくださった。礼を申す」

 

「こちらこそ。オスカーとの一合も、忘れられそうにない」

 

 オスカーが、老人へ頭を下げた。

 

「お相手いただき、ありがとうございました」

 

「よい稽古であったよ。また、参られよ」

 

 オスカーはエレナに続いた。

 

 使者と3人で通りへ出ると、少女が振り返って手を上げる。

 

 弥兵衛も手を上げた。

 

「お二人とも、忙しい身じゃったか」

 

「まだ、少し時間はあります。澪くんへのご紹介を先にしましょう」

 

 真壁が玄関の方へ戻りかけた時、入口の脇から、よく通る声がした。

 

「理央、終わったニャ? ご飯に行くニャ!」

 

 戸口から出てきた理央へ、レイニャが手を上げていた。

 

 ハープを背負い直し、三毛の耳をぴんと立てている。

 

「お待たせしました。行きましょう……あれ、真壁さん?」

 

 理央の足が止まるより先に、レイニャが弥兵衛を見つけた。

 

「弥兵衛のお爺ちゃん!」

 

「おお、歌い手殿。また会えたのう。昨夜は、よい歌じゃった。今朝も、道で思い出しておったよ」

 

「ありがとニャ。その着物、昨日と違うニャ」

 

「こちらで風呂を頂いてな。着るものまで、こしらえてくださった」

 

 弥兵衛が袖をつまむと、レイニャは真壁を見た。

 

「お二人、お知り合いですか?」

 

「昨日、歌を聴いてくれたニャ。旅の話もしてくれたニャ」

 

「レイニャの歌を聴きに来たら、わしの方が、よう喋ってしもうてな」

 

「まだ、聞きたかったニャ」

 

「それは、よい聞き手に会うた」

 

 真壁が、理央に声を掛けた。

 

「理央君。こちらは弥兵衛殿。東から、旅をしてこられた方だ」

 

「飯島理央です。よろしくお願いします」

 

「弥兵衛じゃ。こちらこそ、よろしゅう」

 

 理央が礼をすると、老人も丁寧に返した。

 

 紺の浴衣は新しかったが、腰の鞘は長く使われたものだった。

 

 理央の目がそこへ留まると、弥兵衛は柄に軽く手を添えた。

 

「これにも、今日は世話を掛けてな」

 

「刀に、ですか?」

 

「その話も、あとでいたしましょう」

 

 真壁が言い、ヴァルトが口元を隠した。

 

 理央は事業所の中を振り返った。

 

「澪さんも、もう戻ってますよ」

 

 そう言ったところへ、戸の開く音が重なった。

 

 

 

「真壁さん、お帰りなさい」

 

 澪が玄関へ出ると、見知らぬ老人が、こちらへ向き直った。

 

 紺の浴衣に刀を差し、履物は草鞋だった。

 

 白い髭の下に、穏やかな笑みがある。

 

「澪くん。ご紹介しよう。弥兵衛殿だ。剣も鍛冶もなさる、旅の御仁でね」

 

「篠原澪です。よろしくお願いします」

 

「おお、お主が澪殿か。ようやく、お目に掛かれた」

 

 老人の目が、澪の足元で止まった。

 

 小さくなっていたマカミが、前足を揃えたまま顔を上げる。

 

 弥兵衛は柄へ手を掛けず、しばらく小さな狼を見ていた。

 

 次いで、肩のシロガネへ目を移した。

 

 白猫も、金色の目で老人を見返している。

 

「……これは、面白い連れをお持ちじゃのう」

 

「マカミとシロガネですか?」

 

「その狼、本当はもっと大きいであろう」

 

 澪は思わず足元を見た。

 

 マカミは、何も変わらぬ顔をしている。

 

「分かるんですか? 本当は、3メートルくらいなんですけど」

 

「はっはっは。それは、ちと大きい、では済まぬな」

 

 弥兵衛は笑ってから、白猫の方へ少し声を落とした。

 

「こちらは……神気まで感じる。不思議な猫じゃのう」

 

 シロガネの耳が、片方だけ動いた。

 

 澪が老人へ目を戻すと、隣で理央が黙り込んでいた。

 

 あ、と思い、澪も《鑑定》を使った。

 

----------------------------------

弥兵衛

 分類:人間/東方出身

 年齢:78歳

 現在ジョブ:剣豪

 レベル:48

----------------------------------

既得スキル

 剣術:10

 居合:10

 見切り:10

 心眼:10

 悪食:10

 鑑定:10

 収納:10

 鍛冶:10

 気配察知:10

----------------------------------

 

 読み進めかけた澪は、老人の顔を見直した。

 

 気配察知も、心眼も10。

 

 あの小さな姿の向こうにいるマカミが、分かったのだ。

 

「弥兵衛さん……剣豪、なんですね」

 

「長く、刀を振っておったからのう」

 

 理央がようやく口を開いた。

 

「鍛冶も、10……」

 

「自分の刀で、よう失敗した。使うてみれば、直したい所が出てくるでな」

 

 真壁は、老人の刀へ目を向けた。

 

「私も先ほど、お相手いただいた。使っておられる刀には、タングステンを加えてある」

 

「えっ、それで、この刀に?」

 

 澪が鞘へ目をやると、弥兵衛は嬉しそうに頷いた。

 

「あの金属のことも、聞きたかったのじゃ。研いでみるのが楽しみでな」

 

 玄関を出入りする者へ道を譲り、澪たちは入口の脇へ寄った。

 

 シロガネが澪の肩で座り直すと、弥兵衛の笑みが、少し柔らかくなった。

 

「よい猫じゃのう」

 

「かわいいでしょう」

 

 澪が答えると、白い尾が襟の脇へ下りた。

 

 弥兵衛はその先を見てから、目を細めた。

 

「わしものう、たいそう、かわいがっておった連れがいたんじゃが」

 

 声が、先ほどよりゆっくりになった。

 

「数年前に、亡くなってのう」

 

 澪は、笑いかけた口を閉じた。

 

 理央も、老人の次の言葉を待っている。

 

「西へ、霊体が旅立つのを感じたのじゃ。それで、こうして追いかけておる」

 

 レイニャの耳が、老人の方へ向いた。

 

「半身の魂、って言ってたニャ」

 

「うむ」

 

「だから、西へ行くんだニャ」

 

 弥兵衛は頷き、通りを渡っていく人々へ目をやった。

 

 荷車の車輪が敷石の継ぎ目を越え、後ろから押していた男が一声掛けた。

 

「……もう1度、会いたいんですね」

 

 澪が言うと、老人はこちらを向いた。

 

「そうじゃのう」

 

 シロガネは何も言わず、金色の目で弥兵衛を見ていた。

 

 どこまで行けば会えるのか、澪には分からなかった。

 

 ただ、このまま挨拶だけして別れるのは惜しかった。

 

「よかったら、夕ご飯を一緒にいかがですか。私も、まだなんです」

 

「それは、ありがたい」

 

 弥兵衛の返事は早かった。

 

「ちょうど、魚を食べに行こうと思っていたところです」

 

 理央が言うと、レイニャがすかさず顔を上げた。

 

「焼いたのも、煮たのもあるニャ!」

 

「ほう。どちらもあるのか」

 

「選ぶのが大変ニャ」

 

「それは、なかなかの難問じゃ」

 

 澪は笑い、真壁たちへ向き直った。

 

 真壁は片手を上げた。

 

「私とヴァルト君は、今夜、アルベルト殿の館へ伺うことになった。弥兵衛殿のご案内を頼めるかね」

 

「はい。承知しました」

 

「楽しい夕食を。弥兵衛さんの旅の話は、私も続きを伺いたいです」

 

 ヴァルトが言い、老人へ会釈した。

 

「お二人とも、よう世話をしてくださった。また、お付き合いくだされ」

 

 弥兵衛の礼へ、真壁も丁寧に返した。

 

 2人を見送って、澪たちは共同商館へ向かった。

 

 まだ明るい通りでは、店先の品を片づけ始めた者と、夕飯の客を待つ者が、隣り合って声を交わしていた。

 

 

 

 共同商館へ着く前に、澪は足元のマカミへ声を掛けた。

 

「中で、ご飯を食べてくるね」

 

 マカミが顔を上げ、澪は《生体収納》へ戻した。

 

 肩のシロガネも腕を伝って掌へ降りると、自分から《収納》の中へ姿を移した。

 

 弥兵衛はその様子を見ていたが、何も訊かなかった。

 

 階段を下りた途端、焼けた魚の匂いが、澪たちを迎えた。

 

 夕食の客が盆を手に行き交い、空いた卓を見つけた子どもが、親を呼んでいる。

 

 奥の店で皿を重ねる音に、煮物をよそう店員の声が重なった。

 

「これじゃな」

 

 弥兵衛は、もう魚の店へ顔を向けていた。

 

 網から下ろされた魚の皮が、ぱち、と小さく鳴った。

 

 隣の鍋では、醤油色の煮汁を含んだ身が、湯気を上げている。

 

「焼いたのは、皮が旨そうじゃ」

 

「煮たのは、汁がご飯に合うニャ」

 

 レイニャが答えた。

 

 弥兵衛は両方を見て、真剣な顔になった。

 

「これは、先に言うておいてくれて、よかった」

 

「何をですか?」

 

「選ぶのが難しいと」

 

 理央が吹き出し、澪も笑いながら盆を取った。

 

 それぞれに料理を頼み、代金を払って卓へ運ぶ。

 

 弥兵衛の前には焼き魚と米飯、味噌汁が並んだ。

 

 レイニャは煮魚を選び、皿の縁から流れそうな汁を気にしながら座った。

 

「お酒は、どうします?」

 

「焼酎じゃ」

 

「そこは、迷わないんですね」

 

「昨日、よいものを買うたでな」

 

 弥兵衛はリュシアの商館で、味噌と醤油、芋焼酎を買ったことを話した。

 

 澪は、湯気の向こうで頷いた。

 

「作っているのは、リュシアさんたちの食品会社なんです。この魚は、うちの商会で仕入れたものですよ」

 

「あの味を伝えたのも、お主らと聞いた」

 

 弥兵衛は箸を持ち、焼き魚の背へ入れた。

 

 ぱりっと割れた皮の下から、白い身がほぐれる。

 

 醤油を少し付けて口へ運ぶと、老人は、しばらく何も言わなかった。

 

 ゆっくり飲み込み、それから味噌汁をひと口飲む。

 

「……ああ、こりゃ嬉しいのう」

 

 今度は、米飯へ箸が伸びた。

 

「味噌も醤油もありがたいが、この味で魚まで食えるとは」

 

「よかったです」

 

「わしを、西へ行かせぬつもりかの」

 

 理央が笑い、湯呑みを卓へ置いた。

 

「そんなつもりはないですよ。でも、旅のお話は聞きたいです」

 

「わしの話でよければ、いくらでも」

 

「昨日の続きも、聞くニャ」

 

 レイニャが身を寄せると、弥兵衛は焼酎の杯を持ち上げた。

 

「よい膳じゃ。話も、よう進みそうじゃな」

 

「東の国では、迷宮にも入ったんですか?」

 

 理央が尋ねると、弥兵衛は魚の背骨を外していた箸を止めた。

 

「うむ。新しく見つかったところへ、入ったことがある」

 

「新しい迷宮……」

 

「奥へ行くほど、ひどく大きなものの気配がしてな。誰も近づけぬという話じゃった」

 

 弥兵衛は、空いた皿へ骨を寄せた。

 

「案内してくれた者は、入口の近くまでじゃ。そこから先は、壁も床も、じっとり濡れておった」

 

 歩くたびに、狭い通路へ草鞋の音が返ってきたという。

 

 石の間を水が流れ、角を曲がると、灯りの届かぬ先から息遣いが聞こえた。

 

「こちらが止まると、向こうも止まる。進むと、奥で石が鳴る」

 

「気づいていたんですね、向こうも」

 

「待っておったのかもしれぬな。広い所へ出ると、正面の暗がりから、来よった」

 

 老人の声は穏やかだったが、澪の箸は止まっていた。

 

 先ほどまで、足元で揺れていた小さなマカミの尾を思い出す。

 

 こちらから見えない大きな相手が、濡れた床の向こうで動いている。

 

「灯りが揺れた時に、足元の水が見えた。正面から飛び込めば、踏ん張りが利かぬ」

 

「どうしたんですか?」

 

「待った」

 

 弥兵衛は箸を下ろし、卓の空いた所へ指先を置いた。

 

「向こうが先に踏み込んだ。重みの掛かった足は、すぐには戻らぬ。その脇に、乾いた石が見えておってな」

 

 石床へ衝撃が走り、水が跳ねた。

 

 弥兵衛は正面を外し、その石へ足を置いた。

 

 近づく力の横へ身体を運び、抜いた刀を合わせた。

 

 擦れるような刃の音のあと、大きなものが背後で崩れたという。

 

「それで、1つ斬った」

 

「……迷宮の主を?」

 

「ほかに何も近づいてこなんだ。動かぬのを見届けてから、刀を納めたよ」

 

 理央は、卓の上の指先を見ていた。

 

「でも、その石へ動く間に、向こうが向きを変えたら?」

 

「だから、踏み込むまで待つのじゃ。まだ、どちらへでも行ける相手には、寄りとうない」

 

 弥兵衛が指を引くと、澪はようやく息を吐いた。

 

「それ、今みたいに簡単に言える話じゃないですよね」

 

「いや、難儀したのは帰りじゃった」

 

 老人は箸を取り、魚をひと口食べた。

 

 理央が瞬きをする。

 

「帰り?」

 

「同じ角を二度曲がったつもりになってな。しばらく、出口が見つからなんだ」

 

「気配で、分からないんですか?」

 

「人のおる方は分かっても、その手前に壁があっては、歩いて回らねばならぬでな」

 

 レイニャの耳が、ふっと横へ開いた。

 

「迷宮主より、帰る方が大変だったニャ?」

 

「腹が減っておったから、間違いなくそうじゃ」

 

「倒してからが、長いんですね……」

 

「ようやく明るい所へ出たら、皆が何を見た、何があったと寄ってきてのう。まず、飯をくれと頼んだ」

 

 澪は笑い、冷めかけた味噌汁を飲んだ。

 

 理央が、もう次の問いを探す顔をしている。

 

 弥兵衛の方は魚を惜しまずほぐし、骨の間に残った身まで、きれいに取っていた。

 

「人の話を聞く方が、剣を振るうより難しかった国もある」

 

 弥兵衛が言った。

 

「東の、別の国じゃ。わしが通る頃には国が倒れて、残った者たちが、新しく国を興そうとしておってな」

 

「国を……」

 

 理央は湯呑みを持ったまま、老人を見た。

 

「村や町から人が集まる。その道を、武装した者たちが塞いでおった」

 

 橋の手前には、食料袋を積んだ荷車が並んでいたという。

 

 泥へ落ちた車輪を押し上げても、その先へ進めない。

 

 人の肩越しに小さな子どもが顔を出し、先頭の様子を見ようとしていた。

 

「話し合いに出る者も、荷を運ぶ者も通れぬ。後ろには、まだまだ人がおってな」

 

「弥兵衛さんも、そこへ?」

 

「たまたま、行き会うたのじゃ。先へ通してやってもらえぬかと、頼んだのじゃが」

 

 弥兵衛は、杯を卓の端へ置いた。

 

「返事の代わりに、剣が来た」

 

 振り下ろされた刃を外し、抜き合わせた刀で、その剣を手から弾いた。

 

 次に向かってきた者の武器も、足元へ落ちた。

 

 弥兵衛が橋の入口へ立つと、後ろの荷車が動き始めたという。

 

「また向かってくれば、その度に払うた。通りたい者の足が止まらぬようにのう」

 

 板を鳴らして荷車が渡り、袋を抱えた者が続いた。

 

 橋の向こうからも、早く来いと声が掛かる。

 

 最後尾の子どもが振り返り、手を振っていった。

 

「その者たちが集まって、国ができた」

 

 老人はそれで、話を終えるように箸を取った。

 

 理央が身を乗り出した。

 

「待ってください。それ、国を作った人たちを、助けたってことですよね?」

 

「わしは、皆を通しただけじゃ。国を興したのは、その者たちよ」

 

「それだけ、って……」

 

 澪も口を挟んだが、弥兵衛は魚をひと口食べてから笑った。

 

「渡った先で、皆に声を掛け、荷を下ろし、困った者を集めておった御仁がいてな。そのお方が、のちの女王陛下じゃ」

 

「橋に、いらっしゃったんですか」

 

「うむ。自分も最後まで、あちらこちらへ走っておった。よいお方でのう」

 

 弥兵衛は味噌汁を飲み、椀を置いた。

 

「じゃが、国が落ち着いて、そろそろ旅に戻ろうとした時が、困った」

 

「今度は、何があったんですか?」

 

「女王陛下が、わしを婿にすると仰ってな」

 

 理央の口が、開いたまま止まった。

 

 澪も、持ち上げかけた箸を皿へ戻した。

 

「……お婿さん?」

 

「うむ」

 

「弥兵衛さん、78歳、ですよね?」

 

「今はな。じゃが、その折も、とうに年寄りじゃった」

 

 老人が髭を撫でた。

 

「わしも、それを申し上げた。すると、『それが何か』と仰る」

 

 レイニャの耳が、ぴんと立った。

 

「その女王様、強いニャ」

 

「そうなのじゃ。こちらは、どうにも間合いが取れぬ」

 

 理央が堪えきれず笑い、澪もつられて肩を揺らした。

 

「でも、どうして弥兵衛さんに?」

 

「民を先に通したことを、よう覚えておられた。これからも一緒に、国を支えてほしいと。ありがたいお言葉じゃったよ」

 

 弥兵衛は、杯を持ち直した。

 

「じゃが、わしには、続ける旅があるでな。何度も、頭を下げてお断りした」

 

「それで、諦めてくださったんですか?」

 

「『旅の身ですので』と申せば、『では、お戻りになってから』と仰る」

 

「帰りまで、待ってくれるんですか……」

 

「立派なお方じゃった。じゃからこそ、中途半端な返事もできぬ」

 

 老人は目を細め、それから照れたように笑った。

 

「とうとう、朝早くに礼状を残して、国境の方へ出てしもうた」

 

「逃げてきたニャ?」

 

「うむ。国も落ち着いて、皆が暮らしてゆけるのは見届けた。あとは、わしが捕まる前にのう」

 

 理央はとうとう湯呑みを置き、口元を押さえた。

 

「迷宮の主には、向かっていったのに」

 

「はっはっは。剣では、どうにもならぬ相手であった」

 

 弥兵衛は焼酎をひと口飲み、今も断りにくそうな顔で、髭の先を撫でた。

 

 隣の店から、肉の焼ける匂いが流れてきた。

 

 レイニャが鼻を動かし、弥兵衛へ顔を向ける。

 

「この前の、馬のお乳のお酒の国でも、何かあったニャ?」

 

「おお、あの草原か。あそこでも、世話になったのう」

 

「器に、砂が入るんだニャ」

 

「よく覚えておる。あれは、忘れられぬ」

 

 弥兵衛は杯の中を見てから、笑った。

 

 草原で泊めてもらった集落では、夜になると家畜が襲われていたという。

 

 朝、馬や羊を数えると、昨日より減っている。

 

 子どもたちは囲いの隅から暗い草地を窺い、年長者は、焚き火へ枝を足し続けていた。

 

「馬も羊も、よく落ち着かなんだ。夜中に、皆がいっぺんに頭を上げる」

 

「魔物が、近くにいたんですか」

 

「うむ。翌晩、踏み荒らされた草を見に行った。獣道の先で、妙に静かな所があってな」

 

 弥兵衛は、その手前で待ったという。

 

 背後には家畜のいる囲いがあり、子どもたちも、まだその中にいた。

 

「そこへ呼び込んでは、羊も走り回る。わしが、外へ寄った」

 

 乾いた草が擦れる向こうで、重い足音の向きが変わった。

 

 弥兵衛が更に集落から離れると、そちらを追ってきたという。

 

 突進を横へ外し、通り抜ける身体へ刃を合わせた。

 

 魔物が崩れても、囲いの方へは届かなかった。

 

「動かぬのを見届けて戻ったら、『そんな歳で、1人で出ていくな。帰らなかったら、どうする』と、婆様に怒鳴られた」

 

 弥兵衛の声が、叱る者の調子になった。

 

 澪の胸に、病院の廊下で聞いた家族の声が、ふと重なった。

 

「助けたのに、怒られちゃったんですか」

 

「魔物を斬ったと申し上げても、その前に、黙って出ていった話をしておる、と」

 

 理央が頷いた。

 

「それは、そうかもしれません」

 

「まったく、仰るとおりでのう」

 

 弥兵衛は、ちっとも困った顔をしていなかった。

 

「皆のことを思う婆様じゃ。気に入ってしもうたよ」

 

「じゃあ、お肉とお酒で仲直りしたニャ?」

 

「そのとおりじゃ。こちらへ座れ、もっと食えと、今度は食事の間も忙しかった」

 

 翌朝には、子どもたちが囲いを出て、水を汲みに走っていったという。

 

 馬の背から降りる子へ手を貸すと、今度は何を斬れるかと訊かれた。

 

「皆、よう喋った。羊のこと、馬のこと。わしの草鞋が、いつまでもつかという話までしてのう」

 

「心配されてるニャ」

 

「そうじゃな」

 

 弥兵衛は骨張った手を杯へ伸ばし、ゆっくり持ち上げた。

 

「焼いた肉は、旨かった。酒には、砂が入っておったが」

 

 レイニャが笑い、理央も湯呑みを取った。

 

 澪は、老人の足元へ目をやった。

 

 紺の浴衣の下に、何度も直した草鞋が揃っていた。

 

 弥兵衛は残った魚の身を返し、小骨を箸先で外した。

 

 話す間も食べることは忘れず、食べ終えると、またこちらの問いを待ってくれる。

 

 理央が湯呑みを両手で包み、ふと笑った。

 

「弥兵衛さんって、なんだか、お祖父ちゃんみたいですね」

 

「ほう。似ておるかの」

 

「顔じゃなくて……こうしてお話を聞いてると、思い出しちゃって」

 

 弥兵衛が、静かに杯を置いた。

 

 理央は老人を見て、笑みを残したまま続けた。

 

「私のお祖父ちゃんは、もう亡くなってるんですけど」

 

「そうか」

 

「もっと、昔の話を聞いておけばよかったなって。あの時は、あとで聞けばいいや、って思ってたこともあって」

 

 近くの卓で、客が店へ空いた皿を返していた。

 

 盆が重なり、店員が礼を言う声が聞こえた。

 

 理央は湯呑みの縁を見てから、弥兵衛へ向き直った。

 

「お祖父ちゃんにも、私が知らない話が、いっぱいあったんでしょうね」

 

 弥兵衛は頷いたが、すぐには何も言わなかった。

 

 理央も、そのままひと口飲んだ。

 

「澪さんのお祖父さんは、お元気ですか?」

 

「はい。今も、元気です」

 

 澪の口元が緩んだ。

 

「骨折して入院してたんですけど、お正月に退院したら、すぐ初詣に行くって言い出して。神社くらい行ける、って」

 

 家族で歩いた、元日の空気を思い出した。

 

 ついこの間まで病院にいたのに、祖父は自分も行くと譲らなかった。

 

「言うこと、聞かないんですよ」

 

「はっはっは。わしと、気が合いそうじゃのう」

 

「さっきの草原の婆様にも、同じことを言われそうです」

 

「それは、いかん。わしと並べて、叱られてしまう」

 

 理央が笑い、レイニャの耳も揺れた。

 

 澪は椀を取り、少し残った味噌汁を飲んだ。

 

 あの時、祖父は古い道具も譲ってくれた。

 

 次に会ったら、あれを使っていた頃の話を聞いてみよう。

 

 何を最初に作ったのか、どうしてその道具を選んだのか。

 

「弥兵衛さん」

 

 理央が卓へ湯呑みを置いた。

 

「私、もっと旅のお話を聞きたいです」

 

「うむ。よいとも」

 

 老人の返事に、レイニャが空いた皿を持ち上げた。

 

「それなら、おかわりするニャ!」

 

「わしも、魚をもう1皿じゃ。今度は、煮たものがよいのう」

 

 理央の顔が、2人の間を往復した。

 

「まだ食べるんですか?」

 

「最初に、選ぶのが難しいと申したであろう。片方しか食べずに帰っては、気になる」

 

「だから、両方あると言ったニャ」

 

 レイニャが胸を張り、澪は笑って自分の皿を寄せた。

 

「じゃあ、持ってくるの、手伝いますね」

 

 理央は2人の空いた皿を受け取りながら、なおも弥兵衛へ顔を向けた。

 

「お魚もですけど、お話の続きも。まだ、あるんですよね?」

 

 弥兵衛は杯を置き、白い髭の下で大きく笑った。

 

「はっはっは! 何しろ78年も生きておる。まだ半分も話しておらん」

 

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総合評価:3302/評価:8.63/連載:23話/更新日時:2026年10月31日(土) 20:03 小説情報

男が希少な異世界の未開地に転移したら都市伝説になった(作者:パンダプリン)(オリジナル:ファンタジー/日常)

ある日、目が覚めるとそこは異世界の森の中でした。▼異世界の中でも特に強者が住まうため、現地の者たちが立ち入ることを拒むその森で出会った一匹の狼と生活するうちに、いつしか人々は彼の存在を噂します。▼「禁域の森に男がいる」▼貧弱な都会っ子は、やけに強い女性たちに庇護されて、のんびり異世界での生活を続けます。▼※この作品は、カクヨムと小説家になろうにも投稿していま…


総合評価:645/評価:7.27/連載:188話/更新日時:2026年11月01日(日) 00:00 小説情報

異世界バトルドロイド軍団(作者:サイリウム)(オリジナル:ファンタジー/冒険・バトル)

高位戦術ドロイド、HT2-392は転生者である。▼戦艦の艦橋で撤退戦の指揮を取っていた彼女は、船ごとワープ事故で異世界に。大量のドロイドたちと共に見知らぬファンタジー世界にやって飛ばされることになる。▼SFドロイドたちがファンタジーに殴りこむ物語が、今始まる。


総合評価:2332/評価:8.71/連載:39話/更新日時:2026年07月19日(日) 17:00 小説情報


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