草鞋の下で、小石が鳴った。
弥兵衛は足を止めた。
湿った落ち葉の間に、細かな砕石が見えている。
爪先で葉を寄せると、その下にも石があった。
土へ押し込まれたものもあれば、角を残したまま転がっているものもある。
背後では、炭焼きの小屋がもう木々に隠れていた。
男の声も聞こえない。
窯から流れてきた煙の匂いが薄れ、濡れた木と腐葉土の匂いが鼻へ入った。
「ほう、小道に砂利を敷いてあるのか」
石の帯は、太い根を避けて曲がっていた。
窪んだ所には厚く入れ、雨水の流れる細い筋は塞いでいない。
手を入れた時には草も払ったのだろうが、今は両側から伸びた葉が、道の真ん中で触れ合いかけている。
弥兵衛は片足を載せ、重みを掛けた。
草鞋の縁から泥が沈む感触はなかった。
「なるほど。ある程度は整備されておるのじゃのう」
炭焼きが奥へ入らぬと言っていた森に、こんな仕事をする者がいる。
誰が、何のために敷いたのか。
弥兵衛は石の続く方へ進んだ。
肩へ張り出した枝をくぐると、木漏れ日が着物の袖を横切った。
頭上では葉が重なり、少し先の道も明るい所と暗い所とに分かれている。
日向の石は乾いて白く、幹の陰へ入った石には、薄い苔が付いていた。
踏む場所を替えるたび、草鞋の音も変わる。
細かな石の擦れる音に、葉を潰す音が混じった。
やがて左手で、水の流れる気配がした。
道はそちらへ下らず、少し高い地面を選んでいる。
弥兵衛は歩きながら、腰の刀を軽く押さえた。
柄に巻いた革が、掌へ馴染む。
遠くで鳥が鳴いた。
短い声に、別の鳥が答える。
その間へ、重い音が入った。
濡れた土を踏み、引き剥がす音だった。
弥兵衛は刀から手を離さず、前方の暗がりへ顔を上げた。
枝が押し上げられた。
葉の裏から、大きな手が出てくる。
節の太い指が幹を掴み、その横へ、濁った眼が現れた。
弥兵衛の胸ほどの高さに膝があり、頭は、はるか上の枝葉へ触れている。
身長も、胴の幅も、自分の3倍ほどはあった。
その巨体が、1頭ではない。
右の藪が割れ、左では枝の折れる音がした。
後ろの方にも、重い足音がある。
弥兵衛は《気配察知》へ意識を向けた。
木に隠れたものも含め、18。
「……18か。ずいぶん賑やかじゃのう」
先頭の巨体が、唇をめくった。
短い牙の間から、粘った唾が落ちる。
《鑑定》に、ホブゴブリンの名が現れた。
「ホブゴブリンか」
右手に持った棍棒は、枝を払った木を、そのまま引き抜いてきたような代物だった。
先に残った土の塊が、膝の横へ落ちる。
振られれば、老人1人など、胴ごと潰せそうな太さがあった。
弥兵衛は、巨体の脇へ続く地面を見た。
右手は太い根が張り出し、その奥で倒木が重なっている。
左にはまだ空きがあったが、先頭が低く吠えると、そこへ2頭が回った。
1頭は肩を横へ向け、もう1頭の棍棒が通るだけの間を空けている。
弥兵衛の足が止まると、背後の足音も止まった。
取り囲むつもりらしい。
群れの中央には、ほかより肩の盛り上がった個体がいた。
手にした棒を地へ立て、老人の方を見下ろしている。
周りのものが吠えても、そいつは口を開かなかった。
先頭が、さらに1歩を詰めた。
土へめり込んだ踵が、湿った音を立てる。
弥兵衛は半歩、石の残っている方へ寄った。
左へ回った2頭も、その分だけ位置を替える。
呼吸を急がせる気にはならなかった。
だが、刀を差したまま通してもらえる相手でもない。
先頭の肘が上がった。
木の棒が枝を押しのけ、頭の上へ立つ。
弥兵衛の親指が、鍔へ掛かった。
鯉口が、わずかに切れた。
先頭の眼は、弥兵衛の頭へ据わっている。
その左脚が前へ出て、膝が沈み始めた。
弥兵衛は、柄を握った。
真壁に直してもらってから、何度も抜き、振ってはいる。
刃を通した時、手へ何が返ってくるかだけは、まだ分からなかった。
折れた所も、それまで使ってきた鉄も、刀の中に残っている。
そこへ、新しい金属が加わった。
反りも、手の内へ戻る重みも、長く連れて歩いた刀のままだった。
「せっかくじゃ。新しい鋼を試してみるかのう」
刃が鞘を離れた。
暗い木の間で、細い光が横へ走る。
弥兵衛は《雷》を、刀身に沿って細く通した。
刃の縁で、白い火花が跳ねた。
ぱちり、と乾いた音がする。
先頭が吠えた。
左右の巨体まで声を重ね、頭上の葉が震える。
棍棒を支える両腕が、いったん後ろへ引かれた。
左の足裏へ土が盛り上がる。
あそこへ、胴の重さが載る。
弥兵衛は刃を高く上げず、腰の横へ置いた。
「おお、来るか」
棍棒が傾いた。
老人の膝が、ほんの少し沈む。
棍棒が、頭上から落ちてきた。
枝の切り口まで見えた。
弥兵衛の草鞋が、砂利を押した。
《縮地》。
巨体の右脇を、老人の肩が抜ける。
続く足で背へ回った時、さっきまで立っていた所へ棍棒が叩きつけられた。
石が跳ねた。
土の底へ響く重い音に、背中の着物が震えた。
先頭の左脚は、まだ地面を踏んでいた。
振り下ろした胴を支え、棍棒を引き戻すために、さらに力が込められている。
弥兵衛は腰を返した。
刃を振り回すほどの場所はいらなかった。
膝の下へ、短く刀を送る。
肉を割り、その奥へ刃が入った。
骨を噛むはずの抵抗が、掌へ届いたと思う間に抜けていた。
白い火花が、脚の向こうで散る。
切り離された足が地面に残り、上の巨体だけが、横へずれた。
ホブゴブリンが振り向こうとした。
肩が回り、支えを失った胴が、そのまま大きく傾く。
断ち口の肉が、盛り上がりかけた。
焦げた縁で、動きが止まった。
弥兵衛の鼻へ、焼けた獣毛の匂いが入る。
口元が、わずかに緩んだ。
手首へ余計な重みが残っていない。
その手応えを確かめる間にも、右から棍棒が来ていた。
弥兵衛は、倒れかけた巨体の陰へ足を運んだ。
棍棒の先が、仲間の肩へ当たる。
振った方が腕を止めた時、最初の巨体が横倒しになった。
地面が鳴った。
跳ねた泥が、草鞋の後ろへ落ちる。
後ろから続いていたもう1頭が、倒れた仲間へ足を掛けかけ、慌てて踏みとどまった。
その隙間を、弥兵衛の白髪が抜けていく。
倒木と幹の間には、老人1人が通れるほどの地面が残っていた。
背後で怒声が重なった。
刀を握る指へ、先ほどの軽い手応えが、まだ残っていた。
倒木の向こうから、次の棍棒が振られた。
巨体の腰より低い横薙ぎだった。
弥兵衛は足を止め、上体だけを少し引いた。
鼻先を木肌が通る。
その先にあった太い幹へ、棍棒が叩きつけられた。
樹皮が飛び、木の裂ける音がした。
ホブゴブリンの両腕が、跳ね返った棒に引かれて外へ開く。
弥兵衛は、すでに懐へ入っていた。
踏ん張った右脚へ刀を返すと、巨体が、最初に倒れた仲間の上へ崩れた。
2つの胴が重なり、地面にあった隙間が消える。
その上を、さらに大きな影が越えようとした。
片脚を高く上げ、残った足で土を蹴る。
弥兵衛は上を見なかった。
支えている方の足へ、横から刃を入れた。
跳び上がりかけた巨体が途中で沈み、手にした棍棒もろとも、仲間の背へ落ちる。
下になった個体が吠え、上の巨体が腕を突っ張った。
どちらの棍棒も、老人のいる所までは届かない。
左から走る影があった。
反対側でも、土が蹴られた。
左右から、同時に来る。
弥兵衛は右へ向かいかけ、爪先を返した。
それを追った2頭の肩が、同じ方へ回る。
後ろから出た棍棒が、先に振られた棍棒の柄へ当たった。
硬い木同士が噛み合い、両方の腕が止まる。
「そんなに急ぐでない」
弥兵衛は手前の足を斬った。
倒れかけた身体を押しのけようとして、奥の1頭が踏み出す。
その脚にも、白い火花が通った。
老人が足を引くと、2頭は折り重なるように地へ伏せた。
棍棒が、老人の頭より高い所で交差した。
弥兵衛は根の張り出しへ片足を載せ、その外側へ下りた。
後ろから、倒れた個体が棍棒を引きずってくる。
止まれば、その腕に届く所だった。
さらに外から、立った敵の棒が落ちてくる。
弥兵衛は、木の根と足首の間へ草鞋を滑らせた。
刃を引いた後で、重い胴が空いていた地面を塞いだ。
棍棒の通る高さと、膝の曲がる向き。
次の足を置いた所へ、また別の巨体が迫ってきた。
弥兵衛は身体を低くし、斜め上から来る棒の下を抜けた。
膝の裏へ刃を引くと、崩れた胴が、今までの足場を潰していった。
濡れた葉がめくれ、下の黒土が広く出てくる。
踏み荒らされた泥に、木の根が剥き出しになった。
そこへ引っ掛けた足を抜こうとするものがいた。
その肩を支えようと、仲間が片腕を伸ばす。
弥兵衛は伸びた腕の下へ入り、前へ出た足を続けざまに斬った。
支え合っていた2頭が、揃って膝を落とした。
刃を通し、抜き、次の棍棒が下りる前に足を替える。
布の袖が幹を擦り、手首へ細かな苔が付いた。
後ろで、倒れた巨体が枝を折った。
その音に重なり、また次の胴が落ちる。
巨体が増えるほど、敵の足を置く所も狭くなっていた。
跨いだ足は土を探し、横へ避けた胴は、別の棍棒の前へ入る。
弥兵衛の草鞋には、根の固さと、泥の柔らかさが交互に伝わった。
倒木の端を避けた1頭が、低く棒を突き出した。
老人はその外へ抜け、伸びた腕の下から足を斬った。
次の個体は、その仲間の落ちる先を避けようとした。
体重を移す前の踵へ、刃が届く。
倒れているものが、太い指で地面を掻いた。
その奥では、まだ立っているものが互いの肩を押している。
左右に3頭ずつ。
中央には、棒を立てたままの1頭が残っていた。
弥兵衛は、泥へ沈みかけた踵を上げた。
細い雷が、刀身の先で鳴った。
その時、ほかの声を押しのける低い咆哮が響いた。
立っていた6頭が、動きを止めた。
中央の個体が棒を地から抜く。
左右のものが下がり、倒れた仲間の間に、細長い地面が開いた。
群れの長が、そこを歩いてきた。
足裏が泥を押すたび、弥兵衛の足元にも小さく響く。
頭を振っても枝へ当たらぬ所を選び、右の肩を先へ出した。
手にした棒が持ち替えられた。
前の手で向きを定め、後ろの手は棒を送るために残してある。
先ほどまでの連中のように、頭の上へ振りかざすつもりではないらしい。
木肌の節に沿い、薄い光が走った。
その光が先へ集まると、丸く削れた棒の端が、急に鋭く見えた。
弥兵衛は、刃を少し下げた。
「ほう。棒に魔力を通すか。……面白い」
長の眼が細くなった。
牙の隙間から、短い息が漏れる。
弥兵衛は、そこへ《威圧》を放った。
周囲の6頭が、身を引いた。
倒れた巨体が、肘を突っ張ったまま固まる。
棒を構えた長の膝も、わずかに沈んだ。
だが、後ろ足は動かなかった。
足指が泥を掴み、かかとがさらに深く入る。
顔が上がった。
弥兵衛を見据えたまま、長が吠え返した。
枝の上から、乾いた葉が落ちてきた。
老人の白髪へ1枚触れ、肩を滑って落ちる。
「よし」
弥兵衛は、足幅を少し変えた。
長の右肩が引かれる。
後ろ足の膝が伸び始め、濡れた土へ細い割れ目が入った。
来る。
弥兵衛は、棒の先が動く前に肩を外した。
突きが抜けた。
着物の胸元が風に引かれ、背後で、木を打つ音がした。
弥兵衛が横へ足を送りながら見ると、棒は太い幹へ深く食い込んでいた。
木肌に細い割れ目が走り、その先から、白い木屑が押し出される。
長が腕を引いた。
幹が縦に裂けた。
内側の明るい木が覗き、遅れて大きな枝が揺れ始める。
棒の先には、削れた木が巻き付いていた。
弥兵衛はそれを見て、刀の柄を握る指を緩めた。
今の突きを受ければ、刀の出来を喜んでいる暇もあるまい。
正面から触れ合わせるだけで、腕ごと持っていかれる。
長は棒を振り、巻き付いた木屑を落とした。
今度は、後ろの手を少し前へ寄せる。
引き戻す距離を短くしたのだ。
弥兵衛の胸へ、また棒先が向いた。
老人は、長の後ろ足を見ていた。
次の突きは、額へ来た。
弥兵衛は顎を少し引き、右肩を外へ送った。
棒が耳の横を抜ける。
頬へ当たる風が、先ほどより近かった。
すぐに引かれた棒が、低い所から戻ってくる。
脇腹へ向かっていた。
弥兵衛は身体を半身にし、後ろの足を寄せた。
着物の腹が風でへこみ、その向こうへ棒先が走る。
そのまま横へ払われるかと思ったが、長は、また短く引いた。
後ろ足の爪が、泥を掻く。
3つ目は、脛だった。
弥兵衛は前の足を引き上げ、根の上へ置いた。
足首のあった所を、棒が抉る。
湿った土が跳ね、裾へ散った。
根の上に載せた足へ体重を移すと、長の肩が、すでにこちらへ回っていた。
4つ目は胸へ来た。
途中で、棒先が上がる。
顔を追ってきた。
弥兵衛は根から下り、半歩、横へ抜けた。
太い棒が幹の表を削り、弾けた皮が、袖へ当たった。
刃を出す間がないほど、次が早い。
長は外した棒を大きく振らず、引き手を短く使っていた。
巨体の割に、肩もよく動く。
弥兵衛は息を吐き、足元の石へ踵を下ろした。
長の口が開いている。
先ほどより、息の間隔が短くなった。
棒を引くたび、前の肩が少しずつ深く入る。
後ろ足で地を押す力も、強くなっていた。
もう少し届けば、という突きになり始めている。
弥兵衛は、その棒先のすぐ外にいた。
喉へ来る突きを外し、返ってくる手より先に爪先を替える。
長が踏み直した足の下で、小石が割れた。
次の突きへ、胸まで前に出てきた。
弥兵衛の背に、裂けた木がある。
横へ逃げる地面が狭いのを見て、追い詰めたつもりらしかった。
老人は、なお退かなかった。
後ろの手が、棒を送り出す。
肘が伸び、肩が出た。
前足へ、胴の重みが載り切る。
「隙だらけじゃ」
弥兵衛の刀が上がった。
《斬魔》を刃へ通す。
棒に走る魔力の筋へ、横から刃を合わせた。
白い火花が散った。
棒の中ほどで光が裂け、その下の木へ刀が入る。
長の手に戻ったのは、短くなった棒だけだった。
送り出した腕が、軽くなった得物を突き出したまま止まる。
弥兵衛は、その腕の下へ入っていた。
左脚の膝下へ、一閃。
長の胴が傾いた。
残った右脚が、大きく土を踏む。
体重を受け止めた、その脚へ刀が返った。
支えを失った巨体が、前へ折れてくる。
地面を掴もうと、太い腕が伸びた。
短くなった棒が泥を叩き、肩がさらに落ちる。
弥兵衛は、降りてくる顔を見た。
先ほどまで見上げていた顎が、今は目の前へ迫っている。
「さらばじゃ」
刃が、首を通った。
長の身体が地へ落ちた。
その重さが、周りの巨体まで小さく揺らす。
少し離れた所で、切り飛ばされた棒の先が、ようやく地面を打った。
長の身体がまだ揺れているうちに、左右から2頭が出た。
片方は棒を振り上げ、もう片方は、腰の横から突き出してくる。
弥兵衛は、低い棒の外へ足を送った。
それを追って向きを変えた巨体が、振り下ろされた仲間の棍棒へ肩を入れる。
頭上で鈍い音がした。
弥兵衛は手前の軸足を斬り、その胴が傾いたところで、奥の脚へ刀を返した。
2頭が倒れる先へ、3頭目が飛び込んできた。
仲間を越えようと、両足が地を離れる。
弥兵衛は刀を低くし、着いてくる足へ刃を合わせた。
巨体は立てずに落ち、長の身体へ胸からぶつかった。
残った3頭のうち、1頭が棍棒を投げた。
弥兵衛は肩を沈めた。
頭の上を棒が抜け、後ろの藪が大きく潰れる。
投げ終えた手が、近くの石へ伸びていた。
弥兵衛は、その足元へ入った。
刃が通り、石を掴みかけた手が土へ落ちる。
もう1頭が吠え、倒れた仲間を押しのけようとした。
その胴の向きで、最後の1頭の棒が見えなくなった。
弥兵衛は正面へ進まず、根の張り出しへ足を掛けた。
前の巨体が踏ん張った脚を斬る。
胴が落ち、背後の1頭がようやく見えた時には、老人はその脇へ下りていた。
棒が上がる。
刃は、それより低い所を走った。
最後の足が崩れた。
巨体に押された枝が、幹へ擦れながら落ちてきた。
弥兵衛はその枝を避け、刀を握り直した。
まだ、棍棒を引き寄せようとする手があった。
片脚を失った個体が、肘で地面を押し、こちらへ牙を向けている。
弥兵衛は歩み寄り、短く刀を返した。
首へ刃が通ると、土を掻いていた指が緩んだ。
そのまま、次へ進む。
怒声と棍棒の音が、老人の歩く先で、一つずつ途切れていった。
木の上で、折れかけた枝が揺れていた。
それが地へ落ちた時には、群れは1頭残らず息絶えていた。
弥兵衛は刀を下げた。
耳のそばで、まだ細く鳴っていた雷が消える。
熱の抜けていく鋼へ、木漏れ日が当たった。
背中の汗が、少し遅れて冷たくなる。
老人は倒れた巨体へ手を触れ、《収納》を使った。
靄が湿った地面を這い、大きな胴を包んだ。
折り重なっていたものが消えると、その下の潰れた葉と、黒い泥が現れる。
切り離された脚も、長の頭も、残さず収まった。
最後の巨体が消えた後には、棍棒に抉られた土と、裂けた幹が残った。
弥兵衛は布を出し、刀身を拭った。
刃先へ光を当て、少しずつ角度を変える。
細い光の線は、切先まで途切れずに続いていた。
親指を鍔へ当てる。
緩みはない。
柄を握り直すと、馴染んだ重みが手の内へ収まった。
「……よい鋼じゃ。真壁殿に、また礼をせねばのう」
小さく息を吐き、刀を鞘へ納めた。
木々の向こうに、砕石の白い点が見えた。
弥兵衛は泥の浅い所を選び、そこへ戻っていった。
しばらく歩いてから、鳥が鳴いた。
低い枝から飛び立ち、道の向こうへ移っていく。
弥兵衛はその下を通り、裾へ付いた泥を手で払った。
乾きかけた土が、細かな粒になって落ちた。
草鞋の間に挟まった小石も、歩くうちに外れていた。
木の根が増え、地面が少しずつ高くなっていく。
砕石は途切れがちになったが、低い所へ水が溜まらぬよう、土を均した跡は残っていた。
それを辿って進む。
右手の木立を抜けると、先ほどまで鼻に残っていた焦げた匂いも消えた。
葉の青い匂いと、苔の湿った匂いがある。
弥兵衛は、正面の大きな岩へ向かっていた。
ところが、いつの間にか、その左を歩いていた。
岩を避けるつもりではなかった。
前に倒木があるわけでもない。
老人は足を止め、来た方を振り返った。
背後の道は真っ直ぐだった。
もう1度、岩へ顔を向ける。
目を据えたはずなのに、そばの幹の模様へ気が移りかけた。
弥兵衛は、そのまま動かなかった。
頬を風が撫でた。
頭上の葉は揺れたが、岩の向こうにある影の形が、少しも変わらない。
「ふむ。わしを、よそへ向けようとしておるのか」
《魔力感知》へ意識を向ける。
足元から木々の間へ、薄い膜のようなものが広がっていた。
強く押し返す力は感じられない。
爪先を少し戻すと、今度は別の方へ歩きたくなる。
弥兵衛は、腰の刀へ手をやらなかった。
敵が隠れて待っているなら、近づく者を、わざわざ遠ざけるだろうか。
身へ迫る危機の兆しも、今はない。
老人は薄い魔力の縁に沿い、ゆっくり足を運んだ。
踏み跡が、途中で曲がっている。
小さな獣のものまで、その外を回っていた。
枝越しに、黒ずんだ板が見えた。
屋根のようだった。
半ば崩れ、蔦に覆われた、小屋らしいものがある。
石の道を作った者は、あそこへ通っていたのか。
弥兵衛が首を伸ばした時だった。
小屋の奥に、人の気配が生じた。
外から近づく足音は、なかった。
鳥が移った様子も、藪の揺れる音もない。
それなのに、今は確かに、小屋の奥へ人がいる。
弥兵衛は、薄い魔力の縁で足を止めた。
相手の方も、動かなかった。
少しの間、風が葉を鳴らす音だけがした。
やがて、前にある魔力の膜が、細く開いた。
爪先をよそへ向けさせていた感覚が消える。
その奥には、家へ重なる別の魔力があった。
こちらへ向いた所だけが薄れ、古い小屋の見え方まで変わり始める。
傾いていた屋根の線が、いったん二重にぶれた。
朽ちた板へ重なっていた木々の影が薄れ、隠れていた窓が現れる。
それは、地面に近い所だけではなかった。
上にも、もう一列ある。
弥兵衛は顔を上げた。
森の中に、2階建ての家が立っていた。
壁には粗い木板が張られている。
だが、窓枠の高さは横へきちんと揃い、壁の角は、屋根まで真っ直ぐに通っていた。
上には黒い板が、幾つも斜めに並んでいる。
近くの木から滴った水が、苔へ落ちた。
そのすぐ向こうにある家だけが、雨風に傷んだ様子もなく、乾いた輪郭を見せている。
弥兵衛は、窓から壁へ目を移した。
領都で見た背の高い建物にも、よく似た、隅の揃い方があった。
足元の石は、その家の戸口へ続いていた。
「……あの家は何じゃ?」
口に出すと、家の中で足音がした。
奥から、こちらへ向かってくる。
弥兵衛は刀を差したまま、戸口を見ていた。
玄関の金具が鳴った。
扉が中から開き、乾いた涼しい空気が、森の湿った空気へ混じった。
戸口の男が、こちらへ顔を向けた。
見覚えのある顔だった。
つい先日まで領都で会っていた男が、森の奥の家から出てきている。
「やはり、こちらへいらっしゃいましたか」
いつもの丁寧な声で言い、ヴァルトが口元を緩めた。
弥兵衛は眼を丸くした。
それから、声を上げた。
「おお。ヴァルト殿ではないか!」