押し入れの向こうは異世界でした   作:Brooks

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第460話 同じ魔物を見ているんですよね?

 

 グスタフの大声に、広場の端で待っていた荷運びたちまで振り返った。

 

 弥兵衛は熊を出すつもりで上げかけていた手を下ろし、悪びれもせず笑った。

 

「比べた方が分かりやすいと思うたのじゃが」

 

「分からぬ方が幸せなこともある」

 

 グスタフはそう言って足元の狼を見た。

 

 ダイアウルフの黒い毛並みには、木漏れ日のように白い筋が走っていた。

 

 陽光ではない。

 

 背の毛が所々逆立ち、艶の向きが変わっているのだ。

 

 開いた口の端には乾いた土が付き、長い牙の一本は途中で欠けている。

 

 獣臭さに混じって、まだ湿った森の匂いがした。

 

 これがマールヴェインの奥から運ばれてきたものだと思うと、澪は少し不思議な気持ちになった。

 

 王都の石畳と、枝が頭上で重なる深い森。

 

 互いに遠い二つの場所が、老人の《収納》ひとつでつながっている。

 

「ギルド長、先にこれを端へ運びます」

 

 荷運びの男が二人、狼の前脚を取った。

 

 別の男たちが後脚へ回る。

 

 合図とともに持ち上げようとして、全員の腰が同じ高さで止まった。

 

「……重いぞ」

 

「見れば分かる。もう一度だ」

 

「いや、見た目より重いんだ!」

 

 理央は口元を押さえた。

 

 大人が四人も掛かっているのに、狼は石畳から少し浮いただけだった。

 

 しかも男の一人が尻尾を踏んでしまい、隣から怒鳴られている。

 

「澪さん、あれ……」

 

「そうですね。私が動かします」

 

 澪が前へ出ると、男たちは申し訳なさそうに手を放した。

 

「悪いな、お嬢さん。これを運ぶには縄が要る」

 

「縄はなくても大丈夫です。弥兵衛さん、こちらをお預かりしてもいいですか?」

 

「うむ。わしの物でよければ頼むぞ」

 

「では、少しお借りします」

 

 狼が消えた。

 

 地面に残ったのは、押し潰された砂と、獣の形に沿って湿った石畳だけだった。

 

 男たちはまだ膝を曲げたままだった。

 

 ひとりが空になった腕を見下ろし、隣の男を見た。

 

「……持ち上がったか?」

 

「何も持ってないぞ」

 

「だよな」

 

 澪が広場の端を指した。

 

「そちらの空いている所へ出しますね。作業をする方は、足元を空けてください」

 

 男たちが急いで移動する。

 

 澪は人のいなくなった石畳へ狼を戻した。

 

 先ほどと同じ向きで横たわる巨体を見て、荷運びの一人が長く息を吐く。

 

「……便利なものだなあ」

 

「これがあると助かるんです」

 

「俺たちの出番がなくなるな」

 

「そんなことありませんよ。皮を見ていただくのも、加工場へ運ぶのも、皆さんのお仕事ですから」

 

 その男は少し考えてから、にっと笑った。

 

「じゃあ、置く位置だけは俺たちに任せてくれ。車が入れなくなると困る」

 

「お願いします」

 

 澪は素直に下がった。

 

 グスタフがようやく肩から力を抜いた。

 

「今日は、荷車の代わりになる者ばかり集まったのう」

 

「荷車にもよい所はあるぞ。腰掛けて休める」

 

 弥兵衛の言葉に、荷運びたちがどっと笑った。

 

「では弥兵衛殿、今度こそ小さいものを頼む。ただし、ひとつ出すごとにわしの顔を見てくれ」

 

「何故じゃ?」

 

「わしが生きておるか知るためじゃ」

 

 理央が吹き出し、澪も笑いながら口を覆った。

 

 

 

 次に現れた猪は、狼よりも横幅があった。

 

 ずんぐりした胴を覆うのは、褐色の毛と、石を埋め込んだような硬い瘤。

 

 鼻先から伸びる牙は弧を描き、その先端に黒ずんだ光が残っていた。

 

 横たわったままなのに、突進してきそうな迫力がある。

 

「アイアンボアか……。それもよく育ったものだ」

 

 皮を見る職人がしゃがみ、瘤を木の柄で叩いた。

 

 こつん、と乾いた音が響く。

 

「これ、革になるんですか?」

 

 澪が尋ねると、職人は柄を持ち直した。

 

「柔らかな靴には向かんでしょうな。腹の下と背中じゃ、厚さがまるで違う。硬い所を無理に曲げれば、加工した後で割れちまう」

 

「じゃあ、部位によって用途を変えるんですね」

 

「ええ。良い所もありますぜ。ここの筋が通った部分なら、刃物を受ける当て革に欲しがる職人もいるでしょう」

 

 澪は職人が示した所へ《鑑定》を向けた。

 

「切り分けるなら、どこを残すのがいいですか?」

 

「まずはここを傷つけずに剥ぎたい。それから先のことは工房に持ち帰ってみないと」

 

 職人が太い指で背の線をたどる。

 

 爪の周りに染み込んだ油と、何度も刃物を扱った人らしい細かな傷が見えた。

 

「牙はどうじゃ?」

 

 弥兵衛が猪の口元を指した。

 

「欠けていない方は飾りにも使えそうです。弥兵衛さん、これは結構きれいに残っていますよ」

 

「ふむ。喉を斬ったからのう」

 

 職人が顔を上げた。

 

「その位置なら皮に傷が少ない。よく仕留めたもんです」

 

「皮を残そうと思うて斬ったわけではないぞ。突っ込んできたので、急所を狙うただけじゃ」

 

「……それで、この傷ですか」

 

 男はもう一度切り口を見た。

 

 硬い瘤の並ぶ首の下に、細い傷がひとつある。

 

 大きな体を倒した痕跡が、それだけだった。

 

 弥兵衛が隣の空いた場所へ、もう一頭の猪を出した。

 

 こちらの喉にも、同じような傷が残っている。

 

 理央がすかさず身を乗り出した。

 

「弥兵衛さん。今の話、詳しく聞いてもいいですか?」

 

「よいとも。猪のことかの」

 

「はい! どんなふうに来たんです?」

 

 グスタフが、理央と二頭の猪を見比べた。

 

「……その話を始めるなら、わしは別の猪を見ておってよいかね」

 

「もちろんです!」

 

「助かる。今日は聞くことと見ることが多すぎるでな」

 

 広場の上を風が抜け、猪の毛の間から細かな枯葉が転がり落ちた。

 

 石畳に貼りついた森の土を見て、澪はふと、弥兵衛がこれをすべて歩いて越えてきたのだと思い直した。

 

 

 

 理央は腰の小さな手帳を開いた。

 

 王都まで羽毛を取りに来ただけのはずが、まさかこんな取材の機会に恵まれるとは思っていなかった。

 

 出掛ける前は、帰ってから毛布の素材について書き留めるつもりだったのに、いま紙の上にあるのは猪の絵と、森での立ち位置である。

 

「弥兵衛さん、最初は正面から来たんですか?」

 

「いや、右の藪からじゃ。もう一頭は左の斜面におった」

 

「二頭同時ですか!」

 

「先に来た方が、少し急いでおったのう」

 

「急いでって……襲ってきたんですよね?」

 

「そうとも言う」

 

 理央はしゃがみ、地面に指で二つの丸を描いた。

 

 その間に小さな点を置く。

 

「ここが弥兵衛さん。右が先、左が後。どっちへ逃げたんです?」

 

「右へ一歩じゃな」

 

「えっ、先に来た方へですか?」

 

「相手の進む先を外したのじゃ。大きなものほど、向きを変えるのは難しい」

 

 弥兵衛が右足をわずかに滑らせた。

 

 足音すらしない。

 

 手は刀の柄に掛けていないのに、理央はその動きを見るだけで、目の前を巨体が通り過ぎたような気がした。

 

「その時、猪はどっちを向いていたんです?」

 

「わしのいた所じゃ」

 

「じゃあ、弥兵衛さんがもういないのに、そこを突っ切った?」

 

「そうじゃ。その横を通るところで喉を斬った」

 

「……格好いい」

 

「そうかの?」

 

「すっごく格好いいです!」

 

 理央は勢いよく書き始めた。

 

 猪の鼻息、踏み荒らされる草、剣士の足が土を押す感触。

 

 想像が勝手に先へ走る。

 

 だが、肝心の刀がどの方向から入ったのかがまだ分からない。

 

「弥兵衛さん、刀はその時もう抜いてました?」

 

「いや。抜くのは相手が近づいてからで十分じゃった」

 

「抜いて、斬って、納めたんですか?」

 

「途中まではそうじゃな。もう一頭が来たでな」

 

「そっちはどうしたんです?」

 

「木の根に足を取られおった」

 

「偶然ですか?」

 

「わしが根を置いたわけではないぞ」

 

 理央は顔を上げた。

 

 弥兵衛は真面目な顔で答えている。

 

 その後ろでは荷運びの男が笑いを堪え、肩を震わせていた。

 

「でも、その一瞬を逃さなかったんですね」

 

「立て直されては面倒じゃ。斬るならその時じゃよ」

 

 言葉は簡単だった。

 

 二頭目の皮にも、最初の猪と同じくらい細い刀傷がある。

 

 理央はその線を見つめた。

 

 自分なら、二頭の魔物が左右から襲ってくる場面を何ページにもわたって書く。

 

 枝を折る音も、足元の泥も、焦りも書く。

 

 ところが、ここにいる老人はそれを「右へ一歩」で終わらせてしまう。

 

 しかも、実際にやっている。

 

「……やっぱり、文章にする方が難しいです」

 

「斬るよりか?」

 

「弥兵衛さんの場合は、そうかもしれません!」

 

「ほっほ。わしにも苦手なことはあるでな。人には向き不向きがある」

 

「弥兵衛さんの苦手なことって、何です?」

 

「長く座って同じことを考えるのは苦手じゃのう。腹が減る」

 

 理央は手帳へ視線を落とし、最後に小さく書き足した。

 

 ――本人、食欲旺盛。

 

 横から弥兵衛が覗き込む。

 

「そこも物語に入るのかの?」

 

「重要な人物描写です!」

 

 

 

 職人が獣の皮に指を走らせている間も、検分場の奥では荷車が行き来していた。

 

 空になった車を一台引き入れ、台の上へ布を敷く。

 

 そこへ先ほどの狼の牙を一組だけ載せた男が、グスタフに何か耳打ちした。

 

「……そうか。なら、すぐ手放す必要はないのう」

 

 グスタフが答えると、男は牙を布ごと包み直した。

 

 澪はそのやり取りを見ていた。

 

 狼の牙なら、どれも似たものだと思ってしまいそうになる。

 

 しかし、牙の根元の太さも曲がり方も違う。

 

 片方だけ欠けているものと、左右揃っているものとでは、飾り物にした時の見映えも変わるだろう。

 

「グスタフさん、それはすぐに売らないんですか?」

 

「欲しがる工房があるのじゃ。じゃが、今あちらは別の仕事を抱えておる。急に持ち込んでも、安い値しか付けられんじゃろうな」

 

「今の仕事が済んでから、見てもらうんですね」

 

「もちろんじゃ。ただし、わしの倉庫へ何でも積み上げられても困る」

 

 澪と理央が同時に顔を上げた。

 

「羽毛のことですか?」

 

「ほかに何がある」

 

「もう持って帰りましたよ」

 

「知っておる。だから今、こうして笑って話せるのじゃ」

 

 澪は思わず吹き出した。

 

 午前中は羽毛の袋が山を作り、昼前には魔物が並ぶ。

 

 ギルド長という人も、楽な仕事ではない。

 

 横で職人が、猪の皮へ爪を立てていた。

 

「こいつは丸ごと売るより、部位を選べる相手に見せたいですね。全部同じ革として扱われたら、いい所まで安くなっちまう」

 

「そういうことじゃ」

 

 グスタフは頷いてから、弥兵衛に向き直った。

 

「弥兵衛殿。売り方を分けたいのじゃが、よいかね。すぐ買い手が決まるものもあれば、職人を呼んだ方がよいものもある」

 

「うむ。売る方は、お主らに任せる。よいようにしてくれ」

 

 老人があっさり答えるので、グスタフは口元を緩めた。

 

 もっとも、その後すぐに地面の大猪へ視線を戻し、困ったように眉を寄せる。

 

「問題は、品物をどこに置くかじゃな」

 

「それなら、買い手が決まるまで私が預かっておきましょうか。王都へ来る時にお届けできますし」

 

 澪が言うと、グスタフの顔が明るくなった。

 

「頼めるかね。弥兵衛殿を旅先から呼び戻さずに済む」

 

「わしも助かる。頼んでよいかの?」

 

「はい」

 

 荷運びの男が聞いていたらしく、台の上に獣の種類ごとに布を並べ始める。

 

「狼はあちら。猪は手前。皮をまだ触ってないやつは奥にしてくれ」

 

 澪は言われたとおりに置き直す。

 

 やがて台の上は、現物を見せるための小さな見本だけになった。

 

 大きな身体は《収納》で預かり、いつでも戻せるようにしておく。

 

「これなら、職人が来ても広げられますね」

 

「しかも倉庫を使わずに済む」

 

 グスタフがしみじみ言った。

 

「澪さん。わしは今日、何度目の礼を言うたかのう」

 

「羽毛の分も入れたら、結構な回数ですよ」

 

「では、最後にもう一度。ありがとう」

 

 隣で弥兵衛が頷いた。

 

「よい商人同士じゃな」

 

 澪は照れくさくなり、台に残った牙の方へ視線を戻した。

 

 

 

 昼を知らせる鐘が、遠くで鳴り始めた。

 

 石壁に囲まれた検分場では、鐘の音が少しこもって聞こえる。

 

 職人たちは手を動かしたまま、互いに顔を見合わせた。

 

 いつもの昼なら道具を置き、裏手で食事を取る頃合いだった。

 

「ギルド長、ここで一度、休みにしませんか」

 

「そうしたいところじゃが、まだ見ておらぬものが山ほどある」

 

「山ほどって、弥兵衛さん。あとどれくらいですか?」

 

 理央が尋ねた。

 

「数えておらぬからのう。……そうじゃ、ヴァルト殿の家へ寄る前に倒したホブゴブリンが18おったな」

 

「18!?」

 

 若い職員が声を上げた。

 

 今まで使っていた筆を落とし、慌てて拾い直す。

 

「群れで18ですか。護衛隊でも苦労する数ですよ」

 

「そうじゃろうな。あれも随分と元気に追いかけてきおった」

 

「追いかけて……それで?」

 

「斬った」

 

 職員は筆を持ったまま動かなくなった。

 

 理央は口を開きかけたが、グスタフの方が早かった。

 

「今までの話からして、そこを詳しく聞いても同じ答えじゃろう。わしは聞かぬぞ」

 

「分かってきましたね、グスタフさん」

 

「昨日から学ぶことが多いのじゃ」

 

 澪は近くの台を見た。

 

 濡れた布を絞った職人の手が赤くなっている。

 

 獣の皮を広げるにも、鋭い牙を扱うにも、ずっと腰を曲げていた人たちだ。

 

「一度、皆さんに休んでもらいませんか。残りは私が持っていられますから」

 

 グスタフが職人たちを見た。

 

「そうじゃな。腹が減って、見るものを間違われても困る」

 

「ありがたい!」

 

 年配の職人が真っ先に声を上げた。

 

 若い男に手を引かれて立ち上がると、膝がぽきりと鳴る。

 

「魔物は逃げませんから」

 

 澪が言うと、職人は笑った。

 

「生きているのを相手にするより、ずっとましですな」

 

「それは本当じゃ」

 

 弥兵衛が深く頷く。

 

 職人たちはぞろぞろと広場を出ていった。

 

 荷運びの男が最後に振り返り、台の上の牙を見てから、弥兵衛へ頭を下げる。

 

「帰ってからも頼むよ。俺はこういう大物を扱うのが好きなんだ」

 

「ほう。それならまた出そうかの」

 

「いや、休憩の後で!」

 

 男は慌てて駆け出した。

 

 グスタフが額を押さえ、澪が笑う。

 

 理央は手帳の端に、今のやり取りを小さく書き足した。

 

 

 

 職人たちが休みに入ると、広場は急に広く感じられた。

 

 離れた通りからは、昼を売り歩く声が聞こえてくる。

 

 日除けの下には水差しと椀が運ばれ、グスタフは椀を手に取ったものの、飲む前に弥兵衛の右手を見た。

 

「……その手、本当に何ともないのじゃな」

 

「何ともないぞ。動くし、飯も食える」

 

「飯を食うのは、手だけの仕事ではなかろう」

 

 弥兵衛が笑いながら指を曲げる。

 

 節の太い、長年刀を握ってきた手だった。

 

 理央はその掌を見たあと、手帳を開いた。

 

「弥兵衛さん。ひとつだけ、聞いてもいいですか」

 

「手のことかの?」

 

「その魔物のことです。どうやって、そんなことになったのか知りたいんです」

 

 弥兵衛は水をひと口飲み、広場の向こうを眺めた。

 

 荷車の轍が石畳を黒く削っている。

 

 その先には城壁の屋根が見え、さらに遠く、薄い雲が空を流れていた。

 

「あの森の中心へ入った頃じゃ。急に獣の気配がなくなってのう。妙に静かなところへ、女が立っておった」

 

「人間の女の人に見えたんですか?」

 

「顔も手も人のものじゃった。じゃが、近づいてみると、息をしておらぬ」

 

「息を……してない?」

 

「髪も揺れぬ。なのに、周りの草は風で動いておった」

 

 理央の手が止まった。

 

「それで、《鑑定》したら、エルドリッチと」

 

「うむ。迷宮の門番ともな。生存期間は100年以上と出た」

 

 理央が書き込む横で、グスタフが低い声を出した。

 

「百年……。それも恐ろしい話じゃな」

 

「もっと恐ろしいことが起きたぞ」

 

「まだあるのかね?」

 

「腹が開いたのじゃ。こう、六つに」

 

 弥兵衛は両手で空中に形を描いた。

 

 胸の前で指を広げ、ゆっくり外へ開く。

 

「中から触手が伸びて、木に巻きついた。次は針を飛ばしてきおった。鞘へ当たったものは、煙まで上げたぞ」

 

「鞘が?」

 

「うむ。あれには参った。真壁殿に手を入れてもろうた刀じゃから、大事にしたかったでな」

 

「弥兵衛さん、刀より手の心配をしてください!」

 

 理央の声に、弥兵衛は自分の右手を見た。

 

「手は戻ったからのう」

 

「そういう順番の話じゃないです!」

 

 グスタフが笑いかけて、すぐに笑みを引っ込めた。

 

「……で、その女の首は斬ったのじゃな」

 

「斬った。じゃが、首に羽が生えて、森の奥へ飛んでいきおった」

 

 昼の賑やかな声が、急に遠くなった気がした。

 

 理央は手帳の白い余白を眺めたまま、しばらく筆を動かせなかった。

 

 襲ってきた獣と違って、斬って終わりにならない相手。

 

 そんなものが、森のどこかにまだいる。

 

「……それ、討伐したって言えないですよね」

 

「そうじゃ。わしも、生きておるかもしれぬと思うておる」

 

 弥兵衛は軽い調子で言ったが、刀へ添えた手は動かさなかった。

 

「だから、ヴァルト殿へ知らせたのじゃよ」

 

 

 

「エルドリッチ……」

 

 理央はもう一度、その名を口にした。

 

 音が耳に残る。

 

 異世界の言葉として聞き流せば、それまでだったのかもしれない。

 

 けれど、怪物の形を聞いた後では、ひとつの単語が頭から離れない。

 

「それ、クトゥルフ神話みたいです」

 

「くとぅるふ?」

 

 弥兵衛がゆっくり聞き返した。

 

「私たちの世界の怪奇小説に出てくる、恐ろしい神様や怪物の話です。海の底で眠るものとか、人間とはまるで違う形のものとか……」

 

「海に神様がおるのか」

 

「小説です、小説。いろんな人が物語を書き継いでいるんです」

 

「ふむ。皆でひとつの国の話を書くようなものかの」

 

「そうですね。世界の雰囲気や名前を共有して、別の話を作ることもあります」

 

 理央はそこで少し笑った。

 

 異世界から来た剣豪に、現代の怪奇小説を説明している。

 

 そんな光景も、自分が小説に書いたら、読者は突飛だと思うかもしれない。

 

「でも、エルドリッチって名前の神様がいる、という意味じゃないんです。英語だと、不気味なもの、人の世界から外れたようなものを表す言葉で……」

 

「異形の女には、よく似合う名じゃな」

 

「似合いすぎるんです。腹が裂けて、触手が出て、首だけでも逃げるなんて」

 

 理央は手帳に描きかけた女の輪郭を見た。

 

 細い胴から何本もの触手が伸び、余白を埋めている。

 

「同じような怪物なら、地球の物語にも出てきますけど……」

 

「地球というのは、お主らの国かの」

 

「国よりずっと大きなものです。私たちのいた世界です」

 

「そうか。世界を越えても、似たものはおるのじゃな」

 

「そこが、ちょっと気になるんです」

 

 理央は顔を上げた。

 

「名前の響きも姿も、つい連想しちゃうんです。こちらに来る前に読んだ怪奇小説を」

 

「その話を書いた人間が、こちらへ来たことはないのか?」

 

「それは、分からないです。ただ、似ているからって、小説と同じ相手だとは限らないですよね」

 

 理央は手帳を閉じ、弥兵衛の右手を見た。

 

「……その手、今も痛むんですか」

 

「もう何ともないぞ。ちゃんと五本あるしのう」

 

 弥兵衛が指を一本ずつ曲げてみせた。

 

「でも、あの魔物には、もう会いたくないですか?」

 

「うむ。あの女は、できれば腹の中まで見とうない」

 

 弥兵衛がそう言って水を飲んだ。

 

 理央は口元をゆるめ、閉じたばかりの手帳をまた開いた。

 

 

 

 理央が「地球の物語」と口にした時、澪は牙の置かれた台から顔を上げていた。

 

 最初は、怪物の話に似た物語があるというだけだと思った。

 

 理央は昔から本が好きだ。

 

 知らない題名や作家の名前が出てくることも珍しくない。

 

 ところが、エルドリッチという名と、迷宮の門番という肩書を聞き直したところで、澪の頭の中に別のものが浮かんだ。

 

 古い燭台。

 

 あの神様は、やけに本が好きだった。

 

 異世界の話となると、もっと熱心になる。

 

 勇者、魔王、聖剣、迷宮。

 

 実際の異世界を知りたがるくせに、知識の入口は妙に小説へ寄っている。

 

 以前、こちらの世界について思い違いをしていると分かった時、澪は何度も説明した覚えがある。

 

 けれど、あの掲示板に出る返答はいつだって短い。

 

 しかも、たいてい本人には悪気がない。

 

(……燭台)

 

 澪は一度、目を閉じた。

 

(何をやっているんですか、あなたは)

 

「澪さん?」

 

 理央の声がすぐ横でした。

 

「えっ、あ、はい」

 

「具合悪いですか? さっきから顔が……」

 

「大丈夫です。ちょっと考え事をしていました」

 

「もしかして、魔物のことですか?」

 

「ええ。まだ、そうと決まったわけではないんですけど。帰ったら、聞いてみたい相手がいるんです」

 

「誰です?」

 

「……あの、困った同居人です」

 

 理央が一度瞬きしてから、ゆっくり澪を見た。

 

「……まさか」

 

「まだ、まさかです」

 

 澪は弥兵衛の方を見た。

 

 老人はグスタフに、水差しの中身が冷たくて旨いと話している。

 

 預かった封書は《収納》の中にある。

 

 ヴァルトの家は、あの森にある。

 

(まずは手紙を届けないと)

 

 見上げると、グスタフが再び職人たちを呼び戻していた。

 

 午後の陽は高く、石畳の上に落ちる影が短い。

 

 最後の大物を並べるには、ちょうど明るい時間だった。

 

 

 

 休憩から戻った職人たちが、もう一度道具を広げた頃には、広場の中央がすっかり空いていた。

 

 狼も猪も、傷を見終えたものから澪の《収納》へ入っている。

 

 台の上には毛と牙の見本が残り、先ほどまで広場を塞いでいた巨体の面影はない。

 

「これなら、少々大きくても出せるじゃろう」

 

 弥兵衛が満足げに言った。

 

「少々、という言葉をお主が使うと怖いのう」

 

 グスタフはまず職人たちを壁際へ寄せ、広場に誰も残っていないのを見てから弥兵衛へ向き直った。

 

「ところで、熊はどちらへ向けて出すつもりじゃ?」

 

「横たえて置くつもりじゃが」

 

「それは分かる。頭をこっちへ向けるのか、向こうへ向けるのかじゃ」

 

「どちらがよい?」

 

 グスタフは答える前に、しばらく真顔で考えた。

 

 どうやら熊の頭ひとつで、荷車の出入りが変わりかねないらしい。

 

「……奥へ向けてくれ。頼むから、手前には出さんでくれよ」

 

「心得た」

 

 澪が理央の袖を引いた。

 

「理央ちゃん、もう少し下がりましょう」

 

「えっ、でも、近くで見たいです」

 

「出てから近づけばいいですから」

 

 そう言われ、理央は渋々後ろへ下がった。

 

 弥兵衛は広場の中央をひと目見て、手を上げる。

 

 最初に現れたのは、灰褐色の背中だった。

 

 毛が陽を遮り、石畳に大きな影が落ちた。

 

 次いで太い前脚が現れる。

 

 鋭い爪が地面の少し上で止まり、横たわった姿勢のまま、巨体がゆっくり形を成した。

 

「……熊、ですよね?」

 

 職人の一人が呟く。

 

「熊じゃな」

 

 弥兵衛は平然と答えた。

 

 これまでの獣よりも胴が太く、首から肩へ盛り上がった肉の厚さが尋常ではない。

 

 鼻先だけでも男が両腕で抱えたくなるほど大きく、奥に向けた頭は、広場の隅へ迫っていた。

 

 グスタフがゆっくり首を回し、空いた場所を見た。

 

「……ほかの魔物を片づけておいてよかったのう」

 

「そうですね」

 

「澪さん。あれがまだ並んでおったら、わしは今頃、どこに立っておったじゃろうな」

 

「……扉の外でしょうか」

 

「たぶんそうじゃな」

 

 理央はもう熊へ駆け寄る寸前だった。

 

 だが、先に職人たちが動き、毛の間をかき分けている。

 

 ひとりが胸元に走る細い傷を見つけ、顔を上げた。

 

「これも一太刀か……」

 

「うむ。腕が長うてのう。近づくのに少し骨が折れた」

 

「少し、ですか」

 

 理央が聞き返す。

 

「熊の方は大きく振りかぶってきおったが、懐へ入れば届かぬ所もある」

 

「えっ、あの腕の内側に入ったんですか?」

 

「離れていては斬れぬからのう」

 

 理央は勢いよく手帳を開いた。

 

 澪は熊の背中を見上げながら、《鑑定》を使う。

 

 これなら、何着分の防寒具になるだろう。

 

「……この大きさだと、扱える職人さんが限られそうですね」

 

 グスタフが力強く頷いた。

 

「そうじゃ。何しろ、置いておくところから考えねばならん。この熊が、わしの倉庫に入ると思うかね?」

 

 澪は熊をもう一度見上げた。

 

「……入口でつかえそうですね」

 

「じゃろう!」

 

 理央が笑いを堪えきれず、手帳で顔を隠した。

 

 

 

 熊を戻した途端、広場に光が戻ったように感じられた。

 

 グスタフは深々と息を吐き、袖で額を拭った。

 

 いま目の前にあるのは、毛皮の見本と、各種の牙や角、職人たちがつけた印だけだ。

 

 さっきまで巨体が寝そべっていた跡には、細かな灰色の毛が残っている。

 

「さて。これなら話ができる」

 

「熊を出す前も、話はできましたよ」

 

 理央が言うと、グスタフは顔を上げた。

 

「理央ちゃん。熊を出した後の方が、話は切実なのじゃ」

 

 弥兵衛は声を立てて笑った。

 

「よいものを見てもろうた。わしも満足じゃ」

 

「わしの心臓には、あまりよいものではなかったがのう」

 

 グスタフが職人たちへ合図すると、台の上に布を敷いた見本が並んだ。

 

 職人のひとりが、使える部分と傷んだ部分を指し分ける。

 

 長い牙には買い手の見込みがあり、猪の厚い皮を欲しがる工房もありそうだった。

 

 狼の毛皮は、背の艶が特に良いものだけ選んで見てもらうことになった。

 

「こちらはギルドで買い取れる。あちらは、買い手を探した方が高くなる」

 

 グスタフが二つの山を作り、弥兵衛へ向ける。

 

「今すぐ金に換えたいなら、それもできる。じゃが、急がぬ方がよい品もある。どうする?」

 

「旅の路銀は、昨日の魔石で十分じゃ。良い値のつくものは、良い値で売ってくれればよい」

 

「そうか。なら、そのようにしよう」

 

 澪は自分の《収納》に残る品を、グスタフと弥兵衛に言われた順で出した。

 

 商売が成立した分はギルド側へ渡し、買い手を探してもらう品は引き続き預かる。

 

 先ほどの熊も、澪の《収納》に残した。

 

 見物していた若い職員が、とうとう口を開いた。

 

「……一度にこんなに動くのに、荷車は一台も使わないんですね」

 

「昨日も同じことを言われたのう」

 

 弥兵衛が笑う。

 

「荷車は便利じゃが、わしは歩くのが好きでな」

 

「いえ、そういうことじゃなくて……」

 

 職員が言葉を探している間に、澪が残りを片づけ終えた。

 

 グスタフは目の前の空いた広場を見渡した。

 

 朝には羽毛で倉庫が埋まり、昼には魔物が広場を塞ぎ、今はどちらも見当たらない。

 

「わしのギルドが、何も置いていない場所になってしもうた」

 

「商売は進んだじゃありませんか」

 

 澪が言うと、グスタフは口元を緩めた。

 

 弥兵衛は受け取った代金を《収納》に納めると、職人たちへ礼を言った。

 

 彼らも深く頭を下げる。

 

「いい物を見せてもらいました。あんな傷のつき方は初めてです」

 

「次はもっと傷を減らすよう、気をつけようかの」

 

「いえ! どうかご無事で!」

 

 職人の返事があまりに早く、理央は吹き出した。

 

 

 

 ギルドを出ると、通りの空気は先ほどより温かくなっていた。

 

 石造りの店の軒先には乾かした香草が吊るされ、荷を降ろす馬の鼻息に、焼きたてのパンの香りが混じっている。

 

 道を渡る男が肩に担いだ木箱を直し、角の店からは煮込み鍋の蓋を開ける音が聞こえた。

 

 弥兵衛がその音に足を止めた。

 

「おお。よい匂いじゃ」

 

「弥兵衛さん、早いですね」

 

 理央が笑う。

 

「腹は早く減る方がよい。旨いものを食い損ねずに済むでな」

 

「それ、初めて聞きました」

 

 遅い昼食を取ろうと、グスタフが一行を店へ案内した。

 

 卓へ腰を下ろした途端、弥兵衛は勧められた肉料理と温かいパンを頼む。

 

 澪と理央もそれぞれ食べたいものを選んだ。

 

 飲み物が届くと、理央はようやく手帳を閉じた。

 

 料理を待つ間くらいは休もうと思うのだが、目の前の老人を見ていると、つい聞きたいことが増えてしまう。

 

「弥兵衛さん、森の戦いのこと、また聞いてもいいですか?」

 

「よいぞ。今度は食いながらでもよいかの」

 

「もちろんです!」

 

「理央ちゃん、せめてパンが来てからにしません?」

 

 澪が言うと、理央は少しだけ頬を赤くした。

 

「……そうします」

 

 グスタフは卓へ肘をつき、二人を見比べた。

 

「しかし、面白いのう。澪さんは魔物を見れば皮や牙の使い道を考える。理央ちゃんは、斬り合いのことばかり聞いておる」

 

「私は売り物として見てしまいますね」

 

「私は小説の場面が浮かんじゃうんです」

 

「同じ獣を眺めておって、ずいぶん違うものじゃ」

 

 弥兵衛が頷く。

 

「わしは腹の減る相手としか見ておらなんだがな」

 

「食べる方ですか!?」

 

 理央の声が大きくなり、隣の卓の客が振り返った。

 

「違う違う。斬り合うと腹が減るという話じゃ」

 

「もう! 弥兵衛さん!」

 

 澪が笑い、グスタフも声を立てた。

 

 ちょうど運ばれてきた料理を前に、弥兵衛は満足そうに箸代わりの食具を取った。

 

 澪は温かな料理をひと口食べた。

 

 食事を終えたら、理央と一緒にヴァルトへ手紙を届けよう。

 

 同じように黙っていた理央が、突然顔を上げた。

 

「澪さん。弥兵衛さんの戦い、小説に書けたら読んでくれます?」

 

「もちろんです。楽しみにしてますよ」

 

「ほう。わしの旅が本になるのか」

 

「はい! ただ、弥兵衛さんには、あとで少しお願いがあるんです」

 

「何じゃ?」

 

「書き上がったら、戦い方が違ってないか読んでほしいんです」

 

 弥兵衛はパンをちぎる手を止め、しばらく考えた。

 

「……その本には、飯を食う場面もあるかの?」

 

「ありますよ。たぶん、いっぱい」

 

「それなら読めるぞ」

 

「そこが決め手なんですか!?」

 

「食うたものを忘れてしまっては、旅の半分を忘れるようなものじゃからのう」

 

 理央はもう何も言い返せなかった。

 

 代わりに手帳を開き、パンの皿の横へ置く。

 

「……澪さん。これ、戦闘の話より食事の話が長くなるかもしれません」

 

「いいんじゃないですか。弥兵衛さんらしくて」

 

 澪が答えると、老人は実に嬉しそうに頷いた。

 

「ほっほ。では、次は宿で食うた肉の話から始めようかの」

 

 理央は天井を仰いだ。

 

「だから! 刀の話が聞きたいんですってば!」

 

 その声に、グスタフがまた笑った。

 

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