葬送のプロファイラー   作:フィンチャー

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5.『共鳴』

 

 

カシャッ。

スライドプロジェクターのリールが回転する重い音が、薄暗い会議室に響いた。

光の束に無数の埃と紫煙が舞っている。スクリーンに大写しになったのは、血まみれで激しく損壊された遺体の現場写真だ。

パイプ椅子にふんぞり返る地元警察のベテラン刑事たちは、眉間に皺を寄せ、タバコの煙を吐き出しながら明らかに退屈そうな視線をこちらに向けていた。

 

 

「動機、手段、機会。ここ百年間における、犯罪捜査の三本柱です」

 

 

俺はホワイトボードの前に立ち、刑事たちを見回して言った。

 

 

「けれど、この一九九一年現在、『動機』の意味は薄れつつある」

 

 

俺は指示棒で、スクリーンの陰惨な写真を指し示した。

 

 

「何が起きたか。なぜそんな風に起きたか。それを探ることで、犯人の輪郭は浮かび上がります」

 

「……」

 

「被害者は殺されていますが、性犯罪でも強盗目的でもない。遺体は死後、執拗に傷つけられている」

 

 

言葉を一度区切り、その異常性を噛み含ませるように刑事たちの顔を窺う。

 

 

「なぜ殺したのか。それだけでは足りないんです。なぜ『そんなふうに』やったのか。つまり、重要なのは犯人の心理です」

 

 

そこで、一番前に座っていた強面の刑事が、面倒そうに口を挟んだ。

 

 

「要するに、いかれてるだけじゃないのか?」

 

「つまり、理由もなく犯罪を犯したと?」

 

「そうだろ。理解不能な異常者の凶行だ」

 

「なるほど。でも、普通に生きてきた人間が、なぜ急にそんな悪事に手を染めるようになるんですか?」

 

 

俺が問い返すと、刑事は苛立ったようにパイプ椅子を軋ませた。

 

 

「キレるんだろ。何かでスイッチが入ったみたいにな」

 

「いいですね。そう、スイッチだ。入るきっかけは何ですか?」

 

「クビになった。フラれた。そんなとこだろうが」

 

「その通りです。失恋や解雇は、分かりやすい引き金だ」

 

 

俺は頷き、ホワイトボードへ歩み寄る。

 

 

「犯人の過去を知れば、何が引き金だったかがわかる。ですが、殺人事件では普通その逆をやります。現場から『何が起きて、なぜそうなったか』を調べ、容疑者を絞り込んでいく」

 

 

黒いマーカーで『理性』と書き殴り、再び彼らを振り返った。

 

 

「問題は、犯人に『理性がない』場合です。何が彼らの行動を決めるのか……」

 

 

「大昔から、多くの文学者や哲学者、宗教家が繰り返し投げかけてきた疑問だね」

 

 

不意に、部屋の隅でプロジェクターを操作していたフリーレン先輩が口を開いた。

十代の少女にしか見えない彼女の涼やかな声に、刑事たちの怪訝な視線が一斉に集まる。先輩はそんなことお構いなしに、淡々と続けた。

 

「シェイクスピア、ドストエフスキー、フロイト。偉人たちも人間の行動の不確かさに魅了されてきた」

 

彼女はプロジェクターから手を離し、暗がりの中から刑事たちを静かに見下ろした。

 

「だから、明確な動機が見当たらなくても恐れる必要はないよ。謎だけれど、解けない謎じゃない。どんなに複雑で異常に見えても、相手は人間だからね」

 

「……嬢ちゃん。その、さっき講義前に話していた快楽原則のなんたらっていうのは本かい?」

 

「フロイトの?」

 

「ああそれだ。テーマはセックスのことか?」

 

 

ニヤニヤと笑う刑事たちに対し、先輩は表情ひとつ変えずに首を振る。

 

 

「性を超えた衝動の話だよ。とくに、死への衝動」

 

「死?」

 

「人には自己破壊の欲求があるという説。自己を無に帰すというね」

 

「……それが動機とどう関係あるってんだ」

 

「従来、動機と言えば主に『保身』か『欲』だった」

 

 

俺は先輩の言葉を引き継ぐようにして、再び口を開いた。

 

 

「盗品を売って家族を食べさせるとか、そういうことです」

 

 

一歩前に出て、彼らの視線を俺に集める。

 

 

「でも、もし強盗が、奥さんの下着もついでに盗んでいったとしたら?」

 

「俺の母ちゃんのパンツを? ……そりゃあ物好きだな」

 

 

部屋にどっと下品な笑い声が起きる。

俺は構わずに続けた。

 

 

「売るわけじゃないのに、なぜ盗む? ただの女好き?」

 

 

笑い声が少しずつ収まっていくのを見計らい、声を一段低くする。

 

 

「人間は、自分でも気がつかないものに突き動かされていることがあるんです。単純な行動の向こう側に何があるのかを、見つめなければいけない」

 

静まり返った会議室。だが、彼らの目にはまだ理解よりも、得体の知れないものへの反発の色が濃かった。

 

「……心理学だか何だか知らねえが、最初からそう言え。俺たちは学者じゃねえんだよ」

 

 

不機嫌そうに吐き捨て、ベテランの刑事が立ち上がった。

それを合図にするように、他の刑事たちも次々と煙草をもみ消し、足早に部屋から出ていく。

 

 

 

 

 

 

 

◆◇◆

 

 

 

 

 

 

 

「学ぶ気がないなら、呼ばなければいいのに」

 

全員が退出した後の静かな会議室。

プロジェクターの電源を落とした先輩は、ポケットから青いボトルを取り出した。

 

「いつものことでしょ。少し小難しすぎたのかもね」

 

手のひらに出したラムネを口に放り込み、カチン、と小さく噛み砕く。

 

「難しいのはダメですか?」

 

「難しいのと、小難しすぎるのは違うよ、裕理」

 

 

先輩はゆっくりと歩み寄り、俺の隣に並んで誰もいなくなったパイプ椅子の列を見つめた。

 

 

「社会心理学の実験の話をするよ」

 

「……どうぞ」

 

「込み合うエレベーターに乗って、一人だけ奥の壁に向かって立つんだ。皆とは逆方向にね」

 

 

先輩はそこで言葉を区切り、俺の顔を下から覗き込んだ。

 

「そうすると、周りの人間はパニックを起こす。これって、理由もないのに『なぜか』不安に襲われている状態だ。でもそのあと、黙ってドアの方に向き直ると、みんなホッとして落ち着く」

 

「いいですね。でも、どうすれば彼らをこちらに振り向かせられるんです?」

 

「逆だよ、裕理。私たちが、彼らと同じ方向を向くの」

 

「……同じ方向?」

 

「うん。共通点を探すんだよ」

 

「共通点、ですか」

 

「共通の不安。誰もが決まって恐れるものはなんだろう」

 

 

新緑の瞳が、俺を真っ直ぐに射抜いた。

 

 

「……理解できない、人間」

 

 

俺は無意識に呟いていた。

 

 

「そういうこと」

 

 

先輩は短く頷き、会議室の冷たいドアへと視線を向けた。

 

 

「彼らも本当は、理由のない悪意が怖いんだよ。だから私たちは、その理解できないものを『プロファイリング』っていう言葉で定義して……彼らと同じ方向を向いて、安心させてあげなきゃいけないんだ」

 

 

 

 

 

◆◇◆

 

 

 

 

 

 

翌日の午後。

A県警本部の薄暗い会議室。署長の鶴の一声で再び集められた地元刑事たちは、昨日よりもさらに不機嫌な顔でパイプ椅子に座っていた。吸い殻の山で、すでに灰皿はいっぱいになっている。

 

カシャッ。

俺が無言でプロジェクターのスイッチを入れると、リールが回転する重い音が響き、スクリーンに一枚のカラー写真が大写しになった。

 

「……なんだこりゃあ。気味が悪いな、白無垢か?」

「どこぞの結婚式場のパンフレットじゃねえよな」

 

胡乱な目を向ける刑事たちを見回し、俺は淡々と口を開いた。

 

「昭和六十年に隣県で起きた『八ツ橋事件』の証拠写真です」

 

ベテラン刑事たちの顔つきが、ピクリと変わった。当時、日本中を騒がせた未解決の不気味な猟奇事件。その名を知らないデカはいなかった。

俺は指示棒で、スクリーンに映る、豪奢な婚礼衣装を纏った女性の遺体を指し示した。

 

「被害者は殺されていますが、性犯罪でも強盗目的でもない。現場から血痕は発見されず、遺体は綺麗に洗い清められたあと、犯人が持ち込んだ婚礼衣装を着せられ……自らの妄想の『花嫁』として、廃屋の奥座敷に安置されていました」

 

途端に、会議室の空気が凍りついた。

タバコを口に運ぼうとしていた刑事の手が止まり、数人が「うっ……」と短く呻いて顔を背ける。

 

カシャッ。次のスライドへ進める。

白粉がべっとりと塗られ、口紅が乱暴に引かれた遺体の顔が拡大される。

 

「彼が何をしたか。それは写真の通り、女性を殺害し、婚礼衣装を着せて『死後の花嫁』にするという、不可解で薄気味悪い凶行です。金銭目的でも、単純な性的欲求でもない。では、なぜ彼はこんなものを造ったのか」

 

俺はあえて一拍の沈黙を置き、全員の顔を見渡した。

 

「ここからは、彼が『何をされてきたか』を探ります。……先輩」

 

俺が視線を向けると、会議室の暗がりで壁に寄りかかっていたフリーレン先輩が、静かに口を開いた。

 

「八ツ橋の家系は、地方で代々続く名家だった。彼は幼い頃から、狂信的なまでに『家族の血』の純潔を語る父親に、外界から隔離されて育てられたんだよ」

「……」

「母親は彼を生んで間もなく亡くなり、父親は死んだ母親の肖像画を『完璧な妻』として崇め続け、息子にも完璧な家族であること、そしていつか完璧な花嫁を迎えることを、毎日刷り込み続けた。彼にとって父親は絶対的な支配者であり、神だった」

 

十代の少女の姿をした先輩が淡々と語る、一族の歪んだ精神構造に、刑事たちは誰一人茶化すことなく、水を打ったように聞き入っている。

 

「やがて父親が死んだ。……さて、彼に何が起きたと思う?」

 

先輩の問いかけに、昨日一番反発していた強面の刑事が、無意識に身を乗り出して答えた。

 

「……自由になったんじゃねえのか? 縛る人間がいなくなって」

「普通ならそう考えるよね。でも、彼の精神は違う」

 

先輩はゆっくりと首を振った。

 

「彼にとっては、自分を定義づける『神(父親)』の喪失だよ。絶対的な存在がいなくなって、彼の精神は完全に崩壊した」

 

俺は再びプロジェクターを操作し、白無垢の遺体の首に掛けられた、犯人の父親の形見だという古い数珠を大写しにした。

 

「ここから導き出される推測は、こうです」

 

俺はホワイトボードの前に立ち、刑事たちに向けて言った。

 

「彼は、女性を憎んで殺したわけじゃない。むしろ逆だ。彼は生きている女性の『不完全さ』を抜き取り、永遠に死なない、父親が認めてくれる『完璧な花嫁』へと昇華させた。父親が愛した肖像画のような『純潔な家族』を完成させ、自らを支配していた父親からの承認を得ようとしたんです」

 

 

会議室に、誰かの生唾を飲み込む音が響いた。

 

 

「これが、プロファイリングです。一見するとただの怪物に見える猟奇殺人も、彼らの生育環境、歪んだ心理状態を分析すれば、『なぜ婚礼衣装を着せたのか』という不可解な行動の裏にある、狂った一本の筋道が見えてくる。……奴らは得体の知れない悪魔じゃない。歪んだ環境によって作られた、人間なんです」

 

 

タバコから細く伸びる紫煙が、静かに天井へと立ち上っていく。

昨日、あんなに不機嫌そうに部屋を出て行ったベテランの刑事が、今はスクリーンに映るおぞましい「花嫁」を、食い入るように見つめていた。

 

 

「……なるほどな。そのアンタらの言う頭ん中の壊れたパズルが、そのまま殺しの手口に直結してるってわけか」

 

 

強面の刑事が灰皿に煙草をもみ消し、鋭い視線で俺と先輩を交互に見た。

 

 

「言いたいことはわかった」

「理想は語りたくねえ。長くこの世界に身を置いていれば、綺麗事だけじゃ生きていけないことくらい、痛いほどわかってる。……それでも、アンタらの持つその新しい武器を、どうにかして『盾』にはできないのか?」

 

「……盾、ですか」

 

「ああ。犯人の心理を読んで、罠を張る。それで見えない犯人を炙り出し、被害者が一人から二人に増えるのを防ぐってのも良い。……だけど、犠牲者を『ゼロ』にすることはできないのか?」

 

張り詰めた沈黙が会議室に降りた。

彼らは俺たちを試しているわけじゃない。ただ、誰かが死ぬ前に助けたいのだ。泥臭く現場を這いずり回ってきた彼らの、それが血を吐くような本音だった。

 

 

「……プロファイリングは、魔法じゃありません」

 

 

俺は静かに、だがはっきりとした声で答えた。

魔法、という言葉になぜかフリーレン先輩がわずかに反応した気がした。

 

 

「現場の遺留品や遺体の損壊状況があって初めて、犯人を逆算できる。現状では、最初の犠牲者が出る前に止めることはできない。それが限界です」

 

 

俺の答えに、刑事はわずかに目を伏せた。

だが、その顔を上げる前に、先輩が事もなげな声で続けた。

 

 

「今はね。……だから、私たちは刑務所に通っているんだよ」

 

「刑務所?」

 

「うん。すでに捕まっている異常者たちに面会して、彼らの頭の中の『壊れたパズル』を片っ端から集めて、分類して、データにする」

 

 

先輩は、いつものように淡々とした口調のまま、だが確かな熱を帯びた瞳で刑事たちを見渡した。

 

 

「その膨大な蓄積があれば、いつか……犯罪が起きる前の『兆候』に気づけるようになる。殺しの引き金が引かれる前に、彼らを止めることができるかもしれない。今はまだ、一人目の犠牲者が出た後にしか動けない未完成な武器だよ。でも……いつかそれを、誰も死なせないための『盾』にする。私たちがやっているのは、そのための研究でもあるんだ」

 

先輩の言葉が、会議室に静かに染み渡っていく。

 

刑事たちは顔を見合わせ、やがて強面の刑事が「ふんっ」と短く鼻を鳴らした。

 

しかし、その顔に昨日のような明確な嫌悪や軽蔑はない。

 

「……いいだろう。机上の空論じゃねえってことだけはわかった。で? お前らの立てた予測と罠を、俺たちにも聞かせてもらおうじゃねえか」

 

俺と先輩はほんの少しだけ視線を交わし、微かに口角を上げた。

共通の恐怖と、共通の願い。

 

それを前にして俺たちはようやく、今同じ方向を向いて戦うチームになったのだ。

 

 

 

 

 

 

 

◆◇◆

 

 

 

 

 

 

 

その夜。

A県警本部からほど近い、赤提灯が下がる古びた大衆居酒屋。

分厚い灰色の雲に覆われたこの町は、夜になると海側から骨まで凍みるような冷たい風が吹き付けてくる。

 

 

「……裕理、このモツ煮込み、すごく美味しい。おかわりしていい?」

 

「さっき焼き鳥を十本平らげたばかりでしょう。胃袋どうなってるんですか」

 

 

油とタバコの煙が染み付いた壁。有線放送から流れる流行りの歌謡曲。

日本酒の入ったお猪口を片手に、先輩は幸せそうに湯気の立つ小鉢をつついている。会議室で見せたあの冷徹なハンターの顔はすっかり鳴りを潜め、今はただの食い意地の張った少女にしか見えない。

 

俺がため息をつきながら店員を呼ぼうとした、その時だった。

 

 

「隣、いいか」

 

 

低い、嗄れた声。

 

振り向くと、昼間の会議室で一番前に座っていた、あの強面のベテラン刑事が立っていた。

 

使い古されたトレンチコートから、微かに安タバコと、外の冷たい雨の匂いがする。

 

 

「……どうぞ」

 

 

俺が席を少し詰めると、刑事はどっかりと丸椅子に腰を下ろし、店員に熱燗を一つ頼んだ。

 

「権田だ。……この辺りの管轄で、強行犯係のデカ長をやってる」

 

「改めまして九条裕理です。こちらは……」

 

「フリーレン。よろしく」

 

モツ煮込みを頬張りながらマイペースに答える先輩を見て、権田は少しだけ毒気を抜かれたように息を吐いた。

 

そして、運ばれてきた熱燗をぐいと煽ると、そのままテーブルに真っ直ぐな視線を落とした。

 

 

「……昼間は悪かった。ずいぶんと意地悪な態度をとっちまったな」

 

「いえ。俺たちのような余所者が、現場で歓迎されないのは慣れています」

 

 

俺が答えると、権田は首を横に振った。

 

 

「それもあるが……みんなの前で、どうしてもああいう『悪役』が必要だったんだ。うちの若い連中は、まだ現場しか知らねえ。そんな奴らに、東京から来た得体の知れない心理学の講義を大人しく聞けって言っても、反発するだけだ」

 

権田は空になったお猪口を手で弄りながら、自嘲気味に笑った。

 

「だから、俺が真っ先に噛み付いた。お前らが俺の意地悪な質問をどう跳ね除けるか、どんな覚悟でその『プロファイリング』って武器を使ってるか……それを見せつければ、若い奴らも必ず耳を傾ける。あいつらにも、これからの時代に必要なものを学んでほしかったんだ」

 

不器用だが、それは間違いなく部下と現場を愛する男の言葉だった。

俺が少しだけ背筋を伸ばして彼を見直すと、権田の顔からふっと笑みが消え、昼間のような重く険しい刑事の顔に戻った。

 

「……で、ここからが本題だ」

 

権田は声を一段低くし、周囲の喧騒に紛れさせるように顔を近づけた。

 

「実は最近、この辺りの山中で殺しが起きた」

 

「……」

 

「被害者は若い女性。だが、金目的でも強姦目的でもねえ。死体の状態が……ひどく『不気味』な有様だった。血は綺麗に拭き取られて、被害者のものじゃない、古い時代遅れのワンピースを着せられていた。おまけに、顔には死化粧みたいにべっとりと口紅が塗られて……まるで、ショーウィンドウのマネキンみたいに、丁寧に木に寄りかからせて置かれてたんだ。。……あんたらの言う、『動機が見えない』殺人だ」

 

「……」

 

「署の連中も、口にこそ出さねえが心底薄気味悪がってる。ただ殺すだけじゃない、犯人の異常な執着みたいなもんが透けて見えてな。みんな恐れて、中には『悪魔の仕業だ』なんて言い出す奴まで出てくる始末だ」

 

権田は強く拳を握りしめ、苦々しく吐き捨てた。

 

「同じ人間のやることじゃねえ。人間に、あんな惨たらしいことができるはずがないってな」

 

その言葉に、ずっと黙ってモツ煮込みを食べていたフリーレン先輩が、お猪口をコトリとテーブルに置いた。

 

「……悪魔」

 

先輩がぽつりと呟いたその言葉には、普段の超然とした響きとは違う、静かで冷たい怒りのようなものが混じっていた。

 

「権田さん。悪魔の仕業になんてさせないよ。私たちが全部暴いてみせるから」

 

先輩は、権田の前に置かれていた熱燗の徳利を手に取り、彼のお猪口にトクトクと静かに注いだ。

 

その静かで絶対的な自信に満ちた声に、権田は少しの間だけ呆然とし、やがて深く、安堵したような息を吐き出した。

 

「ありがとうな。いやぁ頼もしいねえ、まったく。明日の朝イチで、現場の写真と調書を全部用意しておく。……お前らのその武器、俺たちにも見せてくれ」

 

 

 

 

 

 

 

 

◆◇◆

 

 

 

 

 

 

 

権田のトレンチコートの裾が、引き戸の向こうへと消えていく。

入れ替わるようにして、店の古びたガラス戸がガラガラと控えめな音を立てて開いた。ピュー、と刺すような冷たい夜風が店内に吹き込み、足元を撫でる。

 

「……お待たせしました、九条警部、フリーレン様」

 

入ってきたのは、分厚い紙の束が詰まった大きなキャリーバッグを肩にかけたフェルンだった。

東北の冷たい空気に鼻先を少し赤くした、異国情緒のある端正な顔立ち。

彼女は店内の油っぽい空気とサラリーマンたちの喧騒に、あからさまに居心地が悪そうな油断のない視線を巡らせている。

 

 

「あ、フェルン。ご苦労様」

 

「はい、お疲れ様ですフリーレン様」

 

フリーレン先輩は、手元のお猪口を揺らしながらのんきに声をかけた。

フェルンは小さくため息をつくと、俺の隣の空いた丸椅子に、ロングスカートの裾を整えながらおずおずと腰掛けた。

 

途端に、彼女のまとったシャンプーの清潔な匂いが、煙草と油の混じる男臭い空間に場違いに広がっていく。

 

 

「すみません、九条警部。資料室で過去のデータベースをまとめ終わった途端、フリーレン様から電話がありまして……」

 

 

フェルンは冷えた両手をこすり合わせながら、恨めしそうに先輩を睨んだ。

 

 

「……『ただの講義じゃなくて実戦になったから、大至急、機材と資料を持ってこっちに来て。あと、駅前の居酒屋でモツ煮を食べるから直接合流ね』と、一方的に言われたものですから」

 

フェルンは冷えた両手をコップに添え、目の前の少女をじっと見つめていた。

その瞳は、まさに「何か言いたいことがあるなら、今すぐ納得のいく説明をしてください」と言わんばかりの、凍りつくようなジト目だ。

 

「……それにこの町、東京よりずっと寒くて、タクシーもなかなか捕まらなくて……」

 

「ご、ごめんねフェルン。あ、ここのモツ煮が本当に美味しいから、どうしても食べてほしくて」

 

フリーレンが、珍しく気まずげに視線を逸らし、うっすらと脂汗を浮かべて弁明している。九条は苦笑しつつ、すかさず店員を呼び寄せた。

 

「お疲れ様、フェルン。あ、すみません、温かいお茶と小皿をいくつか」

 

俺が注文を通すと、ようやくフェルンの視線が少しだけ和らいだ。

 

「……ほら、フェルン。これ。裕理が頼んでくれたんだけど、これすごく美味しいよ。冷えた体も温まるから」

 

フリーレンが、自分の小鉢から大ぶりのモツを箸でつまみ、フェルンの口元へと突き出す。

フェルンは「もう、フリーレン様はいつもいつも……」と口を尖らせつつも、観念したように小さな口を開けてそれをハムリと咥え込んだ。

 

「……フリーレン様はいつも突拍子もないことばかりします。……本当に困った方です」

 

フェルンは小声でぼやきながらも、モツを咀嚼するうちに表情を緩めた。

九条はその様子を見て、心の中で深く安堵の溜息をつく。

 

(……とりあえず、機嫌を損ねることはなさそうだな。いやはや、フリーレンのフォローだけで今夜は寿命が縮みそうだ)

 

もぐもぐと動く口。やがて、彼女の端正な眉が、驚いたようにピクリと跳ねた。

 

「……味はどうかな? フェルン」

 

俺が尋ねると、彼女は慌てて口元を片手で隠し、小さくコクコクと頷いた。

 

「……美味しいです。食べたことがなかったですけど口の中でとろけますし、お腹の底から温まります」

 

「焼き鳥も美味いぞ。じゃあ、盛り合わせでもらいましょうか」

 

店員に注文を通し、俺は自分の日本酒に口をつけた。

フェルンは運ばれた温かいウーロン茶のグラスを両手で包み込むように持ち、じっとその琥珀色の液体を見つめている。

 

「……先ほど、すれ違った刑事の方」

 

フェルンがグラスから立ち上る湯気を見つめたまま、ぽつりと言った。

 

「ずいぶん、怖い顔をしていました。フリーレン様と九条警部に、なにかひどいことを言ったのですか?」

 

「いや、逆だよ」

 

俺の代わりに、先輩が焼き鳥の串を器用に外しながら答えた。

 

「その刑事さん、権田さんっていうんだけど、私たちの武器を『盾』にもしたいんだって。誰も死なせないため、守るための、頑丈な盾に」

 

「盾……」

 

 

先輩の言葉に、フェルンはウーロン茶を小さく口に含み、それからゆっくりと俺の方を振り向いた。

 

「……九条警部は、怖くないのですか」

 

フェルンが声を一段落として、俺の横顔を覗き込んできた。

 

「拘置所にいるような、怪物の心を調べるなんて……私には、とても恐ろしいことに思えます」

 

俺は手の中のお猪口を見つめ、少しだけ苦笑した。

 

「怖いよ。毎回」

 

「本当ですか?」

 

「ああ。毎回、吐き気がするくらいに怖い。でも、俺たちが目を背けたら、それで終わりだから。現場の刑事たちが汗を流して犯人を追いかけているなら、俺は拘置所で奴らの心理を追いたい。」

 

お猪口に残った酒を、一気に喉へ流し込む。

フェルンは何も言わずに、ただ静かに俺を見つめていた。

その瞳の奥にある頑なな氷が、ほんの少しだけ、熱を帯びて溶けていくような気がした。

 

「……九条警部」

 

「はい」

 

「フリーレン様はあなたをとても信頼しているようです」

 

フェルンはグラスをそっとテーブルに置くと、恥ずかしさを隠すように、ふいと顔を背けて焼き鳥に箸を伸ばした。

 

「ですから……その、あんまり無理をしないでください。九条さんになにかあってしまっては、フリーレン様が困ります。……私もです。だから気をつけてください」

 

不器用な彼女なりの精一杯の気遣い。

俺は思わず小さく吹き出し、それから優しく頷いた。

 

「ありがとう、フェルン。肝に銘じておきます」

 

「……裕理、フェルンこのネギマも美味しいよ」

 

先輩が空になった串をパタパタと振る。

俺とフェルンは顔を見合わせ、今夜初めて、お互いに小さく笑みをこぼし合った。

赤提灯の灯る狭い居酒屋の片隅で、俺たちのいびつなチームの距離が、またほんの少しだけ縮まった瞬間だった。

 

 

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