朝起きたら儒烏風亭らでんになっていた。なお、本物は今日も普通に配信している 作:好きな性癖発表ドラゴン
朝、いつもより早く目が覚めた。
眠れなかった、というほどではない。
でも、深く眠れた気もしなかった。
何度も目が覚めて、そのたびにスマホを見そうになって、やめた。
担当Aからは、前日の夜に何度も注意が来ていた。
本家コンテンツを見ないこと。
関連する切り抜きやSNS投稿を開かないこと。
対面確認会の情報を外部に出さないこと。
移動中は同伴者と現地スタッフの指示に従うこと。
頭では分かっている。
でも、分かっていても落ち着かない。
今日、会う。
ぺこさんに。
ニコさんに。
ハジさんに。
スウさんに。
画面の向こうにいた人たちと、同じ部屋で顔を合わせる。
そう考えるだけで、胸の奥がざわざわした。
俺は布団から起き上がり、机の上を見る。
マスク。
眼鏡。
大きめの上着。
スマホ。
生活ログ。
父親に一枚だけ許された、対面確認会のルール案。
それから、昨日の夜に最後に書き足した一文。
同じ現実にいることを、まず確認する。
何度見ても、少しだけ呼吸が落ち着く。
今日、何かを解決する必要はない。
元に戻る方法を見つける必要もない。
自分が何者なのか、全部答えを出す必要もない。
ただ、同じ現実にいることを確認する。
それだけでいい。
それだけのはずなのに、手が少し震えていた。
着替えを済ませて、鏡の前に立つ。
黒い髪。
知らない顔。
儒烏風亭らでんの姿。
マスクをつける。
眼鏡をかける。
大きめの上着を羽織る。
ずいぶん見慣れてしまった。
そのことに、少しだけ怖くなる。
俺は佐伯悠真だ。
そう思いたい。
でも、鏡の中の姿はそう言ってくれない。
だから今日は、同じように鏡と折り合いをつけている人たちに会いに行く。
同じ実体化者なら、分かってくれるかもしれない。
でも、同じ実体化者だからこそ、見抜かれるかもしれない。
俺がどれだけ佐伯悠真でいられていないのか。
俺の中にどれだけ“らでんっぽさ”が混ざっているのか。
それを、文字ではなく目の前で見られる。
そう思うと、会いたい気持ちと同じくらい、逃げたい気持ちも強くなった。
階段を降りると、玄関で父親が待っていた。
車の鍵を持っている。
母親はリビングの入り口に立っていた。
「資料は一枚だけか」
父親が聞く。
「一枚だけ」
「よし」
「確認されるんだ……」
「確認する」
「はい」
母親が近づいてきた。
少し不安そうな顔をしている。
でも、止める顔ではなかった。
「無理そうなら、帰ってきていいからね」
「うん」
「会えなくても失敗じゃないから」
その言葉に、少し喉が詰まる。
「……うん」
母親は俺の上着の襟元を少し整えた。
その手つきが、あまりにも自然で、胸が変に痛くなった。
「行ってらっしゃい、悠真」
名前を呼ばれる。
胸の奥が小さく反応する。
まだ実感は薄い。
でも、その名前で送り出されることは、嫌じゃなかった。
父親が玄関を開ける。
「行くぞ」
「うん」
靴を履く。
外の空気が入ってくる。
普通の朝だった。
どこにでもあるような、ただの朝。
それなのに、玄関の外へ出るだけで、少し息が詰まった。
父親が車へ向かいながら言う。
「会いに行って、帰ってくる」
「……分かってる」
「そこを間違えるな」
「うん」
車に乗り込む。
エンジンがかかる。
家が少しずつ後ろへ流れていく。
外には、いつも通りの日常があった。
通勤する人。
自転車の学生。
コンビニの前でスマホを見ている人。
信号待ちの車。
犬を散歩させている人。
その誰もが、俺を探しているわけではない。
分かっている。
でも、スマホを見ている人を見るたびに、胸が冷える。
実体化組。
リアルホロメン。
目撃マップ。
河川敷らでん説。
スーパーぺこら。
世界は今、俺たちに名前をつけて、探し始めている。
俺はスマホを開きかけた。
父親が前を見たまま言う。
「スマホ見るな」
「確認だけ」
「今は確認するな」
「……はい」
父親は強い。
いや、正しい。
今トレンドを見ても、俺ができることはない。
できることがないのに見れば、不安だけが増える。
俺はスマホを伏せて、窓の外を見た。
世界はいつも通りなのに、そのいつも通りの中に、自分だけが紛れ込めなくなっている。
そんな気がした。
会場は、市街地から少し外れた場所にあった。
外から見ると、ただの小さな施設にしか見えない。
派手な看板もない。
人通りも少ない。
担当A側の現地スタッフが、裏口付近で待っていた。
父親が車を停めると、スタッフが周囲を確認してから近づいてくる。
スタッフは声を落として言った。
「個別窓口で確認していた方ですね。確認コードをお願いします」
父親が俺を見る。
俺はスマホを取り出し、事前に共有された確認コードを表示する。
スタッフは端末で照合して、小さく頷いた。
「確認できました。ご本人と同伴者の方ですね」
「はい」
父親が答える。
俺も頷いた。
「本人確認については、事前に共有した確認コードと、個別窓口の照合情報を――」
「悠真」
父親が短く止める。
「はい」
「聞かれたことだけ答えろ」
「……はい」
スタッフが少しだけ柔らかく笑った。
「今日は確認に来ていただくだけで大丈夫です。詳しい説明はこちらで行います」
恥ずかしい。
でも、少し安心もした。
中へ案内される。
裏口から短い廊下を通り、カーテンの閉じられた会議室へ入る。
部屋の中には、椅子がいくつか置かれていた。
ただし、真正面で向かい合うような配置ではない。
少しずつ角度がずらされている。
視線がぶつかりすぎないように。
誰かが入ってきた時、全員の目が一斉に向かないように。
出口も分かりやすい。
隣には休憩用の小部屋があるらしい。
水。
毛布。
簡単なメモ用紙。
撮影禁止の案内。
細かいところまで、考えられていた。
「配置が……」
思わず口が動きかけた。
父親がこちらを見る。
「短く」
「配置が優しい」
「それでいい」
父親、便利すぎる。
いや、便利扱いしてはいけない。
でも、本当に助かる。
俺は椅子に座った。
父親は少し離れた場所に座る。
会議室には、まだ俺たちだけだった。
早く来すぎたのかもしれない。
誰もいない部屋で待つ時間は、妙に長かった。
スマホを開きたい。
でも開かない。
代わりに、対面ルール案を膝の上に置く。
同じ現実にいることを、まず確認する。
その一文を見て、呼吸を整える。
廊下の向こうで、足音がした。
スタッフの声。
低い話し声。
それから、小さく何かが布に擦れるような音。
扉が開いた。
最初に入ってきたのは、ぺこさんだった。
大きめのフード。
ストール。
耳の輪郭を崩すように布が巻かれている。
でも、完全には隠しきれていない。
フードの内側から、長い耳の存在が分かる。
少し動いた。
ぴん、と。
ぺこさんが一歩入って、俺を見る。
俺も、ぺこさんを見る。
沈黙。
チャットでは、あれだけ話していた。
耳の寝具問題も、スーパーぺこら呼びへの怒りも、帰宅作戦も、語尾漏れも、全部知っている。
でも、現実では初めてだった。
何を言えばいいのか、分からない。
先に口を開いたのは、ぺこさんだった。
「……ラさん?」
俺も、少し遅れて答える。
「ぺこさん?」
ぺこさんは耳を押さえようとして、途中でやめた。
「本当にいるぺ……いる」
「今、出ましたね」
「初対面で指摘するな」
その瞬間、部屋の空気が少し緩んだ。
ぺこさんの後ろから、母親らしき人が入ってくる。
少し緊張した顔。
でも、ぺこさんのストールを直す手つきは慣れ始めているように見えた。
父親が立ち上がり、軽く会釈する。
ぺこさんの母親も会釈を返した。
「いつもお世話になっております……で合ってますか?」
父親が少しだけ間を置く。
「たぶん、合ってます」
たぶん。
ここでも、たぶん。
でも、妙にしっくり来た。
次に来たのは、ニコさんだった。
ニコさんも、大きめの上着と帽子で、髪や顔の印象をぼかしていた。
それでも、扉が開いた瞬間、表情の作り方や立ち方に、画面越しの“誰か”が混ざっているのが分かった。
緊張している。
画面の中の軽さとは違う。
でも、口は先に動いた。
「うわ、本当にいる。ドッキリなら今出てきていいよ」
言ってから、すぐに自分で首を振る。
「いや出てくるな、怖い」
ニコさんだ。
チャットのままだ。
でも、画面よりずっと不安そうだった。
ニコさんは俺を見て、少しだけ目を細めた。
「ラさん、思ったよりラさんだ」
「どういう意味ですか」
「説明しそうな顔してる」
父親が横から言った。
「当たってる」
「父さん」
ニコさんが、ほんの少し笑った。
そして、自分で驚いたように口元を押さえる。
「笑えた」
小さな声だった。
「よかった」
その一言に、胸が少し温かくなる。
次に入ってきたのは、ハジさんだった。
フードを深くかぶっている。
けれど、隠れているのは外見だけで、身体の前へ出る勢いまでは隠しきれていなかった。
扉が開く。
ハジさんは、入ってきた瞬間に全員を見た。
視線が速い。
身体も、少し前へ出かけた。
でも次の瞬間、ポケットから紙を取り出す。
そこには太い文字で書かれていた。
走るな。まず座れ。
ハジさんはそれを見て、黙って近くの椅子に座った。
全員が、一瞬だけ見守る。
ニコさんが小さく言う。
「メモ効いてる」
「言うな」
ぺこさん。
「えらい」
「子ども扱いするな」
ハジさんは少し不満そうだったけれど、ちゃんと座っていた。
その事実だけで、空気が少し柔らかくなる。
俺は、ログで読んでいたことを思い出した。
身体が先に動く。
音がすると確認しに行きたくなる。
文字で読んでいたことが、今、目の前で起きている。
本当に、そうなんだ。
その実感が、少し重かった。
最後に入ってきたのは、スウさんだった。
できるだけ目立たない服装をしていた。
でも、部屋の入口で立ち止まった姿は、誰かに見つけてほしいのに見られるのが怖い人のものだった。
スタッフが何かを言う。
スウさんは小さく頷いた。
それでも、足がすぐには動かない。
俺はルール案を思い出す。
無理に自己紹介しない。
視線を集めない。
代表して大きな声で迎えない。
だから、ただ小さく呼んだ。
「スウさん」
スウさんが顔を上げる。
ほんの少しだけ、目元が緩んだ。
「……はい」
名前を呼ばれると落ち着く。
ログに書いてあった。
今、たぶんそれが起きた。
沈黙が、少しだけ長くなりかける。
その時、ニコさんがぽつりと言った。
「大丈夫。今日ここにいる時点で、もうだいぶ偉い」
スウさんが顔を上げる。
「……偉い、ですか」
「偉い。百点。いや、来た時点で加点。帰れたら満点」
スウさんの表情が、少しだけ緩んだ。
ニコさんは自分で驚いたように、口元を押さえる。
「……今の、なんか自然に出た」
スウさんも、小さく頷いた。
「私も、少し受け取りやすかったです」
俺はそれを見て、背筋が少し冷えた。
初対面のはずなのに。
この二人の間だけ、会話の距離が一歩近い。
中身は知らない。
でも、表層が距離感を知っている。
そんな気がした。
会議室に、初期メンバーが揃った。
俺。
ぺこさん。
ニコさん。
ハジさん。
スウさん。
チャットでは何度も並んだ名前。
でも今は、それぞれに身体がある。
耳がある。
表情がある。
声がある。
手の震えがある。
座り方がある。
呼吸がある。
文字の向こうにいた人たちは、ちゃんと息をしていた。
担当A側の現地スタッフが部屋の前に立つ。
声は落ち着いていた。
「本日は来ていただき、ありがとうございます。まず、今日は交流会ではなく、安全確認の場です。無理に話す必要はありません。体調が悪くなった場合は、すぐに退出できます。写真・動画の撮影は禁止です。本名や住所を話す必要もありません。本家タレント本人について、過度な詮索もしないでください」
俺は反射的に補足しそうになった。
「つまり、ここで重要なのは心理的安全性と――」
「悠真」
父親の声。
「はい」
ニコさんが小さく吹き出した。
「リアルでも止められてる」
ぺこさん。
「ラさんのお父さん強い」
父親は淡々と言う。
「家でもこうだ」
「父さん」
会場の空気が、また少し緩む。
現地スタッフも、少しだけ柔らかく言った。
「ラさんの資料は、あとで確認します。今は、座っていて大丈夫です」
「はい」
俺はおとなしく座った。
無理に自己紹介しなくていい。
現地スタッフはそう言った。
でも、何も言わないのも気まずい。
それを最初に言ったのは、やっぱりニコさんだった。
「逆に何も言わないの気まずくない?」
ぺこさんがすぐに返す。
「言い出しっぺからどうぞ」
「俺?」
ニコさんは少しだけ視線を泳がせた。
それから、息を吐いて言う。
「えー、ニコさんです。笑えない時ほど喋ります。今日は今のところ、ちょっと笑えました」
拍手したい。
でも拍手していいのか分からない。
その迷いを破ったのは、ハジさんだった。
小さく、ぱち、と手を叩く。
その音で、みんな少し笑った。
ぺこさんが続く。
「ぺこさんです。耳は見ないでください。いや見えてるけど。見るなっていうか、見すぎるな」
ニコさん。
「難しい」
「難しいけど配慮して」
ハジさん。
「ハジさん。身体が先に動きます。今日は座ってます」
ニコさん。
「えらい」
「言うな」
スウさんは少し迷ってから、両手を膝の上で握った。
「スウさんです。名前を呼ばれると、少し安心します」
俺の番が来る。
自分の喉が少し乾いている。
「ラさん……です」
そこまで言って、一瞬だけ言葉が詰まった。
佐伯悠真。
その名前は、喉元まで来ていた。
けれど、ここで言う名前ではない。
ここは、家ではない。
避難所でもない。
公式側が用意した、安全確認の場だ。
本名を出さない。
それは、自分で何度も言ってきたルールだった。
「家では、元の名前で呼ばれています。でも、ここではラでお願いします」
隣で、父親が小さく頷いた。
「それでいい」
その一言で、少しだけ肩の力が抜けた。
俺は続ける。
「説明が長くなります。今日は短くします」
父親が横から言う。
「本当に?」
「努力します」
また少し笑いが起きた。
この笑いは、嫌じゃなかった。
緊張を逃がすための笑い。
誰かを馬鹿にするためではなく、ここにいることを確かめるための笑い。
少しずつ、会話が始まった。
ぎこちない。
でも、確かに会話だった。
ぺこさんの耳が、感情に合わせて動く。
ニコさんは見ないようにしているのに、どうしても目が行く。
「ごめん、耳めっちゃ正直」
「見るなって言ったじゃん」
「いや、動いたから」
「動くんだよ!」
ぺこさんの耳がまた動いた。
ニコさんが口元を押さえる。
「笑ってない。笑ってないから」
「今ちょっと笑った」
「馬鹿にしてないやつ」
「なら許すかもしれない」
ハジさんは会話に反応して立ち上がりかけ、そのたびに膝の上のメモを見る。
走るな。まず座れ。
そして座り直す。
スウさんは、名前を呼ばれるたびに少しだけ表情が和らいだ。
「スウさん、お水取りますか?」
「はい。ありがとうございます」
たったそれだけなのに、スウさんの肩から少し力が抜ける。
俺は説明しそうになる。
人は名前を呼ばれることで存在を確認されるというか、場への所属感が――
父親の視線が飛んできた。
俺は黙った。
便利すぎる。
いや、便利扱いしてはいけない。
その時だった。
ハジさんが、また椅子から立ち上がりかけた。
床に置かれたペットボトルが少し倒れかけただけだった。
でも、ハジさんの身体は反射的に動いていた。
その瞬間、俺は考えるより先に言っていた。
「番長、座って」
言ってから、固まる。
ハジさんも固まった。
「……今、何て?」
「いや、俺にも分かりません」
でも、ハジさんの身体は止まっていた。
ニコさんが目を丸くする。
「え、効くんだ」
ハジさんは、ものすごく不本意そうな顔で椅子に座り直した。
「……効いたのが一番嫌だ」
ぺこさんの耳が、面白そうにぴこっと動く。
「今の、なんか自然だった」
「自然じゃないです」
俺は即座に否定した。
自然だった。
それが怖かった。
ハジさんの身体が動く前に、止める言葉が出た。
しかも、番長。
チャットで何度か出た呼び方ではある。
でも、あまりにも身体に近い場所から出た。
俺が知っているわけじゃない。
なのに、俺の中の何かが知っていた。
ハジさんもまた、知らないはずなのに、その声で止まった。
現地スタッフが静かにメモを取っていた。
「対面後、口調・身体反応がチャット上より強く出ているようです」
その言葉に、全員が少し黙った。
ぺこさんの耳が、わずかに揺れる。
ニコさんが笑いかけて、やめる。
ハジさんが膝の上のメモを見る。
スウさんが、自分の名前を確かめるように小さく呟く。
俺は、何かを説明しそうになって、父親に見られて黙った。
チャットより、現実の方が表層が出やすい。
それは怖い。
でも同時に、少しだけ分かりやすくもあった。
自分たちが何に引っ張られているのか。
どこまでが自分で、どこからが表層なのか。
この場所では、それが文字よりもはっきり表に出てしまう。
ぺこさんが、全員を見回した。
ニコさんとスウさんが少し緊張している。
ハジさんはメモを握っている。
俺はたぶん、説明したそうな顔をしていた。
その空気を見て、ぺこさんがなぜか少し胸を張った。
「まあまあ、落ち着くぺこ。こういう時は、まず座って水飲むぺこ」
言ってから、ぺこさんの耳がぴんと立った。
「違う。今の俺じゃない」
ニコさんが笑いかけて、慌てて口を押さえる。
「いや、でも今の、ちょっと先輩っぽかった」
「やめろ。先輩とか言うな。俺は一般人」
ハジさんがぼそっと言う。
「耳は一般人じゃない」
「そこは言うな」
少し笑いが起きた。
でも、俺はその笑いの奥にあるものを感じていた。
ぺこさんは、俺たちの中では別系統の先輩枠に近い。
本人は一般人だと言い張っている。
でも、表層が先輩のように振る舞おうとする。
ニコさんとスウさんは、初対面なのに言葉の受け渡しが近い。
俺とハジさんは、なぜか呼び方と制止が噛み合う。
中身は知らない。
でも身体は、距離感を知っている。
声は、呼び方を知っている。
口調は、関係性を覚えている。
それが怖くて、でも少しだけ救いにもなっていた。
担当A側の現地スタッフが、短い生活支援の共有を促した。
「無理のない範囲で、生活上助かったことがあれば共有してください」
ぺこさんが手を上げた。
「耳は寝る時、完全に横向きより、うつ伏せ寄りの方がマシです。でも首が死にます」
ニコさん。
「情報として助かるのか困るのか分からない」
「耳持ちには重要」
ハジさん。
「音に反応する時は、先に座ると少しマシ。立ってると動く」
スウさん。
「名前を呼んでもらうと落ち着きます。あと、急に見つめられると怖いです」
ニコさん。
「笑えない時は、笑えないって言った方が事故らない。たぶん」
俺も言う。
「資料にまとめます」
父親。
「今日はまとめるな」
「はい」
ニコさん。
「ラさん父、便利すぎる」
父親。
「便利扱いするな」
また笑いが起きる。
温かい。
怖いのに。
外では世論が騒いでいる。
本家とのリンクも切れていない。
俺たちは何者なのかも分からない。
それでも、この部屋の中だけは、少しだけ呼吸がしやすかった。
ふっと、会話が途切れた。
誰も何も言っていない。
スマホも伏せている。
本家の音声なんて流れていない。
それなのに、全員が同じ方向を向きかけた。
ぺこさんの耳が動く。
ハジさんの手が膝の上で固まる。
ニコさんが笑おうとして、できない。
スウさんが息を止める。
俺は、言葉の前の“間”を感じた。
向こう側が、こちらを見た。
担当A側の現地スタッフがすぐに声を出す。
「全員、そのまま端末は見ないでください」
別のスタッフが続ける。
「スマホは伏せたままでお願いします」
「深呼吸してください」
「今の時刻を記録します」
「体調が悪い方は手を上げてください」
父親の手が、俺の肩に軽く触れた。
それだけで、少し呼吸が戻った。
ぺこさんは耳を押さえず、膝の上で手を握っていた。
ニコさんは笑えない顔のまま、ちゃんと息をしていた。
ハジさんは立ち上がらなかった。
スウさんは、隣のスタッフに名前を呼ばれて、小さく頷いていた。
怖い。
でも、誰も逃げなかった。
現地スタッフが確認する。
「続行できますか。無理なら、ここで終了して構いません」
沈黙。
誰もすぐには答えない。
でも、最初に口を開いたのは、ぺこさんだった。
「……もう少しだけ」
耳はまだ少し震えている。
でも、声は出ていた。
ニコさんが続く。
「俺も」
ハジさん。
「座ってる」
スウさん。
「大丈夫です」
俺は、自分の手を見る。
震えている。
でも、帰りたいとは思わなかった。
「俺も、大丈夫です」
現地スタッフが頷く。
「では、あと少しだけ続けましょう」
それからの時間は、長かったようで短かった。
何か大きな発見があったわけではない。
劇的な解決策が見つかったわけでもない。
でも、俺たちは同じ部屋にいた。
話した。
笑った。
怖がった。
表層に引っ張られた。
リンク反応に震えた。
それでも、逃げなかった。
帰る時間になった。
現地スタッフが、帰宅ルートを確認している。
同伴者たちは、それぞれ荷物を整えている。
ぺこさんの母親が、ストールを少し直す。
ぺこさんは文句を言いながらも、じっとしていた。
ニコさんは何か言いかけて、やめて、少し笑った。
ハジさんはメモをポケットにしまう。
スウさんは、スタッフに名前を呼ばれて、また少し安心した顔をした。
俺は、もう一度部屋を見た。
ぺこさんの耳。
ニコさんの笑いかけた口元。
ハジさんの膝の上に置かれていた「走るな」メモ。
スウさんが名前を呼ばれて、少しだけ安心した顔。
画面の向こうにあったものが、全部、同じ部屋にあった。
「今日は、来られてよかったです」
俺は言った。
説明ではない。
まとめでもない。
ただの感想だった。
ぺこさんの耳が少し動く。
「うん」
それから、少しだけ笑う。
「来てよかったぺ……来てよかった」
ニコさんが、今度はちゃんと笑った。
「今のは聞かなかったことにしない」
「え」
「来てよかったってことで」
ハジさんが、ポケットの上からメモを軽く叩いた。
「座れてよかった」
スウさんは、小さく頷いた。
「会えて、よかったです」
俺たちはまだ、何者なのか分からない。
元に戻る方法も知らない。
画面の向こうとの繋がりも切れていない。
世論も、まだ俺たちを探している。
それでも、今日。
文字の向こうにいた誰かは、現実になった。
そして俺は、その現実から、ちゃんと帰るために立ち上がった。