トレーナーのみなさん、こんにちは。
ついに、転入試験当日です。
朝。
窓から差し込む陽射しが、部屋の中を明るく照らしていた。
蝉の声が、遠くから聞こえてくる。
「……よし。」
制服に着替え終えたロードは鏡の前で襟元を整え、シャツの皺を軽く伸ばし、ネクタイを締め直した。
今日は、トレセン学園の転入試験一日目。
ロードはベッドに腰を下ろすと、スマートフォンを手に取った。画面には、昨夜から届いていたメッセージが並んでいる。
それは、クラスメイトたちからの応援だった。
『頑張れよ、ロード!』
『頭の良さ見せつけてやれ!』
『応援してるよ!』
『ロード君なら絶対合格できる!』
「……相変わらずだな。」
グループチャットに集まったメッセージを見て、ロードは小さく笑った。
そして、個人チャットで届いたメッセージを読む。
まずは、ライツ博士からのメッセージ。
『私は何一つ心配していない。』
いきなり、そんなことが書いてあった。
『これまでのトレーニング、勉強を乗り越えてきたことは、紛れもない事実だ。』
『君がやるべきことは、ただ一つ。』
『君自身の力を、君自身のために使ってきてくれ。』
「……博士らしいな。」
多くの人から期待され、応援されている。
けれど――自分の分まで背負えとは、誰も言っていない。
「……ありがとうございます。」
そう呟いて、メッセージを閉じる。
次に目に入ったのは、キタサンからのメッセージだった。
『ロード君、いよいよだね!』
『たぶん、私の方がドキドキしてる!』
『終わったら、またお話しようね!』
メッセージからも伝わる元気の良さ。
その下には、一枚の写真が添付されていた。
海を背景に、スクール水着姿のキタサンとダイヤが並んだ写真。キタサンはいつもの笑顔を浮かべ、ダイヤは少し恥ずかしそうにしていた。
画面をスクロールすると、さらにメッセージが。
『夏合宿、頑張ってます!』
思わず、笑みがこぼれた。
自分だけじゃない。
キタサンたちも頑張っている。
それぞれが、それぞれの場所で前に進んでいる。
ロードは簡単に返事を送ると、スマートフォンをポケットにしまった。
ベッドから立ち上がり、机の上に置かれていた日程表へと目を向ける。
そこには、三日間にわたる試験の日程が記されている。
一日目――筆記試験
国語/理科/英語/競走規則
二日目――筆記試験
数学/社会/競走史
三日目――面接・実技試験
勉強については、これまで母と共に何度も準備してきた。だから、試験そのものに対する不安は、それほど大きくない。
国語も、理科も、英語も。数学や社会だって、これまで勉強してきた範囲なら問題ない。
競走規則や競走史についても、母の熱心な授業のおかげで、マスターしたと言っても過言ではない。
けれど。
ロードの視線は、日程表の一番下で止まった。
――三日目。
面接・実技試験。
「………。」
実技。
それだけは、筆記・面接試験とは意味が違う。
本番さながらのレース。
誰か一人だけが一着になり、他のウマ娘は敗れる。
無論、勝ったからといって、それだけで選ばれるわけではない。あくまでも、合格者を選出するための試験の一つだ。
だが恐らく、ロードだけが知らない。
全員が一着を目指して走る、ターフの空気を。
これまで何度も経験してきた模擬レースとは、きっと違う。
もっと張り詰めていて。
もっと――本気なのだろう。
「………。」
ロードは、もう一度だけ日程表を見る。
三日目。
そこに書かれた二文字――「実技」が、今までとは違う重みを持って見えた。
けれど。
「……まだ、三日目じゃない。」
今日やるべきことは、今日の試験だ。
ロードは日程表から目を離すと、鞄を手に取った。
「焦る必要はない。」
そう自分に言い聞かせるように呟いて、階段を降りていく。
リビングに姿を見せると、母が座って待っていた。
「気分はどう?」
「たぶん、落ち着いてる。」
そう答えると、母はロードの顔をじっと見つめた。
「……ふふ。」
「なに?」
「いつもよりポーカーフェイスね。」
「……そう?」
「そうよ。」
母は楽しそうに笑う。
ロードはそんな母を見て、少しだけ目を細めた。
「母さんこそ、いつもよりテンション高いね。」
「あら、お母さんだって緊張するわよ?」
母はそう言って立ち上がり、ロードの下へ歩み寄る。
そして、ぎゅっと優しく抱きしめた。
「大丈夫。これまでロードが頑張ってきたことは、お母さんがよく知ってる。」
「うん。」
ロードも母を抱きしめる。
やがてロードは母から離れ、床に置いた鞄を手に取る。
「準備は?」
「大丈夫。受験票も筆記用具も入ってる。」
「忘れ物はない?」
「ないよ。」
「本当に?」
「本当に。」
念のため、ロードは鞄をもう一度確認する。
受験票。
筆記用具。
試験前に確認するノート。
飲み物。
必要なものは、全部揃っている。
「よし。」
ロードが玄関へ向かう。
母も後ろからついてくる。
「じゃあ、行きますかぁ。」
「ええ。」
靴を履き、扉を開けた、次の瞬間――
夏の熱気と蝉の声が、一気に押し寄せてきた。
・・・・・
トレセン学園。
転入試験の受付を終えたウマ娘たちは、指定された教室へと集まっていた。
教室の中は、静かだった。
誰も、何も話していない。
机に向かって参考書を開いている者。
目を閉じて、黙々と復習している者。
窓の外を眺めながら、深呼吸を繰り返している者。
それぞれが、集合完了までの時間を過ごしていた。
当然だ。
この試験は、簡単なものではない。
狭き門をくぐるために、ここまで来た。
隣に座っている相手が、同じ夢を持つ仲間になるのか。
それとも、自分の前に立ちはだかる相手になるのか。
そんなことを考えている余裕すらない。
少しでも多く。
少しでも確実に。
自分の力を出すために。
教室には、張り詰めた空気が漂っていた。
――その時。
ガラッ。
教室の扉が開いた。
一人のウマ娘が入ってくる。
……いや。
「……?」
何人かの視線が、その人物へ向いた。
スカートではない。
制服のスラックスを履いている。
加えて顔立ちもどこか中性的で、髪型もすっきりしている。
(スラックスって、珍しい。)
(ボーイッシュな子だ……。)
(そういう子もいるよね。)
それ以上、気にする者はいなかった。
転入試験を受けに来ている以上、他人の服装を気にしている場合ではない。
入ってきた少年――ルベウスロードも、何も言わずに指定された席へ向かっていく。
鞄を置き、席に座る。
教室には、再び静寂が戻った。
――その時だった。
教室の前方にいた一人のウマ娘が、ロードの姿を見て目を見開いた。
見間違いだ。
真っ先に、そう思った。
そんなはずがない。
けれど、何度見ても同じだった。
あの顔は、間違いなく――
「……ルベウスロード……。」
彼女は立ち上がった。
気づけば、ロードの席へと早足で歩み寄っていた。
「……なんで、アンタがここにいるの?」
「……?」
ロードが顔を上げる。
目の前に立つ少女を見つめる。
「………。」
少しの沈黙。
ロードは彼女の顔を見た。
そして――
「ごめん、誰?」
「…………は?」
少女の表情が歪む。
「……本気で言ってるの?」
「うん。」
ロードは首を傾げた。
「本当に、分からない。」
「……っ。」
少女は拳を握る。
忘れられていたことが、気に入らないわけではない。
そんなことは、どうでもいい。
問題は――
「なんで……なんでアンタがここにいるのよ!」
声が、教室に響く。
静かだった教室の空気が、一瞬で変わった。
「ここはトレセン学園よ!アンタが来るような場所じゃない!」
「………。」
ロードは何も言わない。
少女はさらに一歩、詰め寄った。
「アンタはウマ娘じゃ――」
「ちょっと。」
その言葉を遮る声がした。
低くはない。
けれど、優しさの奥に明らかな怒気が滲んでいる。
「君、ここに何しに来たの?」
「……っ。」
少女が振り返る。
そこにいたのは、一人の受験生だった。
彼女だけではない。
周りにいたウマ娘たちも、いつの間にかロードの目の前に立つウマ娘へ視線を向けている。
誰も口を挟まない。
ただ、静かに見ている。
その視線に晒され、少女は言葉を失った。
「………。」
やがて気まずそうに、しかし納得がいかないかのように顔を逸らす。
「……私は、認めないから。」
そう呟くと、自分の席へ戻っていった。
教室に、再び静寂が戻る。
ロードは、助けてくれた少女へ顔を向けた。
「……ありがとう。」
「気にしないで。私も騒がれて迷惑だったし。」
「……それより、キミ……。」
「?」
少女は、少しだけロードに顔を近づけた。
けれど――
「……ううん、なんでもない。」
「そう?」
「じゃ、お互い頑張ろ。」
「うん。」
少女はそう言って、自分の席へ戻っていった。
ロードも前を向く。
試験開始時刻まで、あと少し。
教室には再び、静かな緊張が戻っていた。
・・・・・
それからしばらくして。教室の扉が開き、二人の試験官が入ってくる。
その瞬間、教室に漂っていた空気がさらに引き締まった。
試験官は教卓の前に立つと、教室全体を見渡した。
「それでは、これより筆記試験を始めます。」
誰も、声を上げない。
「机の上に出していいのは、受験票と筆記用具のみ。それ以外のものは鞄に仕舞い、椅子の下に置いてください。」
「また、スマートフォンなどの機器は必ず電源をオフにしてください。仮に音が鳴った場合、その所有者は失格となります。」
「もちろん、カンニングは発覚次第、即失格です。怪しまれるような行動は控えてください。」
“失格” という単語が教室に響き、空気が僅かに重くなる。
「では、問題用紙と答案用紙を配布します。問題用紙はこちらの指示があるまで開かないでください。」
受験生たちは黙って頷き、それぞれが呼吸を整え始めた。
試験官が問題用紙と解答用紙をそれぞれ丁寧に渡していく。その時間は短いようで、長く感じられた。
「それでは――」
試験官が時計を見る。
「始め。」
紙をめくる音が、一斉に響いた。
最初の科目は、国語。
漢字に始まり、現代文・古文・漢文の読解。そして最後に簡単な記述問題。
解答時間が終わると、素早く答案が回収される。
10分の軽い休憩を挟み、すぐに次の試験に移る。
続く二時間目は、理科。
植物や動物の仕組み、大地の仕組み、水溶液の性質、光や音の性質。
ロードは問題を一つずつ読み、淡々と答えを埋めていった。
三時間目は、英語。
リスニングテストから始まり、文章の穴埋め問題、長文の読み取り問題。そして最後に簡単な記述。
こちらも、これまでの勉強で身につけてきた内容だった。
そして――最後の科目。競走規則。
斜行や押圧など、レースにおける基本的な規則。
言うなれば、競技者ならば知っていて当然ともいえる内容が出題された。
それでも、ロードは気を抜かなかった。
一問ずつ、確実に答えていく。
やがて、最後の答案が回収された。
「本日の試験は、これで終了です。お疲れ様でした。」
受験生たちが、一斉に息を吐いた。
やがて試験官は退室。『試験』という縛りから解放された教室は、どこか和やかだった。
ロードは筆記用具や受験票を鞄にしまい、席を立つ。
教室を出ようとした、その時だった。
「あっ、キミ!」
背後から、誰かの声がした。
しかし、ロードは『自分ではないだろう』と歩みを止めない。
すると――
「スラックスのキミだよ!」
ロードは足を止める。
目的の相手が自分だと確信するのに、そう時間はかからなかった。
「急に呼び止めてゴメンね。少し、話したいことがあってさ。」
振り返ったロードの前に、少女が立つ。
その子は、先ほど自分を助けてくれたウマ娘だった。
「その……勘違いだったら本当に申し訳ないんだけど。」
少女は少しだけ言葉を濁した。
「キミってもしかして……おと――」
刹那、ロードの手が彼女の口元に伸びた。
全てを言い終えるより早く、手のひらでそっと塞ぐ。
突然のことに、少女は目を丸くした。
そして――
「……せめて、他の受験生がいなくなってからにしてくれ。」
「!?」
少女の目が大きく見開かれる。
その声は、明らかに女子のものではなかった。
ロードが手を離すと少女は、何かを言おうとしては止めるを繰り返す。思うように言葉が出てこなかった。
「え……えっと……。」
自分が何を言おうとしたのか。
そして、ロードの言葉と行動が何を意味しているのか。
少女はようやく理解した。
「……嘘じゃなくて?」
「そうするメリットがない。」
「そ、そっか……。」
ロードは迷うことなくそう答えた。
目の前の少女は、この数時間で自分が男だと見抜いた。ならば、ここで嘘をつく意味などない。
「………。」
少女は黙ったまま、ロードを見る。
ロードも何も言わない。
ただ、彼女の反応を待っている。
拒絶されるのか、それとも受け入れてくれるのか。
ロードにとっては、それだけが気になっていた。
やがて少女は、ゆっくりと口を開く。
「あのさ……手、見せてもらってもいい?」
彼女は、少し遠慮がちに尋ねた。
ロードは一瞬だけ彼女の顔を見る。
「……手?」
「うん。ちょっと気になって。」
「……? いいけど。」
唐突すぎるお願いに、ロードは困惑しながらも手を差し出した。
少女は、おそるおそるその手を取る。
「わ……。」
彼女はロードの手を裏返したり、指先を眺めたりしながら、興味深そうに観察する。
「へぇ……私の手と全然違う。」
「………。」
ロードはされるがままになっていた。
やがて、少女の指がロードの手の甲を軽く撫でる。これには流石のロードも、気まずさを感じていた。
「……なぁ、俺たち初対面だよな?」
「あっ。」
少女が固まる。
「ご、ごめん!」
そして、慌てて手を離す。
その反応はまるで―― “自分を男として見ていない” ようにも見えた。
(いや……そんなわけない。)
思わず、ロードは自問自答する。
彼女は間違いなく、自分を男として認識している。なのに――自分が男だということを、まるで気にしていない。
「あー……あはは。」
少女は苦笑する。
「ごめんね。一人でテンション上がっちゃって。」
「それは別にいいけど……。」
ロードは自分の手を引っ込めた。
(……分からない。)
彼女が自分をどのように認識しているのかが、全く掴めない。いきなり『手を触らせてほしい』などと言われたのは、初めてのことだった。
ただ確かなのはーー
(……拒絶はされてない。)
(……分からない。)
彼女が自分をどのように認識しているのかが、全く掴めない。いきなり『手を触らせてほしい』などと言われたのは、初めてのことだった。
ただ確かなのは――
(……拒絶はされてない。)
自分が男だと知っても、険しい顔はしていない。
それだけは、揺るがない事実だった。
「そういえば、自己紹介してなかったね。」
少女は咳払いをして、こちらに向き直る。
「私の名前はミラ――」
そこまで言って、彼女は突然言葉を止めた。
「……?」
ロードが首を傾げる。
少女の視線は、ロードの後ろへ向けられていた。
何かと思って振り返る。
すると――
教室の入り口。
その扉の影から、ひょっこりと顔を出しているウマ娘がいた。
こちらをじっと見つめている。
しかも、頬はぷくっと膨らんでいた。
「……イーリス、何してるの?」
「ふーんだ。」
隠れていたウマ娘ことイーリスは、ぷい、と顔を背けた。
「………。」
ロードは二人を交互に見る。
「……知り合い?」
「うん、友達。」
少女は少し困ったように笑った。
「待たせちゃってごめんね。」
そっぽを向いたままのイーリスに、少女が苦笑する。どうやら、ロードと話しているうちに時間を忘れてしまったらしい。
「とりあえず、購買行こうか。」
少女はそう言って、イーリスの隣へ並ぶ。
「ほら、キミもおいで!」
笑顔で自分を呼ぶ少女。
ロードは少しだけ戸惑いながらも、二人の後に続いて教室を出た。
・・・・・
廊下を歩きながら、簡単に自己紹介を交わした。
「私の名前はミラージュシーズ。ミラージュでもミラっちでも、好きなように呼んでね。」
先ほどまで話していた少女――ミラージュシーズ。
穏やかな雰囲気を持ったウマ娘で、話し方にもどこか余裕がある。
その性格はお姉さん気質。周囲の様子をよく見ていて、誰かが困っていれば自然と声をかける。複数人でいる時には、いつの間にか全体をまとめる側に回っていることも多い。
そんなミラージュシーズには、もう一つ特徴がある。
それは――好奇心がとても強いこと。
気になったことは、そのままにしておけない。『分からない』と思った瞬間から、頭の中はそのことでいっぱいになる。
どうしてそうなるのか。
何が原因なのか。
他にはどんな可能性があるのか。
答えを知るまで気になってしまい、時にはそれだけで眠れなくなることすらある。
ようやく答えを見つけたと思ったら、
「じゃあ、これはどうして?」
と、新しい疑問が生まれる。
一つの疑問を解決したはずなのに、気がつけば次の疑問を追いかけている。
そんな少女だった。
そして、その隣を歩くのが――
「私はシーイーリス!イーリスって呼んでね!」
先ほど教室の入り口から顔を出していたウマ娘、シーイーリス。ミラージュとは幼馴染で、二人は同い年だ。
けれど、性格はかなり違う。
イーリスは、とにかく元気。思ったことはすぐ口にするし、興味を持ったものがあれば一直線。じっとしているよりも、誰かと一緒に動き回っている方が好きなタイプだ。
そして、何よりも目立つのがその末っ子気質だった。
ミラージュのことを「ミラねぇ」と呼び、まるで本当の姉のように慕っている。
幼馴染で、同い年。それでもイーリスにとって、ミラージュシーズは昔から頼れる存在だった。
何かあればミラージュに相談する。分からないことがあればミラージュに聞く。そして、少しでも構ってもらえないと――
「ふーんだ。」
と、先ほどのようにすぐに拗ねる。
二人の性格は正反対に近い。それでも、幼い頃からずっと一緒にいるからなのか、不思議と息が合っていた。
「それじゃあ、キミの番だね。」
ミラージュが、ロードへ顔を向ける。
「俺?」
「うん。」
促され、ロードは二人を見る。
「ルベウスロード。ミラージュはもう知ってると思うけど、俺は男で――」
「ルベウス……?」
ミラージュが、その名前に反応した。
「ってことは、お母さんは……!」
「ルベウスライトだけど……。」
「す、すごい!」
ミラージュの目が輝く。
「……やっぱり、みんな知ってるんだね。」
「そんなの当たり前だよ!」
「『知らない人がいるの?』ってくらいに有名だよ!」
二人にいきなり距離を詰められ、ロードは思わず仰け反る。
ロード自身、トレセン学園でトレーニングを始めてから、母の戦績や実際のレース映像を閲覧するなどしていた。
だが、どれだけ調べようとも、ロードにとっては母親であることに変わりはない。
偉大なウマ娘だったのだと理解していても、母としてのイメージを払拭することはできなかった。
そして同時に、ロードは疑問符を浮かべていた。
さっき自分は、男だということを伝えた。すでに話したミラージュとは違い、イーリスはそれを今知ったはずだ。
なのに――
(……そっちは気にならないのか?)
ロードとしては、そちらの方がよほど気になる。
しかし彼女の興味は、完全に「ルベウス」という名前へ向いていた。
・・・・・
昼時ということもあり、購買には数名の学園関係者や受験生がいた。弁当、パン、おにぎりなど、各々好きなものを手に取っていく。
「たくさんあるね!」
イーリスが目を輝かせる。ウマ娘の学校としてトップに君臨する学園なだけあって、種類も量も豊富にある。
「どれも美味しそうだね。」
イーリスの隣に並び、微笑むミラージュ。側から見れば、親子のやり取りにしか見えない。
その一方で。
ロードは全体を見渡した後、迷うことなく唐揚げ弁当を手に取った。
「ふふ、お腹空いてるの?」
「試験で頭を使ったからね。」
お茶と一緒にレジに出し、手早く会計を済ませる。
三人が購買を出ると、ミラージュが辺りを見回した。
「さて……どこで食べようか。」
ほとんどの受験生はすでに帰宅したのだろうが、購買前にあるテーブル席は、既に他の受験生が座っている。
普段は解放されている食堂も、夏合宿のためか入り口の扉は閉まっていた。
「どこか座れるところ探すしかないね。」
「それもそうだね。」
三人は当てもなく歩き始める。
その時だった。
「おや、ロード君じゃないか。」
不意に呼ばれ、ロードは足を止める。
振り返ると、そこにはーー
「ライツ博士。」
いつものように車椅子に座ったライツが、こちらへ向かってきていた。
彼女も昼食を買いに来たのだろうか。その手には財布があった。
「その様子を見るに、今日の試験は終わったんだね。」
「はい。」
「試験はどうだった?」
「心配は全くしてません。」
「それは良いことだ。」
ロードの返答に、ライツは静かに微笑んだ。
「ところで博士。俺たち、食べる場所を探していて。」
「ん?ああ。いつもの研究室を使えばいいさ。」
さも当然のようにライツは言う。
ロード自身もこれまで使わせてもらっていた部屋だが、今回は少しだけ躊躇いを見せた。
「……自分で言っておいてなんですけど、いいんですかね?受験生は基本的に学園の施設には入れないらしいですし。」
トレセン学園に招待され、トレーニングをさせてもらっていたとは言え、今回の自分は受験生という立場。あまり自由な行動はできない。
それでもライツはいつも通りだった。
「あの部屋は普通の教室を借りているだけだ。加えて、秋川理事長には『好きに使ってくれ』と言われている。」
「あまり勝手なことは言えないが、これくらいは許してくれるだろう。」
そう言ってライツは部屋の鍵をロードに渡した。
「……じゃあ、後ろの二人も良いですか?」
「もちろん。」
「やった!」
イーリスは小さく飛び跳ねる。
ロードは軽く頭を下げて、二人を連れて歩き出した。
「お腹空いた〜!」
そう言ってレジ袋に入ったおにぎりたちを見つめ、ロードのもとへと駆けて行くイーリス。
その一方で、ミラージュの疑問は、さらに深まるばかりだった。
目の前の少年は、トレセン学園の生徒ではない。それなのに、先ほどの女性――ライツ博士とは、まるで以前から知り合いだったかのように自然に会話をしている。
博士の方も、ロードのことを当然のように名前で呼んでいた。そして、研究室を使うことまであっさりと許可され、その鍵までロードに渡された。
(……なんで、普通に話してるの?)
ミラージュにとっては、それが一番の疑問だった。
受験生と学園関係者。本来なら、もっと距離があるはずだ。
それなのに、ロードとライツ博士の間には、そんなものが一切感じられなかった。
まるで、最初からこの学園にいる者同士のようだった。
(ルベウスロード君……。キミは本当に、何者なの……?)
・・・・・
研究室に入ると、三人はソファに腰掛け、それぞれが買ってきた昼食を広げた。
ロードは唐揚げ弁当の蓋を開ける。
「いただきます。」
「いただきまーす!」
「いただきます。」
三人は昼食を食べ始める。
しばらくは、食事の音だけが研究室に響いていた。
やがて――
「……ねえ、ロード君。」
ミラージュが口を開いた。
「ん?」
「一つ聞いてもいい?」
「いいよ。」
ロードは箸を止め、ミラージュへと体を向ける。
彼女は少しだけ躊躇うような様子を見せて、口を開いた。
「キミって、このトレセン学園とどんな繋がりがあるの?」
それは当然疑問に思うだろうと、ロードも理解していた。
ロードは特に隠すこともなく、これまでのことを簡潔に説明した。
やよいから、走る場所を保証されたこと。
トレーニングをする機会をもらったこと。
そして、今回の転入試験を受けることになったこと。
ミラージュは、静かにロードの話に耳を傾けていた。
最後にロードは、こう締めくくる。
「俺はもっと、『自分はウマ娘だ』と胸を張って言えるようになりたいんだ。」
「………。」
その言葉を聞いた瞬間、ミラージュの脳裏に、試験前の出来事が蘇った。
『ここは、アンタが来るようなところじゃない!』
教室で叫んでいた、あのウマ娘。
ロードを見る目。
そして、あの言葉。
「その……試験前に叫んでた子って、ロード君の知り合い?」
「実を言うと、覚えてないんだよな……。」
ロードは少し考えるようにしてから答える。
「でも、俺を知ってるってことは多分、小学校のクラスメイトだったんだと思う。」
「………。」
ミラージュは、それ以上何も言わなかった。ただ、あの一言だけで、なんとなく察していた。
彼は、これまでどんな扱いを受けてきたのだろう。
そんなことを考えながら、ミラージュは黙って昼食を口に運ぶ。
「それじゃあ次は、俺から質問させてくれ。」
ロードの言葉に、ミラージュは顔を上げる。
その隣では、イーリスが夢中になっておにぎりを頬張っていた。
「イーリスも、聞いてくれるかな。」
「んむ。なぁに?」
頬を膨らませたまま、イーリスがロードを見る。
「俺は男だってことは、間違いなく二人に話したよね。」
「うん。」
ミラージュが頷く。
イーリスも、口の中のものを飲み込んでから頷いた。
「………。」
ロードは二人を見つめる。
教室でミラージュに男だと打ち明けた時、彼女は驚いた。だが、その驚きはすぐに好奇心へと変わっているように見えた。イーリスに至っては、驚くことすら無かった。
まるで最初から何も問題などなかったかのように、二人は自分と話している。
それが、ロードにはどうしても分からなかった。
「二人はどうして、何事もなかったかのように俺と話をしてくれるんだ?」
ロードは、静かに問いかける。
「……俺が男だって、気にならないのか?」
研究室が、静かになる。
窓の外から聞こえていた蝉の声だけが、やけに大きく響いていた。
ミラージュとイーリスは、何も言わない。
ただ、目の前の少年を見つめている。
そしてロードもまた、二人の答えを待っていた。
つづく
オリウマ娘の名前について……
ミラージュシーズ
ミラージュは「幻影・幻想」を意味し、シーズは「掴む」という意味。目には見えない、実際には存在しないものを掴む。
「不可能を可能にする」という意味を込めました。
シーイーリス
シーはそのまま「sea(海)」を意味し、イーリスは「虹」という意味。海に虹がかかる可能性は極めて低い。しかし、可能性はゼロでない。すなわち、その事象はいつか必ず起きる。
「可能だと信じ、証明する」という意味を込めました。