グスタフの大声に、広場の端で待っていた荷運びたちまで振り返った。
弥兵衛は熊を出すつもりで上げかけていた手を下ろし、悪びれもせず笑った。
「比べた方が分かりやすいと思うたのじゃが」
「分からぬ方が幸せなこともある」
グスタフはそう言って足元の狼を見た。
ダイアウルフの黒い毛並みには、木漏れ日のように白い筋が走っていた。
陽光ではない。
背の毛が所々逆立ち、艶の向きが変わっているのだ。
開いた口の端には乾いた土が付き、長い牙の一本は途中で欠けている。
獣臭さに混じって、まだ湿った森の匂いがした。
これがマールヴェインの奥から運ばれてきたものだと思うと、澪は少し不思議な気持ちになった。
王都の石畳と、枝が頭上で重なる深い森。
互いに遠い二つの場所が、老人の《収納》ひとつでつながっている。
「ギルド長、先にこれを端へ運びます」
荷運びの男が二人、狼の前脚を取った。
別の男たちが後脚へ回る。
合図とともに持ち上げようとして、全員の腰が同じ高さで止まった。
「……重いぞ」
「見れば分かる。もう一度だ」
「いや、見た目より重いんだ!」
理央は口元を押さえた。
大人が四人も掛かっているのに、狼は石畳から少し浮いただけだった。
しかも男の一人が尻尾を踏んでしまい、隣から怒鳴られている。
「澪さん、あれ……」
「そうですね。私が動かします」
澪が前へ出ると、男たちは申し訳なさそうに手を放した。
「悪いな、お嬢さん。これを運ぶには縄が要る」
「縄はなくても大丈夫です。弥兵衛さん、こちらをお預かりしてもいいですか?」
「うむ。わしの物でよければ頼むぞ」
「では、少しお借りします」
狼が消えた。
地面に残ったのは、押し潰された砂と、獣の形に沿って湿った石畳だけだった。
男たちはまだ膝を曲げたままだった。
ひとりが空になった腕を見下ろし、隣の男を見た。
「……持ち上がったか?」
「何も持ってないぞ」
「だよな」
澪が広場の端を指した。
「そちらの空いている所へ出しますね。作業をする方は、足元を空けてください」
男たちが急いで移動する。
澪は人のいなくなった石畳へ狼を戻した。
先ほどと同じ向きで横たわる巨体を見て、荷運びの一人が長く息を吐く。
「……便利なものだなあ」
「これがあると助かるんです」
「俺たちの出番がなくなるな」
「そんなことありませんよ。皮を見ていただくのも、加工場へ運ぶのも、皆さんのお仕事ですから」
その男は少し考えてから、にっと笑った。
「じゃあ、置く位置だけは俺たちに任せてくれ。車が入れなくなると困る」
「お願いします」
澪は素直に下がった。
グスタフがようやく肩から力を抜いた。
「今日は、荷車の代わりになる者ばかり集まったのう」
「荷車にもよい所はあるぞ。腰掛けて休める」
弥兵衛の言葉に、荷運びたちがどっと笑った。
「では弥兵衛殿、今度こそ小さいものを頼む。ただし、ひとつ出すごとにわしの顔を見てくれ」
「何故じゃ?」
「わしが生きておるか知るためじゃ」
理央が吹き出し、澪も笑いながら口を覆った。
次に現れた猪は、狼よりも横幅があった。
ずんぐりした胴を覆うのは、褐色の毛と、石を埋め込んだような硬い瘤。
鼻先から伸びる牙は弧を描き、その先端に黒ずんだ光が残っていた。
横たわったままなのに、突進してきそうな迫力がある。
「アイアンボアか……。それもよく育ったものだ」
皮を見る職人がしゃがみ、瘤を木の柄で叩いた。
こつん、と乾いた音が響く。
「これ、革になるんですか?」
澪が尋ねると、職人は柄を持ち直した。
「柔らかな靴には向かんでしょうな。腹の下と背中じゃ、厚さがまるで違う。硬い所を無理に曲げれば、加工した後で割れちまう」
「じゃあ、部位によって用途を変えるんですね」
「ええ。良い所もありますぜ。ここの筋が通った部分なら、刃物を受ける当て革に欲しがる職人もいるでしょう」
澪は職人が示した所へ《鑑定》を向けた。
「切り分けるなら、どこを残すのがいいですか?」
「まずはここを傷つけずに剥ぎたい。それから先のことは工房に持ち帰ってみないと」
職人が太い指で背の線をたどる。
爪の周りに染み込んだ油と、何度も刃物を扱った人らしい細かな傷が見えた。
「牙はどうじゃ?」
弥兵衛が猪の口元を指した。
「欠けていない方は飾りにも使えそうです。弥兵衛さん、これは結構きれいに残っていますよ」
「ふむ。喉を斬ったからのう」
職人が顔を上げた。
「その位置なら皮に傷が少ない。よく仕留めたもんです」
「皮を残そうと思うて斬ったわけではないぞ。突っ込んできたので、急所を狙うただけじゃ」
「……それで、この傷ですか」
男はもう一度切り口を見た。
硬い瘤の並ぶ首の下に、細い傷がひとつある。
大きな体を倒した痕跡が、それだけだった。
弥兵衛が隣の空いた場所へ、もう一頭の猪を出した。
こちらの喉にも、同じような傷が残っている。
理央がすかさず身を乗り出した。
「弥兵衛さん。今の話、詳しく聞いてもいいですか?」
「よいとも。猪のことかの」
「はい! どんなふうに来たんです?」
グスタフが、理央と二頭の猪を見比べた。
「……その話を始めるなら、わしは別の猪を見ておってよいかね」
「もちろんです!」
「助かる。今日は聞くことと見ることが多すぎるでな」
広場の上を風が抜け、猪の毛の間から細かな枯葉が転がり落ちた。
石畳に貼りついた森の土を見て、澪はふと、弥兵衛がこれをすべて歩いて越えてきたのだと思い直した。
理央は腰の小さな手帳を開いた。
王都まで羽毛を取りに来ただけのはずが、まさかこんな取材の機会に恵まれるとは思っていなかった。
出掛ける前は、帰ってから毛布の素材について書き留めるつもりだったのに、いま紙の上にあるのは猪の絵と、森での立ち位置である。
「弥兵衛さん、最初は正面から来たんですか?」
「いや、右の藪からじゃ。もう一頭は左の斜面におった」
「二頭同時ですか!」
「先に来た方が、少し急いでおったのう」
「急いでって……襲ってきたんですよね?」
「そうとも言う」
理央はしゃがみ、地面に指で二つの丸を描いた。
その間に小さな点を置く。
「ここが弥兵衛さん。右が先、左が後。どっちへ逃げたんです?」
「右へ一歩じゃな」
「えっ、先に来た方へですか?」
「相手の進む先を外したのじゃ。大きなものほど、向きを変えるのは難しい」
弥兵衛が右足をわずかに滑らせた。
足音すらしない。
手は刀の柄に掛けていないのに、理央はその動きを見るだけで、目の前を巨体が通り過ぎたような気がした。
「その時、猪はどっちを向いていたんです?」
「わしのいた所じゃ」
「じゃあ、弥兵衛さんがもういないのに、そこを突っ切った?」
「そうじゃ。その横を通るところで喉を斬った」
「……格好いい」
「そうかの?」
「すっごく格好いいです!」
理央は勢いよく書き始めた。
猪の鼻息、踏み荒らされる草、剣士の足が土を押す感触。
想像が勝手に先へ走る。
だが、肝心の刀がどの方向から入ったのかがまだ分からない。
「弥兵衛さん、刀はその時もう抜いてました?」
「いや。抜くのは相手が近づいてからで十分じゃった」
「抜いて、斬って、納めたんですか?」
「途中まではそうじゃな。もう一頭が来たでな」
「そっちはどうしたんです?」
「木の根に足を取られおった」
「偶然ですか?」
「わしが根を置いたわけではないぞ」
理央は顔を上げた。
弥兵衛は真面目な顔で答えている。
その後ろでは荷運びの男が笑いを堪え、肩を震わせていた。
「でも、その一瞬を逃さなかったんですね」
「立て直されては面倒じゃ。斬るならその時じゃよ」
言葉は簡単だった。
二頭目の皮にも、最初の猪と同じくらい細い刀傷がある。
理央はその線を見つめた。
自分なら、二頭の魔物が左右から襲ってくる場面を何ページにもわたって書く。
枝を折る音も、足元の泥も、焦りも書く。
ところが、ここにいる老人はそれを「右へ一歩」で終わらせてしまう。
しかも、実際にやっている。
「……やっぱり、文章にする方が難しいです」
「斬るよりか?」
「弥兵衛さんの場合は、そうかもしれません!」
「ほっほ。わしにも苦手なことはあるでな。人には向き不向きがある」
「弥兵衛さんの苦手なことって、何です?」
「長く座って同じことを考えるのは苦手じゃのう。腹が減る」
理央は手帳へ視線を落とし、最後に小さく書き足した。
――本人、食欲旺盛。
横から弥兵衛が覗き込む。
「そこも物語に入るのかの?」
「重要な人物描写です!」
職人が獣の皮に指を走らせている間も、検分場の奥では荷車が行き来していた。
空になった車を一台引き入れ、台の上へ布を敷く。
そこへ先ほどの狼の牙を一組だけ載せた男が、グスタフに何か耳打ちした。
「……そうか。なら、すぐ手放す必要はないのう」
グスタフが答えると、男は牙を布ごと包み直した。
澪はそのやり取りを見ていた。
狼の牙なら、どれも似たものだと思ってしまいそうになる。
しかし、牙の根元の太さも曲がり方も違う。
片方だけ欠けているものと、左右揃っているものとでは、飾り物にした時の見映えも変わるだろう。
「グスタフさん、それはすぐに売らないんですか?」
「欲しがる工房があるのじゃ。じゃが、今あちらは別の仕事を抱えておる。急に持ち込んでも、安い値しか付けられんじゃろうな」
「今の仕事が済んでから、見てもらうんですね」
「もちろんじゃ。ただし、わしの倉庫へ何でも積み上げられても困る」
澪と理央が同時に顔を上げた。
「羽毛のことですか?」
「ほかに何がある」
「もう持って帰りましたよ」
「知っておる。だから今、こうして笑って話せるのじゃ」
澪は思わず吹き出した。
午前中は羽毛の袋が山を作り、昼前には魔物が並ぶ。
ギルド長という人も、楽な仕事ではない。
横で職人が、猪の皮へ爪を立てていた。
「こいつは丸ごと売るより、部位を選べる相手に見せたいですね。全部同じ革として扱われたら、いい所まで安くなっちまう」
「そういうことじゃ」
グスタフは頷いてから、弥兵衛に向き直った。
「弥兵衛殿。売り方を分けたいのじゃが、よいかね。すぐ買い手が決まるものもあれば、職人を呼んだ方がよいものもある」
「うむ。売る方は、お主らに任せる。よいようにしてくれ」
老人があっさり答えるので、グスタフは口元を緩めた。
もっとも、その後すぐに地面の大猪へ視線を戻し、困ったように眉を寄せる。
「問題は、品物をどこに置くかじゃな」
「それなら、買い手が決まるまで私が預かっておきましょうか。王都へ来る時にお届けできますし」
澪が言うと、グスタフの顔が明るくなった。
「頼めるかね。弥兵衛殿を旅先から呼び戻さずに済む」
「わしも助かる。頼んでよいかの?」
「はい」
荷運びの男が聞いていたらしく、台の上に獣の種類ごとに布を並べ始める。
「狼はあちら。猪は手前。皮をまだ触ってないやつは奥にしてくれ」
澪は言われたとおりに置き直す。
やがて台の上は、現物を見せるための小さな見本だけになった。
大きな身体は《収納》で預かり、いつでも戻せるようにしておく。
「これなら、職人が来ても広げられますね」
「しかも倉庫を使わずに済む」
グスタフがしみじみ言った。
「澪さん。わしは今日、何度目の礼を言うたかのう」
「羽毛の分も入れたら、結構な回数ですよ」
「では、最後にもう一度。ありがとう」
隣で弥兵衛が頷いた。
「よい商人同士じゃな」
澪は照れくさくなり、台に残った牙の方へ視線を戻した。
昼を知らせる鐘が、遠くで鳴り始めた。
石壁に囲まれた検分場では、鐘の音が少しこもって聞こえる。
職人たちは手を動かしたまま、互いに顔を見合わせた。
いつもの昼なら道具を置き、裏手で食事を取る頃合いだった。
「ギルド長、ここで一度、休みにしませんか」
「そうしたいところじゃが、まだ見ておらぬものが山ほどある」
「山ほどって、弥兵衛さん。あとどれくらいですか?」
理央が尋ねた。
「数えておらぬからのう。……そうじゃ、ヴァルト殿の家へ寄る前に倒したホブゴブリンが18おったな」
「18!?」
若い職員が声を上げた。
今まで使っていた筆を落とし、慌てて拾い直す。
「群れで18ですか。護衛隊でも苦労する数ですよ」
「そうじゃろうな。あれも随分と元気に追いかけてきおった」
「追いかけて……それで?」
「斬った」
職員は筆を持ったまま動かなくなった。
理央は口を開きかけたが、グスタフの方が早かった。
「今までの話からして、そこを詳しく聞いても同じ答えじゃろう。わしは聞かぬぞ」
「分かってきましたね、グスタフさん」
「昨日から学ぶことが多いのじゃ」
澪は近くの台を見た。
濡れた布を絞った職人の手が赤くなっている。
獣の皮を広げるにも、鋭い牙を扱うにも、ずっと腰を曲げていた人たちだ。
「一度、皆さんに休んでもらいませんか。残りは私が持っていられますから」
グスタフが職人たちを見た。
「そうじゃな。腹が減って、見るものを間違われても困る」
「ありがたい!」
年配の職人が真っ先に声を上げた。
若い男に手を引かれて立ち上がると、膝がぽきりと鳴る。
「魔物は逃げませんから」
澪が言うと、職人は笑った。
「生きているのを相手にするより、ずっとましですな」
「それは本当じゃ」
弥兵衛が深く頷く。
職人たちはぞろぞろと広場を出ていった。
荷運びの男が最後に振り返り、台の上の牙を見てから、弥兵衛へ頭を下げる。
「帰ってからも頼むよ。俺はこういう大物を扱うのが好きなんだ」
「ほう。それならまた出そうかの」
「いや、休憩の後で!」
男は慌てて駆け出した。
グスタフが額を押さえ、澪が笑う。
理央は手帳の端に、今のやり取りを小さく書き足した。
職人たちが休みに入ると、広場は急に広く感じられた。
離れた通りからは、昼を売り歩く声が聞こえてくる。
日除けの下には水差しと椀が運ばれ、グスタフは椀を手に取ったものの、飲む前に弥兵衛の右手を見た。
「……その手、本当に何ともないのじゃな」
「何ともないぞ。動くし、飯も食える」
「飯を食うのは、手だけの仕事ではなかろう」
弥兵衛が笑いながら指を曲げる。
節の太い、長年刀を握ってきた手だった。
理央はその掌を見たあと、手帳を開いた。
「弥兵衛さん。ひとつだけ、聞いてもいいですか」
「手のことかの?」
「その魔物のことです。どうやって、そんなことになったのか知りたいんです」
弥兵衛は水をひと口飲み、広場の向こうを眺めた。
荷車の轍が石畳を黒く削っている。
その先には城壁の屋根が見え、さらに遠く、薄い雲が空を流れていた。
「あの森の中心へ入った頃じゃ。急に獣の気配がなくなってのう。妙に静かなところへ、女が立っておった」
「人間の女の人に見えたんですか?」
「顔も手も人のものじゃった。じゃが、近づいてみると、息をしておらぬ」
「息を……してない?」
「髪も揺れぬ。なのに、周りの草は風で動いておった」
理央の手が止まった。
「それで、《鑑定》したら、エルドリッチと」
「うむ。迷宮の門番ともな。生存期間は100年以上と出た」
理央が書き込む横で、グスタフが低い声を出した。
「百年……。それも恐ろしい話じゃな」
「もっと恐ろしいことが起きたぞ」
「まだあるのかね?」
「腹が開いたのじゃ。こう、六つに」
弥兵衛は両手で空中に形を描いた。
胸の前で指を広げ、ゆっくり外へ開く。
「中から触手が伸びて、木に巻きついた。次は針を飛ばしてきおった。鞘へ当たったものは、煙まで上げたぞ」
「鞘が?」
「うむ。あれには参った。真壁殿に手を入れてもろうた刀じゃから、大事にしたかったでな」
「弥兵衛さん、刀より手の心配をしてください!」
理央の声に、弥兵衛は自分の右手を見た。
「手は戻ったからのう」
「そういう順番の話じゃないです!」
グスタフが笑いかけて、すぐに笑みを引っ込めた。
「……で、その女の首は斬ったのじゃな」
「斬った。じゃが、首に羽が生えて、森の奥へ飛んでいきおった」
昼の賑やかな声が、急に遠くなった気がした。
理央は手帳の白い余白を眺めたまま、しばらく筆を動かせなかった。
襲ってきた獣と違って、斬って終わりにならない相手。
そんなものが、森のどこかにまだいる。
「……それ、討伐したって言えないですよね」
「そうじゃ。わしも、生きておるかもしれぬと思うておる」
弥兵衛は軽い調子で言ったが、刀へ添えた手は動かさなかった。
「だから、ヴァルト殿へ知らせたのじゃよ」
「エルドリッチ……」
理央はもう一度、その名を口にした。
音が耳に残る。
異世界の言葉として聞き流せば、それまでだったのかもしれない。
けれど、怪物の形を聞いた後では、ひとつの単語が頭から離れない。
「それ、クトゥルフ神話みたいです」
「くとぅるふ?」
弥兵衛がゆっくり聞き返した。
「私たちの世界の怪奇小説に出てくる、恐ろしい神様や怪物の話です。海の底で眠るものとか、人間とはまるで違う形のものとか……」
「海に神様がおるのか」
「小説です、小説。いろんな人が物語を書き継いでいるんです」
「ふむ。皆でひとつの国の話を書くようなものかの」
「そうですね。世界の雰囲気や名前を共有して、別の話を作ることもあります」
理央はそこで少し笑った。
異世界から来た剣豪に、現代の怪奇小説を説明している。
そんな光景も、自分が小説に書いたら、読者は突飛だと思うかもしれない。
「でも、エルドリッチって名前の神様がいる、という意味じゃないんです。英語だと、不気味なもの、人の世界から外れたようなものを表す言葉で……」
「異形の女には、よく似合う名じゃな」
「似合いすぎるんです。腹が裂けて、触手が出て、首だけでも逃げるなんて」
理央は手帳に描きかけた女の輪郭を見た。
細い胴から何本もの触手が伸び、余白を埋めている。
「同じような怪物なら、地球の物語にも出てきますけど……」
「地球というのは、お主らの国かの」
「国よりずっと大きなものです。私たちのいた世界です」
「そうか。世界を越えても、似たものはおるのじゃな」
「そこが、ちょっと気になるんです」
理央は顔を上げた。
「名前の響きも姿も、つい連想しちゃうんです。こちらに来る前に読んだ怪奇小説を」
「その話を書いた人間が、こちらへ来たことはないのか?」
「それは、分からないです。ただ、似ているからって、小説と同じ相手だとは限らないですよね」
理央は手帳を閉じ、弥兵衛の右手を見た。
「……その手、今も痛むんですか」
「もう何ともないぞ。ちゃんと五本あるしのう」
弥兵衛が指を一本ずつ曲げてみせた。
「でも、あの魔物には、もう会いたくないですか?」
「うむ。あの女は、できれば腹の中まで見とうない」
弥兵衛がそう言って水を飲んだ。
理央は口元をゆるめ、閉じたばかりの手帳をまた開いた。
理央が「地球の物語」と口にした時、澪は牙の置かれた台から顔を上げていた。
最初は、怪物の話に似た物語があるというだけだと思った。
理央は昔から本が好きだ。
知らない題名や作家の名前が出てくることも珍しくない。
ところが、エルドリッチという名と、迷宮の門番という肩書を聞き直したところで、澪の頭の中に別のものが浮かんだ。
古い燭台。
あの神様は、やけに本が好きだった。
異世界の話となると、もっと熱心になる。
勇者、魔王、聖剣、迷宮。
実際の異世界を知りたがるくせに、知識の入口は妙に小説へ寄っている。
以前、こちらの世界について思い違いをしていると分かった時、澪は何度も説明した覚えがある。
けれど、あの掲示板に出る返答はいつだって短い。
しかも、たいてい本人には悪気がない。
(……燭台)
澪は一度、目を閉じた。
(何をやっているんですか、あなたは)
「澪さん?」
理央の声がすぐ横でした。
「えっ、あ、はい」
「具合悪いですか? さっきから顔が……」
「大丈夫です。ちょっと考え事をしていました」
「もしかして、魔物のことですか?」
「ええ。まだ、そうと決まったわけではないんですけど。帰ったら、聞いてみたい相手がいるんです」
「誰です?」
「……あの、困った同居人です」
理央が一度瞬きしてから、ゆっくり澪を見た。
「……まさか」
「まだ、まさかです」
澪は弥兵衛の方を見た。
老人はグスタフに、水差しの中身が冷たくて旨いと話している。
預かった封書は《収納》の中にある。
ヴァルトの家は、あの森にある。
(まずは手紙を届けないと)
見上げると、グスタフが再び職人たちを呼び戻していた。
午後の陽は高く、石畳の上に落ちる影が短い。
最後の大物を並べるには、ちょうど明るい時間だった。
休憩から戻った職人たちが、もう一度道具を広げた頃には、広場の中央がすっかり空いていた。
狼も猪も、傷を見終えたものから澪の《収納》へ入っている。
台の上には毛と牙の見本が残り、先ほどまで広場を塞いでいた巨体の面影はない。
「これなら、少々大きくても出せるじゃろう」
弥兵衛が満足げに言った。
「少々、という言葉をお主が使うと怖いのう」
グスタフはまず職人たちを壁際へ寄せ、広場に誰も残っていないのを見てから弥兵衛へ向き直った。
「ところで、熊はどちらへ向けて出すつもりじゃ?」
「横たえて置くつもりじゃが」
「それは分かる。頭をこっちへ向けるのか、向こうへ向けるのかじゃ」
「どちらがよい?」
グスタフは答える前に、しばらく真顔で考えた。
どうやら熊の頭ひとつで、荷車の出入りが変わりかねないらしい。
「……奥へ向けてくれ。頼むから、手前には出さんでくれよ」
「心得た」
澪が理央の袖を引いた。
「理央ちゃん、もう少し下がりましょう」
「えっ、でも、近くで見たいです」
「出てから近づけばいいですから」
そう言われ、理央は渋々後ろへ下がった。
弥兵衛は広場の中央をひと目見て、手を上げる。
最初に現れたのは、灰褐色の背中だった。
毛が陽を遮り、石畳に大きな影が落ちた。
次いで太い前脚が現れる。
鋭い爪が地面の少し上で止まり、横たわった姿勢のまま、巨体がゆっくり形を成した。
「……熊、ですよね?」
職人の一人が呟く。
「熊じゃな」
弥兵衛は平然と答えた。
これまでの獣よりも胴が太く、首から肩へ盛り上がった肉の厚さが尋常ではない。
鼻先だけでも男が両腕で抱えたくなるほど大きく、奥に向けた頭は、広場の隅へ迫っていた。
グスタフがゆっくり首を回し、空いた場所を見た。
「……ほかの魔物を片づけておいてよかったのう」
「そうですね」
「澪さん。あれがまだ並んでおったら、わしは今頃、どこに立っておったじゃろうな」
「……扉の外でしょうか」
「たぶんそうじゃな」
理央はもう熊へ駆け寄る寸前だった。
だが、先に職人たちが動き、毛の間をかき分けている。
ひとりが胸元に走る細い傷を見つけ、顔を上げた。
「これも一太刀か……」
「うむ。腕が長うてのう。近づくのに少し骨が折れた」
「少し、ですか」
理央が聞き返す。
「熊の方は大きく振りかぶってきおったが、懐へ入れば届かぬ所もある」
「えっ、あの腕の内側に入ったんですか?」
「離れていては斬れぬからのう」
理央は勢いよく手帳を開いた。
澪は熊の背中を見上げながら、《鑑定》を使う。
これなら、何着分の防寒具になるだろう。
「……この大きさだと、扱える職人さんが限られそうですね」
グスタフが力強く頷いた。
「そうじゃ。何しろ、置いておくところから考えねばならん。この熊が、わしの倉庫に入ると思うかね?」
澪は熊をもう一度見上げた。
「……入口でつかえそうですね」
「じゃろう!」
理央が笑いを堪えきれず、手帳で顔を隠した。
熊を戻した途端、広場に光が戻ったように感じられた。
グスタフは深々と息を吐き、袖で額を拭った。
いま目の前にあるのは、毛皮の見本と、各種の牙や角、職人たちがつけた印だけだ。
さっきまで巨体が寝そべっていた跡には、細かな灰色の毛が残っている。
「さて。これなら話ができる」
「熊を出す前も、話はできましたよ」
理央が言うと、グスタフは顔を上げた。
「理央ちゃん。熊を出した後の方が、話は切実なのじゃ」
弥兵衛は声を立てて笑った。
「よいものを見てもろうた。わしも満足じゃ」
「わしの心臓には、あまりよいものではなかったがのう」
グスタフが職人たちへ合図すると、台の上に布を敷いた見本が並んだ。
職人のひとりが、使える部分と傷んだ部分を指し分ける。
長い牙には買い手の見込みがあり、猪の厚い皮を欲しがる工房もありそうだった。
狼の毛皮は、背の艶が特に良いものだけ選んで見てもらうことになった。
「こちらはギルドで買い取れる。あちらは、買い手を探した方が高くなる」
グスタフが二つの山を作り、弥兵衛へ向ける。
「今すぐ金に換えたいなら、それもできる。じゃが、急がぬ方がよい品もある。どうする?」
「旅の路銀は、昨日の魔石で十分じゃ。良い値のつくものは、良い値で売ってくれればよい」
「そうか。なら、そのようにしよう」
澪は自分の《収納》に残る品を、グスタフと弥兵衛に言われた順で出した。
商売が成立した分はギルド側へ渡し、買い手を探してもらう品は引き続き預かる。
先ほどの熊も、澪の《収納》に残した。
見物していた若い職員が、とうとう口を開いた。
「……一度にこんなに動くのに、荷車は一台も使わないんですね」
「昨日も同じことを言われたのう」
弥兵衛が笑う。
「荷車は便利じゃが、わしは歩くのが好きでな」
「いえ、そういうことじゃなくて……」
職員が言葉を探している間に、澪が残りを片づけ終えた。
グスタフは目の前の空いた広場を見渡した。
朝には羽毛で倉庫が埋まり、昼には魔物が広場を塞ぎ、今はどちらも見当たらない。
「わしのギルドが、何も置いていない場所になってしもうた」
「商売は進んだじゃありませんか」
澪が言うと、グスタフは口元を緩めた。
弥兵衛は受け取った代金を《収納》に納めると、職人たちへ礼を言った。
彼らも深く頭を下げる。
「いい物を見せてもらいました。あんな傷のつき方は初めてです」
「次はもっと傷を減らすよう、気をつけようかの」
「いえ! どうかご無事で!」
職人の返事があまりに早く、理央は吹き出した。
ギルドを出ると、通りの空気は先ほどより温かくなっていた。
石造りの店の軒先には乾かした香草が吊るされ、荷を降ろす馬の鼻息に、焼きたてのパンの香りが混じっている。
道を渡る男が肩に担いだ木箱を直し、角の店からは煮込み鍋の蓋を開ける音が聞こえた。
弥兵衛がその音に足を止めた。
「おお。よい匂いじゃ」
「弥兵衛さん、早いですね」
理央が笑う。
「腹は早く減る方がよい。旨いものを食い損ねずに済むでな」
「それ、初めて聞きました」
遅い昼食を取ろうと、グスタフが一行を店へ案内した。
卓へ腰を下ろした途端、弥兵衛は勧められた肉料理と温かいパンを頼む。
澪と理央もそれぞれ食べたいものを選んだ。
飲み物が届くと、理央はようやく手帳を閉じた。
料理を待つ間くらいは休もうと思うのだが、目の前の老人を見ていると、つい聞きたいことが増えてしまう。
「弥兵衛さん、森の戦いのこと、また聞いてもいいですか?」
「よいぞ。今度は食いながらでもよいかの」
「もちろんです!」
「理央ちゃん、せめてパンが来てからにしません?」
澪が言うと、理央は少しだけ頬を赤くした。
「……そうします」
グスタフは卓へ肘をつき、二人を見比べた。
「しかし、面白いのう。澪さんは魔物を見れば皮や牙の使い道を考える。理央ちゃんは、斬り合いのことばかり聞いておる」
「私は売り物として見てしまいますね」
「私は小説の場面が浮かんじゃうんです」
「同じ獣を眺めておって、ずいぶん違うものじゃ」
弥兵衛が頷く。
「わしは腹の減る相手としか見ておらなんだがな」
「食べる方ですか!?」
理央の声が大きくなり、隣の卓の客が振り返った。
「違う違う。斬り合うと腹が減るという話じゃ」
「もう! 弥兵衛さん!」
澪が笑い、グスタフも声を立てた。
ちょうど運ばれてきた料理を前に、弥兵衛は満足そうに箸代わりの食具を取った。
澪は温かな料理をひと口食べた。
食事を終えたら、理央と一緒にヴァルトへ手紙を届けよう。
同じように黙っていた理央が、突然顔を上げた。
「澪さん。弥兵衛さんの戦い、小説に書けたら読んでくれます?」
「もちろんです。楽しみにしてますよ」
「ほう。わしの旅が本になるのか」
「はい! ただ、弥兵衛さんには、あとで少しお願いがあるんです」
「何じゃ?」
「書き上がったら、戦い方が違ってないか読んでほしいんです」
弥兵衛はパンをちぎる手を止め、しばらく考えた。
「……その本には、飯を食う場面もあるかの?」
「ありますよ。たぶん、いっぱい」
「それなら読めるぞ」
「そこが決め手なんですか!?」
「食うたものを忘れてしまっては、旅の半分を忘れるようなものじゃからのう」
理央はもう何も言い返せなかった。
代わりに手帳を開き、パンの皿の横へ置く。
「……澪さん。これ、戦闘の話より食事の話が長くなるかもしれません」
「いいんじゃないですか。弥兵衛さんらしくて」
澪が答えると、老人は実に嬉しそうに頷いた。
「ほっほ。では、次は宿で食うた肉の話から始めようかの」
理央は天井を仰いだ。
「だから! 刀の話が聞きたいんですってば!」
その声に、グスタフがまた笑った。