真壁が戸を開けると、外を行く荷車の音が、急にはっきり聞こえた。
弥兵衛は玄関を出て、紺の袖へ当たる陽を見た。
風呂上がりの肌を、初夏の風が撫でていく。
「今度は、ちゃんと歩いて出られたのう」
老人が言うと、ヴァルトは笑った。
「ここから先は、普通の道です」
「道まで、油断のならぬ日じゃ」
エレナも戸口を抜けたところで、通りの向こうから男が近づいてきた。
裾に道の埃を付けた男は、少女の前で足を止め、一礼した。
「エレナ様。アルベルト様から、お戻りになるようにとのお言葉です」
「兄上からか」
エレナは弥兵衛を振り返った。
「分かった。すぐ戻ろう」
「ありがとうございます。それと、真壁殿、ヴァルト殿。アルベルト様から、お二方にも今夜、館へお越しいただきたいとのことです」
「承知しました。今夜、アルベルト殿の館へ伺います」
真壁が答えると、ヴァルトも礼を返した。
オスカーは通りを横切る荷車を見送り、エレナの通る方を空けた。
「弥兵衛殿。また話を聞かせてほしい。私も、まだ伺いたいことがあるのだ」
「うむ。今日は、よい所を案内してくださった。礼を申す」
「こちらこそ。オスカーとの一合も、忘れられそうにない」
オスカーが、老人へ頭を下げた。
「お相手いただき、ありがとうございました」
「よい稽古であったよ。また、参られよ」
オスカーはエレナに続いた。
使者と3人で通りへ出ると、少女が振り返って手を上げる。
弥兵衛も手を上げた。
「お二人とも、忙しい身じゃったか」
「まだ、少し時間はあります。澪くんへのご紹介を先にしましょう」
真壁が玄関の方へ戻りかけた時、入口の脇から、よく通る声がした。
「理央、終わったニャ? ご飯に行くニャ!」
戸口から出てきた理央へ、レイニャが手を上げていた。
ハープを背負い直し、三毛の耳をぴんと立てている。
「お待たせしました。行きましょう……あれ、真壁さん?」
理央の足が止まるより先に、レイニャが弥兵衛を見つけた。
「弥兵衛のお爺ちゃん!」
「おお、歌い手殿。また会えたのう。昨夜は、よい歌じゃった。今朝も、道で思い出しておったよ」
「ありがとニャ。その着物、昨日と違うニャ」
「こちらで風呂を頂いてな。着るものまで、こしらえてくださった」
弥兵衛が袖をつまむと、レイニャは真壁を見た。
「お二人、お知り合いですか?」
「昨日、歌を聴いてくれたニャ。旅の話もしてくれたニャ」
「レイニャの歌を聴きに来たら、わしの方が、よう喋ってしもうてな」
「まだ、聞きたかったニャ」
「それは、よい聞き手に会うた」
真壁が、理央に声を掛けた。
「理央君。こちらは弥兵衛殿。東から、旅をしてこられた方だ」
「飯島理央です。よろしくお願いします」
「弥兵衛じゃ。こちらこそ、よろしゅう」
理央が礼をすると、老人も丁寧に返した。
紺の浴衣は新しかったが、腰の鞘は長く使われたものだった。
理央の目がそこへ留まると、弥兵衛は柄に軽く手を添えた。
「これにも、今日は世話を掛けてな」
「刀に、ですか?」
「その話も、あとでいたしましょう」
真壁が言い、ヴァルトが口元を隠した。
理央は事業所の中を振り返った。
「澪さんも、もう戻ってますよ」
そう言ったところへ、戸の開く音が重なった。
「真壁さん、お帰りなさい」
澪が玄関へ出ると、見知らぬ老人が、こちらへ向き直った。
紺の浴衣に刀を差し、履物は草鞋だった。
白い髭の下に、穏やかな笑みがある。
「澪くん。ご紹介しよう。弥兵衛殿だ。剣も鍛冶もなさる、旅の御仁でね」
「篠原澪です。よろしくお願いします」
「おお、お主が澪殿か。ようやく、お目に掛かれた」
老人の目が、澪の足元で止まった。
小さくなっていたマカミが、前足を揃えたまま顔を上げる。
弥兵衛は柄へ手を掛けず、しばらく小さな狼を見ていた。
次いで、肩のシロガネへ目を移した。
白猫も、金色の目で老人を見返している。
「……これは、面白い連れをお持ちじゃのう」
「マカミとシロガネですか?」
「その狼、本当はもっと大きいであろう」
澪は思わず足元を見た。
マカミは、何も変わらぬ顔をしている。
「分かるんですか? 本当は、3メートルくらいなんですけど」
「はっはっは。それは、ちと大きい、では済まぬな」
弥兵衛は笑ってから、白猫の方へ少し声を落とした。
「こちらは……神気まで感じる。不思議な猫じゃのう」
シロガネの耳が、片方だけ動いた。
澪が老人へ目を戻すと、隣で理央が黙り込んでいた。
あ、と思い、澪も《鑑定》を使った。
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弥兵衛
分類:人間/東方出身
年齢:78歳
現在ジョブ:剣豪
レベル:48
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既得スキル
剣術:10
居合:10
見切り:10
心眼:10
悪食:10
鑑定:10
収納:10
鍛冶:10
気配察知:10
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読み進めかけた澪は、老人の顔を見直した。
気配察知も、心眼も10。
あの小さな姿の向こうにいるマカミが、分かったのだ。
「弥兵衛さん……剣豪、なんですね」
「長く、刀を振っておったからのう」
理央がようやく口を開いた。
「鍛冶も、10……」
「自分の刀で、よう失敗した。使うてみれば、直したい所が出てくるでな」
真壁は、老人の刀へ目を向けた。
「私も先ほど、お相手いただいた。使っておられる刀には、タングステンを加えてある」
「えっ、それで、この刀に?」
澪が鞘へ目をやると、弥兵衛は嬉しそうに頷いた。
「あの金属のことも、聞きたかったのじゃ。研いでみるのが楽しみでな」
玄関を出入りする者へ道を譲り、澪たちは入口の脇へ寄った。
シロガネが澪の肩で座り直すと、弥兵衛の笑みが、少し柔らかくなった。
「よい猫じゃのう」
「かわいいでしょう」
澪が答えると、白い尾が襟の脇へ下りた。
弥兵衛はその先を見てから、目を細めた。
「わしものう、たいそう、かわいがっておった連れがいたんじゃが」
声が、先ほどよりゆっくりになった。
「数年前に、亡くなってのう」
澪は、笑いかけた口を閉じた。
理央も、老人の次の言葉を待っている。
「西へ、霊体が旅立つのを感じたのじゃ。それで、こうして追いかけておる」
レイニャの耳が、老人の方へ向いた。
「半身の魂、って言ってたニャ」
「うむ」
「だから、西へ行くんだニャ」
弥兵衛は頷き、通りを渡っていく人々へ目をやった。
荷車の車輪が敷石の継ぎ目を越え、後ろから押していた男が一声掛けた。
「……もう1度、会いたいんですね」
澪が言うと、老人はこちらを向いた。
「そうじゃのう」
シロガネは何も言わず、金色の目で弥兵衛を見ていた。
どこまで行けば会えるのか、澪には分からなかった。
ただ、このまま挨拶だけして別れるのは惜しかった。
「よかったら、夕ご飯を一緒にいかがですか。私も、まだなんです」
「それは、ありがたい」
弥兵衛の返事は早かった。
「ちょうど、魚を食べに行こうと思っていたところです」
理央が言うと、レイニャがすかさず顔を上げた。
「焼いたのも、煮たのもあるニャ!」
「ほう。どちらもあるのか」
「選ぶのが大変ニャ」
「それは、なかなかの難問じゃ」
澪は笑い、真壁たちへ向き直った。
真壁は片手を上げた。
「私とヴァルト君は、今夜、アルベルト殿の館へ伺うことになった。弥兵衛殿のご案内を頼めるかね」
「はい。承知しました」
「楽しい夕食を。弥兵衛さんの旅の話は、私も続きを伺いたいです」
ヴァルトが言い、老人へ会釈した。
「お二人とも、よう世話をしてくださった。また、お付き合いくだされ」
弥兵衛の礼へ、真壁も丁寧に返した。
2人を見送って、澪たちは共同商館へ向かった。
まだ明るい通りでは、店先の品を片づけ始めた者と、夕飯の客を待つ者が、隣り合って声を交わしていた。
共同商館へ着く前に、澪は足元のマカミへ声を掛けた。
「中で、ご飯を食べてくるね」
マカミが顔を上げ、澪は《生体収納》へ戻した。
肩のシロガネも腕を伝って掌へ降りると、自分から《収納》の中へ姿を移した。
弥兵衛はその様子を見ていたが、何も訊かなかった。
階段を下りた途端、焼けた魚の匂いが、澪たちを迎えた。
夕食の客が盆を手に行き交い、空いた卓を見つけた子どもが、親を呼んでいる。
奥の店で皿を重ねる音に、煮物をよそう店員の声が重なった。
「これじゃな」
弥兵衛は、もう魚の店へ顔を向けていた。
網から下ろされた魚の皮が、ぱち、と小さく鳴った。
隣の鍋では、醤油色の煮汁を含んだ身が、湯気を上げている。
「焼いたのは、皮が旨そうじゃ」
「煮たのは、汁がご飯に合うニャ」
レイニャが答えた。
弥兵衛は両方を見て、真剣な顔になった。
「これは、先に言うておいてくれて、よかった」
「何をですか?」
「選ぶのが難しいと」
理央が吹き出し、澪も笑いながら盆を取った。
それぞれに料理を頼み、代金を払って卓へ運ぶ。
弥兵衛の前には焼き魚と米飯、味噌汁が並んだ。
レイニャは煮魚を選び、皿の縁から流れそうな汁を気にしながら座った。
「お酒は、どうします?」
「焼酎じゃ」
「そこは、迷わないんですね」
「昨日、よいものを買うたでな」
弥兵衛はリュシアの商館で、味噌と醤油、芋焼酎を買ったことを話した。
澪は、湯気の向こうで頷いた。
「作っているのは、リュシアさんたちの食品会社なんです。この魚は、うちの商会で仕入れたものですよ」
「あの味を伝えたのも、お主らと聞いた」
弥兵衛は箸を持ち、焼き魚の背へ入れた。
ぱりっと割れた皮の下から、白い身がほぐれる。
醤油を少し付けて口へ運ぶと、老人は、しばらく何も言わなかった。
ゆっくり飲み込み、それから味噌汁をひと口飲む。
「……ああ、こりゃ嬉しいのう」
今度は、米飯へ箸が伸びた。
「味噌も醤油もありがたいが、この味で魚まで食えるとは」
「よかったです」
「わしを、西へ行かせぬつもりかの」
理央が笑い、湯呑みを卓へ置いた。
「そんなつもりはないですよ。でも、旅のお話は聞きたいです」
「わしの話でよければ、いくらでも」
「昨日の続きも、聞くニャ」
レイニャが身を寄せると、弥兵衛は焼酎の杯を持ち上げた。
「よい膳じゃ。話も、よう進みそうじゃな」
「東の国では、迷宮にも入ったんですか?」
理央が尋ねると、弥兵衛は魚の背骨を外していた箸を止めた。
「うむ。新しく見つかったところへ、入ったことがある」
「新しい迷宮……」
「奥へ行くほど、ひどく大きなものの気配がしてな。誰も近づけぬという話じゃった」
弥兵衛は、空いた皿へ骨を寄せた。
「案内してくれた者は、入口の近くまでじゃ。そこから先は、壁も床も、じっとり濡れておった」
歩くたびに、狭い通路へ草鞋の音が返ってきたという。
石の間を水が流れ、角を曲がると、灯りの届かぬ先から息遣いが聞こえた。
「こちらが止まると、向こうも止まる。進むと、奥で石が鳴る」
「気づいていたんですね、向こうも」
「待っておったのかもしれぬな。広い所へ出ると、正面の暗がりから、来よった」
老人の声は穏やかだったが、澪の箸は止まっていた。
先ほどまで、足元で揺れていた小さなマカミの尾を思い出す。
こちらから見えない大きな相手が、濡れた床の向こうで動いている。
「灯りが揺れた時に、足元の水が見えた。正面から飛び込めば、踏ん張りが利かぬ」
「どうしたんですか?」
「待った」
弥兵衛は箸を下ろし、卓の空いた所へ指先を置いた。
「向こうが先に踏み込んだ。重みの掛かった足は、すぐには戻らぬ。その脇に、乾いた石が見えておってな」
石床へ衝撃が走り、水が跳ねた。
弥兵衛は正面を外し、その石へ足を置いた。
近づく力の横へ身体を運び、抜いた刀を合わせた。
擦れるような刃の音のあと、大きなものが背後で崩れたという。
「それで、1つ斬った」
「……迷宮の主を?」
「ほかに何も近づいてこなんだ。動かぬのを見届けてから、刀を納めたよ」
理央は、卓の上の指先を見ていた。
「でも、その石へ動く間に、向こうが向きを変えたら?」
「だから、踏み込むまで待つのじゃ。まだ、どちらへでも行ける相手には、寄りとうない」
弥兵衛が指を引くと、澪はようやく息を吐いた。
「それ、今みたいに簡単に言える話じゃないですよね」
「いや、難儀したのは帰りじゃった」
老人は箸を取り、魚をひと口食べた。
理央が瞬きをする。
「帰り?」
「同じ角を二度曲がったつもりになってな。しばらく、出口が見つからなんだ」
「気配で、分からないんですか?」
「人のおる方は分かっても、その手前に壁があっては、歩いて回らねばならぬでな」
レイニャの耳が、ふっと横へ開いた。
「迷宮主より、帰る方が大変だったニャ?」
「腹が減っておったから、間違いなくそうじゃ」
「倒してからが、長いんですね……」
「ようやく明るい所へ出たら、皆が何を見た、何があったと寄ってきてのう。まず、飯をくれと頼んだ」
澪は笑い、冷めかけた味噌汁を飲んだ。
理央が、もう次の問いを探す顔をしている。
弥兵衛の方は魚を惜しまずほぐし、骨の間に残った身まで、きれいに取っていた。
「人の話を聞く方が、剣を振るうより難しかった国もある」
弥兵衛が言った。
「東の、別の国じゃ。わしが通る頃には国が倒れて、残った者たちが、新しく国を興そうとしておってな」
「国を……」
理央は湯呑みを持ったまま、老人を見た。
「村や町から人が集まる。その道を、武装した者たちが塞いでおった」
橋の手前には、食料袋を積んだ荷車が並んでいたという。
泥へ落ちた車輪を押し上げても、その先へ進めない。
人の肩越しに小さな子どもが顔を出し、先頭の様子を見ようとしていた。
「話し合いに出る者も、荷を運ぶ者も通れぬ。後ろには、まだまだ人がおってな」
「弥兵衛さんも、そこへ?」
「たまたま、行き会うたのじゃ。先へ通してやってもらえぬかと、頼んだのじゃが」
弥兵衛は、杯を卓の端へ置いた。
「返事の代わりに、剣が来た」
振り下ろされた刃を外し、抜き合わせた刀で、その剣を手から弾いた。
次に向かってきた者の武器も、足元へ落ちた。
弥兵衛が橋の入口へ立つと、後ろの荷車が動き始めたという。
「また向かってくれば、その度に払うた。通りたい者の足が止まらぬようにのう」
板を鳴らして荷車が渡り、袋を抱えた者が続いた。
橋の向こうからも、早く来いと声が掛かる。
最後尾の子どもが振り返り、手を振っていった。
「その者たちが集まって、国ができた」
老人はそれで、話を終えるように箸を取った。
理央が身を乗り出した。
「待ってください。それ、国を作った人たちを、助けたってことですよね?」
「わしは、皆を通しただけじゃ。国を興したのは、その者たちよ」
「それだけ、って……」
澪も口を挟んだが、弥兵衛は魚をひと口食べてから笑った。
「渡った先で、皆に声を掛け、荷を下ろし、困った者を集めておった御仁がいてな。そのお方が、のちの女王陛下じゃ」
「橋に、いらっしゃったんですか」
「うむ。自分も最後まで、あちらこちらへ走っておった。よいお方でのう」
弥兵衛は味噌汁を飲み、椀を置いた。
「じゃが、国が落ち着いて、そろそろ旅に戻ろうとした時が、困った」
「今度は、何があったんですか?」
「女王陛下が、わしを婿にすると仰ってな」
理央の口が、開いたまま止まった。
澪も、持ち上げかけた箸を皿へ戻した。
「……お婿さん?」
「うむ」
「弥兵衛さん、78歳、ですよね?」
「今はな。じゃが、その折も、とうに年寄りじゃった」
老人が髭を撫でた。
「わしも、それを申し上げた。すると、『それが何か』と仰る」
レイニャの耳が、ぴんと立った。
「その女王様、強いニャ」
「そうなのじゃ。こちらは、どうにも間合いが取れぬ」
理央が堪えきれず笑い、澪もつられて肩を揺らした。
「でも、どうして弥兵衛さんに?」
「民を先に通したことを、よう覚えておられた。これからも一緒に、国を支えてほしいと。ありがたいお言葉じゃったよ」
弥兵衛は、杯を持ち直した。
「じゃが、わしには、続ける旅があるでな。何度も、頭を下げてお断りした」
「それで、諦めてくださったんですか?」
「『旅の身ですので』と申せば、『では、お戻りになってから』と仰る」
「帰りまで、待ってくれるんですか……」
「立派なお方じゃった。じゃからこそ、中途半端な返事もできぬ」
老人は目を細め、それから照れたように笑った。
「とうとう、朝早くに礼状を残して、国境の方へ出てしもうた」
「逃げてきたニャ?」
「うむ。国も落ち着いて、皆が暮らしてゆけるのは見届けた。あとは、わしが捕まる前にのう」
理央はとうとう湯呑みを置き、口元を押さえた。
「迷宮の主には、向かっていったのに」
「はっはっは。剣では、どうにもならぬ相手であった」
弥兵衛は焼酎をひと口飲み、今も断りにくそうな顔で、髭の先を撫でた。
隣の店から、肉の焼ける匂いが流れてきた。
レイニャが鼻を動かし、弥兵衛へ顔を向ける。
「この前の、馬のお乳のお酒の国でも、何かあったニャ?」
「おお、あの草原か。あそこでも、世話になったのう」
「器に、砂が入るんだニャ」
「よく覚えておる。あれは、忘れられぬ」
弥兵衛は杯の中を見てから、笑った。
草原で泊めてもらった集落では、夜になると家畜が襲われていたという。
朝、馬や羊を数えると、昨日より減っている。
子どもたちは囲いの隅から暗い草地を窺い、年長者は、焚き火へ枝を足し続けていた。
「馬も羊も、よく落ち着かなんだ。夜中に、皆がいっぺんに頭を上げる」
「魔物が、近くにいたんですか」
「うむ。翌晩、踏み荒らされた草を見に行った。獣道の先で、妙に静かな所があってな」
弥兵衛は、その手前で待ったという。
背後には家畜のいる囲いがあり、子どもたちも、まだその中にいた。
「そこへ呼び込んでは、羊も走り回る。わしが、外へ寄った」
乾いた草が擦れる向こうで、重い足音の向きが変わった。
弥兵衛が更に集落から離れると、そちらを追ってきたという。
突進を横へ外し、通り抜ける身体へ刃を合わせた。
魔物が崩れても、囲いの方へは届かなかった。
「動かぬのを見届けて戻ったら、『そんな歳で、1人で出ていくな。帰らなかったら、どうする』と、婆様に怒鳴られた」
弥兵衛の声が、叱る者の調子になった。
澪の胸に、病院の廊下で聞いた家族の声が、ふと重なった。
「助けたのに、怒られちゃったんですか」
「魔物を斬ったと申し上げても、その前に、黙って出ていった話をしておる、と」
理央が頷いた。
「それは、そうかもしれません」
「まったく、仰るとおりでのう」
弥兵衛は、ちっとも困った顔をしていなかった。
「皆のことを思う婆様じゃ。気に入ってしもうたよ」
「じゃあ、お肉とお酒で仲直りしたニャ?」
「そのとおりじゃ。こちらへ座れ、もっと食えと、今度は食事の間も忙しかった」
翌朝には、子どもたちが囲いを出て、水を汲みに走っていったという。
馬の背から降りる子へ手を貸すと、今度は何を斬れるかと訊かれた。
「皆、よう喋った。羊のこと、馬のこと。わしの草鞋が、いつまでもつかという話までしてのう」
「心配されてるニャ」
「そうじゃな」
弥兵衛は骨張った手を杯へ伸ばし、ゆっくり持ち上げた。
「焼いた肉は、旨かった。酒には、砂が入っておったが」
レイニャが笑い、理央も湯呑みを取った。
澪は、老人の足元へ目をやった。
紺の浴衣の下に、何度も直した草鞋が揃っていた。
弥兵衛は残った魚の身を返し、小骨を箸先で外した。
話す間も食べることは忘れず、食べ終えると、またこちらの問いを待ってくれる。
理央が湯呑みを両手で包み、ふと笑った。
「弥兵衛さんって、なんだか、お祖父ちゃんみたいですね」
「ほう。似ておるかの」
「顔じゃなくて……こうしてお話を聞いてると、思い出しちゃって」
弥兵衛が、静かに杯を置いた。
理央は老人を見て、笑みを残したまま続けた。
「私のお祖父ちゃんは、もう亡くなってるんですけど」
「そうか」
「もっと、昔の話を聞いておけばよかったなって。あの時は、あとで聞けばいいや、って思ってたこともあって」
近くの卓で、客が店へ空いた皿を返していた。
盆が重なり、店員が礼を言う声が聞こえた。
理央は湯呑みの縁を見てから、弥兵衛へ向き直った。
「お祖父ちゃんにも、私が知らない話が、いっぱいあったんでしょうね」
弥兵衛は頷いたが、すぐには何も言わなかった。
理央も、そのままひと口飲んだ。
「澪さんのお祖父さんは、お元気ですか?」
「はい。今も、元気です」
澪の口元が緩んだ。
「骨折して入院してたんですけど、お正月に退院したら、すぐ初詣に行くって言い出して。神社くらい行ける、って」
家族で歩いた、元日の空気を思い出した。
ついこの間まで病院にいたのに、祖父は自分も行くと譲らなかった。
「言うこと、聞かないんですよ」
「はっはっは。わしと、気が合いそうじゃのう」
「さっきの草原の婆様にも、同じことを言われそうです」
「それは、いかん。わしと並べて、叱られてしまう」
理央が笑い、レイニャの耳も揺れた。
澪は椀を取り、少し残った味噌汁を飲んだ。
あの時、祖父は古い道具も譲ってくれた。
次に会ったら、あれを使っていた頃の話を聞いてみよう。
何を最初に作ったのか、どうしてその道具を選んだのか。
「弥兵衛さん」
理央が卓へ湯呑みを置いた。
「私、もっと旅のお話を聞きたいです」
「うむ。よいとも」
老人の返事に、レイニャが空いた皿を持ち上げた。
「それなら、おかわりするニャ!」
「わしも、魚をもう1皿じゃ。今度は、煮たものがよいのう」
理央の顔が、2人の間を往復した。
「まだ食べるんですか?」
「最初に、選ぶのが難しいと申したであろう。片方しか食べずに帰っては、気になる」
「だから、両方あると言ったニャ」
レイニャが胸を張り、澪は笑って自分の皿を寄せた。
「じゃあ、持ってくるの、手伝いますね」
理央は2人の空いた皿を受け取りながら、なおも弥兵衛へ顔を向けた。
「お魚もですけど、お話の続きも。まだ、あるんですよね?」
弥兵衛は杯を置き、白い髭の下で大きく笑った。
「はっはっは! 何しろ78年も生きておる。まだ半分も話しておらん」