Cyberpunk: Edgerunners -far from human- 作:Lemony226
能力というものは、案外あっさり日常へ溶け込む。
最初の数日こそ、ピーターはまともに眠ることすらできなかった。壁へ張り付いたまま目を覚まし、無意識にドアノブを握り潰し、通学路の雑踏から拾ってしまう膨大な情報量に頭痛を起こす。視界は異様なほど鮮明で、遠くのビル壁面に浮かぶ広告のノイズまで読み取れてしまった。
だが人間の脳は順応する。良くも悪くも。
放課後、ピーターは校舎裏のメンテナンス用外壁へ張り付きながら、慎重に指先へ力を込めていた。掌の感覚が変わっている。皮膚表面がコンクリートの微細な凹凸へ吸着し、自分の体重を完全に支えているのが分かった。
最初は恐怖しかなかったその感覚も、今ではどこか現実味が薄い。まるで長年使い慣れた身体機能を、今さら思い出したみたいだった。
眼下にはナイトシティの街並みが広がっている。高層ビル群の間を広告ドローンが飛び回り、空中道路を走る車列が赤と白の光跡を引きずっていた。地上では無数の人間が蟻みたいに蠢いている。
ピーターは深く息を吸い込み、隣の建物へ向かって跳んだ。
風が頬を叩く。
重力感覚が一瞬だけ消失し、次の瞬間には両足が外壁へ吸い付いていた。
「……はは」
乾いた笑いが漏れる。
怖いという感覚より先に、高揚感が来る。身体が軽い。今までずっと、自分はこの街で踏み潰される側の人間だと思っていた。企業にも、金持ちにも、暴力にも逆らえない、ただの貧民層の学生。
だが今だけは違った。
少なくとも、“無力”ではない。
その感覚は、思った以上に甘美だった。
▽△▽
変化は学校生活にも現れ始めていた。
授業内容が異様な速度で理解できる。数式処理も立体演算も、以前より遥かに早い。教員AIの説明が終わる頃には、脳内では既に答えが組み上がっていた。
昼休み、ピーターは食堂の端で端末を眺めていたが、向かいへ無遠慮にトレイを置かれて顔を上げた。
デイヴィッドだった。
「最近なんか変だぞ、お前」
開口一番、それだった。
ピーターは視線を逸らす。
「……そうかな」
「この前の授業。教室横断してただろ」
「偶然だよ」
「偶然であんな動きするか?」
デイヴィッドは胡散臭そうに眉をひそめたが、それ以上は追及してこなかった。ただ、観察するみたいな視線だけは向け続けている。
ピーターは曖昧に笑って誤魔化した。
説明できるはずがなかった。
自分の身体に何が起きているのか、本人ですら理解していない。
▽△▽
問題は金だった。
メイは何も言わない。だが生活が限界に近いことくらい、ピーターにも分かっていた。古くなった冷蔵庫、補修跡だらけの壁、何度も使い回された食材。メイはいつも「大丈夫」と笑っていたが、その笑顔が無理をしていることくらい見れば分かる。
だから最初は、本当に軽い気持ちだった。
コンバットゾーン外縁で行われている違法ストリートファイト。ドラッグと酒の臭いが混ざった地下空間で、改造人間たちが金とプライドを賭けて殴り合っている。
ピーターはフードを深く被ったままリングを見下ろしていた。
「次いねぇのか!」
ブックメーカーが叫ぶ。
リング中央では、工業用クローム義手を装着した男が対戦相手を踏みつけていた。歓声が沸き上がる。観客たちは流血を娯楽として消費していた。
ピーターはポケットの中で拳を握る。
金が必要だった。
自分には力がある。
だったら、少しくらい使ったっていいんじゃないか――そんな考えが頭をよぎる。
「……僕がやる」
観客が笑った。
ガキだの、死にたいのかだの、好き勝手に囃し立てている。だがリングへ上がった瞬間、ピーターの意識は静まり返った。
開始ブザーとともに、男が踏み込む。
しかし遅い、とピーターは思った。
拳の軌道が見えるのだ。筋肉の収縮。重心移動。全部が手に取るように分かる。身体が勝手に反応し、気づけば攻撃を回避していた。
次の瞬間、自分の拳が男の脇腹へめり込む。
鈍い衝撃。
巨体が崩れ落ちる。
歓声が止まった。
リングの中央で、ピーター自身だけが呆然としていた。
今、自分はクローム化された相手を、生身で倒した。
観客の視線が変わる。
驚愕。興奮。警戒。
ナイトシティでは、注目を集めるのはいつだって“異常”なのだった。
▽△▽
帰り道、ポケットの中には分厚い札束が入っていた。
違法ファイトの報酬。メイが知れば怒るだろう。だが同時に、これで少しは楽になるとも思った。
ネオンに濡れた路地を歩いていると、不意に悲鳴が聞こえた。
「やめて……!」
暗い路地裏だった。
数人の男が、女からバッグを奪おうとしている。ただの強盗だ。ナイトシティでは珍しくもない光景だった。
ピーターは立ち止まる。
止められる。
今の自分なら簡単だ。
だが、その瞬間、別の感情が頭をよぎった。
関わるな。
目立つな。
面倒事に首を突っ込むな。
この街では、それが正しい生き方だ。
ピーターは視線を逸らし、そのまま歩き去った。背後ではまだ女の悲鳴が続いていたが、振り返らなかった。
胸の奥に小さな棘みたいな感覚だけが残る。
雨が降り始めていた。
アパートへ辿り着く頃には、ネオンが濡れた路面へ滲み、街全体がぼやけて見えた。エレベーターは故障中で、階段には酒瓶と注射器が転がっている。
いつもの光景。
だが、自室の階へ近づいた瞬間、ピーターは異臭に気づいた。
血と火薬の臭いだった。
心臓が強く脈打つ。
「……叔母さん?」
ドアが半開きになっている。
室内は荒らされていた。引き出しは引き裂かれ、家具は倒れ、床には血痕が広がっている。
ピーターは奥へ駆け込んだ。
メイ・パーカーが倒れていた。
腹部から血が流れている。
時間が止まったみたいだった。
「……あ……」
喉がうまく動かない。
膝から崩れ落ち、震える手でメイの身体を抱き起こす。
「ピー……ター……?」
か細い声だった。
「待って、救急呼ぶから……!」
端末を取り出そうとして、指が震える。うまく操作できない。視界が滲む。
叔母さんは弱々しく笑った。
「そんな顔……しないの」
「喋らないで……!」
血が止まらない。
どうして。
なんで。
頭の中で言葉が空回りする。
その時、不意に思い出した。
さっきの路地裏。
助けを求める声。
自分は見捨てた。
関わりたくなかったから。
責任から逃げたから。
「僕が……僕が、ちゃんとしてれば……」
叔母さんの手が、そっと彼の頬へ触れた。
「……優しい子でいて」
その言葉を最後に、手から力が抜ける。
ピーターは動けなかった。
窓の外では、ナイトシティのネオンが雨に滲んでいる。遠くをパトカーのサイレンが走り去っていった。
都市は何ひとつ変わらない。
誰かが死んでも。
善人が踏み潰されても。
この街は、何も覚えていない。