自分より背の高い男でなければ意味がない。そう信じていたクラリスは、普通の背丈のルイスを最初から眼中に置かなかった。
ある夜、雨の回廊で足を滑らせた時、迷わず手を伸ばしてきたのは、そのルイスだった。
――高身長だから愛されない。その言い訳が崩れるまで、あと少し。
社交界には、いくつかの暗黙の了承がある。
背の低い令嬢は可憐。
小柄な娘は儚げで守ってあげたくなる。
腕の中に収まる女こそ、男の庇護欲をそそる。
誰が決めたのかもわからないその言葉を、クラリス・アルメリアは十五の頃から憎んでいた。
鏡の前に立てば、まず目に入るのは自分の背丈だった。すらりと伸びた首。長い手足。仕立て屋が「舞踏会映えしますよ」と言う体格。
褒め言葉だとはわかっていた。けれどクラリスが欲しかったのは、舞踏会映えではない。
クラリスはその身長から、多くの男性と目線が近かった。中には彼女より低い男性も珍しくない。そのたびこぞって浴びる視線は「うわ……女なのにデカい……」という好奇と侮蔑のものであって、決して友愛、ましてや情愛のあるものではなかった。
けして女扱いされず物珍しげに遠巻きにされる。ただ見世物になるだけの図体。
だからクラリスは、いつも嘆いていた。
「はあ……高身長だから誰からも愛されなくて、つらいわ」
庭園の東屋で紅茶を傾けながらそうこぼしたのは、母に勧められた見合い話を断った直後だった。
相手はルイス・ヴェルナー。
古い家名を持つ下級貴族の次男で、今はクラリスの父のもとで仕事を学んでいる。身分は釣り合わないほど低くはない。だがクラリスの家に出入りする姿があまりに控えめなせいで、彼女は半ば使用人のように見ていた。
ルイスはクラリスより半歩ほど背が低い。小柄ではない。男性としてはごく普通の背丈だ。けれど見下ろすクラリスには小柄も普通の背丈も、さして変わりないものだった。
「背ばかり高い女など、可愛らしくはございませんでしょう?」
クラリスは独り言にしては大きな声で溜息混じりに言った。音も立てず茶器を置いたクラリスより背の小さい男は、ほんの少し目線を上げる。
「そんなことはありませんよ。私は可愛らしくて素敵だと思います」
にこやかに。なんでもないかのように、それが当然であるかのようにルイスは返す。思ったとおりの反応だった。
世話になっている家の娘に向かって、図体のでかい女など可愛くないなどと本人に言えるはずがない。織り込み済みだ。社交辞令だとわかっている。どうせこの男も「”大きくて”可愛い」と、「可愛い」の前に余計な枕詞を隠しているにちがいない。そういった態度がクラリスを余計に惨めにさせるのだ。
お前の浅はかな心は見透かしているのだぞ、と溜息を吐くと図星だったルイスはそれきり何も言い返さなかった。
やはり自分より小さい男はだめだ。自分より背丈のある男でないと、真に可愛いとは思ってくれないだろう。なにせ背が高いだけで威圧感を与えてしまうのだから。そして男としてのプライドを満たせないから、いるだけで自尊心を傷つける。
クラリスの望む相手は、自分よりずっと背が高く、広い胸で彼女を包み、細い腰を支え、まるで物語の姫君のように扱ってくれる男だった。
その男となら、小さくて可憐で儚げで、腕の中にすっぽり収まる愛らしい令嬢でいられる。軽々と抱き上げられて、困った時には「大丈夫、僕が守るよ」と甘やかし、愛されたいというささやかな夢を叶えてくれる。
クラリスはそう信じていた。
◇
季節は変わり、とある劇団の舞台を観に町へ赴いた。人気の劇団らしく、チケットを融通してもらったと、友人が上機嫌に誘ってきたのだ。お互いに誘える異性もおらず、物語は好きなので快く受け取った。
演目は古いおとぎ話をモチーフとした恋愛劇だった。小柄で愛らしいヒロインが騎士に守られ、あらゆる苦難を乗り越え結ばれるもの。女性の誰もが憧れる物語だ。客席のあちこちから、うっとりとした溜息が聞こえた。
クラリスは扇を閉じる。
物語の中でも、可憐で小さな娘が愛されて、守られて、お姫様として扱われる。背の高い女など、物語にすら必要とされない。いたとしても脇役か対比のための悪役で、けして主役にはなれない。舞台上の騎士は、ヒロインの細い腰を易々と抱え上げていた。
幕が下りるとともに割れんばかりの拍手が起きた。クラリスも手を叩いたが、指先は少し冷たい。昔はあんなに大好きだった物語も、今となっては現実を突きつけられ、冷水を浴びせられるようになった。
観劇の後は場所を移して歓談の時間が設けられた。劇場の近くにはカフェが併設されており、アフタヌーンティーをしながら、劇の話に花を咲かせられる。
誘われたのは何もクラリスだけではない。友人は、顔も知らない他の友人と劇の感想を熱弁して、同じ熱量で語れない、その輪に入る気もないクラリスは、適当に相槌を打って流した。
紅茶が冷める頃には日も落ちて、店の明かりがポツポツと灯り始める。そろそろ頃合いかと、クラリスは同伴に礼を言って席を立つ。侍女を呼び外套を受け取って、馬車寄せへ向かう回廊へと足を向けた。
雨が降っていた。昼のうちから空が重かったが、とうとう降ったらしい。回廊の外、石畳に雨粒が跳ねていた。
クラリスは構わず足早に歩き出す。雨は一つ分頭を抜ける傘が目立つため、雨粒が跳ねるのを気にしてのろのろと歩いていたら注目の的だ。恥ずかしいことこの上ない。背が高いため歩幅も大きいクラリスは、侍女さえも置いてゆかんばかりに進んでゆく。その時だった。
クラリスの足元が滑る。雨を含んだ石床に、靴底が取られたのだ。
身体が傾く。支えを探した手は空を切った。近くに彼女を支えてくれる者はいない。
転ぶ。
そう思った瞬間、横から強い腕が伸びた。ぐっと背中を支えられ、腰を引き寄せられる。クラリスの身体は倒れきる前に止まった。
「大丈夫ですか?」
低く、落ち着いた声。彼女を支えていたのはルイスだった。
近い。思ったよりもずっと腕がしっかりしている。こんな小さな身体のどこにそんな力があるのだろう。クラリスは驚いて息を止めた。
ルイスは彼女の体勢が安定したのを確かめると、すぐに手を離した。必要以上に触れない。その距離の取り方は、けして威圧感を与える巨女を嫌ってのものではない。可愛らしい小柄な女性に接する時と同じものだ。
「お怪我は」
「……ありません、わ」
「それはよかった」
雨脚が強くなり、回廊の外側から吹き込む水滴が床を濡らしている。ルイスは落とした傘を拾い、泥を払うとクラリスへ差し伸べた。
動きに無駄がない。まるでそうすることが当然という、絵に描いた紳士のようにルイスは振舞っていた。
クラリスはそこで初めて、彼を正面から見た。
夢描いていた王子様とは程遠い男。頼りなさそうな男。
だというのに、そんな彼が人混みに消えてしまっても、その姿が目に焼き付いて消えないでいた。
空想の物語のことなんて、もう思い出せなかった。
◇
ふた月ほど後、クラリスは王城の温室へ招かれた。
王妃主催の花と音楽の小さな会で、温室には庭師たちが育てた珍しい花々が並び、隣の小広間では弦楽のための場所が整えられていた。令嬢たちは香りや色を楽しみながら歩き、時折、小広間から流れてくる音に耳を傾ける。
クラリスはそこで、再びルイスを見かけた。
またあの時のように支えてくれるだろうか。無意識に彼へと足が進んだ。近付くにつれ胸が早鐘を打つ。
全身を拝めるところまで来て、そこでクラリスは気づく。
彼はひとりではなかった。
隣に、ひときわ背の高い令嬢がいた。遠目から見てもクラリスよりもさらに背が高いのがわかる。自身も背が高いと自負していたが、それよりもだ。それなのにここまで来るまで気づかなかった。ルイス以外眼中になかったのだ。
この女は誰だろうと、野次馬の会話に耳を澄ます。
エレオノーラ・ヴィスコンティ。北方の田舎貴族の令嬢らしかった。
濃紺のドレスが彼女の長い身体の線を美しく見せていた。高い襟。縦に流れる刺繍。長い首を飾る細い銀の首飾り。自分を小さく見せようとする工夫は、どこにもない。むしろそれらを誇るように胸を張り、姿勢良くしっかりと立っていた。
エレオノーラはドレス姿でなければ、若い騎士のようにも見えるほど凛々しかった。だからこそ、姿の見えぬ場所では存在に気づかなかったのかもしれない。
凛とした表情、俯かず胸を張った姿は、近衛兵の纏うような立派な階級章の入った制服が似合いそうだ。その姿は若い令嬢が黄色い声を上げるほど堂に入ったにちがいない。
けれどルイスが彼女の手を取ると、ふっと柔らかい色が差し、少女のような顔で微笑むのだ。
クラリスは無意識に唇を引き結ぶ。
ルイスとエレオノーラは並んで歩いていた。エレオノーラのほうが背が高い。まるで姉と弟のようだ。それなのに、二人の間に不自然さはなかった。ルイスは見上げることを恥じず、またエレオノーラも見下ろすことを申し訳なさそうにしていない。
ただ、隣にいる。それが妙に完成されて見えた。
不意に窓を叩く音がした。断続的に耳障りな音が文字どおり降ってきた。あれだけ晴れていたのに、そんな兆候もなく、厚い黒雲が空を覆い大粒の雨を降らせていた。前に観劇の夜もそうだった。きっとこの場に雨男か雨女がいるにちがいない。
王妃の計らいにより、小広間へと移動することとなった。小広間には燭台がいくつも灯されており、温室の薄暗さが嘘のように室内は明るかった。天井から下がるシャンデリアが揺れるたび、壁に光の模様が踊る。雨音は遠く、代わりに弦楽の音合わせが始まっていた。
やがて小広間で弦楽が始まると、招待客たちは一組ずつ踊りの輪へ加わっていった。
社交の踊りでは男が女を導く。男が手を差し出し女がそれを受ける。男が支え、女はその腕の中で回る。クラリスが物語の中で何度も夢見た形だった。
ルイスは一礼して彼女の手を取る。だが次の拍で一歩先に出たのはエレオノーラだった。
長い脚が迷いなく床を踏む。濃紺の裾が剣の軌跡のように静かに流れる。彼女は女性の側に収まるのではなく、男役の足運びでルイスを導いた。
ルイスは少しも崩れなかった。悔しがる様子も、取り繕う様子もない。彼は当然のように、女性側の動きへ回った。
長い背筋を伸ばしたエレオノーラが前に出て、ルイスがその動きを受ける。それは譲歩でも失敗でも、滑稽な入れ替わりでもなかった。
エレオノーラは自分を小さく見せようとせず、ルイスも自分を大きく見せようとしていない。最初からそう踊る二人なのだと、見る者に思わせるほど自然体で優雅だった。
どちらが上かではない。ただ、その瞬間に最も美しく見える形を二人で選んでいるだけだった。
「ヴェルナー様とヴィスコンティ様、正式に婚約なさったそうよ」
近くにいた令嬢たちの声が耳に入った。
「春の月からヴェルナー様が足繁く通ったそうよ。熱愛ですって」
「お似合いよね。ヴィスコンティ様、乗馬も弓もお得意でいらして」
「背がお高いから、式典の護衛騎士たちの横に並んでも見劣りしなかったそうよ」
「ご本人も堂々としていて素敵だわ」
クラリスの手の中で、扇が小さく軋んだ。
婚約。
おめでたいはずのその言葉だけが、やけに冷たく響いた。
知らなかった。そんなこと一言も言ってくれなかったじゃない。父の元から離れて疎遠になったとしても、それくらい一報入れてもよかったのではないか。義理に欠けるのではないか。
あのときめきはなんだったの。滑稽すぎる。あの時すでにルイスはエレオノーラに心を決めていたのでしょう。ならどうして私を助けたの。そのままにしてくれれば、私は無駄に貴方に心動かされることなんてなかった。
高身長の女が良いなら私がいたじゃないの。どうして私でないの。先に出会っていたのは私なのに。
縁談を断ったのは誰でもない自分だということを忘れ、クラリスはありったけの呪詛を幸せそうに踊る二人にぶつけた。
花と音楽の会が終わり、客たちが馬車へ向かう頃には、眩しいほどの夕日が辺りを照らしていた。
クラリスは温室の出口近くに立っていた。帰るつもりで、けれど足が動かなかった。
少し先に、ルイスとエレオノーラがいたからだ。
エレオノーラは使用人に礼を言い、外套を受け取っている。ルイスは彼女の歩く先を確認しながら、階段に目を配っていた。
その時、エレオノーラの靴が鈍い音を立てた。長い身体が、ふっと横に流れる。
周囲が息を呑むより早く、ルイスが動いた。彼はエレオノーラの腕を掴んで引き寄せ、片膝を沈めるように体勢を落とすと、そのまま彼女の背と膝裏に腕を回す。次の瞬間、エレオノーラの身体はルイスの腕の中にあった。
所謂お姫様抱っこである。
さきほど踊りの場では、ルイスは喜んで女性側に回っていた。けれど今は彼が迷わず彼女を支えている。
クラリスは呼吸を忘れた。
エレオノーラは背が高い。クラリスよりも高い。なのにルイスは崩れなかった。軽々と、というより、正しく支えていた。腕の力だけではない。足の位置、腰の落とし方、相手を怖がらせない角度。すべてが落ち着いていた。
あの時と同じだった。雨の回廊でクラリスを支えた時と同じ手つき。背の高い女を前にしても、少しも迷わない。支える場所を知っている。力を入れる場所を知っている。相手に恥をかかせない距離を知っている。
「申し訳ありません、ルイス様」
エレオノーラは驚きながらも取り乱してはいなかった。
「貴女に怪我がなければ、それで」
ルイスは短く答えた。
「下ろしてくださって大丈夫です。少し滑っただけですから」
「ヒールが壊れているようだ。馬車までお送りします」
エレオノーラは少し目を見開き、それから困ったように、けれど嬉しそうに笑い、ルイスの首にそっと甘えるように腕を回す。
ルイスは一瞬だけ目を伏せ、けれどすぐに彼女を抱え直した。
「本当に、それだけですか?」
エレオノーラが首に腕を回したまま静かに尋ねる。
ルイスは一瞬だけ黙った。
「……貴女はどこにいても目立ちます」
「ええ。昔からそうですね。私はいつも目立つようで」
「貴女は素敵だから、悪しき虫に気に入られるかもしれない」
エレオノーラは少しだけ目を丸くした。それからルイスの肩に指先を添えたまま、柔らかく微笑んだ。
「では、しっかりと守ってくださいませ。私の騎士様」
「無論です」
そのやり取りはクラリスの胸をまっすぐ貫いた。
背が高いから目立つ。
その事実をクラリスはずっと呪いのように思っていた。
けれどルイスは、それを人の目を引く魅力として見ていた。
クラリスは、ようやくわかった。
彼が自分に怯まなかった理由。
可愛いと言った声に、嘘のぎこちなさがなかった理由。
転びかけた身体を、あんなにも自然に支えられた理由。
全部、エレオノーラのために身に付いたものだった。
ルイスは婚約者を抱えたまま石段を一段ずつ降りた。周囲の人々が道を空ける。誰も笑わなかった。
背の高い令嬢が、男に抱き上げられている。
それはクラリスがずっと夢見ていた光景のはずだった。男の背が令嬢よりも小さいことを除けば、だが。
背が高い女には叶わないと思っていた光景。しかし今、それは目の前で自然に成立していた。
しかもその腕の中にいるのは自分ではない。
自分の背丈を嫌っていない令嬢。
背の高さを欠点ではなく、誇るべき特徴として身につけている令嬢。
自分と正反対の女。
クラリスは、その場に立ち尽くした。頭の中で、長年握りしめていた言い訳が音を立てて崩れていく。
高身長だから愛されない。
高身長だから可愛がられない。
高身長だから姫のようには扱われない。
違った。少なくとも、今この瞬間、その理屈は完全に壊れていた。
身長のせいではなかった。
自分が見ていなかった。
最初から無価値だと決めてかかり、選り好みしていたのはクラリス自身だ。
ルイスがエレオノーラを馬車の前でそっと下ろす。彼は彼女の裾が車輪にかからないよう手で押さえ、外套の端を整えた。
エレオノーラは礼を言い、彼の腕に手を添えた。
二人は並んで馬車に乗り込む。扉が閉まる直前、エレオノーラが自分の足元を見て、小さく息を吐いた。
「もっと頑丈な靴を作って貰わないと。ダンスに耐えられないとは思いませんでした」
「僕としては貴女の可愛いところが見られたので、役得でしたが」
ルイスの言葉にエレオノーラが意地悪そうに笑む。
「では、いつもは可愛くないと?」
「そんなことないよ。貴女はいつだって可愛くて素敵だ」
二人は短く見つめ合い、そこで馬車の扉が閉められた。
クラリスは、その一言で息が詰まった。
同じ言葉だった。
自分が鼻で笑い、社交辞令だと決めつけ、受け取る価値もないと思っていた言葉。
ルイスは背の高い女を可愛いと思っていた。本気で思っていたのだ。
見下ろされることも、並んだ時の背丈の差も、抱き上げた時の重みも、何ひとつ女らしさを損なうものとして見ていなかった。彼は最初から、本心で言っていたのだ。
馬車が動き出す。雨雲の残した雫によって、まるで宝石のように輝く石畳をゆっくりと進む。それはさながら物語に出てくるお姫様と王子様の場面のように見えた。
クラリスの胸の奥で、何かが遅れて砕けた。
好きだったのかもしれない。いや、好きになれたのかもしれない。
けれどその可能性は、今、自分ではない誰かの隣で静かに完成していた。
クラリスは庭園を見つめる。満開に咲く薔薇が夕日を浴びてきらきらと輝いていた。
薔薇の花は水の雫を受けても折れていない。ただ重みを抱えたまま、まっすぐ咲いていた。
それを美しいと思えたのは、この日が初めてだった。
最後までお読み下さりありがとうございました。
誤字脱字報告、大変助かります。
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