朝、澪は自分の部屋の台所で湯を沸かしていた。
窓の外では、車が一台、まだ濡れた路面を走っていく。ゲンダイの朝である。蛇口をひねれば水が出るし、壁のスイッチを押せば明かりがつく。いつもと変わらない。
その当たり前が、昨夜から少し違って見える。
冷蔵庫を開けて牛乳を取り出し、パンを皿に載せた。ひとり分の朝食である。
本棚の上の燭台には、すでに新しい水を供えてあった。
「神様、今日はちゃんと替えてありますからね」
《鑑定》を向けてみたが、返事はない。迷宮を止めれば国が滅ぶこともある、と平然と書いた神様である。水が新しくなったことには満足しているのかもしれない。
澪はパンをひと口かじり、真壁に電話をかけた。
「おはようございます、真壁さん」
「おはよう、澪君。よく眠れたかね」
「寝ましたよ。ちゃんと」
「神さまへの供え水が気になって、夜を明かしたかと思ったよ」
「もう替えました!」
電話の向こうで真壁が笑った。
「真壁さん、こちらだと電気が止まったら何が困るか、すぐ分かりますよね」
「冷蔵庫も止まるし、水を送る設備にも影響が出る。ほかにもいくらでもあるな」
「向こうでは、それが魔力なんですよね」
「らしいな。ただ、神さまの話だけで、どの魔道具がどう止まるかまでは分からん。そこが気になる」
澪は流しの蛇口を見た。異世界でも、誰かが水を汲み、運び、暮らしを支えている。その手間を軽くしていたものが、ある日突然使えなくなったら。
「ヴァルトさんにも聞いてもらいましょう。魔術については私たちより詳しいですし」
「私もそう考えていた。森で暮らしているヴァルト君には、他人事ではないからな」
「それから、弥兵衛さんにも。東方の迷宮のお話、もう少し聞いてみたいです」
「うむ。まず侯爵領へ行き、ヴァルト君に話そう」
「はい。まだ、迷宮へ乗り込むって決めたわけじゃないですよね?」
「決めておらんよ。何も知らずに入るほど、私も若くはない」
返事を聞いて、澪は少し安心した。
「ただし、知らないままでいる理由もないがね」
「……ですよね」
通話を終えると、澪は残りのパンを食べ、食器を片づけた。
ほどなく、玄関を叩く音がした。隣室から来た真壁を迎え入れると、澪は押し入れの襖を開けた。
「では、行こうか」
「はい」
二人で押し入れを通って異世界へ渡り、澪はヴァルディス侯爵領の行き慣れた場所を思い浮かべて《転移》を使った。
次の瞬間、ヴァルディス侯爵領の石畳が足元にあった。
午前の町は、もう仕事を始めている。店先に積まれた野菜の籠が動き、荷車の車輪が石の継ぎ目を越えるたびに乾いた音を立てた。通りを行く人の肩には、薄い上着が掛かっている。
「こちらも朝は忙しそうですね」
「暮らしは待ってくれんからな」
真壁は歩きながら、道端の水桶を一瞥した。職人らしい男が、手押しの荷車を押して水桶の前で止まり、喉を潤している。
澪は、その男が飲み終えるまで何となく見てしまった。
水を汲む。荷を運ぶ。火を起こす。そういう小さな仕事の積み重ねで、一つの町は回っている。魔力が使えなくなれば、どれほどの仕事が増えるのだろう。
考えているうちに、ヴァルトのいる建物が見えてきた。
戸を叩くと、内側から聞き慣れた声がした。
「はい。どちら様ですか?」
「澪です。真壁さんも一緒です」
扉が開き、ヴァルトが二人を見た。
「おや。こんな朝早くに。何かあったんですか?」
「ええ。昨日の手紙の件なんですが、ちょっと、とんでもないことが分かりまして」
澪が言うと、ヴァルトは二人の顔を見比べた。
「……その言い方は、あまり嬉しくないですね」
「私も、嬉しい話ではないと思います」
真壁が答えた。
ヴァルトはすぐに身体を引き、二人を中へ通した。
机の上には地図が広げられていた。
ヴァルトはその端に置いていた小さな重石を寄せ、三人分の場所を空ける。机には鉛筆で記された道筋や村の名があり、横に積まれた紙には仕入れ値らしい数字が並んでいた。
「弥兵衛さんからの手紙を読み返していたところなんです」
ヴァルトが言った。
「森の奥に、あれほど危険なものがいるとは思いませんでした。迷宮の門番という話も、まだ半信半疑でして」
「その迷宮、本当にあるそうです」
「……誰に聞いたんですか?」
「燭台の神様です」
ヴァルトの手が重石の上で止まった。
「燭台の神様……というと、澪さんの部屋にいらっしゃる、あの?」
「はい。あの、ちょっと変わった神様です」
真壁が椅子に腰を下ろす。
「変わっているのは確かだが、話の中身は無視できん。まず、迷宮のことから伝えよう」
澪は、昨日の《鑑定》で読んだ文字を思い返しながら説明した。
世界中に迷宮があり、迷宮の奥には迷宮主がいる。迷宮から流れ出すのは、魔力そのものではなく、魔力の元となるもの。それが各地で使われる魔力の源になっている。
ヴァルトは途中で一度だけ話を止めた。
「魔力の元、とおっしゃいましたね。私たちが術を使うときの魔力とは違うものですか?」
「はい。そこは燭台の神様が、わざわざ区別していました」
「なるほど……」
ヴァルトは指先で、机の上の地図の縁をなぞった。
「魔力は使うものとして教わりましたが、どこから来るかと問われると、うまく答えられません。自分の内にある力、周囲にある力、魔石に蓄えられた力……それぞれは教わってきました。でも、そのさらに元を問う話は、私は聞いたことがありませんでした」
「魔術師学校では教えないんですか?」
「少なくとも、私が学んだ範囲では。これは、確かに大きな話です」
真壁は机上の地図を見た。
「迷宮主は、供給を管理する中枢だそうだ。神さまは魔王と呼んでいた」
「魔王……」
ヴァルトはゆっくり顔を上げた。
「それは、私が思っている魔王と同じものなのでしょうか」
「私もそう聞いたんですが、どうやら違うみたいです。迷宮を動かす管理者なんですって」
澪は少し言いにくそうに続けた。
「ただ、名前を付けたのは燭台の神様で……そこには、神様の趣味も入っているようです」
「趣味、ですか」
「ええ。詳しくは、今度ゆっくり」
ヴァルトは、質問を一つ飲み込んだ顔でうなずいた。
真壁が話を先へ進める。
「問題は迷宮主が失われた場合だ。迷宮が止まり、その地域に魔力の元が供給されなくなることがある」
「魔術の威力が落ちる、という話ですか?」
「それだけとは限らん。魔道具も止まるかもしれんし、暮らしを支える仕組みにも響く。どこまで影響するかは分からんそうだ」
ヴァルトは椅子の背から身体を離した。
「……それは、厄介ですね」
「しかも東方では、迷宮が止まったあとの混乱で、いくつもの国が滅んだそうです」
澪の言葉に、ヴァルトはしばらく返事をしなかった。
机上には商人が通る道が書き込まれている。山越えの道、川沿いの道、街道から少し外れた村。道の先にはそれぞれ人が暮らしている。
「国が滅んだ、ですか」
「燭台の神様が、そう書きました」
「……なるほど」
ヴァルトは地図を折らずに、そっと重石を置き直した。
「魔術師としても気になりますが、今の私には、こちらの方が怖い。道具が動かなくなった町へ荷を運んでも、欲しいものが同じとは限りません。水を汲み上げる魔道具が止まるのか、明かりが消えるのかで、必要な荷が変わるでしょう」
澪はうなずいた。ヴァルトが魔術だけでなく、道と荷のことから考えているのが、少し嬉しかった。
「それを、実際に見た方がいるかもしれません」
「弥兵衛さんですね」
真壁が言うより先に、ヴァルトが名を口にした。
「東方を長く旅された方です。何かご存じでしょう」
「王都には、まだいらっしゃると思います。昨日、グスタフさんと一緒でしたから」
「では会いに行こう。三人で直接聞いた方が早い」
真壁が立ち上がる。
「今からですか?」
澪が聞くと、真壁は当然のようにうなずいた。
「今からだ。私が《転移》で案内しよう」
ヴァルトは地図の上の紙をまとめ、鞄へ入れた。
「少しだけ戸締まりをさせてください。すぐ参ります」
彼の手は、先ほどより速く動いていた。
戸を閉め、通りの人に目立たない場所へ移る。真壁が二人の位置を見て、《転移》を使った。
空気が変わる。
王都の喧噪が、すぐ近くで膨らんだ。
石造りの建物が連なる通りには、荷車と人が入り交じっていた。パンを焼く匂いの向こうで、革を叩く音がする。通りの端では商人が荷の口を開き、客に布の色を見せている。
ヴァルトは通りの向こうを眺め、息を吐いた。
「馬車ならずいぶんかかるところを……。真壁さんの《転移》は、本当に便利ですね」
「便利なだけに、行き先を間違えるわけにはいかんがね」
「それは、そうでしょうね」
澪は笑った。
「弥兵衛さんは、グスタフさんに紹介してもらった宿にいらっしゃるはずです。まずそちらへ行ってみましょう」
三人は人波の切れ目を待って、通りへ歩き出した。
二つ目の角を曲がると、通りの喧噪が少し遠くなった。
軒先に花の鉢を並べた店の隣に、磨いた木の看板を下げた宿がある。扉を開けると、煮た肉と焼きたてのパンの匂いがした。朝の客が引けたところらしく、卓を拭いていた若い男が顔を上げた。
「こんにちは。弥兵衛さんという旅の方は、こちらにお泊まりでしょうか」
「ああ、刀を差したご老人ですね。今朝も元気に飯を召し上がってましたよ。さっきまで下にいらっしゃったんですが……」
男が階段の方を向いた、そのときだった。
「おお、これは皆さん、そろうておるではないか」
階段の上から弥兵衛の声がした。
紺の着物に、いつもの刀。手には小さな包みを持っている。老人は足元を見もせず、軽やかに階段を下りてきた。
「真壁殿に澪殿、ヴァルト殿まで。今日は何かの祝い事かのう」
「おはようございます、弥兵衛さん」
「ほっほ。よい朝じゃったぞ。ここの飯は、何を食うても外れがない」
「またお食事の話からですか」
「ほかに、朝から語ることがあるかの」
澪が苦笑すると、弥兵衛も白い髭を揺らして笑った。
真壁は老人へ近づいて一礼した。
「弥兵衛殿。実は、東方のことを少し伺いたくて参りました」
「ほう。東方の?」
「迷宮についてです」
弥兵衛の笑みが、わずかに薄くなった。
「……なるほど。わしを探して来られたわけじゃ」
宿の若い男が首を伸ばした。
「お話でしたら、奥の卓が空いてますよ。昼の仕込みが始まるまでは静かです」
「ありがたいのう。では、少し借りようか」
弥兵衛は男へ礼を言い、奥へ歩いていった。
窓際の席には、まだ朝日が入っていた。壁に掛けられた銅の鍋が、光を受けて赤く輝いている。卓には小さな傷がいくつもあり、客が荷物を置くのに使っているらしかった。
弥兵衛は椅子に腰を落とすと、包みを卓の隅へ置いた。
「さて。何を聞きたいのか、話してくだされ」
真壁が口を開く。
「マールヴェインの森に、迷宮があることが分かりました」
「ほう。あの女の《鑑定》に出ておったものじゃな」
「はい。あのエルドリッチは門番で、奥には迷宮主がいるそうです」
澪の言葉に、弥兵衛はうなずく。
「それならば、あの女を斬っておったとしても、話は終わらなんだか」
「そうなんです。それに、もっと大きな話が分かって……」
澪はどこから説明すべきか少し迷った。
弥兵衛がこちらを見ている。昨日は巨大な熊を見せて大笑いしていた人だ。今も、右手には傷ひとつない。それでも、その手が一度失われたという事実は消えない。
「世界中に、迷宮があるそうなんです」
「うむ。東方にも幾つか聞き覚えがある」
澪と真壁は、迷宮が魔力の元を送り出し、その供給を迷宮主が管理していることを伝えた。燭台の神様は、その管理者を魔王と呼んでいる。
「その主が滅びれば、供給も止まると?」
「はい。魔術や魔道具の働きが弱くなることもあるそうです」
真壁の言葉に、ヴァルトも続けた。
「私も魔術師として、今日初めて聞いた話です。魔力を使うことは教わっても、その供給源までは知りませんでした」
弥兵衛はすぐには答えなかった。
卓へ置いた右手を開き、五本の指を見た。次いで、指を軽く握り直す。
「……そういうことであったかのう」
その声には、先ほどまでとは違う響きがあった。
「弥兵衛殿、何か心当たりが?」
真壁が尋ねた。
老人は顔を上げ、少し困ったように笑った。
「わしは難しい理屈は分からぬ。じゃが、東方で妙なことが続いておったのは、覚えておる」
澪は思わず椅子を引き寄せた。
「聞かせてください」
「まずは、魔道具の話じゃな」
「昔はのう、宿の軒にも、町の辻にも、魔道具の灯りがよう下がっておった」
弥兵衛は窓の外へ目をやった。
「夜に町へ入ると、門の灯りが道を照らしてくれる。雨の夜など、それはありがたいものでな。提灯を出さずに歩けるところもあった」
「それが、使えなくなったんですか?」
「少しずつじゃ。すぐに消えたわけではない」
弥兵衛は手を上げ、目の高さに見えない灯りを吊るすような仕草をした。
「最初は、今宵は暗いのう、という程度じゃった。宿の主人に聞いても、古い道具だからと言う。ある町では魔石を替えておった。別の町では職人を呼んでおった」
「直ったんですか?」
「直るものもあったじゃろう。じゃが、同じ町へ何度か戻るうち、明るい灯りの方が珍しくなっておった。最後には、油皿に火を灯す宿が増えた」
澪は、ゲンダイの夜の街を思い浮かべた。
明かりが一つ消えたなら、電球を取り替えればいい。二つ、三つと消えても、まずは道具の故障を疑うだろう。町全体がゆっくり暗くなっていったとして、誰が供給源まで思い至るだろうか。
「灯りだけですか?」
「いや。粉を挽く道具、荷を引き上げる道具、畑へ水を送る道具。土地によっていろいろあったぞ」
ヴァルトが身体を乗り出した。
「その道具も、同じように?」
「力が弱うなったと聞くことが増えたのう。二袋持ち上げられたものが一袋しか上がらん、とか。水が前より遠くまで届かん、とかな」
弥兵衛は指を折りながら話す。
「それに、魔術師じゃ。昔なら大きな炎を出せた者が、前ほどの威力が出ぬとぼやいておった。自分の腕が落ちたと思うて、山へ修行に入った男にも会うた」
「その方はどうなったんですか?」
「戻ってきたときには、顔が真っ黒に焼けておった」
「えっ」
「山でひたすら火を出しておったらしい。腕は上がらず、飯だけよう食うようになったそうじゃ」
澪は思わず口元を押さえた。
「それは……ご本人も大変でしたね」
「うむ。宿の主人が笑うておったから、まあ元気にはしておったんじゃろう」
ヴァルトは笑わず、卓の木目を見つめていた。
「魔術師が自分の腕を疑うのは、分かる気がします。術が弱くなったら、まず自分の鍛錬が足りないと思うでしょう。周囲にある魔力の元が減っているなど、誰も教わっていなければ……」
真壁がうなずく。
「原因を道具や人に求めていたわけだな」
「そうかもしれんのう」
弥兵衛は、あえて言い切らなかった。
「古い道具が本当に壊れることもあるし、人の腕が鈍ることもあろう。全部が同じ理由とは、わしには分からん」
「そのとおりです」
真壁はすぐに答えた。
「ただ、違う土地で似た現象が続いていたというのは、気になる。弥兵衛殿がそれを見てきた時期と、迷宮が止まった時期を比べてみたいですな」
「時期まで言われると、わしの記憶も心もとないぞ。なにしろ長い旅じゃからな」
弥兵衛は苦笑した。
「弥兵衛さん。そのころ、町の人たちは困っていませんでしたか?」
「困っておったよ。灯りなら油を買えばよい。じゃが、粉を挽く道具が止まった町では、夜遅くまで石臼を回す者もおった。水が届かねば、桶を持って歩かねばならぬ」
弥兵衛は窓の外の通りを見た。
「道具が半分働けば、人がもう半分働く。そういうことが、あちこちで起きておった」
澪は、何も言えなくなった。
魔道具が止まるという言葉の向こうには、眠る時間を失った誰かがいる。水桶を何度も運ぶ子どもや、石臼から手を離せない家族もいるのだ。
真壁が低い声で尋ねた。
「では、魔物の方はどうでしたかな」
弥兵衛は、そこで少し表情を明るくした。
「おお。それはのう、減ったのじゃ」
「昔は、山道を越えるにも命がけの土地があった。森を抜けるだけで、剣を持った者を何人も雇うたものじゃ」
弥兵衛は、どこか懐かしそうに目を細めた。
「そういう道で、魔物に会わなくなった。夜に鳴いていた獣の声が減り、朝になっても村の柵が壊されておらぬ。子どもが川へ遊びに行けるようになった、と喜んでおった村もあったぞ」
「それは、よかったですね」
「うむ。わしも嬉しかった。魔物など、いない方がよいと思うておったからのう」
弥兵衛の手が、腰の刀へ伸びた。
抜くわけではない。ただ、長く使い込んだ柄へ触れ、すぐに手を戻す。
「じゃが、妙なものでな」
「妙、ですか?」
「魔物が減ってから、人同士の争いが増えたように思うのじゃ」
宿の奥から、木椀を重ねる軽い音がした。
澪は、弥兵衛の言葉を聞き違えたのかと思った。
「魔物が減ったのに、ですか?」
「うむ。初めは、小さな言い争いじゃ。水を先に使っただの、粉挽きの順番を抜かしただの。そのうち、よその村から来た者を追い返すようになった」
ヴァルトが尋ねる。
「道具が動かなくなったことと、関係があるのでしょうか」
「どうじゃろうな。少なくとも、争いが起こる前より、どの村も余裕がなくなっておった」
弥兵衛はある川沿いの村での出来事を語り始めた。
そこには、渡し場があった。川の両岸には別々の村があり、昔は互いに足りないものを融通していた。片方では穀物がよく採れ、もう片方には木工の職人がいた。
「舟を引く魔道具があってのう。荷を積んだ舟を、向こう岸まで運んでくれたそうじゃ。わしが訪れた頃には、とうに動かんようになっておったが」
人が漕ぐだけでは荷が運びきれず、川のこちら側で袋が積み上がる。向こう岸には、届くはずだった粉や木材を待つ人がいる。日が暮れれば、その日の仕事は終わる。
「翌日に回せばよい、と言えるうちはまだよかった」
弥兵衛は湯呑みに手を伸ばし、口を湿らせた。
「やがて、こちらは先に運べ、あちらへは渡すな、と互いに言い始めた。川を挟んで怒鳴り合い、とうとう棒を持ち出した者がおった」
「弥兵衛さんは、どうしたんです?」
「真ん中へ入った。話を聞いてみれば、両方とも腹が減っておる。大層な恨みがあったわけでもなかった」
「止められたんですか?」
「その場はな」
弥兵衛は小さく笑った。
「わしが持っておった干し肉と粥の材料を出して、皆で食うた。腹の減った者に刀を見せても、余計に腹はふくれぬでな」
「……弥兵衛さんらしいですね」
「ほっほ。年寄りは食うことばかり考えておる、と言われるぞ」
澪も少し笑った。
けれど、弥兵衛は笑みを残したまま、続けた。
「次の年に通ったときには、渡し場に人がおらなんだ」
「……どうしてですか」
「川の向こうへ移った者も、別の土地へ行った者もおったようじゃ。舟は岸へ引き上げたまま、底に草が生えておった」
澪は、その川の姿を想像した。
舟を引く人のいない岸。渡されない荷。誰も怒鳴っていないのに、前より静かになってしまった村。
「その後も、同じようなことが?」
「戦になった国もあった。領主同士が、隣の田畑を取り合うこともあった。そこまで行かずとも、通りがかりの旅人から荷を奪う者は増えたのう」
真壁が尋ねる。
「魔力の元が減ったせいだと、当時の人々は考えていたのでしょうか」
「いや。わしの知る限り、そのような話をする者はおらなんだ。税が重い、王が悪い、商人が品を隠しておる。責める相手は、いくらでもおったからのう」
ヴァルトは机上の手を組み直した。
「道具を一つ失っただけでも、誰かの仕事が増えます。それが広い地域で続けば、品物も人の行き来も変わるでしょうね」
「そういうことなのじゃろう。わしは商いにも国の政にも疎い。じゃが、人の顔つきが変わっていくのは、よう見えた」
弥兵衛は自分の刀を見下ろした。
「魔物が村を襲えば、わしの刀でどうにかできた。斬れば、そこにいた者は助かる」
しばらくして、老人が続けた。
「じゃが、食うものが足りぬと争う者たちを、斬って片づけるわけにはいかんでな」
澪は返事を探した。
剣豪と呼ばれる人が、困ったように笑っている。巨体の熊を斬り、頭を飛ばして逃げる魔物と渡り合った老人が、川辺の村を救えなかった話をしている。
「……弥兵衛さんは、そのあとも東方を旅されたんですね」
「うむ。旅は続く。歩けば腹も減るし、また別の土地で誰かに出会う」
老人はごく普通のことのように言った。
「だから、どの国も一様に悪うなったとは思わぬでくれ。助け合う村もあったし、困っておる旅人へ飯を分けてくれる家もあった。そういう人は、どこへ行ってもおるものじゃ」
澪はほっとした。
真壁は、弥兵衛の話が途切れるのを待ってから口を開いた。
「弥兵衛殿。神さまから、もう一つ聞いたことがあります」
「うむ。何じゃろう」
「東方では、迷宮が停止した後の混乱で、いくつもの国が滅んだそうです」
弥兵衛の目が、ゆっくりと真壁へ向いた。
「……そうか。国が滅んだことは、わしも知っておる」
澪は椅子の上で背筋を伸ばした。
「本当なんですね」
「うむ。昔は、ここから先は某国の地じゃ、と言われた場所がある。次に通ったときには、その国の旗が見当たらぬ。門の紋も削られ、役人の言葉も変わっておった。そういう土地を幾つも通った」
「そんなに……」
「国は、ある日突然消えるとは限らぬでな。王が逃げ、軍が割れ、町が門を閉ざす。最後に名が消えるまで、長うかかることもある」
弥兵衛は、卓の上の小さな傷を指でなぞった。
「飢えで倒れた国もあろう。隣国に攻められたところもある。王の身内で争うたところも聞いた。わしはどれも見てきたわけではないし、知っておることはほんの一部じゃ」
真壁はうなずく。
「迷宮の停止がすべての争いを起こした、と言うつもりはありません。ただ、魔力が基盤になっている世界で、その供給が止まったなら……」
「今までどおりに働かぬものが増え、困った者たちが争うようになった。そう考えれば、わしが見てきたことにも筋が通る、というわけじゃな」
「ええ。どこの迷宮が、いつ止まったのかは、神さまにも聞いてみます」
「それでよいと思うぞ」
弥兵衛は真壁を見た。
「人の世の不幸を、ひとつの理由で片づけられては、そこに生きておった者も困ろう」
窓の外で、人の笑う声がした。
宿の若い男が何かを運んでいるらしく、床板が軽く軋む。ここでは、今日も昼飯が作られている。誰かが食べ、働き、夜になれば家へ帰る。その当たり前が、いつ失われるとも知れず続いていた土地が東方にはあったのだ。
ヴァルトが口を開く。
「もし侯爵領で同じことが起きたら、私は何を先に守ればよいのでしょう。魔術師としても、行商人としても、すぐには答えが出ません」
「答えが一つとは限らんよ」
真壁が言った。
「水、食料、運搬、灯り。どこに魔力が使われているかで、止まったときに困る人が違う。それを知るところからだろうな」
澪はうなずいた。
ただ、話を聞いているうちに、もう一つ気になっていたことが大きくなっていた。
「弥兵衛さん。東方の迷宮主と戦ったことがあるそうですね」
「うむ。あるぞ」
老人は少し顔を上げた。
「そのとき、迷宮がどうなるか、ご存じだったんですか?」
「いや。そんな話は聞いたこともなかった」
弥兵衛は即座に答えた。
「わしにとって迷宮は、入れば魔物が出る場所じゃった。そこに主がおれば、強い敵がいると思う。それだけじゃ」
真壁が尋ねる。
「どのあたりの迷宮だったか、覚えておられますかな」
「方角は東方、としか言いようがないほど遠いところじゃ。土地の名も変わっておるかもしれぬ。あの頃は地図を広げるより、道を尋ねて歩く方が早かったからのう」
「その迷宮が、先ほどの停止した迷宮と同じものかどうかは?」
「分からぬな。迷宮が止まるなどという話も、今日初めて聞いた」
弥兵衛は、腰に差した刀の柄へ手を置いた。
「ただ、ひとつ思うことはある。わしは、迷宮主を斬るべき相手として見ておった。あれが何を守り、何を動かしておるのか、考えたこともなかったのう」
「それは、無理もありません」
澪が言うと、老人は首を横に振った。
「いやいや、だからこそ面白いのじゃ。知らぬことが、まだ山ほどあるということじゃからな」
その言葉には、後悔よりも長く旅を続けてきた人の好奇心があった。
真壁もわずかに笑う。
「弥兵衛殿。そのお言葉、実にありがたい」
「なんじゃ、わしが何かよいことを言うたかの」
「ええ。知らんことがあるなら、知りに行く。まさしくそのとおりです」
澪は真壁を横目で見た。
この人は、今すぐ迷宮へ行こうと言い出すのではないか。
「真壁さん。まだ入口も分かっていませんよ」
「分かっておるよ、澪君」
「それならいいんですけど」
「まずは、森のことを知っている人間に話を聞かねばな」
今度は澪が少し考えた。
ヴァルトがいる。森の地下を疑った人々もいる。そして目の前には、実際にエルドリッチと戦った剣豪がいる。
それなのに、迷宮の中のことはほとんど分からない。
「……魔王って、倒せば終わりなんじゃないんですね」
澪が呟くと、弥兵衛はくつくつと笑った。
「それどころか、倒してから話が始まることもあるのじゃろうな」
真壁は首をかしげた。
「困った話ですな。できれば、そういう始まり方は避けたいのですが」
「わしも同感じゃ。なにしろ、あとから腹が減るような戦は好かぬでな」
「弥兵衛さん、戦わなくてもお腹は減るじゃありませんか」
「おお、よう覚えておられる」
澪が笑い、ヴァルトもようやく口元を緩めた。
宿の奥から、昼の仕込みを始める音が聞こえてきた。
鉄鍋が炉に掛けられ、木べらが底をこする。さっきまで静かだった卓の周りに、肉と香草の匂いが流れてきた。
「……うむ」
弥兵衛が鼻を動かした。
「そろそろ、よい頃合いのようじゃのう」
「弥兵衛殿。まだ朝飯から、そう時間は経っておらんでしょう」
真壁が言うと、弥兵衛は首を振った。
「朝飯と昼飯は別じゃ。ここは、そのあたりを心得ておる宿でな」
「店の方も喜びますね」
ヴァルトが笑う。
澪は、張り詰めていた肩から少し力を抜いた。
東方の国が滅んだという話を聞いても、王都ではいつものように昼飯の匂いがする。弥兵衛も、当然のようにそれを食べようとしている。
それが少し救いだった。
そこへ、宿の若い男が奥の卓へ歩いてきた。
「弥兵衛さん。商業ギルドのグスタフ様がお見えです。こちらへお通ししても?」
「おお、グスタフ殿か。もちろんじゃ」
まもなく、よく響く足音が廊下から近づいてきた。
「弥兵衛殿、少しよいかね。昨日の品のことで……おや?」
入ってきたグスタフが、澪たちを見つけて足を止めた。
「これはまた。昨日の顔ぶれに、真壁殿とヴァルト殿までおるではないか」
「こんにちは、グスタフさん」
澪が立ち上がると、ギルド長は片手を上げて挨拶を返した。
「いや、座っておってくれ。ちょうどよい所へ来たようじゃな。弥兵衛殿、熊の毛皮を欲しがっておる工房が見つかりそうでのう」
「ほう。あの大きな熊か」
「大きな、では済まぬぞ。倉庫へ運び込む口まで考えねばならん」
「澪殿、また出してもらおうかの?」
「ここでは出すでない!」
返事が早すぎて、澪は吹き出した。
グスタフは澪をちらりと見てから、隣の椅子へ腰を落とした。
「そちらの話は、昼からでもよい。ただ、別に一つ、妙な話が入ってきておってな」
「妙な話?」
真壁の声に、グスタフがうなずく。
「マールヴェインの森じゃ。あの森の魔物が増えた件で、まとまった討伐を望む者が出ておるらしい」
澪の笑みが止まった。
つい今まで、その森の下にある迷宮が何をしているのか話していたところだ。
「討伐……ですか?」
「うむ。まだ誰が動くかも、はっきり決まってはおらん。じゃが、森へ入る者のために食糧や縄、薬などをまとめて用意できるか、商人へ尋ね始めた者がおる」
「もう、討伐隊が出るんですか?」
澪が尋ねると、グスタフは首を振った。
「そこまでは聞いておらん。商いの話が先に来ることもあるし、ただの噂で終わることもある。ただ、用意する量が少なくないらしい」
ヴァルトが静かに口を開いた。
「森に近い村々では、魔物の被害も心配されているでしょう。討伐を望む声が出るのは、不思議ではありませんね」
「そのとおりじゃ。王都で聞く話は、森に住む者の話とはまた違うでな」
グスタフは腕を組んだ。
「それに、昨日あれほどの魔物を見せられたばかりじゃ。わしも、あの森を危険だと言う者を笑えん」
弥兵衛は黙って聞いていた。
澪には、森の中を歩く人々の姿が浮かんだ。
普通に木を伐り、獲物を探し、荷を運ぶ人たちがいる。彼らにとっては迷宮の仕組みなど関係がない。危険な魔物がいるなら、減ってほしいと思うのが当然だ。
けれど、その奥には、世界へ魔力の元を送り出す迷宮がある。
「真壁さん……」
「うむ。まず、何を討伐するつもりなのか聞かねばならんな」
真壁はグスタフへ向き直った。
「グスタフ殿。その話が、どこから来たものか分かりますかな」
「まだ詳しくは分からぬ。ただ、商人の間で物資の話が動き始めておる。それを耳にして、弥兵衛殿のような腕の立つ方へ声が掛かるかもしれんと思うたのじゃ」
「なるほど。知らせてくださり、ありがとうございます」
真壁が礼を述べた。
「状況が分かれば、また教えていただけますか」
「それは構わん。わしも森の話は気になっておる」
弥兵衛がゆっくり口を開いた。
「魔物が人を襲うのであれば、斬らねばならぬこともあろう」
「そうですね」
澪がうなずく。
「じゃが、その奥におる主まで斬ってよいのかは、また別の話らしいのう」
グスタフが怪訝そうに眉を寄せた。
「主? 何の話じゃ」
弥兵衛は、しまったという顔をするでもなく、真壁たちを見た。
「おっと。わしらだけで話しておったのう」
真壁が小さく笑った。
「グスタフ殿。あの森の地下には、魔力の元を周囲へ送り出す迷宮があるそうです」
「魔力の元?」
「迷宮主を倒せば、その供給も止まると聞きました。人を襲う魔物を減らす話と、迷宮を止める話は分けねばなりません」
「……お主ら、また何か大きな話を持ってきたのか」
「ええ。ですから、討伐を望んでいる方にも、この話を伝えねばなりません」
グスタフはしばらく三人を見回し、最後に弥兵衛へ目を留めた。
「お主も一枚噛んでおるのか」
「わしは、話を聞いたばかりじゃよ」
「……それならよいが」
グスタフは釈然としない顔で頷いた。
真壁が立ち上がった。
「弥兵衛殿。今日は貴重なお話をありがとうございました」
「いやいや。わしも初めて知ることばかりじゃった。東方を歩いた日々が、少し違って見えるのう」
「またお力を借りることになるかもしれません」
「そのときは遠慮なく言うてくだされ。ただし、飯の旨い所で頼むぞ」
「弥兵衛さん、それは大丈夫です。王都にはおいしいお店がたくさんありますから」
澪が答えると、弥兵衛は満足そうに頷いた。
「ほっほ。それは頼もしい」
宿の奥で鍋の蓋が開き、香草の匂いが一段と濃くなった。
弥兵衛はその匂いに振り向いたが、すぐに澪たちへ目を戻した。
「真壁殿。魔王を斬るためではなく、斬らずに済ませるためにわしを呼ぶとは、変わった相談になりそうじゃのう」
「まだ、そうすると決めたわけではありませんよ」
「うむ。だから面白い」
真壁は笑ったが、澪は少しも笑えなかった。
マールヴェインの森に入る者が、本当に集められようとしているのなら。
その人たちは、何を見つけ、何を倒そうとするのだろう。
森の奥にいるものが、ただの魔物ではないことを、澪たちはもう知っている。
けれど、そのことを知らない人たちの方が、きっとずっと多かった。