ようこそ恋愛至上主義の教室へ   作:GC

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夏の終わり

八月中旬。

 

容赦なく照りつける太陽が、アスファルトの表面を歪ませている。

オレは冷房の効いた大型複合商業施設の一角に立ち、目の前で展開されている非効率な光景を静かに観察していた。

 

夏休み期間を利用してこの施設で行われている、地域の大規模な催し物。

その会場の案内係として、白銀御行がアルバイトに励んでいる。

 

彼にとって、長期休暇は自己の研鑽と労働による資金調達に充てるべき期間だ。

ここまでは何の問題もない。単なる一学生の日常風景だ。

問題は、通路を挟んだ反対側にあるカフェのテラス席に陣取る、一人の少女の存在だった。

 

大きなサングラスと、つばの広い帽子。

変装のつもりだろうが、周囲の客層から完全に浮いている。

 

四宮かぐやだ。

 

彼女は手元のティーカップに口をつけるふりをしながら、数分おきに白銀の方へと視線を送っている。

 

目的は明白だ。

偶然を装って白銀と接触し、会話の糸口を掴もうとしている。

だが、彼女の行動には根本的な欠陥が存在した。

 

「四宮。その位置からでは、彼から死角になる」

 

オレが背後から声をかけると、四宮の肩が大きく跳ねた。

彼女は慌てて振り向き、サングラスの奥で目を丸くする。

 

「あ、綾小路くん……?どうして、あなたがここに」

「備品の買い出しだ。それより、白銀と接触したいなら場所を変えるべきだ」

 

オレは四宮の動揺を無視し、客観的な事実のみを提示する。

四宮は図星を突かれたことで一瞬唇を噛んだが、すぐに副会長としての冷徹な仮面を被り直そうとした。

 

「勘違いしないでいただきたいわ。私はただ、休憩がてらお茶を飲んでいただけです。会長がここで働いているなんて、今の今まで知りませんでした」

 

典型的な自己防衛だ。

自らの好意を認めることは、彼女の脳内ルールにおいて敗北を意味する。

だが、その非合理なプライドこそが、現在の膠着状態を生み出している最大の要因だ。

 

「そうか。なら、白銀が三十分後に向かうであろう従業員用の休憩スペースの入り口付近に、偶然通りかかるのはやめておくべきだな」

 

「……え?」

 

「この施設の構造上、案内係が休憩に入るためのルートは一つしかない。彼のシフト表と現在の時刻から逆算すれば、次に彼が動くタイミングは容易に予測できる。だが、無関係のお前がその付近に立ち入れば、不自然さが生じる」

 

四宮が息を呑む音が聞こえた。

彼女の視線が、オレの顔と白銀の姿を往復する。

自らの稚拙な計画を完全に解体されたことへの焦りと、オレが提示した精度の高い情報に対する強い関心。

人間は、自らの利益に直結する情報を提示された時、警戒心よりも欲求を優先する傾向がある。

 

「……もし、仮に。仮に私が会長に挨拶をしておきたいと考えた場合、どう動くのが最も自然なのかしら」

 

四宮が、僅かに声のトーンを下げて尋ねてきた。

これで彼女は、オレの意図に沿って動かざるを得なくなる。

 

「簡単だ。オレが白銀に声をかける。生徒会の秋の予定に関する確認という名目でな。その際、お前を偶然見かけたと言ってこの場所へ連れてくる。お前はただ、ここで優雅にお茶を飲んでいればいい」

 

四宮の瞳孔が僅かに拡大した。

自らの手を汚すことなく、最も理想的な状況が手に入る。

彼女にとって、この提案を拒否する理由は存在しない。

 

「……あなたには、何の得があるの」

 

「生徒会の円滑な運営のためだ。夏休み明けに業務が滞るのは避けたい」

 

オレの用意した理由に、四宮は完全に納得したわけではないだろう。

だが、今はその疑念よりも、白銀との接触という目先の利益が勝る。

彼女が小さく頷いたのを確認し、オレは白銀の元へと歩き出した。

 

数分後。

白銀を伴ってカフェのテラス席に戻ると、四宮は計算された驚きの表情を作ってみせた。

 

「あら、会長。それに綾小路くん。こんなところで奇遇ですね」

 

白銀の歩みが一瞬だけ止まる。

予期せぬ四宮との遭遇に、彼の心拍数が急上昇したことが顔の強張りから推測できた。

 

「し、四宮。お前もこのショッピングモールに来ていたのか」

 

「ええ。少し息抜きに」

 

互いに相手の出方を窺う、非効率な探り合いが始まる。

このままではまた元の木阿弥だ。

オレは会話の主導権を握り、強制的に状況を進展させる。

 

「白銀会長。先ほど話した生徒会の書類の件ですが、四宮にも確認してもらった方が確実です。休憩時間はまだありますね」

 

「あ、ああ。あと二十分ほどは平気だ」

 

「なら、二人で少しすり合わせをしておいてください。オレは買い出しの続きがあります」

 

オレが退路を断つと、二人は周囲の喧騒の中で完全に孤立した。

白銀は戸惑いながらも四宮の対面の席に座り、四宮は僅かに頬を上気させながら彼を迎え入れる。

 

役割は果たした。

オレは踵を返し、その場から離脱する。

だが、完全にその場を立ち去るわけではない。

少し離れた書店の影から、二人の様子を継続して観測する。

 

四宮の態度は、学校で見せるような刺々しい牽制ではなく、純粋に白銀との時間を楽しもうとするものに変化している。

白銀もまた、四宮を前にして無意識のうちに背筋を伸ばし、頼りがいのある姿を演じようとしている。

互いが互いを必要とし、その存在に強く依存している。

この状態が深まれば深まるほど、四宮かぐやは四宮家という冷徹な組織の論理から乖離していく。

ホワイトルームに対抗するための剣として、彼女を完成させるための研磨作業は順調に進んでいる。

 

 

「……性格が悪いですね。他人の心を弄ぶのが、そんなに楽しいですか」

 

 

背後から、感情の起伏を消し去った冷たい声が響いた。

振り返るまでもない。

早坂愛だ。

 

「護衛ご苦労。だが、お前も止める気はなかったはずだ」

 

オレが視線を二人に向けたまま答えると、早坂はオレの隣に並び立ち、同じようにテラス席を見つめた。

彼女の表情には、明確な葛藤の色が浮かんでいる。

 

「私の仕事は、かぐや様をお守りすることです。あなたの不審な動きを本家に報告すれば、あなたは即座に排除される」

 

「だが、お前は報告していない。先日の花火大会でも、今日もだ」

 

オレの指摘に、早坂は薄い唇を強く噛み締めた。

 

「お前は理解しているはずだ。四宮かぐやにとって、あの檻の中に留まることが本当の幸福ではないということを」

 

早坂の指先が微かに震える。

彼女は四宮家への忠誠という入力設定と、四宮かぐやへの個人的な愛情という変数の間で激しい矛盾を起こしている。

 

「白銀御行という存在は、四宮をあの家から切り離すための最も強固な楔になる。お前が本当に彼女を守りたいなら、オレの行動を黙認し、むしろ協力するべきだ」

 

「……私に、また裏切れと?」

 

「合理的な選択の話をしているだけだ」

 

オレは淡々と事実を告げる。

人間は、自らの行動を正当化するための理由を常に探し求めている。

早坂愛にとって、オレの提示する論理は、彼女が背信行為に及ぶための免罪符となる。

 

「……あなたは、本当に恐ろしい人です。人間を、ただの計算式の一部としか見ていない」

 

早坂の言葉には、強い恐怖と、それに相反する僅かな安堵が含まれていた。

自分一人では背負いきれなかった重圧を、オレという異質で強大な存在に転嫁できるからだ。

 

「どう評価しようと自由だ。だが、結果は保証する」

 

オレは必要なデータの収集を終え、再び静かに歩き出した。

夏休みはまだ中盤だ。

二学期に向けて、彼らを後戻りできない状態にまで追い込むための布石は、確実に打ち終わっている。

一切の感情を交えず、ただ最短距離で目的を達成するために。

 

 

 

 

八月下旬。

新学期の足音が確実に近づいている時期だ。

オレは駅前のファミレスの片隅に座り、手元のスマートフォンに視線を落としていた。

 

画面には、生徒会書記の藤原から送られてきた個別のメッセージが表示されている。

内容は二学期に控える文化祭の初期予算案に関するものだ。

同時に、会計の石上からも別のメッセージアプリを通じて個別の連絡が来ている。

 

生徒会の役員同士で連絡を取り合う際、通常であれば全員が参加するグループアプリを利用するのが最も効率的だ。

だが、現在の秀知院学園生徒会において、その当たり前の連絡網は存在していない。

 

理由は、四宮かぐやが使用している携帯電話にある。

彼女は最新のスマートフォンを持たず、長年同じ古い折りたたみ式携帯電話――ガラケーを使用し続けているのだ。

 

それは四宮家の情報統制などという大層な理由ではない。

四宮かぐやは幼少期から、他者と関わりを持たない閉じた世界で生きてきた。

彼女にとって、外部との連絡手段は最低限の通話とメール機能があれば十分だった。

 

そして何より、五歳の頃から持たされていたその古い端末には、彼女が初めて外の世界と関わり、生徒会のメンバーたちと過ごした数少ない思い出の写真が保存されている。

他者との繋がりを持たなかったが故に、彼女はその端末に対して歪なほどの愛着を抱き、手放すことを頑なに拒んでいるのだ。

 

その結果、彼女はスマートフォンのグループアプリに参加できず、生徒会の連絡は必然的にメールや電話といった個別対応となっていた。

白銀御行は、彼女を疎外しないため、あえてその非効率な個別連絡を文句一つ言わずに引き受けている。

 

彼の持つ根本的な誠実さが、四宮の古い愛着を守る形になっていた。

だが、全校生徒を巻き込む文化祭の準備において、その非効率は確実に白銀の首を絞めることになる。

 

オレは個別に届いた藤原と石上のメッセージに短い返信を済ませた後、白銀宛てに連絡を入れた。

 

「少し時間が欲しい。文化祭の予算案について、個別連絡では情報の共有に限界が生じている」

 

送信からわずか数十秒後、白銀から返信が来た。

 

「分かった。確かに個別のやり取りでは齟齬が出る。今日の午後、学校の生徒会室を開ける。そこで直接すり合わせよう」

 

予想通りの反応だ。

デジタルな同時接続ができない以上、情報伝達の遅延を解決する手段は、物理的に一箇所に集まるしかない。

 

オレは短い肯定の返信を送り、席を立った。

 

数時間後、夏の熱気が籠る学校の生徒会室に足を踏み入れると、すでに白銀の姿があった。

彼は長机に数枚のプリントを広げ、難しい顔で数値を睨んでいる。

 

「綾小路、悪いな。夏休みの終わりにわざわざ来させてしまって」

 

「構わない。生徒会の業務に遅れが出れば、オレの学校生活にも影響する」

 

客観的な事実だけを告げ、オレは白銀の対面の席に座った。

藤原は家族旅行中であり、石上にはあえて「夕方からの合流で問題ない」と個別に伝達してある。

現在、この空間にいるのはオレと白銀の二人だけだ。

 

「四宮にも連絡は入れた。間もなく来るはずだ」

 

白銀がプリントから目を離さずに言った。

 

「失礼します」

 

静かなノックの音とともに、生徒会室の扉が開いた。

私服姿の四宮かぐやが、僅かに息を弾ませて立っていた。

冷房の効いた室内に入り、彼女は小さく安堵の吐息を漏らす。

手には、長年使い込まれた黒いガラケーが握られていた。

 

「四宮、急に呼び出して悪かったな」

 

「いえ。生徒会の急務とあらば、副会長として駆けつけるのは当然の義務ですから」

 

四宮は表情を崩さず、白銀の隣の席へと静かに腰を下ろした。

 

「それで、情報の共有に限界が生じているというのは、具体的にどの部分ですか」

 

四宮が本題に入るよう促す。

オレは手元のノートを開き、淡々と状況を説明した。

 

「藤原先輩が提案している各クラスの出し物に対する予算の割り振りだ。彼女は次々と新しい案を出すが、それを個別のメールで伝達しているため、誰がどの最新情報を持っているのか把握しきれなくなっている」

 

オレの指摘に、白銀が気まずそうに視線を逸らした。

四宮もまた、自身の古い携帯電話に目を落とす。

 

「……申し訳ありません。私が、皆さんのような最新の連絡手段を持っていないばかりに、お手間を取らせてしまって」

 

四宮の声が微かに沈んだ。

彼女は、自分が大切にしている古い携帯への愛着が、生徒会全体の足を引っ張っていることを自覚している。

思い出の詰まったこの端末を手放したくないという個人的な我が儘。

その無力感と罪悪感が、彼女の表情に僅かな影を落としていた。

 

「気にするな、四宮」

 

白銀が、明確な強い意思を持って言葉を遮った。

 

「お前がその携帯を大切にしているのは知っている。道具ってのは、使い捨てるより長く大事に使う方がずっといい。俺たちが少し連絡の手間を工夫すれば済む話だ。お前が気負う必要はない」

 

白銀のその言葉には、一切の打算が含まれていなかった。

純粋に、四宮かぐやという人間の持つ不器用な愛着を肯定し、守ろうとする誠実さだ。

 

四宮の肩が微かに跳ねた。

彼女は驚いたように白銀の横顔を見つめる。

自分の非効率な我が儘を責めるどころか、その背景にある「物を大切にする」という思いにまで寄り添ってくれた白銀の言葉。

人間は、論理的な説得よりも、自己の弱さや執着を無条件に肯定されることに強く惹かれる傾向がある。

 

四宮かぐやの内部で、白銀に対する感情の出力が急激に跳ね上がったことが、彼女の視線の揺れから容易に読み取れた。

 

「……会長」

 

四宮の声が、普段の冷徹な響きを失い、微かに震えていた。

彼女は無意識のうちに、自身のガラケーを握る手に力を込める。

 

「よし、現状の数値を整理するぞ。綾小路、藤原から送られてきた最新の案を俺の端末に転送してくれ」

 

白銀が自身のスマートフォンを机の真ん中に置いた。

オレは指定されたデータを送信する。

白銀の小さな画面に、複雑な表が表示された。

 

「四宮、ここを見てくれ」

 

白銀が画面を指差す。

だが、その小さな文字を読み取るためには、四宮は白銀に顔を近づけるしかない。

 

「……はい」

 

四宮が椅子を僅かにずらし、白銀の肩に触れるか触れないかの位置まで身を乗り出した。

 

彼女の古い端末では即座に共有できない最新データ。

その不便さが結果として、この物理的な密着を生み出している。

二人の呼吸のペースが同調し、周囲の空間から完全に切り離されていく。

互いの体温を感じ取れる距離で、彼らは無意味な数字の羅列に視線を落としながら、実際には隣にいる相手の存在だけを強烈に認識している。

このまま彼らを二人きりにすることが、最も効果的な手順だ。

 

「少し席を外す。自動販売機で飲み物を買ってくるが、二人は何がいい」

 

オレが唐突に立ち上がると、二人は弾かれたように体を離した。

 

「あ、ああ……俺はブラックコーヒーで頼む」

 

「わ、私は冷たいお茶をお願いします」

 

二人の声は上ずり、視線は宙を泳いでいる。

オレは彼らの要望を記憶し、生徒会室を後にした。

 

 

扉を閉め、誰もいない静かな廊下を歩く。

このまま十分ほど時間を潰せば、彼らの内面における相互依存はさらに強固なものになるだろう。

四宮の持つ非効率な愛着と、それを肯定する白銀の誠実さ。

この二つの要素が噛み合っている限り、四宮かぐやは四宮家の論理から確実に遠ざかっていく。

 

廊下の角を曲がった先、階段の踊り場に金髪の少女が壁に背を預けて立っていた。

早坂愛だ。

 

彼女は腕を組み、オレの姿を認めても表情一つ変えない。

 

「ずいぶんと気の利く後輩ですね」

 

早坂の声には温度がない。

だが、彼女がオレの行動を妨害しないという事実は変わっていない。

 

「効率を優先しただけだ。あの空間にオレがいる理由はもうない」

 

「効率……ですか。かぐや様があの古い携帯に固執しているせいで、生徒会の業務は非効率の極みになっているはずですが」

 

早坂の指摘は鋭い。

彼女は主人があの端末に抱く愛着の深さを誰よりも知っている人間だ。

 

「非効率だからこそ、価値がある」

 

オレが歩みを止めずに答えると、早坂の視線が僅かに動いた。

 

「白銀は、四宮の執着を否定せず、自らの労力を削ってでも彼女に合わせた。その誠実さは、四宮にとって何よりも強力な肯定になる。彼女の孤独を埋めるのは、最新の通信機器ではなく、白銀のその不器用な歩み寄りだ」

 

早坂が息を呑む音が聞こえた。

彼女はオレの意図を完全に理解した。

 

オレが四宮の不便さをあえて指摘し、白銀に彼女を庇わせることで、四宮かぐやの精神的な依存を深めようとしていることを。

 

「……あなたは、本当に人間の心を計算式のように扱う」

 

「結果的に、お前の望む状況に近づいているはずだ。違うか」

 

オレが問い返すと、早坂は深く目を伏せ、沈黙した。

否定の言葉は出てこない。

 

「かぐや様は、あなたの思い通りに動くような単純な方ではありません。いずれ必ず、あなたの計算を超える時が来る」

 

「そうなることを期待している」

 

オレは足を止めることなく、階段を降りていった。

夏休みは間もなく終わる。

二学期という新たな枠組みの中で、彼らの感情をさらに極限まで追い込んでいく。

一切の感情を交えず、ただ平穏という自己の利益を守り抜くために。

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