トレーナーのみなさん、こんにちは。
キタサンの笑顔を見たロードの反応は……。
「いつまでそんな顔をしているつもり?」
瞬間。キタサンから、笑顔が消えた。
先ほどまで淀みなく動いていた彼女の口が、ぴたりと止まる。
「……そんな顔って。」
しばらくして。
キタサンは、小さく呟いた。
「あたし、いつも通りだよ?」
その声には、先ほどまでの明るさがなかった。
それでも。
まだ笑おうとする。
けれど、一度消えた笑顔は戻らない。
「いつも通り?」
ロードは、問い返した。
「そうだよ!」
キタサンは答える。
「負けちゃったけど、レースは最後まで走り切ったし!」
「後悔なんてないよ! だから――」
「それ、本当に思ってる?」
「……っ。」
言葉が止まった。
ロードの視線から、逃げることができない。
キタサンは俯いた。
自分でも分かっていた。
さっきから口にしている言葉が、本心ではないことくらい。
次がある。もっと強くなればいい。
そんなことは分かっている。
分かっているからこそ。
今、苦しくないわけがなかった。
「……俺は。」
ロードが、静かに口を開く。
「俺は、そんなつもりで約束したわけじゃない。」
キタサンの肩が、小さく揺れた。
「笑顔でまた会おうって、あの時確かにそう言った。」
「でも。」
ロードは、一度言葉を切る。
「この状況で俺のために笑ってほしいなんて、微塵も思ってない。」
「俺のために無理をして、自分の気持ちを押し殺して、みんなを心配させるなら――」
ロードは、キタサンを真っ直ぐに見た。
「俺はもう、キタサンのレースは観れない。」
「……っ!」
キタサンが、息を呑む。
周囲の誰も口を挟まなかった。
ロードの言葉は、決して優しくはない。
けれど。
そこに嘘がないことだけは、誰にでも分かった。
その言葉の後、キタサンは少しも動かなかった。
反論もない。俯くこともない。
ただ、虚ろな瞳でロードを見つめていた。
「………。」
ロードは、そんなキタサンの様子をしばらく見ていた。
そして。
「沖野トレーナー。」
不意に名前を呼ばれ、沖野が顔を上げる。
「少しだけ、二人にしてもらえませんか。」
その言葉に、一瞬だけ沈黙が落ちた。
「……分かった。」
沖野は静かに頷く。
今キタサンをどうにかできるのは、この場にロードしかいないと考えていたからだ。
「じゃあ……終わったら連絡してくれ。」
「はい。」
ロードが頷く。
沖野はもう一度だけキタサンを見る。
何かを言いたそうにして。
しかし、最後には何も言わなかった。
「……お前ら、行くぞ。」
沖野の言葉を合図に、スピカのメンバーたちもゆっくりと歩き出す。
テイオーとマックイーンは何度も振り返った。
スペとスズカも不安そうに足を止めかける。
ウオッカとスカーレットは固く拳を握る。
ゴールドシップも少しだけ顔を俯かせていた。
けれど。
誰も、キタサンには声をかけなかった。
今の彼女に必要なのが自分たちではないことを、誰もが分かっていたから。
やがて。
その場には、ロードとキタサンだけが残された。
「……座ろう。」
ロードは、自分が座っていたベンチへ視線を向けた。
キタサンは何も答えない。
ただ言われるがままに歩き、ゆっくりとベンチへ腰を下ろした。
ロードもまた、ベンチに向かう。
けれど。
彼が向かったのは、キタサンの隣ではなかった。
反対側にあるもう一つのベンチ。
キタサンと背中を合わせるかのように、静かに腰を下ろす。
互いの顔は見えない。
ただ、相手がそこにいることしか分からない。
「……隣、座らないんだね。」
しばらくして、キタサンが呟いた。
その声は、普段のキタサンからは考えられないほど、小さなものだった。
「そのほうが、キタサンにとってもいいだろ。」
「……どうして?」
「………。」
ロードは答えなかった。
否、答えるつもりがなかった。
もしこの後キタサンが泣いたとしても、その涙を自分に見せないようにするため。
そんなことを言えば、きっと彼女はまた泣くことすら我慢してしまう。
だから。
「俺の顔を見ながら話すより、こっちの方が話しやすいかなって。」
それだけを答えた。
「……そう、かも。」
キタサンは、それ以上聞かなかった。
二人の間に静かな時間が流れる。
けれど。
背中越しに感じる温もりだけが。
互いがすぐそこにいることを、確かに伝えていた。
「……一つ。」
しばらくの沈黙の後、ロードが口を開いた。
「俺の話を聞いてほしい。」
キタサンは答えない。
ただ、背中越しに小さく頷いた。
「キタサンがさっきまで頑張って笑っていたのは、俺と交わした『笑顔でまた会おう』って約束を守りたかったんだよね。」
キタサンの反応は分からない。
それでも、構わず続けた。
「でもそれは誰も喜ばないし、喜べない。みんな心配して当然だよ。」
キタサンは、何も言わない。
ただ。
ロードの言葉を、静かに聞いていた。
「もちろん、作り笑顔が悪いって言いたいわけじゃない。特に、さっきのウィニングライブには必要なものだと思う。」
「たとえバックダンサーでも、ファンに感謝を伝えるために笑顔を見せなきゃいけない。」
「でも。」
そこで、一度言葉を切る。
「全部が終わった後まで、ずっと笑っている必要はないんじゃないかな。」
「悔しい時は悔しがればいいし、泣きたいなら泣いてもいい。」
「じゃないと、見ているみんなも辛いし……何より、キタサン自身が辛くなる。」
「……うん。」
キタサンは、小さな返事をする。
ロードは星空を見上げながら、話を続けた。
「俺は――キタサンに笑顔でいてほしい。」
背後で、僅かに空気が動いた。
「でもそれは、約束を守るために笑えってことじゃない。」
「悔しがって、泣いて、自分の感情を整理して――」
「そこで初めて、俺たちは笑顔で再会できるんだと思う。」
静寂。
背中合わせの二人の間に、静かな時間が流れる。
「だからさ、キタサン。」
「今、無理に笑う必要なんてないよ。」
「約束を守るのは、今日じゃなくてもいい。明日でも、明後日でも、一週間後でもいい。」
「キタサンが、本当に笑えるようになった時でいい。」
ロードは、ベンチの背もたれに身を預けた。
「その時にまた、笑って会おう。」
しばらく。
二人の間に、静かな時間が流れていた。
ロードは何も言わない。
キタサンもまた、何も言わなかった。
ただ。
「……っ。」
背後で、小さく息を呑む音がした。
「…………。」
何かを堪えるような。
必死に、息を整えようとしているような音。
「……ひぐっ。」
微かな嗚咽。
ロードは、ゆっくりと目を閉じた。
「……っ、う……。」
声を出さないようにしているのが、分かる。
唇を噛んで。
何度も息を飲み込んで。
それでも。
押し殺していた感情は、もう止められなかった。
「……悔しい。」
消え入りそうな声だった。
「……悔しいっ……!」
言葉と一緒に。
小さな嗚咽が漏れる。
「ロードくんに……みんなに……」
震える声。
「あたしがっ……」
最後まで言えない。
何度も、息を吸う。
「……あたしが勝つところ、見せたかったのに……!」
その直後。
再び、嗚咽を押し殺す音が聞こえた。
「……っ、うぅ……!」
ロードは、振り返らなかった。
目を閉じたまま。
ただ、その声を聞いていた。
泣きたければ、泣けばいい。
今のキタサンに必要なのは、ずっと胸の奥に閉じ込めていた感情を、誰にも隠さず外へ出すことだった。
だから。
ロードは、何も言わなかった。
・・・・・
どれほどの時間が経ったのか。
背後から聞こえていた啜り泣く声は、いつの間にか止んでいた。
「……もう、大丈夫か?」
ロードが静かに尋ねる。
「……うん。」
少しだけ掠れた声が返ってくる。
ロードは頷いた。
「じゃあ、沖野トレーナーに連絡するよ。」
そう言ってスマホを取り出そうとした時。
「……待って。」
ロードの動きが止まる。
キタサンが、小さく続けた。
「……隣、座って。」
一瞬。
ロードは何も言わなかった。
それから。
「分かった。」
短く答え、立ち上がる。
そして、これまで背中合わせに座っていたベンチを離れ、キタサンの隣へ腰を下ろした。
二人の間には、僅かな距離があった。
「……あのさ。」
不意に。
キタサンが口を開いた。
「……あたしのこと。」
そこで、言葉が止まる。
キタサンは膝の上で、両手を握った。
何かを言い出すことを、まだ少しだけ迷っているようだった。
それでも、勇気を振り絞る。
「あたしのこと……まだ、信じてくれてる?」
ロードは一瞬だけ目を丸くした。
けれど。
「当たり前じゃん。」
すぐに、いつもの調子で言った。
「え……。」
「キタサンがどんな結果を残そうと、俺はキタサンを信じ続けるよ。」
「で、でも……あたし、14着だったんだよ。」
キタサンは、俯きながら呟いた。
声に、先ほどまでの明るさはない。
自分でも分かっている。
今日の自分は、何もできなかった。
先頭を走っていたのに。
最後の直線で、次々と抜かれていった。
ドゥラメンテには、大きく突き放された。
その結果が、14着。
「その……こんなダメダメなあたしを信じる理由なんて、どこにも――」
言葉が、そこで途切れる。
キタサンは膝の上で、ぎゅっと拳を握った。
ロードは、そんな彼女を見つめていた。
そして。
「理由なら、あるよ。」
あまりにも迷いのない声だった。
キタサンが顔を上げる。
ロードは、少しも躊躇うことなく彼女を見ていた。
「俺は、キタサンのファンだから。」
「……ファン?」
思いもよらなかった言葉に。
キタサンは、ぽかんと口を開けた。
「そう、ファン。」
「ファン……!?」
思わず声が大きくなる。
そんなキタサンを見て、ロードは少しだけ笑った。
「あの日……河川敷で握手を交わした日から、キタサンのファンだよ。」
あの日。
何もできなかった自分。
やりたいことすら見つけられず。
ただ、立ち止まっていた自分の前に。
彼女は現れた。
『まずは、やってみよう!』
できるかどうかなんて、関係ない。
結果がどうなるかも分からない。
それでも。
まずは一歩を踏み出す。
そんな彼女の姿勢に。
ロードは、確かに心を動かされた。
「キタサンは、俺の背中を押してくれた。」
「できるかどうか分からなくても、とりあえずやってみる。」
「俺には、自分からその一歩を踏み出せなかったから。」
ロードは、空を見上げた。
「……キタサンにとって俺は、“ただの友達” かもしれないけど――」
ロードは、キタサンを見る。
「俺にとってのキタサンは、“憧れ” なんだ。」
その瞳には。
迷いも。
曇りもなかった。
ただ真っ直ぐに、目の前の憧れを見つめている。
「………。」
キタサンの胸が、僅かに高鳴る。
ファンだと言ってくれた。
憧れだと言ってくれた。
それは、どうしようもなく嬉しかった。
けれど同時に、少しだけ引っかかるものがあった。
「た……ただの友達なんかじゃ、ないよ。」
キタサンは胸の前で拳を握る。
ドク、ドク、と心臓が全身を叩いている。
怖い。
この気持ちを伝えるのが、堪らなく怖い。
けれど、ここから誤魔化す方法は、何も浮かばなかった。
頭が真っ白になりながらも、キタサンはロードを見た。
「あたしはっ……ロードくんのことが……!」
「お、元気そーじゃん。」
「「……っ!?」」
二人の動きが止まる。
聞こえた声の方へ視線を向けると。
そこには。
「よっ。」
いつものように笑うゴールドシップの姿があった。
その後ろには、沖野やスピカのメンバーたちもいる。
「連絡はまだしてないですよね?」
ロードが首を傾げる。
「連絡は確かに来てないな。」
沖野は後頭部に手を当てる。
「ただ……やっぱり心配になってな。」
そう言いながら沖野はキタサンを見た。
その姿は、先ほどまでとは違う。
少し赤くなった目。
けれど、確かにそこには生気が戻っていた。
「まぁ。」
沖野は、僅かに笑う。
「それは杞憂だったみたいだ。」
「キタちゃーん!!」
「!?」
勢いよく飛び出したテイオーが、キタサンに抱きつく。突然の出来事に、キタサンは目を丸くした?
「ボクたち、本当に心配したんだよ!?」
「テイオーさん……。」
その後ろから。
スペやスズカ、マックイーンたちも続く。
「ほ、本当に大丈夫ですか?」
「無理していない?」
「何かあったら、ちゃんと言ってくださいね。」
次々と声をかけられ。
キタサンは、一瞬だけ言葉に詰まった。
そして。
「……ごめんなさい。」
深く、頭を下げる。
「みんなが心配してくれてるのに。」
「大丈夫なふりをして。」
「平気な顔をしてれば、みんなも安心すると思ってました。」
拳を握る。
「でも。」
ゆっくりと顔を上げる。
「全然、違いました。」
「余計に心配させちゃって。」
「……本当に、ごめんなさい。」
一瞬の沈黙。
すると。
「もう!」
テイオーが頬を膨らませる。
「謝るくらいなら、最初から頼ってよ!」
「そうですよ!」
スペも、困ったように笑った。
「私たち、キタさんの先輩なんですから。」
「一人で抱え込む必要なんてないのよ。」
スズカが優しく言う。
「ええ。辛い時は、仲間に頼ることも大切です。」
「……はい。」
マックイーンの言葉に、キタサンは小さく頷いた。
その瞳はまだ少し赤い。
けれど。
もう、先ほどまでのような虚ろな色はなかった。
「……次からは。」
キタサンは、皆を見渡す。
「ちゃんと、言います。」
「悔しい時は悔しいって。」
「辛い時は辛いって。」
そして。
「だから……これからも、よろしくお願いします。」
一瞬。
皆が顔を見合わせる。
そして。
「もちろんです!」
最初に答えたのは、スペだった。
「当たり前だよ!」
「ええ。」
「当然ですわ。」
次々に返ってくる声。
それを聞きながら。
キタサンは、ゆっくりと笑った。
今度は。
何かを隠すためではない。
本当に。
心からの笑顔だった。
・・・・・
キタサンを囲む仲間たちの輪から、ロードは静かに離れた。
彼女の周りには、すでにテイオーやスペたちが集まっている。
泣いてしまったことを謝るキタサン。そんな彼女に、仲間たちは次々と言葉をかけていた。
もう、自分があそこにいる必要はない。
そう判断したロードは、少し離れた場所でその様子を見守っていた沖野、ウオッカ、スカーレットの元へ歩いていく。
「……どうやって、キタサンを立ち直らせたんだ?」
ロードが近づいてくると、沖野は真っ先にそう尋ねた。
その声には、純粋な疑問が含まれていた。
ウィニングライブの後、自分たちは何度もキタサンに声をかけた。
無理に笑わなくていい。
悔しいなら、悔しがっていい。
けれど。
何を言っても、キタサンは笑顔を崩さなかった。明るい声で『大丈夫だ』『平気だ』と、そう言い続けていた。
そんなキタサンが、今は仲間たちの前で、泣いたことを素直に謝っている。
そして。
もう一度、ちゃんと笑えている。
「別に、立ち直らせたわけじゃないですよ。」
ロードは、少しだけ首を横に振った。
「話をしただけです。」
「話?」
「はい。」
ロードは一度だけ、キタサンの方を見る。
仲間たちに囲まれている彼女の姿。
先ほどまでとは違う。
そこにあるのは、誰かに見せるために作った笑顔ではなかった。
「……レース前に、キタサンと約束をしたんです。」
そして。
ロードは、これまでの経緯を話した。
ダービーの前。レースを終えた後、笑顔でまた会おうと交わした約束。
キタサンが、その言葉を守ろうとしていたこと。
負けても、悔しくても。
自分の前では笑っていなければならないと、そう思い込んでいたこと。
そして。
ロードが、その約束の意味を変えたこと。
悔しいなら悔しがればいい。
泣きたいなら泣いていい。
感情を押し殺したまま笑うのではなく、ちゃんと自分の気持ちと向き合った後で、また笑って会えればいいのだと。
ロードが話し終えるまで。
沖野たちは、誰も口を挟まなかった。
「……なるほどな。」
やがて。
沖野が、小さく息を吐く。
その視線の先には、キタサンの姿があった。
赤く腫れた目元。
時折、照れくさそうに笑う姿。
けれど。
先ほどまでの不自然な明るさは、もうどこにもなかった。
「俺たちも、似たようなことは言ったんだけどな。」
沖野は、どこか自嘲するように笑った。
「もっと悔しがっていい。」
「無理に笑わなくていい。」
「辛いなら、辛いって言っていい。」
どれも。
間違った言葉ではなかったと思う。
少なくとも。
キタサンを心配していたからこそ、出てきた言葉だった。
「でも、届かなかった。」
沖野の言葉に。
ロードは何も言わなかった。
「あいつはずっと笑ってた。」
「俺たちが心配すればするほど、大丈夫だって言って。」
沖野の声がわずかに小さくなる。その声色には、悔しさが滲んでいた。
「……多分、あの時のキタサンには。」
スカーレットが、小さく口を開く。
「『泣いていい』って言われても、泣けなかったのよ。」
ロードたちが、彼女へ視線を向ける。
「 “泣かないようにしてた” んじゃなくて、“泣いたらダメだ” って、自分で決めてしまってた。」
「だから、あたしたちが何を言っても、キタサンは自分の決めたことを変えなかった。」
その言葉に。
沖野は小さく頷いた。
まさに、その通りだった。
キタサンは、頑固だった。
笑うと決めた。
大丈夫だと決めた。
約束を守ると決めた。
だから。
周囲がどれだけ心配しても、彼女は自分で決めたその形を崩そうとはしなかった。
「……ルベウスの『レースを観れない』の一言が、一番効いたのかもな。」
不意に、ウオッカが呟いた。
ロードの視線が、そちらへ向く。
ウオッカは思い返す。
ロードの言葉を聞いた瞬間。
キタサンの笑顔が、消えた。
誰が何を言っても崩れなかったものが。
あの一言で、初めて止まった。
「俺たちは、とにかくキタサンを傷つけないようにしてた。」
「これ以上辛い思いをさせないようにって、言葉を選んでた。」
「……確かに、言われてみればそうかもな。」
沖野はウオッカの話に賛同し、ロードへと視線を向けた。
そして、少しだけ苦笑するように話し始める。
「『自分のために無理をするなら、レースは観れない』……。」
「あの言葉は、キタサンにとって相当効いたはずだ。」
「……そうでしょうね。」
ロードは否定しなかった。
あの言葉を聞いた時。
キタサンの表情は、完全に止まっていた。
自分が何を言われたのか。
理解するまで時間がかかったように。
ただ虚ろな目で、その場に立ち尽くしていた。
「言い方は、かなり悪かったと思います。」
「でも……」
ロードは、一度言葉を止める。
何かを思い出すように。
少しだけ視線を伏せた。
「……似たようなことをする人がいたんです。」
「似たようなこと?」
スカーレットが首を傾げる。
「無理をして、本当の気持ちを隠して。なのに、俺の前で笑っている。」
ロードは、ゆっくりと続けた。
「それは、いったい……?」
沖野が尋ねる。
一瞬だけ。
静寂が落ちた。
そして。
「ーー俺の両親です。」
その答えに。
三人は、僅かに目を見開いた。
ロードは、遠くを見るような目をしていた。
「俺が小さい頃、自分のことを色々と調べていた時期がありました。」
自分の脚。
自分の身体。
そして。
自分が、他のウマ娘たちとは違うということ。
「両親も、悩んでいたんだと思います。」
ロードの将来について。
この先。
どんな道を選ぶのか。
選ばせることができるのか。
「でも、俺の前では。」
ロードは、小さく笑う。
「一度も、そんな顔を見せませんでした。」
「いつも通り笑って、『大丈夫だ』って言って。」
「『何も心配することなんてない』って。」
両親は。
きっと、ロードを心配させたくなかった。
自分たちが不安な顔を見せれば。
子供であるロードも、不安になる。
だから。
笑っていたのだろう。
「……でも。」
ロードの声が、少しだけ低くなる。
「ずっと見ていたら、少しずつ分かってくるんですよね。」
誰も口を挟まない。
「二人が俺の前では笑っていること。」
「でも、その裏で悩んでいることくらい。」
「何となく、分かってしまう。」
ロードは、静かに息を吐いた。
「もちろん、両親を責めるつもりはありません。俺のためにそうしていたんでしょうから。」
「それでも。」
そこで。
ロードは言葉を止めた。
「……嫌だったんです。」
真っ直ぐに。
そう言った。
「自分が原因で、誰かが、本当の気持ちを隠すのが。」
三人の表情が、僅かに変わる。
「俺のために笑っている。」
「心配させないために、平気なふりをする。」
「……そんなことをさせている自分が、嫌だった。」
そして。
ロードの視線は、自然とキタサンへ向かう。
仲間たちと話している。
先ほどまで泣いていたとは思えないほど。
今は、穏やかな表情をしていた。
「キタサンは、俺との約束を守るために笑っていた。」
「……言い方を変えれば、俺が原因だったんです。」
その言葉に。
沖野たちは、何も言えなかった。
「だから。」
ロードは、続ける。
「あのままのキタサンを、見ていられなかった。」
「俺のために。俺との約束のために。」
「自分の気持ちを押し殺しているなら。」
少しだけ。
困ったように笑う。
「……それを止めるのは、俺の役目だと思ったんです。」
静かな風が吹き抜ける。
しばらく。
誰も言葉を発さなかった。
やがて。
「……ルベウスがああ言った理由も、よく分かった。」
沖野が、ゆっくりと口を開く。
「キタサンを突き放したかったわけじゃない。」
「むしろ、逆だったんだな。」
「はい。」
ロードは頷く。
そして、沖野は小さく笑った。
「結果的には。」
一度、言葉を探すように間を置く。
「俺たちができなかったことを、お前はやってのけたってわけだ。」
ロードは首を横に振った。
「俺は何かをしたわけじゃないですよ。」
「キタサンが、自分で感情を出しただけです。」
「それでもだよ。」
沖野の声は、はっきりとしていた。
「きっかけを作ったのは、お前だ。」
ロードは、少しだけ目を丸くする。
沖野は、キタサンの方を見た。
「……ありがとうな、ルベウス。キタサンを助けてくれて。」
一瞬。
ロードは何も答えなかった。
すると、隣で聞いていたウオッカが静かに口を開く。
「……悔しいけど。」
拳を、軽く握る。
「俺たちじゃ、何もできなかった。」
「そうね。」
スカーレットも、キタサンへ視線を向ける。
「無理してることは分かってた。」
「笑顔が作り物だってことも。」
「……でも。」
スカーレットは少しだけ言葉を止めた。
「あたしたちは、その笑顔を崩すことができなかった。」
崩す。
それは少し、乱暴な言葉かもしれない。
けれど。
あの時のキタサンには、きっと必要なことだった。
自分自身で作り上げた、絶対に崩してはいけない笑顔。
その殻を、誰かが取り払う必要があった。
「ルベウス君がいなかったら。」
スカーレットは、真っ直ぐにロードを見る。
「キタサンは、あのまま笑ってたと思う。」
「無理をして、一人で抱え込んで、そしてーーもっと辛くなってた。」
そう言って、スカーレットは微笑んだ。
「だから、ルベウス君。」
「キタサンを助けてくれて、ありがとう。」
「……俺からも。」
ウオッカも続けた。
「ありがとな、ルベウス。」
沖野、スカーレット、ウオッカの三人から向けられた言葉。
ロードは、少しだけ困ったように笑った。
「……どういたしまして。」
そう答えながら。
ロードは再び、キタサンの方を見る。
仲間たちに囲まれ。
何かを言われて。
困ったように笑っている。
けれど。
もう。
その笑顔に無理はなかった。
ロードは、静かに息を吐く。
そして。
ほんの少しだけ。
安心したように目を細めた。
・・・・・
一行がトレセン学園に帰って来た頃には、時刻は21時を回っていた。
正門でロードたちが雑談していると、そこに一台の車が現れる。それは、沖野の車だった。
それは、ロードを家に送り届けるため。いくら雰囲気が大人びていると言っても、彼は中学2年生。まだまだ子供である。
ロードは、その助手席のドアへ手をかけた。
「では、失礼します。」
「またな、ルベウス!」
「気をつけてねー!」
スピカのメンバーたちが、それぞれロードへ声をかける。
ロードも軽く手を上げ、それに応えた。
そして。
車へ乗り込もうとした、その時。
「……ロードくん!」
大きな声で名を呼ばれる。
振り返ると、キタサンが立っていた。
何かを言いたそうに。けれど、なかなか言い出せないように。
両手を胸の前で握りながら、もじもじとしている。
「……あ、あのね。」
キタサンは、ゆっくりと顔を上げる。
「もう、自分の気持ちを隠したりしないって約束するから……。」
その声には、ほんの少しだけ不安が混じっていた。
やはり。
あの言葉は、キタサンにとって大きな衝撃だったのだろう。
それでも。
もう一度。
自分から、一歩を踏み出す。
「次のレースも……観に来てほしい。」
一瞬。
ロードは、キタサンを見つめた。
そして。
ふっと、微笑む。
「もちろん。絶対に観に行くよ。」
その言葉を聞いた瞬間。
キタサンの表情が、パッと明るくなった。
「ほ、本当!?」
「うん。」
嬉しそうに笑うキタサン。
その姿を見て。
ロードは、少しだけ目を細めた。
「……やっぱり。」
「?」
「キタサンは、その顔が一番似合ってる。」
「………。 ッ‼︎!⁇」
一瞬。
キタサンの動きが止まる。
そして。
みるみるうちに、顔が赤くなっていく。
「かっ、揶揄わないでよ!」
「揶揄ってなんかないよ。」
「っ……!」
どうして、こうも平気な顔をしてこんなことが言えるのか、キタサンには分からなかった。
その一方で。
キタサンの尻尾が、勢いよく左右に振れている。嬉しいという気持ちだけは、隠しきれなかった。
「それじゃ。」
ロードは、再び車のドアへ手をかける。
「おやすみ、キタサン。」
キタサンは、赤くなった顔のまま。
それでも。
しっかりとロードを見る。
「うんっ!」
そして。
「おやすみ、ロードくん!」
その声を聞きながら。
ロードは、沖野の車へ乗り込んだ。
ゆっくりと走り出す車。
テールランプがどんどん遠ざかっていく。
その赤い光が見えなくなるまで、キタサンは手を振り続けた。
・・・・・
夜の風が、頬を優しく撫でる。
長かった一日が、ようやく終わろうとしていた。
日本ダービー。
結果は、14着。
決して忘れられるような一日ではない。
けれど。
今のキタサンの表情には、レース直後にあった苦しさはもうなかった。
もちろん。
悔しさが消えたわけではない。
14着という結果を、受け入れられたわけでもない。
それでも。
自分の気持ちから目を逸らさず、ちゃんと向き合うことができた。
「……そういえば。」
不意に。
テイオーが、隣に立つキタサンへ視線を向けた。
「最後、ルベウス君と何の話してたの?」
「え?」
テイオーは、先ほどの光景を思い出すように首を傾げる。
「ほら、『揶揄わないで!』って叫んでたじゃん。」
その言葉に。
キタサンの身体が、ぴたりと固まった。
「な、何でもないです!」
勢いよく答え、プイ、と顔を背ける。
「その割には、尻尾の動きがすごかったよな。」
追い打ちをかけるように、ゴールドシップが言った。
「えっ!」
思わず自分の尻尾に触れるキタサン。
しかし、すでに尻尾は落ち着きを取り戻している。
「教えてよ〜。」
テイオーが、にやにやと笑いながら顔を近づける。
「教えてくれよ〜。」
ゴルシも同じような表情を浮かべる。
二人のあまりにも分かりやすい態度に、キタサンはますます居心地が悪くなっていった。
周囲を見れば。
スペは興味深そうにこちらを見ており、スズカも僅かに口元を緩めていた。
ウオッカとスカーレットも、何だかんだ気になっているのか会話を聞いている。
「………。」
逃げ場は、どこにもなかった。
「……その。」
キタサンは、小さな声で呟く。
「……言われたんです。」
「ん?」
「何を?」
全員の視線が集まる。
キタサンはさらに顔を赤くしながら。
「……『その笑顔の方が、似合ってる』って……。」
一瞬。
静寂が訪れた。
そして。
「ヒュ〜!」
「愛されてんなぁ、キタサン!」
「もう付き合っちゃえば?」
「なっ……!?」
一斉に飛んできた言葉に、キタサンの顔が爆発したように赤くなる。
「ち、違いますから!」
「何が?」
「そ、それは……!」
反論しようとする。
しかし。
何が違うのかと聞かれると、上手く言葉が出てこなかった。
ロードが自分を大切に思ってくれていることは、間違いない。
自分も。
ロードのことを――。
「……っ。」
そこまで考えた瞬間。
キタサンは慌てて頭を振った。
「みなさん。」
その時。
マックイーンが、『パン!』と手を叩いて言った。
「キタさんは疲れているんですから、あまりからかわないであげてください。」
「「「はーい。」」」
素直な返事。
もっとも。
全員が本当に反省しているかどうかは、怪しかった。
「キタさんも。」
マックイーンは、今度はキタサンへ視線を向ける。
「夜更かしはダメですわよ。明日は学校です。」
「……はい。」
キタサンは素直に頷いた。
スピカの中で。
どうしてもマックイーンには頭が上がらない。
「じゃあ、そろそろ帰りましょうか。」
沖野がいない今、自然とスペがそう言う。
一行は、寮へ続く道へと歩き始めた。
トレセン学園の夜は、すっかり静かになっている。
昼間には多くのウマ娘たちで賑わっている校内も、この時間になると人影は少ない。
街灯の明かりだけが、等間隔に並ぶ道を照らしていた。
聞こえるのは。
夜風に揺れる木々の音と、スピカのメンバーたちが交わす、他愛もない会話だけ。
先ほどまでの重苦しい空気が嘘だったかのように。
みんなは、いつものように笑っていた。
その中を歩きながら。
キタサンは、ふと隣を見た。
そこには。
先ほどから何事もなかったかのように歩いている、ゴールドシップの姿がある。
「……ゴールドシップさん。」
「ん?」
キタサンの声に、ゴールドシップが振り返った。
キタサンは、少しだけ迷う。
けれど。
「ありがとうございました。」
「……は?」
ゴルシの足が止まった。
「急にどしたよ。」
「いえ。」
キタサンは、前を向く。
そして。
ほんの少しだけ笑った。
「特に、理由はありません。」
「いや、あるだろ。」
「ありません。」
「嘘つけ!」
怪訝そうな顔をするゴルシ。
けれど。
キタサンは、それ以上何も答えなかった。
それは、東京レース場での出来事。
あの時、あと少しで。
自分は、ロードに気持ちを伝えていた。
『あたしはっ……ロードくんのことが……!』
その続きを。
あと一言。
口にしてしまっていたら。
きっと、もう後戻りはできなかった。
だけど。
(……あの時じゃ、ダメだった。)
気持ちを伝えることが悪いわけではない。
むしろ、いつかは伝えたいと思っている。
けれど。
あの時のロードは。
まだ、自分の気持ちを受け止められる状態ではなかった。
……いや、受け止められなかったのではない。
きっと。
いつものように笑って。
困ったような顔をして。
上手く躱してしまっただろう。
そんな未来が、簡単に想像できた。
(……だから。)
あの時突然現れて、会話を止めてくれたゴールドシップには、深く感謝している。
結果的に。
あの乱入があったからこそ、自分は、大切な気持ちを間違ったタイミングで伝えずに済んだ。
けれど。
その理由を本人に伝えるつもりはなかった。
「おい、キタサン。」
「はい?」
「ルベウスがいなくなった途端、情緒不安定になるのなんなん?」
「なッ!?」
キタサンは思わず大きな声を上げる。
その声に。
少し前を歩いていた仲間たちが振り返った。
「どうしたの?」
「いやっ……!ゴールドシップさんが変なこと言ってるだけです!」
「おいコラ責任転嫁すんな!」
「ゴールドシップさん?」
「アタシへの信用度はゼロかよマックちゃん!?」
ゴルシの抗議を聞きながら。
キタサンは、思わず笑った。
作った笑顔ではない。
誰かとの約束を守るためのものでもない。
ただ。
楽しいから。
自然と、笑っていた。
夜のトレセン学園に。
キタサンの笑い声が、小さく響いた。
つづく
少し寄り道をしましたが、またストーリーを進めていきます。
少し話は変わりますが、ドゥラメンテの故障のニュースを見たキタサンが無意識に喜んでしまうシーン、すごく好きです。その後のネイチャも好き。
では、また次回。