ヴァルトは戸口から半歩退き、弥兵衛を招いた。
「どうぞ。お茶でも飲んでいかれませんか」
「それはありがたい。じゃが、お主、今しがた現れたであろう」
「ええ。領都にいたのですが、知らせが来たので《転移》で戻りました」
「知らせとな?」
弥兵衛は肩越しに森を見た。
家の外には、ほかに人の気配がない。
「家の結界に誰かが近づいたら、私に知らせが来るようにしてあります。弥兵衛さんがこの森を通られるなら、ここへいらっしゃるかもしれないと思いまして」
「わしが寄ると、見当をつけておったか」
「あの道を見つけたら、そのまま通り過ぎますか?」
「いや。何があるのか、見には来るのう」
「それなら、間に合うようにしておこうと」
弥兵衛は笑った。
「よく見抜かれたものじゃ。呼び鈴を鳴らした覚えはないのじゃがな」
「私の方で、勝手に鳴らしてしまいました」
弥兵衛は開かれた戸の内側を覗き込んだ。
「留守宅へ押しかけずに済んだわけか。邪魔をするぞ」
入口で草鞋を脱ぎ、足についた土を払う。
ヴァルトが差し出してくれた布で足を拭くと、敷居を越えた。
森の湿り気が、肌から離れた。
床は乾き、廊下の先まで明るい。
扉が閉まると、葉擦れの音が急に遠のいた。
「外から見たのとは、まるで違うのう」
「あの見かけでは、雨の日に心配になりますからね」
「雨宿りに入る方が、濡れそうじゃった」
通された居間には、窓際へ卓と椅子が置かれていた。
棚には本が並び、作業の途中らしいものは、脇の台へ寄せてある。
弥兵衛は腰の刀を鞘ごと抜き、椅子のそばへ置いた。
外套も畳んでから腰を下ろす。
「この家は、お主が造ったのか」
「真壁さんです。私1人では、こうはいきません」
「ああ。あの御仁か」
弥兵衛は壁の角を見上げた。
木板の継ぎ目は揃い、上まで歪みなく続いている。
森を歩いてきた足裏には、平らな床の感触が少しばかり奇妙だった。
「表の石を敷いた道もかの」
「ええ。あれも真壁さんの仕事です」
「なるほど。辿って来た先に、お主がおるわけじゃな」
湯の沸く、小さな音がした。
ヴァルトが茶器を運んでくると、部屋へ温かな香りが広がった。
茶を口へ含むと、わずかな渋みの後から、香りが鼻へ抜けた。
弥兵衛は喉を潤し、窓の外へ眼をやった。
葉の影が壁をゆっくり横切っている。
太い幹の向こうにも木々が重なり、人家も畑も見えなかった。
「よい所に住んでおるのう」
「街へ出るには、少し手間が掛かりますが」
「その手間を、今しがた飛び越えて来たのであろう」
「そうでしたね」
ヴァルトが苦笑した。
弥兵衛はもう1口、茶を飲んだ。
外を歩いていた時には、風が動くたび、濡れた葉が肩や頬を擦った。
今は窓の向こうで揺れるだけだ。
「東の国には、竹林の中に庵を結ぶ風流人がおってのう。ここも、そのような趣じゃ」
「風流人、ですか」
「人里の騒がしさを離れ、木々を眺めて茶を飲む。なかなか結構な暮らしではないか」
「この家を建てたのは真壁さんですが、そうおっしゃる方は初めてです」
ヴァルトの顔には、褒められてよいものか迷うような笑みがあった。
弥兵衛は近くの窓枠を見た。
厚い壁の奥へ、隙間なく収まっている。
「風流にしては、少々頑丈すぎるか」
「魔物のいる森ですから」
「そう言われると、急に風流が遠のくのう」
「雨風にも、魔物にも、できれば遠慮していただきたいので」
「ただし、茶を飲む爺は構わぬ、と」
「ええ。その方には、いらしていただけてよかったです」
弥兵衛は声を立てずに笑い、椅子へ深く座り直した。
向かいのヴァルトは窓を眺めていたが、やがて、独り言のように言った。
「竹林の庵、ですか。懐かしいですね」
「お主も、見たことがあるのか」
「ええ。よく似た景色を知っています」
ヴァルトはそこまで言ってから、少し口をつぐんだ。
窓の近くで、枝が外壁を掠めた。
弥兵衛はその音を聞きながら、相手が続きを話すのを待った。
「少し、妙な話になるのですが」
「先ほど、あばら屋が2階建てになったところじゃ。大抵のことなら、聞けよう」
笑いかけたヴァルトが、すぐに真面目な顔へ戻った。
「人には、あまり話していないことです」
「ならば、無理をすることもあるまい。わしが竹の話をしたばかりに、困らせては申し訳ない」
「いえ。弥兵衛さんには、お話ししておこうと思います」
ヴァルトの声が落ち着いた。
「私には、前世の記憶があるんです。日本という国で暮らしていました」
弥兵衛は相手の顔を見た。
先ほどまでの軽口を、続けている顔ではなかった。
「生まれ変わり、ということか」
「はい。向こうで一度死んで、こちらの世界へ生まれてきました」
「それで、以前のことを覚えておるのじゃな」
「ええ。竹林のお話で、昔、見た景色を思い出してしまいました」
弥兵衛は少し考えてから尋ねた。
「その日本にも、竹があるのか」
「あります。古い家の周りに生えていたり、竹の間を道が通っていたり。弥兵衛さんの国のお話を伺うと、似ているものが多いんです」
「では、あの国の話をする時、お主は遠い昔を思い出しておったのか」
「そうですね。今では、こちらで暮らしている時間も長くなりましたが」
ヴァルトが語る景色を、自分の国の道筋と重ねてみる。
風に鳴る竹の葉なら、老人の耳にも覚えがあった。
「そのような所におった者が、ここまで来て木の中へ家を構えたか。竹も欲しくなりそうじゃな」
「それより先に、欲しかったものがありました」
「ほう。何じゃ」
「味噌と醤油です」
弥兵衛は一瞬、眼を丸くした。
それから、腹の底から笑った。
「そうか。そこへ戻るか!」
「私が生まれ直した土地では、どちらも見かけませんでしたから」
「それは困る」
「こちらの料理も好きなんです。でも、ふと、味噌汁が飲みたくなりまして」
「腹が膨れていても、思い出すのじゃな」
「よくお分かりですね」
「わしも西へ来て、醤油があればと思うことは多かった。焼いた魚が出てくると、つい探してしまうのじゃよ」
「それが、この領にはあったんです」
ヴァルトの声まで、先ほどより明るくなった。
「あの味に出会えたことも、ここへ住み始めた理由の1つです。ほかにも事情はありましたが、嬉しかったですね」
「分かるとも。わしも、領都ではずいぶん世話になった」
醤油の香りがした店先で、足を止めたことを思い出す。
そこへ辿り着くまでに、どれほど歩いたかは、もうどうでもよくなったものだ。
「しかし、お主も同じ味を恋しがっておったとはな」
「竹林より、すぐに話が通じましたね」
「竹は食えぬからのう」
「筍なら、食べられますよ」
「おお。そうじゃった」
弥兵衛は愉快になって、膝を叩いた。
「あれも、醤油が要るのう」
「結局、そこですね」
ヴァルトも笑った。
「茶を飲みに来たはずが、腹が減ってきたわい」
「お昼も、召し上がっていかれますか」
「いやいや。この後、歩きながら食おう。あまり旨いものを出されると、西へ行くのが遅くなる」
「それでは、あまり引き留められませんね」
「引き留めるなら、醤油を出せばよい。わしには、よく効く」
茶を淹れた道具の脇で、小さな灯りが消えていた。
弥兵衛は火床のない台を見た。
「この家では、湯を沸かすにも薪を使わぬのか」
「向こうで使う道具です。日本では、それほど珍しいものでもないんですよ」
「あの娘たちも、これを使っておるのか」
「ええ。澪さんや理央さんも、日本で暮らしてきた人たちですから」
弥兵衛はヴァルトへ顔を戻した。
「あの2人も、生まれ変わったのか」
「いえ。私とは違います。今も日本で暮らしていて、こちらへ来ているんです」
「ほう。生きたままか」
「はい。あの味も、向こうから持ってきてくれました」
弥兵衛は頷いた。
味噌汁も、醤油も、領都で口にした時には故郷の料理だと思った。
だが、運んできた娘たちにとっては、別の国の暮らしにある味なのだという。
「なるほどのう。同じ味を好む者が、遠い所にもおるものじゃ」
「弥兵衛さんの国にもあると伺って、私も嬉しかったですよ」
「その日本では、お主が知らぬ間にも、新しいものができておるのであろうな」
「ええ。澪さんたちが当たり前に使うものに、私が驚くこともあります」
「わしと同じではないか」
「そう言われれば、そうですね」
弥兵衛は笑いながら、もう1度、湯を沸かした道具を見た。
火を焚かずに茶を淹れ、誰もいない家へ主が戻ってくる。
この家では、どこから尋ねても、話が尽きそうになかった。
「では、真壁殿も、その日本から来たのか?」
「真壁さんは、初めは私の知る日本人には見えませんでした」
「そうかの」
「少なくとも、私が知っていた日本の男とは、ずいぶん違いました。ですが、あの国の文化も技術も、驚くほどよく知っています」
窓に近い壁には、きちんと組まれた棚があった。
扉を閉めた時の音も、森の仮小屋のものではなかった。
「この家を造る腕も、向こうで覚えたものか」
「どこで覚えたのかまでは、伺っていません。ただ、あの方がいてくださると、随分、心強いんです」
「澪殿たちも、安心して任せておるのう」
「ええ。何より、あの2人を守っている方ですから」
弥兵衛は椅子の脇の刀へ、眼を落とした。
鞘の中には、森で使ったばかりの鋼がある。
断たれたままになっていれば、あの巨体を相手にするにも、別のやりようが要っただろう。
刀を断った男が、その日のうちに直してくれた。
弥兵衛は、柄の向きを僅かに直した。
「真壁殿には、幾度も死線をくぐり抜けた兵の気配がある」
「……そう感じられましたか」
「先日の稽古でもな。わしが打てば、正面では受け合わず、横へ回ってきた」
木剣を流された時、足元の土が擦れた音を覚えている。
真壁の切っ先は、もう肩口へ返っていた。
それを外すと、今度は足が追ってきた。
仕切り直そうとしても、容易には距離をくれなかった。
「腕に覚えがある者ほど、力で押してみたがることもある。あの御仁は、そこへ付き合ってはくれぬ」
「真壁さんらしいですね」
「剣を交えれば、見えてくるものもある。あれは、ただ力任せに勝つ男ではない」
ヴァルトはすぐには答えなかった。
弥兵衛も、先を急がずに話した。
「わしの刀を断った、あの光る刃も恐ろしいものじゃ。じゃが、道具を持っただけで、誰もが同じように戦えるわけではない」
「ええ。それは、私にも分かります」
「ただ、あの時は、さすがに参ったがの」
弥兵衛は刀を見て笑った。
「己で打った刀が、途中からなくなっておるのじゃからな」
「あの後も、こちらでお使いになっているんですね」
「うむ。よい具合じゃ。真壁殿へは、また礼を言わねばならぬ」
「きっと喜ばれます」
「直す方まで、あの腕なのじゃから、困ったものよ」
「困るんですか?」
「次に会えば、また何か尋ねたくなる。別れの挨拶が、いつまでも済まぬ」
ヴァルトが笑った。
「それは、お互い様かもしれませんよ。真壁さんも、弥兵衛さんの刀を随分、よくご覧になっていましたから」
「刀を見ておったのか、わしがどう斬るかを見ておったのか」
「両方でしょうね」
「欲張りな御仁じゃ」
そう言いながらも、弥兵衛の口元は緩んでいた。
木剣であれ、打ち直した刀であれ、次に試したくなるものがある。
真壁がこれを聞けば、また何か出してきそうだった。
「あの道を造った頃から、魔物は多かったのかの」
弥兵衛が尋ねると、ヴァルトは笑みを引いた。
「魔物のいる森ではあります。ただ、このところ、様子が変わってきています」
「そうか。家へ来る途中で、ずいぶん大きな連中に会うてな」
「どのような魔物でしたか?」
「ホブゴブリンじゃ。18頭ほど、まとまっておった」
ヴァルトが玄関の方を向いた。
「18頭? この近くに、まだいるんですか?」
「いや。もうおらぬ」
「逃げていきましたか」
「皆、わしの《収納》の中じゃ」
ヴァルトは弥兵衛を見直した。
老人の襟には乾きかけた汗の跡があり、脱いだ外套の裾へは、泥がついている。
刀は鞘へ収まり、卓の上では茶が冷め始めていた。
「18頭を相手にして、そのままお茶を飲みにいらしたんですか」
「少し喉が渇いてのう」
「それは、渇くでしょうね……」
「道から少し外れた所じゃった。棍棒で、ずいぶん木を傷めておったぞ」
「怪我は、ありませんか」
「おかげさまでな。刀も、欠けずに済んだ」
「真壁さんへのお礼というのは、そのことだったんですね」
「うむ。よい仕事をしてくださった」
弥兵衛は窓から見える木立を眺めた。
折れた幹も、抉れた土も、ここからでは見えなかった。
静かな家の外で、鳥が短く鳴いた。
「18頭が集まっておったのも、気になるがな」
「ええ。あれだけ大きなものが、群れで動くとなると」
「この辺りだけで、あの数じゃ。奥は、どうなっておることやら」
弥兵衛は《魔力感知》へ意識を寄せた。
家を包む術が、壁の外へ幾重にも重なっている。
先ほど自分の爪先をよそへ向けたものも、その中にあった。
だが、それを越えた先にも、魔力の偏りを感じる。
老人は窓の向こう、さらに深く木々の重なる方へ、顔を向けた。
「ヴァルト殿。あちらにも、お主の術が掛かっておるのか」
「家の周りを越えて、そこまで広くは張っていません」
「やはり、別のものか」
「それにしても、この森は何かを隠しておるようじゃのう」
ヴァルトの顔つきが変わった。
「真壁さんも、この森の下を気にしていました」
「ほう。何か見えたのか」
「いいえ。以前、澪さんたちと、この森の変化を調べたことがあるんです。魔物が増えて、幾つもの種類で上位種が出ていました」
「1つの群れだけではないのじゃな」
「ええ。それに、下草が濃くなり、蔓も増え、葉まで厚くなっていました」
弥兵衛は窓の近くへ伸びた蔓を見た。
細いものと、腕ほどもありそうなものが、同じ幹へ絡んでいる。
「魔物だけが変わったのではない、と」
「真壁さんが地図や《鑑定》で調べても、その変化を説明できるような原因は、地表では見つからなかったんです」
「それで、地下か」
「『あの森の下は、出来るだけ刺激したくないですな』と。真壁さんは、そうおっしゃっていました」
弥兵衛は、しばらく窓の外を見ていた。
葉が動くと、その奥の暗がりが僅かに見えた。
すぐにまた、緑の重なりに隠れる。
「そうか。あの御仁も、気にしておったか」
「弥兵衛さんにも、何か分かるのですか」
「お主が家へ張った術とは別に、森の奥で魔力が偏っておる。どうも、地の下へ続いておるようでな」
「地下へ……」
「濃い所がある、というだけではないのじゃ。そちらへ寄っていくような、妙な具合でのう」
弥兵衛は窓越しに、森の中心がある方角を示した。
指した先に見えるのは、木と葉ばかりだった。
「深さも、そこに何があるかも、見えてはおらぬ。じゃが、覚えのある感じじゃ」
「覚えが、あるんですか」
「東の国で入った迷宮にな。よう似ておるのじゃ」
ヴァルトが、窓の方へ顔を向けた。
「迷宮ですか。私は噂でしか聞いたことがありませんが……」
「まだ、この森で入口を見つけたわけではない。あの時のものと同じかどうかは、行ってみねば分からぬ」
ヴァルトは、卓の上へ両手を置いて考えていた。
「今、ここへ何かが迫っておるというのではないぞ」
「ええ。この家の結界とも、別のものなのですね」
「うむ。お主の術は、わしをよそへ歩かせようとした。あちらは、そうではない」
弥兵衛は、卓へ指を下ろした。
「真壁殿の気にしておったものは、迷宮かもしれぬな」
「私も、地下の魔力環境を調べる必要があるとは考えていました。ただ、迷宮とまでは、思い至りませんでした」
「お主へ話せてよかったわい。ここに住んでおるお主には、伝えておきたかったのでな」
「ありがとうございます。真壁さんにも、この話を伝えておきます」
「では、ヴァルト殿。迷宮の入口が見つかった折には、わしにも知らせをよこされよ」
「弥兵衛さんは、これから西へ向かわれるのでしょう?」
「うむ」
「どの辺りまで、行かれるおつもりですか」
「まだ、決めてはおらぬ」
ヴァルトは、少し困った顔になった。
「それですと、どうやってお知らせしたものか」
「お主らには、《世界地図》というものがあるではないか。あれで見つけて、門を開けば、呼びに来られるのであろう?」
「私には、そのどちらもありませんよ」
「おや。そうなのか」
「全員が同じ技能を持っているわけではないんです」
弥兵衛はヴァルトを見た。
「じゃが、先ほどは領都から、ひと足で戻って来たではないか」
「あれは《転移》です。澪さんたちのように、あの門を使えるわけではありません」
「そうじゃったか。わしは、てっきり同じようなものかと」
「澪さんたちを基準にされますと、私も困ってしまいます」
「おお。すまぬ、すまぬ」
弥兵衛は笑って詫びた。
「こちらへ来てから、扉の向こうが別の街になるのを見たり、地図に人が出ると聞いたりしておってな。ずいぶん贅沢な頼み方をしてしもうた」
「それだけあれば、簡単そうには聞こえますね」
「お主が、いとも簡単に戻って来たのも、いかぬ」
「私のせいですか」
「少しはのう」
ヴァルトが笑い、弥兵衛も肩を揺らした。
足元には、脱いだ草鞋がある。
今のところ、それでどこまで歩くのか、自分にも分かっていなかった。
「では、大きな町へ着いた折には、商館か商隊へ便りを託そう。押入商会宛でよいかの」
「ええ。寄られた町の名を知らせていただければ、手掛かりになります」
「わしの方で、入口らしきものを見つけた時も、同じように知らせを出す」
「お願いします。こちらで何か分かった時には、真壁さんたちとも相談して、お知らせを届けます」
「うむ。頼んだぞ」
話がついたところで、ヴァルトが尋ねた。
「町では、どのくらい滞在されますか」
「それは、行ってみねば分からぬ。旨いものでもあれば、少し長くなるかの」
「では、宿の名も書いておいてください」
「分かった。何を食うたかも、添えておこう」
「それを読んでいる間に、次の町へ行かれていそうですね」
「その時は、また便りを出すわい」
ヴァルトは何か言いかけたが、結局、笑って頷いた。
弥兵衛は残っていた茶を飲み干した。
すっかり温くなっていたが、香りはまだあった。
「さて、うまい茶であった」
「もう少し、休んでいかれませんか」
「ありがたいが、このまま西へ参る。森の中心を通ってみるわい」
ヴァルトは引き留めなかった。
窓の外を一度見てから、客と一緒に立ち上がる。
弥兵衛は刀を腰へ差し、畳んでおいた外套を羽織った。
乾きかけた裾が、膝の横で僅かに張る。
「東の迷宮に似ておるなら、何か分かるかもしれぬ。もっとも、森を抜けるまで、木しか見えぬこともあろうがな」
「こちらも調べてみます。真壁さんが、何をおっしゃるか」
「あの御仁なら、茶を飲む暇もなくなりそうじゃ」
「お茶は、ちゃんとお出ししますよ」
「うむ。では、次もそれを頼もう」
玄関で草鞋へ足を入れた。
紐の緩んでいた所を結び直すと、指についた細かな土を払う。
ヴァルトが扉を開けた。
濡れた土と木の匂いが戻ってくる。
室内にいる間に、枝葉の影は戸口から少し横へ移っていた。
「お主は、また領都へ戻るのか」
「ええ。お話を伝えたいですし」
「頼んだぞ。わしも、奥を見てみよう」
弥兵衛は敷居を越えた。
砕石を踏む音がした。
家を包む薄い魔力が、老人の進む所だけ開いている。
その外へ出ても、足は迷わず西を向いた。
「ヴァルト殿、達者で暮らしなさい」
「弥兵衛さんも、どうかご無事で」
弥兵衛は片手を上げ、木々の間へ入った。
少し進んで振り返ると、通ってきた魔力の隙間は、もう閉じていた。
家の輪郭も林の影へ紛れ、先ほどまでの窓は、朽ちた板の向こうへ隠れ始めている。
弥兵衛は、もう1度だけ手を上げた。
それから、根の張り出した地面へ足を運んだ。
戸口に残ったヴァルトは、老人の向かう、森の中心の方へ顔を向けていた。
落ち葉を踏む足音が、少しずつ遠ざかっていった。